第3話 初めて、自分のために使うお金
馬車がベルフォード伯爵領の中心街を離れてから、どれほど経ったのだろう。
朝にはまだ低かった太陽がすっかり高くなり、青い幌の隙間から差し込む光が木製の床を細長く照らしていた。舗装された道を外れてからは揺れも大きくなり、車輪が窪みを踏むたび、乗客たちの身体が揃って上下する。
シア――そう名乗ろうと決めたばかりのエリシアは、膝の上に旅行鞄を抱えたまま窓の外を眺めていた。
もう見覚えのある景色はない。
緩やかな丘。
遠くに広がる畑。
街道沿いに点在する小さな家。
ときおりすれ違う荷馬車。
何もかもが知らないものばかりだった。
(本当に、出てきたんだ)
何度確認しても、まだ実感が追いつかない。
朝まで自分はベルフォード伯爵邸にいた。
継母のベアトリーチェに呼び止められ、それでも初めて自分の意思で「戻りません」と言った。
それから門を出て、自分で乗合馬車の代金を払い、こうして知らない土地へ向かっている。
誰にも命じられていない。
父の許可もない。
次に何をするべきか指示してくれる人もいない。
自由というものは、もっと胸が躍るものだと思っていた。
けれど実際に手へ入れてみれば、それは想像していたよりずっと重かった。
「……」
シアは外套の上から、内側に縫いつけた隠しポケットへそっと触れた。
金はある。
少なくとも、今日明日に困るほど少なくはない。
旅費も計算した。
目的地も決めている。
アルヴェイン公爵領。
この国でも有数の広さと豊かさを持つ領地であり、その領都は王都に次ぐほど人と物が集まると聞いている。
ベルフォード家からは遠い。
ヴァルモント侯爵家からも遠い。
それが何より重要だった。
そこまで行けば、誰も自分を知らないかもしれない。
エリシア・ベルフォードではなく、ただのシアとして生きられるかもしれない。
そう考えるたび、わずかに胸が軽くなる。
けれど、その直後には別の不安が湧いてきた。
(仕事が見つからなかったら?)
アルヴェイン公爵領の領都が大きな街だということは知っている。
だが、大きな街だからといって、自分を雇ってくれる場所があるとは限らない。
貴族令嬢として教育は受けてきた。
文字も読める。
計算もできる。
帳簿も扱える。
料理、掃除、洗濯、裁縫も一通りできる。
市場での買い物も、屋敷の使用人に押し付けられて何度も経験している。
けれど、それらはすべてベルフォード家の中で行ってきたことだ。
賃金を受け取って働いた経験はない。
紹介状もない。
身元を明かすこともできない。
伯爵令嬢であることを隠しながら、どうやって仕事を探せばいいのか。
そこまでは分からなかった。
(それでも、探すしかない)
シアは小さく息を吐いた。
分からないから戻る、という選択だけはしたくなかった。
「お嬢さん」
不意に声をかけられ、肩が跳ねた。
顔を上げる。
向かい側に座っていた老婦人が、少し心配そうにこちらを見ていた。
白髪を後ろで丸くまとめ、茶色の外套を着た小柄な女性だった。隣には夫らしい老人が座り、揺れる馬車の中で器用に居眠りをしている。
「はい」
「顔色が良くないけど、大丈夫かい?」
「大丈夫です」
考えるより先に答えていた。
いつもの言葉だった。
老婦人はしばらくシアの顔を見つめる。
「そうかい?」
「はい」
「ならいいけどねえ。ずっと朝から何も食べてないだろう?」
シアは目を瞬いた。
言われて初めて気づいた。
朝食を食べていない。
伯爵邸を出ることばかり考えていて、食事など完全に頭から抜けていた。
「……そういえば」
「やっぱり」
老婦人が苦笑した。
「若いからって何も食べないで旅をしたら駄目だよ。馬車は思っているより疲れるからね」
そう言うと、老婦人は足元に置いていた籠を開いた。
布に包まれた丸いパンを一つ取り出す。
「ほら」
差し出された。
シアは反射的に手を引いた。
「い、いえ」
「嫌いかい?」
「そうではありません。ただ……いただく理由がありません」
「理由?」
老婦人が目を丸くする。
「私、何もしていませんから」
何かを受け取るなら、その分を返さなければならない。
それがシアにとっては当たり前だった。
