第13話 四十個のパンを届けに
騎士団への試験納入を翌日に控えた朝、シアはいつもの時間に一階へ下りると、厨房へ入る前に壁へ掛けられた注文表を確認した。
銀鹿亭へ届ける白パン、赤い鍋亭から頼まれている黒麦パン、店頭販売用として確保する丸パンと蜂蜜パン。その下には、これまでなかった欄が追加されている。
南側訓練場――丸パン二十五個、黒麦パン十五個。
合計四十個。
紙に書けば数行で終わる注文だが、既存の仕事へ新しい四十個が加われば、仕込みから焼成までの流れは少し変わる。オットーと相談した結果、前日にできる準備を増やし、朝一番の生地を普段より多めに仕込むことになっていた。
シアは注文表から視線を外し、厨房へ入った。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどいい、昨日届いた黒麦粉を見てくれ」
オットーは作業台の脇に置かれた袋を顎で示した。いつもより一袋多く仕入れた黒麦粉であり、シアは手を洗ってから納品書と袋数を確認する。
「注文した数と合っています。小麦粉も不足ありません」
「蜂蜜は?」
「今の使用量なら、次の定期仕入れまで足ります。ただ、騎士団から蜂蜜パンの注文が追加されるようなら、その前に増やした方がいいと思います」
「まだクローデルの希望しか聞いてないからな」
オットーが淡々と言ったため、シアは思わず笑った。
「ミレイユさんなら、毎日でも欲しいと言いそうです」
「それで店の蜂蜜がなくなったら困る」
「そのときはお断りします」
迷わず答えると、オットーが生地へ向けていた目を一度だけシアへ向けた。
「言えるようになったな」
「……はい」
短い言葉だったが、シアはそれが嬉しかった。
できないことを断る。店の都合を説明する。それは決して相手を粗末に扱うことではない。ここへ来てから何度も教わり、実際に試すうちに、ようやく頭だけでなく身体でも理解し始めていた。
朝の仕込みを進めていると、店側からマルタの声が聞こえてくる。
「シア、ちょっといいかい?」
「はい」
手を洗って店へ出ると、マルタは一枚の紙を持って待っていた。
「明日の納品だけどね。最初だし、あたしも一緒に行こうかと思ってたんだけど、オットーと話して、シアに任せてもいいんじゃないかってことになったんだ」
予想していなかった言葉に、シアは目を瞬いた。
「……私、一人でですか?」
「パンを全部背負って歩けって意味じゃないよ。荷車を使うし、量が多いから途中まではオットーも一緒に出る。ただ、向こうでの受け渡しと数の確認は、シアに任せてみようと思ってる」
シアはすぐに返事をせず、マルタの顔を見た。
任せる。
その言葉には、今でも少し怖さがある。
ベルフォード家でも仕事を任されることは多かった。しかし、そこで言う「任せる」は、失敗したときに責任だけを押しつけられることとほとんど同じだった。必要な情報が与えられていなくても、誰かが途中で内容を変えても、最後に問題が起こればシアの責任にされた。
マルタの言う「任せる」は、それとは違う。
分からなければ聞いていい。
条件が変われば持ち帰っていい。
自分だけで決められないことまで決める必要はない。
(それなら……できると思う)
不安がなくなったわけではない。
それでも、不安だから断りたいとは思わなかった。
「やってみたいです」
シアは自分の気持ちを確かめてから答えた。
「ただ、向こうで注文内容を大きく変更したいと言われた場合は、その場では決めずに持ち帰ってもいいですか?」
「もちろん。それができるなら任せられると思ったんだよ」
マルタは笑い、紙を差し出した。
「受け渡し用の控え。向こうに数を確認してもらったら印をもらっておいで。最初の三日間は、残った数と足りなかった数も向こうで記録してくれる約束だから、それも忘れずに確認してね」
「はい」
紙を受け取ったシアは、一つずつ項目を確認した。
丸パン二十五個。
黒麦パン十五個。
受け渡し予定は昼前。
受領確認欄と、余剰・不足記録欄。
必要な情報は揃っている。
「できます」
今度は先ほどよりもはっきり言えた。
