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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第18話 友達と歩く休日


 休日の朝、シアは目を覚ましてから、しばらく寝台の上で天井を見つめていた。


 窓の向こうから聞こえてくる街の音は、仕事の日とほとんど変わらない。遠くを走る荷車の車輪、通りを行き交う人々の声、近くの店が戸板を外す音が重なり、その合間に麦穂亭の一階からもかすかな物音が聞こえてくる。


 オットーとマルタは、もう仕事を始めているのだろう。


 以前のシアなら、それに気づいた時点で寝台から飛び起きていた。


 自分だけが休んでいることへ罪悪感を覚え、頼まれていなくても厨房へ下りて、何か仕事を探そうとしたはずだ。


 けれど今日は、あえて身体を起こさなかった。


(今日は、お休み)


 頭の中でそう確かめてから、毛布の中でもう一度身体の力を抜く。


 午後の鐘が一つ鳴る頃、ミレイユが迎えに来る。


 それまで急いで準備する必要はない。


 朝食を食べ、服を選び、髪を整えても十分に間に合う。


 何もしない時間があってもいい。


 そう思っているのに、身体にはまだ「起きなければ」という感覚が残っている。それでもシアはしばらく窓から差し込む朝の光を眺め、通りの音が少しずつ増えていくのを聞いていた。


 結局、いつもより少し遅い時間になってから寝台を出た。


 顔を洗い、髪を簡単にまとめて一階へ下りる。


 厨房を覗くと、オットーが黒麦パンを窯へ入れるところだった。


「おはようございます」


「おう」


「何か――」


 そこまで言って、シアは口を閉じた。


 オットーが振り向く。


「何だ?」


「……何でもありません」


「仕事を探そうとしたな」


「少しだけ」


「今日は休みだ」


「はい」


「飯ならある」


 作業台の端には、丸パンと野菜のスープが置かれていた。


 シアが手伝うためではなく、食べるために厨房へ来ることを、最初から想定して用意されている。


「ありがとうございます」


「食ったら上でのんびりしてろ」


「午後から出かけます」


「ああ、騎士の嬢ちゃんとな」


「はい」


 オットーはそれ以上何も聞かず、窯へ向き直った。


 シアは食事を持って店側へ移動する。


 マルタは開店準備の途中だった。


「おはよう、シア。ちゃんと休んでたかい?」


「いつもより遅くまで寝台にいました」


「進歩だね」


「寝ていたわけではありません」


「横になってたなら十分さ」


 マルタは棚を布で拭きながら、シアの格好を見る。


「出かけるのは午後だったね?」


「はい。鐘が一つ鳴る頃に、ミレイユさんが迎えに来てくださいます」


「じゃあ、まだずいぶん時間があるね」


「何をしていればいいでしょうか」


「休日の過ごし方を私に聞くのかい?」


 笑われ、シアは少し困った。


「……分からなくて」


「本でも読んでりゃいいし、散歩したっていいし、もう一回寝たっていい。何もしなくてもいいよ」


「何もしない、ですか」


「そう。ぼうっとするのも休みのうちさ」


 シアは丸パンをちぎりながら、その言葉を考えた。


 何もしない。


 以前の自分には、ほとんど存在しなかった時間だった。


 何もしていなければ仕事を命じられる。座っていれば怠けていると言われ、手が空いているならリリアナの用事を済ませるよう求められた。


 だから、何もしていない時間には今でも少し落ち着かなくなる。


 けれど、麦穂亭では違う。


「……少し、部屋でゆっくりしてみます」


「そうしな。昼前に軽く食べておけば、市場で何か食べる余裕も残るだろ」


「市場でも食べると思います」


「ミレイユちゃんと行くなら、絶対食べるね」


 シアも否定できなかった。


 朝食を終えて部屋へ戻ると、昨夜までに決めておいた服を取り出した。


 生成り色のブラウスと濃い茶色のスカート。


 華やかな服ではない。


 けれど今日は、誰かに決められたからではなく、自分が着たいと思って選んだ。


 午後までまだ時間があるため、すぐには着替えない。


 窓辺の椅子へ座り、シアは髪紐を入れている小さな箱を開いた。


 淡い空色の髪紐が入っている。


 買ったばかりの頃は、これほど頻繁に使うとは思っていなかった。


 指先で布をなぞりながら、今日もこれを使おうと決める。


(好きだから)


