第11話 パンを届ける、その先へ
翌朝、シアはいつもと同じ時間に一階へ下りた。
以前なら、目を覚ました時点で階下から物音が聞こえれば、仕事の開始時刻など考えずに飛び起きていただろう。誰かが働いているのに自分だけ横になっていることが怖く、何かをしていなければ怠けていると思われるような気がしていたからだ。しかし今朝は目覚めてからもしばらく寝台の上で身体を休め、窓の外が少しずつ明るくなっていくのを眺めてから身支度を始めた。
淡い空色の髪紐で髪をまとめ、生成り色の仕事用エプロンを身につける。鏡代わりに使っている小さな磨き板へ映った自分の姿を確認すると、髪の中にある柔らかな青色が朝の光を受けてわずかに明るく見えた。
(やっぱり、この色が好き)
そう思えることが、今でも少し不思議だった。
以前の自分なら、髪紐を選ぶ基準は目立たないか、安いか、長く使えるかということだけだった。それも自分のためというより、余計なことを言われないための選択だった。けれど、この髪紐は違う。なくても困らないものを、自分が欲しいと思ったから買ったのだ。
髪を整え終えたシアは、机の上へ置いていた紙を手に取った。
騎士団へ提出するためにまとめたパンの納入案である。
昨夜も確認したが、もう一度だけ数字へ目を通す。曜日ごとの既存注文数、店頭販売に必要な平均数量、窯へ一度に入れられる量、仕込みに必要な時間。それらを踏まえたうえで、騎士団へ無理なく回せる数を記してある。
注文の締め切りについても書いた。通常注文なら前日夕方まで、一定数を超える場合は二日前まで。急な追加については、その日の仕込み状況次第で可能な範囲のみ対応する。
(無理をして受けて、今までのお客さんの分が足りなくなったら意味がないもの)
昨夜、オットーにもそう言われた。
大きな注文が取れるかもしれないからといって、長く店を利用してくれている客を後回しにしてはいけない。新しい取引は魅力的だが、店そのものが無理をするような量を引き受けても長続きしない。
シアにとって、その考え方は妙に新鮮だった。
ベルフォード家にいた頃は、求められたことを断るという発想そのものがほとんどなかった。時間が足りなければ睡眠を削り、それでも終わらなければ自分の能力不足として責められる。できる量を考えて仕事を受けるのではなく、命じられた量を何としてでも終わらせることだけを求められていた。
(ここでは、できないことまで「できます」と言わなくていい)
それは仕事を軽く考えることとは違う。
むしろ、最後まで責任を持てる範囲を自分たちで判断することなのだと、少しずつ分かってきた。
紙を丁寧に畳んで鞄へ入れると、シアはオットーが描いてくれた地図も一緒にしまった。準備を終えて階下へ向かうと、厨房ではすでにオットーが生地を確認しており、店側ではマルタが棚を拭いていた。
「おはようございます」
「おはよう、シア。今日はちゃんと時間通りだね」
マルタが振り返りながら笑ったので、シアもわずかに口元を緩める。
「はい。早く起きましたけれど、時間までは部屋にいました」
「よしよし。ようやく『早く起きたから早く働かなきゃ』から抜け出してきたね」
「まだ少し落ち着きませんけれど」
「そのうち慣れるさ。休むのだって練習がいる人もいるからね」
マルタはそれ以上何も言わず、拭き終えた棚へ布を置いた。その自然さに、シアは胸の奥へ生まれた小さな安堵を感じながら厨房へ入る。
オットーは黒麦を混ぜた生地へ指を押し込み、戻り具合を確かめていた。シアが近づくと顔だけを向け、その視線が一瞬だけ彼女の髪へ止まった。
「その紐、昨日のか」
「はい」
「そうか。似合ってるんじゃないか」
あまりにも何気なく言われたので、シアは返事が一瞬遅れた。
「……ありがとうございます」
謝罪の言葉が出そうになることはなかった。
それに気づいた瞬間、胸の奥がほんの少し温かくなる。
オットーはすでに生地へ視線を戻しており、褒めたこと自体を特別なこととは考えていないらしい。シアもそれ以上髪紐の話を続けず、手を洗って朝の作業へ加わった。
午前中はいつも通り忙しかった。
