第10話 友達という言葉
空色の髪紐を買ってから数日が経っても、シアは毎朝それを使うことを少しだけ躊躇っていた。
仕事中に汚してしまうかもしれない。パン生地を扱えば小麦粉が舞うし、厨房へ入れば汗もかく。せっかく買ったものなのだから、休みの日だけ大切に使った方がいいのではないかと考えてしまう。
けれど、衣装箱の中へしまったままにするのも違う気がした。
自分で使いたいと思ったから買った。
誰かへ見せるためでも、将来のために保存しておくためでもない。
そう考えて、今日もシアは空色の髪紐で髪をまとめた。
鏡の前で少しだけ顔を左右へ動かす。
「……うん」
似合っているかどうかを、誰かへ尋ねる必要はなかった。
マルタもオットーも、ミレイユも似合うと言ってくれた。
それでも最後に決めるのは自分でいい。
(私は、この色が好き)
そう思えるだけで十分だった。
階下へ降りると、厨房ではすでにオットーが生地の状態を確認していた。
「おはようございます」
「おう。今日は黒麦からだ」
「はい」
シアはエプロンを身につけ、手を洗って作業台へ向かった。
最近は丸パンだけでなく、黒麦パンの成形も少しずつ教わっている。
生地の感触は丸パンとは違い、最初は同じ力加減で扱って形を崩してしまった。
今日も一つ目を丸めたところで、オットーの手が止まる。
「力入れすぎだ」
「……こちらもですか?」
「昨日よりはいい。ただ、まだ押してる」
シアは自分の手元を見る。
「もう少し優しく、でしょうか」
「優しくっていうより、生地がどう動くか見ろ。力で形にしようとするな」
「生地がどう動くか……」
言われた通り、次は力を抜いてみる。
ところが今度は弱すぎたらしく、表面が上手く張らなかった。
「これは?」
「今度は遠慮しすぎだ」
「難しいです」
「だから練習してるんだろ」
オットーは自分の分を一つ取ると、ゆっくり成形して見せた。
シアはその手元をじっと見る。
強く押さえつけているようには見えない。
けれど、触れているだけでもない。
生地の状態を確かめながら、必要なだけ力を加えている。
「……相手に合わせるのですね」
「相手?」
「生地に」
「まあ、そうだな」
シアはもう一度やってみた。
今度は少しだけ形が整う。
「どうでしょう」
「さっきよりいい」
「では、このくらいで覚えます」
「毎日同じじゃないぞ」
「え?」
「気温も湿度も違う。粉の状態だって毎回まったく同じじゃない。その日の生地を見ろ」
シアは目を瞬いた。
決まった正解を覚えれば、それを繰り返せると思っていた。
けれど、パン作りはそう単純ではないらしい。
「昨日正しかったことが、今日も必ず正しいとは限らないのですね」
「そういうことだ」
オットーは次の生地をシアの前へ置いた。
「だから見ろ。触れろ。分からなきゃ聞け」
「はい」
シアは頷いた。
不思議な仕事だと思う。
帳簿なら数字が合えば正解が分かる。
手紙にも、相手の身分や関係によってある程度の型がある。
けれど、パン生地には一つの正解がない。
その日の状態を見なければならない。
(人も……そうなのかな)
ふと、そんなことを思った。
以前のシアは、相手が怒らない答えを探すことばかり考えていた。
父には父の正解。
ベアトリーチェにはベアトリーチェの正解。
リリアナにはリリアナの正解。
ディートリヒにはディートリヒの正解。
それらに合わせ続ければ、いつか間違えなくなると思っていた。
けれど、実際には何をしても正解にならない日があった。
「また考え込んでるぞ」
オットーの声で、シアは我に返った。
「すみ――」
言いかけて、止める。
「……次をお願いします」
「おう」
オットーは何も言わず、新しい生地を置いた。
シアは少しだけ笑い、再び両手を動かした。
◇ ◇ ◇
午前の営業は、いつもより慌ただしかった。
銀鹿亭から予定外の追加注文が入り、白パンが十個増えたためだ。
以前なら、それだけで材料が足りなくなる可能性があった。
しかし今回は違う。
「追加十個、問題ないよ」
仕入れ棚を確認したマルタが言う。
「シアが予備数を入れてくれてたからね」
シアは注文表を確認した。
銀鹿亭は商人や旅人の宿泊数によって注文が増えることがあると聞き、定期注文とは別に追加可能数を記録していた。その分を見越して材料へ余裕を持たせていたため、今日の十個なら通常販売分を大きく減らさず対応できる。
「昨日、銀鹿亭から商人の一団が泊まる可能性があると聞いていましたので、少し多めに準備しておいてよかったです」