 理由はそれだけだった。


 誰かに褒められたからでも、身分にふさわしいからでもない。


 自分がこの色を好きだから使う。


 箱を閉じたシアは、ふと母の銀のペンダントへ目を向けた。


 普段は大切にしまっている。


 持ち出した数少ない思い出の品だった。


 今日つけていくこともできる。


 けれど、シアは少し迷ったあと、手を伸ばさなかった。


 嫌だからではない。


 大切だからこそ、まだ人の多い市場へ身につけていくのは不安だった。


(今日は、髪紐だけでいい)


 そう決めた。


 何を身につけるかだけでなく、何を身につけないかも自分で決められる。


 それもまた、少し嬉しかった。


     ◇


 午後の鐘が一つ鳴る少し前、シアは一階へ下りた。


 生成り色のブラウスに濃い茶色のスカートを合わせ、髪は淡い空色の髪紐でまとめている。小さな財布には今日使ってもいいと思える分だけを入れ、残りの金は部屋へ置いてきた。


 店内には数人の客がいた。


 シアが階段から下りてくると、会計をしていたマルタがすぐに気づいた。


「おや」


 その声に、シアは少し緊張する。


「……おかしいですか?」


「どうして最初にそっちを聞くんだい。似合ってるよ」


「ありがとうございます」


「髪紐とも合ってる」


 シアは少し照れながら髪へ触れた。


「私も、そう思って選びました」


 以前なら口にできなかった言葉だった。


 自分で似合うと思った。


 自分で選んだ。


 マルタは何も特別なことのようには扱わず、「いいじゃないか」と笑った。


 そのとき、店の扉についた鐘が鳴った。


「こんにちは!」


 聞き慣れた明るい声が響く。


 シアが振り向くと、入口にミレイユが立っていた。


 けれど、いつもとは少し違う。


 濃紺の騎士服ではなく、淡い緑色のシャツに黒に近い茶色の細身のズボンを合わせ、その上から腰丈の薄い上着を羽織っている。剣も帯びていない。


 赤褐色の髪も、普段より少し緩くまとめられていた。


 シアは思わず見つめた。


「ミレイユさん……」


「何?」


「服が違います」


 ミレイユが自分の格好を見下ろす。


「そりゃ休みだからね。さすがに市場へ騎士服で行く必要ないし」


「そうなのですね」


「そんなに珍しい?」


「はい。いつも騎士服でしたから」


「シアもいつもと違うね」


 今度は自分が見られ、シアの背筋が少し伸びる。


 ミレイユは頭から足元まで眺めたあと、笑った。


「似合ってる」


「……ありがとうございます」


「その髪紐、本当に好きなんだね」


「はい。好きです」


 迷わず答えると、ミレイユの笑みがさらに深くなった。


「じゃあ、行こっか」


「はい」


 シアはマルタとオットーへ顔を向ける。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。楽しんできな」


 厨房からオットーも顔を出した。


「暗くなる前には戻れよ」


「はい」


「別に鐘が鳴った瞬間に帰ってこいって意味じゃないからな」


「分かっています」


「本当か?」


「……たぶん」


 オットーが呆れた顔をし、ミレイユが笑う。


「大丈夫。ちゃんと連れて帰ってきます」


「頼んだ」


「私、一人でも帰れます」


「知ってるよ」


 ミレイユが当然のように答えた。


 その言葉が嬉しかった。


 守らなければ何もできない人間として扱われたわけではない。


 一人でも帰れることを知ったうえで、一緒に帰ろうとしてくれている。


「では、行ってきます」


 もう一度そう言って、シアはミレイユと並んで麦穂亭を出た。


 休日の午後の領都は、仕事で歩く朝とはまるで違って見えた。


 通りには買い物客が多く、建物の軒先には色とりどりの布や看板が揺れている。焼いた肉の香ばしい匂いと、果物の甘い香りが風に混じり、広場へ近づくにつれて楽器の音まで聞こえてきた。


