第7話 初めてのお給金
パン屋で働き始めてから、シアの朝は少しずつ決まった形を持つようになっていた。
最初の日こそ、決められた時間より二十分も早く厨房へ降りてしまったが、翌日からはオットーに言われた通り、きちんと始業時間に合わせて部屋を出ている。以前から染みついた習慣のせいで早く目を覚ましてしまうことはあったものの、そのまま仕事を始めるのではなく、顔を洗って髪を整え、窓からまだ薄暗い領都を眺めながら時間を待つようになった。
それは、シアが想像していた以上に難しいことだった。
仕事があると分かっているのに、何もしないで待っている。廊下に小さな埃を見つければ拭きたくなり、階下から物音が聞こえれば、自分も手伝わなければならないような焦りが胸の奥から湧いてくる。
(仕事があるのに、何もしなくていいの……?)
頭では理解しているつもりでも、長年かけて身体へ染みついた習慣は、数日程度ではなくなってくれない。
そんなときは、オットーに言われた言葉を思い出すことにしていた。
『働く時間じゃないならな』
そして、マルタも言っていた。
『働いてもらうなら、こっちにも守ることがあるんだよ』
働く時間と休む時間が分かれていることも、雇われる側だけでなく雇う側にも守るものがあることも、以前のシアには馴染みのない考え方だった。それでも、分からないからこそ覚えていけばいいのだと、少しずつ考えられるようになっている。
だから今朝も、壁掛け時計の針を何度か確かめ、始業時間になってから階段を下りた。
「おはようございます」
厨房へ入ると、オットーはすでに窯の火加減を見ていた。赤々と燃える薪の熱が朝の冷えた空気を押し返し、作業台には発酵を終えた生地が布をかけられて並んでいる。
「おう」
返ってきたのは、最初の朝と変わらない低い声だった。
以前なら、それだけでも身体が勝手に強張っていたかもしれない。今も突然大きな音がすれば肩は跳ねるし、厨房の奥からオットーの太い声が飛んでくれば、胸の奥が一瞬縮むことはある。
けれど、その反応が起きるたび、シアは少しずつ思い出せるようになっていた。
(ここでは、殴られない)
失敗すれば何が悪かったのかを確認され、分からなければ教えてもらえる。注意されることはあっても、それと人格を否定されたり、身体を傷つけられたりすることは同じではない。
「今日は昨日よりいい時間だな」
「はい。きちんと時計を確認してから来ました」
「それでいい」
オットーが何気なく頷いただけで、シアの胸には小さな満足感が生まれた。褒められたというほど大げさなものではないのに、自分が一つ覚えたことを、そのまま認めてもらえたことが嬉しかった。
「今日は何から始めればいいでしょうか」
「昨日と同じ丸パンだ。ただし、今日は成形を全部お前がやってみろ」
「全部……ですか?」
シアは作業台へ視線を向けた。
布の下には、昨日より明らかに多くの生地が用意されている。何度か成形を経験したとはいえ、まだ形にわずかなばらつきが出ることもあった。
「嫌なら半分でもいい」
「嫌ではありません。ただ……全部きれいにできるかどうかは、まだ分かりません」
口にしてから、シア自身がその言葉に驚いた。
以前の自分なら、できるかどうかに関係なく「できます」と答えていただろう。できない可能性を口にすれば、その時点で役立たずだと思われる気がしていたし、実際にできなければ叱責されるのだから、最初から選択肢などなかった。
ところが、オットーは怒るどころか、生地へ向けていた手を止めてシアを見たあと、真面目な顔で言った。
「最初から全部きれいにできたら、俺が困る」
「どうしてですか?」
「俺が何十年もかけて覚えた仕事を、七日も経たずに全部できるようになられたら立場がない」
思いがけない返答に、シアの口元が自然と緩んだ。
「では今日は、オットーさんの立場を守れる程度に頑張ります」
「お前、少し言うようになったな」
しまった、とシアは一瞬思った。
「……失礼でしたか?」
「いや、そのくらいでいい」
オットーもわずかに口元を緩めると、最初の生地をシアの前へ置いた。
パン屋で働き始めて、今日で七日目になる。
一か月の試用期間はまだ四分の一にも達していない。それでもシアは、この場所ではどう話し、どう働き、どう休めばいいのかを、本当に少しずつではあるものの覚え始めていた。
◇ ◇ ◇
一週間も店に立っていると、毎日のように訪れる客の顔も少しずつ分かるようになってきた。