マルタは満足そうに頷いた。
「頼んだよ」
その日の仕事を終えて自室へ戻ってからも、シアは翌日のことを何度か考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
訓練場には剣を持った人間が大勢いる。大きな掛け声も響くし、レオンハルトがいる可能性もある。高位貴族の前では身体が勝手に緊張してしまうことを、先日の訪問で思い知らされたばかりだった。
それでも、仕事としてもう一度行きたいと思っている自分もいる。
机の上には、空色の髪紐が置いてあった。
シアはそれを指先で持ち上げると、翌朝も使えるよう櫛の隣へ置き直した。
(明日は、パンを届ける)
それ以上でも、それ以下でもない。
自分の過去を説明しに行くわけではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
店から預かったパンを、注文した相手へ届ける。
そう考えると、胸の中にあった緊張が少しだけ整理された。
翌朝、厨房には普段より早い時間から小麦と酵母の香りが濃く漂っていた。
ただし、シアが早く働き始めたわけではない。
オットーが仕込み時間を調整し、騎士団分の生地をいつもの作業へ組み込んでいたためだ。シアは決められた時間に厨房へ入り、手を洗ってから仕事へ加わった。
「おはようございます」
「ああ。まず丸パンから頼む」
「はい」
作業台にはすでに一次発酵を終えた生地が並べられている。
シアは教わった通りに一つずつ分け、手のひらの中で表面を張らせるように丸めていく。最初に作った頃より、動きはかなり滑らかになっていた。それでもオットーほど速くはなく、形にもわずかな差がある。
焦りそうになるたび、シアは隣の生地ではなく、自分の手元へ意識を戻した。
(速さだけを追わない。形を崩してやり直す方が時間がかかる)
オットーから何度も言われていることだ。
十個ほど成形したところで、一つだけ綴じ目が甘いものができた。
以前なら、それだけで胸が冷たくなっていたかもしれない。
シアは生地を確認し、まだ直せる段階だと判断すると、もう一度形を整えた。
「オットーさん、これで大丈夫でしょうか?」
呼ばれたオットーが手元を見る。
「さっきよりいい。焼けば問題ない」
「ありがとうございます」
それで終わった。
怒鳴られない。
失敗した一個のために、残りまで否定されない。
分かっているはずなのに、こうした小さな経験が重なるたび、胸の奥にあった固いものが少しずつ解けていく。
騎士団へ納める四十個だけを特別扱いすることはなかった。
銀鹿亭へ届けるパンも、赤い鍋亭の注文も、店頭へ並べるパンも同じように焼く。新しい大口の注文が入ったからといって、以前からの客へ渡すものの質を落としてはいけないというのが、オットーの考えだった。
焼き上がった丸パンが窯から出されると、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がった。
シアは少し離れた位置から焼き色を確認する。
「いい色ですね」
「ああ。黒麦ももうすぐだ」
オットーが次の天板を確認しながら答えた。
店側ではマルタが朝の客を相手にしており、扉の鐘が何度も鳴っている。厨房にも客の声や硬貨の触れ合う音が聞こえてきた。
忙しい。
けれど混乱はしていない。
新しい四十個が加わっても、前もって量を計算し、準備していたことで、いつもの仕事が崩れることはなかった。
(こういうことなんだ)
シアは焼き上がったパンを数えながら思った。
無理をして全部引き受けるのではなく、先に自分たちができる量を把握する。
必要な準備をする。
そのうえで仕事を増やす。
ベルフォード家では、仕事が増えるたびにシアの睡眠が減っていた。
ここでは、仕事が増えたからこそ手順を変える。
同じ「働く」でも、あまりにも違う。
黒麦パンも焼き上がり、十分に熱を逃がしてから納品用の籠へ移された。底へ清潔な布を敷き、丸パンと黒麦パンが混ざらないよう分けて並べ、上からもう一枚の布をかける。
シアは数を確認した。
