第2話 この家を出る朝
夜が明けるよりも早く、エリシアは目を覚ました。
正確には、ほとんど眠れていなかった。
薄い掛布の中で何度も寝返りを打ち、そのたびに枕元へ置いた旅行鞄が目に入った。窓の外が暗いうちはまだ時間があると思い、ほんの少し空が白み始めると、今度は寝過ごしてしまったのではないかと不安になった。
結局、眠れたのはほんのわずかな時間だけだった。
それでも不思議と身体は重くない。
緊張しているのだろう。
胸の奥では、昨日からずっと心臓が落ち着かない速さで脈打っていた。
エリシアはベッドから起き上がると、窓辺へ歩いた。
厚いカーテンを指二本分だけ開く。
東の空が、夜の藍色から薄い灰色へ変わり始めていた。
庭はまだ暗い。朝露をまとった木々の輪郭がぼんやりと見え、その向こうに使用人棟の屋根がある。
厨房ではそろそろ火が入るころだろう。
厩舎番も起き始める。
あと少しすれば、屋敷全体が動き出す。
(行かなきゃ)
胸が強く締めつけられた。
昨日の夜には確かに決めた。
ここから出る。
ベルフォード伯爵家を捨てる。
父も、継母も、リリアナも。
そして、ディートリヒも。
それなのに、実際にその時間が近づくと、足元から冷えていくような恐怖が湧き上がってくる。
(本当に出ていいの?)
昨日から何度も浮かんだ疑問だった。
父の許可は得ていない。
当然、継母にも話していない。
貴族令嬢が一人で家を出るなど、普通ではないことくらいエリシアにも分かっている。
見つかったら、連れ戻されるかもしれない。
父は怒るだろう。
それだけでは済まない可能性もある。
昔、父の命令に逆らったときのことを思い出しそうになり、エリシアは反射的に左腕へ右手を重ねた。
もう痕は残っていない。
それでも、強く掴まれたときの痛みを身体だけは覚えている。
呼吸が浅くなった。
「……大丈夫」
いつもの言葉を口にする。
だが、そこでエリシアは唇を閉じた。
昨日までなら、それで終わっていた。
痛くても大丈夫。
苦しくても大丈夫。
怖くても大丈夫。
自分さえ我慢すれば大丈夫。
けれど。
(違う)
エリシアは窓枠へ置いていた手を握った。
(怖い)
怖くないわけではない。
むしろ、逃げ出したいほど怖い。
家から出ることも。
一人になることも。
これから何が起こるか分からないことも。
全部怖い。
だからこそ、ここに残ってはいけない。
恐怖に負けて今日を逃したら、きっと明日も出られない。
その次の日も。
そうしているうちに、父は新しい縁談を決めるだろう。
昨日、はっきり言っていた。
『お前には別の縁談を探す』
次は誰だろう。
どんな男だろう。
優しい人かもしれない。
ディートリヒよりもずっと誠実な人かもしれない。
けれど、そんなことは問題ではなかった。
もう、自分の人生を他人に決められたくない。
その思いだけは、昨日から少しも揺らいでいなかった。
エリシアはカーテンから離れた。
洗面台の水で顔を洗う。
冷たい水が肌に触れ、ようやく頭がはっきりしてきた。
鏡の中には、ひどい顔をした自分がいる。
目の下には薄く影ができ、顔色も良くない。
それでも髪を整え、目立たないよう一つにまとめた。
服は昨夜のうちに選んである。
貴族令嬢らしい装飾の多いドレスではなく、普段から屋敷の仕事をするときに着ていた濃い茶色の簡素なワンピースだった。上から灰色の外套を羽織れば、遠目には裕福な商家の娘程度にしか見えないはずだ。
少なくとも、伯爵令嬢には見えない。
衣装棚を開く。
そこには数着のドレスが残っている。
どれも古い。
それでも、自分で裾を直し、ほつれを繕いながら長く着てきたものだ。
持っていこうとは思わなかった。
荷物になる。