焼き上がったパンの香りが店いっぱいに広がる頃には通りにも人が増え、仕事へ向かう職人や朝食を買いに来た近所の住民が次々に扉を開けた。シアは注文を聞き、パンを包み、代金を受け取りながら、空いた時間には次に並べる商品の確認も進めていく。
以前なら複数の仕事を同時にこなすことに何の疑問も持たなかったが、今は違う。無理に全部を一人で抱えず、厨房からオットーが商品を運んできたときには受け取り、客が重なればマルタと自然に役割を分ける。
忙しいことに変わりはない。それでも、誰かの失敗を探して責めるために動いている人がいないだけで、同じ忙しさでも身体へかかる重さがまるで違った。
朝の客足が落ち着いた頃、マルタが店先から厨房へ顔を出した。
「シア、そろそろ行ってきていいよ。昼前には向こうも人がいるだろうし」
「分かりました」
シアは用意していた鞄を確認し、エプロンを外した。今日はパン屋の使いとして向かうため、服装は普段着のままだが、髪には空色の紐を残している。
オットーが作業台の横から顔を上げた。
「地図は持ったか?」
「はい。提案書も入っています」
「道が分からなくなったら聞け。迷ったからって意地になって歩き続けるなよ」
その言葉に、シアは以前の旅で出発場所を間違え、半日を無駄にしたことを思い出した。あのときも窓口の係員は、初めてなら間違えることもあると当たり前のように言ってくれた。
「はい。分からなければ聞きます」
「それでいい」
オットーは頷くと、もう一つ付け加えた。
「それと、向こうに何か言われても、その場で勝手に数量を増やす約束はするな。持ち帰って俺たちと相談する。分かってるな?」
「分かっています。今日は条件を説明して、向こうの希望を聞いてくるだけです」
「なら大丈夫だ」
任せると言われたわけではない。それでも、その短いやり取りの中には、シアがきちんと仕事を理解しているという前提があった。
そのことが嬉しかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。急がなくていいからね」
マルタに見送られ、シアは店の扉を開けた。
午前の陽射しは柔らかく、通りを抜ける風には少し冷たさが混じっている。秋が深まりつつあることを感じさせる風だったが、パン屋の中で働いたあとにはむしろ心地よかった。
シアは大通りへ出ると、オットーから教えられた通り南へ向かった。
領都の道には、以前より少しずつ馴染みが出てきている。パン屋と市場の間なら地図がなくても歩けるようになり、銀鹿亭へ向かう道も覚えた。それでも南側へ一人で行くのは初めてだった。
商店が多かった通りは、進むにつれて少しずつ建物の間隔が広くなっていく。荷車の音に混じって馬の蹄が石畳を叩く音が聞こえ、時折、濃紺の服を着た騎士らしい男女ともすれ違った。
腰に剣を下げた男性が前方から歩いてきたとき、シアの肩へ無意識に力が入った。
相手は何もしていない。ただ同僚らしい男性と話しながら通り過ぎただけなのに、剣と体格のいい男性という組み合わせを見ただけで身体が警戒してしまった。
シアは歩みを止めず、ゆっくり息を吐いた。
(怖い人だと決まったわけじゃない。私は仕事で訓練場へ行くのだから、大丈夫だと無理に思い込まなくてもいい。少し緊張していても、そのまま行けばいい)
不安を否定するのではなく、不安なまま進む。
最近になって、ようやくそんな考え方もできるようになってきた。
しばらく進むと、地図に描かれていた噴水のある小広場が見えてきた。中央では翼を広げた鳥を象った石像から水が流れ、周囲の長椅子では老人や子ども連れの女性が休んでいる。
シアは地図を確認して右へ曲がった。
その先には背の高い石造りの礼拝堂があり、さらに進むと住宅や商店が減っていく。代わりに広い敷地を囲う石壁が現れ、壁の向こうから人の掛け声や木剣がぶつかるような音が聞こえてきた。
(ここ……かな)
やがて大きな門が見えた。
門の脇には濃紺の制服を着た二人の騎士が立っている。
シアは歩く速度を少し落とした。
仕事で来ただけだと分かっていても、武装した人間が門を守っている光景には身体が強張る。ベルフォード家にいた頃、騎士に直接何かをされた経験があるわけではない。それでも、自分より強い立場にある者へ逆らわないことを身体へ染み込ませてきた時間は長かった。
