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フォックスの翼  作者: ジョニー
第1章
34/46

34.旅の準備

34


家に着いたときには、18時30分を回っていた。


途中、帰り道沿いにあった本屋に寄って、新冊の漫画をチェックしたり、青森県の観光案内マップ(見ようとしたが柊翼の言葉が頭を過ぎり、やめた)を触ったり、絵の参考書を読んだりして時間を使ってしまったため、予定よりも帰宅が遅くなってしまった。


「おかえり」


最初に僕に話しかけたのは、母だった。


まだ仕事から帰ってきていない父を除くと、残りの1人は必然的に母だけだったのだが、「おかえり」のトーンがいつもよりも高い様子から、明日の旅の心配をしているようにもみえた。


「準備できてる?」


「あとちょっとかな」


「そう…。あ、今日、すきやきにしたから」


「うん。分かった」


「お父さん、もうすぐ帰って来るって」


「了解」


「それと、明日はお父さんが空港まで送ってくれるみたいだから、帰って来たらちゃんとお願いしなさいよ」


「え! 母さんじゃないの」


階段を上がる途中で、僕は転げ落ちそうになった。


「そのつもりだったんだけど、『朝時間あるから、父さんが送っていく』って。さっき電話があったの」


「いいよ別に。母さん送ってってよ」


「もうお父さんにお願いしちゃったから、無理よ」


「えー…」


「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。お父さんも嬉しいのよ。親孝行だと思って、行きなさい」


「分かった。じゃあ、父さん帰って来たら教えて」


「りょーかいっ」


それから30分が過ぎた19時。


「お父さん、帰ってきたわよ」


母が僕を呼びにきた。


遅かれ早かれ、いつか呼ばれるのは分かっていても、やはり気が乗らない。


僕は足取り重く一階に降りていった。


通い慣れたリビングには、すでにスーツから部屋着に着替えを済ませた父がいて、今朝読んだはずの朝刊をなぜか険しい顔で読み進めていた。


これが威厳ある父の姿だ的な雰囲気作りをする父に、僕は全く気にも留めず、無言でリビングテーブルの定位置の椅子に座る。


「ちょっと、これ、そっち持っていって」


キッチンにいた母にサラダボウルを運ぶよう言い渡されたので、僕は指示通りにテーブルの中央にそれを置き、元の椅子に座り直した。


よりによって、こんな暑い日にすき焼きなんかをするものだから、リビングの中はW杯期間中のサッカースタジアム以上の熱気が立ち込めていた。


暑さのあまり、僕がテーブルに置いてあった麦茶に手を伸ばそうとした時だった。


「明日、何時の飛行機だ」


父から話しかけてきた。


「9時05分」


「そうか。なら、8時に家出るぞ」


僕の家から空港までは、30分もあれば余裕で着くので、僕は目を丸くした。


「そんなに早く?」


「あぁ? 飛行機乗ったことあるだろ?」


「中学校の修学旅行で一回…」


「飛行機乗る前に、持ち物検査があるのは知ってるだろ?あれに時間がかかるんだ。だから空港には、早めに行った方がいいんだ。覚えておきなさい」


そう言うと、父はまた新聞を読み漁り始めた。


僕はすでに分かっていたのだが、これは決して父の機嫌が悪いわけではない。


父は「なさい」を口癖のように常習化していたので、特に怒られている印象は受けなかった。


僕はグラスに注いだ麦茶と、父の下手くそな助言をそのまま飲み込んだ。


その後、父とは一言の会話もなく、ご馳走を済ませた僕は、リビングを去る前に「それじゃあ、明日」と父に告げた。


父はコクリと頷くだけで、まだ新聞を読んでいた。


母からは「ちゃんとお願いしなさいよ」と言われていたが、わざわざ「お願いします」なんて口に出さなくても、父に伝わればいいと思っていた僕。


恐る恐る母に目をやると鬼のような形相をしていたので、僕は思わず下を向いた。


だがそんな母も、それが僕と父との距離感だということを、内心では理解していたはずだ。


僕はそっとリビングの扉を閉めた。


いつもより長めの風呂に入った後は、自室で1時間ほどテレビを見て、明日の最終確認を行うことにした。

ベッドに並んだ色彩豊かな品々を、端から順に1つずつ確かめる。


着替え、カッパ、タオル、歯ブラシ、マップ、ニコン、充電器、財布、ポーチ、スケッチブック、筆箱、色鉛筆、クレヨン、イーゼル(絵を立て掛ける台)、折り畳み傘、救急セット…。羽根、手紙。


改めて見ると、かなりの量だ。


詰め方を間違えれば、入りきらない。


頭の中で詰め込む順番を考えていると、ポケットの中で身を潜めていた携帯が鳴った。


「もしもし」


「おぅ、コン、お疲れ。明日の準備出来た?」


「今、荷物を詰めてたとこ」


「そっかそっか。なら、頻繁に出し入れするものは最後に入れた方がいいぞ。底にしまったら、引っ張り出す時にグッチャグチャになるから」


「なるほど、確かに。ありがとう」


「俺のカメラもちゃんと持ってってるか?」


「おっといけない」


「おいおい、嘘だろ」


「冗談だよ。ちゃんと準備してあるから」


「なら良かった。明日、09時05分の飛行機だよな?空港で荷物検査とかあるからさ、できるだけ早めに行っといた方がいいぞ」


「さっき親父にも同じこと言われたよ」


「ははっ、そうか。なら今日は早く寝ろよ。それと、頑張れよ」


「ありがとう。翔も出張頑張ってな」


「おぅ。それじゃっ」


翔との電話はそれだけだった。


携帯の画面を見ると、21時30分の文字が浮かんでいたので、僕は翔の助言通り、順序よく荷造りを済ませ、翌日のアラームを07時00分にセットし、かなり早めの眠りについた。