食事を与えられるなら働く。
物をもらったら言うことを聞く。
優しくされたら、その人の役に立たなければならない。
何もせずにもらっていいものなど、ほとんど知らない。
老婦人は数秒きょとんとしていたが、やがて皺の刻まれた目元を柔らかくした。
「お腹を空かせた若い子にパンを一つあげるのに、そんな大層な理由がいるのかね」
「ですが……」
「昨日焼きすぎただけだよ。余ったら固くなる。あんたが食べてくれた方がパンだって嬉しいさ」
「パンが……?」
「そうそう」
老婦人が笑う。
隣で眠っていた老人が片目を開けた。
「また適当なことを言ってるな」
「あら。だったらあなたが食べる?」
「もう二つ食った」
「なら黙ってなさい」
老人は肩をすくめると、また目を閉じた。
そのやり取りを見て、シアはわずかに目を見開いた。
誰も怒っていない。
老婦人も本気で腹を立てているわけではなく、老人も楽しそうだった。
こんなふうに言い合う夫婦を、間近で見た記憶がほとんどない。
「ほら」
もう一度パンを差し出される。
シアは迷った。
それでも、空腹を自覚してしまったせいか、焼けた小麦の香りに胃が小さく反応した。
「……本当に、いただいても?」
「もちろん」
「何か、お返しを……」
「いらないよ」
あっさり言われた。
「でも」
「だったら、いつかあんたが余裕のあるときに、お腹を空かせてる誰かに何かしてやればいい。それでおあいこさ」
シアは差し出されたパンを見つめた。
しばらくして、恐る恐る両手で受け取る。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
老婦人はそれ以上何も言わなかった。
名前すら聞かれない。
どこから来たのかも。
どこへ行くのかも。
シアはパンを少しちぎり、口へ運んだ。
昨日焼いたものなのだろう。表面は少し硬くなっていたが、中には干した果物が練り込まれていて、噛むほどに優しい甘さが広がった。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。
老婦人が嬉しそうに笑った。
「そうだろう? うちの人が焼いたんだよ」
シアは眠っている老人を見る。
「パン職人なのですか?」
「昔はね。今は息子夫婦に店を譲って、たまに手伝うくらいさ」
パン屋。
シアはもう一口食べた。
焼きたてなら、もっと香りが強いのだろう。
ベルフォード邸にも毎朝パンは届いていた。
けれど、誰が焼いているのか考えたことはなかった。
食卓に並ぶものは、いつも最初からそこにあるものだった。
もっとも、シア自身が厨房を手伝うようになってからは、食べ物が勝手に出来上がるわけではないことくらい知っている。
粉を量る。
生地をこねる。
火加減を見る。
毎日同じように作っても、気温や湿度で仕上がりは変わる。
「……パン屋さん」
小さく呟いた。
「興味があるのかい?」
老婦人に尋ねられ、シアは少し考えた。
「分かりません」
正直に答えた。
「そうかい」
老婦人は笑った。
「分からないなら、これから探せばいいさ」
その言葉が、なぜか胸に残った。
これから探す。
そんな考え方をしたことがなかった。
今までは、すべて最初から決められていた。
伯爵令嬢として生きる。
父の命令に従う。
決められた相手と結婚する。
妻として家を支える。
それが自分の人生なのだと思っていた。
何をしたいのかと聞かれたこともない。
自分自身も、考えたことがなかった。
(これから探しても、いいのかな)
シアは残ったパンを見つめた。
すぐに答えは出なかった。
けれど。
先ほどまでより少しだけ、目的地までの道が怖くなくなった。
◇ ◇ ◇
そのころ。
ベルフォード伯爵邸では、朝から怒声が響いていた。
「どういうことだ!」
グレゴール・ベルフォード伯爵が机を叩き、その音に執事と侍女たちが揃って肩を震わせる。
書斎の中央にはベアトリーチェが立っていた。
その隣には、朝食を終えたばかりのリリアナがいる。
「ですから、今朝、出ていったのよ」
ベアトリーチェは苛立たしげに答えた。
「なぜ止めなかった!」
「止めたわよ。けれど、あの子が聞かなかったの」
