第8話 また来てくれた人
翌朝、シアはいつもの時間に目を覚ました。
窓の外にはまだ夜の名残があり、建物の屋根を覆う薄闇の向こうで、東の空だけがわずかに白み始めている。階下からはオットーが窯を準備する音が微かに響いていたが、シアはすぐには寝台から立ち上がらず、枕元に置いた時計へ目を向けた。
始業までは、まだ少し時間がある。
(今すぐ降りなくてもいい)
そう自分へ言い聞かせ、もう一度掛布の中へ身体を戻した。
以前なら、目を覚ましたあとに横になっているなど考えられなかった。誰かに呼ばれる前に起き、命じられる前に仕事を探し、失敗を指摘される前に先回りしておかなければならない。それができなければ、怠けていると責められる可能性があったからだ。
けれど、この店では違う。
働く時間が決められている。
休む時間も決められている。
給金を受け取り、自分の部屋まで与えられている以上、シアはここで働く者ではあっても、一日中誰かに所有されているわけではない。
頭では分かっている。
身体の方が、まだ完全には理解していないだけだった。
シアは掛布の中でゆっくり息を吐いた。
昨日受け取った給金は、逃亡資金とは別にして衣装箱の奥へしまってある。その一部だけは小さな布へ包み、自分のために使う金として分けていた。
欲しいかもしれないと思ったのは、淡い空色の髪紐。
今使っているものが壊れているわけではない。
仕事に必要でもない。
だからこそ、買うことに意味があるような気がしていた。
(休みの日に、まだあったら見に行こう)
買うと決めたわけではない。
見てから決める。
それだけの予定なのに、胸の奥に小さな楽しみがある。
やがて始業時間が近づくと、シアは寝台から起き、顔を洗って髪をまとめた。
今日も一日が始まる。
誰かから与えられた予定ではなく、自分がここにいることを選んだ一日だった。
◇ ◇ ◇
「昨日の一覧、使えそうだ」
朝の仕込みを終えたころ、オットーが注文帳の横に置かれた紙を見ながら言った。
シアが整理した定期注文表だった。
納品先、品目、数量、周期、支払い方法を一枚へまとめ、前日に翌日分を確認できるようにしている。昨年の注文記録から季節変動についても簡単な印をつけたため、少なくとも以前より確認しやすくなっていた。
「何か直した方がいいところはありますか?」
「今のところはない。ただ、ここだな」
オットーが太い指で一か所を示した。
「赤い鍋亭は、たまに急な追加が入る」
「前日に確定しないのですか?」
「夕方になって客が多いと、翌朝の分を増やしてくれって言ってくることがある」
「でしたら、確定数と追加可能数を分けておきましょうか」
シアは紙を自分の方へ寄せ、余白へ小さな欄を作った。
「ここへ、追加が入る可能性のある数を書いておけば、材料を準備するときに余裕を持たせられます」
「余ったら?」
「店頭分へ回せる商品であれば問題ありません。ただ、店頭であまり売れないものなら、追加可能数を少なくした方がいいと思います」
オットーは少し考え、頷いた。
「それでやってみろ」
「はい」
シアは嬉しそうに返事をした。
言われた仕事を正確にこなすことには慣れている。
けれど、自分で考えた方法を提案し、それを「やってみろ」と任される経験はほとんどなかった。
ベルフォード家でも帳簿や予定表を整理することはあったが、上手くできても褒められるわけではない。むしろ一度改善すれば、それが次から当然になり、できなかったときだけ責められた。
ここでは違う。
必要だから考える。
役に立ちそうだから試す。
駄目なら直す。
仕事とは、本来こういうものなのかもしれない。
「シア」
「はい?」
「手が止まってるぞ」
「あ……申し訳――」
そこまで言って、シアは口を閉じた。
オットーがこちらを見る。
「……考え事をしていました。続けます」
「おう」
それだけで終わった。
シアは小さく息を吐き、再び注文表へ向かった。
謝らなかった。
だからといって、何も悪いことは起きなかった。
そんな小さな確認を、毎日一つずつ積み重ねている。
◇ ◇ ◇
朝の開店後、最初にやってきたのは黒麦パンを毎日買う老人だった。
「おはようございます」
「おう。いつもの」
「黒麦パンを二つですね」
「覚えたか」
「はい」
シアが包みを用意すると、老人は満足そうに頷いた。
「マルタより物覚えがいいな」
