第9話 欲しいものを、自分で選ぶ
パン屋で働き始めてから二度目の週に入り、シアはようやく厨房と店を行き来する生活に身体が馴染み始めていた。
朝は決められた時間に起き、身支度を整えてから階下へ降りる。オットーと一緒に生地の状態を確認し、任されたパンを成形したあとは、マルタと店頭へ商品を並べる。開店すれば常連客の注文を受け、客足が落ち着いた時間には注文帳や仕入れ記録を整理し、必要があれば厨房の手伝いへ戻る。
最初の数日は、一つの仕事が終わるたびに「次は何をすればいいでしょうか」と尋ねていた。
今では、店の流れを見ながら自分で判断できることも増えている。
もちろん、勝手に決めてはいけないこともある。
仕入れ量を大きく変えるときや、商品の価格、取引先との約束に関わることは必ずマルタかオットーへ確認する。一方で、棚の商品が減れば補充し、客が途切れれば店内を整え、注文が重なれば優先順位を考える程度なら、自分で動いて構わないと言われていた。
その境目を覚えていくことも、シアには新鮮だった。
ベルフォード家では、自分で考えろと言われた直後に、勝手なことをするなと叱られることがあった。相手の機嫌によって正解が変わるため、何を基準にすればいいのか分からなかったのだ。
ここでは違う。
分からなければ確認する。
確認したことは次から覚える。
店に影響する大きな判断は相談し、自分でできることは任せてもらう。
決まりがある。
だから、安心できた。
「シア、丸パンあと十二」
厨房からオットーの声が飛んでくる。
「はい。店頭は残り八つですので、焼き上がったら六つだけ先に出して、残りは昼前の分に回してもよろしいですか?」
「いいぞ」
「分かりました」
返事をしながら、シアは会計を終えた客へ包みを渡した。
「ありがとうございました」
「すっかり慣れたねえ」
客の女性が笑う。
「まだ覚えることばかりです」
「最初に見たときは、話しかけたら逃げそうな顔してたのに」
「……そんな顔をしていましたか?」
「してたしてた。今は少し柔らかくなったよ」
女性は悪気なく笑い、パンの包みを抱えて店を出ていった。
シアは自分の頬へそっと触れる。
柔らかくなった。
自分ではよく分からない。
鏡を見る習慣もほとんどなかった。
以前は服装や髪を整えるときも、自分が気に入るかどうかではなく、人前へ出して問題がないか、家の恥にならないかという基準でしか考えていなかった。
(私、どんな顔をしていたんだろう)
今さら確かめることはできない。
ただ、あの屋敷を出た朝の自分と、今の自分がまったく同じではないことだけは分かる気がした。
「シア!」
「はい!」
マルタに呼ばれ、シアは顔を上げる。
「ぼーっとしてるとパンなくなるよ」
見ると、店へ新しい客が二人入ってきていた。
「申し訳――」
いつもの言葉が出かける。
シアは一度口を閉じ、言い直した。
「すぐに伺います」
「はいよ」
マルタが笑う。
それを見て、シアも小さく笑った。
◇ ◇ ◇
その日、昼前になって入口の鐘が鳴ったとき、シアは誰が入ってきたのかを見るより先に、もしかしたらと思った。
「こんにちは」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げる。
赤褐色の髪を後ろで束ね、濃紺の騎士服を身につけたミレイユが立っていた。
「いらっしゃいませ、ミレイユさん」
「今日も覚えてた」
「三度目ですから」
「じゃあ十回来たら常連?」
シアは少し考える。
「回数で決まるのでしょうか?」
「そこ真面目に考える?」
「聞かれましたので」
ミレイユが吹き出した。
「やっぱりシア、面白いよね」
「自分では、あまりそう思ったことはありません」
「そこも面白い」
何がおかしいのか分からず、シアは少し首を傾げる。
それでも、嫌な気持ちはしなかった。
ミレイユの笑い方には、誰かを馬鹿にする響きがない。自分と話していることそのものを楽しんでいるのだと、三度目にして少し分かるようになってきた。
「今日も蜂蜜パンですか?」
「そのつもりだったんだけど」
ミレイユは棚を見る。
「今日は別のも食べてみようかな」
「お食事用ですか?」
「うーん……午後の訓練があるから、ちゃんと腹にたまる方がいいかも」
「でしたら胡桃パンか、こちらのチーズ入りの丸パンはいかがでしょうか。胡桃パンの方が噛み応えがありますが、チーズ入りの方は温めると美味しいです」
「両方」
「両方ですか?」
「選べないなら両方食べればいい」
迷いなく言われ、シアは目を瞬いた。
「……そういう方法もあるのですね」
「何、その反応」
「いえ。どちらかを選ばなければならないと思っていました」
「食べられるなら両方でいいでしょう?」