それに。
「……いらない」
小さく呟いた。
思い出があるわけでもない。
あの服を着て、楽しかった記憶などほとんどなかった。
夜会へ行けばリリアナと比べられ、家へ戻れば父から愛想が足りないと叱られた。
ディートリヒに会う日には少しでも見苦しくないよう時間をかけて手入れをしたが、その彼から昨日、地味で華がないと言われたばかりだ。
なら、もういい。
エリシアは衣装棚を閉じた。
旅行鞄を机へ載せ、中身をもう一度確認する。
着替え。
下着。
裁縫道具。
櫛。
石鹸。
布。
最低限の薬。
亡き母の銀のペンダント。
そして、革袋。
金貨と銀貨をすべて一つの袋へ入れてはいない。
旅の途中で財布を奪われた場合に備え、三つに分けた。
すぐ使う分は小さな財布へ。
残りの一部は旅行鞄の底。
もう一部は外套の内側へ自分で縫いつけた隠しポケットに入れてある。
昨夜、逃げると決めてから考えたことではない。
金を隠し持つようになったころから、もしものときには分けて持とうと決めていた。
(本当に、ずっと逃げたかったんだ)
そう思うと、少しだけ苦しくなった。
自分でも認めないようにしていただけだった。
いつかディートリヒと結婚すれば家を出られる。
そう思っていたから、実際に逃げる必要はないと自分へ言い聞かせてきた。
婚約者との未来を信じていたというより、そこにしか出口がなかったのだ。
昨日、その出口が閉じた。
だから初めて、自分で別の扉を探した。
エリシアは鞄を閉じた。
そのとき。
机の端に積まれた紙の束が目に入った。
昨夜、父から命じられた仕事だった。
リリアナへ渡すための、ヴァルモント侯爵家に関する資料。
侯爵夫妻の好み。
親族関係。
付き合いの深い家。
贈答品の記録。
過去に招待された夜会や茶会。
付き合いのある商家。
そして、ディートリヒ本人の予定や好み。
これまでエリシアが少しずつ覚え、記録し、整理してきた情報だった。
何年分もある。
本来なら昨夜から今朝にかけて、リリアナでも理解できるよう整理し直すよう父から命じられていた。
エリシアは紙束へ近づいた。
一番上の紙を取る。
途中まで書いてあった。
昨夜、部屋へ戻った直後。
まだ逃げる決意が固まりきる前に、習慣で手をつけてしまったものだった。
『ヴァルモント侯爵夫人――春の贈答品については黄色の花を避けること。亡くなった妹君を連想されるため――』
そこまで書かれている。
エリシアはしばらく文字を見つめた。
「……」
続きを書こうと思えば書ける。
資料を完成させてから出ても、まだ間に合うかもしれない。
少なくとも最低限だけまとめておけば、父は困らない。
リリアナも困らない。
そう考えた瞬間。
昨日の言葉が蘇った。
『選ばれるって、そういうことだと思うから』
指先が紙の端を強く掴んだ。
続いてディートリヒの声。
『書類を整理するだけなら使用人を雇えば済む』
最後に父の声。
『それくらいしかお前にも役目はないだろう』
胸の奥が、じくりと痛んだ。
エリシアは紙を机へ戻した。
「……使用人を雇えばいいわ」
自分の口から出た言葉に驚いた。
誰かに聞かれたら、なんて性格の悪い女だと言われるかもしれない。
妹が困ると分かっていて仕事を放り出すのか、と父なら怒るだろう。
それでも。
「ディートリヒ様が、そう仰ったのだもの」
書類を整理するだけなら使用人を雇えば済む。
なら、そうすればいい。
自分で言ったことだ。
エリシアは紙束をそのまま残した。
破らない。
隠さない。
持ち出さない。
嫌がらせもしない。
ただ、続きをやらない。
それだけだった。
それなのに、ひどく悪いことをしているような罪悪感が胸を締めつける。
(本当に、このままでいいの?)