毎朝決まって黒麦パンを二つ買う老人がいれば、仕事へ向かう途中に丸パンを四つ買っていく大工もいる。昼前には幼い子どもの手を引いた母親が訪れ、隣で青果店を営むローザも、仕事の合間を見つけては店へ顔を出していた。
「シアちゃん、胡桃パン残ってる?」
昼前、聞き慣れ始めた声とともにローザが入ってきた。
「はい。あと六つあります」
「じゃあ二つちょうだい」
「ありがとうございます」
シアは棚から胡桃パンを二つ取り、形を崩さないよう紙で包んだ。値段を確かめるために札を見る必要も、もうほとんどなくなっている。
「銅貨十八枚です」
「はいよ」
ローザから受け取った硬貨を手早く数え、金額に間違いがないことを確かめてから会計箱へ収める。
「ちょうどいただきました。ありがとうございます」
「もうすっかり店の人だねえ」
何気なく投げかけられた言葉に、シアの手が止まった。
「店の……人?」
「違うの?」
ローザは不思議そうに首を傾げたあと、すぐに笑った。
「毎朝ここにいて、パンを並べて、お客さんに売ってるんだから、店の人でしょう」
「あ……はい」
言われてみれば、当たり前のことだった。
それなのに、その短い言葉が妙に胸へ残った。
ベルフォード伯爵家の娘ではない。リリアナの姉でもなく、ディートリヒの元婚約者でもない。この街では誰もシアをそう呼ばず、彼女がどの家に生まれたのかを知ろうともしない。
ここにいる自分は、パン屋で働くシア。
それだけでいい。
「どうしたの?」
「いえ……嬉しいなと思って」
正直に答えると、ローザは少し目を丸くした。
「店の人って言われただけで?」
「はい」
「変な子だねえ」
「すみ――」
口から出かけた言葉を、シアは途中で止めた。
ローザの眉がぴくりと動き、すぐに楽しそうな笑みへ変わる。
「今、止めたね」
「……はい」
「マルタに言われた?」
「それもあります」
「それも?」
尋ねられたシアは、少しだけ考えた。
これまでなら、自分のことを他人へ話すのは怖かった。何を言えば責められるのか分からず、できるだけ相手が望みそうな返事だけを選んできた。
けれど、今口にしようとしていることは、誰かに言わされたものではない。
「何でも謝るのは、少しずつやめようと思っています」
自分の声でそう言ってみると、不思議な感覚が胸に残った。
何でも謝らない。
そんなことを自分の目標として考える日が来るとは、少し前まで想像すらしていなかった。
ローザは笑うことも、理由を尋ねることもしなかった。
「そりゃいいね。謝らなくていいことで謝ってたら、本当に謝らなきゃいけないときに疲れちゃうよ」
「……そういう考え方もあるのですね」
「あるある。じゃあ、明日もまた来るよ」
「はい。お待ちしています」
ローザが店を出ると、入口の鐘が軽やかな音を残した。
その後ろ姿を見送りながら、シアは胸の内側に残った小さな温かさを、しばらくそのまま感じていた。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎたころ、店の扉が勢いよく開き、十歳ほどの少年が飛び込んできた。
赤茶色の髪は走ってきたせいであちこちへ跳ね、片手には使い込まれた布袋を握っている。
「マルタおばさん!」
「店の中では走らない!」
厨房から飛んできた声に、少年は慌てて足を止めた。靴底が床を擦り、危うく棚へぶつかりそうになったところで踏みとどまる。
「ごめんなさい!」
「はい。それで、今日は何?」
「母ちゃんが丸パン六個だって!」
「じゃあ、シア。お願い」
「はい」
シアが少年へ向き直ると、彼は初めて気づいたようにこちらを見上げた。
「丸パンを六つですね」
「うん! ……お姉ちゃん、新しい人?」
「はい。シアといいます」
「俺、ニコ!」
尋ねられてもいないのに、少年は誇らしげに胸を張った。
「向こうの通りの靴屋の息子! 父ちゃんが靴作って、母ちゃんが売ってる。俺も手伝うんだ」
「そうなのですね。偉いですね」
「だろ?」
得意げに鼻を鳴らしたニコは、今度は棚へ視線を移した。
「お姉ちゃんもパン作るの?」
「まだ練習中ですが、少しずつ作らせてもらっています」
「じゃあ、どれがお姉ちゃんの?」
「私が作ったもの、ですか?」
「うん」
シアは棚を見た。
今朝、自分が成形した丸パンもすでに商品として並んでいる。焼いたのはオットーなので見た目だけではほとんど区別できないが、端の一列は間違いなく自分が形を整えたものだった。
「あちらの一列です」
指を向けると、ニコは棚へ近づき、じっと丸パンを見比べた。
「普通だね」
「……普通ですか?」
「うん。普通のパン」
