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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第14話 三日目の答え



 騎士団への試験納入二日目の朝、シアが厨房へ下りると、作業台の上にはすでに今日使う材料が揃えられていた。


 前日と同じ丸パン二十五個、黒麦パン十五個。合計四十個という数字に変更はないものの、今日は銀鹿亭への白パンの定期注文も重なっているため、窯を使う順番は昨日と少し違う。オットーは前夜のうちに焼成の順序を組み直しており、シアも注文表へ記された時間を確認してから作業へ加わった。


「今日は白パンを先に出す。黒麦はそのあとだ」


「騎士団分の丸パンは、昨日と同じ時間で大丈夫ですか?」


「ああ。発酵が予定より早ければ少し前倒しするが、焼き上がりを急ぐ必要はない。向こうへ着く時間から逆算すれば十分だ」


「分かりました」


 シアは頷き、生地の状態を確かめた。


 窓の外は昨日より薄く曇っており、厨房の空気にもわずかな湿気がある。オットーから、生地は気温や湿度によって同じ配合でも状態が変わると教えられていたため、昨日と同じ感覚だけを頼りにしないよう注意する。


 指先で触れた生地は、昨日よりほんの少し柔らかい。


「オットーさん、今日は昨日より柔らかい気がします」


「そうだな。じゃあ、どうする?」


 すぐに答えを教えられず、シアは生地を見た。


 以前なら、正解を知らない状態で問われることそのものに緊張しただろう。間違えれば叱られると思い込み、相手の顔から答えを探そうとしていた。


 今は、自分が分かっている範囲で考えればいい。


「打ち粉を昨日より少しだけ増やして、手へつきすぎないようにします。ただ、最初から多く使うと生地が固くなりそうなので、必要な分だけにしたいです」


「それでやってみろ」


「はい」


 正解だとも完璧だとも言われなかった。


 それでも、やってみていい。


 シアは少量の粉を手へ取り、生地を扱い始めた。


 丸める動きは少しずつ身体に馴染んできている。最初の頃のように一つ成形するたび手を止めることは減ったが、それでも形を確認する時間は必要だった。


 十個目を終えたところで、オットーが隣から手元を見る。


「昨日より揃ってるな」


「本当ですか?」


「ああ。ただ、そこにある三つは少し締めすぎだ」


 指摘されたパンを見比べると、確かに表面の張り方が違う。


「……分かります」


「分かるなら次で直せ」


「はい」


 できた部分と直す部分を同時に教えられる。


 そのことにも、シアは少しずつ慣れていた。


 失敗を見つけることは、自分の価値を下げることではない。


 次に変える場所を知ることだ。


 朝の客が増え始める頃には、店内へ焼きたてのパンが次々と運ばれていた。マルタが接客をし、シアも厨房と売り場を行き来しながら注文へ対応する。


「シアちゃん、昨日は騎士団にパンを届けたんだって?」


 毎朝黒麦パンを二つ買うハロルドが、会計の途中で尋ねてきた。


 シアは少し驚いた。


「ご存じなんですか?」


「昨日、南通りで荷車押してるのを見たってローザが言ってたぞ」


 どうやら情報源は隣の八百屋らしい。


「試しに三日間だけ納めることになったんです。まだ正式に続くと決まったわけではありません」


「へえ。じゃあ騎士連中も、このパンを食うのか」


 ハロルドは自分が買った黒麦パンの包みを持ち上げ、妙に誇らしそうな顔をした。


「わしの方が先輩だな」


「パンを食べるのに先輩も後輩もないでしょう」


 マルタが横から笑う。


「ある。わしはこの店の黒麦パンを何年食ってると思ってる」


「その割には毎回『今日は少し焼き色が違う』とか細かいこと言うじゃないか」


「長年食ってるから分かるんだ」


 二人のやり取りを聞きながら、シアは包みをハロルドへ渡した。


「では、今日の焼き色も見てください」


「お、シアちゃんまで言うようになったな」


「毎日召し上がっているなら、違いが分かるのでしょう?」


「もちろんだとも」


 ハロルドは機嫌よく代金を置いて店を出ていった。


