第5話 ここで働かせてください
「表の求人を見ました。まだ、働く方を募集していらっしゃいますか?」
口にしてしまった。
パン屋の扉を背にしたまま、シアは旅行鞄の持ち手を両手で握り締めていた。
店内には焼きたてのパンの香りが満ちている。壁際には木製の棚が並び、丸いパンや細長いパン、木の実を練り込んだもの、表面に粉を振ったものなど、さまざまな種類のパンが籠に入れられていた。
外から見たときにも感じたが、決して大きな店ではない。
それでも客は多かった。
買い物籠を腕にかけた年配の女性。
仕事の途中らしい作業着姿の男性。
幼い男の子を連れた母親。
シアが扉を開けたときに鳴った鐘へ一瞬だけ視線を向けた者もいたが、すぐ自分の買い物へ戻っている。
誰もシアを知らない。
それが分かっているのに、胸の鼓動は収まらなかった。
「求人?」
カウンターの向こうにいた女性が目を丸くした。
四十代半ばほどだろうか。ふっくらとした体格で、栗色の髪を後ろでひとまとめにしている。生成りのシャツの上から茶色いエプロンをつけ、袖を肘まで捲っていた。
「はい」
「ちょっと待ってね」
女性はそう言うと、ちょうど会計を待っていた客へ向き直った。
「ごめんなさいね。先にこちらを済ませるから」
「もちろんです」
シアは慌てて頭を下げた。
「そこまで畏まらなくていいよ」
女性は少し笑ったが、すぐに客のパンを紙袋へ入れ始めた。
「丸パン四つと胡桃パン二つね。銅貨二十八枚」
「今日は林檎のはないの?」
「午後に焼くよ。昨日、果樹園からいい林檎が入ったからね」
「じゃあ夕方また来ようかねえ」
「売り切れてても文句言わないでよ」
「取っといてくれればいいでしょう」
「そうやって皆が言うから売る分がなくなるんだよ」
客の老婦人が声を上げて笑った。
女性も笑っている。
シアは少し離れた場所に立ちながら、そのやり取りを眺めた。
客と店の人間が、こんなふうに気軽に話す。
ベルフォード伯爵邸へ出入りしていた商人たちは、いつも深く頭を下げていた。父や継母の機嫌を窺い、リリアナが無理な注文をしても笑顔を崩さなかった。
けれど、ここにはそれとは違う空気がある。
近い。
温かい。
店の中を漂うパンの香りまで、その雰囲気の一部になっているようだった。
(……いいな)
そう思った自分に気づき、シアは少し驚いた。
まだ働けると決まったわけでもない。
むしろ、断られる可能性の方が高いかもしれない。
それでも、この店を好きになれたらいいと思った。
やがて客が一通り途切れる。
女性が手についた粉をエプロンで払いながら、シアのところへやってきた。
「待たせたね」
「いいえ」
「求人を見たって?」
「はい。中央広場の掲示板で」
「ああ、まだ残ってたんだね。三日前に貼ったんだけど、なかなか条件の合う人が来なくてさ」
まだ募集している。
その事実に、シアの胸が少しだけ高鳴った。
「働きたいの?」
「……はい」
「住み込み?」
「できれば、お願いしたいです」
女性の視線が旅行鞄へ向かう。
シアは反射的に身体を強張らせた。
何か聞かれる。
どこから来たのか。
家族は。
身分は。
本名は。
そんな不安が一気に湧いてくる。
「名前は?」
やはり聞かれた。
シアは唇を湿らせる。
「シアです」
「シアね。私はマルタ。この店を夫とやってる」
マルタ。
シアは頭の中で名前を覚えた。
「よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
「だから畏まらなくていいって」
マルタは苦笑してから、シアを上から下まで見た。
品定めされている。
そう思った瞬間、背筋が強張った。
(ちゃんとしないと)
役に立つと思われなければ。
断られる。
そう考えると、呼吸まで浅くなる。
「年は?」
「十八です」
「十八か。店仕事の経験は?」
「……パン屋で働いた経験はありません」
正直に答える。