何度も振り返りそうになる。
けれど、エリシアは鞄を持った。
「もう、私の仕事じゃない」
口にしてみる。
まだ、完全には信じられなかった。
それでも二度目は少しだけ言いやすかった。
「私の仕事じゃない」
そうして扉へ向かった。
◇ ◇ ◇
廊下へ出ると、屋敷はまだ完全には目覚めていなかった。
遠くから食器の触れ合う音が聞こえる。
厨房では朝食の準備が始まっているのだろう。
エリシアは旅行鞄を身体の横へ寄せ、足音を立てないよう階段へ向かった。
逃げる。
そう考えると、すべての音が普段より大きく感じられる。
床板が鳴るたびに心臓が跳ねた。
曲がり角の向こうから誰かが来る気配がすれば、身体が強張る。
それでも止まらなかった。
二階から一階へ下りる。
あと少しで裏口へ着く。
そのときだった。
「お嬢様?」
背後から声をかけられ、エリシアの身体が硬直した。
振り返る。
廊下の向こうに、若い侍女が立っていた。
名はマーサ。
リリアナ付きの侍女の一人で、普段エリシアへ話しかけることなどほとんどない。
マーサの視線が旅行鞄へ落ちた。
「こんな朝早くから、どちらへ?」
一瞬、頭が真っ白になる。
ここで怪しまれて父へ知らせられたら。
(落ち着いて)
エリシアは鞄の持ち手を握り直した。
「少し出かけるの」
「その鞄で?」
マーサの目が細くなる。
エリシアは答えなかった。
侍女は数秒こちらを見ていたが、やがて何かを思い出したように口元を緩めた。
「ああ、そういうことですか」
「……?」
「昨日のこと、聞きましたよ」
エリシアの胸が冷えた。
「リリアナお嬢様がディートリヒ様とご婚約なさるんでしょう?」
やはり。
もう使用人たちへ広まっている。
マーサは少し気の毒そうな顔を作った。
「まあ、仕方ありませんよね。リリアナお嬢様はお綺麗ですし、明るくて可愛らしい方ですもの」
「……そうね」
「エリシアお嬢様も、あまり気を落とされませんように」
慰めているつもりなのだろうか。
マーサの目は楽しそうだった。
「それで、ご気分転換にお出かけですか?」
「ええ」
エリシアは嘘をついた。
声が震えないよう気をつける。
「少し、外の空気を吸いたくて」
「そうでしたか」
マーサはあっさり頷いた。
そして、もうエリシアへの興味を失ったように歩き出す。
すれ違う直前、思い出したように振り返った。
「そうそう。リリアナお嬢様がお目覚めになる前に、昨日頼まれていた刺繍を仕上げておいてくださいね」
エリシアは瞬きをした。
「……刺繍?」
「ほら、リリアナお嬢様がディートリヒ様へ贈るハンカチですよ。昨日、エリシアお嬢様にお願いしたと仰っていました」
聞いていない。
いや。
もしかすると昨日の朝、食事中に何か言われたかもしれない。
婚約破棄を告げられる前だった。
「ご自分で刺繍なさるのでは?」
思わず尋ねると、マーサが怪訝な顔をした。
「リリアナお嬢様は刺繍がお得意ではないでしょう? エリシアお嬢様の方がお上手なんですから、それくらいやって差し上げてもいいじゃありませんか」
「……そう」
「ディートリヒ様も喜ばれますよ。もっとも、エリシアお嬢様が刺したとは知らないでしょうけれど」
くすり、とマーサが笑った。
昨日までなら。
きっと何も言わなかった。
自室へ戻り、言われた通り刺繍を仕上げていただろう。
リリアナのために。
ディートリヒのために。
自分を裏切った二人のために。
エリシアは胸の奥へ手を当てたくなるのを堪えた。
「マーサ」
「はい?」
「その刺繍は、しないわ」
侍女の笑みが消えた。
「……え?」
「私にはできないと、リリアナへ伝えて」
「ですが、頼まれているのでしょう?」
「ええ」
「なら、やらなければ叱られますよ?」
当然のように言われた。
エリシアはその言葉を聞きながら、自分がこれまでどれだけ多くのことを「叱られるから」という理由だけで引き受けてきたのかを思った。
「そうね」
怖くないわけではない。
父に知られたら怒鳴られる。
継母なら頬を叩くかもしれない。
リリアナは泣くだろう。
けれど。
今日、自分はもうここからいなくなる。
「それでも、しないわ」
マーサは信じられないものを見るようにエリシアを見つめた。
「どうされたんですか?」
その問いに、エリシアは答えなかった。
「失礼するわね」
侍女の横を通り過ぎる。
背後から、
「変なの……」
という声が聞こえた。
それでも足を止めなかった。
裏口まで来る。
扉へ手を伸ばす。
その瞬間。
「エリシア」
心臓が大きく跳ねた。
振り返る。
そこに立っていたのは、継母のベアトリーチェだった。
薄紫色の室内着に羽織物を重ね、長い栗色の髪を簡単にまとめている。起きたばかりなのだろう。
それでも、エリシアを見る目には眠気などなかった。
冷たい目だった。
「その荷物は何?」
エリシアは何も答えられなかった。
ベアトリーチェが近づいてくる。
視線が鞄へ落ち、再びエリシアへ戻った。
「どこへ行くつもりなの?」
「……少し」
「少し?」
ベアトリーチェの眉が上がる。
「旅行鞄を持って?」
逃げられない。
そう思った。
身体が震え始める。
ベアトリーチェは昔から、エリシアが最も苦手な人間の一人だった。
大声で怒鳴ることは少ない。
父とは違う。
けれど、静かな声で相手を追い詰める。
「昨日、婚約を破棄されたそうね」
「……はい」
「まったく、恥をかかせてくれたものだわ」
エリシアは唇を結んだ。
「リリアナが代わりにディートリヒ様と婚約できることになったからよかったものの、そうでなければヴァルモント侯爵家との関係まで悪くなるところだったのよ」
「……」
「それなのに、今度は家出?」
ベアトリーチェの口元が歪んだ。
「悲劇の主人公にでもなったつもり?」
胸の奥が痛んだ。
エリシアは俯きかける。
けれど。
昨日から、何度も言われた。
自分が悪い。
自分に魅力がない。
自分がつまらない。
自分が至らない。
だから婚約者を奪われた。
だから仕方がない。
(……本当に?)
