第6話 自分で選んだ朝
まだ空が青みを帯びるより前、シアは階下から聞こえてきた微かな物音で目を覚ました。
薄暗い部屋の中で目を開き、見慣れない天井をぼんやりと見つめる。昨日まで続いていた馬車の揺れが身体のどこかに残っているような感覚があり、ここがどこなのか思い出すまでには、ほんのわずかな時間が必要だった。
けれど、小麦を焼いた残り香が鼻先をくすぐった瞬間、記憶が一気に戻ってくる。
アルヴェイン公爵領の領都。
昨日、自分で求人を見つけて訪ねたパン屋。
マルタとオットー。
そして、一か月という試用期間ではあるものの、自分で得た仕事と住み込みの部屋。
(……そうだ。今日から仕事なんだ)
胸の奥に、小さな緊張が生まれた。
同時に、昨夜眠りにつく前に感じた気持ちも蘇ってくる。
楽しみ。
明日になることを楽しみにして眠ったのは、いつ以来だったのか分からない。もしかすると、本当に初めてだったのかもしれない。
シアは掛布をめくり、寝台から降りた。
窓の外はまだ暗い。遠くに見える家々の屋根も輪郭が曖昧で、領都そのものが眠りから覚める前の静けさに包まれている。
階下から、どん、と重い音がした。
シアの肩が大きく跳ねた。
反射的に背筋が強張り、呼吸が止まる。
何かを落としたような音だった。
それだけのはずなのに、身体は別の記憶を呼び起こしていた。
父が机を叩いた音。
苛立った継母が扉を乱暴に閉めた音。
何か失敗したのではないかと、自分に原因を探し始める癖。
(違う)
シアは胸元へ手を当て、ゆっくり息を吐いた。
(ここは、ベルフォード家じゃない)
昨日、オットーは明日のために生地を仕込むと言っていた。白パンの注文分に必要な材料が不足していることも分かり、朝から仕入れへ行く段取りを相談していた。
ならば今の音も、厨房から聞こえただけなのだろう。
誰かが怒っているわけではない。
まして、自分が怒られているわけでもない。
そう理解できても、強張った身体がすぐに元へ戻るわけではなかった。
シアは何度かゆっくり呼吸を繰り返し、それから身支度を始めた。
昨日マルタから渡された仕事用のエプロンを手に取る。
洗いざらしの生成り色で、新品ではない。けれど丁寧に洗われていて、布からは石鹸の淡い香りがした。
それを腰へ巻く。
鏡はないため自分の姿を確かめることはできなかったが、衣装箱の蓋に映るぼんやりとした影を見て、シアは少しだけ口元を緩めた。
伯爵令嬢のドレスではない。
婚約者に会うための服でもない。
誰かに選ばれた衣装でもない。
自分で選んだ仕事をするための服だ。
「……行こう」
まだ少し早いかもしれない。
けれど、初日から遅れるよりはいい。
シアは部屋の鍵を持ち、階段を下りた。
◇ ◇ ◇
厨房では、すでにオットーが働いていた。
大きな作業台の上には発酵を終えた生地が並び、壁際の窯には火が入っている。赤い炎が揺れるたび、薄暗い厨房の壁へ橙色の光が踊った。
「おはようございます」
シアが声をかけると、作業台へ向かっていたオットーが振り返った。
「早いな」
「今日からですので」
「だからって、こんなに早く来なくてもいいぞ」
「……そうなのですか?」
「仕事を始める時間は昨日言っただろ」
言われてみれば、まだ少し早い。
シアは時計へ目を向けた。
「二十分ほど……」
「早い」
「申し訳――」
口から出かけた言葉を止める。
昨日、何度も謝りすぎだと言われた。
オットーがこちらを見ている。
シアは唇を閉じてから、言い直した。
「……次から気をつけます」
「別に早く来るのが悪いわけじゃない。ただ、それを毎日やるな」
「はい」
「早く来た分まで給金を出すなら別だが、そうじゃないなら損するのはお前だ」
その考え方は、シアには少し不思議だった。
ベルフォード家では、決められた仕事が終わっても次の仕事を与えられた。早く終わらせれば、その分だけ別の用事が増える。
