第12話 友達という言葉
南側の訓練場からパン屋へ戻る頃には、昼を少し過ぎていた。
朝にはひんやりと感じられた風も陽が高くなるにつれて柔らかくなり、大通りには買い物客や荷車が行き交っている。シアは人の流れを避けながら歩き、途中で何度か鞄の上から中身を確かめた。騎士団との話し合いで書き加えた覚え書きと、オットーから借りた簡易地図はきちんと収まっている。
訓練場へ向かうときには、地図から目を離すことすら不安だった道も、帰りは周囲を見る余裕があった。石造りの礼拝堂を通り過ぎ、噴水のある小広場を左へ曲がれば、見覚えのある商店が少しずつ増えてくる。
(行くときとは、全然違って見える)
道そのものが変わったわけではない。変わったのは自分の方なのだろう。
騎士団の施設へ一人で入り、知らない相手へ店の条件を説明した。分からないことを分からないと言い、勝手な約束をせず、持ち帰って確認すると伝えることもできた。
それだけでも十分に大きな仕事だったはずなのに、さらにミレイユと会い、アルヴェイン公爵家の跡取りであるレオンハルトとも言葉を交わした。
そこまで思い返したところで、シアは歩きながら小さく息を吐いた。
(……本当に、公爵家の方だったのよね)
訓練場では緊張していたこともあり、目の前の青年と会話することへ意識が向いていた。けれど時間が経つほど、自分が誰と話していたのかという事実が重くなってくる。
ベルフォード家にいた頃の自分であれば、公爵家の跡取りと会う可能性があると分かった時点で、服装から挨拶、立ち位置、話す内容まで何度も確認しただろう。失礼があれば父に叱責され、家の恥だと言われるかもしれないと考え、会う前から胃が痛くなっていたに違いない。
今日は違った。
シアは伯爵令嬢エリシアとして彼に会ったのではない。
パン屋で働くシアとして、仕事の話をした。
(あの方は、私が誰だったのか知らない)
伯爵令嬢だったことも、婚約を破棄されたことも、妹に婚約者を奪われたことも知らない。父に叩かれたことも、食事を抜かれたことも、夜通し廊下へ立たされたことも知らない。
知っているのは、自分がパン屋で働いているということだけだ。
その事実は、不思議なほどシアの心を軽くした。
やがて見慣れた赤茶色の屋根が見えてくると、シアの歩調は自然に少し速くなった。
木製の麦穂飾りが揺れる店先には、昼の客が二人ほど立っている。扉を開けると、焼いた小麦の香りと一緒にマルタの明るい声が飛んできた。
「おかえり、シア」
「ただいま戻りました」
その言葉を口にしたあと、シアはほんの一瞬だけ目を瞬いた。
ただいま戻りました。
仕事先へ戻っただけなのだから、おかしな言葉ではない。それでも「おかえり」と迎えられ、それに「ただいま」と返したことが、胸の奥へ静かに残った。
マルタは客へ丸パンを包みながら、シアの表情をちらりと確認した。
「ちゃんと辿り着けたみたいだね」
「はい。オットーさんの地図が分かりやすかったので、迷いませんでした」
「そりゃよかった。あの人、絵は壊滅的だけど道順だけは分かりやすいから」
厨房から聞こえていた作業音が一瞬止まった。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったんだよ」
マルタが平然と返したため、店にいた客の女性が笑う。シアも思わず頬を緩めると、厨房からオットーが顔を出した。
「話はどうだった?」
「正式な数量は、向こうで人数を確認してから明日か明後日に返事をくださるそうです。最初から長期ではなく、まず数日試して、余る数や足りない数も確認することになりました」
「妥当だな」
「それと、残った数も記録していただけないかお願いしました。訓練量によって食べる量が変わるそうなので、実際の消費量を見ながら調整した方がいいと思って」
オットーは数秒だけシアを見たあと、短く頷いた。
「いいんじゃないか。作りすぎても捨てるだけだからな」