マルタの眉が少し上がった。
その反応だけで、胸が沈みかける。
「ですが、料理はできます。パンについては専門的に作ったことは多くありませんが、生地をこねたり、成形を手伝った経験はあります。掃除と洗濯もできます。裁縫も一通りできますし、読み書きと計算も問題ありません」
一息に言ってしまった。
「帳簿も扱えます。仕入れの記録や在庫管理、支払いの整理もできます。それから――」
「ちょっと、ちょっと」
マルタが両手を上げた。
シアは口を閉じた。
(喋りすぎた)
失敗した。
そう思う。
「申し訳ありません」
「いや、怒ってないよ」
「……え?」
「ただ、一気に言われても覚えきれないからさ」
マルタが笑った。
「ずいぶん色々できるんだね」
「……普通だと思います」
「十八で帳簿まで扱えるのが普通なら、うちの旦那は立つ瀬がないねえ」
店の奥から声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
低い男の声だった。
マルタが声を上げて笑う。
「聞こえるように言ったんだよ!」
シアは目を瞬いた。
すると、厨房との境になっている扉から大柄な男が顔を出した。
五十歳前後だろうか。
腕が太く、シャツもエプロンも粉だらけだった。短く刈った茶色の髪にも白い粉がついている。
「求人の子か?」
「そう。シアっていうんだって」
「そうか」
男はシアを見た。
その視線に身体が強張る。
けれど男はすぐにマルタへ顔を向けた。
「昼の分、次焼くぞ」
「はいよ。あんた、この子に仕事見てもらってもいい?」
「好きにしろ。ただし忙しくなる前にな」
「分かってる」
男はそれだけ言うと厨房へ戻った。
「今のが夫のオットー」
「オットーさん……」
「無愛想だけど、別に怒ってるわけじゃないから気にしないで」
「はい」
怒っていない。
わざわざそう説明されたことに、シアは少し戸惑った。
マルタは近くの椅子を引いた。
「まあ座って」
「ですが……」
「立ったまま話す方が疲れるだろう?」
シアは言われるまま椅子へ腰掛けた。
マルタも向かいへ座る。
「じゃあ、いくつか聞くね」
「はい」
「うちの求人、どこまで読んだ?」
「掃除、店番、簡単な調理補助。読み書きと計算のできる方歓迎。経験不問。食事付きで、住み込みも可能とありました」
「よく覚えてるね」
「一度読んだので」
マルタが少し目を丸くした。
「記憶力もいいのか」
「必要なことは、できるだけ覚えるようにしています」
「なるほどねえ」
マルタが顎へ手を当てる。
シアは緊張しながら次の質問を待った。
「朝は早いよ」
「問題ありません」
「日の出より前に起きることもある」
「大丈夫です」
「重い粉袋を持つこともある」
「持てる範囲でしたら」
「客に怒鳴られることも、たまにはある」
その言葉に、シアの指先がわずかに動いた。
マルタは見逃さなかったらしい。
けれど、何も言わない。
「失敗することもある」
「……はい」
「そのとき、どうする?」
シアは少し考えた。
「謝罪して、できる限り修正します。同じ失敗をしないよう原因を確認して――」
「それで?」
「……それで?」
「それだけ?」
質問の意味が分からない。
「他に、何をすれば……」
マルタはシアの顔をしばらく見ていた。
「別に何もしなくていいよ」
「え?」
「謝って、直せるものは直して、次に気をつける。それで終わり」
「……」
「皿を割ったからって、一晩寝ずに働けとか言わないし、パンを焦がしたからって飯抜きにもならない」
心臓が止まりそうになった。
シアは顔を上げた。
どうして。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
自分の顔に何か出ていたのだろうか。
マルタは追及しなかった。
ただ、少しだけ声を柔らかくする。
「うちは仕事をしてもらうために人を雇うんだ。罰を与えるためじゃない」