初めて、その言葉を疑った。
「部屋へ戻りなさい」
ベアトリーチェが命じる。
「今日はリリアナの今後について準備しなければならないの。あなたにもやってもらうことが山ほどあるわ」
「……私にも?」
「当たり前でしょう。これまであなたがヴァルモント家とのやり取りを担当していたのだから、引き継ぎが必要よ」
「私はもう、ディートリヒ様の婚約者ではありません」
「だから何?」
あまりにも当然のように返され、エリシアは言葉を失った。
「婚約者でなくなったからといって、家のために働かなくていい理由にはならないでしょう。あなたはベルフォード伯爵家の娘なのよ」
「……」
「リリアナはこれから忙しくなるわ。ドレスも仕立てなければならないし、侯爵夫人になるための勉強も必要でしょう。あなたができる雑用くらい引き受けなさい」
雑用。
エリシアは鞄の持ち手を握った。
「さあ、戻りなさい」
ベアトリーチェが手を伸ばす。
反射的に身体が縮こまった。
手が頬へ来る。
そう思った。
けれど、伸ばされた手は腕を掴もうとしただけだった。
それでもエリシアは一歩下がった。
ベアトリーチェの手が空を切る。
「……何?」
継母の目が細くなった。
「私を避けたの?」
「……」
「エリシア」
声が低くなる。
怖い。
足が震える。
謝らなければ。
そう思う。
「申し訳――」
いつもの言葉が喉まで出た。
しかし。
エリシアは飲み込んだ。
ここで謝ったら。
また部屋へ戻る。
父に言われた資料を作る。
リリアナの刺繍をする。
婚約準備を手伝う。
そして数日後には、何事もなかったように次の仕事を押し付けられる。
父が新しい縁談を持ってくる。
また誰かに渡される。
嫌だった。
「……戻りません」
声は小さかった。
ベアトリーチェが目を見開く。
「何ですって?」
エリシア自身も驚いていた。
それでも、もう一度言った。
「部屋には、戻りません」
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
「はい」
本当は、よく分かっていない。
この先どうなるか。
父がどうするか。
貴族社会で自分がどう扱われるか。
何も分からない。
それでも、一つだけ分かっている。
「この家を、出ます」
ベアトリーチェの顔から表情が消えた。
数秒の沈黙のあと。
「馬鹿なことを言わないで」
吐き捨てるような声だった。
「あなたに一人で何ができるというの?」
胸が痛んだ。
けれど。
エリシアは昨日、自分の手で硬貨を数えた。
自分で縫った服を鞄へ入れた。
自分で旅程を考えた。
料理もできる。
洗濯もできる。
掃除もできる。
計算もできる。
帳簿も扱える。
「……分かりません」
「ほら見なさい」
「でも」
エリシアは継母を見た。
「ここにいるよりは、自分で確かめたいです」
ベアトリーチェの顔が歪んだ。
「恩知らず」
その言葉は、予想していた以上に胸へ刺さった。
「誰のおかげで今日まで生きてこられたと思っているの?」
「……」
「食べさせて、服を着せて、教育まで受けさせてやった。それなのに婚約を破棄された程度で家族を捨てるの? あなたは本当に薄情な子ね」
エリシアの視界が滲んだ。
泣いてはいけない。
そう思うほど、涙が溜まっていく。
確かに育ててもらった。
食事を与えられた。
服もあった。
教育も受けた。
だから何をされても耐えるべきなのだと、ずっと思っていた。
でも。
「……私」
声が震えた。
「家族だったのですか?」
ベアトリーチェの表情が止まった。
エリシアも、自分が何を言ったのか理解するまで少し時間がかかった。
けれど、一度口から出た言葉は戻らない。
「何を……」
「私を、家族だと思ってくださっていたのですか?」
幼いころから聞きたかった。
けれど、怖くて聞けなかった。
ベアトリーチェは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
エリシアは目を伏せた。
「……そうですか」
涙を落とさないよう、一度だけ瞬きをする。
「今まで、お世話になりました」
頭を下げた。
深く。
礼儀だけは最後まで守った。
それから扉へ手をかける。
「待ちなさい!」
ベアトリーチェの声が背中へ飛んだ。
身体が反射的に止まりかける。
けれど、エリシアは扉を開けた。
朝の冷たい空気が頬へ触れた。
外だった。
屋敷の中とは違う匂いがした。
湿った土。
朝露。
遠くの厨房から漂う薪の煙。
エリシアは一歩、外へ出た。
「エリシア!」
もう一度呼ばれる。
今度は止まらなかった。
門へ向かって歩く。
