第4話 遠い街へ
翌朝、シアが目を覚ましたとき、最初に感じたのは違和感だった。
見慣れない天井がある。
白く塗られた板張りの天井には小さな染みがあり、窓から差し込む朝日が壁の一部を淡く照らしている。寝台もベルフォード伯爵邸で使っていたものより硬く、掛布からは日に干した布特有の匂いがした。
数秒、ここがどこなのか分からなかった。
その直後。
昨日の出来事が一気に戻ってきた。
婚約を破棄されたこと。
ベルフォード家を出たこと。
乗合馬車に乗ったこと。
この宿場町まで来たこと。
そして。
今日から自分は、エリシア・ベルフォードではなく、シアとして生きていこうと決めたこと。
シアは掛布の中で小さく息を吐いた。
(……夢じゃなかった)
安心したのか、不安になったのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
窓の外から人の声が聞こえてくる。
荷車の車輪が石畳を進む音。
馬のいななき。
商人らしい男の威勢のいい声。
朝を知らせる鐘。
それらを聞きながら、シアはしばらく寝台の上で動けずにいた。
誰も起こしに来ない。
『いつまで寝ているの』
という継母の声も。
『お姉様、これお願い』
というリリアナの声も。
父からの呼び出しもない。
昨夜、受付の女主人から聞いた馬車の出発時刻まではまだ余裕がある。
だから、もう少し横になっていてもいい。
そう理解しているのに。
(起きなきゃ)
身体だけが焦っていた。
何か仕事をしなければ。
寝ているところを見つかったら叱られる。
そんな感覚が身体の奥に染みついている。
シアはゆっくり上半身を起こした。
「……誰も、怒らない」
声にしてみる。
静かな部屋に自分の声が落ちる。
「少しくらい寝ていても……怒られない」
言ってから。
シアは再び枕へ頭を戻してみた。
横になる。
目を閉じる。
けれど心臓が妙に速い。
悪いことをしているような気持ちになる。
結局、ほんの数分で再び起き上がった。
「……難しい」
思わず呟く。
自由になれば、すぐに自由な人間になれるわけではないらしい。
そのことだけは、昨日から少しずつ分かり始めていた。
◇ ◇ ◇
身支度を整え、荷物を確認してから一階へ下りると、食堂にはすでに何人もの宿泊客がいた。
焼きたてのパンの香りが漂っている。
昨夜と同じ女主人が忙しそうに料理を運んでいたが、シアに気づくと片手を上げた。
「おはよう。よく眠れた?」
「あ……はい。おかげさまで」
「そりゃよかった。朝飯、そこ空いてるよ」
指さされた席へ向かう。
一瞬。
(手伝わなくていいの?)
そんな考えが浮かんだ。
女主人は忙しそうだ。
皿を運び、注文を聞き、厨房へ声をかけている。
自分なら皿を運べる。
テーブルも拭ける。
そう考え、立ったまま周囲を見ていると、女主人が怪訝そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「何か、お手伝いを……」
「え?」
「お忙しそうなので」
女主人は数秒、シアを見つめた。
それから豪快に笑った。
「宿代を払った客に働かせたら、こっちが怒られるよ」
「でも……」
「でもじゃない。あんたは朝飯を食べるのが仕事」
仕事。
そう言われると、妙に納得できた。
「……分かりました」
「よろしい」
女主人は満足そうに頷くと、別の客へ向かっていった。
シアは席へ座る。
ほどなくして、温かいミルクと野菜入りの卵料理、それからパンが運ばれてきた。
昨夜に続いて、自分のための食事。
シアは両手を膝へ置き、ほんの少し迷ってからパンへ手を伸ばした。
食べてもいい。
料金は払っている。
誰かの分を奪っているわけではない。
そう一つずつ自分へ言い聞かせる。
パンを口へ入れる。
「……おいしい」
昨日も思った。
けれど、朝の焼きたてはもっとおいしかった。
