第18話 友達と歩く休日
休日の朝、シアは目を覚ましてから、しばらく寝台の上で天井を見つめていた。
窓の向こうから聞こえてくる街の音は、仕事の日とほとんど変わらない。遠くを走る荷車の車輪、通りを行き交う人々の声、近くの店が戸板を外す音が重なり、その合間に麦穂亭の一階からもかすかな物音が聞こえてくる。
オットーとマルタは、もう仕事を始めているのだろう。
以前のシアなら、それに気づいた時点で寝台から飛び起きていた。
自分だけが休んでいることへ罪悪感を覚え、頼まれていなくても厨房へ下りて、何か仕事を探そうとしたはずだ。
けれど今日は、あえて身体を起こさなかった。
(今日は、お休み)
頭の中でそう確かめてから、毛布の中でもう一度身体の力を抜く。
午後の鐘が一つ鳴る頃、ミレイユが迎えに来る。
それまで急いで準備する必要はない。
朝食を食べ、服を選び、髪を整えても十分に間に合う。
何もしない時間があってもいい。
そう思っているのに、身体にはまだ「起きなければ」という感覚が残っている。それでもシアはしばらく窓から差し込む朝の光を眺め、通りの音が少しずつ増えていくのを聞いていた。
結局、いつもより少し遅い時間になってから寝台を出た。
顔を洗い、髪を簡単にまとめて一階へ下りる。
厨房を覗くと、オットーが黒麦パンを窯へ入れるところだった。
「おはようございます」
「おう」
「何か――」
そこまで言って、シアは口を閉じた。
オットーが振り向く。
「何だ?」
「……何でもありません」
「仕事を探そうとしたな」
「少しだけ」
「今日は休みだ」
「はい」
「飯ならある」
作業台の端には、丸パンと野菜のスープが置かれていた。
シアが手伝うためではなく、食べるために厨房へ来ることを、最初から想定して用意されている。
「ありがとうございます」
「食ったら上でのんびりしてろ」
「午後から出かけます」
「ああ、騎士の嬢ちゃんとな」
「はい」
オットーはそれ以上何も聞かず、窯へ向き直った。
シアは食事を持って店側へ移動する。
マルタは開店準備の途中だった。
「おはよう、シア。ちゃんと休んでたかい?」
「いつもより遅くまで寝台にいました」
「進歩だね」
「寝ていたわけではありません」
「横になってたなら十分さ」
マルタは棚を布で拭きながら、シアの格好を見る。
「出かけるのは午後だったね?」
「はい。鐘が一つ鳴る頃に、ミレイユさんが迎えに来てくださいます」
「じゃあ、まだずいぶん時間があるね」
「何をしていればいいでしょうか」
「休日の過ごし方を私に聞くのかい?」
笑われ、シアは少し困った。
「……分からなくて」
「本でも読んでりゃいいし、散歩したっていいし、もう一回寝たっていい。何もしなくてもいいよ」
「何もしない、ですか」
「そう。ぼうっとするのも休みのうちさ」
シアは丸パンをちぎりながら、その言葉を考えた。
何もしない。
以前の自分には、ほとんど存在しなかった時間だった。
何もしていなければ仕事を命じられる。座っていれば怠けていると言われ、手が空いているならリリアナの用事を済ませるよう求められた。
だから、何もしていない時間には今でも少し落ち着かなくなる。
けれど、麦穂亭では違う。
「……少し、部屋でゆっくりしてみます」
「そうしな。昼前に軽く食べておけば、市場で何か食べる余裕も残るだろ」
「市場でも食べると思います」
「ミレイユちゃんと行くなら、絶対食べるね」
シアも否定できなかった。
朝食を終えて部屋へ戻ると、昨夜までに決めておいた服を取り出した。
生成り色のブラウスと濃い茶色のスカート。
華やかな服ではない。
けれど今日は、誰かに決められたからではなく、自分が着たいと思って選んだ。