最初は早足だった。
けれど、背後から誰も追ってこないと分かると、少しずつ速度を上げた。
正門は使わない。
使用人や商人が出入りする通用門へ向かう。
門番はエリシアを見て驚いたが、伯爵令嬢が自分の足で屋敷の外へ出ることを止める権限までは持っていない。
「お、お嬢様。お一人でございますか?」
「ええ」
「馬車をお呼びしましょうか?」
「いいえ。必要ありません」
「ですが……」
エリシアは少し迷ってから、頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
門番が目を丸くした。
その横を通る。
一歩。
もう一歩。
門の外へ出る。
そこでエリシアは振り返った。
ベルフォード伯爵邸。
大きな屋敷だった。
立派な門。
美しく整えられた庭。
幼いころから暮らしてきた場所。
母と過ごした記憶も、ほんのわずかに残っている。
幸せな記憶が一つもないわけではない。
だからこそ、胸が痛んだ。
(さようなら)
声にはしなかった。
言葉にしたら、戻りたくなるような気がした。
エリシアは前を向いた。
◇ ◇ ◇
街が目を覚まし始めていた。
商店の戸が開き、通りには荷車が行き交う。焼きたてのパンの匂いが漂い、早朝から働く職人たちが声を掛け合っている。
エリシアはその中を一人で歩いた。
こんな時間に、一人で街を歩いたことはなかった。
買い物を任されたことは何度もある。
けれど、そのときは使用人と一緒だったり、決められた店へ行って戻ったりするだけだった。
今日は違う。
誰も行き先を決めていない。
誰も帰宅時間を決めていない。
誰も、次に何をしろと命令しない。
自由。
そう思った瞬間、嬉しくなると思っていた。
けれど実際には。
「……怖い」
小さく呟いた。
知らない世界へ放り出されたような心細さがあった。
誰も自分を見ていない。
誰も命令しない。
それがこんなにも不安なものだとは思わなかった。
(でも、戻らない)
エリシアは歩き続けた。
目的地は乗合馬車の発着場だった。
アルヴェイン公爵領までは一台の馬車では行けない。
まず西へ向かう街道の宿場町まで行き、そこから大きな都市へ移動する。その後さらに馬車を乗り継ぎ、何日もかけて公爵領を目指すことになる。
地図で確認しただけの道だ。
それでも旅費は計算した。
余裕も持たせてある。
発着場へ着くと、すでに多くの人が集まっていた。
商人。
旅人。
大きな荷物を持った夫婦。
眠そうな子どもの手を引く母親。
仕事へ向かうらしい若者。
エリシアは少し離れた場所から、その光景を見つめた。
誰も自分を知らない。
ここでは、自分がベルフォード伯爵家の娘だと知る人間はいない。
その事実に気づき、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「お嬢さん、どこまで?」
受付の男に声をかけられる。
エリシアは事前に調べていた宿場町の名を告げた。
「一人かい?」
「はい」
「荷物はそれだけ?」
「はい」
男はエリシアを少し不思議そうに見たが、それ以上は尋ねなかった。
「銀貨四枚だ」
エリシアは財布から銀貨を出した。
四枚。
きちんと数える。
男の掌へ渡す。
「確かに。出発は四半刻後だ。あっちの青い幌の馬車な」
「ありがとうございます」
切符代わりの木札を受け取った。
その瞬間。
エリシアは木札を見つめた。
自分のお金で買った。
自分で行き先を決めた。
誰の許可も得ずに。
たったそれだけのことなのに、胸が熱くなった。
「……私が、決めた」
小さな声は、周囲の喧騒に消えた。
それでよかった。
まだ誰かに聞いてほしいわけではない。
自分だけが分かっていればいい。
やがて出発の声がかかった。
エリシアは青い幌の馬車へ乗り込んだ。
木製の座席は硬く、伯爵家の馬車とは比べものにならないほど狭い。
向かいには老夫婦が座り、隣には大きな荷物を抱えた女性がいる。
エリシアは端へ身体を寄せた。
「すみません」
隣の女性が荷物を動かしながら言った。
「狭いですよね」
「い、いえ」
謝られた。
それだけで戸惑った。
自分にぶつかったわけでもないのに。
「私の荷物が大きくて。足、窮屈じゃないですか?」
「大丈夫です」
いつもの言葉が出る。
女性はエリシアの足元を見てから、荷物をさらに自分の方へ寄せた。
「でも、少し狭そう。これなら大丈夫?」
「……はい」
「よかった」
女性は笑った。
それだけだった。
何も要求されない。
恩を着せることもない。
エリシアは少しだけ目を伏せた。
胸の奥が妙にざわつく。
(どうして?)