働けるなら働く。
休む必要がないなら休まない。
それが当たり前だった。
「……働けるのに、働かなくていいのですか?」
思わず尋ねると、オットーの太い眉が寄った。
「働く時間じゃないならな」
「でも、その間にもできることはあります」
「あるだろうな」
「でしたら――」
「シア」
低い声で名前を呼ばれ、身体が一瞬強張る。
けれど、オットーの表情に怒りはなかった。
「働くのは大事だ。だが、休むのも仕事のうちだ。寝不足で客の金を間違えられる方が困る」
「……」
「パンだって発酵させる時間がいる。ずっと捏ねてりゃいいってもんじゃない」
シアは作業台に並ぶ生地へ目を向けた。
丸く膨らんだ生地が布の下で静かに休んでいる。
「パンと同じ……ですか?」
「人間を焼く気はないがな」
思わず、シアの口元が緩んだ。
それを見たオットーも、ほんのわずかに眉間の皺を緩める。
「せっかく来たなら、今日はいい。手を洗ってこい」
「はい」
「ただし明日からは時間通りでいい」
「分かりました」
シアは厨房脇の水場へ向かった。
冷たい水で丁寧に手を洗う。
その背中を見ながら、オットーはしばらく黙っていた。
昨日から気づいている。
あの娘は、妙に働こうとする。
怠ける若者なら何人も見てきた。少し目を離せば手を止める者も、楽な仕事ばかり選ぶ者もいた。
だがシアは逆だった。
仕事がないことに不安を感じているように見える。
休めと言えば戸惑い、食べろと言えば遠慮し、荷物を持てば取り返そうとする。
そのくせ仕事はできる。
十八歳の娘が身につけるには不自然なほど、多くのことを。
昨日聞いた話だけで、何となく事情は想像できた。
婚約者が妹を選んだ。
家にいたくなくなった。
十日以上かけて、一人でここまで来た。
それ以上を尋ねる気は、今のところオットーにはなかった。
本人が話したくなれば話せばいい。
ただ。
「オットーさん?」
呼ばれて、オットーは我に返った。
「何だ」
「手を洗いました。何からすればいいでしょうか」
「まずは昨日の続きだ。種は仕込んである。白パンは材料が来てからだ」
「仕入れは?」
「マルタが起きたら俺が行く」
「でしたら、その間は私が店を……」
「まだ開店前だ」
「……そうでした」
少し恥ずかしそうに目を伏せる。
オットーは鼻から息を吐いた。
「まず、これを覚えろ」
作業台の上に並んだ生地を指す。
「丸パンだ。昨日は分けてもらったが、今日は成形をやってみろ」
「はい」
シアはすぐに作業台へ近づいた。
◇ ◇ ◇
見るのと、実際に作るのでは違った。
「力を入れすぎだ」
「はい」
「表面を張らせる。潰すな」
「こうでしょうか」
「もう少し手前へ引け」
「はい」
オットーの大きな手が、隣の生地を使って見本を見せる。
無骨に見える指なのに、動きは驚くほど繊細だった。
生地を傷めず、丸く形を整え、綴じ目を下へ回す。
シアも真似をする。
一つ目は少し歪んだ。
二つ目も完全な丸にはならない。
三つ目。
四つ目。
少しずつ形が整っていく。
「……難しいですね」
「簡単だったら俺が何十年もやってる意味がない」
「確かにそうですね」
「昨日のを見て、何でも一回でできる娘かと思ったが」
「そんなことはありません」
シアは生地から目を離さないまま答えた。
「できないことの方が、たくさんあります」
「それでいい」
オットーの返事は短かった。
シアは少しだけ顔を上げる。
「できないことがあるのは、いいことなのですか?」
「当たり前だろ」
「……」
「最初から全部できるなら、教える人間はいらん」
オットーは次の生地を手に取った。
「できないなら覚えろ。分からないなら聞け。それだけだ」
分からないなら聞く。
シアには、その「それだけ」が難しい。