午後までまだ時間があるため、すぐには着替えない。
窓辺の椅子へ座り、シアは髪紐を入れている小さな箱を開いた。
淡い空色の髪紐が入っている。
買ったばかりの頃は、これほど頻繁に使うとは思っていなかった。
指先で布をなぞりながら、今日もこれを使おうと決める。
(好きだから)
理由はそれだけだった。
誰かに褒められたからでも、身分にふさわしいからでもない。
自分がこの色を好きだから使う。
箱を閉じたシアは、ふと母の銀のペンダントへ目を向けた。
普段は大切にしまっている。
持ち出した数少ない思い出の品だった。
今日つけていくこともできる。
けれど、シアは少し迷ったあと、手を伸ばさなかった。
嫌だからではない。
大切だからこそ、まだ人の多い市場へ身につけていくのは不安だった。
(今日は、髪紐だけでいい)
そう決めた。
何を身につけるかだけでなく、何を身につけないかも自分で決められる。
それもまた、少し嬉しかった。
◇
午後の鐘が一つ鳴る少し前、シアは一階へ下りた。
生成り色のブラウスに濃い茶色のスカートを合わせ、髪は淡い空色の髪紐でまとめている。小さな財布には今日使ってもいいと思える分だけを入れ、残りの金は部屋へ置いてきた。
店内には数人の客がいた。
シアが階段から下りてくると、会計をしていたマルタがすぐに気づいた。
「おや」
その声に、シアは少し緊張する。
「……おかしいですか?」
「どうして最初にそっちを聞くんだい。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「髪紐とも合ってる」
シアは少し照れながら髪へ触れた。
「私も、そう思って選びました」
以前なら口にできなかった言葉だった。
自分で似合うと思った。
自分で選んだ。
マルタは何も特別なことのようには扱わず、「いいじゃないか」と笑った。
そのとき、店の扉についた鐘が鳴った。
「こんにちは!」
聞き慣れた明るい声が響く。
シアが振り向くと、入口にミレイユが立っていた。
けれど、いつもとは少し違う。
濃紺の騎士服ではなく、淡い緑色のシャツに黒に近い茶色の細身のズボンを合わせ、その上から腰丈の薄い上着を羽織っている。剣も帯びていない。
赤褐色の髪も、普段より少し緩くまとめられていた。
シアは思わず見つめた。
「ミレイユさん……」
「何?」
「服が違います」
ミレイユが自分の格好を見下ろす。
「そりゃ休みだからね。さすがに市場へ騎士服で行く必要ないし」
「そうなのですね」
「そんなに珍しい?」
「はい。いつも騎士服でしたから」
「シアもいつもと違うね」
今度は自分が見られ、シアの背筋が少し伸びる。
ミレイユは頭から足元まで眺めたあと、笑った。
「似合ってる」
「……ありがとうございます」
「その髪紐、本当に好きなんだね」
「はい。好きです」
迷わず答えると、ミレイユの笑みがさらに深くなった。
「じゃあ、行こっか」
「はい」
シアはマルタとオットーへ顔を向ける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。楽しんできな」
厨房からオットーも顔を出した。
「暗くなる前には戻れよ」
「はい」
「別に鐘が鳴った瞬間に帰ってこいって意味じゃないからな」
「分かっています」
「本当か?」
「……たぶん」
オットーが呆れた顔をし、ミレイユが笑う。
「大丈夫。ちゃんと連れて帰ってきます」
「頼んだ」
「私、一人でも帰れます」
「知ってるよ」
ミレイユが当然のように答えた。
その言葉が嬉しかった。
守らなければ何もできない人間として扱われたわけではない。