「確かに……」
ミレイユが笑う。
「シアって、時々すごく難しく考えるね」
「よく分かりません」
「じゃあ今度、迷ったら両方って覚えといて」
「それではお金を使いすぎませんか?」
「そこは財布と相談」
「なるほど」
シアが真剣に頷いたため、ミレイユはまた笑った。
「本当に面白いなあ」
シアは少しだけ頬を膨らませかけた。
自分がからかわれていることは分かる。
けれど、不快ではない。
「では、胡桃パンとチーズ入りを一つずつですね」
「あと蜂蜜パン」
「結局お買いになるのですね」
「それは別腹」
ミレイユは当然のように答えた。
シアは三種類のパンを包み、代金を計算する。
「全部で銅貨二十四枚です」
「はい」
ミレイユが硬貨を渡す。
シアが数えている間、ミレイユは何気なく店内を見回した。
「今日は忙しい?」
「朝は少し混みましたが、今は落ち着いています」
「そっか。昨日、あのあと大きな音したでしょう?」
シアの指がわずかに止まった。
「……はい」
「近くで荷車が倒れたやつ。騎士団にも連絡が来てたんだ。怪我人はいなかったけど、積み荷が道いっぱいに散らばって大変だったみたい」
「そうだったのですね」
シアは硬貨を会計箱へ入れた。
昨日の瞬間を思い出す。
大きな音。
強張った身体。
浅くなった呼吸。
そして。
『少しだけ……座ってもいいですか?』
自分でそう言えた。
「……怪我をした方がいなくて、よかったです」
「うん。馬も無事だったよ」
「馬も?」
「びっくりして暴れかけたらしいけど、御者が上手く落ち着かせたって」
「それなら、本当によかったです」
ミレイユはシアの表情を少しだけ見た。
昨日、大きな音がしたとき、自分は別の通りにいた。
この店にいたわけではない。
それでも今のシアは、事故の話を聞いた瞬間だけ、わずかに肩へ力が入ったように見えた。
何かあるのだろう。
けれど、尋ねない。
ミレイユは包みを受け取った。
「そういえば、今日はもう上がり?」
「いいえ。午後もあります」
「休みってあるの?」
「七日に一日です」
「じゃあ、次はいつ?」
シアは一瞬、答えてよいのか迷った。
以前なら、自分の予定を他人へ伝えることにも慎重になっただろう。
けれど、ミレイユはただ会話の流れで聞いているだけに見える。
「明後日です」
「何するの?」
そこでシアは言葉に詰まった。
何をする。
休みの日に。
「……買い物へ行こうかと」
「買い物?」
「はい」
ミレイユの顔が少し明るくなる。
「何買うの?」
「まだ買うと決めたわけではないのですが……」
シアは少し恥ずかしくなりながら、自分の髪へ触れた。
「髪紐を、見に行こうと思っています」
「髪紐?」
「はい。露店で、少し気になるものを見つけたので」
「どんなの?」
「空色です」
「へえ」
ミレイユはシアの髪を見た。
今は地味な焦げ茶色の紐でまとめられている。
「似合いそう」
あまりにも自然に言われたため、シアは返事を忘れた。
「……そうでしょうか」
「うん。シア、髪の色が明るいから、空色なら合うと思う」
シアは自分の髪へ触れた。
自分に似合う。
そういう基準で何かを選んだことが、ほとんどない。
「でも、必要なものではなくて……」
「髪紐なら使うんでしょう?」
「今のものがあります」
「じゃあ、欲しいから買うんじゃない?」
簡単に言われた。
シアは黙った。
欲しいから買う。
そのために、自分で働いて得た金を使う。
頭の中では、何度も考えた。
それでも他人の口から当然のことのように言われると、胸の奥にあった迷いが少しだけ形を変える。
「……欲しいものを買っても、いいのでしょうか」
ミレイユの表情が変わった。
驚いたように見えたが、すぐに何かを尋ねることはしなかった。
「自分のお金なんでしょう?」
「はい」
「生活に困るほど使うわけじゃない?」
「もちろんです。給金の大半は残してあります」
「だったら、いいんじゃない?」
ミレイユは少し考えてから、言葉を続ける。
「買ってから後悔することはあるかもしれないけど、それも自分で選んだ結果でしょう? 誰かに無理やり買わされたわけじゃないなら、次は違うものにしようって思えばいいだけだし」
「買って、後悔しても……いい?」
「そりゃするよ。私なんて、この前すごく高い焼き菓子買って、食べたら普通だった」
シアは思わず笑った。
「それは残念でしたね」
「本当にね。値段見て絶対おいしいと思ったのに」
「値段だけでは分からないのですね」
「分からない。だから試す」
ミレイユは笑った。
「髪紐なら、試してみれば?」
試す。
失敗してもいい。
気に入らなければ、次は違うものを選ぶ。
自分の選択が、いつも完璧でなければならないわけではない。