ただ荷物を動かしてくれただけだ。
それなのに、どう反応すればいいのか分からない。
やがて御者が手綱を取った。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を踏み、がたがたと大きく揺れた。
エリシアは反射的に窓の外を見る。
街並みが流れていく。
昨日まで暮らしていた場所。
知っている店。
何度も通った道。
それらが少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
そして。
街の門を抜けた。
その瞬間。
エリシアの喉が震えた。
本当に出た。
ベルフォード家から。
自分が生まれた土地から。
ディートリヒのいる場所から。
もう戻れないかもしれない。
怖い。
不安だ。
この先で失敗するかもしれない。
お金が尽きるかもしれない。
仕事が見つからないかもしれない。
誰かに騙されるかもしれない。
それでも。
昨日までの自分は、どれだけ頑張っても誰かの役に立つためだけに生きていた。
これから先は違う。
何を食べるか。
どこへ行くか。
どこで働くか。
誰と話すか。
全部、自分で決めなければならない。
怖い。
けれど。
それはきっと。
自分で決めてもいいということでもある。
エリシアは外套の内側へ手を添えた。
その下には、自分で貯めた金がある。
誰かから恵んでもらった逃亡資金ではない。
父から渡された手切れ金でもない。
自分で少しずつ貯めた、自分のお金。
それだけが今のエリシアには心強かった。
馬車は街道を進んでいく。
やがてベルフォード伯爵領の街並みが完全に見えなくなった。
エリシアはしばらく後方を見ていた。
追手はない。
まだ、誰も来ない。
それでも、いつ父が自分の不在に気づくか分からない。
ベアトリーチェは知っている。
すぐ父へ知らせるかもしれない。
急がなければ。
できるだけ遠くへ。
ベルフォードという名前が意味を持たなくなるほど、遠くへ。
エリシアは膝の上で両手を重ねた。
そして、ふと思った。
名前。
この先、宿に泊まれば名前を聞かれる。
仕事を探すときにも聞かれるだろう。
エリシア・ベルフォード。
その名前を使えば、父に探されたとき見つかりやすくなる。
家名は当然、名乗れない。
では。
「エリシア」
自分の名前を、声にならないほど小さく呟いた。
母がつけてくれた名前だと聞いている。
嫌いではない。
捨てたくもなかった。
だから。
全部捨てる必要はない。
家名だけではなく、本名もそのまま使わなければいい。
エリシアは少し考えた。
幼いころ。
まだ母が生きていたころ。
一度だけ。
本当に遠い記憶の中で。
母が自分を短い呼び方で呼んでくれたことがあった気がする。
『シア』
胸の奥が温かくなった。
エリシアは窓の外へ目を向けた。
どこまでも続く街道。
朝の光が、少しずつ強くなっている。
「……シア」
今度は、ほんの少しだけ声に出した。
誰も反応しなかった。
それでいい。
今日から。
ベルフォード伯爵家の娘ではない場所では。
自分は。
「シア」
その名前で生きてみよう。
馬車は遠くへ進んでいく。
まだ自由がどんなものなのか、エリシアには分からない。
幸せが何なのかも分からない。
誰かを信じることができる日が来るのかさえ分からない。
それでも。
ベルフォード伯爵邸へ続く道は、もう遥か後ろへ消えていた。
シアは一度も「戻ってほしい」とは思わなかった。




