第1話 もう、いりません
「エリシア・ベルフォード。君との婚約を、今日限りで破棄させてもらう」
その言葉を聞いた瞬間、エリシアは何も答えることができなかった。
ヴァルモント侯爵家の応接室には、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。磨き上げられた大きな窓から入る光が深紅の絨毯を照らし、銀製の茶器を眩しいほどに輝かせている。
いつもと変わらない部屋だった。
エリシアが婚約者として何度も訪れ、ディートリヒのために茶を淹れ、彼が面倒がった書類を整理し、侯爵夫人から求められた社交上の手紙を書いてきた場所。
だからこそ、正面に座っているディートリヒの言葉だけが、この部屋から切り離されたもののように感じられた。
「……婚約を、破棄?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
ディートリヒ・ヴァルモントは露骨に眉を寄せる。
整った金髪に青い瞳。仕立てのいい濃紺の上着を身につけた彼は、社交界では将来有望な侯爵家嫡男として知られている。
エリシアも、ずっとそう思っていた。
少なくとも――今日までは。
「そう言った。まさか、意味まで説明しなければ分からないのか?」
「……いいえ」
「なら、聞き返さないでくれ。こういう話は私だって気分がいいものではないんだ」
エリシアは膝の上で重ねた指へ力を込めた。
(私が、何かしてしまったの?)
最初に浮かんだのは、それだった。
怒りではない。
悲しみですらなかった。
自分に原因があるのではないか。
幼いころから、何か問題が起こるたびにそう考えるようになっていた。
義妹のリリアナが泣けば、姉であるエリシアが悪い。
継母ベアトリーチェの機嫌が悪ければ、エリシアの気遣いが足りない。
使用人が仕事を忘れれば、それに気づかなかったエリシアが悪い。
父グレゴールに提出する書類に不備があれば、たとえその書類を作ったのが別の人間であっても、最後に確認しなかったエリシアが叱責された。
だから今回も、まず自分の中から理由を探してしまった。
先日の夜会で何か失敗しただろうか。
侯爵夫人から頼まれていた招待客の名簿には間違いがなかったはずだ。ディートリヒから預かった手紙もすべて返事を書いた。彼が忘れていた商会との約束についても、三日前に知らせている。
それとも別の何かだろうか。
考えても分からない。
「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
エリシアが尋ねると、ディートリヒは背もたれへ身体を預けた。
「本当に分からないのか?」
「申し訳ありません」
「またそれか」
低い声だった。
エリシアの肩が小さく揺れる。
「何を言っても『申し訳ありません』。いつも俯いて、言われたことだけをやっている。君と一緒にいても面白くないんだよ」
「……」
「婚約者なら、もう少し私を楽しませようとは思わないのか?」
「それは……」
「夜会に連れていっても華がない。会話をしてもつまらない。いつも地味な服ばかり着ているし、笑顔だって少ない。君を隣に立たせていて、私が誇らしいと思うとでも?」
エリシアは自分のドレスへ視線を落としかけ、寸前で止めた。
今日着ている灰青色のドレスは、三年前に仕立ててもらったものだった。
新しいドレスが欲しいと言ったことはない。
言ったところで、
『まだ着られるでしょう』
と継母に言われるからだ。
夜会用の装飾品もほとんど持っていない。
母から受け継いだ物は、いつの間にかリリアナの物になっていた。
それでも婚約者に恥をかかせてはいけないと思って、古く見えないよう自分で裾を直し、刺繍を加えていた。
「……申し訳ありません」
また謝ってしまった。
ディートリヒが鼻で笑う。
「ほら、それだ。自分で何かを考えることもできないのか?」
胸の奥が小さく痛んだ。
「君は何でも人から言われなければできない。婚約者として私の隣に立つなら、少しは自分というものを持ってほしかったよ」
エリシアの指が止まった。
自分で考えるな。
余計なことをするな。
言われたことだけやっていればいい。
幼いころから父にそう教えられてきた。
だからそうしてきた。
そして今度は、それを理由に責められる。
(では、私はどうすればよかったの?)