 その背中を見送りながら、マルタが笑う。


「すっかり扱いを覚えたね」


「扱いというほどでは……」


「いいんだよ。あの人、ああやって話すのも楽しみに来てるんだから」


 シアは扉の向こうへ消えたハロルドを思い浮かべた。


 客は、商品を買うためだけに来るとは限らない。


 少し話し、顔を覚え、昨日と今日の違いを笑う。


 そういう時間まで含めて店なのかもしれない。


 午前の忙しさが落ち着いた頃、騎士団へ届ける四十個も無事に揃った。


 今日はオットーが店を離れられないため、シアが最初から荷車を押していくことになっている。


「重さは大丈夫かい?」


 マルタが心配そうに尋ねる。


 シアは荷車を少し動かし、手応えを確認した。


「はい。このくらいなら運べます」


 言ってから、一度考える。


 以前の自分なら、実際に運べるか確かめる前から「大丈夫です」と答えていた。


 今日は違う。


 押してみて、重さを確かめて、それから答えた。


「ただ、帰りに何か重いものを買うのはやめておきます」


「それがいいね」


 マルタは満足そうに頷いた。


「もし途中で腕が痛くなったら、無理して押し続けるんじゃないよ。道端へ寄せて少し休めばいい」


「はい」


「それから、向こうで追加注文を言われても――」


「店へ持ち帰って確認します」


「よし」


 マルタが笑う。


「もう言うことないね」


「いえ。言っていただけると確認になります」


「そうかい?」


「はい。自分で分かっているつもりでも、抜けていることがあるかもしれませんから」


「それなら遠慮なく言うよ」


 シアは受領用の紙を鞄へ入れ、荷車の籠を覆う布を確認した。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 昨日と同じ言葉を交わし、店を出る。


 空は相変わらず曇っていたが、雨が降りそうなほど暗くはない。荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび小さく揺れ、その振動が押し手から腕へ伝わってくる。


 昨日は途中までオットーがいた。


 今日は一人だ。


 けれど、不安より先に道順が頭へ浮かんだ。


 大通りを南へ進み、小さな噴水のある広場を右へ曲がる。石造りの礼拝堂を過ぎ、そのまま南通りを進めば訓練場の外壁が見えてくる。


(もう、地図を見なくても行ける)


 そのことが少し嬉しかった。


 この街へ来たばかりの頃は、どこへ行くにも周囲を確認し、道を間違えないことだけで緊張していた。


 今はパン屋から市場へ行ける。


 中央広場へも行ける。


 ローザの店も、銀鹿亭も、赤い鍋亭も分かる。


 そして訓練場へも、一人で行けるようになった。


 少しずつ、知らない街が自分の知っている場所へ変わっている。


 途中で一度だけ腕が重くなり、シアはマルタの言葉を思い出して道端へ荷車を寄せた。


 通行の邪魔にならない場所を選び、押し手から手を離す。


(このくらいなら、まだ行ける)


 そう考えた直後、シアは自分の思考に気づいた。


 まだ行ける。


 以前なら、そのまま進んでいた。


 けれど今は、少し疲れたと自分で分かっている。


 シアは荷車の脇に立ったまま、ゆっくり呼吸を整えた。


 ほんの数分。


 それだけ休んでから再び押し手を握ると、腕が先ほどより軽く感じられた。


(休んだ方が、ちゃんと進める)


 当たり前のことなのだろう。


 けれど、シアにとっては今も新しい発見だった。


 訓練場へ着くと、昨日と同じ門番がこちらを見つけて手を上げた。


「パン屋の人だな。今日も食事棟でいいぞ」


「ありがとうございます」


 顔を覚えられていたことに少し驚きながら、シアは荷車を押して中へ入った。


 昨日よりも大きな掛け声が響いている。


 訓練場の中央では十人ほどの騎士が二組に分かれ、木剣と盾を使った模擬戦を行っていた。剣が盾へぶつかる音が響くたび、シアの肩はわずかに強張る。


 それでも歩みは止めなかった。


 怖くないわけではない。


 身体が覚えている反応は、そう簡単には消えない。


(でも、ここで誰かが私を殴るわけじゃない)


