34.旅の準備
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家に着いたときには、18時30分を回っていた。
途中、帰り道沿いにあった本屋に寄って、新冊の漫画をチェックしたり、青森県の観光案内マップ(見ようとしたが柊翼の言葉が頭を過ぎり、やめた)を触ったり、絵の参考書を読んだりして時間を使ってしまったため、予定よりも帰宅が遅くなってしまった。
「おかえり」
最初に僕に話しかけたのは、母だった。
まだ仕事から帰ってきていない父を除くと、残りの1人は必然的に母だけだったのだが、「おかえり」のトーンがいつもよりも高い様子から、明日の旅の心配をしているようにもみえた。
「準備できてる?」
「あとちょっとかな」
「そう…。あ、今日、すきやきにしたから」
「うん。分かった」
「お父さん、もうすぐ帰って来るって」
「了解」
「それと、明日はお父さんが空港まで送ってくれるみたいだから、帰って来たらちゃんとお願いしなさいよ」
「え! 母さんじゃないの」
階段を上がる途中で、僕は転げ落ちそうになった。
「そのつもりだったんだけど、『朝時間あるから、父さんが送っていく』って。さっき電話があったの」
「いいよ別に。母さん送ってってよ」
「もうお父さんにお願いしちゃったから、無理よ」
「えー…」
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。お父さんも嬉しいのよ。親孝行だと思って、行きなさい」
「分かった。じゃあ、父さん帰って来たら教えて」
「りょーかいっ」
それから30分が過ぎた19時。
「お父さん、帰ってきたわよ」
母が僕を呼びにきた。
遅かれ早かれ、いつか呼ばれるのは分かっていても、やはり気が乗らない。
僕は足取り重く一階に降りていった。
通い慣れたリビングには、すでにスーツから部屋着に着替えを済ませた父がいて、今朝読んだはずの朝刊をなぜか険しい顔で読み進めていた。
これが威厳ある父の姿だ的な雰囲気作りをする父に、僕は全く気にも留めず、無言でリビングテーブルの定位置の椅子に座る。
「ちょっと、これ、そっち持っていって」
キッチンにいた母にサラダボウルを運ぶよう言い渡されたので、僕は指示通りにテーブルの中央にそれを置き、元の椅子に座り直した。
よりによって、こんな暑い日にすき焼きなんかをするものだから、リビングの中はW杯期間中のサッカースタジアム以上の熱気が立ち込めていた。
暑さのあまり、僕がテーブルに置いてあった麦茶に手を伸ばそうとした時だった。
「明日、何時の飛行機だ」
父から話しかけてきた。
「9時05分」
「そうか。なら、8時に家出るぞ」
僕の家から空港までは、30分もあれば余裕で着くので、僕は目を丸くした。
「そんなに早く?」
「あぁ? 飛行機乗ったことあるだろ?」
「中学校の修学旅行で一回…」
「飛行機乗る前に、持ち物検査があるのは知ってるだろ?あれに時間がかかるんだ。だから空港には、早めに行った方がいいんだ。覚えておきなさい」
そう言うと、父はまた新聞を読み漁り始めた。
僕はすでに分かっていたのだが、これは決して父の機嫌が悪いわけではない。
父は「なさい」を口癖のように常習化していたので、特に怒られている印象は受けなかった。
僕はグラスに注いだ麦茶と、父の下手くそな助言をそのまま飲み込んだ。
その後、父とは一言の会話もなく、ご馳走を済ませた僕は、リビングを去る前に「それじゃあ、明日」と父に告げた。
父はコクリと頷くだけで、まだ新聞を読んでいた。
母からは「ちゃんとお願いしなさいよ」と言われていたが、わざわざ「お願いします」なんて口に出さなくても、父に伝わればいいと思っていた僕。
恐る恐る母に目をやると鬼のような形相をしていたので、僕は思わず下を向いた。
だがそんな母も、それが僕と父との距離感だということを、内心では理解していたはずだ。
僕はそっとリビングの扉を閉めた。
いつもより長めの風呂に入った後は、自室で1時間ほどテレビを見て、明日の最終確認を行うことにした。
ベッドに並んだ色彩豊かな品々を、端から順に1つずつ確かめる。
着替え、カッパ、タオル、歯ブラシ、マップ、ニコン、充電器、財布、ポーチ、スケッチブック、筆箱、色鉛筆、クレヨン、イーゼル(絵を立て掛ける台)、折り畳み傘、救急セット…。羽根、手紙。
改めて見ると、かなりの量だ。
詰め方を間違えれば、入りきらない。
頭の中で詰め込む順番を考えていると、ポケットの中で身を潜めていた携帯が鳴った。
「もしもし」
「おぅ、コン、お疲れ。明日の準備出来た?」
「今、荷物を詰めてたとこ」
「そっかそっか。なら、頻繁に出し入れするものは最後に入れた方がいいぞ。底にしまったら、引っ張り出す時にグッチャグチャになるから」
「なるほど、確かに。ありがとう」
「俺のカメラもちゃんと持ってってるか?」
「おっといけない」