門の前まで来ると、一人の騎士がシアへ顔を向けた。
「何か御用ですか?」
声は普通だった。
問い詰めるような調子でもなく、ただ来訪者へ目的を確認しているだけだと理解できたため、シアは鞄の紐を握りしめていた指から少し力を抜いた。
「パン屋から参りました、シアと申します。昨日、こちらからパンの納入についてお問い合わせをいただいたと聞きまして、店でまとめた案をお持ちしました」
「ああ、パン屋さんか」
騎士の表情がすぐに和らいだ。
「話は聞いています。少し待ってください。担当を呼びますので」
「ありがとうございます」
シアが頭を下げると、騎士の一人が門の内側へ入っていった。
残った騎士は特に話しかけてこなかったが、シアを不審そうに見続けることもなかった。そのおかげで、待っているうちに張っていた肩の力も少しずつ抜けていく。
門の向こうには、思っていたより広い敷地があった。
整地された訓練場では何組もの騎士が木剣を手に向かい合っており、さらに奥には馬を扱うための場所や長い建物も見える。掛け声と木剣の打ち合う乾いた音が断続的に響き、そのたびにシアの身体はわずかに反応したが、逃げ出したくなるほどではなかった。
しばらくして、先ほどの騎士が一人の男性を連れて戻ってきた。
三十代ほどに見える男性で、他の騎士と同じ濃紺の制服を着ている。腰には剣があったものの、門まで来ると穏やかな表情でシアへ頭を下げた。
「お待たせしました。食事の手配を担当している者です。こちらへどうぞ」
「よろしくお願いいたします」
門を通る瞬間、シアはほんの少しだけ息を整えた。
敷地内へ入ると、外から聞いていた以上に訓練の音が大きく感じられた。木剣同士がぶつかる音だけでなく、指示を飛ばす声や走る足音、馬の嘶きまで混ざっている。
男性はシアが周囲へ目を向けたことに気づいたらしく、歩調を少し緩めた。
「驚きましたか?」
「……少しだけ。でも、大丈夫です」
反射的に最後の言葉を口にしたあと、シアは一瞬迷った。
それから言い直す。
「いえ……少し緊張しています。でも、仕事で来ましたので」
男性は不思議そうに瞬きをしたものの、すぐに笑った。
「初めて来たなら緊張しますよ。ここは声も大きいですからね」
それだけだった。
緊張する必要などないとも、そんなことで怖がるなとも言われなかった。
シアは小さく息を吐き、案内されるまま建物へ向かおうとした。
そのときだった。
「シア?」
聞き覚えのある声が右手から飛んできた。
シアが振り向くと、訓練場の端からこちらへ歩いてくる女性がいる。赤褐色の髪を後ろでまとめ、濃紺の騎士服を着た姿は、パン屋で見るときよりもずっと周囲へ馴染んでいた。
「ミレイユさん」
名前を呼んだ瞬間、自分の声が先ほどまでより明るくなったことにシア自身が気づいた。
ミレイユもすぐに笑顔になり、こちらへ歩いてくる。
「やっぱりシアだ。どうしたの? まさかパンを持ってきてくれたとか?」
期待を隠そうともしない視線がシアの鞄へ向いたので、緊張していた胸の奥から小さな笑いがこぼれた。
「今日はパンではありません。納入についてのお話をいただいたので、店でまとめた案を持ってきたんです」
「そっちかぁ」
本気で少し残念そうな顔をされたため、シアはさらに笑ってしまった。
「そんなに残念そうにしなくても……」
「だって、シアのところの蜂蜜パンが来たのかと思ったんだもの。訓練のあとに食べると美味しいのよ」
「いつも買ってくださっていますものね」
「そうそう。だから、この話が決まったら私としてもかなり嬉しい」
ミレイユはそこで案内役の男性へ気づき、軽く頭を下げた。
「仕事の途中で引き止めてごめんなさい」
「いえ。クローデルさんのお知り合いでしたか」
「最近よく行くパン屋さんの人です。すごく美味しいのよ」
あまりにも自然に紹介され、シアは少しだけ目を伏せた。
自分はまだパン作りのほとんどをオットーに教わっている立場である。店そのものを褒められるのは嬉しいが、自分までその中へ含まれているように感じると、どう受け取ればいいのか迷ってしまう。
「私は、まだパン作りを習っているところです」
「知ってる。でも、店の人でしょう?」
ミレイユは何でもないことのように言った。
以前、ローザからも同じようなことを言われた。
