第16話 友達と出かける日のために
騎士団との正式な取引が決まった翌朝、麦穂亭の厨房には、いつもと変わらない小麦の匂いが満ちていた。
新しい定期注文が決まったからといって、店の朝が急に特別なものへ変わるわけではない。オットーは普段通り夜明け前から生地の状態を確認し、マルタは店頭へ並べる籠や包み紙を整え、シアも決められた時間に厨房へ下りて自分の仕事を始めていた。
ただ、壁際に掛けられた注文表には、一つだけ昨日までと違うものがある。
南側訓練場への定期納入。
週四日を基本として、一度に四十個。次の納入は明日から始まるため、今日は必要な材料と既存注文が重なる時間帯を改めて確認する日だった。
「黒麦粉は足ります。明日の分を使っても、赤い鍋亭の次回分までは残ります。ただ、その次まで考えると少し少ないです」
貯蔵棚を確認したシアが帳面へ数字を書き込むと、隣で粉袋を動かしていたオットーが振り返った。
「次の仕入れは?」
「明後日の予定です」
「なら問題ないな」
「はい。ただ、騎士団から追加が来る可能性を考えると、仕入れ量を少し増やした方がいいでしょうか」
シアは自分で書いた数字を見ながら尋ねた。
三日間の試験納入では四十個ですべてなくなったものの、正式な取引が始まれば訓練人数によって追加注文が入る可能性がある。とはいえ、起きるかどうか分からない追加のために大量の材料を抱えれば、今度は余らせる危険があった。
オットーはすぐには答えず、帳面を覗き込んだ。
「どのくらい増やすつもりだ?」
「一袋では多いと思います。いつもの仕入れ先で、小さい袋に分けてもらえるなら、その分だけ増やすのはどうでしょう」
「聞いてみる価値はあるな。だが、まだ正式納入が始まったばかりだ。最初から増やしすぎるなよ」
「はい。今までの分に少し余裕を持たせる程度にします」
「それでいい」
話がまとまると、シアは仕入れ予定の欄へ小さく印を付けた。
以前なら、必要かもしれないと思った時点で自分一人ですべて準備しようとしていた。足りなくなれば自分の責任だと考え、誰にも相談せず、できる限り多く抱え込んでいただろう。
今は、考えたことを伝え、店主と相談して決められる。
(私が全部決めなくていい。でも、考えなくていいわけでもない)
その間にある場所が、少しずつ分かってきた。
「シア、そっちが終わったら丸パン頼む」
「はい」
オットーに呼ばれ、シアは帳面を閉じた。
今日の生地は扱いやすい。
掌で軽く押しながら形を整え、表面を張らせる。最初の頃は一つ作るたびにオットーの手元を見ていたが、今では自分の感覚で進められる部分が増えている。
それでも、十二個目で少し形が崩れた。
シアは手を止め、横から確認する。
「オットーさん、これは締め直した方がいいですか?」
「見せろ」
オットーが近づき、シアの作った生地を見る。
「いや、それ以上触ると固くなる。そのまま焼け」
「でも、少し横に広がっています」
「パンは全部同じ顔じゃなくていい」
「売れますか?」
「食えるし、味も変わらん。売れる」
そう言われても、以前の癖で形の悪い一つが気になった。
けれど、何度も同じことを教わっている。
完璧でなければ価値がないわけではない。
シアはその生地を他のものと同じ天板へ置いた。
「分かりました」
「それでいい。次」
オットーはもう気にしていない。
シアも次の生地へ手を伸ばした。
少し形の違う一つは、そのまま他のパンと一緒に窯へ入った。
朝の営業が始まる頃には、麦穂亭の前を行き交う人も増えていた。
近所の職人や商人が仕事前のパンを買い、子どもを連れた母親が昼用の丸パンを選ぶ。ハロルドは相変わらず黒麦パンを二つ買い、今日は焼き色ではなく大きさを見比べていた。
「こっちの方が少し大きくないか?」
「量は同じですよ」
シアが答えると、ハロルドは二つを掌に載せた。
「そうか?」
「昨日、私が分けましたから」
「なら信じよう」
「私でいいんですか?」
「店主が信用してる娘を疑ってどうする」
何気なく返された言葉に、シアは一瞬動きを止めた。
ハロルドは気づかなかったらしく、代金を置いてパンを包むシアの手元を眺めている。
「騎士団の注文、続くことになったんだってな」
「はい。明日から正式に始まります」
「忙しくなるな」
「少し増えますが、無理のない数でお願いしています」