「丸パン、二十五個。黒麦パン、十五個。合計四十個です」
「俺も数える」
オットーが別に確認する。
「二十五、十五。合ってる」
シアは受け渡し用の紙にも印を付けた。
二人で確認する。
これも、この店へ来て覚えたことの一つだった。
一人で完璧にすることより、必要なところでは誰かと確認した方が間違いを減らせる。
ベルフォード家にいた頃は、自分が確認しなければ誰も確認してくれなかった。それどころか、誰かが確認すべきことまで最後にはシアの責任にされた。
ここでは違う。
「準備できたかい?」
店からマルタが顔を出した。
「はい」
「じゃあ、行っておいで。昼の客が来る前には戻れると思うけど、急いで転ぶんじゃないよ」
「分かりました」
シアはエプロンを外し、空色の髪紐が緩んでいないことを確認した。
荷車には二つの大きな籠が積まれた。オットーが押し手を持ち、シアは横につく。
「途中までは俺が押す。南通りに入ったら交代だ」
「私が最初から押しても大丈夫ですよ」
「知ってる。だが、朝から成形してただろ。向こうで受け渡しするのはお前なんだから、余計なところで疲れる必要はない」
言われて、シアは口を閉じた。
手伝ってもらうことへの抵抗はまだある。
けれど、できるからといって全部自分でやらなければならないわけではない。
「……では、お願いします」
「ああ」
それだけのやり取りで荷車は動き始めた。
店の前でマルタが手を振る。
「いってらっしゃい!」
「行ってきます」
シアも自然に答えた。
通りへ出ると、朝の市場はすでに賑わっていた。野菜を積んだ荷車、布を抱えた商人、店先で呼び込みをする若者たちが行き交い、その間をオットーの荷車がゆっくり進む。
途中、ローザの店の前を通った。
「あら、シア! 今日はずいぶんたくさんだね」
「騎士団への試験納入なんです」
「へえ、すごいじゃない!」
ローザは積まれた籠を覗き込み、感心したように眉を上げた。
「頑張っておいで。でも帰りに野菜を山ほど買って運ぶのはやめなよ。初日に張り切ると疲れるからね」
「今日は買い物の予定はありません」
「それならよし!」
明るく送り出され、シアは笑って頭を下げた。
少し先まで進んだところで、オットーがぽつりと言う。
「知り合い増えたな」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、ここへ来たばかりの頃よりはな」
シアは少しだけ後ろを振り返った。
ローザはすでに別の客へ声をかけている。
ニコやハロルドも、自分を覚えている。
ミレイユは名前を呼んでくれる。
マルタとオットーは、自分が帰れば「おかえり」と言う。
(増えたんだ)
この街へ来たときには、自分を知る人など一人もいなかった。
それが怖くもあり、安心でもあった。
今は少しずつ、自分を「シア」として知っている人が増えている。
それでも不思議と、逃げ出したいとは思わなかった。
南通りへ入ったところで、オットーが荷車を止めた。
「ここからなら分かるな?」
「はい」
「じゃあ交代だ」
シアが押し手を握る。
パン四十個を積んだ荷車にはそれなりの重さがあったが、平らな石畳なら問題なく動かせた。
オットーは隣を歩きながら、特に手を出さない。
シアができることまで奪わず、必要なところだけ助ける。
その距離にも、少しずつ慣れてきた。
やがて訓練場の石壁が見えてくる。
門へ近づくにつれ、木剣のぶつかる音と大きな掛け声が聞こえてきた。
シアの手へ、無意識に力が入る。
昨日までなら、その反応を隠そうとしたかもしれない。
今日は一度だけ息を整えた。
「緊張してるか?」
隣のオットーから尋ねられる。
シアは少し迷ったものの、正直に頷いた。
「……はい。少し」
「そうか」
それ以上、オットーは何も言わなかった。
怖がる必要はないとも、大丈夫だとも言わない。
そのことがありがたかった。
門番へ用件を伝えると、話はすでに通っていたらしく、すぐに中へ案内された。
「納品は奥の食事棟です。荷車はそのまま入れて構いません」
「ありがとうございます」
シアは荷車を押して門を通った。