店の人。
ベルフォード伯爵家の娘でも、リリアナの姉でも、ディートリヒの元婚約者でもない。ここでは、パン屋で働くシアとして覚えられている。
「……はい」
今度は迷わず頷くことができた。
「私は、あのお店で働いています」
言葉にすると、胸の奥へ静かな温かさが広がった。
ミレイユはそれを特別な宣言とは受け取らなかったらしく、「うん」と笑ってから、ふとシアの髪へ目を向けた。
「今日もその髪紐してるんだね」
「はい。気に入っているので」
以前なら「せっかく買ったから」「まだ使えるから」と理由を付けたかもしれない。
けれど今は、好きだから使っていると言える。
ミレイユは嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり似合ってる。今度パン屋じゃないところで会ったら、髪紐を買った店も教えてよ。私も休みの日に見に行きたい」
「はい。市場の南側にある小さなお店です。色がたくさんあって――」
そこまで話したところで、案内役の男性が小さく咳払いした。
責めるようなものではなく、仕事を思い出させる程度の合図だった。
「あ、ごめんなさい。仕事中だった」
ミレイユが苦笑して一歩下がる。
「シア、またあとでね。私、今日はしばらくこっちにいるから」
「はい」
シアは自然に答えたあと、胸の内側に浮かんだ感情へ気づいた。
(会えた)
昨夜、会えたら嬉しいと思った人が、本当にここにいた。
それだけなのに、訓練場へ入ったときから続いていた緊張がずいぶん薄れている。
案内役の男性と再び歩き出したシアを、ミレイユは数歩離れた場所から見送っていた。
パン屋で会うときのシアは、いつも丁寧で少し遠慮がちだ。それでも最初の頃と比べれば、笑う回数が増えたことをミレイユは知っている。今日も門の近くに立っていたときには肩へ力が入っていたのに、自分の名前を呼んだ瞬間、その表情が明らかに柔らかくなった。
(なんだか嬉しいな)
自分を見て安心してくれたのだとしたら、それは素直に嬉しい。
ただ、理由を聞くつもりはなかった。
シアが話したいと思ったことなら聞けばいいし、話したくないことまで知る必要はない。ミレイユにとってはそれだけの話だった。
「クローデル、休憩は終わりだぞ」
仲間の騎士から声をかけられ、ミレイユは片手を上げた。
「今行く!」
そう返して訓練場へ戻りかけたところで、少し離れた位置に立っていた一人の青年がこちらを見ていることに気づいた。
他の騎士と同じ訓練用の服装ではあるものの、周囲の者たちとは明らかに扱いが違う。青年の近くでは数人の騎士が次の訓練内容について話しており、彼はその報告を聞きながら、ときおり短く指示を返していた。
ミレイユは彼の視線が自分ではなく、建物へ向かって歩いていくシアへ一度だけ向けられたことに気づいた。
「どうかしましたか、レオンハルト様?」
声をかけると、青年――レオンハルト・アルヴェインは視線をミレイユへ戻した。
「いや。君が訓練中にあれほど楽しそうに話しているのは珍しいと思っただけだ」
「私、いつも楽しそうじゃありません?」
「少なくとも訓練中にパンの話をしているときほどではないな」
淡々と返され、近くにいた騎士の一人が笑いを堪えた。
ミレイユは少しだけ頬を膨らませたものの、否定できない。
「だって、あそこのパンは本当に美味しいんですよ。特に蜂蜜パンが」
「さっきの女性は、その店の人か?」
「はい。シアっていいます。最近入った人なんですけど、すごく真面目で、数字とか注文の整理も得意みたいです」
そこまで答えてから、ミレイユは少しだけ首を傾げた。
「そういえば、今日ここへ来たのもパンの納入の話だって言ってました。店で案をまとめてきたみたいですよ」
「なるほど」
レオンハルトはそれ以上尋ねなかった。
ただ、門を入ってきたときには緊張した様子だった女性が、ミレイユと話し始めた途端に笑ったことだけは印象に残った。
淡い空色の髪紐で髪をまとめた、まだ若い女性。
服装はごく普通で、華美な装飾もない。騎士団の敷地へ慣れていないのか、周囲の大きな音が響くたびに肩へわずかな緊張が見えたものの、それでも仕事の書類らしいものを入れた鞄を抱えて、案内役についてしっかり歩いていた。