その問いを口には出せなかった。
「ディートリヒ様」
隣から柔らかな声がした。
「お姉様も突然のことで混乱していらっしゃるのよ。そんなに責めては可哀想ですわ」
聞き慣れた声だった。
けれど、どうしてここにいるのだろう。
エリシアはゆっくりと顔を向けた。
ディートリヒの隣に座っている少女。
淡い桃色のドレス。丁寧に巻かれた蜂蜜色の髪。大きな緑色の瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。
リリアナ・ベルフォード。
エリシアの異母妹だった。
「……リリアナ」
「ごめんなさい、お姉様」
リリアナは胸の前で両手を組み、悲しそうに眉尻を下げた。
その表情をエリシアはよく知っている。
幼いころから何度も見てきた。
エリシアの髪飾りを欲しがったとき。
エリシアのドレスを欲しがったとき。
亡き母が残した小物を欲しがったとき。
いつもリリアナは同じ顔をした。
『お姉様、ごめんなさい。でも、私……どうしても欲しいの』
そう言われれば、断ることは許されなかった。
断れば継母が怒った。
父も「姉なのだから譲れ」と言った。
やがてエリシアは、最初から断らなくなった。
欲しいと言われれば渡す。
その方が痛い思いをせずに済む。
その方が食事を抜かれずに済む。
その方が一晩中、廊下に立たされずに済む。
だから今回も――同じなのだろうか。
嫌な予感が、ゆっくりと胸の内側へ広がっていった。
「どうして、あなたがここにいるの?」
問いかけると、リリアナの瞳から一粒の涙がこぼれた。
「本当に、ごめんなさい……」
その涙を見たディートリヒが、庇うようにリリアナの肩へ手を置いた。
あまりにも自然な動作だった。
エリシアはその手を見つめた。
そして、理解した。
理解してしまった。
「私は、リリアナを愛している」
耳の奥で何かが鳴った。
ディートリヒの声が遠くなる。
「……いつからですか?」
「そんなことを聞いてどうする」
「いつからですか」
自分でも意外だった。
もう一度尋ねた声は、先ほどよりはっきりしていた。
ディートリヒが面倒そうに眉を寄せる。
「半年ほど前だ」
半年。
エリシアは頭の中でその時間をなぞった。
半年前。
ディートリヒの誕生日があった。
彼が忙しいと言うから、エリシアは侯爵夫人と相談して宴の準備をした。招待客を整理し、贈答品を確認し、彼の好みに合わせて料理人とも打ち合わせをした。
プレゼントも用意した。
自分で刺繍を施したハンカチだった。
渡したとき、彼は笑ってくれた。
『ありがとう、エリシア』
嬉しかった。
あのころには、もう。
「……そう、ですか」
喉の奥がひどく乾いていた。
けれど涙は出なかった。
リリアナが申し訳なさそうに口を開く。
「お姉様、私たちもずっと苦しんでいたの。本当にいけないことだって分かっていたわ。でも、好きになる気持ちは止められなくて……」
「リリアナ」
「はい」
「私がディートリヒ様と婚約していることは、知っていたわよね?」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
リリアナの顔から悲しげな表情が消えた。
「……もちろん知っていたわ」
「それでも?」
「だって仕方がないじゃない」
エリシアは目を瞬いた。
リリアナはすぐに困ったような顔へ戻ったが、先ほどまで浮かべていた涙はもう流れていなかった。
「お姉様には分からないでしょうけれど、本当に誰かを好きになるって、そういうことだと思うの。婚約しているからって、気持ちまで縛ることなんてできないでしょう?」
「……そう」
「それに」
リリアナが少しだけ身体をディートリヒへ寄せた。
「ディートリヒ様、お姉様と一緒にいても全然幸せそうじゃなかったもの」
胸を刺されたような感覚がした。
ディートリヒは否定しなかった。