シアは返事ができなかった。
膝の上で重ねた指が、わずかに震えている。
(仕事を、するため)
当たり前の言葉なのだろう。
それなのに。
胸の奥に深く落ちた。
「……はい」
ようやく返事をした。
マルタはそれ以上その話を続けなかった。
「それで、一番大事なこと」
「はい」
「住み込み希望ってことだけど、前にいたところへ確認を取れる?」
来た。
シアの身体が強張った。
「……できません」
正直に答える。
マルタの顔から笑みが少し消えた。
「理由を聞いても?」
シアは唇を結んだ。
どこまで話す。
何を隠す。
頭の中で必死に考える。
嘘をつけばいいのかもしれない。
けれど、うまい嘘など思いつかない。
「……家を、出てきました」
「家出?」
「はい」
「家族に黙って?」
少し迷った。
「継母には、出ることを伝えました」
「止められた?」
「はい」
「それでも出てきた」
「……はい」
マルタは黙った。
店内に、厨房から聞こえる生地を叩く音が響いている。
シアの心臓が速くなる。
(駄目だ)
やはり断られる。
身元の分からない人間を住み込みで雇うはずがない。
当然だ。
自分でも、店側なら警戒する。
「申し訳ありません」
シアは立ち上がろうとした。
「何で謝るの」
マルタに言われ、動きが止まる。
「え?」
「まだ何も決めてないよ」
「ですが、身元を証明できません」
「そうだね。それは困る」
はっきり言われた。
胸が痛む。
それでも、シアは頷いた。
「はい」
「だから確認したい」
「……何を、でしょうか」
「あんたが働けるかどうか」
シアは目を瞬いた。
マルタが立ち上がる。
「口じゃ何とでも言えるからね。読み書きできます、計算できます、料理できますって言われても、本当かどうか分からない」
「はい」
「だから、やってみよう」
「……今からですか?」
「今から」
マルタがにやりと笑った。
「どうせ昼前で忙しくなるし、人手が欲しいところだったんだ」
◇ ◇ ◇
最初に渡されたのは、布巾だった。
「そこの空いたテーブル三つ、拭いてくれる?」
「はい」
シアはすぐ動いた。
水桶の位置を確認する。
布巾を濡らし、固く絞る。
テーブルの上に残っていたパン屑を先に集めてから、端から順番に拭いていく。
椅子も確認する。
一脚だけ座面に粉が落ちていた。
それも拭く。
「終わりました」
「早いね」
マルタが確認する。
「……端まで拭いてる」
「汚れが残ると、お客様の服についてしまいますので」
「そりゃそうだけど」
次は店頭の商品補充。
パンの種類と値段を一度説明される。
シアは頷きながら覚えた。
丸パン、銅貨五枚。
黒麦パン、銅貨七枚。
胡桃パン、銅貨六枚。
干し葡萄入り、銅貨八枚。
小さな白パンは三つで銅貨十二枚。
「分からなくなったら聞いて」
「はい」
最初の客が来る。
「丸パン四つと、胡桃パン三つ」
シアは商品を取る。
「銅貨三十八枚です」
客が財布を出しかけて止まった。
マルタも止まった。
「……合ってる」
「はい」
「計算、早いね」
「そうでしょうか」
次の客。
白パン六つ。
黒麦パン二つ。
干し葡萄入り一つ。
シアは一瞬で合計を出した。
客から渡された銀貨から釣りを返す。
間違えない。
三人。
四人。
五人。
昼が近づくにつれて客が増えていく。
「マルタさん、昨日の林檎パンは?」
「午後だよ!」
「じゃあ予約!」
「予約は取らないって言ってるでしょう!」
「シアちゃん、丸パン二つね」
突然名前を呼ばれ、シアは驚いた。
先ほどマルタが名前を呼んだのを聞いていたらしい。
「あ、はい」
「新人さん?」
「……まだ、決まっていません」
正直に答える。
客の女性が笑った。
「じゃあ採用されたらまた会えるね」
シアは何と答えればいいか分からず、少しだけ頭を下げた。
その様子を、マルタが横から見ていた。
次に厨房へ入る。
熱気が一気に増した。