「……ありがとうございます」
「何で私がお礼言われるの?」
「少し、買ってみようと思えました」
「じゃあ、次来たときにつけてるか見ようかな」
「まだ買うとは……」
「さっき買ってみようって言った」
「……そうでした」
シアは困ったように笑った。
ミレイユは満足そうにパンの包みを抱え直す。
「じゃあ仕事戻るね。また来る」
「はい。お気をつけて」
店を出る直前、ミレイユが振り返った。
「シア」
「はい?」
「休み、楽しんでね」
シアは一瞬だけ目を見開いた。
「……はい」
今度は、迷わず答えた。
◇ ◇ ◇
二日後。
シアは目を覚ましたあと、しばらく天井を見つめていた。
窓の外はすでに明るい。
いつもの始業時間を過ぎている。
それなのに、誰も呼びに来ない。
当然だった。
今日は、働き始めてから初めての休日なのだから。
(……本当に休みなんだ)
昨夜、マルタから念を押されている。
『明日は休みだからね。間違っても厨房に降りてきて働かないこと』
オットーからも言われた。
『店の前を通るのは勝手だが、エプロンはつけるな』
二人とも、シアが休みの日まで働こうとすると思っているらしい。
否定できない。
実際、目を覚まして最初に考えたのは、朝の仕込みは大丈夫だろうかということだった。
シアは掛布を胸元まで引き上げる。
休み。
一日。
仕事をしなくていい。
誰かに呼ばれる予定もない。
その自由は、嬉しいはずなのに、少し落ち着かなかった。
「……何をすればいいのかしら」
呟いてから、自分でおかしくなる。
何をしてもいい日なのに、何をすればいいか分からない。
しばらく寝台の中で迷ったあと、シアはようやく起き上がった。
顔を洗い、髪をまとめる。
仕事用ではなく、旅のために持ってきた中では比較的状態のよい薄茶色のワンピースを選んだ。華やかではないが、街を歩くには十分だった。
机の引き出しを開ける。
小さな布包み。
初めての給金から、自分のために取り分けた金。
シアはそれを持ち上げ、しばらく眺めてから小さな財布へ入れた。
「……見に行くだけ」
まだ、そう言い訳する自分がいる。
買わなくてもいい。
でも。
買ってもいい。
その両方を胸に置いたまま、シアは部屋を出た。
◇ ◇ ◇
階下へ降りると、店はすでに朝の営業で忙しくなっていた。
反射的に店側へ向かいかけたシアへ、マルタが即座に声を飛ばす。
「シア」
足が止まる。
「……はい」
「どこ行くの?」
「少しだけ、お手伝いを――」
「今日は?」
「……休みです」
「そう。じゃあ?」
「買い物へ行きます」
「よろしい」
マルタが満足そうに頷いた。
近くで生地を運んでいたオットーもこちらを見る。
「夕飯は?」
「戻ってからいただいてもよろしいでしょうか」
「残しておく」
「ありがとうございます」
店を出ようとしたところで、マルタに呼び止められた。
「シア」
「はい?」
「せっかくの休みなんだから、急いで帰ってこなくていいからね」
「でも、夕食までには――」
「それは好きにしなさい。言いたいのは、店のことを気にして戻ってこなくていいってこと」
シアは少し黙った。
「……分かりました」
「いってらっしゃい」
その言葉に、シアの足が止まる。
いってらっしゃい。
昔も聞いたことはあるはずだ。
けれど、今は不思議なくらい耳に残った。
「……行ってきます」
小さく返し、扉を開ける。
朝の領都には、仕事の日とは少し違って見える景色が広がっていた。
◇ ◇ ◇
目的の露店は、中央広場へ続く通りの途中にあった。
何度か店の用事で前を通っているため、道には迷わない。
布を張った小さな屋台の下には、髪紐、布飾り、木製の櫛、小さな耳飾りなどが並んでいた。高級品ではなく、町の娘たちが普段使いに買うような品が中心らしい。
店番をしているのは、五十歳ほどの女性だった。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
シアは並べられた髪紐を見る。
赤。
黄色。
深い緑。
紫。
そして。
以前見た淡い空色。
まだあった。
見つけた瞬間、胸の奥が少しだけ弾んだ。
「それ、気になる?」
店主に声をかけられ、シアは驚いて顔を上げた。
「……はい」
「手に取っていいよ」
「よろしいのですか?」
「売り物なんだから、見ないと選べないでしょう」
シアはそっと髪紐を手に取った。
柔らかな布で作られている。
特別な刺繍も宝石もない。
ただ、色が綺麗だった。
晴れた日の空を少し薄くしたような青。
「いくらでしょうか」
「銅貨六枚」
払える。
もちろん払える。
給金のごく一部だ。
それでもシアは、すぐに財布を開けなかった。
(本当に必要?)