「聞かなかっただと?」
グレゴールの眉間に深い皺が刻まれる。
それは彼にとって、理解しがたい言葉だった。
エリシアが言うことを聞かない。
これまでなら考えられなかった。
命令すれば従った。
叱れば謝った。
少し強く言えば、それ以上反論することもなかった。
「すぐに連れ戻せ」
グレゴールは執事へ命じた。
「馬車を出せ。街へ行った程度だろう」
「旦那様、それが……」
年配の執事が言いにくそうに口を開いた。
「何だ」
「エリシアお嬢様のお部屋を確認いたしましたところ、数着の衣服と日用品がなくなっております」
「だから何だ」
「旅行用の鞄もございません。また、普段お使いになっていた裁縫道具の一部もなくなっておりますので……一時的な外出ではない可能性がございます」
部屋の空気が変わった。
リリアナが目を丸くする。
「まさか、本当に家出したの?」
その声には心配よりも驚きの方が強かった。
「お姉様が?」
信じられない。
そんな顔をしている。
ベアトリーチェが腕を組んだ。
「私にはこの家を出ると言ったわ」
「どうして止めなかったのよ、お母様」
「止めたと言っているでしょう」
「だって……」
リリアナは不満そうに唇を尖らせた。
「今日、侯爵家の資料をまとめてもらう予定だったのに」
その言葉に、グレゴールも思い出したように机を見る。
「そうだ。資料はどうなっている」
執事が一瞬黙った。
「エリシアお嬢様のお部屋にございました」
「なら問題ないだろう」
「ですが……」
「何だ」
「ほとんど整理されておりません」
グレゴールの顔が険しくなった。
「昨夜、やるよう命じた」
「一枚目の途中まで記載されておりますが、それ以降は手つかずでございます」
「……あいつ」
グレゴールの声が低くなる。
「仕事を放り出して逃げたのか」
その言葉に、執事は何も答えなかった。
ただ、ごくわずかに視線を伏せた。
長くこの屋敷に勤めている彼は知っている。
エリシアがどれほど多くの仕事をしていたのか。
しかし、口を挟むつもりはなかった。
この屋敷では余計なことを言わない方が長く働ける。
「お父様、どうしましょう」
リリアナが不安そうに父を見る。
「今日中に侯爵家へ行く予定なのよ。ディートリヒ様のお母様にご挨拶しなければならないし……私、何をお持ちすればいいのかしら」
「普通に菓子か花でも持っていけばいいだろう」
「でも、好みが分からないわ」
「昨日までエリシアが何度も行っていたのだから、記録があるはずだ」
「それをお姉様がまとめる予定だったのよ」
リリアナの声に苛立ちが混じり始めた。
「それに、ディートリヒ様へ贈るハンカチだって完成していないの」
ベアトリーチェが眉をひそめる。
「刺繍くらい自分でなさい」
「無理よ。私、あんな細かいこと嫌いだもの」
「なら侍女にやらせればいいでしょう」
「マーサはお姉様ほど上手じゃないわ」
その場にいた侍女のマーサが、気まずそうに目を伏せた。
リリアナは気づかない。
「お姉様、何を考えているのかしら。私が今日困るって分かっているでしょうに」
その言葉に、執事の視線がほんの一瞬だけリリアナへ向いた。
昨日。
姉の婚約者を奪った。
そして今日。
その姉が自分のために刺繍を仕上げなかったことへ腹を立てている。
だが、誰も指摘しない。
この家では、それが長年の当たり前になっていた。
「とにかく捜せ」
グレゴールが命じた。
「駅馬車の発着場、商店街、教会。それから知り合いの家もだ」
「かしこまりました」
「見つけたら連れ戻せ。多少嫌がっても構わん」
執事が一礼する。
「どちらまで捜索いたしましょう」
「どちらまで?」
グレゴールは苛立ったように眉を寄せた。
「街の中に決まっているだろう」
「領外へ向かわれた可能性は?」
一瞬。
沈黙が落ちた。
そしてグレゴールは鼻で笑った。
「エリシアにそんな度胸があるものか」
ベアトリーチェも頷く。
「そうね。少し感情的になっているだけでしょう。お金だって持っていないはずだもの」
「そのうち困って戻ってくる」
グレゴールはそう言い切った。
リリアナも安心したように胸を撫で下ろす。
「そうよね。お姉様が一人で暮らせるわけないもの」