 これまでにも同じ道を通っている。


 けれど今日は荷車を押していない。


 受取書も持っていない。


 何時までにどこへ着かなければならないという予定もない。


 シアは自然と歩調を緩めた。


「人、多いね」


 隣のミレイユが言う。


「はい。でも、以前一人で来たときより平気です」


「前は緊張した?」


「少し。どこへ行けばいいのかも分かりませんでしたから」


「今日は私がいるから?」


 尋ねられ、シアは少し考えた。


「それもあります」


「それも?」


「前より、この街を知っているからだと思います」


 麦穂亭の場所を知っている。


 ローザの店を知っている。


 南側訓練場への道も分かる。


 銀鹿亭や赤い鍋亭も知っている。


 迷っても戻る場所がある。


「でも、ミレイユさんが一緒なのも嬉しいです」


 付け加えると、ミレイユが一瞬だけ目を丸くした。


「シアって、たまにすごい真っ直ぐ言うよね」


「いけませんでしたか?」


「逆。嬉しい」


 ミレイユは少し照れたように笑った。


「私も一緒に来られて嬉しいよ」


 そのまま二人は市場へ向かった。


 中央広場へ入ると、休日らしい賑わいが一気に増した。


 噴水の周囲には子どもたちが集まり、その外側には露店が並んでいる。果物、焼き菓子、布、小さな木工品、革製品、香辛料、花、装身具と、店ごとに色も匂いも違った。


「まず、どこ行く?」


 ミレイユが尋ねる。


 シアは反射的に「どこでも」と答えかけた。


 相手が行きたい場所へ合わせる。


 それが一番揉めない。


 そう身体が覚えている。


 けれど、今日は友達と出かけている。


「……私が見たい雑貨屋さんからでもいいですか?」


「もちろん」


 すぐに返ってきた。


 それだけだった。


 嫌な顔もされない。


 わがままだとも言われない。


 シアは胸の奥にあった小さな緊張がほどけるのを感じた。


「こちらです」


 仕事で通った道を今度は自分が案内する。


 市場の大通りから少し外れた場所に、小さな雑貨店がある。


 木枠の窓には布袋や小物入れが並び、扉の上には糸巻きを模した看板が掛けられていた。


 店内へ入ると、布と乾いた木の匂いがした。


「いらっしゃい」


 奥から年配の女性が声をかける。


 シアは窓から見えていた布袋の棚へ近づいた。


 小さな巾着から、肩へ掛けられる程度の袋まである。


「これ見たかったんだ?」


「はい。仕事で前を通ったときに、少し気になっていました」


「どれ?」


「まだ決めていません」


「じゃあ見るだけでもいいね」


 ミレイユは急かさず、自分も隣の棚にある革紐を眺め始めた。


 シアは一つずつ布袋を見る。


 生成り。


 深い緑。


 赤茶。


 紺。


 刺繍のあるものもあれば、無地のものもある。


 値札も確認する。


 買えない金額ではない。


 けれど、必要かと聞かれれば、今すぐ必要なものではなかった。


(欲しいものを、全部買わなくてもいい)


