第17話 いなくなって初めて分かること
ベルフォード伯爵邸の朝は、エリシアがいなくなってから少しずつ変わっていた。
食堂へ並ぶ料理が変わったわけではない。磨き上げられた銀食器も、壁に掛けられた絵画も、庭師が毎朝整える花壇も以前と変わらず、表面だけを見れば伯爵家の日常は何一つ損なわれていないように見える。
それでも、使用人たちは最近になって、屋敷のあちこちで小さな混乱が続いていることを知っていた。
返事を出したはずの手紙が見つからない。
同じ品を二度注文している。
届くはずだった品が届かない。
支払日を勘違いして商人を待たせる。
招待状への返答を忘れ、先方から確認が届く。
どれも一つだけなら、大きな問題ではない。
謝罪し、確認し、やり直せば済む程度の失敗だった。
だが、それが毎日のように別々の場所で起こるようになると、使用人たちも気づき始める。
これまで誰かが、そうなる前に処理していたのだ。
「マーサ、この請求書はどういうことなの?」
朝食を終えたリリアナは、自室の机へ置かれた紙を手にして眉を寄せた。
向かいに立つマーサも困った顔で請求書を見ている。
「わたくしにも分かりません。昨日、商人が持ってきたものです」
「だから、何の請求なの?」
「先月納められた布地の代金だそうです」
「先月?」
リリアナは請求書を裏返した。
当然ながら、裏には何も書かれていない。
「先月なら、もう払っているんじゃないの?」
「商人はまだだと言っております」
「でも、この前も布地の支払いをしたでしょう?」
「あちらは別の商会だったかと……」
「だったかと、って何よ」
苛立った声を向けられ、マーサは口を閉じた。
以前なら、こんなことを自分が確認する必要はなかった。
リリアナが新しいドレスを欲しいと言えば、採寸の日程が決まり、生地の見本が用意され、代金の支払いについて何かを考える前にすべて終わっていた。
その仕組みをリリアナは知らない。
知る必要もないと思っていた。
「お姉様の書類は?」
「確認しましたが、この商会については途中までしか記録がありませんでした」
「またそれ?」
リリアナが請求書を机へ置く。
「本当に何も残していないのね。無責任じゃない?」
マーサは曖昧に頷いた。
以前なら、迷わず一緒になってエリシアを悪く言っていただろう。
しかし最近は、それを言ったあとで自分に仕事が回ってくることが増えている。
エリシアが無責任だったから記録がない。
では、今後その記録を誰が作るのか。
その答えが、自分になることがある。
「とにかく、商人に確認して。支払っていないなら払えばいいでしょう」
「ですが、同じ注文について別の請求がある可能性もございますので……」
「だったら帳簿を見ればいいじゃない」
「帳簿は家令が管理しております」
「じゃあ家令に聞いて」
「家令からは、お嬢様が注文された布については、お嬢様のお部屋で控えを取っていたはずだと……」
リリアナの顔から苛立ちが消え、代わりに理解できないという表情が浮かんだ。
「私の部屋?」
「以前は、エリシア様がこちらで確認されていたそうです」
その名前が出た途端、リリアナの眉間へ深い皺が寄った。
「またお姉様なの?」
「……はい」
「どうして何でもお姉様なのよ」
マーサは答えられなかった。
自分も同じことを思っている。
どうして、どの棚を開けてもエリシアの字があるのか。
どうして、困ったときに誰かへ尋ねると「以前はエリシア様が」と返されるのか。
そして何より、どうして自分たちは、それを仕事だと思っていなかったのか。
エリシアが屋敷にいた頃、マーサは何度も彼女へ仕事を押しつけた。
リリアナのドレスに合わせる飾りを探しておいて。
招待状への返事を書いておいて。
仕立屋が来る日を変えておいて。
この贈り物を包んでおいて。
刺繍をしておいて。
どれも一つ一つは簡単なことに見えた。
頼めば、エリシアは大抵黙って引き受けた。
だから、簡単なのだと思っていた。
今は違う。