あまりにも率直な感想だったため、シアはどう返せばいいのか分からず目を瞬いた。
厨房から様子を見ていたマルタが吹き出す。
「最高の褒め言葉じゃない」
「そうなのでしょうか?」
「パン屋の棚に並んでるものを見て『普通にパンだ』って言ってもらえたんだから、ちゃんと商品になってるってことでしょう」
「なるほど……」
そう考えると、急に嬉しくなった。
ニコはさらに棚を見比べたあと、シアが成形した一列を指さした。
「じゃあ今日は、お姉ちゃんのにする」
「同じ値段ですよ?」
「知ってるよ!」
「あ……そうですよね」
シアは思わず笑いながら、自分が成形した丸パンを六つ紙へ包んだ。ニコから代金を受け取って釣り銭を返し、布袋へ収めやすいよう包みを渡す。
「ありがとうございました」
「明日も作る?」
「はい。たぶん作ると思います」
「じゃあ、また来る!」
元気よく返事をしたニコは、今度こそマルタに怒られないよう、店の出口までは慎重に歩いていった。
ところが、扉を抜けた途端に全力で駆け出していく。
「まったく、あの子は。明日また同じこと言わせる気だね」
マルタが呆れたように笑った。
シアは扉の向こうへ消えていった小さな背中を見つめながら、胸の奥に生まれたくすぐったいような感覚へそっと触れる。
「……嬉しいですね」
「何が?」
「自分が作ったものを、誰かに選んでもらえることがです」
マルタが少し意外そうな顔をした。
「刺繍を売ったことがあるって言ってなかった?」
面接の際、逃亡資金について詳しく話したわけではない。それでも裁縫が得意で、以前は自分で作ったものを売った経験もあることは伝えていた。
「作ったものを売ったことはあります。でも、誰が使うのかはほとんど知りませんでした」
商人へ品物を渡し、代金を受け取れば、それで終わりだった。
ベルフォード家で作らされたものに至っては、自分の名前すら残らないことが多かった。リリアナがディートリヒへ渡そうとしていた刺繍のように、作るのはシアでも、渡すのも褒められるのも別の人間だった。
「だから……少し不思議なんです。私が作ったと知っている人が、それを選んでくれることが」
シアは丸パンが六つ減った棚を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「私が作ったものだと知ったうえで欲しいと言ってもらえたのは、もしかしたら初めてかもしれません」
マルタはすぐには答えなかった。
隣に立つ少女の横顔を、静かに見つめる。
十八歳と聞いている。
初めて会ったときから、年齢に似合わないほど落ち着いた娘だとは思っていた。読み書きも計算もでき、帳簿まで扱えるうえ、料理も裁縫も掃除も一通りこなす。働き始めて一週間も経たないうちに、店の流れまでかなり理解してしまった。
ところが、誰かから褒められたり、自分の仕事を認められたりしたときだけ、シアはひどく無防備な表情を見せることがある。
嬉しいことを嬉しいと感じることそのものに、まだ慣れていないような顔だった。
(どんな家で暮らしてきたんだろうね)
マルタの胸に疑問が浮かんだが、口には出さなかった。
婚約者が妹を選び、家を出てきたことは聞いている。それ以上のことをシアが自分から話さないのなら、こちらから無理に過去を暴く必要はない。
「だったら、これからはたくさん見られるよ」
「え?」
「ここはパン屋なんだから、自分が作ったものを誰が買って、どんな顔で持って帰るのか、毎日見られるでしょう?」
シアの目がわずかに見開かれた。
その言葉を噛みしめるように少し黙ったあと、柔らかな笑みを浮かべる。
「……はい。そうですね」
◇ ◇ ◇
午後になって客足が落ち着くと、シアは店の奥で注文帳の整理を続けた。
以前から作り始めていた定期注文の一覧表は、すでにかなり形になっている。銀鹿亭や赤い鍋亭をはじめ、商会、小さな食堂、定期的にまとめ買いする家庭などを分け、曜日ごとの注文数と必要になる材料の概算まで書き加えていた。
オットーが横から紙を覗き込む。
「これなら明日の分がすぐ分かるな」
「はい。ただ、季節によって注文数が変わるお店もあると思いますので、固定した表にするのではなく、必要に応じて書き換えられる形にした方がいいと思います」
「赤い鍋亭は冬になると増えるぞ」
「どのくらいでしょうか」
「黒麦パンが五つくらい増えるな。寒くなると煮込みと一緒に出す量が増えるらしい」
シアは余白へその情報を書き加えた。
「銀鹿亭はいかがですか?」
「商人が増える時期は、白パンが十くらい増えることもある」