 以前、髪紐を買ったときに学んだことを思い出す。


 見るだけでもいい。


 迷ってもいい。


 買わないと決めてもいい。


 シアは深緑の小さな布袋を手に取った。


 縫い目が丁寧で、口を閉じる紐もしっかりしている。


「それ好き?」


 ミレイユが隣から覗く。


「色は好きです」


「じゃあ買う?」


「……まだ分かりません」


「うん」


 それだけだった。


 勧めることも、止めることもしない。


 シアはしばらく眺めたあと、棚へ戻した。


「今日はやめます」


「気に入らなかった?」


「いいえ。好きです。でも、今すぐ欲しいというほどではないと思いました」


「じゃあ、また欲しくなったら来ればいいね」


「はい」


 何も買わずに店を出る。


 それでも、シアは満足していた。


「楽しかったです」


「何も買ってないのに?」


「はい。選ぶのが」


 ミレイユが笑った。


「分かる。私も武器屋でよくやる」


「武器も見るだけなのですか?」


「高いからね。欲しいからって毎回買ってたら破産するよ」


 シアも笑いながら頷いた。


 次に向かったのは、ミレイユが見たがっていた革細工の露店だった。


 剣帯につける小さな道具入れがいくつも並んでいる。


 今度はシアが横で待つ番だった。


 ミレイユは真剣な表情で留め具を確認し、縫い目を指でなぞっている。


「これはどうですか?」


 シアが一つを指す。


「形はいいんだけど、留め具が片手で外しにくいかな」


「片手で?」


「反対の手が塞がってることもあるから」


「なるほど」


 自分には分からない基準だった。


 仕事が違えば、物を見る場所も違う。


 ミレイユは三つほど比較し、結局黒茶色の小さな革袋を選んだ。


「これにする」


「決まったのですね」


「うん。前から欲しかったから」


 代金を払い、ミレイユが嬉しそうに袋を受け取る。


 シアはその顔を見て、自分が髪紐を買った日のことを思い出した。


 欲しいものを手に入れたとき、人はこんな顔をするのかもしれない。


「似合う?」


 ミレイユが腰へ当てて見せる。


「騎士服につけたところを見ないと分かりません」


「真面目!」


「でも、色は似合うと思います」


「じゃあ合格」


 二人で笑いながら、再び市場の中心へ戻った。


 しばらく歩いたところで、香ばしい匂いが漂ってくる。


 串に刺した肉を焼く露店だった。


 ミレイユの足が明らかに遅くなる。


 シアはその横顔を見る。


「食べたいのですか?」


「……分かる?」


「分かります」


「さっき昼食べた?」


「軽く食べました」


「私も」


 二人の視線が焼かれている肉へ向く。


「半分ずつにする?」


 ミレイユが提案した。


 シアは少し迷った。


 食べられないわけではない。


 匂いはとてもおいしそうだ。


「食べたいです」


「決まり」


 一串ずつ買うのではなく、大きめの一串を二人で分けてもらった。


 近くの噴水の縁から少し離れた長椅子へ座る。