一つの日程を動かせば、それに合わせて別の予定も変えなければならない。贈り物一つ選ぶにも、相手の好みだけでなく、家柄や過去の出来事まで考えなければならないことがある。
先日の黄色い薔薇の件が、マーサの頭をよぎった。
あのときも、自分はリリアナの選択を止めなかった。
華やかで似合うと思ったからだ。
だが、ヴァルモント侯爵夫人にとって、あの花には別の意味があった。
エリシアはそれを知っていた。
少なくとも、以前に一度聞いただけの話を覚えていたらしい。
「マーサ?」
呼ばれ、マーサは我に返った。
「申し訳ございません」
「ぼんやりしないで。とにかく調べてきて」
「かしこまりました」
部屋を出ると、マーサは小さく息を吐いた。
廊下には朝の光が差し込み、磨かれた床へ細長い窓の形を落としている。以前と何も変わらない景色なのに、最近はこの屋敷が妙に広く感じられた。
エリシアは、この広い屋敷のどこで、どれほどの仕事をしていたのだろう。
そんなことを考えかけて、マーサはすぐに首を振った。
今さら考えても仕方がない。
それより、請求書をどうにかしなければならなかった。
◇
昼前、ベルフォード伯爵グレゴールの執務室には、屋敷の家令と領地会計を担当する書記が呼び出されていた。
机の上には三冊の帳簿と、複数の請求書が広げられている。
グレゴールはその一枚を指で叩いた。
「つまり、どういうことだ」
低い声だった。
かつてその声を聞くだけで身体を強張らせていた娘は、もうこの部屋にはいない。
家令は慎重に言葉を選んだ。
「こちらの支払い自体は、まだ期限を過ぎておりません。ただ、同じ商会からの以前の納品記録と照合する必要がございます」
「なら照合しろ」
「その記録の一部が、現在の帳簿へ転記されておりません」
「なぜだ」
家令の隣にいた書記が、緊張した様子で口を開く。
「これまでは、納品書を受け取ったあと、エリシア様が用途ごとに分けた控えを作成されておりました。その控えを元に、わたくしどもが月末の帳簿へまとめておりまして……」
「では、その控えを見ればいいだろう」
「今月分はございません」
「なぜない」
問いを重ねるたび、グレゴールの声が低くなる。
書記は唇を湿らせた。
「エリシア様がお出になったためです」
「それは分かっている!」
机を叩く音が室内へ響いた。
書記の肩が跳ねる。
「だから、あれが出ていく前に引き継ぎをしていれば済んだ話だろう!」
家令がわずかに目を伏せた。
「旦那様」
「何だ」
「恐れながら、エリシア様へ正式な引き継ぎを命じられたのは、お出になられる前夜だったと記憶しております」
グレゴールの目が細くなる。
「それがどうした」
「一晩で、すべてを整理することは難しかったかと」
室内の空気が重くなった。
家令はグレゴールの機嫌を損ねたことを理解していたが、ここで事実を曖昧にすれば、結局また同じ問題が起きる。
「それに、現在確認できていない作業の中には、そもそもエリシア様へ正式な職務として命じられていたものではないものもございます」
「どういう意味だ」
「お嬢様方の私的な買い物の控えや、贈答品の候補、招待状への返答期限、仕立屋との日程調整などです。必要に応じてエリシア様が確認し、各担当へ知らせていたようですが……」
「ようですが、では困る」
「申し訳ございません」
家令は頭を下げた。
グレゴールは椅子の背へ身体を預けた。
苛立ちが収まらない。
エリシアがいなくなってから、誰も彼も同じ名前を口にする。
エリシアが確認していた。
エリシアが覚えていた。
エリシアが整理していた。
エリシアなら分かる。
そんなものは使用人へ任せればいい。
実際、伯爵家には多くの使用人がいる。
それなのに、なぜ娘一人が消えただけで、これほど細かな不具合が出るのか。
「担当を決めろ」
グレゴールは吐き捨てるように言った。
「これまでエリシアがしていたことを洗い出し、それぞれ使用人へ割り振れ。それで済む話だ」
家令はすぐに返事をしなかった。
「何だ」
「旦那様、洗い出すためにも、まず何をされていたのかを確認する必要がございます」
