第15話 私の名前でできること
翌朝、シアが目を覚ましたとき、窓の向こうはまだ薄い青色に包まれていた。
遠くで荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、少し遅れてどこかの家から扉を開ける音がする。領都が目覚め始める気配を寝台の中で聞きながら、シアは今日の予定を思い浮かべた。
三日間の試験納入は無事に終わり、麦穂亭として騎士団から提示された継続条件を受けることも、昨夜のうちにマルタとオットーの二人と確認している。
今日は、その返事を自分が届ける。
(緊張する)
それを否定せず、シアはしばらく自分の呼吸を確かめた。
初めて南側訓練場へ向かった朝よりは、ずっと落ち着いている。道も覚えたし、門番の顔も、食事担当の事務官も知っている。ミレイユにも会えるかもしれない。
それでも、公爵家の騎士団との新しい取引を正式に受ける返事を、自分が持っていくと思えば緊張はした。
(でも、行きたい)
昨日、オットーから「最後までやってみろ」と言われたとき、自分は確かにそう思った。
ならば、それでいい。
シアは寝台から出ると、顔を洗い、髪を梳かした。机の上に置いてあった淡い空色の髪紐を手に取り、いつものように髪をまとめる。
最初に買った日には、仕事へ使えば汚れるかもしれないと迷った。それが今では、朝にこの色を選ぶこともすっかり自然になりつつある。
小さな磨き板に映るのは、豪華なドレスを着た伯爵令嬢ではない。清潔に整えた仕事着を身につけ、これから自分の仕事へ向かう十八歳の娘だった。
シアは髪紐を結び終えると、ほんの少し笑った。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく呟いて、一階へ下りた。
厨房ではオットーが朝一番の生地を確認していた。シアが挨拶をすると、彼は作業台の端に置かれた封筒を顎で示す。
「返事、そこに入れてある」
「ありがとうございます」
シアは封筒を手に取り、昨夜三人で確認した内容と相違がないことだけを簡単に確かめた。週四日の納入を基本に、数量変更や祭り前後については必要に応じて相談する。店に無理が出る条件ではないことは、すでにオットーもマルタも確認している。
「大丈夫です」
「なら、それ持って行ってこい」
「はい」
返事をして鞄へ入れかけたところで、オットーがもう一度口を開いた。
「向こうで新しい条件を出されたら?」
「その場では決めず、店へ持ち帰ります」
「数を増やしたいと言われたら?」
「できるか確認してからお返事します」
「公爵家の若様から直接頼まれても?」
最後の問いにだけ、シアは一瞬言葉を止めた。
レオンハルトの顔が頭へ浮かぶ。
以前の自分なら、高位の相手から求められたことを断るなど考えられなかっただろう。
けれど、これは麦穂亭の仕事だ。
「……同じです。私だけでは決めません」
オットーが頷いた。
「それでいい」
短いやり取りだったが、答えられたことが少し嬉しかった。
そのとき、店側からマルタの声が飛んでくる。
「シア、朝の客が来る前にこっち手伝っておくれ!」
「はい!」
封筒を安全な場所へ置き、シアは店へ向かった。