「その時期は毎年おおよそ決まっていますか?」
「大体はな」
二人で話していると、店側から戻ってきたマルタが古い帳面を一冊抱えてきた。
「それなら、去年の注文記録も見る?」
「残してあるのですか?」
「捨てる理由もないからね」
差し出された帳面を受け取った途端、シアの表情が明るくなった。
「見せていただいてもいいですか?」
「もちろん。そのために持ってきたんだから」
頁を開けば、そこには日付、品目、数量、注文先が並んでいる。シアの視線は自然と数字を追い、現在の注文帳との違いを探し始めた。
「……なるほど」
「何か分かる?」
「まだ少しだけですが、昨年の同じ時期と比べると、銀鹿亭の注文はこの月から増えています。赤い鍋亭も似ていますが、こちらは少し時期がずれていますね」
さらに頁をめくっていくと、個人客向けの菓子パンが急激に増えている時期があった。
「この時期、何か大きなお祭りがありますか?」
マルタが目を丸くする。
「あるよ。秋穫祭」
「やはりそうなのですね。このあたりで菓子パンの販売数がかなり増えています」
「よく分かったね」
「数字が急に変わっていますから。もし仕入れの記録も残っているなら、そちらと合わせれば、どのくらい材料を増やせばいいのかも分かると思います」
オットーが棚から仕入れ帳を取り出し、机へ置いた。
シアは許可を得てから帳面を開き、前年の同じ時期を確認する。
「……祭りの直前、小麦粉の仕入れ価格が上がっていますね」
「そんなことまで書いてあるか?」
「はい。普段より高い値段で追加購入しています。もし毎年同じ傾向なら、今年は少し早めに必要量を見積もって仕入れておけば、直前に高い価格で買い足す量を減らせるかもしれません」
オットーは仕入れ帳を覗き込み、しばらく唸った。
「お前、いつ去年の記録まで見た?」
「昨日の休憩が終わってからです」
そう答えると、オットーはじっとシアを見る。
「休憩中じゃないだろうな」
「……きちんと休憩が終わってからです」
「ならいい」
疑われたのが仕事の内容ではなく、休憩を守ったかどうかだったことに気づき、シアは思わず笑ってしまった。
「何だ」
「いえ。オットーさんは、私が働いていないと怒るのではなく、働きすぎると怒るのだなと思いまして」
「当たり前だ。決めた時間に働いて、決めた時間に休め」
「まだ少し慣れません」
「そのうち慣れろ」
「はい」
以前なら、「慣れろ」と言われることすら命令のように感じていただろう。
けれど今は、その言葉の奥にある意味が少しだけ分かる。
ここでの暮らし方を覚えていけばいい。
マルタは二人のやり取りを聞きながら、腰へ手を当てた。
「でも秋穫祭か。今年はどうしようかね」
「何か問題があるのですか?」
「毎年すごく忙しいのよ。売れるのはありがたいんだけど、人手が足りなくてね」
その言葉を聞いたオットーがシアを見る。
続いてマルタも同じようにシアへ視線を向けたため、二人から同時に見られたシアは戸惑って首を傾げた。
「……何でしょうか?」
「今年は一人いるな」
「いるね」
夫婦が当然のように頷き合う。
「ですが、私はまだ試用期間中です」
「祭りまでには終わってるよ」
マルタは何でもないことのように答えた。
シアはすぐには返事ができなかった。
一か月の試用期間が終わったあとも、自分がここで働いていることを、二人は自然に想定している。
もちろん、正式に採用すると言われたわけではない。試用期間中に何か大きな失敗をすれば、話が変わる可能性だってある。
それでも、自分の未来を誰かが当然のようにここへ置いてくれたことが、胸の奥を静かに温めた。
(ここに、いてもいいのかな)
そう尋ねたい気持ちが浮かんだものの、まだ口には出せなかった。
代わりにシアは古い帳面へ視線を戻し、少しだけ明るい声で尋ねた。
「秋穫祭について、もう少し教えていただけますか? どのようなパンがよく売れるのかも知りたいです」
「もちろん。今年は去年より少し楽になるかもしれないね」
マルタの笑顔を見ながら、シアも小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
夕方になり、最後の客を見送ったシアは店先を掃いていた。
西へ傾いた日差しが通りを橙色に染め、向かいの建物の窓へ反射している。昼間の賑わいは少しずつ落ち着き、周囲の商店でも売れ残った商品を片づけたり、店先の看板をしまったりする姿が増えていた。
隣の青果店では、ローザが野菜を木箱へ戻している。
「シアちゃん」
呼ばれて振り向くと、ローザが小さな林檎を一つ持ち上げていた。