「勝手に決めてしまって大丈夫でしたか?」
「決めたんじゃなくて、提案したんだろ?」
「……はい」
「なら問題ない。向こうが嫌なら断るだけだ」
その言い方に、シアは小さく頷いた。
自分の意見を出すことと、相手へ押し付けることは違う。そんな当たり前の区別さえ、以前の生活では学ぶ機会がなかった。
客が帰ったあと、マルタは店の札を一時的にオットーへ任せ、シアと一緒に奥のテーブルへ移動した。
「ほかには?」
「向こうは、種類よりも腹持ちを重視しているそうです。ですから、丸パンと黒麦パンを中心にする案で問題なさそうでした。白パンや蜂蜜パンを毎日大量に用意する必要はなさそうです」
「それなら助かるね。蜂蜜パンを毎日何十個もって言われたら、材料の仕入れから考え直さなきゃならないところだったよ」
「ただ……」
シアが言葉を止めると、マルタが首を傾げた。
「何かあった?」
「ミレイユさんは、蜂蜜パンを期待していました」
一拍の間を置いて、マルタが吹き出した。
「あの子なら言いそうだね」
「訓練場へ着いてすぐ会ったんですけれど、私の鞄を見て、パンを持ってきたのかと思ったそうです」
「それで?」
「書類だけだと言ったら、かなり残念そうでした」
話しているうちに、シア自身もおかしくなってくる。
訓練場へ入った直後はあれほど緊張していたのに、ミレイユの顔を見ただけで肩の力が抜けた。今こうして振り返ってみても、その変化は自分でも分かるほど大きかった。
マルタはそんなシアの表情を見ながら、少しだけ目を細めた。
「ミレイユさんに会えて嬉しかった?」
問いかけられ、シアは反射的に答えそうになった。
けれど、すぐには口を開かなかった。
自分の中にあるものを確かめるように、ほんの少し視線を落とす。
「……はい。嬉しかったです」
昨日、自室で考えたときにも同じ答えへ辿り着いていた。それでも実際に誰かへ口にすると、胸の奥へわずかな照れが生まれる。
「訓練場へ入ってからずっと緊張していたんです。でも、ミレイユさんに名前を呼ばれたら……少し安心しました」
「そうかい」
マルタはそれ以上からかわなかった。
ただ嬉しそうに笑い、テーブルへ置かれていた注文帳を手元へ引き寄せる。
「じゃあ、いい人と知り合えたね」
「……いい人」
「違うのかい?」
「いえ。違わないです」
シアは首を横へ振った。
ミレイユは自分の事情を聞き出そうとしない。
何かをしてやったという顔もしない。
パンを食べて美味しいと言い、髪紐を似合うと言い、仕事の話をして、また来ると言って本当に来る。
ただそれだけだ。
けれど、その「ただそれだけ」が、シアにはとても心地よかった。
「それから……もう一人、お会いしました」
「誰に?」
「レオンハルト様と呼ばれていました。アルヴェイン公爵家の……」
そこまで言ったところで、マルタの手が止まった。
「レオンハルト様?」
厨房からオットーの声まで飛んでくる。
「公爵家の若様か?」
「おそらく……。ミレイユさんがそう呼んでいました」
シアの声が少し小さくなる。
「少し、お話もしました」
マルタは数秒黙ったあと、なぜかシアの頭から足元まで確認した。
「何か失礼なことをした覚えは?」
「ない……と思います」
「怒られた?」
「いいえ」
「無理な注文を押しつけられた?」
「いいえ。むしろ、店に無理が出れば続かないと言ってくださいました」
そこまで聞くと、マルタはほっとしたように肩を落とした。
「ならいいさ」
「それだけですか?」
「それ以上どうしろっていうんだい。公爵家の跡取りだろうが、パンを買うなら客だし、騎士団との取引なら取引相手だよ。こっちから無礼をするつもりはないけど、だからって今から震えても仕方ないだろ」
あまりにも単純な答えに、シアは目を瞬いた。
ベルフォード家では、高位貴族の名が出るだけで空気が変わった。