それだけの印象だった。
「レオンハルト様、次を始めます」
「ああ」
訓練担当の声を受け、レオンハルトはすぐに意識を戻した。
その頃、シアは訓練場に隣接する建物の一室で、持参した提案書を机へ広げていた。
向かいには先ほどの男性と、食料調達を担当している年配の事務官が座っている。
「こちらが、今の店の注文を維持した状態で対応できる数量です」
シアは表の上部を指で示しながら説明した。
「丸パンと黒麦パンを中心にしています。白パンや蜂蜜パンについても対応できますが、毎日一定数となると通常のお客様への販売分へ影響が出る可能性がありますので、最初から多くお約束するのは避けたいと考えています」
年配の事務官が表へ目を落とした。
「ずいぶん細かく分けてあるな。曜日によって数が違うのは?」
「既存の定期注文があるためです。特に白パンは三日ごとにまとまった注文が入りますので、その前後で仕込みの余裕が変わります。騎士団から毎日同じ量をご希望でしたら、丸パンと黒麦パンの比率を調整した方が安定してお届けできます」
「なるほど。こちらとしては、腹にたまるものなら種類にはそこまでこだわらん。今まで頼んでいた店も日によって内容が違ったからな」
事務官はもう一枚の紙へ目を移した。
「注文変更は前日の夕方まで?」
「はい。ただ、大幅な増量については二日前までにお知らせいただけると助かります。急な追加も、店に材料と窯の余裕があれば対応しますが、必ずできるとはお約束できません」
以前のシアなら、その最後の一言を口にするのは怖かったかもしれない。
できない可能性を先に伝えることが、相手を失望させることのように思えていたからだ。
けれど、今日は違った。
オットーとマルタと一緒に考えた条件であり、店を守るためにも必要な線引きだった。
年配の事務官も気分を害した様子はなく、むしろ感心したように頷いた。
「最初からできない場合を言ってもらえる方が助かる。こちらも、急に百個追加すると言って必ず出てくるとは思っていない」
「ありがとうございます」
「それにしても、この表は店主が作ったのか?」
質問され、シアは一瞬だけ迷ってから首を横へ振った。
「基本の案は、私が作りました。ただ、実際に焼ける量についてはオットーさんに確認していただいて、窯の都合に合わせて二箇所直しています」
「君が?」
「はい」
事務官はもう一度紙を見た。
疑うというより、シアの若さと内容の細かさが結びつかなかったらしい。
「店に入って長いのか?」
「まだ二週ほどです」
「二週?」
今度は明らかに驚かれた。
シアは少しだけ肩を縮めたが、以前のように謝ろうとはしなかった。
「以前から、数字や予定を整理する仕事をすることが多かったので」
どこで、とは言わない。
相手もそこまでは尋ねなかった。
「そうか。それなら話が早くて助かる。こちらでも人数を確認して、まずは試しに何日か頼める量を決めよう。いきなり長期契約にして店へ負担をかける必要もないだろう」
「はい。その方が、私たちも実際の仕込み時間を確認できます」
シアは少し考え、表の余白へ目を向けた。
「もしよろしければ、最初の数日間だけ、残った数も教えていただけませんか?」
「残った数?」
「はい。足りなかった場合だけでなく、余りすぎた場合も数量を調整できます。食べきれずに捨てることになるなら、その分は最初から減らした方がいいと思います」
事務官は目を丸くしたあと、ゆっくり頷いた。
「確かにそうだな。訓練量で食べる量も多少変わる。記録してみよう」
話し合いは、シアが想像していたより穏やかに進んだ。
誰かが机を叩くこともなければ、即答できないことで責められることもない。分からないことについては「店へ戻って確認します」と言えば、それで話は次へ進んだ。
(仕事の話って、本当はこういうものなのかもしれない)
互いに必要な条件を出し、できることとできないことを確認する。
一方だけが命令し、もう一方がすべて飲み込むものではない。
話し合いを終えた頃には、訓練場へ来た直後の緊張はかなり薄れていた。
「では、こちらでも人数を確認して、明日か明後日には返事を出そう」
「よろしくお願いいたします」
シアは書類をまとめ、椅子から立ち上がった。