 直接的な思考とともに、昨日ミレイユと座った木陰が目に入る。


 それだけで、緊張が少し和らいだ。


 食事棟では昨日と同じ事務官が待っていた。


「今日も時間通りだな」


「おはようございます。丸パン二十五個、黒麦パン十五個です」


「昨日と同じだな。確認しよう」


 二人で数を確認し、受領印をもらう。


 シアは昨日の結果について尋ねた。


「昨日は四十個すべて召し上がったと伺いました。実際に足りなかった方はいらっしゃいましたか?」


「食事を取ったのが三十八人だった。二人が二個ずつ食べてちょうど四十だ。ただ、もっと欲しいと言っていた連中はいたな」


「では、今のところは不足ではなく、追加希望があったという扱いでしょうか」


「そうだな。食事として足りないわけではない。ほかにスープと肉もあるからな」


 シアは持参した控えへ書き込んだ。


「明日の結果も同じなら、すぐに数を増やす必要はないかもしれません」


「こちらもそう考えている。訓練人数は日によって変わるから、最大人数に合わせて毎日大量に頼むのも無駄になる」


「人数が多い日だけ、前もって追加していただくことは可能です。ただ、当日の追加は対応できない場合があります」


「分かっている。訓練予定は前日には出るから、その時点で必要なら連絡する」


「それでしたら、店へ戻って相談してみます」


 話をしているうちに、シアの緊張は自然と薄れていった。


 必要な情報を確認し、店へ持ち帰る。


 それだけに集中すればいい。


 事務官も無理な要求はしない。


 話し合うというのは、どちらかが一方的に従うことではないのだと、少しずつ実感できる。


「シア!」


 予想していた声が聞こえ、シアは振り返る前から頬が緩むのを感じた。


 ミレイユがこちらへ歩いてくる。


 今日は走ってこなかった。


 昨日、事務官に「確認中だ」と止められたことを覚えているらしい。


「今日は確認終わった?」


「はい。もう大丈夫です」


「学習したから待った」


「昨日は待てませんでしたものね」


「友達になった途端、容赦なくなってない?」


 その言葉を聞き、シアの胸が少しくすぐったくなる。


 友達。


 昨日初めて自分たちの関係へ付いた名前だ。


「ミレイユさんが、嫌なら言ってください」


「全然嫌じゃない。むしろ嬉しい」


 即答され、シアは笑った。


「じゃあ、今日のパンは?」


「丸パンと黒麦パンです」


「蜂蜜は?」


「ありません」


「昨日もなかった」


「注文されていませんから」


 ミレイユは大げさに肩を落とした。


 事務官が呆れた顔をする。


「クローデル。食事に菓子パンを要求するな」


「蜂蜜パンは菓子なんですか?」


「そこから議論する気か?」


「大事な問題です」


 シアは二人のやり取りを聞きながら、受領書を鞄へしまった。


「ミレイユさん」


「うん?」


「お店に来てくだされば買えますよ」


「訓練のあとだと売り切れてることがあるんだよ」


「でしたら、取り置きをお願いしてみますか?」


 言ってから、シアは一度考えた。


 勝手に約束してはいけない。


「ただ、私だけでは決められないので、マルタさんに確認してからになります」


「それで十分。取り置きできるなら嬉しい」


「では、聞いてみます」


 自然にそう答えられた。


 何でも叶えるのではなく、できるか確認する。


 その違いが、以前よりずっと明確になっている。


「クローデル」


 少し離れた場所から男性の声が飛んできた。


 ミレイユが振り返る。


 シアも視線を向けると、訓練場の中央からレオンハルトがこちらへ歩いてくるところだった。


 昨日と同じ訓練服姿だが、今日は額に汗が浮かび、右手には木剣を持っている。


 その姿を見た瞬間、シアの背筋へ緊張が走った。


 腰に本物の剣を下げている姿より、木剣を手にしている方が怖く感じた。


 理由を考えるより先に、身体が反応していた。


 指先が冷たくなる。


 呼吸が浅くなる。


 木剣が人を殺すための武器ではないことくらい分かっている。


 ここは訓練場だ。


 レオンハルトが自分へ振るうはずもない。


 それでも、手に何かを持った男性がこちらへ近づいてくるという光景に、身体の奥へ残っている記憶が反応した。


「シア?」


 ミレイユの声が聞こえる。


 シアは自分が荷車の押し手を強く握っていることに気づいた。


「……少し、驚きました」