いつもの考えが浮かぶ。
今の髪紐は使える。
空色である必要はない。
六枚あれば、別のものが買える。
将来何かあったときのために残すこともできる。
「迷ってるねえ」
店主が言った。
「……はい」
「別に買わなくてもいいよ」
シアは顔を上げる。
「欲しくなかったら戻しな。明日まだあったら明日買えばいいし、なくなったら縁がなかったってことさ」
「なくなったら……」
「売り物だからね」
その言葉に、シアは手の中の髪紐を見る。
なくなったら。
きっと少し残念だと思う。
誰かが買ってしまったと聞いたら。
自分も欲しかったのに、と思う気がする。
そこでようやく。
答えが分かった。
(私、これが欲しいんだ)
必要だからではない。
誰かに言われたからでもない。
誰かへ贈るためでもない。
ただ。
自分が気に入ったから。
自分で使いたいから。
「……これをください」
声にすると、少し緊張した。
「はいよ。銅貨六枚ね」
財布を開き、硬貨を六枚取り出す。
一枚ずつ店主へ渡した。
「ちょうど」
店主は髪紐を小さな紙へ包んでくれた。
「ありがとう」
「こちらこそ……ありがとうございます」
包みを受け取る。
軽い。
ほんの小さなものだ。
それなのに、手の中にあるものがひどく大切に思えた。
◇ ◇ ◇
そのまま帰ってもよかった。
けれど、今日は休みだ。
急いで戻る必要はない。
シアは中央広場まで歩いてみることにした。
仕事の用事で通るときは目的地だけを見ていたが、今日は立ち止まってもいい。
広場の中央には大きな噴水があり、その周囲を囲むように露店や店が並んでいる。果物を売る店、香辛料を量り売りする店、焼いた肉を串へ刺して売る店、布地を広げる商人のほか、旅芸人らしい男が小さな楽器を奏でていた。
子どもたちが噴水の周囲を走り回り、近くの長椅子では老人たちが話をしている。
誰もシアを見ていない。
それが、少し心地よかった。
伯爵令嬢として出歩いていたころは、常に家名を意識しなければならなかった。
姿勢。
服装。
話し方。
誰と話すか。
何を買うか。
家の名を汚さないようにと、いつも誰かの目を気にしていた。
今は違う。
シアが一人で歩いていても、誰も気にしない。
「……自由って、こういうことなのかな」
小さく呟く。
自由。
屋敷を出たときにも考えた言葉。
あのときの自由は、恐ろしかった。
何も決められていないことが怖かった。
今は少しだけ違う。
何も決められていないから、自分で決められる。
その意味を、ようやく感じ始めていた。
広場の一角から、甘い香りが漂ってくる。
シアは足を止めた。
小さな焼き菓子屋。
店先には丸い焼き菓子や果実を使った菓子が並んでいる。
(もしかして……)
ミレイユが話していた店だろうか。
確かめる方法はない。
けれど、いい香りがする。
値札を見る。
買えない金額ではない。
ただ、今日はすでに髪紐を買った。
ここでも何か買うのは、使いすぎだろうか。
シアは少し考えた。
財布の中身を思い出す。
給金の大半は残している。
今日持ってきた分にも余裕がある。
食べ物を一つ買ったところで生活に困ることはない。
(財布と相談)
ミレイユの言葉を思い出した。
思わず口元が緩む。
「……一つなら」
誰に許可を求めるでもなく、自分で決めた。
シアは店へ近づいた。
「こちらを一つください」
選んだのは、林檎を薄く切って焼き込んだ小さな菓子だった。
代金を払い、紙へ包んでもらう。
近くの噴水の縁へ腰掛け、一口食べる。
甘い。
けれど、果実の酸味もある。
「……おいしい」
自然と声が漏れた。
旅の途中で食べた蜂蜜菓子とは違う味だった。
自分で選んだ髪紐を持ち。
自分で選んだ菓子を食べ。
仕事ではなく、ただ街を歩いている。
誰かの用事ではない。
誰かへの贈り物を探しているわけでもない。
今日使った金は、すべて自分のためだった。
胸の奥に少しだけ罪悪感がある。
こんなことをしていていいのだろうかという声も、完全には消えていない。
けれど。
(いいんだ)
シアは焼き菓子をもう一口食べた。
(私が働いたお金なんだから)