相手の好み、家格、交友関係、過去の贈答、誰と誰が不仲なのかまで確認し、一つでも失敗しないよう神経を尖らせる。それを担っていたのは、主にシアだった。
けれどマルタにとっては、公爵家の跡取りであっても「無礼をせず、必要な仕事をする」という話に収まるらしい。
「……そうですね」
「そうそう。シアはパン屋の仕事で行ったんだから、仕事の話ができたなら十分だよ」
マルタはそう言うと、注文帳を開いた。
「それより腹減ってないかい? もう昼を過ぎてるよ」
言われた途端、シアの腹が小さく鳴った。
思わず腹部を押さえると、マルタが笑い、厨房から顔を出したオットーまで口元をわずかに緩めた。
「……すみま――」
そこまで口にして、シアは止まった。
空腹で腹が鳴ったことを謝る必要はない。
数秒迷ったあと、手を腹から離す。
「……お腹が空きました」
「よろしい」
マルタが満足そうに頷いた。
「今日は豆と鶏肉の煮込みがあるよ。パンは好きなの選びな」
「では、黒麦パンにします」
「朝、自分で成形してたやつが残ってるぞ」
オットーの言葉に、シアは少し驚いた。
「どれか分かるんですか?」
「俺にはな」
「……では、それを食べてみたいです」
「自分で作ったやつを自分で確認するのも勉強だ」
昼食の席で食べた黒麦パンは、少しだけ形が不揃いだった。
けれど外側は香ばしく、中はきちんと柔らかい。噛むほど黒麦特有の風味が広がり、豆と鶏肉の煮込みにもよく合った。
シアは自分が成形した部分を指先で確かめるようにパンを見つめた。
「どうだ?」
向かいに座ったオットーから尋ねられ、シアはもう一口食べてから答えた。
「おいしいです。でも、少し形が傾いています」
「味に問題は?」
「ありません」
「なら次は形を直せばいい」
それだけだった。
失敗した部分は次に直す。できている部分まで無価値にする必要はない。
何度聞いても、シアにはその考え方が新鮮だった。
(私も、そうやって覚えていけばいいのかもしれない)
パンだけではなく、自分自身についても。
そう考えられたのはほんの一瞬だったが、以前ならそこまで思うことすらできなかった。
昼食後、シアはきちんと休憩を取ってから仕事へ戻った。
午後は午前より客が少なく、注文帳の整理と翌日の仕込み確認へ時間を使うことができた。騎士団から正式な返答が来た場合に備え、現在の定期注文へ仮の納品数を重ねた表も作ってみる。
ただし数字はまだ仮定だ。
シアは以前のように「必要になるかもしれないから」と何時間も先回りして作り込むことはせず、確認に必要な範囲で筆を置いた。
夕方が近づき、通りに長い影が伸び始めた頃だった。
店の扉についた小さな鐘が鳴った。
「こんにちは。蜂蜜パン、まだある?」
聞き慣れた声に、注文帳から顔を上げたシアの表情が自然に緩む。
「ミレイユさん」
「よかった、いた」
訓練場で見たときと同じ濃紺の騎士服姿だが、剣を持っていることにも以前ほど意識を奪われなくなっていた。ミレイユは店へ入るなり棚を確認し、残っている蜂蜜パンを見つけると露骨に安心した顔をする。
「二つください」
「今日も二つですか?」
「一つは今食べて、もう一つは夜用」
「以前も同じことを言って、帰る前に二つとも食べませんでしたか?」
シアが尋ねると、ミレイユの動きが止まった。
少し離れたところで棚を整理していたマルタが吹き出す。
「シア、よく覚えてたね」
「注文を覚えるのは仕事ですから」
「それ、注文というより食いしん坊の記録じゃない?」
「マルタさん!」
ミレイユが抗議すると、店内に笑い声が広がった。
シアも笑いながら蜂蜜パンを二つ紙へ包む。
「夜用を残せるといいですね」
「シアまで言うようになった……」
少し悲しそうな顔をしながらも、ミレイユは代金を支払った。
そのまま帰るのかと思ったが、彼女は包みを受け取ったあとも店内に残り、壁際の小さな台の近くで一つ目を取り出した。
「今日の話、どうだった?」