外側は香ばしく、中は柔らかい。
バターが少し塗られている。
何気なく厨房の方を見る。
開いた扉の向こうで、若い男が大きな籠からパンを取り出していた。
宿で焼いているわけではなく、どこかの店から届けられたものらしい。
昨日、馬車で出会った老婦人のことを思い出した。
『分からないなら、これから探せばいいさ』
仕事。
自分に何ができるのか。
何をしたいのか。
まだ分からない。
それでも、アルヴェイン公爵領の領都へ着いたら、まずは働かなければならない。
住む場所も必要だ。
(住み込みの仕事があれば、一番いい)
宿代を毎日払えば、当然お金は減る。
住み込みなら生活費を抑えられる。
それに。
夜、一人で知らない場所へ戻るよりも、働く場所と寝る場所が同じ方が安心できる気がした。
店。
宿。
食堂。
商家。
どこなら自分を雇ってくれるだろう。
シアは食事をしながら考えた。
そしてふと、昨日食べたパンを思い出す。
パン屋。
料理はできる。
パンを専門的に焼いた経験は多くないが、生地をこねたり、厨房の手伝いをしたことはある。
店頭なら計算も役に立つ。
帳簿だって扱える。
(……パン屋さんも、探してみようかな)
それはまだ、小さな候補にすぎなかった。
それでも、自分で仕事の候補を考えたことが少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、シアは受付へ向かった。
「昨日はありがとうございました」
鍵を返すと、女主人が受け取った。
「もう出るのかい?」
「はい。朝の馬車に乗ります」
「どっちへ?」
シアは一瞬、答えることを躊躇した。
昨日までなら、聞かれたことには正直に答えなければならないと思っていた。
けれど。
自分の行き先を誰にでも話す必要はない。
父が探している可能性もある。
「西へ」
少しだけ曖昧に答えた。
女主人は特に気にした様子もなく頷いた。
「そうかい。街道は人が多いから、荷物には気をつけなよ」
「はい」
「それと、知らない男についていっちゃ駄目だからね」
「……はい」
思わず素直に答えると、女主人が笑った。
「その返事なら大丈夫そうだ」
シアもほんの少し口元を緩めた。
「ありがとうございました」
今度は昨日より自然に言えた。
宿を出る。
朝の空気は少し冷たかった。
それでも空は晴れている。
乗合馬車の発着場へ向かう途中、小さな市場の前を通った。
野菜。
果物。
干し肉。
布。
日用品。
さまざまな店が並んでいる。
シアは歩きながら値段を確認した。
癖だった。
玉葱。
豆。
小麦粉。
石鹸。
糸。
針。
ベルフォード領より少し安いものもあれば、高いものもある。
(この辺りは小麦が安いのね)
畑が多かったことを思い出す。
だからパンも比較的安いのかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づき、シアは少しだけ安心した。
知らない街でも、値段を見ることはできる。
物の価値を比べることもできる。
自分の知識がすべて無意味になったわけではない。
そのとき。
「そこのお嬢さん」
男の声がした。
シアは足を止めた。
露店の前に立っていた男が手招きしている。
「旅人だろ? いい宿を知ってるよ。安くしてやる」
「……結構です」
「まあまあ。話くらい聞きなって」
男が近づいてくる。
シアは一歩下がった。
「必要ありません」
「そんな警戒するなよ。親切で――」
男が腕を伸ばした。
その瞬間。
身体が勝手に動いた。
シアはさらに大きく後ろへ下がり、腕を胸元へ引き寄せた。
息が止まる。
心臓が激しく打つ。
「何だよ」
男が顔をしかめる。
「触ってもいないだろ」
「……すみません」
反射的に謝ってしまった。
男の表情が変わる。
押せばいける。
そう判断したのかもしれない。