初めて。
そう思えた。
◇ ◇ ◇
午後になってから、シアはパン屋へ戻った。
「ただいま戻りました」
扉を開けると、マルタが会計をしていた。
「おかえり。早かったね」
「これでも、かなりゆっくりしてきたつもりです」
「ならいいけど」
マルタは客へパンを渡し、会計を終えてからシアを見る。
「買えた?」
「……どうして分かったのですか?」
「顔」
「顔?」
「ちょっと嬉しそう」
シアは自分の頬へ触れた。
朝にも似たようなことを言われたばかりだ。
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「前よりはね」
マルタが笑う。
「見せてよ」
「はい」
シアは紙包みを取り出し、中から空色の髪紐を出した。
「あら、いいじゃない」
「似合うでしょうか」
口にしてから。
シアは少し驚いた。
自分から。
似合うかと尋ねた。
マルタも一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑顔になる。
「似合うと思うよ。つけてみたら?」
「今ですか?」
「せっかく買ったんでしょう?」
シアは少し迷ったあと、今使っている焦げ茶色の髪紐を外した。
髪が肩へ落ちる。
空色の紐を使い、いつものように後ろでまとめる。
「どうでしょう」
「うん。いいね」
マルタが満足そうに頷く。
「顔が明るく見える」
「……ありがとうございます」
「オットー!」
「何だ!」
「シアの髪紐どう?」
「俺に聞くな!」
厨房から返ってきた。
「見てもないでしょう!」
「パン焼いてるんだ!」
いつものやり取り。
シアは笑った。
すると、厨房からオットーが顔だけ出した。
「……青か」
「空色です」
「同じだろ」
「少し違うと思います」
「似合ってるぞ」
それだけ言うと、オットーはすぐ厨房へ戻った。
シアは動きを止めた。
マルタが笑う。
「だって」
「……はい」
褒められた。
ただそれだけ。
それなのに、耳のあたりが少し熱くなる。
「自分で選んだの?」
「はい」
「なら、大事にしな」
「はい」
シアは髪紐へそっと触れた。
誰かから与えられたものではない。
リリアナのお下がりでもない。
家のために用意されたものでもない。
自分で働いた金で、自分が欲しいと思って、自分で選んだ。
たった銅貨六枚の髪紐。
けれど。
今のシアにとっては、どんな宝石よりも大切なものに思えた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼前。
入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアが顔を上げる。
ミレイユだった。
「こんにちは。今日は蜂蜜パン――」
そこまで言ったところで、ミレイユの視線がシアの髪へ向いた。
「あ」
シアは無意識に空色の髪紐へ触れる。
ミレイユの顔がぱっと明るくなった。
「買ったんだ」
「はい」
「やっぱり似合う」
迷いのない言葉だった。
シアは少し恥ずかしくなって目を伏せる。
「ありがとうございます」
「いい色だね」
「私も、そう思います」
答えたあと。
シアは自分の言葉に気づいた。
私も、そう思います。
誰かに似合うと言われたからではない。
自分も気に入っている。
だから。
「買ってよかったです」
今度ははっきりと言えた。
ミレイユが笑う。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、休みも楽しめた?」
「焼き菓子も食べました」
「どこの?」
「中央広場の近くで、林檎を使ったものを」
「もしかして、白い屋根の店?」
「はい」
「そこ! 私が言ってたところ!」
ミレイユの声が弾む。
「おいしかったでしょう?」
「はい。甘いだけではなくて、林檎が少し酸っぱくて」
「分かる!」
そこから、焼き菓子の話が始まった。
どれが甘い。
どれは少し高い。
季節限定で栗を使ったものが出る。
近くに別の菓子店もある。
ミレイユは楽しそうに話し、シアは知らない店の話を聞く。