「聞こえてるよ、ハロルドさん!」
厨房からマルタの声が飛んでくる。
ハロルドと呼ばれた老人は楽しそうに笑った。
「耳だけは若いな」
「明日から黒麦パン売らないよ!」
「そりゃ困る」
店内にいた別の客まで笑い出した。
シアは包みを渡しながら、少しだけ戸惑いつつも笑みを浮かべる。
最初は、こうした冗談のやり取りにも緊張していた。
声が大きくなれば喧嘩が始まるのではないかと思い、誰かが機嫌を損ねれば自分にまで責任が及ぶような気がしていたからだ。
けれど最近は、声の調子の違いが少しずつ分かるようになってきた。
怒鳴っているように聞こえても、本当に怒っているとは限らない。
笑いながら交わす大声もある。
言い返しても、関係が壊れないこともある。
「じゃあ、また明日な」
「はい。ありがとうございました」
ハロルドを見送る。
続いて親子連れが入り、そのあとには仕事前らしい若い男たちが三人でやってきた。
店内が一気に賑やかになる。
「丸パン四つ!」
「俺は胡桃パン二つ!」
「お前、朝から甘いのかよ」
「胡桃パンはそんなに甘くないだろ」
それぞれの注文が重なる。
シアは一度頭の中で整理してから、順番に包み始めた。
「丸パン四つのお客様からお渡しします。こちらで銅貨二十枚です」
「はいよ」
「ありがとうございます。次に胡桃パン二つですね」
代金を受け取り、釣り銭を返す。
その横から別の客が声をかけてくる。
「白パンも三つ追加で」
「かしこまりました。少々お待ちください」
以前なら、複数人から同時に声をかけられれば、全員を待たせないよう無理に一度で処理しようとしていたかもしれない。
今は違う。
順番にやればいい。
分からなくなれば聞けばいい。
その考えを持てるだけで、ずいぶん楽だった。
「シア、こっちの会計は私がやるよ」
マルタが横へ入る。
「お願いします」
以前なら、「私がやります」と断っていた。
任された仕事を他人へ渡すことは、自分が役に立たないと認めるようで怖かったからだ。
けれど、今は素直に任せられた。
シアは自分の前にいる客へ集中する。
朝の混雑が落ち着いたころには、棚の一部がすっかり空いていた。
「ふう。今日は早かったね」
マルタが会計箱を確認しながら言う。
「昨日よりお客様が多かったでしょうか」
「少しね。近くの工房が早出の日なんじゃない?」
「なるほど」
シアは棚の残数を確認した。
「丸パンが思ったより減っています。追加できますか?」
「オットー!」
「聞こえてる!」
厨房から返事が来る。
「今焼いてる!」
マルタがシアを見る。
「だって」
「はい」
シアは空いた棚を拭きながら、次の商品を置く場所を整えた。
自分一人ですべてをやらなくても。
店は回っている。
そのことに、以前ほど不安を感じなくなっていた。
◇ ◇ ◇
昼前になって客足が少し落ち着いたころ、入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアは棚を整えていた手を止め、顔を上げた。
見覚えのある赤褐色の髪が目に入る。
濃紺を基調とした騎士服。
腰の剣。
胸元の銀色の徽章。
「こんにちは」
昨日来た女性――ミレイユ・クローデルが、少しだけ息を弾ませながら店へ入ってきた。
シアは思わず目を瞬いた。
「ミレイユさん」
「覚えてた?」
「もちろんです」
名前を呼ぶと、ミレイユは少し嬉しそうに笑った。
「よかった。昨日一回しか来てないから、忘れられてるかと思った」
「蜂蜜パンを二つ買ってくださった方ですから」
「そっちで覚えてるんだ」
「印象的でしたので」
「そんなに?」
シアは少し迷った。
本人に言ってよいのだろうか。
けれど、ミレイユの表情に嫌なところはない。
「とても嬉しそうに食べていらっしゃったので」
一瞬。
ミレイユが黙った。
それから少し頬を赤くする。
「……見られてた?」
「目の前でしたので」
「そうだった」
ミレイユは片手で額を押さえた。
「騎士団じゃ、もう少し落ち着いてるんだけどなあ」
「パン屋では落ち着かなくてもよいのではありませんか?」
「そう?」
「はい。お客様ですから」
昨日、ミレイユ自身が言った言葉でもある。
店では客と店員。
それでいい。
シアがそう思って答えると、ミレイユは目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「シアって、思ったより面白いね」