大きな作業台。
粉袋。
発酵中の生地。
焼き窯。
オットーが次々とパンを焼いている。
「これ、分けられるか?」
大きな生地を示された。
「一つ百二十程度で」
秤が置かれる。
シアは手を洗い、袖をさらに捲った。
最初の一つを切る。
秤へ載せる。
百二十三。
少し減らす。
百二十。
二つ目。
百十九。
ほんの少し足す。
百二十。
何度か繰り返すうち、秤へ載せる前からほぼ同じ大きさに分けられるようになった。
オットーが手を止めた。
「経験ないって言ったな」
「パン屋で働いた経験はありません」
「生地触ってるだろ」
「屋敷の厨房で、手が足りないときに手伝っていました」
言ってから。
シアはしまったと思った。
屋敷。
オットーの視線がこちらへ向く。
「屋敷?」
「……以前働いていたところです」
咄嗟に言い換えた。
完全な嘘ではない。
働いていた。
給金はもらっていなかったけれど。
オットーは少しだけシアを見た。
しかし、それ以上は聞かなかった。
「手つきは悪くない」
その一言で。
シアの手が止まりかけた。
「……ありがとうございます」
褒められた。
たったそれだけ。
けれど胸の奥が温かくなった。
「止まるな。生地乾くぞ」
「あ、はい」
慌てて作業へ戻る。
オットーの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
昼の混雑が落ち着いたころ。
シアは店の隅に置かれた椅子へ座っていた。
「疲れた?」
マルタに聞かれる。
「大丈夫です」
即答した。
マルタが眉を上げる。
「本当に?」
「はい」
「じゃあ今すぐ立って、あと三時間働ける?」
「はい」
「嘘」
「……」
シアは黙った。
マルタが腰へ手を当てる。
「顔見れば分かるよ。朝から馬車で来たんでしょう?」
「はい」
「その前も旅してたんじゃないの?」
「……十日ほど」
「十日!?」
マルタの声が店内へ響いた。
厨房からオットーが顔を出す。
「何だ」
「この子、十日も旅してきたって!」
「そうか」
「そうかじゃないよ!」
オットーはシアを一度見る。
「なら今日はもう休ませろ」
「そのつもり」
シアは慌てて立ち上がった。
「まだ働けます」
「座って」
「ですが」
「座る」
マルタの声が少し強くなる。
身体が反射的に強張った。
シアはすぐ椅子へ戻った。
「……申し訳ありません」
マルタの表情が変わる。
「怒ってないよ」
「……はい」
「今のは言い方が強かったね。ごめん」
シアは顔を上げた。
謝られた。
また。
雇う側の人間が。
自分へ。
「どうして……」
思わず声が漏れる。
「ん?」
「いえ」
シアは首を振った。
マルタは少し考えたようだったが、追及しなかった。
代わりに厨房へ向かって声を張る。
「オットー! 余ってるの何かある?」
「黒麦とスープ」
「持ってきて」
「自分で来い」
「今この子と話してるの!」
「俺もパン焼いてる!」
また始まった。
シアは二人のやり取りを聞きながら、ほんの少し口元を緩めた。
結局マルタが厨房へ入り、しばらくして湯気の立つスープとパンを持って戻ってきた。
シアの前へ置く。
「食べて」
「……これは」
「昼飯」
「まだ、雇っていただけると決まっていません」
「働いたでしょう」
「でも」
「昼前の一番忙しい時間に客を捌いて、生地まで分けた人間に飯を出さないほどケチじゃないよ」
シアはスープを見つめた。
温かい。
野菜と豆、それから少し肉が入っている。
「……いただきます」
小さく言って、匙を取った。
一口。
身体の中へ温かさが広がる。
「おいしいです」
「オットーが作った」
「パン屋なのに?」
「料理もするぞ!」
厨房から声が飛んできた。
マルタが笑う。
シアも。
ほんの少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
食事を終えたあと。