ベルフォード家では、分からないことを尋ねれば「それくらい自分で考えなさい」と言われることがあった。自分で判断して間違えれば、今度は「どうして確認しなかったの」と責められた。
どちらが正解なのか分からないまま、相手の機嫌を読むことだけが上手くなった。
「聞いても……いいのですか?」
「聞かずに失敗される方が困る」
「何度も同じことを聞いたら?」
「三度目くらいで覚えろと言う」
「……二度目までは?」
「教える」
シアは思わず笑った。
ほんの小さな笑いだった。
それでもオットーは気づいたらしく、何も言わず次の生地を彼女の前へ置いた。
「ほら。五つ目」
「はい」
今度は先ほどより、少しだけ丸くなった。
◇ ◇ ◇
日の出が近づくころ、マルタが厨房へ降りてきた。
「おはよう……って、シア?」
欠伸を噛み殺しながら入ってきたマルタが目を丸くする。
シアは作業台の前でパンを並べていた。
「おはようございます」
「何時からいるの?」
「二十分ほど早く来た」
オットーが代わりに答える。
「早いよ!」
「私も言った」
「初日だからって無理しなくていいんだからね?」
二人から同じことを言われ、シアは困ったように眉を下げた。
「……明日からは時間通りにします」
「そうしなさい」
マルタは頷くと、並んだ丸パンを見た。
「これ、シアが?」
「はい。最初の方は、少し形が……」
「どれ?」
シアが端に置いたパンを指す。
少しだけ楕円形になっている。
マルタはしばらく見つめたあと、首を傾げた。
「売れるよ?」
「でも、丸くありません」
「味は変わらないでしょう」
「商品なのに……」
「もちろん、上手に作れる方がいいよ。でも初日にこれなら十分」
マルタは一つを指先で軽く整えた。
「それに、ちょっと不格好なだけで捨てたりしないから」
「……捨てない?」
「食べられるものを捨ててどうするの」
当然のように言われた。
シアは小さく頷いた。
失敗したものにも価値が残る。
そんな当たり前のことが、自分自身へ言われたような気がして、胸の奥が少しだけざわついた。
マルタはその反応に気づいたのか、シアの顔をちらりと見たものの、何も尋ねなかった。
「さて。オットー、粉をお願いね」
「分かってる」
「私が店を開ける準備するから、シアは一緒に来て。朝の手順を教えるよ」
「はい」
シアはエプロンについた粉を払い、マルタの後を追った。
◇ ◇ ◇
開店前の店には、昨日とは違う静けさがあった。
窓の鎧戸を開けると、朝の淡い光が店内へ差し込む。夜の冷たさが残る空気へ厨房から流れてくる焼きたての香りが混ざり、通りでは店を開ける商人たちの声や荷車の音が少しずつ増え始めていた。
マルタは一つずつ手順を説明した。
入口前を掃く。
窓を拭く。
棚を確認する。
値札を並べる。
釣り銭を確認する。
前日の残りを分ける。
予約ではなく、事前注文が入っている品は注文帳と照合する。
「釣り銭は毎朝、私かオットーと二人で確認する」
「二人で、ですか?」
「そう。お金のことは、誰か一人に任せっぱなしにしない」
シアは頷いた。
「間違いを防ぐためですね」
「それもあるし、疑わなくて済むようにするため」
「疑わなくて済む?」
「一人で管理して金額が合わなかったら、その人が疑われるだろう?」
マルタは銅貨を数えながら続けた。
「だから最初と最後に二人で確認する。そうすれば、何か違っても一緒に原因を探せる」
シアは黙って聞いていた。
誰かを疑うためではなく。
疑わなくて済むように仕組みを作る。
ベルフォード家では考えたこともなかった。
何かなくなれば、まずシアが疑われた。
何か間違っていれば、シアが確認しなかったせい。
誰かが失敗すれば、気づかなかったシアにも責任がある。
「……いい方法ですね」
「でしょう? 前に一回、大喧嘩したからね」
「誰と誰がですか?」
「私とオットー」
マルタがけろりと答えた。