「ねぇ、お母さん…」


僕が深い眠りに落ちたちょうどその頃、病院の個室では、すっかりいつもの調子を取り戻した小鳥が、ベッドの上で足をパタパタさせながら、折り紙を折っていた。

「ん? なに?」


「お父さん、今日も来なかったね。俊も」


「二人とも忙しいのさ」


「そっか」


退屈そうに折り紙を折る手捌きは、どうやら鶴を折っているらしい。


「小鳥、ミサンガ渡しといたから」


「えっ! もう渡したの?」


「うん。小鳥が寝てる隙にね。こっそり渡してきた。『ありがとう』って言ってたよ」


「そっか、ふふっ…」


足のパタパタが分かりやすく弾んだ。


「ねぇ、お母さん…」


「ん?」


「絵の作者さんってさ、どんな人なの?」


「どんな人と言われてもなぁ…う〜ん…」


「男の人?」


「そうだよ。よく分かったね」


「絵を見てたらなんとなく。歳は?」


「歳ねぇ…」


柊翼は少し躊躇った後、素直に答えた。


「小鳥と同い年だよ」


「えっ!!」


小鳥が飛び起きた。


「ほんとに?」


「そうだよ」


「そっか…。ねぇ、小鳥のこと何か言ってた?」


「ん? 『ありがとう』って言ってたよ」


「そうじゃなくって。その…病気のこと…とか」


「あー、なるほどね。病気のことは知らないし、小鳥がAカップだってことも知らないはずだよ」


「余計なことは言わなくていいから。そっか、同い年ね…」


「妄想が膨らみますかね?」


「うるさい!」


「あっはは。一応言っとくけど、彼、変態だからね」


「えぇっ! 変態なの」


小鳥は眉間にしわを寄せて彼女を見た。


「そうよ。今日だって、ズボンのファスナー全開で現れてさ『金がないなら身体で払え!』なんて言われちゃった」


「それ、完全にヤバイ人じゃん」


「でしょ。危うく脱がされるとこだったよ。しかも最後はお母さんの腕をガシッと掴んできたりして」


「ヤバイって。絶対警察行った方がいいよ。明日お父さんと一緒に行ってきて。お願いだから」


「あっはは。大丈夫だって。小鳥が思ってるほど、そんなにヤバイ人じゃないから」


「聞いてる限りでは完全にヤバイ人だよ。はぁ、なんかイメージと違ってたなぁ…。そんな人に絵を描いて欲しくないよ」


「ごめんごめん。言い過ぎちゃったね。ほんとに大丈夫だから、安心して、ね」


意気消沈する小鳥には、今更何を言っても無駄だった。


「お母さん、今から違う人に絵を描いてもらうのはダメ?」


「ダメだよ。もうお願いしちゃったし。それに、小鳥が決めたことでしょ」


「そうだけどさぁ…。はぁ…。なんか、気が乗らないな。ねぇ、その人の名前は言うの?」


「どうして?」


「なんとなく…」


「実はお母さんも聞いたことないんだよね」


「そっか。その人も小鳥と同い年なんでしょ? だったら名前で呼んであげた方がいいかな?」


「なら、いいのがあるよ」


「何?」


「『キツネさん』なんてのはどう? 顔もキツネにそっくりだったし、絵本の狐さんも絵が上手でしょ? 親しみやすいんじゃない?」


「それだと、絵本の狐さんまで変態みたいじゃん…」


「だから変態じゃないって。絵本の狐さんみたいに、優しい人だよ。ほんと」


「うーん…。ま、いっか。別に会うわけじゃないし」


「小鳥は、狐さんに会いたくはないの?」


「微妙かな。少し会ってみたい気もするけど、変態だし、何されるかわからないし、それに、病気のことで同情されたりするのは、絶対に嫌だから…」


小鳥は腕に刺さった管を、静かに見つめた。


「そっか…そうだよね。ちなみに、彼も徳島出身らしいよ」


「ほんとに?」


「うん。間違いないよ」


「じゃあさ、もしかしたら、小鳥とキツネさんは、実は『どこかで会ってたり』し…」


「小鳥、同い年で徳島出身の人が、日本にどれだけいると思う? いっぱいいるんだよ」


「まっ、そりゃそうだよね」


「そんなことよりさ、さっきから何折ってるんですか、柊先生?」


「内緒っ。お母さんには絶っ対教えない」


「えー。教えてくれよぉ」


「いーやっ!」


「あっそ。わかったよ。なら、こうするまでだ!」


「あっははっ。ちょっと、お母さん。やめて。あっははっ」


「ほれほれぇ!あっはは」


「今何時だと思ってるの!」


その後、二人が浜崎氏の説教から解放されたのは、深夜12時を回った頃で、日付が変わったちょうどその日は、僕が人生で初めて旅をする日だった。

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