一人でも帰れることを知ったうえで、一緒に帰ろうとしてくれている。
「では、行ってきます」
もう一度そう言って、シアはミレイユと並んで麦穂亭を出た。
休日の午後の領都は、仕事で歩く朝とはまるで違って見えた。
通りには買い物客が多く、建物の軒先には色とりどりの布や看板が揺れている。焼いた肉の香ばしい匂いと、果物の甘い香りが風に混じり、広場へ近づくにつれて楽器の音まで聞こえてきた。
これまでにも同じ道を通っている。
けれど今日は荷車を押していない。
受取書も持っていない。
何時までにどこへ着かなければならないという予定もない。
シアは自然と歩調を緩めた。
「人、多いね」
隣のミレイユが言う。
「はい。でも、以前一人で来たときより平気です」
「前は緊張した?」
「少し。どこへ行けばいいのかも分かりませんでしたから」
「今日は私がいるから?」
尋ねられ、シアは少し考えた。
「それもあります」
「それも?」
「前より、この街を知っているからだと思います」
麦穂亭の場所を知っている。
ローザの店を知っている。
南側訓練場への道も分かる。
銀鹿亭や赤い鍋亭も知っている。
迷っても戻る場所がある。
「でも、ミレイユさんが一緒なのも嬉しいです」
付け加えると、ミレイユが一瞬だけ目を丸くした。
「シアって、たまにすごい真っ直ぐ言うよね」
「いけませんでしたか?」
「逆。嬉しい」
ミレイユは少し照れたように笑った。
「私も一緒に来られて嬉しいよ」
そのまま二人は市場へ向かった。
中央広場へ入ると、休日らしい賑わいが一気に増した。
噴水の周囲には子どもたちが集まり、その外側には露店が並んでいる。果物、焼き菓子、布、小さな木工品、革製品、香辛料、花、装身具と、店ごとに色も匂いも違った。
「まず、どこ行く?」
ミレイユが尋ねる。
シアは反射的に「どこでも」と答えかけた。
相手が行きたい場所へ合わせる。
それが一番揉めない。
そう身体が覚えている。
けれど、今日は友達と出かけている。
「……私が見たい雑貨屋さんからでもいいですか?」
「もちろん」
すぐに返ってきた。
それだけだった。
嫌な顔もされない。
わがままだとも言われない。
シアは胸の奥にあった小さな緊張がほどけるのを感じた。
「こちらです」
仕事で通った道を今度は自分が案内する。
市場の大通りから少し外れた場所に、小さな雑貨店がある。
木枠の窓には布袋や小物入れが並び、扉の上には糸巻きを模した看板が掛けられていた。
店内へ入ると、布と乾いた木の匂いがした。
「いらっしゃい」
奥から年配の女性が声をかける。
シアは窓から見えていた布袋の棚へ近づいた。
小さな巾着から、肩へ掛けられる程度の袋まである。
「これ見たかったんだ?」
「はい。仕事で前を通ったときに、少し気になっていました」
「どれ?」
「まだ決めていません」
「じゃあ見るだけでもいいね」
ミレイユは急かさず、自分も隣の棚にある革紐を眺め始めた。
シアは一つずつ布袋を見る。
生成り。
深い緑。
赤茶。
紺。
刺繍のあるものもあれば、無地のものもある。
値札も確認する。
買えない金額ではない。
けれど、必要かと聞かれれば、今すぐ必要なものではなかった。
(欲しいものを、全部買わなくてもいい)
以前、髪紐を買ったときに学んだことを思い出す。
見るだけでもいい。
迷ってもいい。
買わないと決めてもいい。
シアは深緑の小さな布袋を手に取った。
縫い目が丁寧で、口を閉じる紐もしっかりしている。
「それ好き?」
ミレイユが隣から覗く。
「色は好きです」
「じゃあ買う?」
「……まだ分かりません」
「うん」
それだけだった。
勧めることも、止めることもしない。
シアはしばらく眺めたあと、棚へ戻した。