前に来たときより、訓練場の景色を落ち着いて見ることができた。
右側では木剣を使った訓練が行われ、左側では数人が盾を構えている。遠くでは馬の姿も見えた。大きな声が上がるたびに身体はわずかに強張るものの、足を止めるほどではない。
オットーは周囲へ視線を向けたあと、シアへ尋ねた。
「どこだ?」
「あちらの建物です。前に案内していただきました」
「なら任せる」
その言葉に頷き、シアは荷車を食事棟へ向けた。
建物の前には、先日話をした年配の事務官が待っていた。
「来たか。時間通りだな」
「おはようございます。ご注文いただいたパンをお持ちしました」
「助かる。数を確認しよう」
籠を開け、事務官と一緒に数える。
丸パン二十五個。
黒麦パン十五個。
間違いはない。
事務官は受領欄へ印を入れた。
「今日は訓練参加者が三十六人だ。四十個なら少し余るかもしれんが、若い連中は二個食うこともあるからな」
「余った数だけ、あとで記録をお願いいたします。明日も同じ数量をお持ちしますが、三日間の結果を見て次を相談できればと思います」
「ああ。こちらでも記録しておく」
話している間、オットーは少し離れたところに立っていた。
口を挟まない。
シアが説明し、確認する様子を見守っているだけだ。
それに気づくと、少し緊張しながらも嬉しくなった。
任せてもらっている。
失敗しないと保証されているからではない。
分からないことがあれば確認できると信じてもらっているのだ。
「シア!」
遠くから聞こえた声に、シアは振り向いた。
訓練場の方からミレイユが走ってくる。
昨日と同じ濃紺の騎士服姿で、額には薄く汗が浮かんでいた。腰には剣を下げているが、シアの目は以前ほどそこへ引きつけられなかった。
「本当に来た!」
「納品日ですから」
「いや、来るって分かってたけど、実際に見ると嬉しくて」
ミレイユは荷車へ近づき、籠の中を覗こうとして事務官に止められた。
「クローデル、まだ確認中だ」
「あ、ごめんなさい」
すぐに一歩下がる。
シアはその様子に笑いながら、受領書を鞄へしまった。
「確認は終わりました」
「じゃあ見てもいい?」
「食事担当の方に聞いてください」
「シアのパンなのに!」
「もう納品しましたので、今は騎士団のパンです」
事務官が低く笑う。
「その通りだ。昼まで待て」
「そんなぁ」
ミレイユが本気で残念そうな顔をするため、シアは口元を押さえることなく笑った。
オットーが隣からシアを見る。
店で働き始めた頃には、客と話すときにもどこか身構えていた。
言葉を選び、表情を読み、相手が不快にならないよう常に注意しているのが分かった。仕事として丁寧なのとは少し違う。怒らせることそのものを恐れている人間の振る舞いだった。
それが今は、騎士を相手に軽口を返している。
しかも相手のミレイユも楽しそうだ。
(変わるもんだな)
オットーはそう思ったものの、口には出さなかった。
本人が気づいていない変化を、わざわざ指摘して意識させる必要もない。
シアが自分の速度で変わればいい。
「こちらの方が店主さん?」
ミレイユがオットーへ視線を向けた。
「パンを焼いてるオットーだ」
「いつも蜂蜜パンありがとうございます!」
「蜂蜜パンだけじゃないんだがな」
「黒麦パンも食べます」
「そういう意味でもない」
ミレイユが真面目な顔で答えたため、シアはまた笑った。
そのとき、訓練場の方から数人の騎士が歩いてきた。
中央にいた青年を見つけた瞬間、シアの背筋へわずかな緊張が戻る。
レオンハルトだった。
今日は濃紺を基調とした訓練服を身につけ、手には革の手袋を持っている。周囲の騎士と話しながら歩いていたが、食事棟の前に置かれた荷車へ気づくと、こちらへ視線を向けた。
ミレイユも気づいたらしい。
「レオンハルト様。パン、届きましたよ」
「君が届けたような言い方だな」
「私は宣伝担当です」
「いつからそんな役目になった?」
レオンハルトは呆れたように言いながら近づいてきた。
シアは反射的に姿勢を正した。
「おはようございます」
「ああ。昨日言っていた試験納入か」