「店へ戻って報告しました。マルタさんとオットーさんも、まず数日試す形ならいいだろうと言っています」
「じゃあ、決まる可能性高そう?」
「まだ向こうから正式なお返事をいただいていませんから、何とも言えません」
「真面目だなあ」
ミレイユは蜂蜜パンを一口食べ、すぐに幸せそうな顔になった。
「でも、もし決まったら嬉しい。訓練の途中でこれが食べられるんでしょう?」
「毎日蜂蜜パンを納める話にはなっていませんよ」
「そこをなんとか」
「既存のお客様の分がなくなってしまいます」
「即答された」
シアは笑いながら首を横へ振った。
以前なら、相手に頼まれれば何とかしなければと考えただろう。
今は、できないものはできないと言える。
それでもミレイユは怒らない。
むしろ面白そうに笑っている。
「そういえば、今日レオンハルト様と話してたでしょう?」
「はい」
「緊張した?」
シアは少し考えた。
「……しました。公爵家の方だと分かってからは、特に」
「だよね。普通はそうなるよね」
「ミレイユさんは、あまり緊張されないんですか?」
「仕事中は上司だから緊張することもあるけど、ずっと震えてたら訓練にならないもの。それに、変なことで怒る人じゃないし」
ミレイユは二口目を食べながら、少しだけ視線を上へ向けた。
「厳しいときは厳しいけどね。訓練で手を抜いたら普通に怒られるし、報告を忘れても怒られる。でも、できないことをできるって言って失敗する方が怒られるかな」
シアはその言葉へ静かに耳を傾けた。
「できないことを、できると言う方が……?」
「うん。戦う仕事だからね。できないことを隠したら、自分だけじゃなくて隣の人まで危なくなるでしょう? だから、分からないなら分からない、無理なら無理って言えってよく言われる」
それはオットーから教わっていることと、どこか似ていた。
パン屋と騎士団では仕事の内容がまるで違う。それでも、自分の限界を正しく伝えることが責任になる場合があるという点は同じらしい。
「……私、それが苦手でした」
言ってから、シアは少しだけ指先を握った。
ミレイユはパンを食べる手を止めたが、続きを急かさなかった。
「頼まれたことをできないと言うのが、怖かったんです。できるかどうかより、できると言わなければいけないような気がして」
どこで、誰に、とは言わなかった。
それでも口にできた。
ミレイユは数秒だけシアを見つめたあと、静かに頷いた。
「そっか」
それだけだった。
かわいそうとも、誰にそんなことをされたのとも聞かない。
「でも今日、訓練場でちゃんと言ってたよね。急な追加は必ずできるわけじゃないって」
「……聞いていたんですか?」
「少しだけ。近く通ったときにね」
ミレイユは笑った。
「できてるじゃん」
その言葉が胸へ落ちた瞬間、シアは何も返せなくなった。
できている。
たったそれだけの言葉なのに、指先へ力が入る。
昔は何を終えても、次の仕事が待っていた。
十できても、十一番目ができなければ責められた。できたことを数えるより、できなかったことを探される方が多かった。
「……ありがとうございます」
シアがようやくそう言うと、ミレイユは何でもないことのように蜂蜜パンをもう一口食べた。
「どういたしまして。あ、これ今日も美味しい」
話を重くしない。
それもまた、シアにはありがたかった。
しばらくして、一つ目の蜂蜜パンを食べ終えたミレイユは、包みに残った二つ目へ手を伸ばしかけた。
シアはその動きをじっと見た。
「……夜用では?」
ミレイユの手が止まる。
「これは確認」
「何の確認ですか?」
「夜になっても美味しいかどうかを……今のうちに」
「今食べたら確認できませんよ」
マルタが背中を向けたまま肩を震わせている。
ミレイユはしばらく二つ目の蜂蜜パンと見つめ合った末、名残惜しそうに包みを閉じた。
「シアが厳しくなった」
「夜用なのでしょう?」
「そうだけど……」
「では、夜まで取っておいた方がいいと思います」