「今日はやめます」
「気に入らなかった?」
「いいえ。好きです。でも、今すぐ欲しいというほどではないと思いました」
「じゃあ、また欲しくなったら来ればいいね」
「はい」
何も買わずに店を出る。
それでも、シアは満足していた。
「楽しかったです」
「何も買ってないのに?」
「はい。選ぶのが」
ミレイユが笑った。
「分かる。私も武器屋でよくやる」
「武器も見るだけなのですか?」
「高いからね。欲しいからって毎回買ってたら破産するよ」
シアも笑いながら頷いた。
次に向かったのは、ミレイユが見たがっていた革細工の露店だった。
剣帯につける小さな道具入れがいくつも並んでいる。
今度はシアが横で待つ番だった。
ミレイユは真剣な表情で留め具を確認し、縫い目を指でなぞっている。
「これはどうですか?」
シアが一つを指す。
「形はいいんだけど、留め具が片手で外しにくいかな」
「片手で?」
「反対の手が塞がってることもあるから」
「なるほど」
自分には分からない基準だった。
仕事が違えば、物を見る場所も違う。
ミレイユは三つほど比較し、結局黒茶色の小さな革袋を選んだ。
「これにする」
「決まったのですね」
「うん。前から欲しかったから」
代金を払い、ミレイユが嬉しそうに袋を受け取る。
シアはその顔を見て、自分が髪紐を買った日のことを思い出した。
欲しいものを手に入れたとき、人はこんな顔をするのかもしれない。
「似合う?」
ミレイユが腰へ当てて見せる。
「騎士服につけたところを見ないと分かりません」
「真面目!」
「でも、色は似合うと思います」
「じゃあ合格」
二人で笑いながら、再び市場の中心へ戻った。
しばらく歩いたところで、香ばしい匂いが漂ってくる。
串に刺した肉を焼く露店だった。
ミレイユの足が明らかに遅くなる。
シアはその横顔を見る。
「食べたいのですか?」
「……分かる?」
「分かります」
「さっき昼食べた?」
「軽く食べました」
「私も」
二人の視線が焼かれている肉へ向く。
「半分ずつにする?」
ミレイユが提案した。
シアは少し迷った。
食べられないわけではない。
匂いはとてもおいしそうだ。
「食べたいです」
「決まり」
一串ずつ買うのではなく、大きめの一串を二人で分けてもらった。
近くの噴水の縁から少し離れた長椅子へ座る。
焼きたての肉はまだ熱く、香草と塩の香りが強い。
シアが一口食べると、肉汁が口の中に広がった。
「……おいしいです」
「でしょ?」
「ミレイユさんが作ったわけではありませんよ」
「私が見つけたから半分くらい私の功績」
「半分もですか?」
「じゃあ三割」
「まだ多いと思います」
くだらないやり取りをしながら食べる。
シアは途中で、ふと周囲へ目を向けた。
隣の長椅子では年配の夫婦が果物を分けている。噴水の近くでは子どもが母親へ菓子をねだり、少し離れた場所では若い男女が布を見ながら話していた。
誰もシアを見ていない。
伯爵令嬢として振る舞えているかを確認する者はいない。
婚約者を楽しませているかを評価する者もいない。
ただ、友達と市場で肉を食べている娘が一人いるだけだ。
それが自分なのだと思うと、不思議な気持ちになった。
「シア?」
「はい」
「ぼーっとしてた」
「少し、周りを見ていました」
「疲れた?」
ミレイユはすぐにそう尋ねた。
シアは自分の身体を確かめる。
足はまだ痛くない。
人の多さに少し疲れ始めてはいるが、休みたいほどではない。
「まだ大丈夫……」
そこまで言ってから、言い直した。
「いえ、少しだけ人の多さには疲れています。でも、もう少し歩けます」
ミレイユは自然に頷いた。
「じゃあ次は髪紐を見て、そのあと果実茶の店で座ろうか」