「本当に助かるよ。前だったらオットーが走って粉買いに行ってた」
「何年前の話だ」
「何回もあったでしょう」
「何回もはない」
「三回はあった」
「三回なら何回もじゃない」
「三回は何回もだよ!」
夫婦の言い合いが始まり、シアは白パンを包みながら笑った。
こういうやり取りにも、もうほとんど驚かなくなった。
「シアはどう思う?」
突然マルタから振られ、シアは手を止める。
「何がでしょうか」
「三回は何回も?」
真剣な顔で尋ねられる。
オットーまでこちらを見ている。
「……私に判断させるのですか?」
「公平な第三者」
「俺は一度も公平だと認めてないぞ」
シアは少し考えた。
「同じ失敗を三回繰り返したのであれば、オットーさんご自身が『三回目なら覚えろ』とおっしゃっていた基準に当てはめると、多いのではないでしょうか」
沈黙。
マルタが腹を抱えて笑い出した。
「シア!」
「はい?」
「最高!」
「何がですか?」
「オットー、自分で言ったんでしょう?」
「……言ったな」
オットーが渋い顔をする。
「では、今回はマルタさんの方が正しいということでしょうか」
「そういうこと!」
「お前、店に馴染んできたと思ったらマルタ側についたな」
「そのようなつもりでは……」
「気にするな。仕事はできてる」
そう言ってオットーは厨房へ戻っていった。
怒った様子はない。
マルタはまだ笑っている。
シアも少し遅れて笑った。
自分の意見を言った。
それも、雇い主に対して。
しかも少しだけ冗談を交えて。
それなのに、誰も怒らなかった。
以前なら考えられないことだった。
そんな小さな経験が、毎日の中へ少しずつ増えている。
◇ ◇ ◇
昼前。
入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアは会計箱を整理していた手を止めて顔を上げる。
予想していたわけではない。
それでも赤褐色の髪が見えた瞬間、自然と口元が緩んだ。
「こんにちは、ミレイユさん」
「こんにちは。今日もいるね」
「働いていますから」
「それもそうだ」
ミレイユは笑いながら店へ入ってきた。
何度目の来店になるだろう。
毎日ではない。
訓練や勤務の都合もあるらしく、一日来ないこともあれば、二日続けて顔を見せることもある。
それでも、シアはもうミレイユの姿を見て緊張することはほとんどなくなっていた。
「今日は何になさいますか?」
「蜂蜜パン二つと、丸パン四つ」
「丸パンが増えましたね」
「私の分じゃないよ。訓練仲間に頼まれた」
「そうなのですね」
「この前一個あげたら、どこの店か聞かれてさ」
ミレイユは棚を眺めながら言う。
「蜂蜜パンも欲しいって言われたけど、それは断った」
「どうしてですか?」
「私のだから」
あまりにも真剣な顔で言われ、シアは笑った。
「では、蜂蜜パンはミレイユさんの分ですね」
「そう。ここ大事」
「覚えておきます」
シアは蜂蜜パンを二つ、丸パンを四つ包む。
「全部で銅貨三十四枚です」
ミレイユが財布を出したところで、入口から別の客が入ってきた。
シアは一度そちらへ視線を向ける。
「少々お待ちください」
「大丈夫だよ。私急いでないから」
「ありがとうございます」
会計を済ませてから次の客へ対応する。
ミレイユは包みを持ったまま店の端へ移動し、邪魔にならないよう待っていた。
やがて客が帰ると、シアが戻ってくる。
「お待たせしました」
「忙しそうだね」
「今日は銀鹿亭から追加注文がありましたので、少しだけ」
「銀鹿亭?」
「はい。白パンが十個追加になりました」
「へえ。大変じゃなかった?」
「今回は大丈夫でした。追加が入る可能性を見越して材料を少し多く準備していましたので」
ミレイユが目を瞬いた。
「シアが?」
「マルタさんとオットーさんに相談して、注文表を作ったんです」
「注文表?」
興味を示されたため、シアは店の奥に置いてある紙を指した。
「定期的に注文してくださるお店について、品物や数量、周期をまとめています。急な追加が多いところは、それも分かるようにしておけば材料を準備しやすいので」
「それ、シアが考えたの?」
「以前やっていたことを、こちらでも使えるように少し変えただけです」
以前。
その言葉を口にした瞬間、シアの胸に小さな緊張が生まれた。
けれどミレイユは「以前とはどこで」とは聞かなかった。
「すごいね」
ただ、それだけだった。
「すごい、でしょうか」
「便利になったんでしょう?」
「はい」
「じゃあすごい」
あまりにも単純な答えだった。