「別に怒ってねえよ。ほら、こっち――」
「おい」
別の低い声が飛んだ。
男が振り返る。
近くの青果店の主人らしい大柄な中年男が、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「朝から何やってる」
「何って、宿を紹介してやろうと――」
「頼まれてねえだろ」
「うるせえな」
「衛兵呼ぶか?」
その一言で、男の顔が歪んだ。
「ちっ」
舌打ちすると、人混みの中へ消えていく。
シアはその場から動けなかった。
呼吸が浅い。
怖かった。
本当に触られてはいない。
それでも、腕を掴まれると思った瞬間、身体が強張った。
「嬢ちゃん」
青果店の主人が声をかけてくる。
シアの肩が跳ねた。
それに気づいた男は、近づいてこなかった。
店先から少し離れたまま話す。
「旅人か?」
「……はい」
「だったら、ああいうのについていくなよ。この辺はまだ治安いい方だけど、どこの街にも馬鹿はいる」
「はい」
「宿探してんのか?」
「いいえ。これから馬車に乗ります」
「なら発着場はあっちだ」
男が通りの先を指さした。
シアが向かっていた方向と同じだった。
「ありがとうございます」
「おう」
それだけだった。
何も求められない。
名前も聞かれない。
シアは頭を下げ、歩き出した。
しばらく進んでから振り返る。
青果店の主人は、もう別の客と話していた。
(助けてくれた)
胸の奥がざわつく。
昨日から。
知らない人に何度も親切にされている。
パンをもらった。
宿の女主人は普通に接してくれた。
今も助けてもらった。
それなのに。
素直に嬉しいと思うより先に、怖くなる。
(何か、返さなくていいの?)
本当に。
何も要求されないのだろうか。
シアには、まだそれが分からなかった。
◇ ◇ ◇
それから数日。
シアは馬車を乗り継いだ。
小さな宿場町。
大きな商業都市。
川沿いの街。
森の近くにある村。
毎日、景色が変わった。
宿も変わった。
人も変わった。
最初のうちは、宿へ入るたびに緊張した。
名前を聞かれたときには特に。
「お名前は?」
最初にそう尋ねられた宿で、シアは一瞬答えられなかった。
「……シアです」
「シアさんね」
宿帳へ、その名が書かれた。
それだけだった。
家名は聞かれなかった。
身分も。
父親の名前も。
その瞬間。
本当に別の人間になったような気がした。
もちろん、エリシアでなくなったわけではない。
記憶も消えていない。
怖いものも。
傷ついたことも。
全部残っている。
それでも。
誰も知らない場所では、自分が誰なのかを自分で決められる。
それが少しずつ嬉しくなっていった。
一方で、旅は楽しいことばかりではなかった。
身体は疲れる。
馬車は揺れる。
雨の日もあった。
宿の寝台がひどく硬い夜もあった。
食事が口に合わないこともある。
夜中に隣室の男たちが騒ぎ、ほとんど眠れなかった日もあった。
一度、財布を狙われたこともある。
市場で買い物をしている最中、腰へ下げた小さな財布へ伸びる手に気づき、とっさに身体を捻って避けた。
少年だった。
シアと目が合うと、そのまま走って逃げていった。
その夜から、すぐ使う財布も外套の内側へ入れるようにした。
失敗もした。
ある街では馬車の発着場所を間違え、次の便まで半日待つことになった。
焦った。
自分を責めた。
(こんなこともできないなんて)
そう思った。
けれど。
誰にも怒鳴られなかった。
誰にも頬を叩かれなかった。
受付の男は、
「初めてなら間違える人もいるよ」
とだけ言った。
それで終わった。
その日の午後。
シアは待ち時間を使って街を歩いた。
そして初めて。
必要ではないものを買った。
小さな焼き菓子だった。
露店に並んでいた蜂蜜入りの焼き菓子。
一つ銅貨三枚。
旅に必要ではない。
なくても困らない。
