29.父の領収書
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レンズクリーナーを買い忘れたことに気づいたのは、家で財布に残った残金を数えていた時だった。
印字された864円のレシートは彼女にいつか必ず請求する予定なので、僕はそれを大切に財布の内ポケットにしまった。
ただ何気なくそうしたのではない。そうしたのにはちょっとした理由があって、話しは2年前の冬の朝に遡る。
リビングで朝食を食べていた時のこと、右に跳ねた寝ぐせをつけたままの僕が、醤油差しに手を伸ばし、目玉焼きに黒を垂らすと、目の前に座る父が「今日は会社の忘年会で遅くなる」と切り出した。
普段から口数が少ない父親が、やれ「会社の付き合いやけん」だの、やれ「ほんとは行きたくないんだけど」なんて滅多に口にしない言葉をダラダラと垂れ流すものだから、僕と母が「そんなはずないくせに」とか「見え見えなんだよ」なんて軽蔑的な感情を抱いたのはごく自然なことだった。
父が飲み残したコーヒーを片付けながら「お父さんが死んだら、保険下りるからさ。一緒にハワイ旅行でも行く?」なんてブラックジョークをかます母は、案外、本気だったのかもしれない。
その夜、自室でバラエティ番組を見ながら年越しを迎えようとしていた僕の耳に「たっだいま」という酒臭い声が飛び込んできた。
めんどくさいのが帰って来た、と思ったのはどうやら僕だけではなかった。
二階の反対側の部屋のドアが開き、ドア越しにも聞こえるほど、「っつ」と舌打ちした母が、ドスドスと階段をかけ降りていく。
酔っ払いは手がつけられないと言うが、父もその1人だ。
直後、階段下から「ちょっと、手伝って」と言う応援要請が入った。
仕方なく要請に応えることにした僕は「っつ」と舌打ちをして、ドスドスと階段をかけ降りた。
母親似と言われる由縁は、これかもしれない。
玄関から一段上がったフローリングの上には、目を閉じて気持ち良さそうに眠る父の姿があった。
僕は、あからさまに溜め息を漏らす。
酔い潰れた父を介抱するのは母の役目だったが、リビングまで引きずるのは僕の役目だった。
気は進まなかったが父の両手をがっしりと掴み、ズルズルと引きずった。
「おぅ、おぇっ、ちょっ、なに」
吐くなよ。
「おう、お前か」
父と目が会った。
無視する。
「一緒に飲むか?」
飲まない。
言葉にしてもよかったが、喋るとまた絡まれそうなので首を横に振り回して答える。
「そっか。また今度な」
その言葉はなぜか弱々しかった。
リビングまで連行された後も、いつもならテーブルの椅子に座らせるまでが僕の役目だったのだが、その日の父は、自分で椅子に腰掛け、お湯を沸かす母に「水」とはっきり伝えられるほど、冷静で落ちついていた。
吐いたり暴れたりする様子もなくなったので、後のことは母に任せることにした僕は、母にコクリと頷いた。
それを見た母がコクリと頷き返し、了解の意を確認した後、僕は2階の自室に戻ることにした。その時だった。
「好きなことをすればいい」
父が漏らした言葉だった。
父は目を閉じたまま、下を向いていた。
僕はとっさに母の顔を見た。
母も一瞬びっくりしていたが「酔ってる」と大きく分かりやすい口パクをしたので、僕は母に促されるように部屋を出ることにした。
「母さんから聞いてる。美大に行くんだろ? お金に困ったら連絡してきなさい」
父は酔っているフリをしていた、かもしれない。
父の目は、まだ閉じたままだった。
アルコールが混じった父の言葉に、いつのまにか僕自身も酔ってしまったみたいだ。
鼻の奥がジンジンし、目頭も熱くなり、ついには涙まで出てきた。これもお酒の力なのか?