 以前のように「大丈夫」とは言わなかった。


 それだけを口にして、息をゆっくり吐く。


 ミレイユは一瞬レオンハルトの方を見た。


 彼もシアの様子に気づいたらしい。


 歩みを止めた。


 そして、自分の右手にある木剣へ視線を落とす。


「これか?」


 静かな声だった。


 シアは答えるか迷った。


 理由を説明する必要はない。


 けれど、違うと嘘をつく必要もない。


「……はい。すみ――」


 謝りかけて止まる。


「……はい。少しだけ」


「分かった」


 レオンハルトはそれ以上尋ねなかった。


 近くにいた騎士へ木剣を渡す。


「持っていてくれ」


「はい」


 それからシアへ近づいてきたが、先ほどより少し距離を残して止まった。


「これなら話しても問題ないか?」


 シアは驚いて彼を見た。


 なぜ怖いのかとは聞かれなかった。


 何があったのかとも聞かれない。


 ただ、今どうしたいかを確認された。


 胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。


「……はい。ありがとうございます」


「ならよかった」


 それだけ言うと、レオンハルトは事務官へ視線を向けた。


「昨日のパンはどうだった?」


「四十すべて出ました。今日も同数です」


「味は?」


「評判は上々です。特に黒麦パンはスープと合うと」


「俺も昨日食べた」


 ミレイユがすぐに反応する。


「どうでした?」


「うまかった」


「でしょう!」


「なぜ君が得意げなんだ」


「おすすめしたのは私ですから」


「昨日も同じことを言っていたな」


 二人の会話を聞きながら、シアは呼吸を整えた。


 木剣はもう別の騎士が持っている。


 レオンハルトも、それ以上こちらを気遣うような視線を向けてこない。


 それがありがたかった。


 特別扱いされたいわけではない。


 ただ、怖いものを無理に近づけないでほしかっただけだ。


「店には、蜂蜜パンもあるんだったな」


 レオンハルトがシアへ尋ねた。


「はい。毎日一定数を焼いています。ただ、午後には売り切れることもあります」


「クローデルが騒いでいた理由はそれか」


「騒いでません」


「さっき取り置きの相談をしていただろう」


「聞いてたんですか?」


「聞こえた」


 ミレイユが少し恥ずかしそうな顔をする。


 シアは笑いそうになったが、レオンハルトから次の言葉が続いた。


「今度、店へ寄っても構わないか?」


 質問の意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。


「もちろんです。パン屋ですから、どなたでもお買い物に来ていただけます」


 答えてから、相手が公爵家の跡取りであることを思い出し、これでよかったのだろうかと一瞬不安になる。


 けれどレオンハルトは気にした様子もなく頷いた。


「では、時間があるときに寄らせてもらう」


「蜂蜜パンなら早めがおすすめです」


 ミレイユが横から口を挟む。


「君は店の人間なのか?」


「常連代表です」


「勝手に役職を作るな」


 シアはとうとう笑った。


 笑ってから、自分がレオンハルトの前で自然に声を立てたことへ気づく。


 少し前まで、高位貴族の前で表情を崩すことすら怖かった。


 今は、ほんのわずかではあるが、その緊張が薄れている。


 レオンハルトはそんなシアを一度だけ見たが、何も言わなかった。


「それでは、私は店へ戻ります」


 シアが告げると、ミレイユが頷いた。


「また明日?」


「はい。明日が試験納入の三日目です」


「じゃあ待ってる」


「パンを、ですよね?」


「シアも」


 あまりに自然に返され、シアは一瞬言葉を失った。


 それから、胸の奥が温かくなる。


「……はい。また明日」


 訓練場を出てしばらく歩いてから、シアは一度だけ荷車を止めた。


 疲れたからではない。


 胸の中に残っている感情を整理したかった。


 レオンハルトが木剣を持って近づいてきたとき、本当に怖かった。


 父の低い声。


 腕を掴まれた感覚。


 叩かれる直前の空気。


 それらが一瞬だけ身体の奥から浮かび上がった。


 けれど、今日は何も起こらなかった。


 レオンハルトは理由を聞かなかった。


 木剣を手放した。


 距離を取った。


(怖いと言えたわけじゃない)