「銅貨二十枚合わなくてさ。私はあの人が釣りを間違えたって言って、あの人は私が仕入れの支払いを書き忘れたって言って」
「結局、どちらだったのですか?」
「私」
シアは思わず目を瞬いた。
「書き忘れてた」
「……そうだったのですね」
「三日くらい言われたよ。『俺じゃなかったな』って」
「まだ言うぞ」
いつの間にか戻ってきたオットーが、粉袋を肩へ担いで店へ入ってきた。
「ほらね」
マルタが顔をしかめる。
シアは堪えきれず、くすりと笑った。
その笑い声に、ちょうど店の前を通りかかった隣の青果店の女性が足を止めた。
「マルタ、朝から楽しそうじゃない」
「あら、ローザ。おはよう」
マルタが振り返る。
ローザと呼ばれた女性は四十歳前後で、濃い金髪を布でまとめ、店先に並べるらしい葉野菜の籠を両腕で抱えていた。視線がシアへ向かう。
「昨日いた子?」
「そう。シア。今日から試しで働いてもらうことになったの」
「へえ」
ローザはシアを見た。
シアは反射的に背筋を伸ばす。
「シアと申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、ローザが目を丸くした。
「ずいぶん丁寧な子だね」
「丁寧すぎるくらい」
マルタが笑う。
「悪い子じゃないよ」
「昨日来たばっかりなのに、もう分かるの?」
「働きっぷりはね」
シアは顔を上げた。
ローザの視線がもう一度自分へ向かう。
今度は先ほどより少し柔らかい。
「そう。じゃあ今度パン買うときは、シアちゃんに頼もうかね」
「はい。まだ覚えている途中ですが、頑張ります」
「そんなに緊張しなくても、パン買うだけだよ」
ローザが笑う。
そのまま隣の店へ戻っていった。
シアは小さく息を吐く。
マルタがそれを見ていた。
「緊張した?」
「……少し」
以前なら「大丈夫です」と答えていただろう。
マルタはその違いに気づいたのか、少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
開店すると、朝の客が次々とやってきた。
昨日も顔を見た年配の女性。
仕事へ向かう途中らしい若い男性。
子どもの手を引いた母親。
「おや、新しい子」
「昨日もいたね」
「今日からなの?」
何人もの客から声をかけられた。
シアはそのたびに少し緊張したが、商品の値段は昨日のうちにほとんど覚えていたため、会計そのものに困ることはなかった。
「黒麦パン二つ、丸パン五つね」
「はい。銅貨三十九枚です」
「早いねえ」
年配の女性が財布を開きながら感心した。
「マルタより早いんじゃない?」
「聞こえてますよ!」
奥からマルタの声が飛ぶ。
店内に笑いが起きた。
シアも少しだけ口元を緩める。
「でも笑った方が可愛いね」
不意に言われた。
シアの表情が固まる。
「……え?」
「昨日はずっと緊張してたでしょう。今の方がいいよ」
悪意のない言葉だった。
分かる。
それでも。
『愛嬌がない』
『暗い』
『女として、一緒にいて楽しくない』
ディートリヒの声が、一瞬だけ頭の奥に蘇った。
指先が冷たくなる。
「シア?」
マルタの声が聞こえた。
シアは我に返った。
「……申し訳ありません」
「どうしたの?」
「何でもありません」
反射的にそう答えてから、昨日までの自分ならここで終わっていたと思った。
大丈夫。
何でもない。
そう言えば、誰も困らない。
けれど。
マルタは急かさずに待っている。
客の女性も心配そうにこちらを見ていた。
シアは唇を湿らせた。
「少し……昔のことを思い出しただけです」
それだけ言うのにも勇気が必要だった。
マルタの表情が柔らかくなる。
「そう」
客の女性も困ったように眉を下げた。
「ごめんね。嫌なこと言ったかい?」
「違います」
今度ははっきり言えた。
「あなたは、何も悪くありません」
「そうかい?」
「はい」