「これ、持ってく?」
「……林檎ですか?」
「ちょっと傷がついてて売り物にならないの。味は変わらないから、よかったら食べな」
シアは反射的に首を振りかけた。
「でも、お金を――」
「いらないよ。どうせ残ったら、うちで食べるか煮るかするんだから」
「ですが、商品だったものを無料でいただくのは……」
「じゃあ今度パンを買うとき、愛想よくしてくれればそれでいい」
冗談めかしてローザが笑った。
けれど、シアはすぐに手を伸ばすことができなかった。
何かを無料で受け取るというだけで、身体のどこかが警戒する。受け取ったあとで何を求められるのか、どの程度のものを返せばいいのかと考えてしまう。
そんなシアの様子を見たローザは、林檎を押しつけようとはしなかった。
「嫌なら無理に持っていかなくてもいいよ」
その言葉で、シアは顔を上げた。
断ってもいい。
受け取ってもいい。
どちらを選んでも、相手の機嫌を損ねるわけではない。
シアは少し迷ったあと、両手を差し出した。
「……では、いただきます」
「はいよ」
掌へ載せられた林檎は小さく、片側には確かに傷があった。それでも赤い皮からは甘い香りが漂っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ローザは本当にそれ以上何も求めず、自分の店の片づけへ戻っていった。
シアは手の中の林檎をしばらく眺めた。
一週間前なら、受け取れなかったかもしれない。
仮に受け取ったとしても、同じ価値のものをすぐ返さなければならないと焦っていただろう。今だって、そうした気持ちが完全になくなったわけではない。
(ありがとうだけで……いいのかな)
まだ確信は持てない。
それでも今日は、そうしてみようと思えた。
◇ ◇ ◇
店内の掃除を終えると、マルタから声をかけられた。
「シア、ちょっとこっちへ来てくれる?」
「はい」
返事をしながら振り向いた瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。
何か間違えただろうか。
今日の会計、注文帳、厨房での作業、客への対応と、一日の行動を頭の中で確かめ始める。思い当たる大きな失敗はないはずなのに、「呼ばれる」というだけで、身体はまだ叱責を予想してしまう。
「そこ座って」
案内されたのは、店の奥にある小さな机だった。
シアが椅子へ腰掛けると、向かいにはマルタが座り、オットーもその横に立っている。
二人揃っているのを見た途端、手のひらが少し冷たくなった。
(何か、してしまった?)
「あの……」
「何?」
「私、何か――」
「給金」
マルタがそう言って、小さな布袋を机の上へ置いた。
硬貨同士が触れ合う音がする。
シアは途中まで開いていた口を閉じ、布袋を見つめた。
「……え?」
「今日で働き始めて七日でしょう。週払いって最初に説明したじゃない」
「……はい」
「一週間分のお給金」
給金という制度そのものを知らないわけではない。
働けば金をもらう。自分もその条件を確認したうえで、この店で働き始めた。だから今日、給金を受け取ることも頭では理解していたはずだった。
それなのに、実際に自分の前へ布袋が置かれると、すぐには手を伸ばせなかった。
「これが……私の?」
「そうだよ。まず数えて」
「私が数えるのですか?」
「自分の給金なんだから、自分で確認するの」
シアは恐る恐る布袋を手に取った。
掌へ伝わる硬貨の重みを感じながら紐をほどき、中身を机へ並べていく。一枚ずつ数えると、最初に提示されていた一週間分の金額ときちんと一致した。
「……合っています」
「じゃあ、受領の印をお願い」
マルタが帳面を差し出す。
シアはペンを持ち、指定された場所へ名前を書いた。
――シア。
家名はない。
エリシア・ベルフォードとして受け取る金ではなく、伯爵家の娘だから与えられた金でもない。誰かから与えられた祝い金でも、使いへ出された際に受け取った心付けでもなく、商人へ人目を避けて刺繍を渡した代金とも違う。
パン屋で働くシアが、七日間働いた対価として受け取った金だった。
名前を書き終えた指先が、わずかに震えた。
「シア?」
「……はい」
「どうしたの? 金額、少なかった?」
「違います」
シアは慌てて首を振った。
「そうではなくて……その……」
何を感じているのか、自分でも上手く説明できなかった。
嬉しいのは間違いない。
けれど、安心もあれば驚きもあり、本当に自分のものにしてよいのだろうかという怖さまで混ざっている。いくつもの感情が胸の内側で絡まり合い、適切な言葉を見つけられなかった。