それは、何の役にも立たない会話だった。
仕事のためでもない。
家のためでもない。
婚約者を楽しませるために用意した話題でもない。
ただ。
二人とも興味のあることを話しているだけ。
シアはそのことに気づき、少し不思議な気持ちになった。
「そうだ」
ミレイユが思い出したように言う。
「今度、訓練が早く終わったら別の店も教えるよ」
「別の店?」
「焼き菓子だけじゃなくて、飲み物がおいしい店もあるんだ。果実茶がすごくおいしい」
「果実茶……」
「飲んだことある?」
「ありません」
「じゃあ、一回飲んでみたらいいよ」
ミレイユはそこまで言ってから、少し考えるように首を傾げた。
「場所、説明するより……」
言葉を止める。
シアは続きを待った。
「まあ、今度地図でも描くよ」
「地図ですか?」
「シア、まだ街に慣れてないんでしょう?」
「ありがとうございます」
「いいって。私、こういう店探すの好きだから」
ミレイユは笑った。
誘おうとして。
やめた。
まだ、三度、四度と店で話した程度の相手だ。
休みの日に一緒に行こうとまで言えば、距離を詰めすぎるかもしれない。
何より。
先ほど「今度」と言った瞬間、シアの肩がほんの少しだけ強張ったのを、ミレイユは見逃していなかった。
(急がなくていいか)
またパンを買いに来ればいい。
話す機会なら、そのたびにある。
ミレイユはそう考え、棚へ視線を向けた。
「じゃあ今日は蜂蜜パン二つと、胡桃パン一つ」
「蜂蜜パン、減りましたね」
「今日は絶対一つ残す」
「前にも聞いた気がします」
「今日は本気」
「分かりました」
シアは笑いながらパンを包んだ。
その笑顔を見ながら、ミレイユも自然と口元を緩める。
友人と呼ぶには、まだ早い。
お互いに知らないことの方が多い。
それでも。
パンを買うためだけなら、商品を受け取って代金を払えば終わるはずなのに、最近は店へ来ると少し話して帰りたくなる。
ミレイユ自身、その理由をまだ深く考えてはいなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
シアが注文表へ数字を書き込んでいると、店の外から二人の女性の話し声が聞こえてきた。
「聞いた? 騎士団の注文」
「何の?」
「訓練場の食事を出してた店が、しばらく休むんだって」
シアは顔を上げた。
店の前で話しているだけのようで、こちらへ入ってくる様子はない。
マルタも聞こえたらしく、棚を拭いていた手を止める。
「訓練場?」
「何かあるのですか?」
「いや、うちには関係ないと思うけどね」
マルタはそう答えながらも、少し考える。
「公爵家の騎士団には訓練場がいくつかあるんだけど、近いところだと南側に一つあるんだよ。訓練の日は人数が多いから、近くの店から食べ物を買うこともあるらしい」
「そうなのですね」
「うちは今まで直接取引したことはないけど」
シアは頷き、再び帳面へ視線を戻した。
騎士団。
そう聞けば、ミレイユを思い出す。
けれど、それ以上は考えなかった。
今の自分の仕事は、明日の注文を確認することだ。
銀鹿亭。
赤い鍋亭。
個人客の予約。
一つずつ確かめる。
まだシアは知らない。
少しずつ増えてきた日常の先で、この小さなパン屋とアルヴェイン公爵家の騎士団が繋がることになるのを。
そして、そのきっかけが特別な政治や身分の話ではなく、一人の騎士が何度もパンを買いに来るという、ごく普通の出来事から始まることも。
シアは空色の髪紐を揺らしながら、注文帳へ次の数字を書き込んだ。
欲しいものを一つ、自分で選ぶことができた。
知らない味を一つ、自分で試すことができた。
そして今は、誰かとの何気ない会話を楽しいと思えるようになり始めている。
自分の人生を取り戻すということが、大きな決断だけを意味するのではないのだと、シアはまだ知らない。
今日何を食べるか。
何を身につけるか。
誰と話すか。
何を好きになるか。
そんな小さな選択を一つずつ自分の手へ戻していくこともまた、彼女が自分の人生を生き直していくための、大切な一歩だった。