誰一人知らなかった。
エリシアが何年も前から少しずつ金を貯めていたことを。
屋敷の仕事だけではなく、料理も、洗濯も、掃除も、裁縫もできることを。
市場の相場まで覚えていることを。
何より。
彼女がすでに領都を離れる乗合馬車に乗り、ベルフォード伯爵領の境界へ近づいていることを。
彼らはエリシアを見ていた。
けれど。
一度も、彼女がどんな人間なのかを見ようとはしていなかった。
◇ ◇ ◇
夕刻。
乗合馬車は最初の宿場町へ到着した。
長時間揺られ続けたせいで、馬車を降りた瞬間、シアの足元がふらついた。
「おっと」
隣にいた老人が腕を伸ばしかける。
シアは反射的に身を引いた。
「……っ」
老人の手が止まった。
その瞬間、自分が何をしたのか気づく。
「申し訳ありません!」
深く頭を下げると、老人は困ったように妻と顔を見合わせた。
「いや、謝ることじゃないが」
「すみません。私……」
触れられる。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
父に腕を掴まれた記憶。
継母に頬を叩かれた記憶。
使用人に肩を押された記憶。
いくつもの感覚が一瞬だけ蘇った。
(違う)
この人は違う。
分かっている。
それなのに。
身体は理解してくれなかった。
老婦人が夫の腕を軽く叩いた。
「急に手を出したら驚くでしょう」
「転びそうだったからだろ」
「分かってるよ」
それから老婦人はシアへ向き直った。
「ごめんね。驚かせたね」
謝られた。
また。
シアは何も言えなくなった。
悪いのは自分だと思っていた。
勝手に怯えた自分が。
それなのに、この人は理由を聞かず、自分の方から謝った。
「……いえ」
やっとそれだけ答える。
「お二人には、何も……」
「なら、お互い様だ」
老人が笑った。
「旅は疲れるからな」
それ以上、追及されなかった。
どうして触れられるのを嫌がったのか。
誰かに何かされたのか。
家族はどこにいるのか。
何一つ聞かれない。
それがありがたかった。
老夫婦とはここで別れるらしい。
「じゃあね、お嬢さん」
老婦人が手を振る。
シアも慌てて頭を下げた。
「パン、本当にありがとうございました」
「いいんだよ」
「……あの」
老婦人が振り返る。
シアは少し迷ってから、言った。
「とても、おいしかったです」
老婦人の顔がほころんだ。
「それはよかった」
そのまま二人は人混みの向こうへ消えていった。
名前も知らない。
きっと、もう会うこともない。
それでも。
シアは二人が消えた方向をしばらく見つめていた。
胸の奥に、小さな温かさが残っている。
やがて周囲が薄暗くなってきたことに気づき、慌てて歩き出した。
今夜の宿を探さなければならない。
事前に調べた相場では、この程度の宿場町なら食事なしの安宿で銅貨数十枚。治安を考えれば、少し高くても街道組合が認めている宿の方が安全だ。
シアは通りに並ぶ看板を確認していった。
最も安いところを選ぶつもりだった。
けれど。
一軒の宿の前で足が止まる。
一階が食堂になっているらしく、窓から明るい光が漏れていた。
扉の横には、街道組合の認可を示す印が掲げられている。
値段を見る。
一泊、夕食と朝食付きで銀貨一枚と銅貨十五枚。
食事なしの宿より高い。
シアは財布の中身を頭の中で計算した。
払える。
だが、節約するならもっと安い宿がいい。
(贅沢はできない)
仕事がいつ見つかるか分からないのだから。
そのとき。
腹が鳴った。
シアは思わずお腹を押さえた。
昼にパンを一つ食べただけだ。
「……」
安い宿に泊まり、夕食を抜く。
それが一番節約になる。
一食くらい食べなくても死なない。
ベルフォード邸でも、食事を抜かれたことは何度もある。
慣れている。
そう考えてから。
シアは動きを止めた。
(どうして?)
誰も罰していない。
失敗もしていない。
怒られてもいない。
それなのに、なぜ自分から食事を抜こうとしているのだろう。
お金はある。
自分で貯めたお金だ。
食事代を払っても、予定している旅費と当面の生活費は残る。
それでも、食べることに罪悪感がある。
(私が食べたいから、お金を使っても……いいの?)