「そりゃいい。騎士どもに全部持ってかれて、わしの黒麦パンがなくなったら困るからな」
冗談めかした口調だったが、シアはきちんと答えた。
「今までのお客様の分を減らさないことも確認しています」
「そこまで真面目に返すとは思わなかった」
ハロルドが笑う。
「まあ、頑張れよ」
「ありがとうございます」
扉が閉じたあと、マルタが横からシアを見る。
「今の、嬉しかったかい?」
突然尋ねられ、シアは少し考えた。
「……信用している、と言っていただけたことですか?」
「そう」
胸の内側に残っている温かさを確かめる。
「はい。嬉しかったです」
「なら、そのまま受け取っときな」
「はい」
以前のように、そんな資格はないと打ち消す必要はなかった。
シアは小さく笑ってから、次の客を迎えた。
昼前になると、ローザが野菜の入った籠を抱えて店へやってきた。
「丸パン四つちょうだい。今日は昼を作る暇がなくてさ」
「四つですね」
シアが棚へ向かうと、ローザは彼女の髪へ目を向けた。
「その髪紐、すっかりお気に入りだね」
淡い空色の髪紐へ、シアも指先で少し触れる。
「はい。気に入っています」
「似合ってるよ。前より顔が明るく見える」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、ローザは満足そうに頷いた。
「そういや、ミレイユちゃんと市場に行くんだって?」
シアの手が止まった。
「どうしてご存じなんですか?」
「昨日あの子がうちで林檎買ったときに喋ってたよ。『今度シアと市場行くんです』って、そりゃ嬉しそうに」
容易に想像できてしまい、シアは思わず笑った。
「……ミレイユさんらしいです」
「友達と出かけるなら楽しんできな。仕事のこと考えて途中で帰ったりするんじゃないよ」
「しません」
答えたあと、シアは少し迷った。
「……たぶん」
「そこは言い切りな」
ローザが声を上げて笑う。
マルタまで会計台の向こうで笑っていた。
「シアは休みの日でも、店の前を三回くらい往復しそうだからね」
「しませんよ」
「この前の休みは朝から厨房へ来そうな顔してたじゃないか」
「来ませんでした」
「来なかっただけ偉いよ」
褒められているのか分からず、シアは困った顔になる。
けれど、嫌ではなかった。
ローザへ丸パンを渡しながら、シアは数日後に迫った約束を思い浮かべた。
ミレイユと市場へ行く。
買わなければならないものがあるわけではない。
仕事でもない。
誰かへの贈り物を選ぶわけでもない。
ただ、友達と出かける。
(何を着ればいいんだろう)
そこで初めて、具体的な問題に気づいた。
自分が持っている服は多くない。
仕事着。
旅に使った茶色の服。
それから、逃げるときに持ち出した数着の実用的な衣服。
どれも着られないわけではないし、汚れているわけでもない。
けれど、「友達と遊びに行くための服」というものを選んだ経験が、シアにはほとんどなかった。
ベルフォード家にいた頃、外出時の服は自分で決めるものではなかった。
家の都合。
父の指示。
継母の判断。
場合によっては、リリアナが先に選び、残ったものを着る。
婚約者に会う日でさえ、自分が好きなものを着るという発想はなかった。
ローザが帰ったあとも、その考えが頭に残った。
午後の休憩になり、シアは裏庭の古い長椅子へ腰を下ろした。
秋が近づき始めた空気には夏の頃より乾いた涼しさが混ざっており、壁際の香草が風に揺れている。昼食のスープが入った器を膝へ置き、パンを一口食べながらも、意識は数日後の休日へ向いていた。
「考え事?」
マルタが裏口から出てきた。
「はい」
「騎士団の注文?」
「違います」
すぐに答えられたことに、自分でも少し驚く。
以前なら、考え事といえば仕事ばかりだった。
「ミレイユさんと市場へ行く日のことです」
「ああ。もうすぐだったね」
マルタは隣へ座るのではなく、壁際の木箱へ腰を下ろした。近すぎず遠すぎない距離が、シアには心地よかった。
「何か困ったことでもあるのかい?」
「困ったというほどではないのですが……何を着ていけばいいのかと思って」
「服?」
「はい」
シアは自分の仕事着へ視線を落とした。
「出かけるための服を、自分で選んだことがほとんどないんです」
言葉にすると、マルタの表情が少しだけ変わった。
けれど理由は聞かなかった。
「持ってる服は?」