「正論だから反論できない」
ミレイユが包みを鞄へしまう姿を見ながら、シアは自分でも驚くほど自然に笑っていた。
誰かとこんな会話をしたことがあっただろうか。
相手を怒らせないよう言葉を選ぶのではなく、少しからかって、からかわれて、それでも次に会えると分かっている会話。
その感覚には、まだ名前がなかった。
ミレイユは鞄を閉じると、ふと思い出したようにシアへ目を向けた。
「そうだ。今度の休みって、いつ?」
「私のですか?」
「うん」
シアは一瞬だけ戸惑った。
「次は五日後の予定です。騎士団の注文が決まったら変わる可能性はありますけれど、オットーさんは変えないと言っていました」
「私もその日、午後から休みなんだよね」
ミレイユは少し考えてから続ける。
「もし予定がなかったら、一緒に市場でも行かない?」
シアは答えられなかった。
嫌だったわけではない。
むしろ、その反対だった。
けれど「一緒に市場へ行く」という言葉をどう受け取ればよいのか分からなかった。
「買い物……ですか?」
「うん。前に髪紐の店を教えてって言ったでしょう? 私も見てみたいし、ついでに何か食べてもいいし」
ミレイユはそこでシアの表情を見て、少しだけ首を傾げた。
「もちろん、予定があるなら断っていいよ。急に言っただけだから」
断っていい。
その言葉を聞いた瞬間、シアの肩からわずかに力が抜けた。
命令ではない。
行かなければ嫌われるわけでも、断れば罰があるわけでもない。
自分で決めていい。
(私は、どうしたい?)
以前なら、その問いを自分へ向けることすら難しかった。
けれど今は、答えが浮かぶまでそれほど時間はかからなかった。
「……行きたいです」
声にすると、胸が少しだけ高鳴った。
「私も、ミレイユさんと市場へ行ってみたいです」
ミレイユの顔が明るくなる。
「本当? じゃあ決まり」
「はい」
「待ち合わせどうしようか。パン屋まで迎えに来ようか?」
その提案へ、シアは少し考えた。
迎えに来てもらうことに抵抗がないわけではない。しかし、以前のように「迷惑をかけるから」と即座に拒否するのも違う気がした。
「では……お願いしてもいいですか?」
「もちろん。午後の鐘が一つ鳴る頃でどう?」
「大丈夫です」
「よし。じゃあ、その日に」
約束ができた。
仕事ではない。
誰かに命じられた予定でもない。
贈答品を選ぶためでも、妹の用事でも、婚約者のためでもない。
自分が会いたい人と、自分が行きたいと思ったから市場へ行く。
それだけの予定だった。
けれどシアには、その小さな約束がひどく大切なものに思えた。
ミレイユが帰ったあとも、店の扉についた鐘の音がしばらく耳へ残っていた。
シアは注文帳へ戻ろうとしたが、マルタが隣からじっとこちらを見ていることに気づいた。
「……何ですか?」
「いやあ、別に」
明らかに何か言いたそうな顔である。
「何かありますよね?」
「シアから聞いてくれるようになったのも成長だねえ」
「マルタさん」
少し困った声を出すと、マルタは楽しそうに笑った。
「ごめんごめん。よかったじゃないか」
「市場のことですか?」
「それもだけどさ」
マルタは棚へ肘をつかない程度に身体を寄せ、声を少し柔らかくした。
「友達ができそうで」
その言葉を聞いた瞬間、シアの動きが止まった。
友達。
すぐには意味を受け止められなかった。
「……友達」
「違ったかい?」
「分かりません」
正直に答えると、マルタは急かさず続きを待った。
シアは手元の注文帳へ視線を落とした。
「友達って……どうなったら、友達なんでしょう」
口にしてから、自分でも妙な質問だと思った。
けれど本当に分からなかった。
伯爵令嬢だった頃にも、同年代の令嬢と話す機会はあった。茶会へ出席し、笑顔で挨拶を交わし、季節の話や衣装の話をしたこともある。
けれど、そこにはいつも家同士の関係があった。