女性は少し安心したように笑った。
「じゃあ、また来るよ」
「ありがとうございます」
シアはパンを渡した。
客が店を出たあと、マルタは何も聞かなかった。
ただ。
「次、丸パン十個追加しようか」
いつも通り仕事の話をした。
シアはそれがありがたかった。
「はい」
少し震えていた指も、次の客を迎えるころには落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
昼前。
昨日不足が判明した白パンの注文分も、予定通り焼き上がった。
オットーが朝のうちに粉を仕入れ、昨夜準備していた種を使ったことで時間に余裕もできた。
「三十、確認してくれ」
オットーに言われ、シアは焼き上がった白パンを数える。
「三十あります」
「注文帳」
「宿屋《銀鹿亭》、白パン三十。昼の鐘までに納品です」
「合ってる」
オットーが頷いた。
「持っていくぞ」
「私も行きます」
「店は?」
シアは一瞬止まった。
マルタを見る。
「今は私一人で平気。行っておいで」
「よろしいのですか?」
「領都の道も覚えないとね」
確かにそうだ。
シアは頷いた。
白パンを大きな籠へ詰め、布をかける。
オットーが持ち上げようとしたところで、シアも反対側へ手を伸ばした。
「一緒に持ちます」
「持てるか?」
「はい」
二人で籠を持つ。
一人でも持てない重さではなかったが、無理をしなくていいことを少しずつ覚えなければならない。
店を出ると、すでに通りは多くの人で賑わっていた。
朝より日差しが強くなり、商店の軒先には色鮮やかな布や果物が並んでいる。荷車を引く男たち、買い物籠を抱えた女性、走り回る子どもたちが行き交い、遠くからは鍛冶場の槌音も聞こえてきた。
シアは周囲を見ながら歩く。
「銀鹿亭は近いのですか?」
「歩いて十分くらいだ」
「大きな宿ですか?」
「この辺じゃそこそこだな。商人が多い」
「毎日注文が?」
「白パンは三日に一度。丸パンは毎朝」
シアは頭の中で整理する。
「でしたら、注文帳とは別に定期注文だけ一覧にした方が確認しやすいかもしれません」
オットーが横目で見る。
「もう仕事のこと考えてるのか」
「……いけませんか?」
「悪いとは言ってない」
少し歩いてから、オットーが続ける。
「できるなら作ってみろ」
「いいのですか?」
「分かりやすければ使う。分かりにくければ使わん」
シアは少し笑った。
「はい」
明快だった。
身分も関係ない。
誰の娘かも関係ない。
使いやすければ使う。
役に立たなければ直す。
その単純さが心地よかった。
◇ ◇ ◇
銀鹿亭への納品は問題なく終わった。
宿の厨房を預かる中年の料理人がパンを確認し、受取帳へ印をつける。
「今日は少し遅いかと思ったが、間に合ったな」
「悪い。材料の計算間違えた」
オットーがあっさり言った。
シアは隣で目を瞬いた。
自分の失敗を。
こんなにも普通に認める。
料理人は笑った。
「珍しいな」
「うるさい」
「マルタに怒られたか?」
「朝から散々だ」
「そりゃ災難だったな」
二人は笑っている。
失敗を認めても。
人としての価値まで否定されない。
シアは黙ったまま、そのやり取りを見つめていた。
帰り道。
オットーが尋ねた。
「どうした」
「……何がですか?」
「さっきから静かだ」
「考えていました」
「何を」
シアは少し迷った。
「失敗したことを話しても、平気なのですね」
オットーの足がわずかに遅くなる。
「平気って?」
「……嫌われたり、怒られたりしないのですね」
オットーはしばらく何も言わなかった。
通りの向こうから子どもたちが走ってきたため、二人は籠を持ったまま端へ寄る。笑い声とともに子どもたちが通り過ぎてから、オットーは再び歩き始めた。
「怒られることはある」
「はい」
「俺もマルタに怒られた」
「……はい」