「おいおい、嘘だろ」
「冗談だよ。ちゃんと準備してあるから」
「なら良かった。明日、09時05分の飛行機だよな?空港で荷物検査とかあるからさ、できるだけ早めに行っといた方がいいぞ」
「さっき親父にも同じこと言われたよ」
「ははっ、そうか。なら今日は早く寝ろよ。それと、頑張れよ」
「ありがとう。翔も出張頑張ってな」
「おぅ。それじゃっ」
翔との電話はそれだけだった。
携帯の画面を見ると、21時30分の文字が浮かんでいたので、僕は翔の助言通り、順序よく荷造りを済ませ、翌日のアラームを07時00分にセットし、かなり早めの眠りについた。
「ねぇ、お母さん…」
僕が深い眠りに落ちたちょうどその頃、病院の個室では、すっかりいつもの調子を取り戻した小鳥が、ベッドの上で足をパタパタさせながら、折り紙を折っていた。
「ん? なに?」
「お父さん、今日も来なかったね。俊も」
「二人とも忙しいのさ」
「そっか」
退屈そうに折り紙を折る手捌きは、どうやら鶴を折っているらしい。
「小鳥、ミサンガ渡しといたから」
「えっ! もう渡したの?」
「うん。小鳥が寝てる隙にね。こっそり渡してきた。『ありがとう』って言ってたよ」
「そっか、ふふっ…」
足のパタパタが分かりやすく弾んだ。
「ねぇ、お母さん…」
「ん?」
「絵の作者さんってさ、どんな人なの?」
「どんな人と言われてもなぁ…う〜ん…」
「男の人?」
「そうだよ。よく分かったね」
「絵を見てたらなんとなく。歳は?」
「歳ねぇ…」
柊翼は少し躊躇った後、素直に答えた。
「小鳥と同い年だよ」
「えっ!!」
小鳥が飛び起きた。
「ほんとに?」
「そうだよ」
「そっか…。ねぇ、小鳥のこと何か言ってた?」
「ん? 『ありがとう』って言ってたよ」
「そうじゃなくって。その…病気のこと…とか」
「あー、なるほどね。病気のことは知らないし、小鳥がAカップだってことも知らないはずだよ」
「余計なことは言わなくていいから。そっか、同い年ね…」
「妄想が膨らみますかね?」
「うるさい!」
「あっはは。一応言っとくけど、彼、変態だからね」
「えぇっ! 変態なの」
小鳥は眉間にしわを寄せて彼女を見た。
「そうよ。今日だって、ズボンのファスナー全開で現れてさ『金がないなら身体で払え!』なんて言われちゃった」
「それ、完全にヤバイ人じゃん」
「でしょ。危うく脱がされるとこだったよ。しかも最後はお母さんの腕をガシッと掴んできたりして」
「ヤバイって。絶対警察行った方がいいよ。明日お父さんと一緒に行ってきて。お願いだから」
「あっはは。大丈夫だって。小鳥が思ってるほど、そんなにヤバイ人じゃないから」
「聞いてる限りでは完全にヤバイ人だよ。はぁ、なんかイメージと違ってたなぁ…。そんな人に絵を描いて欲しくないよ」
「ごめんごめん。言い過ぎちゃったね。ほんとに大丈夫だから、安心して、ね」
意気消沈する小鳥には、今更何を言っても無駄だった。
「お母さん、今から違う人に絵を描いてもらうのはダメ?」
「ダメだよ。もうお願いしちゃったし。それに、小鳥が決めたことでしょ」
「そうだけどさぁ…。はぁ…。なんか、気が乗らないな。ねぇ、その人の名前は言うの?」
「どうして?」
「なんとなく…」
「実はお母さんも聞いたことないんだよね」
「そっか。その人も小鳥と同い年なんでしょ? だったら名前で呼んであげた方がいいかな?」
「なら、いいのがあるよ」
「何?」
「『キツネさん』なんてのはどう? 顔もキツネにそっくりだったし、絵本の狐さんも絵が上手でしょ? 親しみやすいんじゃない?」
「それだと、絵本の狐さんまで変態みたいじゃん…」
「だから変態じゃないって。絵本の狐さんみたいに、優しい人だよ。ほんと」
「うーん…。ま、いっか。別に会うわけじゃないし」
「小鳥は、狐さんに会いたくはないの?」
「微妙かな。少し会ってみたい気もするけど、変態だし、何されるかわからないし、それに、病気のことで同情されたりするのは、絶対に嫌だから…」
小鳥は腕に刺さった管を、静かに見つめた。
「そっか…そうだよね。ちなみに、彼も徳島出身らしいよ」
「ほんとに?」
「うん。間違いないよ」
「じゃあさ、もしかしたら、小鳥とキツネさんは、実は『どこかで会ってたり』し…」
「小鳥、同い年で徳島出身の人が、日本にどれだけいると思う? いっぱいいるんだよ」
「まっ、そりゃそうだよね」
「そんなことよりさ、さっきから何折ってるんですか、柊先生?」
「内緒っ。お母さんには絶っ対教えない」
「えー。教えてくれよぉ」
「いーやっ!」
「あっそ。わかったよ。なら、こうするまでだ!」
「あっははっ。ちょっと、お母さん。やめて。あっははっ」
「ほれほれぇ!あっはは」
「今何時だと思ってるの!」
その後、二人が浜崎氏の説教から解放されたのは、深夜12時を回った頃で、日付が変わったちょうどその日は、僕が人生で初めて旅をする日だった。