「はい。丸パン二十五個と黒麦パン十五個です。今日はこの数で様子を見ていただくことになっています」
「四十個か」
レオンハルトは籠へ視線を向けたものの、勝手に手を伸ばすことはしなかった。
事務官が説明する。
「三日間、同じ数で試します。余りと不足を記録して、その後に数量を調整する予定です」
「それなら無駄も出にくいな」
「シアさんから提案がありまして」
事務官が何気なく言ったため、シアは少しだけ目を瞬いた。
レオンハルトの視線がこちらへ戻る。
「君が?」
「はい。ただ、実際に作れる数についてはオットーさんとマルタさんに確認しています」
「昨日もそう言っていたな」
覚えていたことに、シアはわずかに驚いた。
「店の負担にならない範囲で続けられるなら、その方がこちらも助かる。訓練のたびに供給先を変えるより、安定して頼める店がある方がいい」
「ありがとうございます」
シアは頭を下げた。
その横で、ミレイユが何か言いたそうにしている。
レオンハルトが気づいた。
「どうした?」
「昨日、パンを食べてみるって言いましたよね?」
「言ったな」
「今日あります」
「見れば分かる」
「食べます?」
「今は訓練中だ」
「昼まで待つんですか?」
「普通は待つだろう」
ミレイユが納得できないという顔をする。
レオンハルトは小さく息を吐いたあと、事務官へ視線を向けた。
「昼に一つもらおう。黒麦パンでいい」
「蜂蜜パンじゃないんですか?」
ミレイユが即座に反応した。
「納品されていないものをどうやって食べるんだ」
「あ」
ミレイユが黙り込む。
シアは堪えきれず笑った。
レオンハルトも口元をわずかに緩めた。
「蜂蜜パンは、君が店で買っているんだろう?」
「はい。とても美味しいです」
シアが答える。
「では、今度店へ行ったときに買う」
その言葉に、ミレイユの目が輝いた。
「本当に行くんですか?」
「パンを買いに行くだけで、なぜ君がそんなに喜ぶんだ」
「美味しいって認めてもらいたいので」
「君が焼いているわけでもないだろう」
「でもおすすめした責任があります」
相変わらずのやり取りに、周囲の騎士たちも笑っている。
シアはその空気の中に立ちながら、ふと不思議な感覚を覚えた。
高位貴族がいる。
騎士たちがいる。
剣もある。
以前なら、失礼をしないことだけで頭がいっぱいになっていたはずだ。
今も緊張はしている。
けれど、怖さだけではない。
周囲の人が笑っている理由を理解し、自分も一緒に笑う余裕がある。
「シア」
ミレイユに名前を呼ばれ、シアは顔を向けた。
「今日、帰りは急ぐ?」
「店へ戻りますので、あまり遅くはできません」
「そっか。じゃあ長く引き止めないけど、少しだけ話してもいい?」
以前のシアなら、「何でしょう」と仕事の用件だと思ったかもしれない。
今は違った。
ミレイユがただ話したいと言っていることが分かる。
シアはオットーへ目を向けた。
許可を求めるというより、店へ戻る時間を確認するためだった。
オットーは空になった荷車を見てから答える。
「少しくらいなら構わん。俺は先に市場へ寄って黒麦粉の値段を見てくる。帰りは一人で大丈夫か?」
「はい。道も覚えました」
「なら店でな」
「ありがとうございます」
オットーは荷車を押して門の方へ向かっていった。
シアはその背中を見送りながら、胸の中へ生まれた感覚を確かめる。
以前なら、自分だけ残ることへ罪悪感を抱いただろう。
仕事中なのに。
自分だけ話していていいのか。
そんな考えがすぐに浮かんだはずだ。
今も少しはある。
けれど、オットーが構わないと言った。
自分もミレイユと話したい。
(なら、少しだけいてもいい)
そう思えた。
食事棟の前では邪魔になるため、ミレイユとシアは訓練場の端にある木陰へ移動した。そこには休憩用らしい長椅子が置かれており、少し離れた場所では騎士たちが訓練を続けている。
「座る?」
「はい」
二人で腰を下ろす。
ミレイユは訓練直後らしく、額へ浮いた汗を布で拭いた。
「今日も空色の髪紐だね」
「気に入っているので」
「うん。やっぱり似合ってる」