 自分が口にしたのは「少し驚いた」だけだ。


 まだ「怖かった」と言うことは難しい。


 それでも、「大丈夫です」と隠さなかった。


(それでいいのかもしれない)


 一度に全部できなくてもいい。


 昨日より一つできたなら、それでいい。


 シアは荷車の押し手を握り直し、パン屋へ向かって歩き始めた。


 店へ戻ると、マルタが昼の客へ最後のパンを渡しているところだった。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


 受領書を渡し、二日目の結果について報告する。


「昨日は三十八人で四十個すべて出たそうです。もっと食べたいという方はいたそうですが、食事として不足したわけではないので、今日も四十個のままです」


「なら明日も予定通りだね」


「はい。それと、訓練人数が多い日は前日に追加をお願いする可能性があるそうです。当日の追加は難しい場合があると伝えてあります」


「よし。前日なら、数によっては対応できる」


 オットーも厨房から答えた。


 シアは記録表へ二日目の情報を書き込む。


 その途中で、ミレイユの取り置きについて思い出した。


「マルタさん、一つお願いがあるのですが」


「なんだい?」


「ミレイユさんが、蜂蜜パンを買いに来る頃には売り切れていることがあるそうで……事前に頼まれた日だけ、二つほど取り置きすることはできますか?」


「代金は来たときにもらうんだろ?」


「はい」


「毎日十個取っといてくれっていうなら困るけど、二つならいいよ。ただし来られなくなったときは、早めに連絡してもらうこと」


「分かりました。明日伝えます」


 シアは少し嬉しくなった。


 ミレイユが喜ぶ顔を想像したからだ。


 誰かの喜ぶことをしたい。


 以前も、そう思うことはあった。


 けれど昔は、喜ばせなければ嫌われる、怒られる、役に立たなければ価値がないという恐れがいつも混ざっていた。


 今は違う。


 断っても友達でいられる。


 できる範囲だから、やりたい。


 その違いは小さいようで、とても大きかった。


 翌朝、試験納入の三日目が始まった。


 空は前日とは打って変わって晴れており、厨房の窓から差し込む朝日が作業台の上へ細長く伸びている。


 シアは黒麦パンの生地を扱いながら、昨日より少ない打ち粉で十分だと気づいた。


「今日は昨日より生地が扱いやすいです」


「湿気が違うからな」


「同じ配合でも、本当に変わるんですね」


「毎日同じ顔してる生地なんかない」


 オットーは自分の手元で丸パンを成形しながら続ける。


「だから昨日うまくいったやり方を、そのまま今日もやればいいとは限らん。見て、触って、変える」


 シアはその言葉を聞きながら、自分の手元の生地へ視線を落とした。


 昨日と今日が違うなら、合わせて変える。


 人も同じなのかもしれない。


 以前の自分ならできなかったことが、今日はできるかもしれない。


 逆に昨日できたからといって、今日も無理をして同じようにできるとは限らない。


(その日の自分を見ても、いいのかな)