だとすると、やっぱりお酒は好きにはなれない。
僕を見た母がニコリと笑い「酔ってる」と今度は小さな口パクで合図をする。母のその顔は、何故か嬉しそうだった。
部屋に戻ると、24インチのテレビの中で、お笑い芸人が尻を叩かれていた。
10分前なら絶対に笑っていたはずなのに、今は全く笑えない。
父の言葉が、ずっと家にひきこもっていた僕の胸に刺さった。
そんな僕に、父は何も言わず、毎朝「おはよう」と声をかけてくれていた。
父にとって「息子が登校拒否」という事実は、かなりショックが大きかったと思う。
それでも、毎日、ごくごく自然に接しようとする父の気遣いが痛いほど伝わってきていた。
そして今もまだ、さっきの言葉が耳を離れない。
「好きなことをすればいい」
それが父の本心だったと思う。
棚に飾ってある父から貰ったグローブが目に入り、また鼻の奥がジンジンした。
それが2年前の12月31日。
日本でいう大晦日の夜23時の出来事だった。
明けまして、なんて社交辞令を述べながら太陽が顔を出したのは、翌日の1月1日だった。
その日の朝に事件は起こった。
「財布の中」
「見た」
「ズボン」
「見た」
「ジャケット」
「見た」
テンポよく受け答えする父と母の会話で目が覚めた。
その会話には、独特のリズムがあって、父は見たと繰り返すだけだったのだが、その度に父の声色が小さく弱っていった。
「もうダメね。無いなら仕方ないじゃない。いくらだったの?」
「覚えてない」
「でしょうね、はぁ…。あ、おはよう」
降りて来た僕に母が朝の挨拶をするが、父はまだ上着のポケットを裏返すのに必死だった。
「朝ご飯まだ作ってないの」
「いいよ、別に」
「おとーさーん。もう諦めなさい。無いものは仕方ないじゃない。あと、ジャケットの中は?」
「見た。ちょっと外見てくる」
父は俯いたままリビングを出て行った。
「外なんかに落ちてるはずないのにね」
「何かあったの?」
「忘年会の領収書、無くしたんですって」
聞き馴染みのない、領収書という言葉の意味は分からなかったが、悲壮感が滲んだ父の顔色からして、きっと無くしちゃいけない大切なものなのだろう。
「どうせ貰うの忘れただけでしょ」
「それって、貰い直すこととか出来ないの?」
「え? あ、そうね、ちょっとお父さん呼んできて」
早く早く、と急かす母に言われるがまま、僕はクロックスのサンダルを履き、外に出た。
「おぉ、お前か」
父は地面の蟻を数えていた。
死ぬにはまだ早い。
「母さんが呼んでる」
「あったのか」
「そうじゃない、けど呼んでる」
「そうか」
電球がパッと光ったかと思えば、またシンと消えた。父はくるりと振り返り、家の中に入った。
その後、母から領収書の再発行の提案がなされ、父は「そうか」とポンと手を叩いた。
それから数日後の夜、父は、領収書の再発行に成功したという報告を夕食の話のタネに持ち出した。そして「領収書やレシートは大事だからな、無くすなよ」
と経験者は語る的な教訓を僕に述べ、父は肉じゃがを嬉しそうにかきこんでいた。
そんなことがあってから、僕は貰ったレシートを大事に取っておくように癖付けていた。
溜まったレシートは1ヶ月単位で捨て、また貰ったら入れるを繰り返してきた。
喫茶店の領収書だけを集めてみても、3枚もある。
彼女の顔が思い浮かんだ。
翔との約束の時間は19時だった。
風呂に入り、急いで着替えを済ませる。
玄関で靴を履いていると、会社から帰ってきた父と鉢合わせた。
「おぅ、お前か」
「おかえり」
「ただいま。どっか行くのか?」
「ちょっと」
「そうか」
こんな具合に僕と父の会話は、必要最低限の単語だけで交わされる。
「車、使うか?」
「大丈夫」
「そうか」
「うん」
「ちょっと待て」
父は右ポケットから長ザイフを取り出し、黙って福沢諭吉を1枚僕にくれた。
「大事に使いなさい」
「ありがとう」
冷静に答えたつもりだが、心の中では胸踊っていた。
「じゃあな」
「うん」
父はコクっと頷くと、リビングに消えていった。
僕は父の背中をずっと目で追いかけていた。
その後、予定の時間10分前に喫茶店についたが、翔はまだ来ていなかった。
さて、今日は何から話そうか?