しばらく布袋を見つめたあと、シアはようやく尋ねた。
「私が……使っていいのですよね」
マルタの眉がわずかに寄った。
「給金なんだから、もちろん」
「全部、ですか?」
「全部」
「何を買っても?」
「借金でもあるの?」
「ありません」
「なら、貯めてもいいし、必要なものを買ってもいいし、好きなものに使ってもいい。シアが働いて受け取ったお金なんだから、使い道を私たちに聞く必要はないよ」
シアは机の上に並んだ硬貨へ視線を落とした。
逃げるために蓄えていた金も、自分で得たものには違いない。
ただ、あの金にはいつも秘密と恐怖が付きまとっていた。
見つかってはいけない。
取り上げられてはいけない。
いつか逃げる日のために残しておかなければならない。
けれど、目の前にある金は違う。
誰にも隠さず働き、誰にも隠さず受け取った。
これから自分が生きていくための金だった。
「……ありがとうございます」
シアが深く頭を下げると、マルタは困ったように笑った。
「私たちにお礼を言うことじゃないよ。働いたんだから」
「でも……」
「働いた分を払う。当たり前でしょう?」
また、その言葉だった。
当たり前。
この店へ来てから、何度も聞いている。
シアがこれまで知らなかった当たり前を、マルタもオットーも特別な善意のようには語らない。
「……はい」
シアは布袋を両手で包み込んだ。
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
今はまだ、その温かさを何と呼べばいいのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
給金を受け取ったシアが二階へ戻ったあと、マルタは受領帳を閉じた。
「ねえ、オットー」
「何だ」
「あの子、自分の給金を使っていいかって聞いたよ」
「聞いたな」
「普通、聞く?」
「聞かんだろうな」
オットーは短く答えながら、机の上に残った紙をまとめ始めた。
マルタは階段の方へ目を向ける。すでにシアの足音は聞こえなくなっていた。
「家を出てきたって言ってたよね」
「ああ」
「婚約者が妹を選んだとも言ってた」
「ああ」
「たぶん、それだけじゃないよね」
オットーはすぐには答えず、大きな手で机の上に落ちていたパン屑を集めた。
「だろうな」
「聞かない方がいいと思う?」
「本人が話したくなったら話すだろ。それまではいい」
「……そうだね」
マルタは静かに頷いた。
気にならないわけではない。
働きすぎることを当然だと思い、自分の給金を自由に使っていいのかさえ確認する。突然の大きな音に身体を強張らせることもあれば、何でもないことで反射的に謝ろうとすることもある。
心配だからこそ、事情を知りたいと思う。
けれど、心配することと、本人が閉じている扉を勝手に開けることは違う。
「それより、仕事はどう思う?」
オットーが尋ねた。
「何が?」
「あいつを正式に雇うかどうかだ」
「まだ一週間だよ」
「だから、今のところどう思ってるか聞いてる」
マルタは腕を組んだ。
接客も問題ない。
計算は早く、会計の間違いもない。掃除や厨房補助も丁寧で、帳簿や注文整理については、むしろ店の方が助けられ始めている。
覚える速度も十分すぎるほどだった。
「私は、このままなら正式に雇いたいよ。むしろ、働きすぎようとすることの方が心配なくらい」
「俺もだ」
「珍しく意見が合ったね」
「毎日合ってるだろ」
「どこが?」
「昨日だって――」
いつものように夫婦の小さな言い合いが始まる。
けれど二人とも、その会話をシアが聞いていないことは分かっていた。
だから、まだ本人には伝えない。
一か月の試用期間という約束を、途中で曖昧にする必要もない。
ただ、店の二階にある小さな一室には、少しずつシアの生活が根を下ろし始めていた。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ったシアは、机の上へ給金を並べていた。
一度店で確認したにもかかわらず、もう一度数えてみる。当然ながら金額は変わらず、最初に説明された通りの額がそこにある。
逃亡資金として持ってきた金は、今も三か所へ分けて保管していた。長い旅で使った分だけ減ってはいるものの、すぐに生活できなくなるような状態ではない。
今日受け取った給金も、そのまま貯蓄へ加えることはできる。
(全部、貯めておいた方がいいのかな)
そうすれば安心できる。