それどころか、当然だと言わんばかりに頷いた。
「リリアナは私を見てくれる。話を聞いてくれる。笑ってくれる。君とは違う」
「……」
「君は私が何を言っても『はい』『分かりました』『申し訳ありません』だけだ。あれでは人形と変わらない」
人形。
その言葉が、胸の中へ落ちた。
「お姉様は昔から大人しいものね」
リリアナが困ったように笑う。
「私はそこがお姉様の良いところだと思っていたのだけれど……男性には、少し物足りないのかもしれないわ」
「リリアナ。そんなに気を遣う必要はない」
「でも……」
「事実だ」
ディートリヒはエリシアを真っ直ぐ見た。
「侯爵夫人になる女が、君のように陰気でどうする。社交界へ出ても壁際にいるだけ。愛想もない。華もない。何より、君には人を惹きつけるものがない」
一つずつ。
丁寧に。
まるで欠陥品の箇所を確認するように言われる。
エリシアは黙って聞いていた。
反論できなかった。
本当に自分がそうなのかもしれないと思ってしまうからだ。
「それに比べてリリアナは明るい。誰とでも話せるし、場を華やかにできる。私の妻に相応しいのがどちらかなど、考えるまでもないだろう」
「ディートリヒ様ったら……」
リリアナが頬を赤らめる。
嬉しそうだった。
先ほどまで泣いていたことなど忘れてしまったように。
エリシアは二人を見つめた。
(私は、何を見せられているのだろう)
自分の婚約者と妹が、自分の目の前で互いを褒め合っている。
そのために自分を貶している。
怒ればいいのだろうか。
泣けばいいのだろうか。
けれど胸の中にあるのは、ひどく冷たい何かだけだった。
「お姉様」
リリアナがこちらを向く。
「私、お姉様にはもっとお似合いの方がいると思うの」
「……お似合い?」
「ええ。ディートリヒ様は侯爵家を継ぐ方でしょう? だから奥様にも、それなりのものが求められるもの」
その言葉の意味が分かるまで、少し時間がかかった。
「私では……相応しくないと?」
「そんな言い方をしたいわけじゃないの!」
リリアナは慌てたように両手を振った。
「ただ、お姉様にはもっと静かに暮らせるところの方が合っているんじゃないかしら。地方の男爵家とか……そういうところなら、お姉様だって無理をしなくて済むでしょう?」
「リリアナ」
ディートリヒが嗜めるように名前を呼ぶ。
だが、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「さすがに男爵家は失礼だ」
「まあ、私ったら。ごめんなさい、お姉様」
謝っている。
けれど。
エリシアには初めて分かった。
リリアナは少しも申し訳ないと思っていない。
むしろ、喜んでいる。
ずっと姉から物を奪ってきた妹。
髪飾り。
ドレス。
母の形見。
そして今度は婚約者。
「……そうね」
エリシアが呟くと、二人がこちらを見る。
「あなたは昔から、私のものが好きだったものね」
リリアナの表情が固まった。
「……どういう意味?」
「そのままの意味よ」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
ディートリヒの眉間に皺が寄る。
「エリシア、リリアナに当たるな。彼女は何も悪くない」
「何も?」
「人を好きになったことが罪だとでも言うのか?」
エリシアはディートリヒを見た。
「いいえ」
「なら――」
「婚約者がいる男性と半年間関係を持ち、それを婚約者本人に隠していたことについて伺っています」
部屋の空気が止まった。
ディートリヒの顔から、わずかに余裕が消えた。
「……随分な言い方だな」
「事実ではないのですか?」
「口を慎め、エリシア」
低い声だった。
普段なら、その一言だけでエリシアは謝っていた。
けれど今日は、なぜか言葉が出なかった。
代わりに、胸の奥に小さな疑問が浮かぶ。
(どうして私が怒られているの?)