褒められ、シアは素直に笑った。
「ありがとうございます」
「そういえば、休みの日のことなんだけど」
「市場へ行く日ですか?」
「そう。私、行きたい店が一つ増えた」
「どこですか?」
「果実茶の店。前に話したでしょう?」
シアは思い出した。
ミレイユが以前、中央広場とは別の通りに果実茶の美味しい店があると言っていた。
「はい。地図を描いてくださると言っていたお店ですよね」
「そうそう。でも一緒に行くなら、地図いらないじゃない?」
「確かにそうですね」
「だから髪紐を見て、何か食べて、果実茶を飲む。どう?」
ミレイユは楽しそうに指を折りながら予定を並べる。
シアはそれを聞いているだけで、胸が少し温かくなった。
「楽しそうです」
「よかった。あと、予定詰めすぎて疲れたら途中でやめよう。市場って歩くから」
その一言に、シアはミレイユの顔を見た。
「途中で……やめてもいいんですか?」
「もちろん。遊びに行くのに疲れ果てて帰ったら意味ないでしょう?」
当たり前のように返される。
シアは少しだけ考え込んだ。
予定は守るものだった。
一度決めたなら最後まで行う。
相手が望むなら、自分が疲れていても合わせる。
そういうものだと思っていた。
「……そうですね」
「シア?」
「いえ。ただ、そういう予定の変え方もあるんだと思って」
ミレイユは一瞬不思議そうな顔をしたものの、深く追及はしなかった。
「じゃあ、当日はシアが疲れたら言ってね。私も疲れたら言うから」
「はい」
「約束」
「……約束します」
その言葉を交わしたとき、シアは自分の中にあった小さな不安が薄れるのを感じた。
楽しみにしているからこそ、きちんと楽しまなければならないと思い始めていたのかもしれない。
けれど、疲れたら休んでもいい。
予定を変えてもいい。
そんな関係なら、少し安心できる。
「それとね」
ミレイユが少しだけ姿勢を変えた。
「昨日、マルタさんに言われたことを考えていたんです」
「マルタさんに?」
「……友達ができそうだって」
口にした途端、少し恥ずかしくなった。
ミレイユは目を瞬く。
シアは慌てて続けた。
「でも、私は友達というものが、よく分からなくて。以前も同じ年頃の方と話すことはありましたけれど……その、今とは少し違っていて」
貴族令嬢としての付き合いだったとは言えない。
自分の素性を隠している以上、そこまで説明することはできない。
「それで、マルタさんに聞いたんです。どうなったら友達なのかって」
「マルタさん、なんて?」
「一緒にいたいとか、また話したいとか、相手が困っていたら気になるとか。そういうものが積み重なるんじゃないかって」
ミレイユは黙って聞いていた。
シアは自分の指先へ視線を落とした。
「私は、ミレイユさんがお店に来ると嬉しいです。訓練場で会えたときも安心しました。次のお休みに一緒に市場へ行けるのも……楽しみです」
そこまで言うと、胸が強く鳴った。
告げてから怖くなる。
自分だけがそう思っていたらどうしよう。
ミレイユにとっては、ただよく行くパン屋の店員でしかなかったら。
以前なら、そんな不安を感じた時点で言葉を飲み込んでいただろう。
けれど、もう口にした。
ミレイユはしばらく何も言わなかった。
その数秒が、シアには長く感じられた。
やがてミレイユが、困ったように笑った。
「私、もう友達だと思ってた」
シアは顔を上げた。
「……え?」
「だから休みの日に市場へ誘ったんだけど」
「そう……だったんですか?」
「うん。違った?」
問い返され、シアは慌てて首を横へ振った。
「違いません。ただ……」
言葉がうまく続かない。
胸の奥が熱くなり、目の周りまで少しだけ熱を持つ。
悲しいわけではない。
むしろ反対だった。
(友達)
自分にも。
家同士の都合でも、婚約者を通した関係でも、父に命じられた付き合いでもない。
パン屋で出会い、何度も話し、また会いたいと思った相手が、自分を友達だと思ってくれている。
「……嬉しいです」
ようやく出た声は少し震えていた。
ミレイユはその震えに気づいたらしいが、笑ったりからかったりはしなかった。