シアは少し考えたあと、笑った。
「ありがとうございます」
「それ、騎士団にも欲しいな」
「注文表をですか?」
「うち、食事とか備品の管理でたまに揉めるんだよ。誰が何個頼んだとか、昨日言ったとか言ってないとか」
「記録を残していないのですか?」
「残してるけど、書く人によって場所が違う」
シアの眉がわずかに寄る。
「それは……確認が大変ですね」
「その顔、すごく嫌そう」
「すみません」
「いや、謝るところじゃないって」
ミレイユは笑った。
「シア、そういうの気になる人なんだ?」
「はい。記録するなら、あとから誰でも確認できなければ意味が薄いと思います」
「なるほどねえ」
ミレイユは感心したように頷いた。
「騎士団に一人欲しい」
その瞬間。
シアの表情が固まった。
ほんのわずかな変化だった。
けれど、ミレイユは気づいた。
「あ、ごめん」
「……え?」
「今の、引き抜くって意味じゃないよ。便利だからいてくれたら助かるってだけ」
「あ……」
シアは自分が何に反応したのか理解した。
誰かに必要とされる。
来いと言われる。
それだけで、以前の自分は断れなかった。
ミレイユは命令したわけではない。
冗談だった。
「すみ――」
謝りかける。
けれど、止めた。
「……少し驚いただけです」
「うん」
「ここで働くのが、好きなので」
言ってから。
シアは自分の言葉に驚いた。
ここで働くのが好き。
初めて口にした。
マルタも、少し離れた場所で聞いていた。
けれど何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ嬉しそうに笑っていた。
「そっか」
ミレイユも笑った。
「じゃあ引き抜かない」
「はい」
「パン買いに来るだけにする」
「それなら、お待ちしています」
二人で笑う。
それだけの会話だった。
けれどシアの胸には、自分で口にした言葉が長く残った。
(私、この仕事が好きなんだ)
役に立つからでも。
他に行く場所がないからでもない。
好き。
その言葉を使っていいのだと、初めて思えた。
◇ ◇ ◇
午後。
店が落ち着いた時間に、マルタが一枚の紙を持って厨房へ入ってきた。
「オットー、ちょっといい?」
「何だ」
「これ」
紙を受け取ったオットーが目を通す。
シアは作業台の端で胡桃を砕いていたが、二人の邪魔をしないよう手を動かし続けていた。
「騎士団?」
オットーの言葉に、シアの手がわずかに止まる。
「何かあったのですか?」
「いや。注文の相談だってさ」
マルタが紙を見せる。
「この前話してたでしょう。南の訓練場へ食事を出してた店が、店主の腰を悪くしてしばらく休むって」
「はい」
「その代わりを探してるらしいよ」
「うちに?」
「まだ正式な注文じゃない。近くの店を何軒か回って、対応できる量を確認してるみたい」
シアは紙を受け取った。
公爵家騎士団の補給担当からの問い合わせだった。
訓練日に必要となるパンを、継続して納品できるか。
日によって人数が変わるため、数量は固定ではない。
まずは対応可能な種類と、一日に用意できる上限を知りたいと書かれている。
「結構な数だな」
オットーが唸る。
「全部うちで受ける必要はないみたいだけどね」
「今の注文を崩してまで受けるのは無理だぞ」
「私もそう思う」
二人が相談を始める。
シアは紙を見ながら考えた。
現在の通常販売数。
銀鹿亭。
赤い鍋亭。
その他の定期注文。
曜日ごとの違い。
窯で一度に焼ける数。
仕込みに必要な時間。
「……曜日によって、対応できる数を変えてはいかがでしょうか」
二人がシアを見る。
「どういうこと?」
「毎日同じ上限を出す必要がないのであれば、既存の注文が少ない曜日は多めに、銀鹿亭などの定期注文が重なる日は少なめに提示できます」
シアは注文表を持ってきた。
「たとえば、この日は銀鹿亭と赤い鍋亭が重なりますので、追加できる量は少なくなります。でも翌日は大口の定期注文がありません」
「なるほど」
「それから、種類も絞った方がいいと思います。何種類も少しずつ作るより、丸パンや黒麦パンなど、まとめて作りやすいものを中心にした方が今の仕事へ影響しにくいです」
オットーが腕を組む。
「丸パンなら増やせるな」
「黒麦も日によっては」
マルタも注文表を見る。
「これなら、今のお客さんを断らなくてもいけるかもしれないね」
「ただし」
シアは続けた。
「最初から最大量を受けない方がいいと思います」
「どうして?」