 疲れているなら休む。


 怖いなら少し離れる。


 楽しいなら笑う。


 嫌なら断る。


 そんな当たり前のことを、自分にも許していいのかもしれない。


 四十個のパンは予定通り焼き上がった。


 今日は一人で荷車を押して出発する。


 途中で休むかどうかは、腕の疲れを見て決めればいい。


 昨日休んだ場所へ差しかかったとき、シアは自分の身体へ意識を向けた。


 今日はまだ余裕がある。


 だから止まらず進んだ。


 休まないことを我慢とせず、休むことを義務にもせず、そのときの状態で決める。


 そんな小さな選択まで自分でしていいことが、今は少し嬉しい。


 訓練場へ着くと、門番がもう何も尋ねずに道を空けてくれた。


「今日で三日目だったな」


「はい」


「若い連中が朝からパンの話してたぞ」


「……そんなにですか?」


「昨日、最後の一個を誰が食うかでじゃんけんしてた」


 どうやら報告で聞いた以上に人気があるらしい。


 シアは困ったように笑った。


「今日は足りるでしょうか」


「食事担当が何とかするだろ。あんたが心配することじゃない」


 その言葉に、シアは小さく頷いた。


 全部を自分の責任にしない。


 それも覚えなければならないことだった。


 食事棟へ着くと、事務官だけでなく、料理を担当しているらしい恰幅のよい中年男性も待っていた。


「パン屋の娘さんか」


「はい。シアと申します」


「俺は食事場を預かってる料理長だ。昨日と一昨日、食ってみたが悪くない。特に黒麦が煮込みに合う」


「ありがとうございます」


 褒められ、シアは素直に頭を下げた。


 四十個を確認したあと、料理長は腕を組む。


「今日の人数は四十一だ。ただ、全員がここで昼を食うとは限らん。昨日までの感じなら、四十でも大きく足りんことはないと思う」


「では、今日の結果を見てから今後の数を決める形でよろしいでしょうか」


「ああ。事務方ともそのつもりで話してる」


 事務官が一枚の紙を差し出した。


「それと、三日間が終わったあとも続ける場合の案をこちらでまとめた。今日の結果を入れて最終決定するが、店側でも確認してくれ」


 シアは紙を受け取り、その場でざっと内容を見る。


 基本納入は週四日。


 一日四十個を基準。


 訓練予定で人数が多い日は前日までに追加数を連絡。


 丸パンと黒麦パンを中心とし、種類変更は事前相談。


 支払いは七日ごと。


 試験期間よりも長い取引になることを考え、無理のない条件が並べられていた。


「ありがとうございます。店へ持ち帰って、オットーさんとマルタさんに確認していただきます」


「頼む」


 勝手に承諾しない。


 それでも、自分の意見は持てる。


 シアは条件を見ながら、既存注文と重なる曜日を頭の中で確認した。


 週四日なら対応できそうだ。


 ただし、秋穫祭が近づけば店頭の需要も増える。祭り前後だけは数量調整が必要になるかもしれない。


「一つ、確認してもよろしいでしょうか」


「なんだ?」


「秋穫祭の前後は店側の注文も増える可能性があります。その時期だけ、早めに数量をご相談させていただくことはできますか?」


 事務官と料理長が顔を見合わせる。


「問題ない。騎士団も祭りの警備で訓練日程が変わるから、こちらも通常通りではない」


「それでしたら、その時期が近づいたら改めて確認させてください」


「そうしよう」


 話はそれでまとまった。


 シアは紙を丁寧に鞄へしまう。


 三日前には、ここへ一人で来るだけで緊張していた。


 今は取引条件について自分から質問している。


 その変化を考えると少し不思議だった。


「シア、おはよう!」


 今日も聞こえてきた声に、シアは自然に振り向いた。


「おはようございます、ミレイユさん」


 ミレイユが歩いてくる。


「今日は走らなかった」


「昨日も走っていませんでしたよ」


「ちゃんと学習してるから」