「だが、間違えたことと、人間そのものが駄目なことは別だろ」
シアは足を止めそうになった。
オットーは前を向いたまま歩いている。
特別なことを言ったつもりはないらしい。
「間違えたら直せばいい。次から気をつける。それでも何度も同じ間違いをするなら、やり方を変える」
「……それだけですか?」
「他に何がある」
シアは答えられなかった。
父なら。
『こんなこともできないのか』
継母なら。
『本当に役に立たない子ね』
ディートリヒなら。
『だから君には魅力がない』
そんな言葉が返ってきただろう。
けれどオットーは、失敗と人間を分けて考える。
(私も……そうしていいのかな)
失敗した自分を。
何かできなかった自分を。
すぐに嫌わなくてもいいのだろうか。
答えはまだ分からない。
けれど。
覚えておきたいと思った。
◇ ◇ ◇
店へ戻ると、昼食が用意されていた。
野菜と鶏肉の煮込み。
少し形の崩れた丸パン。
チーズ。
「これ、朝に私が作ったものですか?」
シアは自分の皿に載ったパンを見る。
少し楕円形。
見覚えがある。
「そう」
マルタが答えた。
「売れないほどじゃないけど、初日の記念に食べたら?」
「記念……」
シアはパンを両手で持った。
自分で成形した最初のパン。
完璧ではない。
少し歪んでいる。
それでも焼けば、ちゃんとパンになった。
一口食べる。
表面は香ばしく、中は柔らかかった。
「……おいしいです」
「そりゃオットーの生地だからね」
「俺の焼き方でもある」
「はいはい」
マルタが呆れたように返す。
シアはもう一口食べた。
少しだけ笑った。
(失敗しても、食べられる)
不格好でも。
価値がなくなるわけではない。
胸の中へ浮かんだ言葉に、シアは一瞬だけ目を伏せた。
それを自分自身へ当てはめるには、まだ時間が必要だった。
けれど。
いつか。
そんなふうに思える日が来るのかもしれない。
食事が半分ほど進んだところで、マルタが口を開いた。
「そうだ、シア」
「はい」
「午後は少し休んでから、注文帳を見てくれる?」
シアは顔を上げる。
「私が、ですか?」
「昨日も今日も数字の間違いにすぐ気づいたでしょう。店の仕事を覚えるついでに、どういう注文があるか見てもらいたいの」
「もちろんです」
「ただし」
マルタが匙を向ける。
「昼休みが終わってから」
シアは立ち上がりかけていた身体を止めた。
「……今では駄目ですか?」
「駄目」
「食べ終わったらすぐに――」
「休む」
「ですが」
「シア」
「……はい」
「昨日言ったでしょう。七日に一日は休み。昼にも休憩する。給金も払う」
マルタは真っ直ぐシアを見る。
「働いてもらうなら、こっちにも守ることがあるんだよ」
その言葉に、シアは何も返せなかった。
雇われる側だけが義務を負うのではない。
雇う側にも守ることがある。
そんな考えを、シアは知らなかった。
「分かりました」
今度は素直に頷く。
「休みます」
「よろしい」
マルタが満足そうに笑った。
オットーは黙ってパンを食べていたが、口元だけが少し緩んでいた。
◇ ◇ ◇
昼食後。
シアは店の裏にある小さな中庭へ出た。
休めと言われたものの、部屋へ戻って眠る気にはなれなかった。中庭には古い木の長椅子があり、壁際にはマルタが育てているらしい香草が並んでいる。
空はよく晴れていた。
建物の間から見える青空を眺める。
領都の喧騒は壁一枚向こうにあるのに、ここだけは少し静かだった。
シアは長椅子へ腰掛ける。
何もしない。
仕事を探さない。
誰かの機嫌も窺わない。
ただ座っている。
最初の数分は落ち着かなかった。
立ち上がって掃除でもしたくなる。
香草の鉢を並べ直したくなる。
窓の汚れが気になる。
けれど。
(休むって言った)
マルタにではなく。
自分で。
「休みます」と答えた。
だから、今は休む。
シアは膝の上へ手を置いた。