「旅のときに着ていた茶色のものと、ほかに二着ほどあります。どれもまだ着られます」
「なら、その中から着たいのを選べばいいんじゃないかい?」
あまりにも簡単な答えだった。
シアは目を瞬く。
「着たいもの……ですか」
「そう。市場に行くのに礼服がいるわけじゃないんだから。動きやすくて、シアが着たいと思うやつ」
「似合うかどうかではなく?」
「似合う方が嬉しいなら、それも考えればいい。でも、誰かに合格をもらうために着るんじゃないだろ?」
シアは黙った。
誰かに合格をもらうためではない。
その言葉が、胸の奥へゆっくり落ちていく。
「ミレイユさんに、おかしいと思われないでしょうか」
「思ったとしても、あの子なら言うだろ」
「……言いそうです」
「で、シアも嫌なら嫌って言えばいい」
それも、今なら少し想像できる。
ミレイユが似合わないと言ったからといって、関係が終わるわけではない。
意見が違っても友達でいられる。
「今日、仕事が終わったら服を見てみます」
「そうしな」
マルタは立ち上がり、裏口へ向かう。
その途中で振り返った。
「別に新しいのを買わなくてもいいからね」
「はい」
「でも、欲しいのがあったら買っちゃいけないって意味でもないよ」
シアは一瞬返事ができなかった。
空色の髪紐を買った日のことを思い出す。
六銅貨。
生活に必要ではなかった。
それでも買った。
そして、今も毎日のように使っている。
「……覚えておきます」
マルタは笑い、店へ戻っていった。
午後の仕事が始まり、シアも考え事をいったん横へ置いた。
注文の確認、会計、棚の補充、翌日分の材料確認。騎士団への正式納入が始まるため、明日の朝は普段より少し作業が増える。
だからといって、今から余分に働く必要はない。
明日の仕事は明日する。
そう考えられるようになったこと自体が、以前の自分からすれば大きな変化だった。
夕方近くになった頃、扉の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアが顔を上げると、見覚えのある濃い灰色の上着が目に入った。
レオンハルトだった。
昨日に続いて二日連続で来るとは思っていなかったため、シアは少し驚いた。
「こんにちは」
「ああ」
今日は一人ではなく、店の外に昨日とは別の護衛らしい騎士が立っている。レオンハルト自身は店内へ入り、並んでいるパンへ視線を向けた。
「今日は蜂蜜パン以外を買おうと思ってな」
「昨日、そう仰っていましたね」
「覚えていたのか」
「はい」
答えてから、シアは少し考える。
客との会話を覚えていることは、以前なら仕事だから当然だと思っていた。
今は、それだけではない気がする。
レオンハルトが何を選ぶのか、少し興味があった。
「おすすめはあるか?」
尋ねられ、シアは棚を見る。
「お好みで変わります。甘いものがお好きなら干し葡萄のパンがありますし、食事と合わせるなら黒麦パンか丸パンがいいと思います。胡桃パンは、そのままでも食べやすいです」
「では胡桃にしよう」
「一つでよろしいですか?」
「ああ」
シアが胡桃パンを取ろうとしたところで、レオンハルトが棚の端へ視線を向けた。
「これは?」
指したのは、少し形の崩れた丸パンだった。
朝、シアが成形したものだ。
ほかと比べると、わずかに横へ広がっている。
「丸パンです」
「それは分かる。他のものと形が違うな」
シアは少し恥ずかしくなった。
「……私が成形したものです」
「失敗か?」
責める口調ではない。
純粋に尋ねられているだけだと分かる。
「少し締め方が足りなくて、横へ広がってしまいました。ただ、オットーさんからは味に問題はないと言われています」
「なら、それももらおう」
「え?」
「売り物なんだろう?」
「はい。でも、こちらの方が形はきれいです」
シアは隣の丸パンを示した。
レオンハルトは二つを見比べ、それでも形の崩れた方を指す。
「そちらでいい」
「……分かりました」
シアは胡桃パンと丸パンを包んだ。
会計を済ませる間も、なぜわざわざこちらを選んだのか気になってしまう。
「どうして、こちらにされたんですか?」
気づけば尋ねていた。
レオンハルトが包みから顔を上げる。
「君が作ったと分かるパンを食べられる日を楽しみにしている、と前に言っただろう」
シアは動きを止めた。
南側訓練場で初めてきちんと言葉を交わした日のことを思い出す。