マルタとオットーが、シアの向かいに座った。
面接の続きなのだと分かった。
シアは背筋を伸ばす。
「先に言っておく」
マルタが口を開いた。
「仕事はできる。むしろ思ってたよりずっとできる」
「……ありがとうございます」
「計算も問題なし。接客はちょっと硬いけど、まあ慣れるでしょう」
「はい」
「オットーは?」
「問題ない」
短い。
けれど、それが彼なりの評価なのだろう。
シアは膝の上で手を握った。
「ただし」
マルタの表情が少し真剣になる。
「やっぱり身元のことは気になる」
胸が沈む。
「……はい」
「家から追われてる?」
シアは答えに迷った。
「分かりません」
「分からない?」
「探されている可能性はあります」
「犯罪?」
「違います」
それだけはすぐに答えた。
「盗み?」
「していません」
「借金?」
「ありません」
「結婚から逃げた?」
シアの呼吸が一瞬止まった。
マルタが気づく。
「……近い?」
シアは目を伏せた。
どこまで話すべきか。
この人たちを巻き込みたくない。
けれど、嘘をついて雇ってもらうのも違う気がした。
「婚約を……破棄されました」
静かな店内へ、シアの声が落ちる。
「相手は、妹を選びました」
マルタの眉が寄る。
オットーは黙っている。
「家族は、その婚約を認めました。私には別の相手を探すと言われました」
「それで逃げた?」
「……はい」
「次の結婚が嫌だったから?」
シアは少し考えた。
「それだけでは、ありません」
喉が詰まりそうになる。
家族のことを他人へ話したことなどなかった。
家の恥を外へ漏らすな。
父から何度も言われてきた。
それでも。
「もう……あの家にいるのが、嫌になりました」
それ以上は言えなかった。
マルタも聞かなかった。
しばらく沈黙が続く。
シアは覚悟した。
断られる。
当然だ。
面倒事を抱えた女を、わざわざ住み込みで雇う理由などない。
「分かった」
マルタが言った。
シアは顔を上げる。
「一か月」
「……はい?」
「まず一か月、試しで働いてみる?」
意味を理解するまで数秒かかった。
「……働いて、いいのですか?」
「こっちもあんたがどんな子かまだ全部分からない。あんたも、うちがどんな店か分からないだろう?」
「はい」
「だから一か月。お互い合わなければそこで終わり」
マルタは指を一本立てる。
「給金は週払い。住み込みなら部屋代は取らない。朝と昼は店で出す。夜は店の残りでよければ食べていい。休みは七日に一日。朝は早い」
シアは呆然と聞いていた。
「仕事内容は店番、掃除、簡単な厨房補助。計算できるなら、慣れたら注文帳も手伝ってもらう」
「……」
「どう?」
どう。
そう聞かれた。
自分で決める。
また。
胸が熱くなる。
「……お願いします」
声が震えた。
「ここで、働かせてください」
マルタが笑った。
「決まりだね」
その瞬間。
シアの目の奥が熱くなった。
慌てて俯く。
泣くほどのことではない。
仕事が決まっただけ。
一か月の試用期間。
それでも。
自分で探した。
自分で店へ入った。
自分で働きたいと言った。
そして。
必要だと言ってもらえた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「本当に……ありがとうございます」
「だから頭下げすぎ」
マルタが困ったように笑う。
オットーが立ち上がった。
「部屋、見せてやれ」
「そうだね」
マルタも立つ。
「二階に小さい部屋が一つ空いてる。広くないけど、一人なら十分だと思う」
シアは旅行鞄を持ち上げようとした。
するとオットーが先に持った。
「……!」
反射的に取り返そうとする。
「自分で持てます」
「知ってる」
「では」
「今日はもう持たなくていい」
「ですが」
オットーはシアを見る。
「疲れてるだろ」
それだけ言って、階段へ向かった。
シアは動けなかった。
マルタが隣で小さく笑う。