浮気をしたのはディートリヒだ。
姉の婚約者だと知りながら関係を持ったのはリリアナだ。
なのに、なぜ。
責められるのは自分なのだろう。
「……お姉様、怖いわ」
リリアナがディートリヒの腕へ縋った。
「私、謝ったのに……」
ディートリヒの目つきが変わった。
「リリアナを怖がらせるな」
エリシアは一瞬、言葉を失った。
「私が?」
「ああ。君は昔からそうだ。自分は何も言わず、黙って相手を責めるような目をする」
「……」
「その陰気な態度が人を不愉快にさせると、いい加減気づいたらどうだ」
エリシアは視線を下げた。
するとリリアナが、安心したようにディートリヒへ寄り添う気配がした。
「ごめんなさい、お姉様。でも、ディートリヒ様が選んだのは私なの」
優しい声だった。
だからこそ、余計に刺さった。
「私も最初は断ったのよ? お姉様に悪いからって。でもディートリヒ様が、どうしても私がいいって……」
「リリアナ、それくらいでいい」
「でも、お姉様には分かってほしいの」
リリアナはそこで少しだけ微笑んだ。
「選ばれるって、そういうことだと思うから」
エリシアは妹を見つめた。
胸の奥で、何かがひどく冷えていった。
選ばれる。
自分は選ばれなかった。
父にも。
家族にも。
そして婚約者にも。
「もういいだろう」
ディートリヒが卓上に置かれていた書類をエリシアの方へ押した。
「婚約解消については両家でも話がついている」
「……両家?」
エリシアの視線が書類へ落ちる。
そこには父、グレゴール・ベルフォード伯爵の署名があった。
間違いない。
何度も書類整理をさせられてきたから、父の署名を見間違えるはずがなかった。
「お父様は……ご存じなのですか?」
「当然だろう。家同士の婚約なのだから」
「いつから?」
「一月ほど前からだ」
エリシアは書類を見つめた。
一月。
父は知っていた。
継母も、おそらく知っていた。
リリアナは半年も前からディートリヒと関係を持っていた。
つまり。
何も知らなかったのは、自分だけ。
「お父様は、何と?」
「最初は少し難色を示していたが、リリアナと私が婚約すれば両家の関係は維持できる。最終的には快く了承してくださったよ」
「……快く」
「ああ。むしろリリアナの方が侯爵夫人に向いているのではないかと仰っていた」
呼吸が止まりそうになった。
父まで。
「そう、ですか」
「ああ。だから君がいつまでも不満を言っても意味はない」
「私はまだ、不満を申し上げておりません」
「その顔がそう言っている」
ディートリヒは苛立ったように吐き捨てた。
「まったく、最後まで可愛げがないな。せめて自分の何が悪かったのか考えたらどうだ?」
「私の……悪かったところ」
「そうだ。リリアナを恨む前にな」
ディートリヒは指を折るように、一つずつ数え始めた。
「愛想がない。華がない。会話がつまらない。自分の意見がない。服装も地味。何をしても陰気。それから――」
そこで、わずかに笑った。
「女として、一緒にいて楽しくない」
エリシアの手から、完全に力が抜けた。
それでもディートリヒは続ける。
「君は仕事だけしていれば満足なのかもしれないが、私はそんな妻を求めていない。書類を整理するだけなら使用人を雇えば済む」
エリシアは彼を見た。
書類を整理するだけ。
彼が期限を忘れた手紙も。
面倒だからと押し付けた招待客の整理も。
侯爵夫人に頼まれた贈答品の記録も。
誕生日の宴の準備も。
全部。
「……そうですか」
「理解したなら署名してくれ。これ以上、時間を無駄にしたくない」
エリシアは書類を見つめた。
不思議だった。
少し前まで胸が痛かったはずなのに、今は何も感じない。
いや。
違う。
何も感じないのではない。
疲れたのだ。
もう、十分だった。
差し出されたペンを取る。
婚約解消の書類。
エリシア・ベルフォード。
一文字ずつ、自分の名前を書く。
最後まで書き終えた瞬間。
胸の奥にあった何かが、静かに落ちた。
「これでよろしいですか?」
「ああ」
ディートリヒは書類を確認すると満足そうに頷いた。
「これを機に、自分を見つめ直すことだな。もっとも、侯爵家以上の縁談はもう望めないだろうが」