「私も嬉しい」
ただ、それだけを返した。
シアは何度か瞬きをして、目元の熱を落ち着かせた。
「私、友達ができたの……初めてかもしれません」
そこまで言ってから、自分でも驚いた。
だが、撤回したいとは思わなかった。
ミレイユは少し目を見開いたあと、いつもの明るさを少し抑えた声で答える。
「じゃあ、最初の友達になれて光栄だね」
「……はい」
「でも、友達だからって何でも話さなきゃいけないわけじゃないからね」
思いがけない言葉に、シアは顔を上げた。
ミレイユは訓練場の方を見ながら続ける。
「シア、たまに昔のこと聞かれると困った顔するでしょう? だから、言いたくなったら言えばいいし、言いたくなければ言わなくていい。友達になったから全部教えて、なんて私は思わないよ」
シアの呼吸が一瞬止まった。
気づかれていた。
それでも、問い詰められなかった。
「……それでも、友達でいてくれるんですか?」
「なんで過去を全部知らないと友達になれないの?」
ミレイユは本気で不思議そうに首を傾げた。
「私だって、自分の子どもの頃の失敗を全部シアに話してないよ」
「失敗……ですか?」
「そこ食いつく?」
シアが少し笑うと、ミレイユも笑った。
「まあ、そのうち話すかもしれないけど。恥ずかしいのがいっぱいあるから」
「少し聞いてみたいです」
「友達になった途端に強くなったね?」
「嫌なら話さなくてもいいんですよね?」
シアが返すと、ミレイユは一瞬ぽかんとしたあと、大きく笑った。
「そう! その通り!」
笑い声につられ、シアも声を立てて笑った。
訓練場の音は相変わらず大きい。
剣がぶつかる音も、指示を飛ばす声も聞こえる。
それでも今は、その場所で笑っている自分が不思議ではなかった。
少し離れたところでは、訓練を終えたレオンハルトが部下から報告を受けていた。
話を聞きながら何気なく木陰へ視線を向けると、昨日パン屋から来ていた女性――シアが、ミレイユと並んで笑っている。
昨日も思ったが、仕事の話をしているときと、ミレイユと話しているときでは表情がかなり違う。
仕事中は丁寧で落ち着いている。
しかし、どこか常に相手の反応を確認しているような慎重さがある。
ミレイユの前では、それが少し薄い。
「レオンハルト様?」
報告していた騎士から呼ばれ、レオンハルトはすぐに視線を戻した。
「すまない。続けてくれ」
「はい。西側の柵についてですが――」
仕事へ意識を戻しながらも、頭の片隅には先ほどの納品のやり取りが残っていた。
四十個という小さな取引。
だが、食事担当の事務官は提出された表が分かりやすかったと評価していた。余剰数まで記録し、次の注文へ反映するという考えも合理的である。
店へ入って二週ほどだと聞いた女性が、どこでそうした仕事を覚えたのか。
少しだけ疑問は残った。
ただし、それは今すぐ聞き出すようなことでもない。
レオンハルトは報告へ集中し、その疑問をひとまず胸の隅へ置いた。
木陰では、ミレイユが立ち上がった。
「そろそろ戻らないと怒られる」
「お仕事中でしたものね。引き止めてしまってすみ――」
謝りかけたシアは、途中で口を閉じた。
ミレイユがじっと見る。
「今、謝ろうとした?」
「……はい」
「私が話したくて残ってたんだから、シアが謝ることじゃないよ」
「そうですね」
シアは少し考え、言い直した。
「話せて嬉しかったです」
ミレイユの表情が明るくなる。
「私も。じゃあ、また店に行くね」
「お待ちしています」
「それと五日後」
「はい。楽しみにしています」
二人はそこで別れた。
シアは門へ向かいながら、胸の奥へ何度も浮かんでくる言葉を止められなかった。
(友達)
何度考えても、嬉しい。
門を出る前に一度だけ振り返ると、ミレイユはすでに訓練へ戻っていた。
シアはその背中を見て、小さく笑った。
帰り道は一人だった。
それでも、行きより足取りが軽い。
パン四十個を無事に届けた。
新しい仕事を一つ終えた。
そして、自分には友達ができた。
店へ戻ると、マルタが客へパンを渡しているところだった。シアは邪魔にならないよう奥へ入り、空になった荷車を所定の場所へ置く。