「あれで結構世話焼きなんだよ」
「……そう、なのですね」
「怖くないだろ?」
シアはオットーの背中を見る。
大きい。
声も低い。
最初は少し怖かった。
けれど。
「……はい」
少なくとも、父を見るときのような恐怖はなかった。
◇ ◇ ◇
二階の部屋は、本当に小さかった。
寝台。
机。
椅子。
衣装箱。
小さな窓。
それだけ。
昨日泊まった宿の部屋と、それほど変わらない。
「どう?」
マルタが聞く。
シアは部屋を見回した。
窓からは裏通りが見える。
その向こうに、屋根が連なっている。
遠くには領都の時計塔。
下からはパンの香りが上がってくる。
「……十分です」
「本当に? 狭いよ?」
「十分です」
今度は迷わなかった。
マルタが鍵を渡す。
「はい」
シアは受け取った。
小さな鉄の鍵。
「部屋の鍵」
掌の上に載った鍵を見つめる。
「私が……持っていていいのですか?」
マルタが不思議そうな顔をした。
「そりゃそうでしょう。あんたの部屋なんだから」
あんたの部屋。
胸の奥が揺れた。
昨日の宿とは違う。
一晩だけではない。
少なくとも一か月。
ここが。
自分の部屋。
「マルタさん」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「それ、今日何回目?」
「すみま――」
謝りかけて止まる。
マルタがこちらを見ている。
シアは口を閉じた。
そして。
「……気をつけます」
言い直した。
マルタが笑った。
「そうしな」
扉が閉まる。
一人になる。
シアは掌の鍵を見つめた。
それから、ゆっくり部屋の中へ目を向ける。
小さい。
何もない。
けれど。
誰かに与えられた伯爵令嬢の部屋ではない。
家族の機嫌次第で扱いが変わる場所でもない。
自分で仕事を探して。
働くと決めて。
その結果、借りることができた部屋。
シアは窓辺へ歩いた。
外を見る。
知らない街。
遠い街。
ベルフォード伯爵領から十日以上かけて辿り着いた場所。
ここに父はいない。
継母もいない。
リリアナもいない。
ディートリヒもいない。
「……ここで、生きるんだ」
声にすると、少し怖かった。
けれど。
昨日までとは違う。
怖さの中に。
ほんの少しだけ。
楽しみだと思える気持ちがあった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
店を閉める少し前。
シアは二階から降り、何か手伝えることがないかと店へ顔を出した。
マルタは客へパンを渡している。
オットーは厨房。
シアが何となく店内を見回したとき。
棚の端に置かれている注文帳が目に入った。
開いたままだった。
見るつもりはなかった。
けれど。
数字が目に入る。
明日の注文。
丸パン四十。
黒麦パン二十五。
白パン三十。
その下に、材料の予定量。
シアの眉がわずかに寄った。
(……合わない)
一度通り過ぎようとした。
まだ働き始めてもいない。
余計なことをしてはいけない。
そう思った。
けれど。
数字が気になる。
もう一度見る。
やはり。
「あの……マルタさん」
「ん?」
客を送り出したマルタが振り返る。
「この注文帳、確認してもよろしいですか?」
「いいけど」
シアは帳面を開いた。
「明日の白パンは三十個ですよね」
「そうだね」
「こちらの材料表だと、二十個分ほどしかありません」
「え?」
マルタが覗き込む。
そこへオットーも厨房から出てきた。
「どうした」
「白パンの材料が足りないって」
「そんなはず……」
オットーが帳面を見る。
数秒。
「……足りんな」
マルタが夫を見る。
「誰が書いたの」
「俺だ」
「ほら! だからあんたに帳簿やらせたくないんだよ!」
「昨日忙しかったんだ!」
「忙しくても数字は増えないでしょう!」
「分かってる!」
二人の声が大きくなる。
シアの肩がびくりと揺れた。
身体が固まる。