「はい」
「途中で無理になったら、髪紐飛ばしてお茶でもいいよ」
「分かりました」
予定を変えてもいい。
そう言われることが、今でも少し嬉しい。
食べ終わってから立ち上がり、髪紐の露店へ向かう。
以前シアが空色の髪紐を買った店だった。
店番をしていた五十歳ほどの女性は、近づいてきたシアを見ると、すぐに髪へ目を向けた。
「あら。その色、使ってくれてるんだね」
「覚えていらしたのですか?」
「自分でずいぶん悩んで選んでたお嬢さんだからね」
シアは少し恥ずかしくなった。
「気に入っています」
「それならよかったよ」
隣でミレイユが嬉しそうにしている。
「これ、シアが初めて自分で選んで買った髪紐なんです」
シアは目を見開いた。
「ミレイユさん」
「あ、ごめん。言わない方がよかった?」
ミレイユの表情がすぐに変わる。
シアは少し考えた。
嫌だったか。
自分の過去を知らない人へ話されたように感じたか。
けれど、詳しい事情を話されたわけではない。
そして、ミレイユは今、きちんと確認してくれている。
「……いいえ。嫌ではありません」
「本当?」
「はい。でも、次は言う前に聞いてください」
自分の口から出た言葉に、シア自身が少し驚いた。
ミレイユも一瞬目を見開いたが、すぐに頷いた。
「分かった。ごめん」
「はい」
謝罪を受け取る。
それで終わった。
空気は壊れなかった。
友達でなくなることもない。
(言っていいんだ)
嫌ではない。
でも、次は聞いてほしい。
そんな細かな希望まで伝えていいのだ。
胸の奥が少し温かくなる。
露店の女性は事情を深く尋ねず、並べた髪紐を指した。
「今日は新しい色もあるよ。見るだけでもどうぞ」
「ありがとうございます」
シアとミレイユは並んで髪紐を見る。
「これ、ミレイユさんに似合いそうです」
シアが手に取ったのは、落ち着いた濃い青色だった。
「私?」
「はい」
「髪紐なんて訓練ですぐ駄目にするよ」
「休日に使えばいいのでは?」
ミレイユが黙った。
今度はシアが首を傾げる。
「どうしました?」
「いや、シアにそう言われるとは思わなくて」
「私も同じことを言われた気がします」
必要ではなくても、欲しいなら買っていい。
仕事で使わなくてもいい。
休日のためだけのものがあってもいい。
ミレイユは濃い青の髪紐を持ち上げた。
「……じゃあ、買おうかな」
「欲しいですか?」
「うん。ちょっと欲しくなった」
「なら、いいと思います」
ミレイユは笑って代金を払った。
「今つけてみる」
その場で今まで使っていた簡素な紐を外し、濃い青の髪紐で髪をまとめ直す。
「どう?」
シアは少し離れて見た。
「似合います」
「本当に?」
「はい。髪の色にも合っています」
「じゃあ今日はこれで行く」
嬉しそうなミレイユを見て、シアも笑った。
自分が選んだものを友達が身につけている。
そのことが思っていた以上に嬉しい。
「シアは買わない?」
「今日は見ます」
「うん」
今度は何も勧められなかった。
シアは赤や緑、白、薄紫などの髪紐を眺めた。
空色以外にもきれいだと思う色はある。
けれど今日は買わない。
それも自分で決めた。
露店を離れた頃には、人の多さによる疲れが少し強くなっていた。
ミレイユもそれに気づいたのか、予定通り果実茶の店へ向かう。
中央広場から一本外れた通りに、その店はあった。
木製の小さな看板には果実を模した絵が描かれ、開いた窓から甘酸っぱい香りが漂っている。
店内には四人掛けの卓がいくつかあり、窓際の二人席へ案内された。
「座れた……」
ミレイユが椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐く。