客が帰ったあと、マルタがすぐに振り向いた。
「おかえり。どうだった?」
「ただいま戻りました。四十個、間違いなく受け取っていただきました。今日の残数は向こうで記録してくださいます」
「よし。初納品成功だね」
「はい」
シアは受領書を渡した。
マルタが確認している間、シアは少し迷った。
仕事の報告は終わった。
けれど、もう一つ話したいことがある。
「マルタさん」
「ん?」
「昨日、友達ができそうだって言っていましたよね」
「ああ」
「……できました」
マルタの手が止まった。
シアは少し照れながらも、今度は視線を逸らさなかった。
「ミレイユさんは、もう友達だと思ってくれていたそうです。私も……友達でいたいです」
数秒後、マルタの顔いっぱいに笑みが広がった。
「そりゃよかったじゃないか」
「はい」
「じゃあ今日はいい日だね。初納品もうまくいって、友達もできた」
「……はい。とても、いい日です」
自分の口からそんな言葉が出たことに、シアは少し驚いた。
いい日。
以前は一日を評価するとき、怒られなかったか、失敗しなかったか、仕事を全部終えられたかで考えていた。
今日は違う。
仕事ができた。
友達ができた。
嬉しかった。
それだけで、いい日だと言える。
夕方、騎士団から使いが来た。
初日の四十個はすべて食べられ、不足もなかったという。正確には、最後の二個を巡って若い騎士たちが少し揉めたらしいが、翌日も同数で様子を見ることになった。
「二個を巡って……」
報告を聞いたシアが困ったように笑う。
マルタは楽しそうだった。
「足りなかったってことかね?」
「食事担当の方は、今日は不足扱いにはしないそうです。明日も同じ四十個で、三日目まで見たいと」
「ならその通りにしよう」
シアは記録表へ初日の結果を書き加えた。
納品四十。
残数零。
不足申告なし。
数量変更なし。
その横に日付を書き、筆を置く。
新しい仕事は、まだ始まったばかりだ。
騎士団との取引がこの先続くかは分からない。
けれど、最初の一日は無事に終わった。
そしてその日の夜、自室へ戻ったシアは、机の前へ座って空色の髪紐を外した。
鏡代わりの磨き板には、少し疲れた自分の顔が映っている。
シアはしばらくその顔を見つめた。
「……疲れました」
誰もいない部屋で、声に出してみる。
朝からパンを成形し、荷車を押し、訓練場へ届け、店へ戻って午後も働いたのだから、疲れて当然だった。
それでも、口元には自然と笑みが浮かぶ。
「でも、楽しかった」
以前にも同じような言葉を口にしたことがある。
けれど今日は、その中身が少し違う。
仕事だけではない。
ミレイユと話した。
友達だと言ってもらえた。
五日後には一緒に市場へ行く。
シアは空色の髪紐を机へ置き、その隣に母の銀のペンダントをそっと並べた。
過去が消えたわけではない。
今でも大きな声には身体が強張るし、高位貴族を前にすれば緊張する。誰かへ頼ることも、休むことも、断ることも、まだ完全に自然になったわけではない。
それでも、この街へ来たばかりの自分とは少し違う。
(私は、ここで少しずつ増やしている)
できること。
好きなもの。
行きたい場所。
明日の予定。
そして、自分を「シア」と呼んでくれる人。
失ったものを数えることしかできなかった日々から、いつの間にか、自分の手元へ増えていくものを数えられるようになっていた。
シアは寝台へ入り、掛け布を胸元まで引き上げた。
明日も騎士団へ四十個のパンを届ける。
その次の日も、同じ数を届ける。
そこで初めて試験納入の結果が揃う。
五日後にはミレイユとの約束が待っている。
目を閉じる直前、シアの頭に浮かんだのは、ベルフォード家でもディートリヒでもなかった。
蜂蜜パンを前にして真剣な顔をするミレイユと、店へ戻った自分へ「おかえり」と言ったマルタ、黙って荷車を途中まで押してくれたオットーの姿だった。
そのことに気づいたシアは、暗い部屋の中でほんの少し笑った。
過去を忘れたわけではない。
ただ、今日一日を埋めるものが、もう過去だけではなくなっていた。