「なら確認しろ」
「誰に、でしょうか」
グレゴールの顔が険しくなる。
家令は静かに続けた。
「各担当が、自分に関係する範囲では把握しております。しかし、エリシア様が複数の仕事をどのようにつないでいたのかを、全体として把握している者がおりません」
「家令のお前が知らないのか」
「正式な家政管理とは別に、ご家族から直接頼まれていた仕事が多かったようです」
グレゴールは言葉を失った。
その沈黙を埋めるように、書記が一冊の薄い帳面を差し出す。
「こちらはエリシア様の机から見つかったものです。ただ、正式な帳簿ではございません」
グレゴールは受け取った。
開くと、細かな字で日付と名前が並んでいる。
仕立屋。
花屋。
菓子店。
ヴァルモント侯爵家。
領地から届く報告。
使用人の衣類交換。
厨房の保存食。
リリアナの茶会。
自分の予定まで書かれていた。
「何だ、これは」
「おそらく、ご自身で確認するための控えです」
ページの端には、小さな注意書きもある。
誰へ何を贈ったか。
どの商会へいつ支払うか。
誰と誰を同じ席へ配置しない方がよいか。
どの客が何を好み、何を避けるか。
正式な命令書でも、伯爵家の帳簿でもない。
ただ、エリシアが忘れないために書いたものらしい。
グレゴールは数ページをめくり、鼻を鳴らした。
「こんなもの、整理すれば誰にでも作れる」
家令も書記も答えなかった。
「同じものを作らせろ」
「かしこまりました」
家令が頭を下げる。
「ただ、完成までには時間をいただくことになります」
「なぜだ」
「記録そのものが残っていない項目については、関係する商人や使用人へ一つずつ確認する必要がございますので」
グレゴールは帳面を机へ置いた。
「役に立たん連中だ」
家令は再び頭を下げたが、今度は謝罪しなかった。
その反応が気に入らなかったのか、グレゴールは別の書類へ手を伸ばす。
「捜索はどうなっている」
「領内では、現在も確かな情報はございません」
「馬車の記録は?」
「伯爵領を出る街道沿いで、年頃の女性を見たという証言はいくつかございます。ただし、エリシア様と断定できるものはありません」
「一人で遠くへ行けるはずがない」
グレゴールはそう言い切った。
家令は黙っている。
「金も持っていないはずだ」
「お部屋からは、金銭らしいものは見つかっておりません」
「なら、そのうち戻る」
以前にも口にした言葉だった。
しかし、エリシアが消えてから日数は重なっている。
戻ってこない。
助けを求める手紙も届かない。
どこかで保護されたという連絡もない。
グレゴールは机に置かれた薄い帳面を睨んだ。
「領外も調べろ」
家令が顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「いつまでも放置しておけるか。主要な街道と乗合馬車の停留所を当たれ。ただし、大げさにするな。伯爵家の娘が逃げたなどと触れ回る必要はない」
「どの程度まで範囲を広げますか?」
「まずは隣接する領地だ。それより先へ行った証拠が出れば、そのとき考える」
「かしこまりました」
家令は命令を受けた。
グレゴールの捜索が、初めてベルフォード伯爵領の外へ広がることになった。
ただし、その範囲はまだ狭い。
エリシアが幾度も馬車を乗り継ぎ、十日以上かけて辿り着いたアルヴェイン公爵領までは遠かった。
◇
ヴァルモント侯爵邸では、その日の午後、リリアナが婚約者との茶の時間を楽しむはずだった。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
「ディートリヒ様、こちらのお菓子はいかがですか?」
庭に面した小さな応接室で、リリアナは皿に並べられた焼き菓子を勧めた。
薄い生地へ木の実を練り込んだ菓子で、王都でも評判の店から取り寄せたものだ。
「……ああ」
向かいに座るディートリヒは、気のない返事をした。
リリアナの笑顔がわずかに固まる。
「お口に合いませんでした?」
「いや」