外へ出ると、昼が近づいた陽射しが訓練場を明るく照らしていた。朝よりも風が強くなり、地面の端に積もっていた乾いた葉が転がっている。
門へ戻ろうとしたところで、少し離れた場所からミレイユが手を振った。
「シア!」
その声に、シアは足を止めた。
ミレイユは訓練を終えたところらしく、額へ薄く汗を浮かべている。隣には何人かの騎士がおり、その少し後ろには一人の青年が立っていた。
シアは青年を知らなかった。
ただ、周囲の騎士たちが彼へ向ける態度が、仲間同士のものとは少し違うことには気づいた。
ミレイユが近づいてくる。
「話、終わった?」
「はい。まずは何日か試して、実際にどのくらい必要か確認する方向になりそうです」
「本当? じゃあ、ここでもあそこのパンが食べられるようになるかもしれないんだ」
「まだ正式には決まっていませんよ」
「分かってる。でも期待くらいはしてもいいでしょう?」
嬉しそうな顔をされると、シアまで頬が緩んだ。
「では、決まったら美味しいものを届けられるように頑張ります」
「うん。楽しみにしてる」
二人が話しているところへ、先ほど後ろにいた青年が歩いてきた。
ミレイユが振り返る。
「あ、レオンハルト様」
その呼び方を聞いた瞬間、周囲の騎士たちの態度と名前がシアの中で結びついた。
アルヴェイン。
この領地を治める公爵家の名である。
(もしかして……)
シアの背筋へ反射的に力が入った。
青年はシアよりいくつか年上に見えた。派手な装飾は身につけていないが、立ち姿には周囲の騎士とは違う落ち着きがある。こちらを値踏みするような視線ではないものの、高位貴族かもしれないと思っただけで、身体に染みついた礼儀が先に動きそうになった。
深く頭を下げようとしたシアへ、ミレイユが不思議そうな顔をする。
「シア?」
その声で、シアはわずかに動きを止めた。
レオンハルトもそれに気づいたらしい。
「そんなに畏まらなくていい。今日は公爵家の客として来たわけではないだろう?」
静かな声だった。
シアは顔を上げる。
「……はい。パン屋から、納入のお話で参りました」
「先ほど聞いた。店で提出する案をまとめたそうだな」
「基本の表は私が作りましたが、焼ける量については店主に確認してもらっています」
必要以上に自分の手柄へしないよう説明すると、レオンハルトはわずかに頷いた。
「それでいいと思う。作る側に無理が出れば、続けられないからな」
あまりにも普通の返答だった。
もっと身分を意識した言葉を求められるのかと思っていたシアは、少しだけ戸惑う。
ミレイユがそんな二人を見比べたあと、ふと思い出したように声を上げた。
「そうだ。レオンハルト様、ちょうどいいから今度あそこのパン食べてみてくださいよ」
「君は本当にパンの話へ戻すな」
「大事な話です」
真剣な顔で言い切ったミレイユに、近くの騎士たちから小さな笑いが漏れた。
シアも笑いそうになったものの、公爵家の跡取りらしい青年の前だと思うと、どこまで表情を崩してよいのか分からない。
するとレオンハルトが、ほんの少し口元を緩めた。
「そこまで言うなら、一度食べてみよう」
「蜂蜜パンがおすすめです」
「君の好みだろう」
「私が何度も食べて確認したので間違いありません」
「それは確認ではなく、単に食べたいだけじゃないのか?」
今度はシアも堪えきれず、小さく笑った。
笑ってから、すぐに口元を押さえそうになる。
けれど誰も咎めなかった。
レオンハルトは、笑ったシアを一瞬だけ見た。
先ほど遠くから見たときより、ずっと柔らかな表情だった。
「君が作ったパンもあるのか?」
突然尋ねられ、シアは少し考えてから答えた。
「私はまだ修業中ですので、全部ではありません。丸パンや黒麦パンの成形を少しずつ任せてもらっています。ただ、どれを私が成形したかは、焼き上がると分からなくなることも多いです」
「そうか」
「まだオットーさんのようにはできません」
以前なら、その言葉のあとに「申し訳ありません」と続けていたかもしれない。
今は違う。
「でも、少しずつ覚えています」
自分で言ってから、シアはほんの少しだけ胸を張った。
レオンハルトはその変化の理由までは知らない。ただ、できないことを隠さず、それでも卑下することなく学んでいると言える姿勢には好感を持った。