いつ何が起こるか分からない。父が自分を見つけるかもしれず、ディートリヒが追ってくる可能性も完全には否定できない。仕事を失うかもしれないし、病気になれば働けなくなる。
生きていくために金は必要なのだから、できるだけ多く残しておくという考え自体は間違っていない。
けれど、机の端にはローザからもらった小さな林檎が置かれていた。
それを見た瞬間、旅の途中で初めて自分のために買ったものを思い出す。
必要だからではなく、自分が食べてみたいと思ったから買った、小さな甘いもの。
代金を払った直後は不安になった。
こんなことに金を使ってよかったのだろうかと、何度も考えた。
それでも、食べたときは嬉しかった。
「……全部じゃなくてもいいのよね」
誰に聞かせるでもなく、シアは小さく呟いた。
給金の大半は貯めればいい。
そのうえで、ほんの少しだけ自分のために使ってみる。
そう決めたところで、今度は別の問題にぶつかった。
(私は……何が欲しいんだろう)
服はある。
靴もまだ履ける。
石鹸も残っているし、裁縫道具も持ってきた。食事は店で出してもらえるため、今すぐ買わなければ困るものはほとんどない。
必要なものを考えれば、すぐに答えられる。
ところが、「欲しいもの」と聞かれると、何も浮かばなくなる。
十八年生きてきた。
それなのに、自分が何を欲しいのかを自分で考えることが、こんなにも難しい。
しばらく机へ頬杖をつきながら考えているうちに、ふと一つの光景が浮かんだ。
朝、店の仕事で通りへ出たとき、小さな露店の前を通った。
そこには色とりどりの髪紐が並んでいた。鮮やかな赤や深い緑、柔らかな黄色などが風に揺れる中で、一つだけ目に残ったものがある。
淡い空色の髪紐だった。
別に必要ではない。
今使っている地味な髪紐でも、髪はきちんとまとめられる。
仕事に支障もない。
だからこそ。
それは「必要だから買うもの」ではなかった。
「……欲しい、のかな」
声に出してみる。
自分でもよく分からない。
けれど、思い出したとき、もう一度見てみたいと思った。
シアは給金の中から銅貨を数枚だけ取り分け、小さな布へ包んだ。
明日も仕事がある。
その次の日も働く。
休みの日まではまだ少しあるけれど、もしそのときまで売れずに残っていたら、もう一度見に行ってみよう。
買うかどうかは、そのとき決めればいい。
そう考えて布を結ぶだけで、胸の奥が少し高鳴った。
何を買うかではない。
自分の欲しいものを、自分で探しに行く。
その予定ができたこと自体が、シアには新鮮だった。
◇ ◇ ◇
翌朝も、パン屋にはいつもと同じように一日が訪れた。
窯へ火が入り、発酵を終えた生地が作業台へ並べられ、焼き上がるパンの香ばしい匂いが厨房から店内へ流れていく。シアは丸パンの成形を終えると店頭へ商品を並べ、開店後はマルタと交代しながら客を迎えていた。
昼前になり、入口の鐘が澄んだ音を立てる。
「いらっしゃいませ」
いつものように顔を上げたシアは、入ってきた客を見てわずかに姿勢を正した。
二十歳を少し過ぎたくらいに見える若い女性だった。
肩口まで伸びた赤褐色の髪を邪魔にならないよう後ろで束ね、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。濃紺を基調とした服装は街で見かける女性たちの普段着とは明らかに違い、腰には実用的な剣が下げられていた。
胸元には銀色の徽章が留められている。
領都へ来てまだ日の浅いシアには、その意匠が何を意味するのか分からなかった。
ただ、剣を帯びている以上、少なくとも戦うことを仕事にしている人物なのだろうと考え、少しだけ緊張する。
ところが、その女性は店内へ一歩入ったところで足を止めると、鼻先をわずかに動かした。
「……いい匂い」
漏れた声には、凛々しい姿から受ける印象とは少し違う、純粋な喜びが滲んでいた。
女性の視線が棚から棚へ忙しく移っていく。
その様子を見ているうちに、シアの緊張も少しだけ和らいだ。
「何かお探しでしょうか?」
声をかけると、女性はシアの方へ振り向いた。
「あ、ごめんなさい。初めて入ったから、どれにしようか迷ってしまって」
「甘いものと、食事向けのものでは種類が違います。お好みがあればご案内します」
「甘いもの」
返答は驚くほど早かった。
「できれば、ちゃんと甘いやつ」
真剣な顔で言われ、シアは少しだけ目を瞬いた。
「でしたら、こちらの蜂蜜パンはいかがでしょうか。今日焼いたものです」
「蜂蜜パン?」
女性の視線が、シアの指した棚へ吸い寄せられる。