「ディートリヒ様」
リリアナが口元を隠して彼を窘める。
けれど、笑っていた。
「そんなことを仰っては、お姉様が可哀想ですわ」
「事実だろう?」
「もう……」
二人の笑い声が小さく重なった。
エリシアは立ち上がった。
「では、失礼いたします」
「エリシア」
ディートリヒに呼び止められ、足を止める。
「最後に一つだけ言っておく」
エリシアは振り返った。
「リリアナへ妙な真似はするな」
「妙な真似?」
「嫉妬して嫌がらせをしたり、社交界で悪い噂を流したりするなということだ」
あまりにも予想外で、エリシアはしばらく返事ができなかった。
「……私が、そのようなことをすると?」
「婚約者を妹に奪われた女が何をするか分からないだろう」
「ディートリヒ様、そんな……。お姉様はそんな人ではありませんわ」
リリアナはそう言いながらも、ディートリヒの腕から離れなかった。
エリシアは二人を見つめた。
そして、小さく息を吐いた。
「ご安心ください」
「ならいい」
「お二人のために、何かをするつもりはありません」
ディートリヒが眉をひそめた。
けれどエリシアは、それ以上説明しなかった。
もう、この二人のために何かをすること自体が嫌だった。
「失礼いたします」
今度こそ部屋を出る。
背後でリリアナの声が聞こえた。
「お姉様、怒ってしまったのかしら……」
「放っておけばいい。ああいう女は、少し時間が経てば自分の立場を理解する」
扉が閉じた。
それでも、最後の言葉だけは耳に残った。
自分の立場。
エリシアは廊下を歩きながら、胸の奥でその言葉を何度も繰り返した。
(私の立場って、何なのだろう)
ベルフォード伯爵家の長女。
必要なときだけ仕事を押し付けられる娘。
ヴァルモント侯爵家の元婚約者。
もう必要ではなくなった女。
長い廊下の先に、大きな窓が見えた。
外には青空が広がっている。
こんな日にも、空は綺麗だった。
◇ ◇ ◇
ベルフォード伯爵邸へ戻ったころには、日が傾き始めていた。
玄関の扉を開けても、誰もエリシアを迎えなかった。
それもいつものことだ。
玄関ホールには使用人が二人いたが、エリシアを見ると小さく目配せをしただけだった。そのうち一人が口元を押さえ、もう一人へ何か囁く。
小さな笑い声が聞こえた。
(もう知っているのね)
驚きもしなかった。
この家では、エリシア本人より先に使用人が彼女のことを知っていることなど珍しくない。
階段へ向かおうとしたところで、背後から声が飛んできた。
「エリシア」
父だった。
グレゴール・ベルフォード伯爵が廊下の奥に立っている。
「お父様」
「話は済んだのか」
「……はい」
「ならいい」
それだけだった。
慰めも、謝罪もない。
エリシアは父を見つめた。
今までなら視線を合わせ続けることなどできなかった。
けれど今日は、なぜか目を逸らさなかった。
「お父様」
「何だ」
「婚約が破棄されることを、いつからご存じだったのですか?」
グレゴールの眉が動いた。
「そんなことを聞いてどうする」
今日、何度も聞いた言葉だった。
自分には知る必要がない。
皆がそう思っている。
「知りたいのです」
「一月ほど前だ」
やはりディートリヒの話と同じだった。
「どうして教えてくださらなかったのですか?」
「決定してから伝えれば十分だろう。それに、お前が騒げば話が面倒になる」
「私が……騒ぐ?」
思わず聞き返した。
グレゴールが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「婚約を失いたくないと泣きつかれても困る。ヴァルモント侯爵家との関係はリリアナが引き継ぐのだ。お前には別の縁談を探す」
やはり。
ディートリヒたちの言った通りだった。
エリシアの意思など、最初からどこにもない。
「分かりました」
そう答えると、父は満足したように頷いた。
「明日の朝までに、リリアナへ渡す資料をまとめておけ。侯爵家の人間関係や、これまでお前が管理していた贈答品の記録もだ。あの子が困らないよう、分かりやすく整理しておくんだぞ」
エリシアは父を見つめた。
婚約者を奪われたその日の夜に。
