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フォックスの翼  作者: ジョニー
第1章
35/46

35.旅立ちの日

35


出発の朝は、携帯のアラーム機能を使わなかった。


閉め切ったはずの遮光性のカーテンの隙間から当たり前のように侵入してきた太陽のおかげで、社交性のない僕の目の瞼は、面倒くさそうにピクピクと動いていた。


無条件に起こされてしまった僕は、目を閉じたまま、ベッドをバンバンと叩きながら、枕元に置いたはずの携帯を探った。


3回ほど叩いたところで、ようやく手に馴染みのある冷えた携帯に手が触れた。


目を半分だけ開いて見る。


06:30。


指先の感覚だけでアラームを解除し、よっこらせと体を起こす。


朝の空気に身体が順応していない。


光るキラキラが目の前を泳いでいる。


目をこすりながらパジャマを着替えていると、一階から食器の擦れる音がした。


聞き馴染みのあるその音は、食器棚からお皿を取り出す時の音だ。


母が朝食の準備を始めたことを知った。


あくびをしながら左腕に腕時計を結ぶと、その日の始まりを感じることができた。


これはまた逆も然りで、腕時計を外すと、その日の終わりを感じることができる。


もし僕にスイッチがあるとすれば、それはまさしく、この腕時計だ。


洗面所で水を浴び、リビングに向かう途中の廊下で部屋着の父と対面した。


「おはよう」


父の朝の挨拶は、旅の始まりを感じさせないほど、日常的で、いつもと全く変わらなかった。


「準備、できたか?」


「一応」


「そうか。母さんがご飯作ってる。早く食べなさい」


そう言って、父は洗面所に消えていった。


リビングテーブルには、普段の食卓には絶対に並ばない食器達がズラリと並んでいた。


真っ白なお皿に、金色の線で縁取られたマグカップ、木製のお洒落なサラダボウルや、ピッカピカのナイフとフォーク。


親戚やお客が来る時以外、食器棚の奥でじっと身を潜めている彼らは、久しぶりの外の空気を思う存分味わっていた。


「おはよう。準備できた?」


エプロンを付けた母が父と同じ質問をする。

「一応」


「一応って.ほんとに大丈夫なの? お父さん、もう起きてるわよ」


「知ってる」


「そっ。ご飯、もうちょっとでできるから、先にコーヒー待ってて」


「わかった」


母の指示どおり、ニコニコ顔のマグカップにコーヒーを淹れていると、父がリビングに入ってきた。


「父さんにも淹れてくれ」


「砂糖は?」


「いらん」


「ミルクも?」


「いらん」


父は僕の顔を一度も見ることなく、テーブルに置いてあった新聞をバサっと広げ椅子に座った。


ここだけ切り取ってみると、実に無愛想な父親だ。


僕は出来たてのブラックコーヒーを父の前に押し出す。


「はい」


「…」

お礼も言わず、一口すする父。


どうやら今日は機嫌がいいようだ。


使命を終えた僕はお決まりの椅子に座り、お決まりの携帯をイジる。


気になるニュースは、特になかった。


「はい。できたよ」


焼けたトーストとハムエッグを僕と父の皿に盛りつけると、母はまたキッチンに戻り今度はサラダを作り始めた。


たった今用意されたトーストにバターを塗り、一口目を口にしようとした時だった。


ポケットの中で携帯が鳴った。


家にいる時でもマナーモードに設定し、常に音を出さないようにしていたのだが、今日だけはアラームを鳴らすためにその設定を解除してあった。


日差しが差し込むリビングに陽気なメロディが流れる。


新聞を折りたたみ、頻繁に左ポケットを探っている父は、自分の携帯だと勘違いしているようだが、それは間違っている。


僕の携帯だ。


恐る恐る携帯の表を見ると、画面には柊翼の文字が浮かんでいて、右上には現在の時刻06:47の数字が並んでいた。


こんな朝早くに、一体何の用だ?


小鳥に何かあったのか?


「出ないのか?」


自分の携帯ではないことに気づいた父が、怪訝そうに僕を見ていた。僕は迷った。


「出なくていい…」


「そんな電話、あるのか?」


仰る通りだ。


だが、今出てしまうと、彼女の声が漏れてしまう。それだけは絶対に避けたい。


早く鳴り止んでくれと願う僕をよそ目に、携帯は楽しそうに鳴り続けている。


「女か?」


父がコーヒーを飲みながら、今度は訝しげに僕を見る。


「違う。友達…」


「そうか」


父が言い終わると同時に、運良く携帯が鳴り止んだ。


ホッとする僕を見て、キッチンにいた母がクスクスと笑っている気がした。


「また後で掛け直してあげなさい」


「分かった」


「はい、サラダも出来ましたよ」


先ほどよりも何故かテンションの高い母が、食卓にサラダを運んできた。


そのおかげで、さっきまで不思議そうだった父も、今は何事もなかったかのように、新聞を広げ、じっくりと読み返し始めていた。


電話は後でするとしても、小鳥のことが心配になった僕は、口に運んだトーストの味が全く分からなかった。


「これ、持って行きなさい」


玄関で靴紐を結んでいると母が水筒を渡してきた。


高校の時に使っていたその細長い水筒は、懐かしさもあったが、遠足に行く時の小学生みたいな手渡され方がちょっぴり恥ずかしかった。


「お茶入れてあるから。飲み終わったら、ちゃんと洗うこと。わかった?」


「わかったよ」


「おいっ。もういいか? 行くぞ」


玄関の外から父が僕を呼んだ。


「今行くー」


「さっ、早く行きなさい」


「うん。それじゃあ、行ってきます」


「気をつけてね。向こうに着いたら電話して。あっ、それと…」


何故かニヤニヤ顔の母が僕を見た。


「大阪の子? 今度ウチに連れてきなさいね」


なるほど。そういうことか…。


「言っとくけど、さっきの電話、ほんとに彼女とかじゃないから」


「じゃあ誰から?」


「なんでもないから、行ってきます!」


不思議がる母を背に、僕は玄関を飛び出した。

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