「では、三日連続ですね」


「褒めてくれる?」


「普通のことだと思います」


「友達が厳しい」


 シアは笑った。


「それより、いいお知らせがあります」


「なに?」


「蜂蜜パンの取り置き、二つまでなら大丈夫だそうです」


 ミレイユの表情が一気に明るくなる。


「本当に!?」


「はい。ただし、来られなくなった日は早めに連絡してください。毎日必ずというより、必要な日にお願いしていただく形です」


「分かった。絶対連絡する」


「では、次にお店へ来られる日はどうしますか?」


「今日!」


「今日ですか?」


「訓練終わったら行く」


「でしたら、二つですね」


「お願いします」


 シアは鞄から小さな手帳を出し、今日の日付の横へ「ミレイユさん 蜂蜜パン二」と書いた。


 ミレイユがそれを覗き込む。


「なんか嬉しい」


「取り置きがですか?」


「名前が書いてあるのが」


 言われ、シアは手帳を見た。


 ただの予約記録である。


 けれど、ミレイユにとってはそうではないらしい。


「では、間違えないようにしておきます」


「ありがとう」


 ミレイユは嬉しそうに笑った。


 その表情を見て、シアも嬉しくなる。


「クローデル。休憩は終わりだぞ」


 離れた場所から声が飛ぶ。


 今日はレオンハルトではなく、別の騎士だった。


「はーい!」


 ミレイユは返事をしてからシアを見る。


「またあとで店でね」


「はい。お待ちしています」


 ミレイユが走り去る。


 その背中を見送ったあと、シアは食事棟へ戻ろうとした。


「昨日より慣れたようだな」


 横から声をかけられ、少し驚いて振り向く。


 レオンハルトが数歩離れた場所に立っていた。


 今日は木剣を持っていない。


 シアはそれに気づき、自分の身体が昨日ほど強張らないことにも気づいた。


「おはようございます」


「ああ」


 レオンハルトは荷車へ視線を向けた。


「今日で試験は終わりか?」


「はい。今日の結果を見て、今後について相談することになっています。継続する場合の案もいただきました」


「条件に無理はなさそうか?」


「私が見た限りでは、普段なら対応できると思います。ただ、秋穫祭の前後は店の注文も増える可能性がありますので、その時期だけ相談させていただくことになりました」


「祭りの時期はこちらも警備へ人を出す。訓練人数はむしろ減る日があるだろう」


「そうなのですね」


「詳しい日程は食事担当へ伝えるようにしておく」


「ありがとうございます」


 シアは頭を下げた。


 レオンハルトはすぐには去らなかった。


 何か言いたそうに見えたが、シアには内容が分からない。


「昨日は悪かった」


 思いがけない言葉だった。


「……何がでしょうか?」


「木剣だ。訓練場なのだから武器があるのは当然だが、君がああいう反応をするとは知らなかった」


 シアの指先がわずかに動く。


「レオンハルト様が謝ることではありません」


「そうかもしれない。だが、驚かせたのは事実だ」


 彼の声に責める響きはなかった。


「理由を聞くつもりはない。ただ、今後話す必要があるときは、武器を持ったまま近づかないようにする」


 シアは何も言えなかった。


 そこまでしてもらう必要はない、と最初に思った。


 自分が慣れなければならない。


 自分が我慢すればいい。


 そう言いかける。


 けれど、昨日の自分は確かに怖かった。


 その事実まで否定する必要はない。


「……ありがとうございます」


 シアはゆっくり答えた。


「助かります」


 それだけ言うと、胸の奥が少し軽くなった。


 レオンハルトは頷く。


「分かった」


 彼はそれ以上、理由を尋ねなかった。


 シアも説明しなかった。


 それでも会話は成立した。


(全部話さなくても、分かってもらえることはあるんだ)