シアは思わず笑った。
「ミレイユさんも疲れていたのですか?」
「疲れたよ。休みでも歩けば疲れる」
「騎士なのに?」
「騎士だって人間だからね」
以前、オットーが言った「パンだって発酵させる時間がいる」という言葉を思い出す。
休むのは弱い人だけではない。
ミレイユも休む。
それなら、自分が疲れることも特別な失敗ではない。
「私も少し疲れました」
今度は迷わず言えた。
「じゃあ、ゆっくりしよう」
「はい」
店員が注文を取りに来る。
果実茶は数種類あり、林檎、木苺、柑橘、桃があるらしい。
シアは迷った。
「どれがおすすめですか?」
店員へ尋ねると、若い女性は少し考えた。
「甘い方がお好きなら桃か林檎ですね。酸味が欲しければ木苺です」
好きな味。
シアはまだ、自分が何を一番好きなのかよく分からない。
「……林檎にします」
「私は木苺」
ミレイユが続ける。
注文が終わると、シアは尋ねた。
「木苺は酸っぱいのですか?」
「結構酸っぱい。でも好き」
「一口、飲んでみてもいいですか?」
「もちろん。シアの林檎も一口ちょうだい」
「はい」
やがて二つの茶が運ばれてきた。
薄い赤色の林檎茶からは、柔らかな甘い香りがする。
シアは一口飲んだ。
温かい。
ほんのり甘く、最後に少しだけ酸味が残る。
「おいしいです」
「こっちも飲んでみる?」
ミレイユが自分のカップを少し寄せる。
シアは別の小さな取り分け用カップへ少量を移してもらい、木苺茶を口にした。
「……酸っぱいです」
「でしょ?」
「でも、おいしいです」
「どっちが好き?」
聞かれ、シアは二つを見比べた。
以前なら「どちらでも」と答えていたかもしれない。
どちらを選んでも誰かが困るわけではないのに、自分の好みを口にすることを避けていた。
もう一度林檎茶を飲む。
「私は、林檎の方が好きです」
「そっか。私は木苺」
「違いますね」
「違うね」
ミレイユは嬉しそうだった。
シアも笑う。
好みが違ってもいい。
それで何かが壊れるわけではない。
「今日は、楽しいです」
シアはカップを両手で包みながら言った。
「まだ終わってないよ?」
「分かっています。でも、今の時点でも楽しいです」
「私も」
窓の外では、人々が市場から帰る方向へ歩き始めている。
午後の光が少し傾き、通りの石畳へ長い影を落としていた。
「また行こうね」
ミレイユが言う。
シアはその言葉を聞いて、胸の奥が少し揺れた。
また。
以前、ミレイユが初めて麦穂亭へ来たときにも、「また来てもいい?」と尋ねた。
そして、本当にまた来た。
今度は一緒に出かけたあとで、また行こうと言っている。
約束は、相手を縛るためのものだけではない。
次の楽しみになる約束もある。
「はい。また行きたいです」
シアは自分から答えた。
店を出る頃には、足の疲れも少し軽くなっていた。
帰り道は、来たときよりゆっくり歩く。
途中でミレイユが買った革袋を見せ、騎士服のどこへつけるか説明してくれた。シアは自分が買わなかった深緑の布袋について、「また見たくなったら行こうと思います」と話した。
「次に行って売れてたら?」
ミレイユが尋ねる。
シアは少し考える。
「残念だと思います」
「うん」
「でも、それなら別のものを探します」
「いい答え」
「正解があるのですか?」
「ないよ」
「では、いい答えと言わないでください」
二人で笑いながら歩く。
麦穂亭の麦穂の看板が見えてきた頃には、空が淡い橙色へ変わり始めていた。
「今日はありがとうございました」
店の前でシアが頭を下げると、ミレイユが少し困ったような顔をした。
「そこ、もうちょっと友達っぽくできない?」
「友達っぽく?」
「仕事のお礼みたい」
