37.徳島空港
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透明なガラスで覆われた徳島空港は、1階の床半分以上が白く照り輝いていた。今日のような天気の良い日はいいかもしれないが、雨の日はどうなのだろう?
誰かが考えればいいことを考えながら、後ろポケットに入れた航空チケットを手で探っていると「お困りですか?」と背中に声がかかった。
実際、声をかけられそうな気がしていた。彼女が僕みたいな空港初心者の手助け要員だということは、空港の入り口に立っていたことや、チラチラと僕の方を見ていたことからなんとなく想像ができた。後ろを振り返ったり、天井を見上げたりする僕は、その時からすでに目をつけられていたのだと思う。
初心者が取る全ての行動パターンを網羅した僕は、彼女の顔を振り返る。まだお困りではなかったが、もうすぐお困りになるはずなので、「飛行機に乗りたいのですが」と間抜けな質問をする。
清潔感溢れる服装に、ふわりと香る甘い香水をつけた彼女は、優しさと温もりのこもった笑顔を僕に振る舞うと「こちらにどうぞ」と言って、左側にあるチェックインカウンターまで案内してくれた。コツコツと上品な音を床に落としながら歩く彼女は、折れそうな細い腕を列の最後尾に斜めに伸ばした。
感謝の意を込めに込めて頭を下げると、彼女はまた特別な笑顔を浮かべ「お気をつけて」と言って、入り口の元の位置に戻っていった。後ろ髪に惹かれている僕の耳に、空港の離発着便のアナウンスが流れた。
我に返り、ハッとした僕は急いで時計を見た。
08時40分。
間に合うのか?
前に並んでいたのは1人だけだったが、出発まで30分を切ったことに少し焦りを感じた。
首の裏に掻いた黒い汗は、冷や汗に変わり、首筋をゆっくりと流れ始めていた。
こんなことなら、さっき彼女に聞いとけばよかった。
「次の方どうぞ」
前の1人がいなくなり、僕の番が回ってきた。
僕のカウンターに立っていたのは、リスのような顔をした可愛らしい女性スタッフで、背筋をピンと伸ばし、丁寧なお辞儀で僕を出迎えてくれた。
「おはようございます。チケットはお持ちですか?」
「はい。これです」
僕は彼女にチケットを渡した。
すると突然、彼女はスイッチが入ったように、タッチパネルを素早く操作し始めた。
新幹線を予約する時のみどりの窓口でよく目にする光景だ。彼女は2つある目を右に左に忙しなく動かし、僕のチケットとタッチパネルを睨めっこすると、納得のいった様子でコクッと頷き、「はい。では、09時05分発東京行き男性1名様。ご予約確認致しました。F4の座席になります。3階の保安検査場へお進み下さい」と言って僕にチケットを返却した。
「ありがとうございます。あの、まだ間に合いますか?」
「はい、十分間に合いますよ」
読心術で僕の心の声を聞いていたのかもしれない。
それは僕が今もっとも欲しい答えだった。
彼女はできる女性に違いない。
「分かりました」
僕は彼女に深々とお辞儀をして、入り口から真正面に見えたエレベーターに乗り込んだ。
3階のフロアには、出発ロビーのほか、展望ホールやレストラン、お土産店、ラウンジなどがあり、その中からお目当ての保安検査場を探すのは、誰の助けも必要としなかった。
中で係員の指示に従い、青いプラスチック製のカゴに腕時計、携帯、財布、キーケースを入れている時だった。
「これは何ですか?」
係員が僕の旅行カバンのサイドポケットを指差した。
それは、今朝母から貰った水筒だった。
係員は眉を潜め、訝しげに水筒をサイドポケットから取り出すと、僕の瞳の奥を見つめた。
悪いことをしていないのに、悪いことをした気になってしまう。
運転中、後ろの車輌がパトカーだった時と同じ感覚だ。
まさか空港で同じ体験をするとは。僕は正直に答える。
「お茶です」
「そうですか。中身を確認させていただきますが、よろしいですか?」
「はい」
どうせよろしくなくても中身を確認するんだから、わざわざ疑問形にする必要なんてないだろう。
ついそんなことを思ってしまうのは、僕の性格がひねくれているからだ。
係員が水筒のコップをゆっくり回し、右手を優しく仰いでお茶の匂いを確かめていた。
この待ち時間が嫌いだ。
つい、変なことを考えてしまう。
母が間違って、お酒なんか入れてないだろうか?
もし入ってたら、僕は警察に捕まるのか?
そうなれば、旅は終わってしまうのか?
航空保安検査員がお茶の匂いを嗅ぐ絵を描いて渡したら、小鳥は怒るだろうか?
「はい、結構です。それではこちらに」
僕の心配事をよそに、係員は水筒を元のサイドポケットに丁寧にしまうと、ニコッと笑い僕をゲートの奥へ誘った。
結局、父が「時間がかかる」と釘を刺していた手荷物検査は、2分もかからなかった。
ゲートを抜け、貴重品を受け取る。場内アナウンスの声がさっきよりもさらに大きく聞こえ、搭乗時間が近づいていることを知らせていた。
左腕に腕時計を縛り付けながら時刻を確認する。
8時48分。
まだ少し時間があるので、搭乗ロビーでくつろぐことにした僕は、ズボンのポケットから携帯を取り出した。
「あっ」
心の中で喋っていた。
着信が1件あり、すぐに思い出した。
今朝、柊翼からかかってきた電話だ。
搭乗ロビーを一旦離れ、トイレの入り口まで移動した僕は、急いで電話を掛け直した。
折り返し電話はなかなか繋がらないことが多いのだが、今に限っては彼女にすぐに出て欲しかった。
小鳥のことじゃなきゃいいが…。
結局、10回ほどコールしても、彼女が電話に出ることはなく、僕は電話を切った。
心にモヤモヤを抱えながら携帯をポケットにしまっていると、東京行きの搭乗15分前のアナウンスが流れ、僕は搭乗口に向かって歩き出した。
そして、飛行機は翼を広げ、眼下に広がる僕の故郷に手を振りながら、羽田空港を目指し、轟音とともに離陸した。