 昨日ミレイユから言われた言葉を思い出す。


 友達だから、過去を全部話さなくてもいい。


 相手が友達でなくても、自分の事情をすべて差し出さなければ配慮を受けられないわけではないのかもしれない。


「それでは、私は店へ戻ります」


「ああ。気をつけて」


「ありがとうございます」


 シアは荷車を押し、門へ向かった。


 背後で訓練の声が響き始める。


 昨日と同じような音なのに、今日は少しだけ遠く感じられた。


 パン屋へ戻ると、マルタとオットーはすぐに継続案へ目を通した。


「週四日、四十個か」


 オットーが紙を見ながら呟く。


「前日に追加が来る可能性あり。ただし無理なら断っていい、と」


「祭り前は相談できるそうです。向こうも警備で訓練日程が変わるそうなので」


 シアが説明すると、オットーは注文表を確認した。


「これならいける。銀鹿亭の白パンと重なる日は少し仕込みを変えるが、今の窯で足りる」


 マルタも数字を見る。


「支払いも七日ごとなら分かりやすいね。試しが終わって急に倍にしろって話でもないし」


「では、受けても大丈夫でしょうか?」


「ああ」


「私は賛成だよ」


 二人の答えを聞き、シアは嬉しくなった。


「では、明日お返事します」


「シア」


 オットーに呼ばれる。


「はい」


「明日もお前が話してこい」


 シアは目を瞬いた。


「私がですか?」


「ここまで条件を詰めたのはお前だろ。最後までやってみろ」


 胸の奥へ緊張が生まれる。


 けれど、それと同時に別の感情もあった。


 やりたい。


 自分が関わった仕事が正式に決まるところまで見届けたい。


「……はい。やらせてください」


「決まりだな」


 マルタが笑った。


 その日の夕方、ミレイユは本当に店へ来た。


 扉の鐘が鳴るなり、まっすぐシアのいる会計台へ向かってくる。


「取り置き!」


「ちゃんとありますよ」


 シアは棚の下へ避けておいた包みを取り出した。


「蜂蜜パン二つです」


「私の名前書いてあった?」


「包みにですか?」


「うん」


「書いていません。取り置きがミレイユさんだけでしたから」


「そっか」


 なぜか少し残念そうである。


 シアは一瞬考え、会計用の紙へ目を落とした。


「手帳には書いてありますよ」


「じゃあいい」


 すぐに機嫌が戻った。


「そんなに名前があるのが嬉しいんですか?」


「なんていうか、自分の分って感じするじゃない?」


 シアは包みを見る。


 自分の分。


 その言葉に、少し覚えがあった。


 初めて給金を受け取った日。


 初めて自分のために髪紐を買った日。


 誰かのものではなく、自分のものだと思えたときの感覚。


 同じではないかもしれない。


 けれど、少しだけ分かる気がした。


「では、次から包みにお名前を書きましょうか?」


「いいの?」


「取り違え防止にもなりますから」


「やった」


 ミレイユが嬉しそうに笑う。


 シアも笑った。


 その夜、試験納入三日目の結果が届けられた。


 食事を取ったのは四十人。


 四十個すべてなくなり、不足の申告はなし。


 試験期間の三日間で廃棄は一つも出なかった。


 シアは記録表へ最後の数字を書き込む。


 一日目――納品四十、残数零、不足申告なし。


 二日目――納品四十、残数零、不足申告なし。


 三日目――納品四十、残数零、不足申告なし。


 三日間の結果だけを見るなら、基準四十個は妥当だった。


 明日、正式に継続の返事をする。


 試しではなく、パン屋の新しい定期注文になる。


 シアは書き終えた表を見つめた。


「嬉しそうだね」


 マルタに言われ、シアは顔を上げる。


「はい」


 今度は迷わなかった。


「私、この仕事が決まるのが嬉しいです」


「騎士団の注文が?」


「それもです。でも……自分で考えたことが、店の役に立ったのが嬉しいです」


 口にしてから、少し照れた。


 以前なら、自分が役に立ったと自分で言うことなどできなかっただろう。


 役に立つのは当然。


 できなければ価値がない。


 そう思わされていた。


 今は違う。


 できたことを、できたと認めてもいい。


 マルタは優しく笑った。


「役に立ったよ」


 シアの胸が温かくなる。


「ありがとう、シア」


 その言葉は、今でも特別だった。


 命令を終えたあとに次の仕事を渡されるのではなく、したことに対して感謝される。


「……こちらこそ、任せてくださってありがとうございます」


「明日で正式に決まるといいね」


「はい」


 仕事を終え、自室へ戻る。


 シアは空色の髪紐を外し、机へ置いた。


 明日はもう一度、訓練場へ行く。


 正式な返事を伝えるために。


 数日前までは、一人であの場所へ入ることすら緊張していた。


 今も緊張はする。


 大きな声には身体が反応するし、武器を持った人間を見れば怖さもある。


 それでも、そこには自分の仕事を待つ人がいる。


 友達がいる。


 そして、自分が嫌がるものへ理由を問い詰めることなく距離を取ってくれた人もいる。


 シアは寝台へ腰を下ろし、今日のことを思い返した。


(怖かった)


 昨日の木剣のことを、今なら心の中でそう呼べた。


 口に出すことは、まだ難しい。


 けれど、自分に対してまで隠す必要はない。


(私は、怖かった。でも、それでも仕事はできた)


 怖くなくなるまで何もできないわけではない。


 怖さを抱えたままでも、自分で選んで進めることはある。


 そして、無理なときには止まってもいい。


 シアは掛け布を整えながら、明日の予定を頭の中で確認した。


 騎士団へ継続の返事をする。


 店へ戻って、新しい定期注文を正式に注文表へ加える。


 ミレイユの蜂蜜パンの取り置き方法も決める。


 その先には、友達と市場へ出かける休日が待っている。


 以前なら、予定が増えるほど息苦しくなっていた。


 今は、自分で選んだ予定が増えることを嬉しいと思える。


 シアは灯りを消す前、机に置いた空色の髪紐へ視線を向けた。


 明日もこれを結ぼう。


 そう自分で決めてから灯りを落とすと、暗くなった部屋の中でも、胸の奥には穏やかな温かさが残っていた。

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