 焼きたての肉はまだ熱く、香草と塩の香りが強い。


 シアが一口食べると、肉汁が口の中に広がった。


「……おいしいです」


「でしょ?」


「ミレイユさんが作ったわけではありませんよ」


「私が見つけたから半分くらい私の功績」


「半分もですか?」


「じゃあ三割」


「まだ多いと思います」


 くだらないやり取りをしながら食べる。


 シアは途中で、ふと周囲へ目を向けた。


 隣の長椅子では年配の夫婦が果物を分けている。噴水の近くでは子どもが母親へ菓子をねだり、少し離れた場所では若い男女が布を見ながら話していた。


 誰もシアを見ていない。


 伯爵令嬢として振る舞えているかを確認する者はいない。


 婚約者を楽しませているかを評価する者もいない。


 ただ、友達と市場で肉を食べている娘が一人いるだけだ。


 それが自分なのだと思うと、不思議な気持ちになった。


「シア?」


「はい」


「ぼーっとしてた」


「少し、周りを見ていました」


「疲れた?」


 ミレイユはすぐにそう尋ねた。


 シアは自分の身体を確かめる。


 足はまだ痛くない。


 人の多さに少し疲れ始めてはいるが、休みたいほどではない。


「まだ大丈夫……」


 そこまで言ってから、言い直した。


「いえ、少しだけ人の多さには疲れています。でも、もう少し歩けます」


 ミレイユは自然に頷いた。


「じゃあ次は髪紐を見て、そのあと果実茶の店で座ろうか」


「はい」


「途中で無理になったら、髪紐飛ばしてお茶でもいいよ」


「分かりました」


 予定を変えてもいい。


 そう言われることが、今でも少し嬉しい。


 食べ終わってから立ち上がり、髪紐の露店へ向かう。


 以前シアが空色の髪紐を買った店だった。


 店番をしていた五十歳ほどの女性は、近づいてきたシアを見ると、すぐに髪へ目を向けた。


「あら。その色、使ってくれてるんだね」


「覚えていらしたのですか?」


「自分でずいぶん悩んで選んでたお嬢さんだからね」


 シアは少し恥ずかしくなった。


「気に入っています」


「それならよかったよ」


 隣でミレイユが嬉しそうにしている。


「これ、シアが初めて自分で選んで買った髪紐なんです」


 シアは目を見開いた。


「ミレイユさん」


「あ、ごめん。言わない方がよかった?」


 ミレイユの表情がすぐに変わる。


 シアは少し考えた。


 嫌だったか。


 自分の過去を知らない人へ話されたように感じたか。


 けれど、詳しい事情を話されたわけではない。


 そして、ミレイユは今、きちんと確認してくれている。


「……いいえ。嫌ではありません」


「本当?」


「はい。でも、次は言う前に聞いてください」


 自分の口から出た言葉に、シア自身が少し驚いた。


 ミレイユも一瞬目を見開いたが、すぐに頷いた。


「分かった。ごめん」


「はい」


 謝罪を受け取る。


 それで終わった。


 空気は壊れなかった。


 友達でなくなることもない。


(言っていいんだ)