「実際に納品してみないと、準備や運搬にどの程度時間がかかるか分からないからです。最初は少なめに受けて、問題がなければ増やした方が安全だと思います」
オットーがシアを見る。
「お前、こういう仕事好きだろ」
「え?」
「数字並べて考えるやつ」
シアは少し考えた。
以前なら、「必要でしたから」と答えていただろう。
けれど今は。
「……はい。好きだと思います」
そう答えた。
オットーは頷いた。
「じゃあ、仮の案を作ってみろ。俺とマルタで確認する」
「よろしいのですか?」
「勝手に返事出すなよ」
「もちろんです」
「ならやってみろ」
「はい」
シアは紙を受け取った。
自分で考える。
提案する。
確認してもらう。
それが店の役に立つ。
胸の奥に、静かな喜びが広がった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
騎士団へ返すための仮案は、思ったより早く形になった。
曜日別の対応可能数。
丸パンと黒麦パンを中心とした品目。
注文確定の締め切り。
急な追加へ対応できる範囲。
既存の客へ影響を出さないことを最優先にして数字を組んだ。
「これならいいんじゃない?」
マルタが言う。
オットーも紙を確認し、二か所だけ数字を修正した。
「窯はこっちの方が回しやすい」
「分かりました」
「明日、返事を持っていくか」
「誰が?」
マルタが尋ねる。
「俺でもいいが」
「明日は朝の仕込み多いよ」
「じゃあお前」
「午前中、商会の人が来るでしょう」
二人が顔を見合わせる。
シアは少し迷ったあと、口を開いた。
「私が持っていきましょうか?」
夫婦の視線が向く。
「シアが?」
「はい。場所を教えていただければ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
以前なら、知らない場所へ一人で行く仕事は不安だった。
今も不安がないわけではない。
けれど。
この街の道を少しずつ覚えたいと思っている。
それに、自分が作った案だ。
もし補給担当から質問があれば、内容を説明できる。
「行ける?」
マルタが尋ねる。
シアはすぐに「大丈夫です」とは答えなかった。
自分の気持ちを確かめる。
知らない場所。
騎士が大勢いる。
少し怖い。
でも。
行ってみたい。
「……少し緊張します。でも、行ってみたいです」
マルタとオットーが一瞬だけ顔を見合わせた。
以前のシアなら、こんな答え方はしなかった。
「じゃあ頼もうか」
「はい」
「南の訓練場だ。道は分かるか?」
「いいえ」
「あとで地図描いてやる」
「ありがとうございます」
オットーが言ったあと、マルタが何かを思い出した。
「そういえば、あの騎士の子」
「ミレイユさんですか?」
「南の訓練場にいるのかね」
「分かりません。騎士団に所属していることしか聞いていませんので」
「会えるといいね」
何気なく言われた言葉に、シアは少し考えた。
ミレイユ。
店へ何度も来るようになった人。
甘いものが好きで、よく笑い、聞かれたくないことへ踏み込んでこない。
会えたら。
「……はい」
シアは小さく笑った。
「会えたら、嬉しいです」
◇ ◇ ◇
同じころ。
ベルフォード伯爵家では、華やかな花束が一本の手紙とともに玄関から運び出されようとしていた。
「これでいいでしょう?」
リリアナは満足そうに花束を眺めていた。
黄色い薔薇を中心に、同系色の花を集めた明るい花束だった。
「ヴァルモント侯爵夫人は少し地味な方だから、これくらい華やかな方がお好きだと思うの」
向かいに立つマーサが頷く。
「きっとお喜びになります」
「でしょう? お姉様はいつも無難なものばかり選んでいたもの」
リリアナは鼻を鳴らした。
数日前から、ヴァルモント侯爵家との正式な婚約準備が本格的に始まっている。
本来なら、両家の女性同士で手紙を交わし、贈り物を送り、今後の予定を調整する必要があった。
これまでは、そのほとんどをエリシアが下準備していた。
相手の好み。
過去に送った品。
避けるべき色。
季節の挨拶。
どの程度の金額なら相手へ余計な気遣いをさせないか。
リリアナは、そんな細かなことを覚えていない。
そもそも覚える必要があるとも思っていなかった。
「お姉様の部屋にあった紙は?」
「いくつかございましたが、どれが必要なものなのか……」
「もういいわ。いちいちあの人の真似をしなくても、私なら上手くやれるもの」
「はい、お嬢様」
マーサが頭を下げる。
花束はそのまま馬車へ運ばれた。
誰も気づかなかった。