「では、どうかなさいましたか?」
ディートリヒは手元の書類から目を上げた。
本来、婚約者との茶の席へ持ち込むようなものではない。
しかし、今日の午前中に確認する予定だった晩餐会の招待客一覧に不備が見つかり、処理が遅れていた。
「来週の晩餐会だが、君は出席者を確認したのか?」
「もちろんです」
「バルディ伯爵夫妻とノイマン子爵夫人を、同じ卓へ入れるつもりか?」
リリアナは瞬きをした。
「何か問題があるのですか?」
「昨年、領地境界を巡って揉めている」
「でも、もう話し合いは終わったのでしょう?」
「表向きはな。だからといって、わざわざ同じ卓へ置く必要はない」
リリアナは唇を尖らせた。
「そんな細かいことまで気にしていたら、席なんて決められませんわ」
「それを考えるのが主催側だ」
「でも、私だけの仕事ではありませんよね?」
「もちろんだ。使用人にも確認させる」
ディートリヒは書類へ目を戻した。
以前なら、こうした一覧には修正案が添えられていた。
誰と誰を離すべきか。
誰を上座へ近づけるか。
夫人同士の関係。
最近爵位を継いだ家。
喪中の家族。
祝い事があった家。
エリシアは目立つことを言わなかったが、必要なことだけは書き残していた。
ディートリヒはそれを当然のものとして受け取っていた。
「以前の一覧はないのですか?」
リリアナが尋ねる。
「ある。だが、出席者は毎回同じではない」
「では、それを元に使用人へやらせればいいでしょう?」
その言葉に、ディートリヒは顔を上げた。
少し前まで、自分も同じことを言っていた。
書類を整理するだけなら使用人を雇えば済む。
実際、その考え自体を完全に捨てたわけではない。
金を払って有能な人間を雇えばいいのだ。
問題は、その有能な人間を探し、必要な情報を教え、仕事の範囲を決めることにも時間がかかるという点だった。
「使用人に任せるにしても、基準になる情報が必要だ」
「それなら、お姉様が残していかなかったのが悪いのではありませんか?」
ディートリヒの眉が動く。
「またそれか」
「だって、そうでしょう? 突然いなくなったのはお姉様ですもの」
「君の家では、まだ見つからないのか」
「お父様が探しています。でも、どこにもいないそうです」
「本当に何を考えているんだ、あの女は」
苛立ちを込めて言いながら、ディートリヒは書類を机へ置いた。
リリアナが少し安心したように微笑む。
自分と同じようにエリシアへ腹を立てていると思ったのだろう。
「そうですわ。みんなに迷惑をかけて――」
「エリシアなら、こんな組み方はしなかった」
言葉が重なった。
リリアナの笑顔が止まる。
ディートリヒ自身も、口にしてから気づいた。
「……何ですって?」
「いや」
「今、お姉様なら、と仰いました?」
「席次の話だ」
「分かっています」
リリアナの声から甘さが消えていく。
「私がお姉様より劣っていると仰りたいのですか?」
「そういう話ではない」
「では、どういう話です?」
ディートリヒは眉間を押さえた。
「エリシアは以前からこうした調整をしていた。それだけだ」
「私はまだ慣れていないだけですわ」
「だから、確認しろと言っている」
「お姉様だって、最初から何でもできたわけではないでしょう?」
「誰もそんなことは言っていない」
「でも比べました」
リリアナは明らかに不機嫌になっていた。
ディートリヒも苛立つ。
「では、何と言えばいい? 実際に以前は問題が起きなかった」
「お姉様が全部やっていたみたいに言わないでください。使用人だっていたでしょう?」
「君がさっき、使用人に任せればいいと言ったんだろう」
「それとこれは違います!」
声が大きくなった。
廊下に控えていた使用人が、扉の向こうでわずかに身じろぎする。
これまで二人が一緒にいるとき、リリアナは明るく笑い、ディートリヒは彼女の華やかさを褒めることが多かった。
エリシアとは違う。
リリアナは自分を楽しませてくれる。
そう思っていた。
けれど、婚約者として関わる仕事が増えるにつれ、笑っているだけでは済まない場面も増えている。
