36.父の過去
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空港に向かう車内では、FM徳島のラジオアナウンサーの楽しそうな声が流れていた。
全国高校野球選手権大会はまだ開幕されていなかったので、地方局のラジオ放送をただ垂れ流しているだけの父は、運転に集中しているように見えた。
「お前、母さんにちゃんと挨拶したか?」
当たり前のことを聞くぐらいなら、別に聞かなくていい。
「うん」
「そうか」
沈黙にならなかったのは、このラジオのおかげだ。
運転する父の隣で携帯をイジるのは、流石に失礼だと思い、僕は目の前の景色を楽しむことにした。
ラジオアナウンサーが、リスナーからのリクエストを読み上げ、女子アイドルグループの曲が流れ始めると、車内は陽気な音楽に包まれた。
普段なら聞き流す程度のアイドルグループの曲でも、隣に父親がいて一緒に聴くとなると、気まづさを感じるのは何故だろう?
「後ろ倒してもいいぞ」
信号待ちをしていた父は、座席をリクライニングにすることを僕に勧めた。
特に眠たいわけでもなかったのだが、父の精一杯の気遣いを無駄にしてはいけない。
僕は言われるがまま座席を倒した。
今日の父はやはり機嫌がいい。
ふと見上げた車の天井には、細長い擦れキズがあり、釣竿をそのまま放り込んだ時についたものだと勝手に推測した。
「おい。お前、どういうつもりだ」
訂正しよう。今日の父は機嫌が悪い。
「何しに青森まで行くのか知らんが、絵を描きに行くならやめろ。このまま引き返す」
僕は思わず首を持ち上げた。
「どうなんだ」
「どうって……」
「何しに行くんだ? あ? 言ってみろ」
空港に向かうまでの道中が、まさかこんな重い空気になるなんて、思ってもみなかった。
「聞こえたのか」
質問を繰り返す父に、若干イライラしてきた僕は、思わず声を漏らした。
「分かってるくせに」
「なんだと」
父は、僕が絵を描きに行くことを知っていたはずだ。
車に乗り込む際、収納袋に入れた折りたたみ式のイーゼルがドアにぶつかったのを、父は見逃さなかった。
「ちゃんと言え」
「東北観光」
「嘘つけ。じゃあ、それは何だ」
父は後部座席に置いたイーゼルを指差した。ほら見ろ、分かってるじゃないか。
「分かってるなら、聞くなよ」
「帰るぞ」
父はすぐさまウインカーを左に出した。
「何やってんだよ」
「うるさい。帰る」
父はその次の信号を左折した。僕は本当に焦った。
「は? もう飛行機予約してあんだぞ」
「乗らなくていい」
「は? ふざけるなよ」
「ふざけてるのはどっちだ。高校も中途半端に通ってたやつが、何が東北観光だ。馬鹿馬鹿しい。お前みたいなやつはな、どこに行ったってダメに決まってるんだよ。今だってそうだろ。大阪で絵の勉強だか何だか知らんが、ったく、母さんが甘やかすからいけないんだ」
「いい加減にしろよ」
感情が抑えきれなくなった僕は、言ってはいけないあの一言を、ついに言ってしまった。
「高校最後の試合で『サヨナラエラー』したくせに。偉そうに説教してんじゃねぇよ」
すると突如、車がよなよなと減速を始めた。
力なく走る父の車は、左脇にあったコンビニに入っていった。
コンビニの前では、サラリーマンが外でおにぎりを食べていたり、30歳ぐらいの露出度高めの服を着た女性が電話をしていたりした。
駐車場に前向きに突っ込んで駐車した父は、車のエンジンを切ると、ドリンクホルダーに置いてあったコーヒーを一口飲み、気を落ち着かせてから喋り出した。
「知ってたのか?」
重苦しい車内には、ラジオアナウンサーの楽しげな声が流れていた。
「お前に野球をやらせようとしたこともか?」
「当たり前だろ」
父はまた弱々しくコーヒーを飲んで、喉の渇きを潤した。
「エラーのことは母さんから聞いたんだろ? そりゃ知ってて当然だよな。あの時、観客席にいたんだから」
「え?」
父と母が高校時代の同級生だと言うことは知っていたが、その話しは知らなかった。
「なんだ聞いてないのか? 地方大会の2回戦だった。9回裏1アウト満塁。父さんはその時センターを守っててな、飛んできた打球を後ろに逸らしてしまった」
「トンネルだろ」
「よく知ってるじゃないか。結局、それが原因でチームはサヨナラ負け。高校最後の試合は終わった」
父はフロントガラスについた鳥のフンを寂しそうに眺めていた。
「試合の翌日、父さんは学校を休んだ。後ろ指さされるのが怖くて、学校に行けなかった。その次の日も父さんは学校を休んだ。その次の日もその次の日も。結局、最後まで学校に行くことはなかった。誰かさんと似てるだろ? その後は、なんとか広島の大学の経済学部に合格し、そこで母さんと再会した。だが、経済になんて興味なかったし、卒業さえできればいいと思ってたからな。適当に大学生やって、徳島の適当な企業に就職して、母さんと結婚した」
「大学で野球はやらなかったの?」
「もちろん考えた。草野球サークルなんかもあって、勝ち負けにこだわらない感じに気が合いそうな気もした。そのサークルに入ろうとも思った。だが、高校の時にエラーをした記憶は消えない。もしまたエラーをしたら…。そのことが脳裏をよぎった」
「そんな時だ。当時、付き合い始めた母さんにそのことを話したら『エラーするから面白いんじゃない』って言われたよ。まったく、鬼のような人だろ? でもその言葉に父さんは救われた。父さんは草野球チームに入った。2年生ながら4番でセンター。高校時代の9番からすれば、異例の大出世だ」
「よく分からないけど」
「とにかくチームに入った。そこでいっぱいエラーもした。サヨナラエラーだってした。普通なら怒られるとこだけど、みんな笑ってくれた。その時は心の底から野球を楽しめた。だからお前にも野球をやらせたかった」
「正直、父さんは絵の勉強なんかしたところで、意味はないと思ってる。社会の役に立つわけでもない。父さんはな、大学まで行かせてもらって、経済を勉強しながらも、それを今に全く活かせていないことを未だに後悔している。お前にはそうなって欲しくない。だからお前の絵の勉強が、社会全く活かせないなら、賛同できない。青森にも行かない。父さんが知りたいのはそれだけだ。今のお前の気持ちは、どうなんだ?」
僕は一度深く深呼吸をして答えた。
「父さんの言う通り、絵の勉強を続けたところで社会の役には立たないかもしれない。だけど、僕の描いた絵が『誰か』の役に立つのなら、僕は絵を描き続けたい」
「そんな人が、いるんだな?」
「うん」
「わかった」
父は車のエンジンをかけた。
「空港に行くぞ」
車はまた走り出した。
徳島空港に着いたのは、8時35分だった。
「おい、忘れてるぞ」
後部座席に置いたイーゼルを父が指差した。
「あっ、いけない」
「絵を描くのに必要な道具だろ。大事にしなさい」
「ありがとう」
「あぁ。じゃあな」
父が車のドアを閉めようとした。
「父さん!」
「あ?」
「帰ってきたら、一緒にキャッチボールでもする?」
父は恥ずかしそうにニヤリと笑った。
「仕方ない。一度だけだぞ」
「トンネルすんなよ」
「うるさい。早く行け」
「ははっ。いってきます」
僕は笑いながら空港の入り口に駆けていった。