怒鳴り声。
反射的に俯きそうになる。
けれど。
二人は喧嘩をしているようで。
少し違う。
マルタは怒っている。
オットーも言い返している。
それでも、誰も怯えていない。
手が飛ぶこともない。
物を投げることもない。
「明日の朝一番で仕入れるしかないね」
「俺が行く」
「パンは?」
「お前が――」
「焼けるわけないだろ!」
「……だよな」
そこでオットーが黙る。
マルタが頭を抱えた。
シアは帳面を見る。
「今からでは、仕入れはできないのでしょうか」
「いつもの粉屋はもう閉まってる」
「他のお店は?」
「買えるところはあるけど、値段が高いんだよ」
シアは少し考えた。
「明日の注文は、すべて朝に必要なのですか?」
二人がこちらを見る。
「いや」
オットーが答える。
「白パン三十は宿屋からの注文だ。昼まででいい」
「でしたら、朝一番で通常分を焼いている間にどちらかが仕入れへ行き、戻ってから白パンを焼けば間に合うのではありませんか?」
「発酵がある」
「今夜のうちに種だけ準備しておけば、時間を短縮できませんか?」
オットーが黙った。
シアは不安になる。
(余計なことを言った?)
「申し訳――」
「できる」
オットーが言った。
「え?」
「それなら間に合う」
マルタがシアを見る。
「……あんた、本当にパン屋で働いたことないの?」
「ありません」
「じゃあ何でそんなこと思いつくの」
「厨房で、翌日の仕込みを見ていたので……」
オットーが腕を組んだ。
「帳面の間違いにもすぐ気づいた」
「数字を見るのは慣れています」
「そうか」
それだけ言うと、オットーは帳面を閉じた。
そして。
「助かった」
シアは動きを止めた。
「……え?」
「このまま明日の朝になってたら面倒だった。助かった」
オットーはそれだけ言って厨房へ戻った。
マルタも、
「ほんとだよ。初日から助かった」
と笑った。
シアは何も言えなかった。
助かった。
自分が。
役に立った。
それなのに。
当然だと言われなかった。
もっとやれとも言われなかった。
たった一言。
助かった。
ありがとうと同じ意味の言葉。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……はい」
声が震えそうになり、シアは小さく頷いた。
マルタは気づいているのかいないのか、それ以上何も言わず閉店作業へ戻った。
シアも棚の整理を手伝った。
今度は。
誰かに命じられたからではない。
自分が、手伝いたいと思ったから。
◇ ◇ ◇
その夜。
小さな部屋の寝台に入り、シアは掌の鍵を机の上へ置いた。
明日から仕事が始まる。
朝は早い。
覚えることも多い。
失敗するかもしれない。
客に怒られることもあるらしい。
それでも。
「……楽しみ」
口にした瞬間。
シアは目を見開いた。
自分が明日を楽しみだと思った。
いつ以来だろう。
分からない。
もしかすると。
初めてかもしれない。
窓の向こうには、知らない街の灯りが見える。
ここで何が起きるのか。
まだ何も分からない。
この店でどれだけ働けるのかも。
この街でどんな人と出会うのかも。
それでも。
シアは掛布を胸元まで引き上げた。
明日の朝。
自分には起きる理由がある。
誰かに怒られないためではない。
誰かの機嫌を取るためでもない。
自分で選んだ仕事をするために起きる。
その違いが。
今は、とても嬉しかった。
「おやすみなさい」
誰もいない部屋で呟く。
返事はない。
けれど寂しいとは思わなかった。
一階から、明日のために生地を仕込むオットーの物音がかすかに聞こえる。
少しして、マルタの笑い声も聞こえた。
焼いた小麦の残り香が、古い木の床を通して微かに漂ってくる。
シアは目を閉じた。
ベルフォード伯爵家から遠く離れた街。
誰もエリシア・ベルフォードを知らない場所で。
彼女はようやく、自分で選んだ明日を迎えようとしていた。