買わなければ銅貨三枚を節約できる。
店の前を一度通り過ぎた。
それでも、甘い匂いが忘れられなかった。
戻った。
「……一つください」
自分のためだけに。
食べたいという理由だけで。
銅貨を払った。
街の広場にある長椅子へ座り、紙に包まれた焼き菓子を一口食べる。
蜂蜜の甘さが広がった。
「……おいしい」
自然に笑っていた。
そのことに気づき、シアは口元へ手を当てた。
誰かに買ってもらったものではない。
誰かの残りでもない。
自分で選んだ。
自分で買った。
自分で食べた。
たったそれだけ。
それだけなのに。
その小さな焼き菓子の味を、シアは長く忘れないような気がした。
◇ ◇ ◇
旅を始めてから十日ほどが過ぎたころ。
馬車の御者が声を張り上げた。
「もうすぐアルヴェイン公爵領だぞ!」
シアは顔を上げた。
胸が大きく跳ねる。
乗客たちが窓の外を見る。
シアも身体を少し傾けた。
遠くに石造りの大きな境界標が見えてきた。
街道の両脇には広大な畑が広がっている。
麦畑。
果樹園。
牧草地。
これまで通ってきた地域より、道幅も広い。
荷馬車の数も多かった。
「ここから領都まで、あとどれくらいですか?」
シアは思い切って御者へ尋ねた。
「今日中には無理だな。途中の街で一泊して、明日の昼過ぎには着く」
「そうですか」
あと一日。
胸が高鳴る。
同時に、不安も大きくなる。
目的地へ着けば、旅は終わる。
その代わり。
今度は生活を始めなければならない。
仕事。
住む場所。
食事。
すべて自分で用意する。
旅の間は、次の馬車へ乗るという明確な目的があった。
けれど領都へ着いたら。
誰も次にすることを教えてくれない。
(大丈夫)
そう思いかけて。
シアは少し考えた。
「……不安だけど」
小さく言い直した。
大丈夫かどうかは、まだ分からない。
だから。
「一つずつやろう」
それでいい。
今はそれしかできない。
◇ ◇ ◇
翌日。
昼を少し過ぎたころ。
乗合馬車が丘を越えた。
そして。
「あれが領都だ」
誰かが言った。
シアは窓の外を見た。
息を呑んだ。
遠くに大きな街が広がっている。
高い城壁。
その向こうに連なる無数の屋根。
教会らしい尖塔。
大きな時計塔。
さらに奥。
街を見下ろすような高台には、白い石造りの巨大な屋敷が見えた。
アルヴェイン公爵家の城館だろうか。
王都ほどではない。
それでも、シアがこれまで見てきたどの街よりも大きかった。
街道には何台もの荷馬車が並び、旅人たちが行き交っている。
門の前には衛兵が立ち、荷物を積んだ商人たちの確認をしていた。
活気がある。
人が多い。
何より。
ベルフォード伯爵家から、遠い。
本当に遠い。
シアは膝の上で両手を握った。
(着いた)
ここまで来た。
誰にも連れ戻されなかった。
父にも。
継母にも。
ディートリヒにも。
「領都に入るぞ!」
御者の声が響く。
馬車が巨大な門をくぐった。
その瞬間。
空気が変わった。
石畳を行き交う人々。
露店から上がる呼び声。
鍛冶屋から聞こえる金属音。
焼いた肉の匂い。
香辛料。
そして。
パンの香り。
シアは思わずそちらへ顔を向けた。
通りの一角に、小さなパン屋があった。
店先には籠いっぱいのパンが並び、人々が次々と買っていく。
その隣には食堂。
向かいには仕立屋。
少し先には宿屋。
さらに奥には大きな商店が並んでいる。
(ここで、暮らすんだ)
胸の奥に、期待と恐怖が同時に広がった。
馬車が発着場へ止まる。
乗客たちが次々に降りていく。
シアも旅行鞄を持ち、地面へ足を下ろした。
十日ほど続いた旅が終わった。
知らない街。
知っている人は一人もいない。
頼れる相手もいない。
けれど。
ここには、エリシア・ベルフォードを知る人もいない。
「……よし」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