父から「あの家とは親しくしておけ」と言われれば話し、ベアトリーチェから「あの令嬢には余計なことを言うな」と命じられれば距離を取った。
誰かと親しくなりたいかどうかを、自分で考えた記憶がほとんどない。
マルタは少し考えたあと、肩をすくめた。
「さあね。そんなの、誰かが証明書を出してくれるわけじゃないから」
「証明書……」
「一緒にいたいとか、また話したいとか、相手が困ってたら気になるとか。そういうのが積み重なって、気づいたら友達になってるんじゃないかい?」
シアは黙って聞いた。
「別に今日から友達ですって宣言しなきゃいけないわけでもないし、相手がどう思ってるか不安なら、急いで名前をつけなくてもいい。ただ、休みの日に一緒に市場へ行きたいって思える相手がいるのは、悪いことじゃないだろ?」
「……はい」
それなら、分かる。
ミレイユが来れば嬉しい。
話したいと思う。
今日、訓練場で顔を見たときには安心した。
次の休みに一緒に市場へ行きたいと思った。
(それが、友達になる途中なのかな)
まだ自信はない。
それでも、その可能性を怖いとは思わなかった。
「楽しみです」
シアが呟くと、マルタは優しく笑った。
「なら、それで十分さ」
その日の仕事を終え、自室へ戻ったシアは、机の上へ今日の給金袋と母の銀のペンダントを並べた。
給金袋を開く必要はなかったが、自分のものがそこにあるという事実を時々確かめたくなる。空色の髪紐も外して机へ置き、指先で布の柔らかさを確かめた。
五日後。
ミレイユと市場へ行く。
その予定を思い浮かべるだけで、口元がわずかに緩む。
何をするのかは決まっていない。髪紐の店へ行き、何かを食べるかもしれない。それだけだ。
けれど、これまでシアの予定表へ書かれていたもののほとんどは、誰かのための用事だった。
父の来客。
ベアトリーチェの仕立て。
リリアナの茶会。
ディートリヒへの贈り物。
商会への支払い。
招待状への返答。
自分の予定なのに、自分のための時間はほとんどなかった。
今は違う。
(五日後は、私の予定)
そう考えると、胸の奥が少しくすぐったかった。
翌朝、騎士団からの返事はまだ届かなかった。
シアはいつも通りパン屋で働き、オットーから黒麦パンの成形を教わった。昨日より少しだけ形が整ったものを見て喜び、店頭では常連客の注文を間違えずに包み、昼にはきちんと休憩を取った。
騎士団から使いが来たのは、午後の客足が落ち着き始めた頃だった。
扉の鐘が鳴り、濃紺の制服を着た若い騎士が入ってくる。
「こちらが、昨日訓練場へ来てくださったパン屋で間違いありませんか?」
「はい」
マルタが応じると、騎士は封筒を差し出した。
「食事担当からです。試験的な納入について、条件をまとめています」
シアは少し離れた場所からそのやり取りを見守った。
マルタが封を開き、内容を確認する。
「シア、ちょっとこっちへ」
「はい」
呼ばれて隣へ行くと、紙には最初の試験納入について具体的な数量が記されていた。
三日間。
昼食用として一日四十個。
丸パン二十五個、黒麦パン十五個を基本とする。
初回は二日後。
余った数、足りなかった数について騎士団側でも記録し、その結果を見て次の数量を相談する。
シアは数字を目で追いながら、頭の中で既存注文と重ねた。
(この数なら、今の仕込みを少し早めれば対応できる。白パンの定期注文とも重ならない。二日後なら材料も間に合う)
けれど、自分だけで答えを出してはいけない。
「オットーさんにも確認していただきます」
マルタが頷く。
「そうしよう」
厨房へ持っていくと、オットーは手を洗ってから紙を受け取り、しばらく数字を確認した。
「四十ならいける」
「材料は?」
「黒麦粉だけ少し増やした方がいい。明日の仕入れで足せば間に合う」
シアはすぐに注文帳の横へ必要量を書き加えた。
「では、受けても大丈夫ですか?」
「ああ。ただし最初の三日は、この数から増やさない。向こうが当日に追加を言ってきても、余裕がある分だけだ」