自分から婚約者を奪った妹のために。
これまで自分が積み上げてきたものを整理し、渡せという。
「……明日の朝まで、ですか」
「何か問題があるのか?」
父の声が低くなった。
身体が覚えている。
この声の次に何が来るのか。
エリシアの肩がわずかに強張った。
「いいえ」
いつもの言葉を口にしようとした。
問題ありません。
そう言えば終わる。
部屋へ戻って、夜通し作業すればいい。
これまでも何度もやってきた。
けれど。
「……今日は、少し疲れました」
口にした瞬間、自分自身が一番驚いた。
父の目が見開かれる。
「何だと?」
心臓が激しく鳴った。
怖い。
今すぐ謝らなければ。
そう身体が訴えている。
「申し訳ありません。ですが、今日は――」
「婚約を破棄された程度で何を甘えている」
グレゴールは吐き捨てるように言った。
「そもそも、お前に魅力がなかったからディートリヒ殿の心がリリアナへ移ったのだろう。自分の至らなさを棚に上げて、仕事まで放り出すつもりか?」
エリシアの顔から血の気が引いた。
「……私の、至らなさ」
「そうだ。リリアナを恨むのは筋違いだぞ。あの子はディートリヒ殿に選ばれただけだ」
また。
選ばれた。
その言葉。
「お前は姉なのだから、せめて妹の幸せを邪魔するような真似だけはするな」
エリシアは唇を噛んだ。
「……はい」
「明日の朝までに資料を完成させろ。今まで侯爵家へ出入りしていたのだから、それくらいしかお前にも役目はないだろう」
それくらいしか。
胸の奥が冷えていく。
「分かりました」
結局、それ以上は言えなかった。
父は満足すると、もう興味を失ったように背を向けた。
エリシアは階段を上がった。
自室は屋敷の東端にある。
かつては客室だった小さな部屋。
リリアナの部屋とは広さも家具も比べものにならない。
けれどエリシアは、この部屋だけは嫌いではなかった。
扉を閉め、鍵をかける。
しばらくそのまま扉へ背中を預けていた。
誰もいない。
ようやく、一人になった。
「……疲れた」
声にしてみる。
誰にも聞かれない。
それだけなのに、涙が出そうになった。
エリシアはベッドの端へ腰を下ろした。
けれど泣かなかった。
代わりに、ゆっくりと部屋を見回した。
小さな机。
古い本棚。
衣装棚。
裁縫箱。
必要最低限の家具しかない。
この部屋で何年過ごしただろう。
ふと、視線が衣装棚の下へ向いた。
エリシアは立ち上がると、膝をついて一番下の引き出しを開けた。
衣服を取り出す。
その奥にある木板へ指をかけると、わずかに持ち上がった。
隠し場所だった。
中から、小さな革袋を取り出す。
ずしりと重い。
机まで運び、中身を広げた。
銀貨。
少数の金貨。
細かな銅貨。
何年もかけて貯めた、自分のお金。
祝いとして直接渡された金を少しずつ残した。
使いを頼まれたときに正当に受け取った手間賃もある。
刺繍した小物を、以前屋敷へ出入りしていた商人に頼んで買い取ってもらったこともあった。
一度に大きな額を得たわけではない。
少しずつ。
本当に少しずつ。
誰にも見つからないように貯めた。
何のためなのか、自分でも明確には考えないようにしていた。
ただ、お金があれば何かあったときに困らない。
そう思っていた。
本当は。
ずっと前から分かっていたのかもしれない。
いつか、この家から逃げなければならない日が来ると。
エリシアは硬貨を数え始めた。
何度も数えているから総額は覚えている。
それでも、もう一度確認した。
宿代。
食費。
馬車代。
遠くへ行くなら、途中で何度か乗り継ぐ必要がある。
すぐ仕事が見つからなかった場合も考えなければならない。
「……足りる」
呟いた。
贅沢をしなければ、しばらく暮らせる。
エリシアは家計の計算ができる。
市場へ買い出しにも行かされていたから、食料品の値段も知っている。
料理もできる。
洗濯もできる。
掃除も裁縫もできる。
帳簿もつけられる。
文字も読める。
計算もできる。
貴族としての教育を受けた一方で、使用人の仕事まで押し付けられてきた。
そのすべてを、この家では「当然」とされていた。
(……私、一人でも生きていける?)