通りから、子どもの笑い声が聞こえる。
鳥が屋根の上へ降りる。
厨房からは、午後のパンを準備するオットーの物音が微かに響いていた。
それでも、誰もシアを呼ばない。
数分が過ぎる。
さらに数分。
不思議だった。
何もしなくても。
世界は壊れない。
誰かが怒鳴り込んでくることもない。
自分が休んでいる間にも、店は普通に動いている。
「……私がいなくても、回るんだ」
口にしてから。
少し寂しいような。
けれど、とても安心するような。
不思議な気持ちになった。
ベルフォード家では、シアが何かを忘れれば責められた。
何でも気づかなければならない。
何でも先回りしなければならない。
だから、自分がいなければ困るはずだと思っていた。
いや。
そう思わなければ、あれだけ働いてきた意味がなかったのかもしれない。
けれど。
ここでは違う。
自分が休んでも、マルタがいる。
オットーがいる。
誰か一人がすべてを背負う必要はない。
その事実が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
◇ ◇ ◇
午後。
約束通り、シアは注文帳を開いた。
マルタが隣へ座る。
「まず、分からないところがあったら聞いて」
「はい」
シアは帳面を一頁ずつ確認した。
宿屋。
食堂。
商家。
個人客。
定期的に注文する相手と、不定期の相手が混ざっている。
受注日。
納品日。
品目。
数量。
支払い済みか後払いか。
必要な情報は書かれている。
ただ。
「……マルタさん」
「何?」
「こちらの《銀鹿亭》は三日に一度、白パン三十。丸パンは毎朝二十で合っていますか?」
「そうだね」
「こちらの食堂《赤い鍋亭》は黒麦パンを二日に一度十五個」
「うん」
「でしたら、定期注文だけ別に一覧を作ってもいいでしょうか」
マルタが帳面を覗く。
「一覧?」
「はい。曜日ごと、あるいは周期ごとに必要数をまとめます。前日に翌日分だけ確認できるようにすれば、材料の不足に気づきやすくなると思います」
シアは机の端にあった紙を一枚借り、簡単な形を書いて見せた。
納品先。
品目。
数量。
周期。
支払い方法。
備考。
それだけ。
けれど、注文帳を何頁もめくる必要がなくなる。
マルタが紙を見つめた。
「……これ、今考えたの?」
「以前、似たような形で予定を整理していました」
「どこで?」
尋ねられ。
シアの指が止まる。
マルタはすぐに気づいた。
「あ、ごめん。言いたくないならいいよ」
「……」
シアは迷った。
全部は言えない。
けれど。
少しなら。
「以前いた家で、贈り物や予定を整理することが多かったので」
「そう」
マルタはそれだけで止めた。
「じゃあ、その方法で作ってみて」
「いいのですか?」
「便利なんでしょう?」
「はい」
「なら使う」
昨日、オットーにも似たことを言われた。
誰が考えたかではなく。
役に立つかどうか。
シアは紙へ視線を落とした。
「分かりました」
ペンを取る。
久しぶりに。
誰かから命じられた文書ではなく。
自分が考えた方法で。
自分の仕事をし始めた。
◇ ◇ ◇
夕方。
その日の仕事を終えたころには、身体に心地よい疲労が残っていた。
足は少し重い。
腕も、生地を捏ねた影響でだるい。
それでも嫌な疲れではなかった。
「お疲れさま」
マルタが言う。
シアは一瞬、返事に迷った。
これまでなら。
まだできます。
大丈夫です。
そう答えていただろう。
けれど今日は。
「……疲れました」
小さく答えた。
マルタが目を瞬く。
シアは少し不安になる。
正直に言ってしまった。
働き始めた初日なのに。
だが。
「そりゃそうだ」
マルタが笑った。
「初日だもん」
それだけだった。
「よく働いたね」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……はい」