「では、いつか君が作ったと分かるパンを食べられる日を楽しみにしておこう」
「……はい」
それは社交辞令だったのかもしれない。
けれど、シアには十分だった。
自分がまだできないことを口にしても、失望も嘲笑も返ってこなかった。
ミレイユが楽しそうに笑う。
「その前に、まず蜂蜜パンですよ」
「分かったから、そう急かすな」
「今日帰りに買っていこうかな……」
「君はさっき訓練が終わったばかりだろう」
「だから甘いものが必要なんです」
やり取りを聞きながら、シアはまた笑った。
訓練場へ来る前は、剣を持った人々の中へ一人で入ることが怖かった。
今も大きな掛け声が響けば身体は少し強張るし、目の前にいる人物が公爵家の跡取りだと知れば緊張もする。それでも、その緊張を消すために「大丈夫」と言い聞かせる必要はなかった。
(少し怖くても、少し緊張していても、私はここまで来られた)
そして仕事の話をして、自分の考えを説明し、分からないことは持ち帰ると言えた。
それだけで今日は十分だった。
「では、私は店へ戻ります。マルタさんとオットーさんにも、今日のお話を伝えないといけないので」
「気をつけて帰ってね」
ミレイユが手を振る。
シアも小さく手を上げてから、レオンハルトへ頭を下げた。
「失礼いたします」
「ああ。店主たちにもよろしく伝えてくれ」
「はい」
シアは門へ向かって歩き出した。
数歩進んだところで、背後からミレイユの声が聞こえる。
「シア、またお店に行くから!」
振り返ると、ミレイユがこちらへ手を振っていた。
「はい。お待ちしています」
今度は迷わず笑って答えた。
その姿を見送りながら、レオンハルトは隣に立つミレイユへ視線を向けた。
「随分親しくなったんだな」
「そう見えます?」
「ああ。少なくとも、彼女は君を見たときにかなり安心したように見えた」
ミレイユは少しだけ驚いた顔をした。
自分も似たことを感じていたからだ。
「……だったら、嬉しいですね」
「昔からの知り合いではないんだろう?」
「全然。最近です。パンを買いに行って、何回か話しただけですよ」
ミレイユは門の向こうへ消えていく空色の髪紐を見ながら、少し考えた。
「でも、なんでしょうね。もっと話してみたいなって思うんです。シア、最初はすごく遠慮してたんですけど、最近ちょっとずつ笑うようになってきたから」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上聞かなかった。
彼女が何者なのか、なぜ騎士の多い場所で緊張していたのか、それを今知る必要はない。
ただ、パン屋の新しい店員が騎士団向けの納入案を自分でまとめ、ミレイユと楽しそうに話し、まだできない仕事についても「覚えている途中だ」と言ったことだけは記憶に残った。
一方、訓練場を出たシアは、来た道をゆっくり戻っていた。
鞄の中にはオットーの地図と、話し合いの最中に書き加えた覚え書きが入っている。正式な注文数は後日返事をもらうことになったため、店へ戻ったらマルタとオットーへ内容を伝え、必要なら仮の仕込み表も作っておきたい。
噴水のある小広場まで戻ったところで、シアは足を少し緩めた。
水音が朝と変わらず響いている。
来るときには緊張でほとんど目へ入らなかった景色だった。
(ちゃんと話せた)
できないことはできないと言えた。
分からないことは確認すると言えた。
自分が作った表を、自分の言葉で説明できた。
そして、ミレイユに会えた。
さらに、思いがけずこの領地を治める公爵家の跡取りとも言葉を交わした。
その事実を思い返した途端、遅れて緊張が戻ってきた。
(私、公爵家の方と普通に話していたの……?)
思わず足を止めそうになったが、すぐに少しだけ笑ってしまう。
今さら気づいても遅い。
けれど失礼なことをした覚えはなく、レオンハルトも怒ってはいなかった。
何より、自分は貴族令嬢として彼に会ったわけではない。
パン屋で働くシアとして、仕事の途中で言葉を交わしただけだった。
そのことが、なぜか嬉しかった。
シアは鞄の紐を持ち直すと、パン屋へ向かって再び歩き始めた。
空色の髪紐が、秋の風に小さく揺れていた。