初めて、そんなことを考えた。
怖かった。
屋敷の外で暮らした経験などない。
仕事として雇われたこともない。
自分の能力が外でどこまで通用するのかも分からない。
それでも、何もできないわけではない。
むしろ、この家で生きるために覚えたことは多かった。
「明日の朝までに、資料を……」
机の上には、父から命じられた仕事が待っている。
リリアナのための資料。
エリシアはしばらくそれを見つめた。
いつもの自分なら、今から始める。
夜中までかかっても終わらせる。
そして明日の朝、父に渡す。
褒められることはない。
当然だと言われるだけ。
そのあとには、きっと次の仕事が待っている。
やがて新しい縁談を決められる。
相手が誰であろうと、エリシアに拒否権はない。
そしてまた。
誰かのために生きる。
「……嫌」
今度は、はっきり声に出た。
静かな部屋に、自分の声が残った。
エリシアは胸へ手を当てた。
心臓が速い。
怖い。
それでも。
「もう、嫌」
涙が一粒だけ頬を伝った。
家族に愛してほしかった。
父に一度くらい褒めてもらいたかった。
継母に娘として扱ってほしかった。
リリアナと普通の姉妹になりたかった。
婚約者には、せめて自分を一人の人間として見てほしかった。
全部、無理だった。
何年待っても。
どれだけ頑張っても。
(なら、もういい)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ動いた。
(家族も、婚約者も……もう、いらない)
エリシアは涙を拭った。
そして立ち上がった。
旅行鞄を取り出す。
大きなものは使わない。
目立つからだ。
丈夫な服を数着。
下着。
裁縫道具。
櫛。
小さな石鹸。
亡き母から唯一残された、古い銀のペンダント。
それから、自分で貯めた金。
必要なものだけを選び、鞄へ詰めていく。
作業をしながら、頭の中で道順を考えた。
近くの街では駄目だ。
父の知人がいる可能性がある。
王都も避けた方がいい。
ベルフォード家もヴァルモント家も社交上のつながりが多い。
もっと遠く。
父の手が簡単には届かない場所。
地理の授業で見た地図を思い出す。
国の反対側に近い地域。
豊かで大きな領地。
街道も整備され、商業も盛んだと聞いたことがある。
アルヴェイン公爵領。
そこなら。
「……遠いわね」
思わず小さく笑った。
馬車を何度も乗り継ぐ必要がある。
旅費も安くない。
けれど、払える。
自分で貯めたお金がある。
「行ける」
言葉にすると、震えた。
怖い。
本当に怖い。
明日の自分がどうなっているのか分からない。
それでも。
この屋敷に残った場合の未来だけは、嫌になるほど想像できた。
それなら、分からない未来の方がいい。
エリシアは荷物をまとめ終えると、革袋を鞄の奥へしまった。
すぐには出られない。
夜中に屋敷を抜けるより、早朝、使用人たちが動き始める時間に紛れた方が自然だろう。
乗合馬車の出発時刻も確認しなければならない。
焦ってはいけない。
逃げるなら、失敗したくない。
エリシアは深く息を吸った。
窓の外では、夕日が沈もうとしていた。
ベルフォード伯爵邸の庭が赤く染まっている。
幼いころから何度も見た景色だった。
けれど今日だけは、まるで違って見えた。
ここが自分の家だと思ったことは、一度もない。
それでも、帰る場所はここしかないと思っていた。
明日からは違う。
帰る場所などなくなる。
その事実に身体が震えた。
けれど同時に、胸の奥にこれまで知らなかった感覚が生まれていた。
自由。
まだ手に入れてすらいない。
本当に手に入るかも分からない。
それでも、その言葉を思い浮かべるだけで、ほんの少し息がしやすくなった。
「……行こう」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「ここから、出よう」
今度は声が震えなかった。
エリシア・ベルフォードはその夜、生まれて初めて、自分の人生を自分で決めた。