「……そうでしょうか」
「昨日はもっと、すごく真面目な子なのかと思ってた」
「真面目ではあると思います」
「自分で言うんだ」
「よく言われましたので」
答えたところで、シアは少しだけ胸の奥に引っかかりを感じた。
以前「真面目」と言われるとき、それは必ずしも褒め言葉ではなかった。
面白みがない。
堅苦しい。
融通が利かない。
ディートリヒから言われた言葉まで思い出しそうになり、シアは一度呼吸を整える。
けれど、昨日のように指先が冷たくなるほどではなかった。
目の前にいるミレイユは、誰かと比較するために言ったわけではない。
今の会話を楽しんでいるだけだ。
「それで、今日は何になさいますか?」
シアが尋ねると、ミレイユはすぐに棚へ向き直った。
「蜂蜜パン」
「やはりですか」
「やはりって何?」
「いえ。お好きなのだなと思いまして」
「好き。昨日食べたあと、もう一つは午後に食べようと思ってたのに、店を出てすぐ食べちゃった」
「二つともですか?」
「二つとも」
あまりにも迷いのない返事に、シアは笑った。
その笑顔を見て、ミレイユはほんの少し目を細めた。
昨日も思った。
この店員は、最初に見るとひどく整っている。
姿勢。
言葉遣い。
客との距離。
十八歳ほどの娘が町のパン屋で働くにしては、少し丁寧すぎる。
ところが、笑うと印象が変わる。
年相応に柔らかい。
(昨日より笑ってる気がする)
たった二度目の来店で分かることなど少ない。
それでも、少なくとも嫌われてはいないらしい。
「今日は何個にしますか?」
「三つ」
「増えましたね」
「一つは絶対に午後まで残す」
「昨日もその予定だったのでは?」
「……そうだった」
ミレイユが真顔になる。
シアは堪えきれず、また笑った。
奥で商品を並べていたマルタが、その様子へちらりと目を向ける。
シアが客と話すこと自体は珍しくない。
常連のローザやハロルド、ニコとも少しずつ会話するようになっている。
ただ、今のシアはいつもより少し自然に見えた。
相手が同年代に近い若い女性だからだろうか。
マルタはそう思ったものの、口を挟まなかった。
「蜂蜜パン三つで、銅貨二十一枚です」
シアが包みを渡す。
ミレイユは代金を払いながら、棚の隣に並んだ丸パンを見た。
「これもおいしい?」
「はい。朝食や食事でしたら、蜂蜜パンよりこちらの方が合わせやすいと思います」
「じゃあ二つ追加」
「ありがとうございます」
「明日の朝用」
「保存するなら、乾燥しないよう布で包んでおくとよいと思います」
「分かった」
ミレイユは素直に頷いた。
会計を済ませたあとも、すぐには店を出なかった。
「シアは、ずっとここで働いてるの?」
「まだ働き始めて一週間ほどです」
「あ、昨日も言ってたね。じゃあ、この街に来たのも最近?」
何気ない質問だった。
シアの身体が、わずかに固まる。
どこから来たのか。
家族は。
なぜここにいるのか。
そう続くのではないかと、無意識に身構えた。
「……はい。最近です」
答えられる範囲だけ答える。
ミレイユはその一瞬の変化に気づいた。
騎士として人を見る仕事をしているからこそ、声が少し硬くなったことも、指先が紙袋を持つ手へ寄ったことも見逃さなかった。
けれど。
「そっか」
それだけだった。
「じゃあ、まだ街の店とかあんまり知らない?」
「はい。仕事の行き帰りに見る程度で」
「この辺、いい店多いよ。青果店は隣のローザさんのところがいいし、少し先の肉屋も安い。あと中央広場の焼き菓子屋がおいしい」
ミレイユは別の話へ移った。
どこから来たのかは聞かない。
家族のことも聞かない。
シアは少しだけ目を瞬いた。
「焼き菓子屋、ですか?」
「甘いもの好き?」
尋ねられ、シアは答えに詰まった。
「……分かりません」
「分からない?」
「これまで、あまり自分で選んで食べたことがなかったので」
言ってから、少し話しすぎたかもしれないと思った。
けれどミレイユは驚いたように眉を上げただけで、事情を追及しなかった。
「じゃあ、これから分かるね」
その言葉に、シアは息を止めた。
旅の途中で会った老女の言葉を思い出す。
『分からないなら、これから探せばいいさ』
まったく同じではない。
それでも意味は似ていた。
知らないことは、恥ずかしいことではない。