当たり前のはずのことが、分からなかった。
シアは宿の前でしばらく立ち尽くした。
通りを行き交う人々が横を通り過ぎていく。
やがて。
意を決して扉を開けた。
「いらっしゃい!」
恰幅のいい中年女性がカウンターの向こうから声をかけてきた。
シアの身体が一瞬強張る。
怒鳴られたわけではない。
明るい声だった。
「お泊まり?」
「……はい」
「一人?」
「はい」
「食事付きなら銀貨一枚と銅貨十五枚。湯を部屋まで運ぶなら追加で銅貨五枚だよ」
シアは財布へ手を伸ばした。
湯。
身体を拭きたい。
朝から馬車に乗り続け、埃も被っている。
けれど、それには追加のお金がかかる。
「……お湯も、お願いします」
言ってしまった。
胸がどきどきした。
「はいよ。じゃあ銀貨一枚と銅貨二十枚ね」
硬貨を払う。
女主人はきちんと数え、鍵を渡した。
「二階の奥から三番目。夕食は日が落ちてから鐘二つまでだから、それまでに下りておいで」
「ありがとうございます」
階段を上がる。
部屋は小さかった。
ベッド。
机。
椅子。
小さな窓。
それだけ。
伯爵邸の自室よりさらに狭い。
家具も上等ではない。
それでも。
扉を閉めた瞬間。
シアはその場に立ち尽くした。
誰も入ってこない。
父も。
継母も。
リリアナも。
侍女も。
「……私の、部屋」
一晩だけ。
お金を払って借りただけ。
それでも今夜、この部屋を使う権利は自分にある。
誰かの機嫌次第で追い出されることはない。
旅行鞄を床へ置いた。
ベッドへ腰を下ろす。
硬い。
それなのに。
「……ふふ」
小さな笑いが漏れた。
自分でも驚いて口元を押さえる。
何が面白いのか分からない。
ただ。
少しだけ嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕食には、豆と野菜を煮込んだ温かいスープと、厚切りのパン、それから鶏肉を焼いたものが出た。
豪華な料理ではない。
伯爵邸なら使用人用の食事と呼ばれる程度かもしれない。
けれどシアは、一口目のスープを飲んだところで手を止めた。
温かい。
塩気が身体へ染み込んでいく。
昼間のパンとは違う。
今度は自分がお金を払って、自分のために用意してもらった食事だった。
誰かの残り物ではない。
リリアナが食べなかったものでもない。
厨房で余ったものを与えられたわけでもない。
最初から。
自分が食べるための一人分。
シアはゆっくり噛んだ。
(おいしい)
胸が苦しくなる。
どうして食事をしているだけで泣きそうになるのか、自分でも分からなかった。
周囲には旅人たちがいる。
酒を飲んで笑っている男たち。
子どもへパンをちぎって渡す母親。
仕事の話をしている商人。
誰もシアを見ていない。
それがありがたかった。
最後のパンまで食べ終えた。
お腹がいっぱいだった。
その感覚に、罪悪感が湧く。
(食べすぎたかも)
けれど。
料金に含まれていた一人分を食べただけだ。
誰の分も奪っていない。
シアは膝の上で手を握った。
「……おいしかった」
今度は、自分のためだけに呟いた。
部屋へ戻ると、頼んでいた湯が届いた。
身体を拭き、髪を整え、寝間着へ着替える。
それから明日の馬車について受付で聞いてきた内容を紙へ書き出した。
朝一番の便。
次の大きな街までの料金。
所要時間。
その先の乗り継ぎ。
アルヴェイン公爵領までは、まだ遠い。
何日もかかる。
けれど。
一日目は終わった。
シアはベッドへ入った。
静かだった。
廊下を誰かが歩く音はする。
階下から笑い声も聞こえる。
それでも、父が扉を開けることはない。
継母に呼び出されることもない。
リリアナから明日の予定を押し付けられることもない。
ディートリヒから書類を届けろという使いが来ることもない。
「……」
シアは掛布を胸元まで引き上げた。
安心した途端。
今度は別の不安が押し寄せた。
(明日も大丈夫かな)
馬車に乗れるだろうか。
道を間違えないだろうか。
お金を盗まれないだろうか。
仕事は見つかるだろうか。
父が追ってきたら。
ディートリヒが――。
そこまで考えて、シアは目を閉じた。
怖い。
まだ怖い。
でも。
「今日は……ちゃんと、できた」
家を出た。
馬車に乗った。
知らない人からパンをもらった。
宿を探した。
自分で料金を払った。
食事をした。
湯まで頼んだ。
他人から見れば、何でもないことばかりなのだろう。
それでもシアにとっては、全部が初めてだった。
誰かに言われたからではなく。
自分で決めたこと。
「明日も……自分で決めよう」
小さく呟く。
やがて瞼が重くなった。
疲労に抗う必要はなかった。
仕事は残っていない。
誰かのために夜更かしする必要もない。
眠っていい。
そう思った瞬間。
シアの身体から、ゆっくりと力が抜けた。
その夜。
遠く離れたベルフォード伯爵邸では、彼女が残した仕事を誰が片づけるのかを巡って、小さな苛立ちが生まれ始めていた。
けれどシアは、まだ知らない。
知らなくてよかった。
今の彼女に必要なのは、自分がいなくなった家の心配ではない。
明日の朝。
自分が何を食べ、どの馬車に乗り、どこへ向かうのか。
そんな、自分自身のための小さな選択だった。
そして初めて自分のお金で借りた小さな部屋で、シアは誰にも起こされることなく、深い眠りへ落ちていった。