まず宿。
それから街を確認する。
仕事を探すのは明日からでも遅くない。
そう考えた直後。
シアの目に一枚の紙が入った。
通りの掲示板。
さまざまな紙が貼られている。
商人募集。
荷運び。
厨房補助。
宿屋の清掃。
住み込み使用人。
シアは吸い寄せられるように近づいた。
一枚ずつ読む。
文字は問題なく読める。
条件も理解できる。
ただし、身元保証を求める仕事が多かった。
(やっぱり、そこが問題になる)
貴族の娘だと明かすわけにはいかない。
紹介状もない。
シアは一枚ずつ確認していく。
そのとき。
掲示板の端。
少し古びた紙が目に留まった。
『住み込み働き手募集』
心臓が跳ねた。
その下に小さな文字が続いている。
『朝が早いため、早起きのできる者。掃除、店番、簡単な調理補助。読み書き、計算のできる者歓迎。経験不問。食事付き。住み込み可』
シアは食い入るように読んだ。
身元保証人については書かれていない。
そして最後。
店の名前と場所が記されていた。
パン屋だった。
「……パン屋さん」
旅の途中で出会った老婦人を思い出した。
昨日までなら。
偶然だと思っただろう。
今も偶然には違いない。
それでも。
何かに背中を押されたような気がした。
シアは掲示板から紙を剥がさなかった。
場所だけを覚える。
商業区の南側。
中央広場から二本裏へ入った通り。
ここから、それほど遠くない。
今から行けば、まだ日が高い。
けれど。
足が動かなかった。
(私なんかが行ってもいいの?)
経験不問と書いてある。
それでも怖い。
断られたら。
身元を聞かれたら。
何もできないと思われたら。
知らない人に自分を評価される。
そのことが恐ろしかった。
「……」
シアは掲示板の前で、鞄の持ち手を握り締めた。
周囲を人々が通り過ぎていく。
誰もシアを気にしていない。
自分が応募しようが、諦めようが、誰も怒らない。
それはつまり。
決めるのは自分なのだ。
「……行ってみよう」
声が震えた。
「断られたら、そのとき考えればいい」
そんな考え方も、少しずつ覚え始めていた。
シアは歩き出した。
中央広場を抜ける。
大きな通りから一本。
さらにもう一本。
人通りが少し落ち着いた場所に、その店はあった。
赤茶色の屋根。
木枠の窓。
扉の横には、小麦の穂をかたどった看板が揺れている。
窓越しに、焼き上がったパンが見えた。
扉を開ける客。
出てくる親子。
店内から聞こえる明るい声。
そして、何より。
温かなパンの香り。
シアは店の前で立ち止まった。
ここまで来たのに。
最後の一歩が踏み出せない。
(怖い)
断られるのが。
知らない人と話すのが。
自分に価値があるのか確かめるのが。
ベルフォード家では、どれだけ働いても役に立つと言われたことなどほとんどなかった。
それでも仕事は増え続けた。
自分ができることが、本当に外でも通用するのか。
分からない。
「……でも」
シアは旅行鞄へ目を落とした。
ここへ来るまで、いくつものことを自分でやった。
家を出た。
馬車に乗った。
宿へ泊まった。
知らない街を歩いた。
失敗もした。
それでも、ここまで来た。
なら。
もう一つくらい。
できるかもしれない。
シアは深く息を吸った。
そして。
パン屋の扉へ手を伸ばした。
扉につけられた小さな鐘が、からん、と澄んだ音を立てる。
焼きたてのパンの香りが、一気に濃くなった。
「いらっしゃい!」
店の奥から、女性の明るい声が飛んできた。
シアは旅行鞄を握り締めた。
逃げたくなる気持ちを堪えながら、ゆっくり口を開く。
「……あの」
声が少し震えた。
それでも。
今度は飲み込まなかった。
「表の求人を見ました。まだ、働く方を募集していらっしゃいますか?」
それはシアが生まれて初めて、自分のために仕事を求めた瞬間だった。