確かに言われた。
けれど、覚えているとは思わなかった。
「まだ、生地を作ったのはオットーさんです。私は形を整えただけです」
「それでも一部は君の仕事だろう?」
「……はい」
「なら、最初の一つには十分だ」
特別な意味を含ませるような言い方ではなかった。
ただ事実として、自分が関わったものだから選んだ。
それだけなのに、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
「形は、あまりきれいではありません」
「さっき味に問題はないと言ったな」
「はい」
「なら食べられる」
あまりにも単純な答えに、シアは思わず笑った。
「オットーさんと同じことを仰いますね」
「それは褒め言葉か?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
レオンハルトも少しだけ笑った。
その表情は訓練場で見るときより柔らかく、シアは一瞬だけ見つめてしまった。
気づいて、視線を包みへ戻す。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
レオンハルトは二つのパンを受け取った。
「騎士団の注文は明日からだったな」
「はい。朝から準備します」
「無理はするなよ」
何気ない言葉だった。
シアは以前なら反射的に「大丈夫です」と答えていただろう。
今日は少し考えてから頷いた。
「はい。無理になりそうなら、オットーさんたちに相談します」
「それがいい」
レオンハルトはそれ以上何も言わず、店を出ていった。
扉の鐘が鳴り、外で待っていた護衛と合流する。
シアはしばらく閉じた扉を見ていた。
「若様、二日続けて来たね」
マルタの声に、シアは振り返った。
「はい」
「昨日は蜂蜜、今日は胡桃と丸パンか」
「私が形を整えたものを選ばれました」
「へえ」
マルタの眉が少し上がる。
「どうして?」
「以前、私が作ったと分かるパンを食べてみたいと仰っていたからだそうです」
「ふうん」
その返事が妙に長く聞こえた。
「何ですか?」
「いや、別に」
「何かありますよね?」
シアが尋ねると、マルタは笑った。
「まだ何にもないよ」
昨日のミレイユと似たような言い方だった。
「ミレイユさんも同じことを言っていました」
「そうなのかい?」
「はい。レオンハルト様がまた店へ来ると言ったら、『まだ何でもない』と」
マルタは一瞬黙ったあと、声を上げて笑った。
「ミレイユちゃん、意外と慎重なんだねえ」
「何の話ですか?」
「今は分からなくていい話だよ」
「……そういう言い方をされると気になります」
「じゃあ、自分で分かったときに考えな」
シアは納得できないまま首を傾げた。
けれど、追及するほどのことでもないらしい。
少なくともマルタもミレイユも、今すぐ何かを決めつけているわけではない。
なら、自分も急いで答えを探す必要はないのだろう。
夕方の客が途切れたところで、今度はミレイユがやってきた。
「今日は残ってる?」
「蜂蜜パンですか?」
「うん」
「三つあります」
「二つください」
シアは思わず笑った。
「今日も二つですか?」
「昨日はちゃんと夜まで残したよ!」
ミレイユが胸を張る。
「本当ですか?」
「本当。夕食のあとに食べた」
「それなら約束を守れましたね」
「褒めて」
「大人がパンを一つ残せたことをですか?」
「友達が冷たい」
そう言いながらも、ミレイユは楽しそうに代金を置いた。
シアがパンを包んでいると、彼女は棚の一角が空いていることに気づいたらしい。
「今日、売れたね」
「はい。レオンハルト様も先ほど来られました」
ミレイユの動きが止まる。
「今日も?」
「はい。胡桃パンと丸パンを買っていかれました」
「へえ……」
「私が形を整えた丸パンです」
ミレイユが今度はシアを見る。
「それ、レオンハルト様が自分で選んだの?」
「はい。形が少し崩れていたので、こちらの方がきれいですと別のものもおすすめしたのですが、以前、私が作ったと分かるパンを食べてみたいと言ったから、と」
「……へえ」
また同じ返事だった。
「何ですか?」
「いやあ」
「マルタさんも同じ反応をしました」
「マルタさんも?」
「はい。それから『まだ何にもない』と言っていました。ミレイユさんと同じです」
ミレイユは口元を押さえた。