 嫌ではない。


 でも、次は聞いてほしい。


 そんな細かな希望まで伝えていいのだ。


 胸の奥が少し温かくなる。


 露店の女性は事情を深く尋ねず、並べた髪紐を指した。


「今日は新しい色もあるよ。見るだけでもどうぞ」


「ありがとうございます」


 シアとミレイユは並んで髪紐を見る。


「これ、ミレイユさんに似合いそうです」


 シアが手に取ったのは、落ち着いた濃い青色だった。


「私?」


「はい」


「髪紐なんて訓練ですぐ駄目にするよ」


「休日に使えばいいのでは?」


 ミレイユが黙った。


 今度はシアが首を傾げる。


「どうしました?」


「いや、シアにそう言われるとは思わなくて」


「私も同じことを言われた気がします」


 必要ではなくても、欲しいなら買っていい。


 仕事で使わなくてもいい。


 休日のためだけのものがあってもいい。


 ミレイユは濃い青の髪紐を持ち上げた。


「……じゃあ、買おうかな」


「欲しいですか?」


「うん。ちょっと欲しくなった」


「なら、いいと思います」


 ミレイユは笑って代金を払った。


「今つけてみる」


 その場で今まで使っていた簡素な紐を外し、濃い青の髪紐で髪をまとめ直す。


「どう?」


 シアは少し離れて見た。


「似合います」


「本当に?」


「はい。髪の色にも合っています」


「じゃあ今日はこれで行く」


 嬉しそうなミレイユを見て、シアも笑った。


 自分が選んだものを友達が身につけている。


 そのことが思っていた以上に嬉しい。


「シアは買わない?」


「今日は見ます」


「うん」


 今度は何も勧められなかった。


 シアは赤や緑、白、薄紫などの髪紐を眺めた。


 空色以外にもきれいだと思う色はある。


 けれど今日は買わない。


 それも自分で決めた。


 露店を離れた頃には、人の多さによる疲れが少し強くなっていた。


 ミレイユもそれに気づいたのか、予定通り果実茶の店へ向かう。


 中央広場から一本外れた通りに、その店はあった。


 木製の小さな看板には果実を模した絵が描かれ、開いた窓から甘酸っぱい香りが漂っている。


 店内には四人掛けの卓がいくつかあり、窓際の二人席へ案内された。


「座れた……」


 ミレイユが椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐く。


 シアは思わず笑った。


「ミレイユさんも疲れていたのですか?」


「疲れたよ。休みでも歩けば疲れる」


「騎士なのに?」


「騎士だって人間だからね」


 以前、オットーが言った「パンだって発酵させる時間がいる」という言葉を思い出す。


 休むのは弱い人だけではない。


 ミレイユも休む。


 それなら、自分が疲れることも特別な失敗ではない。


「私も少し疲れました」


 今度は迷わず言えた。


「じゃあ、ゆっくりしよう」


「はい」


 店員が注文を取りに来る。


 果実茶は数種類あり、林檎、木苺、柑橘、桃があるらしい。


 シアは迷った。


「どれがおすすめですか?」


 店員へ尋ねると、若い女性は少し考えた。


「甘い方がお好きなら桃か林檎ですね。酸味が欲しければ木苺です」


 好きな味。


 シアはまだ、自分が何を一番好きなのかよく分からない。


「……林檎にします」


「私は木苺」


 ミレイユが続ける。


 注文が終わると、シアは尋ねた。


「木苺は酸っぱいのですか?」


「結構酸っぱい。でも好き」


「一口、飲んでみてもいいですか?」


「もちろん。シアの林檎も一口ちょうだい」


「はい」


 やがて二つの茶が運ばれてきた。


 薄い赤色の林檎茶からは、柔らかな甘い香りがする。


 シアは一口飲んだ。


 温かい。


 ほんのり甘く、最後に少しだけ酸味が残る。


「おいしいです」


「こっちも飲んでみる?」


 ミレイユが自分のカップを少し寄せる。


 シアは別の小さな取り分け用カップへ少量を移してもらい、木苺茶を口にした。


「……酸っぱいです」


「でしょ?」


「でも、おいしいです」


「どっちが好き?」


 聞かれ、シアは二つを見比べた。


 以前なら「どちらでも」と答えていたかもしれない。


 どちらを選んでも誰かが困るわけではないのに、自分の好みを口にすることを避けていた。


 もう一度林檎茶を飲む。


「私は、林檎の方が好きです」


「そっか。私は木苺」


「違いますね」


「違うね」


 ミレイユは嬉しそうだった。


 シアも笑う。


 好みが違ってもいい。


 それで何かが壊れるわけではない。


「今日は、楽しいです」


 シアはカップを両手で包みながら言った。


「まだ終わってないよ?」


「分かっています。でも、今の時点でも楽しいです」


「私も」


 窓の外では、人々が市場から帰る方向へ歩き始めている。


 午後の光が少し傾き、通りの石畳へ長い影を落としていた。


「また行こうね」


 ミレイユが言う。


 シアはその言葉を聞いて、胸の奥が少し揺れた。


 また。


 以前、ミレイユが初めて麦穂亭へ来たときにも、「また来てもいい?」と尋ねた。


 そして、本当にまた来た。


 今度は一緒に出かけたあとで、また行こうと言っている。


 約束は、相手を縛るためのものだけではない。


 次の楽しみになる約束もある。


「はい。また行きたいです」


 シアは自分から答えた。


 店を出る頃には、足の疲れも少し軽くなっていた。


 帰り道は、来たときよりゆっくり歩く。


 途中でミレイユが買った革袋を見せ、騎士服のどこへつけるか説明してくれた。シアは自分が買わなかった深緑の布袋について、「また見たくなったら行こうと思います」と話した。