「もういい」
ディートリヒは書類をまとめた。
「席次はこちらで修正する」
「私ができないからですか?」
「このままでは来週に間に合わないからだ」
「同じことですわ」
リリアナが顔を背ける。
ディートリヒは立ち上がった。
慰める気にはなれなかった。
「今日は帰れ。落ち着いたらまた話そう」
「追い返すのですか?」
「そういう言い方をするな」
「お姉様には、そんな言い方をしなかったのでしょうね」
今度はディートリヒが黙った。
エリシアは、そもそもこういう言い方をしなかった。
不満があっても口にしない。
何かを頼めば、黙って受ける。
自分が間違いを指摘すれば、すぐに謝る。
それが退屈で、腹立たしかった。
自分の意見がない女だと思っていた。
だが今、目の前でリリアナに反論され続けると、別の苛立ちが湧いてくる。
ディートリヒはその感情を、自分の身勝手さとは考えなかった。
「今はエリシアの話をしていない」
「先に名前を出したのはディートリヒ様です!」
リリアナは立ち上がると、そのまま応接室を出ていった。
扉が強く閉まる。
ディートリヒはしばらくその場に立っていた。
机の上には、修正が必要な招待客一覧が残っている。
その紙を見下ろしながら、舌打ちしたい気持ちを抑えた。
「面倒な……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしなかった。
エリシアか。
リリアナか。
それとも、以前なら考える必要すらなかったことを、自分で考えなければならなくなった状況そのものか。
ただ一つ確かなのは、エリシアを恋しく思っているわけではないということだった。
戻ってきてほしいとすれば、それは彼女がしていたことを元へ戻すためだ。
少なくとも今のディートリヒにとっては、それ以上でもそれ以下でもなかった。
◇
翌朝の麦穂亭には、焼き上がったパンの香りと、いつもより少し忙しい空気が広がっていた。
「丸パン、二十五確認しました」
シアは籠の中を一つずつ数えたあと、隣の籠へ視線を移した。
「黒麦パン、十五。合わせて四十です」
「よし」
オットーが頷く。
正式な定期納入としては最初の日だった。
とはいえ、試験期間に三度経験しているため、厨房に大きな混乱はない。店頭用と既存の定期注文を先に確保し、そのうえで騎士団分を焼く流れも、すでに三人の中で形になり始めていた。
「銀鹿亭の分もできてるよ」
店側からマルタが声をかける。
「はい。戻ったら受け取りの確認を帳面に書きます」
「急いで戻らなくていいからね」
「分かっています」
シアは答え、少しだけ笑った。
何度も言われてきたからではなく、今は本当に分かり始めている。
急いだからといって、仕事が必ずよくなるわけではない。
荷車を押しながら南側訓練場へ向かう道も、もう迷わなかった。
朝の領都には、店を開ける商人の声や荷車の音が重なっている。通りの端では果物を並べる店主が籠を持ち上げ、向かいの仕立屋では若い職人が窓を開けていた。
数日後には、この街を仕事ではなくミレイユと歩く。
そう思うと、同じ道まで少し違って見える。
(あのお店も、ゆっくり見てみたい)
普段なら通り過ぎる小さな雑貨店の窓に、色の違う布袋が並んでいる。
必要なものではない。
それでも、見てみたいと思った。
シアは足を止めなかったが、店の場所を覚えておいた。
南側訓練場へ着くと、門番の一人がすぐに荷車へ気づいた。
「おはよう、麦穂亭」
店の名前で呼ばれ、シアは少し目を見開いた。
昨日までは「パン屋の娘」や「シアさん」と呼ばれることが多かった。
「おはようございます」
「今日から正式に始まるんだったな」
「はい。四十個、お持ちしました」
「食事担当が待ってるよ」
「ありがとうございます」
門を通りながら、シアは胸の内側に小さな温かさを感じていた。
麦穂亭。
自分が働く店の名前。
そして、その店からパンを届けに来た自分。
食事棟へ向かうと、いつもの年配の調達担当者が待っていた。