「夜の分、スープ残してあるから。パンも好きなの持っていっていいよ」
「ありがとうございます」
「今日は早く寝なさい」
「はい」
シアは頭を下げた。
今度の「ありがとうございます」は、少し自然に言えた。
二階へ上がる前。
シアは一度だけ店内を振り返った。
棚はほとんど空になっている。
朝、自分が並べたパンも売れた。
自分が会計した。
自分が作ったパンも誰かが買った。
自分が気づいた材料不足も、無事に間に合った。
注文帳の新しい一覧も、まだ途中ではあるが作り始めた。
今日。
自分はここで働いた。
誰かの娘としてでも。
誰かの姉としてでも。
誰かの婚約者としてでもない。
ただのシアとして。
◇ ◇ ◇
そのころ。
遠く離れたベルフォード伯爵邸では、朝から使用人たちが何度も廊下を走っていた。
「まだ見つからないの!?」
リリアナの甲高い声が響く。
応接室の机には、何通もの手紙が広げられていた。
ヴァルモント侯爵家。
近隣貴族。
商会。
仕立屋。
宝飾店。
そのうち三通には、早急な返答を求める旨が記されている。
「お嬢様、こちらの返事は本日中に出さなければ……」
侍女が恐る恐る言う。
「そんなの分かってるわよ!」
リリアナは苛立ったように手紙を机へ叩きつけた。
「でも、どう返せばいいの?」
「それは……」
侍女は答えられない。
以前なら。
こうした手紙はエリシアのもとへ回されていた。
送り主の家格。
過去のやり取り。
相手が好む文面。
以前どのような贈り物を受け取ったか。
次にどの程度の品を返すべきか。
それらを確認したうえで下書きが用意され、必要なら伯爵の確認を取り、適切な時期に返事が出されていた。
侍女たちは、それが誰の仕事なのか深く考えたことがなかった。
いつの間にか整っていたからだ。
「お姉様の部屋に記録があるんじゃないの?」
「探しましたが……」
「じゃあ、もっと探して!」
「ですが、お嬢様。どれが必要な資料なのか……」
「そんなの私に聞かないでよ!」
リリアナが睨む。
侍女は肩を縮めた。
廊下の向こうでは別の使用人が困り果てていた。
「この請求書、旦那様へ回したか?」
「エリシア様が確認してからだったはずだ」
「でも、もういないだろ」
「じゃあ誰が確認するんだ?」
「知らないよ」
声が重なる。
一つ一つは、小さなことだった。
手紙。
請求書。
贈り物。
予定。
確認。
記録。
誰か一人いなくなった程度で、伯爵家がすぐに傾くわけではない。
けれど。
これまで誰にも見えない場所で繋がれていた糸が、少しずつ切れ始めていた。
「エリシアはまだ見つからないのか!」
グレゴールの怒声が屋敷へ響く。
使用人たちの肩が一斉に跳ねた。
その場にいる誰も。
その問いへ答えられなかった。
◇ ◇ ◇
同じころ。
シアは小さな部屋の机に座り、夕食のスープを飲んでいた。
窓の外には領都の灯りが見える。
机の上には、自分で選んだ胡桃パンが一つ。
仕事のあとにもらった食事。
誰かの残り物を盗むように食べる必要もない。
明日も仕事がある。
「……疲れた」
もう一度、声にしてみる。
不思議だった。
その言葉を口にしても。
何も怖いことは起きない。
シアは胡桃パンをちぎり、ゆっくり口へ運んだ。
そして。
ほんの少し考えてから、もう一つ言葉を足した。
「でも……楽しかった」
その夜。
遠いベルフォード伯爵邸では、シアがいないことで初めて小さな混乱が生まれ始めていた。
けれどシアは、そんなことを知らない。
知る必要もなかった。
今の彼女にとって大切なのは、明日のパンをどう並べるか、注文帳をどう見やすくするか、そして決められた時間まできちんと眠ることだった。
誰かのために人生を使い果たすのではなく。
自分が選んだ場所で、自分の一日を生きる。
その暮らしはまだ始まったばかりだった。