これから知ればいい。
「……そうですね」
シアの声が少し柔らかくなる。
「これから、探してみます」
「うん。甘いのが好きだったら、その店教えるよ」
「ミレイユさんは、かなりお好きなのですね」
「かなり好き」
即答だった。
シアはまた笑った。
「覚えておきます」
「そこまで覚えなくていいよ」
「でも、お客様の好みを覚えるのは仕事ですから」
「じゃあ、蜂蜜パンを切らさないようにしておいて」
「それはオットーさんと相談します」
「そこは約束してくれないんだ」
「できない約束はしない方がいいと思います」
「本当に真面目だなあ」
今度の「真面目」は、不思議と嫌ではなかった。
ミレイユは包みを抱え直す。
「じゃあ、仕事戻るね」
「はい。お気をつけて」
「また来る」
昨日と同じ言葉だった。
けれど今日は、シアも迷わず返せた。
「お待ちしています」
ミレイユが店を出ていく。
鐘の音が小さく残った。
シアはその音が消えるまで扉を見つめ、それから棚へ視線を戻した。
蜂蜜パンが三つ減っている。
「気に入られたね」
横からマルタの声がした。
「蜂蜜パンを、ですか?」
「それも」
「それも?」
シアが首を傾げる。
マルタは笑っただけで、答えなかった。
まだ二度来ただけの客だ。
それ以上の意味を持たせるには早すぎる。
けれど。
昨日より今日。
シアが誰かと話すときの表情は、ほんの少し柔らかくなっていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、シアはマルタと一緒に仕入れの確認をしていた。
「小麦粉は今週分なら足りるね。胡桃が少し減ってる」
「昨日より胡桃パンの売れ行きがよかったです。ローザさん以外にも午前中に三人買っていかれました」
「覚えてるの?」
「大体は」
「便利な頭だねえ」
マルタが感心する。
「ただ、記憶だけに頼るのはよくないと思います。売れた数を簡単に記録しておけば、次の仕入れ量を決めやすくなります」
「また帳面増える?」
「……増やしすぎでしょうか」
「オットーが泣くかもね」
「俺を勝手に泣かすな」
厨房から声が飛ぶ。
シアは思わず笑った。
「簡単なものにします」
「そうして。シアの帳面が増えすぎたら、今度は帳面を管理する帳面が必要になるよ」
「それは……確かに困りますね」
「そこは真面目に考えなくていいの!」
マルタが笑い、シアもつられて笑った。
そのとき、入口の外から甲高い声が聞こえた。
「危ない!」
続いて、何かが倒れる大きな音が響く。
シアの身体が反射的に強張った。
手にしていたペンが床へ落ちる。
胸の奥が急に狭くなり、呼吸が浅くなる。
考えるより先に、身体が昔へ戻ってしまう。
何かを壊した。
怒られる。
誰かが来る。
(違う)
分かっている。
自分は何もしていない。
音は外からだ。
それでも指先が冷たい。
「シア」
マルタの声が聞こえた。
シアは反射的に答えようとした。
「だい――」
大丈夫です。
いつもの言葉。
けれど。
途中で止めた。
大丈夫ではない。
今、怖かった。
「……少し、驚きました」
それだけを言う。
マルタはすぐに近づかなかった。
「うん」
少し離れた場所から答える。
「外で荷車が倒れたみたい。シアは何もしてないよ」
「……はい」
「座る?」
命令ではない。
選択だった。
シアは自分の呼吸を確かめた。
「少しだけ……座ってもいいですか?」
「もちろん」
椅子へ腰を下ろす。
胸元へ手を置き、ゆっくり息を吐く。
マルタは水を一杯用意し、机の端へ置いた。手渡そうとはせず、シアが自分で取れる位置に置くだけだった。
「ありがとうございます」
「うん」
外では誰かが倒れた荷車を起こしているらしく、何人もの声が聞こえている。
店の中は何も壊れていない。
誰も怒っていない。
自分は責められていない。
しばらくすると、呼吸が落ち着いてきた。
「……もう大丈夫だと思います」
シアが言う。
マルタはすぐに「じゃあ仕事へ戻って」とは言わなかった。
「本当に?」
尋ねられ。
シアは一度、自分の身体へ意識を向けた。
手の震え。
呼吸。
胸の苦しさ。
「……もう少しだけ、座っていたいです」
「そうしな」
それだけだった。
シアは水を一口飲んだ。
自分から。
休みたいと言えた。
その事実に気づくまで、少し時間がかかった。