そこには艶のある焼き色をつけた、小ぶりのパンが並んでいた。
「はい。生地そのものを極端に甘くするのではなく、焼き上がりに蜂蜜を薄く塗っていますので、香りも楽しめると思います」
「甘い?」
「はい。ただ、蜂蜜の風味を残すため、砂糖菓子のように強い甘さでは――」
「それ、二つください」
説明を最後まで聞くより早く注文され、シアは一瞬きょとんとした。
女性の視線は、もう蜂蜜パンから動かない。
「……かしこまりました」
思わず微笑みながら、シアは蜂蜜パンを二つ取った。
「すぐ食べても大丈夫?」
「もちろんです。むしろ今日はまだ焼いてからそれほど時間が経っていませんので、今の方が柔らかいと思います」
「じゃあ一つ、今食べようかな」
会計を済ませると、女性は受け取った包みから早速一つ取り出した。
シアが止める間もなく小さくかじり、その瞬間、琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
「……おいしい」
あまりにも素直な反応だった。
シアの胸に、先ほどニコへパンを渡したときと似た温かさが広がる。
「ありがとうございます」
「これ、あなたが作ったの?」
「生地と焼き上げはオットーさんです。私は仕上げを少し手伝っただけです」
「そっか。でも、おいしい」
「オットーさんに伝えておきます」
女性は二口目を食べながら、店の奥を興味深そうに眺めた。
「ここ、前からあった?」
「私は働き始めたばかりなので、以前のことは詳しくなくて……」
「あ、そうなんだ」
「はい。まだ一週間ほどです」
「へえ。それなのに、ずいぶん店員さんらしいね」
昨日ローザから言われたものと似た言葉だった。
今度は戸惑うより先に、少しだけ嬉しくなる。
「ありがとうございます」
シアは素直に礼を言った。
女性は蜂蜜パンを食べながら、そんなシアを何気なく見ていた。
丁寧な娘だと思った。
ただ、貴族屋敷の使用人のように隙なく整えられた丁寧さとも少し違う。客に対して礼儀正しくしているというより、何か一つ言葉を間違えないよう慎重に選んでいるようにも見えた。
その一方で、パンの説明をするときには少し表情が柔らかくなる。
(働き始めて一週間、か)
女性はそう思ったものの、特に事情を尋ねようとはしなかった。
美味しいパンを見つけた。
今はそれで十分だった。
「また来てもいい?」
突然そう尋ねられ、シアは少し驚いた。
「もちろんです。お店ですから」
「それもそうか」
女性は楽しそうに笑った。
「じゃあ、また来る」
「はい。お待ちしています」
入口へ向かいかけた女性が、ふと思い出したように振り返る。
「そういえば、あなたの名前は?」
「シアです」
今では、その名前を口にするときに迷うことはなくなっていた。
「シアね。私はミレイユ」
女性は胸元の銀色の徽章へ軽く指を触れた。
「ミレイユ・クローデル。アルヴェイン公爵家の騎士団で働いてる」
シアは目を見開いた。
やはり、腰の剣は飾りではなかったらしい。
「騎士様だったのですね」
「その『様』はいらないよ。パンを買いに来てるだけだから」
「ですが……」
「店では客と店員。それでいいでしょう?」
そう言って笑うミレイユに、シアは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……分かりました、ミレイユさん」
「うん。それならいい」
満足そうに頷いたミレイユは、残った蜂蜜パンの包みを大事そうに抱えたまま店を出ていった。
入口の鐘が鳴り、再び店内へいつもの空気が戻る。
シアは扉を見つめたあと、空いた蜂蜜パンの場所へ新しい商品を並べた。
「騎士の方も、甘いものがお好きなのですね」
思わず漏れた呟きを聞きつけ、奥からマルタが顔を出した。
「人によるんじゃない?」
「そうですよね」
シアは少し恥ずかしくなりながら笑った。
このときの彼女にとって、ミレイユ・クローデルは、蜂蜜パンをとても美味しそうに食べてくれた最初の騎士客でしかなかった。
ミレイユにとっても、シアは新しく見つけたパン屋で働く、少し丁寧すぎる若い店員にすぎない。
友人と呼べるようなものは、二人の間にはまだ何もない。
それでも、翌日になればまたパンを買いに来るかもしれないと思える程度の、小さな縁だけは生まれていた。
家族でも、婚約者でもなく、身分によって押しつけられた関係でもない。
互いにまだ何も知らないところから始まる関係を、シアはこれから初めて知っていくことになる。
そしてその始まりは、甘い蜂蜜の香りが残る、小さなパン屋の昼前だった。