「次に行って売れてたら?」


 ミレイユが尋ねる。


 シアは少し考える。


「残念だと思います」


「うん」


「でも、それなら別のものを探します」


「いい答え」


「正解があるのですか?」


「ないよ」


「では、いい答えと言わないでください」


 二人で笑いながら歩く。


 麦穂亭の麦穂の看板が見えてきた頃には、空が淡い橙色へ変わり始めていた。


「今日はありがとうございました」


 店の前でシアが頭を下げると、ミレイユが少し困ったような顔をした。


「そこ、もうちょっと友達っぽくできない?」


「友達っぽく?」


「仕事のお礼みたい」


 言われて、シアは考える。


「……今日は楽しかったです」


「うん」


「また、一緒に行きたいです」


「うん」


「これなら友達っぽいですか?」


「すごく」


 ミレイユが笑う。


「私も楽しかった。また行こう」


「はい」


 少し迷ってから、シアは付け加えた。


「次は、私から誘ってもいいですか?」


 ミレイユの目が大きくなる。


 その反応に、シアは不安になった。


「駄目でしたか?」


「違う。嬉しくて」


 ミレイユは首を横へ振った。


「誘って。いつでも」


「いつでもは困りませんか?」


「じゃあ、仕事じゃない日に」


「それなら」


「本当に真面目だなあ」


 笑われても嫌ではない。


「では、また」


「うん。また店にも行くから」


「お待ちしています」


 ミレイユは数歩進んでから振り返り、手を振った。


 シアも少し遅れて手を上げる。


 友達へ手を振って別れる。


 そんな当たり前のことさえ、自分には新しかった。


 ミレイユの姿が通りの向こうへ消えてから、シアは麦穂亭の扉を開けた。


 鐘が鳴る。


「ただいま戻りました」


 店内では、マルタが売れ残ったパンを確認していた。


「おかえり。どうだった?」


 尋ねられ、シアは迷わなかった。


「楽しかったです」


「そりゃよかった」


「雑貨屋さんを見て、お肉を食べて、髪紐を見て、果実茶も飲みました」


「ずいぶん満喫したね」


「はい。林檎のお茶が好きだと分かりました」


「へえ。今度うちでも林檎を煮たときに、皮を少し干してみるかね」


「作れるのですか?」


「店のとは違うだろうけどね」


 厨房からオットーが顔を出す。


「飯は?」


「市場で食べました」


「肉だけだろ?」


「どうして分かるんですか?」


「騎士の嬢ちゃんと市場に行って、肉を食わずに帰ってくるとは思えん」


 シアは笑った。


「半分ずつ食べました」


「なら夜に腹減るぞ。スープ残ってるから、欲しくなったら食え」


「はい」


 その返事をしてから、シアは階段へ向かう。


 今日は楽しかった。


 そして、少し疲れた。


 どちらも本当だった。


 部屋へ戻り、髪から空色の髪紐を外す。


 鏡代わりの磨き板に映った自分の頬は、いつもより少し赤い。


 たくさん歩いたからかもしれない。


 たくさん笑ったからかもしれない。


 財布を確認すると、今日使ったのは肉と果実茶の代金だけだった。


 雑貨店では何も買わなかった。


 髪紐も買わなかった。


 それでも、何かが足りなかったとは思わない。


(楽しかった)


 その気持ちは、買った物の数とは関係がなかった。


 シアは椅子へ座り、少し疲れた足を伸ばした。


 休んでいい。


 今は仕事をしなくていい。


 明日になれば、また麦穂亭で働く。


 騎士団への注文もある。


 パンを作り、客と話し、帳面を書く。


 そして、その生活の中には、次の休日もある。


 そのときは、自分からミレイユを誘ってみよう。


 どこへ行きたいかは、まだ決めていない。


 決めていないからこそ、これから考えられる。


「……次は、どこにしよう」


 小さく呟きながら、シアは窓の外へ目を向けた。


 暮れ始めた領都の空の下では、家路を急ぐ人々の姿が見える。


 少し前まで、この街のどこにも自分の居場所はなかった。


 今は、階下に麦穂亭がある。


 明日になれば仕事があり、通りへ出れば顔を覚えてくれている人がいる。


 少し離れた訓練場には、友達がいる。


 自分で選んだ空色の髪紐があり、自分が好きだと分かった林檎の果実茶がある。


 どれも、とても小さなことだった。


 けれど、その一つ一つを自分で選んだ。


 シアは窓を少しだけ開け、夕方の涼しい風を部屋へ入れた。


 遠くから街の鐘が聞こえる。


 その音を聞きながら、明日の仕事ではなく、次に友達と出かける日のことを考えている自分に気づくと、シアは静かに笑った。

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