言われて、シアは考える。
「……今日は楽しかったです」
「うん」
「また、一緒に行きたいです」
「うん」
「これなら友達っぽいですか?」
「すごく」
ミレイユが笑う。
「私も楽しかった。また行こう」
「はい」
少し迷ってから、シアは付け加えた。
「次は、私から誘ってもいいですか?」
ミレイユの目が大きくなる。
その反応に、シアは不安になった。
「駄目でしたか?」
「違う。嬉しくて」
ミレイユは首を横へ振った。
「誘って。いつでも」
「いつでもは困りませんか?」
「じゃあ、仕事じゃない日に」
「それなら」
「本当に真面目だなあ」
笑われても嫌ではない。
「では、また」
「うん。また店にも行くから」
「お待ちしています」
ミレイユは数歩進んでから振り返り、手を振った。
シアも少し遅れて手を上げる。
友達へ手を振って別れる。
そんな当たり前のことさえ、自分には新しかった。
ミレイユの姿が通りの向こうへ消えてから、シアは麦穂亭の扉を開けた。
鐘が鳴る。
「ただいま戻りました」
店内では、マルタが売れ残ったパンを確認していた。
「おかえり。どうだった?」
尋ねられ、シアは迷わなかった。
「楽しかったです」
「そりゃよかった」
「雑貨屋さんを見て、お肉を食べて、髪紐を見て、果実茶も飲みました」
「ずいぶん満喫したね」
「はい。林檎のお茶が好きだと分かりました」
「へえ。今度うちでも林檎を煮たときに、皮を少し干してみるかね」
「作れるのですか?」
「店のとは違うだろうけどね」
厨房からオットーが顔を出す。
「飯は?」
「市場で食べました」
「肉だけだろ?」
「どうして分かるんですか?」
「騎士の嬢ちゃんと市場に行って、肉を食わずに帰ってくるとは思えん」
シアは笑った。
「半分ずつ食べました」
「なら夜に腹減るぞ。スープ残ってるから、欲しくなったら食え」
「はい」
その返事をしてから、シアは階段へ向かう。
今日は楽しかった。
そして、少し疲れた。
どちらも本当だった。
部屋へ戻り、髪から空色の髪紐を外す。
鏡代わりの磨き板に映った自分の頬は、いつもより少し赤い。
たくさん歩いたからかもしれない。
たくさん笑ったからかもしれない。
財布を確認すると、今日使ったのは肉と果実茶の代金だけだった。
雑貨店では何も買わなかった。
髪紐も買わなかった。
それでも、何かが足りなかったとは思わない。
(楽しかった)
その気持ちは、買った物の数とは関係がなかった。
シアは椅子へ座り、少し疲れた足を伸ばした。
休んでいい。
今は仕事をしなくていい。
明日になれば、また麦穂亭で働く。
騎士団への注文もある。
パンを作り、客と話し、帳面を書く。
そして、その生活の中には、次の休日もある。
そのときは、自分からミレイユを誘ってみよう。
どこへ行きたいかは、まだ決めていない。
決めていないからこそ、これから考えられる。
「……次は、どこにしよう」
小さく呟きながら、シアは窓の外へ目を向けた。
暮れ始めた領都の空の下では、家路を急ぐ人々の姿が見える。
少し前まで、この街のどこにも自分の居場所はなかった。
今は、階下に麦穂亭がある。
明日になれば仕事があり、通りへ出れば顔を覚えてくれている人がいる。
少し離れた訓練場には、友達がいる。
自分で選んだ空色の髪紐があり、自分が好きだと分かった林檎の果実茶がある。
どれも、とても小さなことだった。
けれど、その一つ一つを自分で選んだ。
シアは窓を少しだけ開け、夕方の涼しい風を部屋へ入れた。
遠くから街の鐘が聞こえる。
その音を聞きながら、明日の仕事ではなく、次に友達と出かける日のことを考えている自分に気づくと、シアは静かに笑った。