「おはよう、シアさん」
「おはようございます。本日分、丸パン二十五個、黒麦パン十五個です」
「受け取ろう」
二人で数を確認し、受取書へ記入する。
「今日は食事予定が四十二人なんだが、追加は頼まなかった」
「はい」
「二人分くらいなら、ほかの料理で調整できる。毎回人数ぴったりにパンを増減させるより、基本数を決めた方がそちらも作りやすいだろう」
「助かります。大きく人数が変わる場合だけ、前日までにご連絡いただければ確認します」
「そうしよう」
試験のときに話し合った内容が、自然に仕事のやり取りとして続いていく。
シアは受取書を受け取り、鞄へしまった。
「これで終わりです」
「ご苦労さん」
「ありがとうございます」
帰ろうと荷車へ手をかけたところで、訓練場側から聞き慣れた声がした。
「シア!」
振り向くと、ミレイユがこちらへ歩いてくる。
今日は訓練の途中らしく、額に少し汗が浮かんでいた。
「おはようございます、ミレイユさん」
「正式な一回目、無事終了?」
「はい。四十個、受け取っていただきました」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
ミレイユは荷車の空になった籠を覗く。
「なんか、もうすっかりいつもの光景になってきたね」
「私も、前より緊張しなくなりました」
「最初に来たとき、門のところで結構固かったもんね」
「分かりましたか?」
「分かるよ。でも、ちゃんと入ってきたじゃん」
シアは最初にこの場所へ来た日のことを思い出した。
知らない門。
騎士たち。
武器。
公爵家に仕える人々。
怖くなかったわけではない。
それでも仕事だからと歩いた。
今は、その場所で友達に会い、名前を呼ばれている。
「……来てよかったです」
シアが言うと、ミレイユの表情が柔らかくなった。
「うん」
少しだけ間を置いてから、ミレイユが思い出したように言った。
「そうだ。市場の日、何か見たいもの決まった?」
「一つあります」
「何?」
「通りに小さな雑貨屋さんがあって、窓に布袋が並んでいました。いつも仕事中なので入ったことはないのですが、少し見てみたいです」
「いいじゃん。行こう」
即答だった。
「ミレイユさんが見たいものもありますか?」
「あるよ。革細工の露店。剣帯につける小物が欲しいんだ」
「では、そこにも行きましょう」
「あと髪紐と食べ物と果実茶」
「増えています」
「市場なんだから増えるよ」
シアは笑った。
「疲れたら休みますからね」
「もちろん。私も休む」
約束をもう一度確かめたところで、訓練場の奥からミレイユを呼ぶ声が聞こえた。
「あ、戻らないと」
「お仕事中ですものね」
「じゃあ、また店にも行くから」
「はい。お待ちしています」
ミレイユが駆けていく。
シアはその背中を見送り、荷車の持ち手を握った。
帰ったら、受取書を帳面へ記録する。
昼には店頭の仕事がある。
午後には仕入れの確認もする。
やることは多い。
それでも、そのすべてが誰かから押しつけられたものではなかった。
麦穂亭へ戻る道の途中で、シアは先ほど見つけた雑貨店の前をもう一度通った。
窓の向こうに並んでいる布袋は、薄い緑や赤茶、生成り色などさまざまだった。
今すぐ必要なものではない。
買うかどうかも決めていない。
それでも、今度見てみようと思える。
(仕事がある。休みもある。友達との約束もある)
そのどれか一つだけが、自分の人生なのではない。
シアは荷車を押しながら、朝の通りを麦穂亭へ向かって歩いた。
店の麦穂の看板が見えてくる。
昨日までも見ていたはずなのに、今日はその看板が少しだけ誇らしく見えた。
ここへ帰れば、仕事がある。
そして数日後には、ここから友達と一緒に出かける。
シアは自然に歩みを速めかけ、それから急ぐ必要がないことを思い出して、いつもの速さへ戻した。
今日の仕事は、まだ続いている。
けれど、自分の人生は仕事だけではない。
そのことを忘れずにいられる日が、少しずつ増えていた。