「分かりました」
店へ戻り、騎士へ正式に受諾を伝える。
若い騎士は礼を言い、二日後の受け取り時間を確認して帰っていった。
扉が閉じたあと、マルタは紙を持ったままシアを見る。
「決まったね」
「はい」
「新しい取引だ」
その言葉を聞き、シアは胸の奥へじわりと喜びが広がるのを感じた。
自分一人の力ではない。
パンを焼くのはオットーであり、店を切り盛りするのはマルタだ。長年この店を続けてきた二人の信用と技術があってこその取引である。
それでも、今回の条件整理や提案書には自分も関わった。
「……嬉しいです」
シアが言うと、マルタは笑った。
「私もだよ」
オットーも厨房から声をかける。
「喜ぶのはいいが、まだ試しだぞ」
「はい」
「三日やって、きつけりゃ数を減らす。余裕があるなら次を考える。最初から無理するな」
「分かっています」
以前なら、ここで「もっとできます」と証明したくなったかもしれない。
今は違った。
続けられることの方が大切だと分かり始めている。
その日の夕方、シアは新しい注文を定期注文表とは別の試験納入欄へ書き込んだ。
南側訓練場。
三日間。
一日四十個。
丸パン二十五。
黒麦パン十五。
余剰・不足記録あり。
数字を書き終えたところで、ふと手が止まる。
二日後、自分がこのパンを届けることになるかもしれない。
ミレイユもそこにいる。
そして、もしかするとレオンハルトも。
そう考えると少しだけ緊張したが、昨日とは違い、その感情の中には小さな楽しみも混ざっていた。
(仕事だから、ちゃんとやろう)
それだけでいい。
相手が騎士でも、公爵家の人間でも、自分がすることは変わらない。
できることをきちんと行い、できないことはできないと伝える。
分からなければ聞く。
間違えれば直す。
オットーから教わったことは、パン作りだけではなかったのかもしれない。
店を閉める少し前、シアは注文帳を片づけながらマルタへ声をかけた。
「マルタさん」
「ん?」
「五日後のお休みなんですけれど……」
「ミレイユさんと市場だろ?」
「はい」
シアは少し照れながら頷いた。
「予定が変わらなければ、そのままお休みをいただいてもいいですか?」
マルタは一瞬だけ目を丸くしたあと、にっこり笑った。
「もちろん。休みなんだから、好きに使いな」
「ありがとうございます」
「何か買う予定?」
「まだ分かりません。でも……見てみたいものはあります」
「それなら財布の紐は自分で決めな。使いたければ使う、残したければ残す。シアの金なんだから」
「はい」
以前なら「無駄遣いはしません」と付け加えていた。
けれど今日は言わなかった。
必要なものだけを買うことが正しいとは限らない。
空色の髪紐は、生きるために必要なものではなかった。
それでも買ってよかったと思っている。
店じまいを終えたあと、シアは階段を上りながら、五日後の市場を思い浮かべた。
友達という言葉が、自分とミレイユの間に当てはまるのかはまだ分からない。
だから、今すぐ決めなくてもいい。
けれど、また会いたい。
一緒に歩いてみたい。
何を食べようか、どの店を見ようかと考えることが楽しい。
今は、それで十分だった。
自室へ戻って髪紐を外すと、シアは机の端へ丁寧に置いた。窓の外では夕暮れが領都の屋根を赤く染め、遠くから店じまいを知らせる声や馬車の音が聞こえてくる。
明日はまた仕事がある。
二日後には騎士団への初めての試験納入がある。
五日後には、ミレイユとの約束がある。
誰かに決められた予定ではないものが、少しずつ自分の先に増えていた。
(明日も、その次の日も……私が選んだことがある)
以前は明日が来ることを楽しみだと思ったことなど、ほとんどなかった。
けれど今は違う。
シアは空色の髪紐へもう一度触れると、静かな笑みを浮かべた。
自分で選んだ予定を楽しみにしながら眠る夜が、この街でまた一つ増えていた。