(私、今……言えた)
大丈夫だと嘘をつかなかった。
怖かったとは、まだ言えなかった。
それでも「驚いた」と言えた。
そして。
もう少し休みたいと頼めた。
ほんの小さなことかもしれない。
けれどシアにとっては、家を出たときとはまた違う種類の一歩だった。
◇ ◇ ◇
夕方、仕事を終えたシアは二階へ戻る前に、店先から通りを眺めた。
昼に倒れた荷車はもうなく、石畳にはいつもの人の流れが戻っている。
向かいでは店じまいをする商人が看板を片づけ、隣ではローザが野菜へ布をかけていた。遠くからは夕刻を告げる鐘が聞こえ、焼きたてのパンの香りに、どこかの食堂から流れてくる煮込み料理の匂いが混ざっている。
この街へ来て、まだそれほど長くない。
それでも。
昨日と今日が繋がるようになってきた。
朝になればオットーが窯へ火を入れる。
マルタが店を開ける。
ハロルドが黒麦パンを買いに来る。
ローザが隣から顔を出す。
ニコが走ってきて怒られる。
そして今日は、昨日来たミレイユが本当にもう一度来た。
「また来る」
そう言った人が。
本当にまた来る。
それは、シアにとって思っていた以上に不思議なことだった。
ベルフォード家では、約束より命令の方が多かった。
ディートリヒとの婚約だって、将来を約束するものだったはずなのに、本人の知らないところで終わることが決まっていた。
けれど。
この街で交わされる「また明日」や「また来る」は、とても軽い。
軽いからこそ。
守られたときに嬉しい。
「シアちゃん?」
隣からローザに呼ばれ、シアは顔を上げた。
「はい」
「何ぼーっとしてるの?」
「少し考え事をしていました」
「また難しい帳簿?」
「いいえ」
シアは首を振った。
「明日も、同じ人たちが来るのかなと思って」
ローザは一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「来るんじゃない? パン屋なんだから」
「そうですね」
「私も来るよ」
「はい」
「ハロルド爺さんも来るだろうし、ニコも母親に頼まれたら走ってくるよ。あの子、また店の中まで走ったらマルタに怒られるだろうけど」
シアは小さく笑った。
「今日来た騎士の人も、また来るかもしれないね」
「ミレイユさんですか?」
「名前まで覚えたの?」
「教えていただきましたので」
「へえ」
ローザが意味ありげにシアを見る。
「何ですか?」
「別に」
「……?」
シアには分からない。
ローザもそれ以上は言わなかった。
まだ何も始まっていないのだから。
ただの客。
ただの店員。
昨日初めて会い、今日もう一度話しただけ。
それで十分だった。
「では、お先に失礼します」
「お疲れさま」
「ローザさんも、お疲れさまです」
二階へ向かおうとして。
シアは一度だけ振り返った。
店。
通り。
隣の青果店。
行き交う人たち。
この街には、シアの過去を知る者がほとんどいない。
だからこそ、今の自分を見てもらえる。
伯爵令嬢だからでも。
婚約を破棄された女だからでも。
妹に婚約者を奪われた姉だからでもない。
パン屋で働いているシアとして。
その夜、自分の部屋へ戻ったシアは、机の上に置いてある小さな布包みへ目を向けた。
初めての給金から取り分けた、自分のために使ってみようと決めた金だった。
休みの日になったら、空色の髪紐を見に行く。
もし売れてしまっていたら、別のものを探してみてもいい。
欲しいものが見つからなければ、何も買わなくてもいい。
自分で決めればいい。
シアは窓を少し開けた。
夜の領都から、遠く人々の話し声が聞こえてくる。
「……明日も」
言いかけてから、少し考える。
以前なら、明日が来ることはただ次の仕事が始まることだった。
今は違う。
「明日も、楽しみ」
小さく口にすると、胸の奥が温かくなった。
ミレイユが来るかどうかは分からない。
ニコが来るかもしれないし、ローザやハロルドとはきっと顔を合わせるだろう。
誰が来ても。
誰が来なくても。
明日には、自分が選んだ仕事がある。
少しずつ覚えてきた街がある。
そして、自分の名前を呼んでくれる人たちがいる。
シアは窓を閉めると、明日の始業時間を確かめてから灯りを落とした。
まだ、自分の居場所だと言い切る勇気はない。
それでも、この小さなパン屋で迎える朝を、もう怖いとは思わなくなり始めていた。