エリシアが最後まで完成させることなく机へ残していた引き継ぎ書類の片隅に、短く記されていたことを。
――ヴァルモント侯爵夫人へ、黄色の花は避けること。
亡くなった妹君を思い出されるため。
◇ ◇ ◇
翌日。
ヴァルモント侯爵家の応接室には、届けられた黄色い薔薇が置かれていた。
その前に立つ侯爵夫人は、しばらく何も言わなかった。
「母上?」
ディートリヒが声をかける。
侯爵夫人の指が、黄色い花弁へそっと触れる。
「……ベルフォード家から?」
「はい。リリアナからです」
「そう」
返事は静かだった。
怒鳴ることも、花を捨てることもない。
けれど、その表情から喜びは消えていた。
「お気に召しませんでしたか?」
ディートリヒが尋ねる。
侯爵夫人は少しだけ目を伏せる。
「昔、話したと思ったのだけれど」
「何をです?」
「黄色い薔薇は、妹が好きだった花なの」
ディートリヒは黙った。
「亡くなる直前まで、部屋に飾っていたわ。だから私は……今でも、この花を見ると少し辛いのよ」
「……それは」
「責めているわけではありません」
侯爵夫人は静かに首を振った。
「リリアナさんは、知らなかったのでしょう」
その言葉が、かえって重かった。
ディートリヒは花束を見る。
「エリシアは……知っていましたか?」
口にしてから、わずかに眉を寄せた。
なぜ今、あの女の名前を出したのか。
侯爵夫人は息子を見る。
「知っていたわ。以前、一度だけ話したことがあるもの。それ以来、あの子は黄色い花を私への贈り物に使わなかった」
「……」
「よく覚えている子だったわね」
ディートリヒの胸に、小さな苛立ちが生まれた。
褒められたからではない。
エリシアがいなくなってから、こうした細かな問題が続いていることが気に入らなかった。
手紙の返事。
贈答品。
予定。
以前なら、誰かが整えていた。
その「誰か」がエリシアだったと、最近になって何度も聞かされる。
「使用人へ任せれば済むことです」
ディートリヒは言った。
婚約を破棄した日に、自分がエリシアへ向けて言った言葉とほとんど同じだった。
侯爵夫人は息子を見た。
「なら、きちんと任せなさい」
「……はい」
「任せれば済むことと、誰でも同じようにできることは違いますよ」
静かな声だった。
ディートリヒは返事をしなかった。
黄色い薔薇が視界へ入る。
綺麗な花だった。
それなのに、応接室の空気は冷えていた。
(エリシアが、きちんと引き継ぎをしていれば……)
そう考え。
ディートリヒは眉を寄せた。
彼の中ではまだ、エリシアがいなくなったことよりも、必要な仕事を終えずに消えたことの方が問題だった。
彼女が何を感じていたのか。
なぜ家を出たのか。
そんなことを考える段階には、まだ至っていない。
「それで」
侯爵夫人が尋ねる。
「エリシアさんは、まだ見つかっていないの?」
「そのようです」
「ベルフォード伯爵から連絡は?」
「領内を探しているそうですが、手掛かりはないと」
「……そう」
侯爵夫人はもう一度、黄色い薔薇を見る。
「無事ならいいのだけれど」
ディートリヒは何も答えなかった。
◇ ◇ ◇
そのころシアは、そんな会話が交わされていることなど知るはずもなく、パン屋の二階にある自分の部屋で一枚の地図を眺めていた。
オットーが描いた、南の訓練場までの簡単な道順だった。
店を出て大通りを南へ進む。
噴水のある小広場を右。
石造りの礼拝堂を越える。
その先に騎士団の施設がある。
迷わないよう、目印まで書かれている。
机の上には、騎士団へ渡す提案書。
シアが作り、マルタとオットーが確認したものだ。
明日。
自分がこれを届ける。
少し怖い。
けれど。
「……行ってみよう」
誰かに命じられたからではない。
自分から、行ってみたいと言った。
それが嬉しかった。
そして、もう一つだけ。
シアは空色の髪紐へ触れる。
(ミレイユさん、いるかな)
会えなかったとしても、仕事はできる。
会う約束をしたわけでもない。
それでも。
会えたら嬉しい。
そんなふうに思える人が、この街にでき始めている。
友達。
その言葉を、シアはまだ自分たちの関係へ使っていなかった。
ミレイユも同じだろう。
けれど、パンを買うだけなら必要のない話をして、次に会えるかもしれないことを楽しみにする。
それが何と呼ばれる関係なのかを、シアはこれから知っていく。
窓の外では、領都の夜が静かに更けていた。
明日は初めて、一人で騎士団の訓練場へ向かう。
その場所で誰と出会うことになるのかを、このときのシアはまだ知らなかった。