笑っているように見える。
「どうして笑うんですか?」
「ごめん。シアがそのまま全部報告してくるから」
「友達には話していいのでしょう?」
「いいよ。すごくいい」
ミレイユは笑いを収め、少し考えてから続けた。
「でも、本当にまだ何でもないと思う」
「何がですか?」
「そこを説明すると、何でもないものをこっちが勝手に何かにしちゃうかもしれないから、やめとく」
ますます分からない。
シアは困ったように眉を寄せた。
「分かりません」
「分からないなら、そのままでいいんじゃない?」
その言葉は、以前にも似た形で聞いたことがある。
好きな菓子が分からないと言ったとき、ミレイユは「これから分かるね」と言った。
分からないことは、すぐに答えを出さなければならないものではない。
「……そうします」
「うん。それより、もうすぐ市場の日だからね」
ミレイユの表情が一気に明るくなる。
「忘れてない?」
「忘れていません」
「午後の鐘が一つ鳴る頃に迎えに来るから」
「はい」
「髪紐の店見て、何か食べて、果実茶のお店行って――」
「疲れたら途中で休みます」
シアが先に言うと、ミレイユが嬉しそうに笑った。
「覚えてた」
「約束しましたから」
「じゃあ、私も疲れたら言う」
「ミレイユさんもですか?」
「もちろん。友達なんだから、どっちかだけ我慢するのは変でしょう?」
シアは少し目を見開いた。
自分が疲れたら言うことばかり考えていた。
ミレイユも疲れる。
ミレイユにも行きたくない場所や、食べたくないものがあるかもしれない。
友達とは、どちらかが相手へ合わせ続ける関係ではない。
「……はい」
シアはゆっくり頷いた。
「ミレイユさんも、嫌なことがあったら言ってください」
「言うよ。私は結構言う方だと思う」
「そうですね」
「そこは否定してよ」
「でも、ミレイユさんは嫌なものは嫌と言いそうです」
「まあ、言うけど」
二人で笑った。
ミレイユが帰ったあと、店じまいまでの時間は穏やかに過ぎた。
シアは翌朝の騎士団分を含む注文表をもう一度確認し、必要な準備をオットーと分担した。自分だけ早く起きて片づけるのではなく、決められた時間から三人で始めれば間に合うように組まれている。
仕事を終えて二階へ上がると、シアは部屋の扉を閉めた。
今日のうちにやっておきたいことが一つある。
数日後、市場へ行く日に着る服を選ぶことだ。
小さな収納箱を開き、畳んである服を寝台の上へ並べる。
一着目は、旅でも使った淡い茶色のワンピースだった。丈夫で動きやすく、何度洗っても傷みにくい。けれど長旅で着続けたため、ところどころ生地が柔らかくなっている。
二着目は、くすんだ青灰色の服。
ベルフォード家にいた頃から持っているもので、装飾はほとんどない。まだ十分着られるが、見ると少しだけ昔のことを思い出す。
三着目は、生成り色のブラウスと濃い茶色のスカート。
特別なものではない。
けれど、逃げる前から持っていた服の中では比較的状態がよく、動きやすい。
シアは三着を眺めた。
(どれを着たい?)
マルタから聞かれた言葉を、自分へ向ける。
どれが一番ふさわしいかではない。
どれなら叱られないかでもない。
どれを着たいか。
茶色のワンピースは安心する。
旅をした服だから、遠くまで自分の足で来たことを思い出せる。
青灰色の服には、少しだけ嫌な記憶がある。
生成り色のブラウスは、空色の髪紐にも合いそうだった。
シアはブラウスを手に取った。
「……これがいい」
声に出してみる。
誰もいない部屋で、自分のためだけに服を選んだ。
それだけなのに、胸が少し弾んだ。
スカートと合わせて寝台へ置き、空色の髪紐もその上へ載せてみる。
悪くない。
(ミレイユさんは、どういう服で来るんだろう)
いつもは騎士服ばかり見ている。
休日には違う服を着るのだろうか。
想像すると、少し楽しみになった。
そこでシアは、自分が市場へ行く日をかなり楽しみにしていることに気づいた。
以前なら、誰かとの外出が近づけば失敗しないかと不安になっていた。
婚約者との外出ですら、どの言葉が正しいか、どの表情なら不機嫌にさせないか、何を選べば恥をかかせないかと、そればかり考えていた。
今は違う。
何を食べよう。
何を見よう。
ミレイユと何を話そう。
そんなことを考えている。
「……楽しみ」
自然に声が漏れた。
シアは選んだ服を丁寧に畳み直した。
明日は仕事だ。
騎士団への正式な納入が始まる。
その仕事が終わっても、次の日には別の仕事がある。
そして、その先には休みがある。
休みの日には、友達との約束がある。
働くことと休むことが、どちらか一方ではなく並んで存在している。
そんな毎日を、自分が過ごしている。
◇
同じ頃、南側訓練場では、日中の訓練を終えたレオンハルトが執務用の小部屋へ戻っていた。
机には訓練記録と人員配置表が積まれており、その横には、昼過ぎに麦穂亭で買ったパンの包みが置かれている。
胡桃パンは移動中に食べた。
残っているのは、少し横へ広がった丸パンだった。
レオンハルトは椅子へ腰を下ろし、書類へ手を伸ばしかけたところで包みを見た。
形だけなら、店頭に並んでいた他の丸パンの方が整っていた。
それでも、あちらを選ぶ気にはならなかった。
初めて訓練場で話したとき、シアは自分がまだパン作りを覚えている途中だと言っていた。そのとき何気なく、「いつか君が作ったと分かるパンを食べられる日を楽しみにしておこう」と返した。
自分でも、あの言葉を覚えていたことが少し意外だった。
包みを開き、丸パンを手に取る。
確かに少し形は悪い。
しかし焼き色は均一で、香りもいい。
一口食べると、味は他の丸パンと変わらなかった。
「……なるほど」
思わず呟く。
シアは、形が悪いことを隠さなかった。
自分が作ったことも隠さず、もっと形の整ったものを勧めた。
売る側としては、そちらを選ばせた方がよかったかもしれない。
それでも、彼女は事実をそのまま伝えた。
訓練場で注文条件を話していたときも同じだった。
できることはできると言い、できるか分からないことは店へ持ち帰る。
公爵家の人間を前にすれば、何でも引き受けようとする商人も珍しくない。その場では「できます」と答え、後から無理が出る者もいる。
シアは違った。
慎重で、少し怯えるようなところがある。
それなのに仕事について話すときは、自分が分かっている範囲と分からない範囲を分けようとする。
(不思議な娘だな)
そう思う。
どこで帳簿や注文整理を覚えたのか。
なぜ高位の人間に対して、礼儀を知りすぎているように見えることがあるのか。
なぜ武器を持った男が近づくだけで、あれほど身体が強張ったのか。
気になることはいくつかある。
けれど、尋ねる理由はない。
本人が話したくないことまで知る必要はないだろう。
レオンハルトは残ったパンを食べ終えると、包みを畳んだ。
「レオンハルト様」
扉の外から声が聞こえる。
「入れ」
許可すると、騎士の一人が書類を持って入ってきた。
「明日の訓練予定です。食事人数は四十二名になる見込みですが、パンの追加はどうしますか?」
レオンハルトは書類へ目を通す。
「二人増えただけなら、ほかの食事で調整できるだろう。パン屋へ無理に追加を出す必要はない」
「食事担当も同じ判断です」
「なら四十のままでいい。追加するなら、事前に必要な数がはっきりしたときだけにしろ」
「承知しました」
騎士が退出したあと、レオンハルトは再び書類へ視線を落とした。
机の端には、食べ終えたパンの包みが残っている。
それを見て、麦穂亭の小さな店内を思い出した。
大きな商会でも、高級な菓子店でもない。
それでも妙に居心地が悪くなかった。
また行こうと思う。
パンが気に入ったから。
騎士団の取引先になったから。
今のところ、それで十分だった。
◇
翌朝、シアはいつもの時間に厨房へ下りた。
今日から騎士団への納入は、試験ではなく麦穂亭の日常の仕事になる。
けれど、特別に早く起きることはしなかった。
オットーと決めた時間に始めれば間に合う。
シアはエプロンを結び、注文表へ目を向けた。
銀鹿亭。
赤い鍋亭。
店頭分。
そして、南側訓練場。
そのすべてが今日の仕事だった。
「シア、始めるぞ」
「はい」
オットーの声に応じ、シアは作業台へ向かう。
生地へ触れる前に、今日の分量と順番を頭の中で確認した。
仕事が増えた。
けれど、自分の時間まで全部仕事になったわけではない。
明日も働く。
その次も働く。
そして数日後には、友達と市場へ行く。
シアは朝の光が差し込む厨房で、目の前の生地へ両手を添えた。
(今日の仕事を、今日やろう)
それだけでいい。
誰かの明日まで背負わなくていい。
自分の明日には、自分で選んだ楽しみが待っているのだから。




