第19話 私にできること、できないこと
休日の翌朝、シアが一階へ下りると、麦穂亭の厨房には焼き上がる前の生地が持つ柔らかな香りと、黒麦粉の少し香ばしい匂いが混ざっていた。
昨日は市場を歩き回ったため、目覚めたときにはふくらはぎにわずかな重さが残っていた。それでも嫌な疲れではなく、友達と出かけた時間を身体が覚えているような感覚だった。
生成り色のブラウスと濃い茶色のスカートは昨夜のうちに畳み、空色の髪紐もいつもの箱へ戻した。そして今朝は、再び仕事用の服に着替えたうえで、その髪紐だけを結んでいる。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝たかい?」
店側へ運ぶ籠を確認していたマルタが振り返る。
「はい。少し足が疲れています」
答えてから、シアは自分でその言葉を聞いた。
以前なら「大丈夫です」と返していたところだった。
疲れていることを伝えたからといって、休ませてほしいと要求したわけでも、仕事ができないと言ったわけでもない。ただ現在の身体の状態を、そのまま口にしただけだ。
マルタも特別な反応はしなかった。
「昨日かなり歩いたんだろ?」
「はい。市場を一周したと思います」
「なら今日は荷物運びを少なめにしときな。立ち仕事だけでも足は使うからね」
「ありがとうございます。でも、必要なものは運べます」
「分かってるよ。できることまで取り上げる気はないさ」
マルタはそう言うと、もう別の籠へ手を伸ばしていた。
その距離感が、シアには心地よかった。
疲れていると言ったからといって、何もできない人間として扱われるわけではない。だからこそ、自分も身体の状態を隠さずに伝えられる。
「シア、こっち」
厨房からオットーに呼ばれ、シアは作業台へ向かった。
そこには丸パン用の生地が並んでいる。
「今日はこれ、半分お前がやれ」
「半分ですか?」
「嫌か?」
「いいえ。やってみたいです」
迷わず答えた。
これまでにも丸パンの成形は何度も任されているが、一度に任される量は少しずつ増えている。最初は一つ作るたびに手元を確認されていた。それが今では、オットーは別の生地を扱いながら、ときどき横から見る程度になっていた。
「形だけ揃えようとするなよ」
「はい。触りすぎないようにします」
「それもある。昨日みたいに少し横へ広がっても、売れないわけじゃない」
シアは昨日レオンハルトが選んだ丸パンを思い出した。
「……あのパン、レオンハルト様が買っていかれました」
「知ってる。マルタから聞いた」
「私が成形したと知って、選ばれたんです」
「なら次はもっとましなの食わせてやれ」
「はい」
オットーらしい言い方に、シアは小さく笑った。
自分が関わったパンを、誰かが選んで買った。
その事実は、昨日から胸の中に残っている。
レオンハルトだから特別なのかと聞かれれば、まだシアには分からない。ただ、自分が覚えようとしている仕事の成果を、誰かが食べてくれたことが嬉しかった。
シアは一つ目の生地を手に取る。
押し潰さないように気をつけながら、表面を張らせて丸める。
前より手が迷わない。
それでも、ときどきオットーの作ったものと見比べる。
「そっちは悪くない」
三つ目を置いたところで声が飛んできた。
「ありがとうございます」
「五つ目、底が緩い」
褒められた直後に指摘も来る。
シアは五つ目を持ち上げて確認した。
「本当ですね」
「直せるか?」
「やってみます」
指で閉じ方を調整し、もう一度置く。
オットーが確認して頷いた。
「それならいい」
失敗しても、そこで終わりではない。
直せるものは直せばいい。
直せないものでも、食べられるなら別の扱い方がある。
少しずつ、それがパンだけの話ではないように思えてきていた。
◇
昼前、店内が最も混み合う時間を越えた頃、見慣れない男が麦穂亭へ入ってきた。
三十代半ばほどで、焦げ茶色の上着を着ている。胸元には商会の印らしい小さな木札が下がっていた。
「すみません。店主の方はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ちください」
シアがマルタを呼ぼうとすると、男は店内の棚へ目を向けた。
「こちらが南側訓練場へパンを納めている店ですよね?」
シアはすぐに答えず、相手を見る。
「ご用件を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、失礼しました。私は《フォルン商会》のベルトと申します。騎士団の食料調達を担当している事務方から、こちらの店を紹介されまして」
男――ベルトは木札を見せた。
そこには麦の束と秤を組み合わせた意匠が刻まれている。
「穀物や乾物を扱う商会です。店主の方へ、少しお話ができればと思いまして」
「分かりました。確認してまいります」
シアは店の奥へ向かった。
勝手に話を進めない。
自分が答えられることと、店主へ確認すべきことを分ける。
「マルタさん、お客様です。フォルン商会のベルトさんという方で、騎士団の食料担当から紹介されたそうです」
「商会?」
「穀物と乾物を扱っているそうです」
マルタが眉を上げる。
「うちの仕入れの話かね」
「詳しい内容は、まだ伺っていません」
「分かった。行くよ」
二人で店へ戻る。
ベルトは丁寧に頭を下げた。
「突然申し訳ありません」
「いえ。フォルン商会さんでしたね」
「はい。南側訓練場の方から、麦穂亭さんが定期的な納入を始めたと伺いまして」
マルタの表情が少し慎重になる。
「それで?」
「今後、小麦や黒麦粉の使用量が増えるのであれば、当商会から定期仕入れをご検討いただけないかと思いまして」
営業の話らしい。
シアは少し後ろへ下がった。
これは店主同士の話だ。
そう判断したのだが、マルタがこちらを見る。
「シア、注文帳持ってきて」
「はい」
すぐに帳面を取りに行く。
戻ると、マルタは店の隅にある小さな卓を示した。
「立ち話も何だから、こっちで」
三人が卓を囲む。
ベルトは持参した紙を広げた。
「現在の仕入れ先を変えていただきたい、ということではありません。騎士団分で増えた量だけでも構いません。一定量以上であれば、通常より少し安くお出しできます」
「一定量ってのは?」
マルタが尋ねる。
ベルトが数字を示した。
シアは黙って聞きながら、頭の中で普段の使用量と照らし合わせる。
確かに単価は安い。
しかし最低注文量が多い。
麦穂亭ほどの規模では、騎士団の注文が増えても毎回その量を使い切るとは限らない。
「保管はどのくらい利きますか?」
シアが尋ねた。
ベルトが彼女を見る。
「黒麦粉についてですか?」
「両方です。特に湿気の多い時期に、品質を保てる期間を知りたいです」
「保管環境にもよりますが、当商会では――」
説明を聞く。
シアは帳面へ簡単に数字を書いた。
安く買えても、余らせて品質を落とせば意味がない。
さらに秋穫祭が近づけば需要は増えるが、その後に一度落ち着く可能性もある。
「シア?」
マルタが呼ぶ。
「どう思う?」
意見を求められ、シアは少し考えた。
「今の騎士団分だけを理由に、この最低量へ増やすのは少し多いと思います」
ベルトの前で断定することに、わずかな緊張があった。
それでも、帳面の数字を指す。
「今の定期注文が週四日ですので、追加注文が毎回入るとは限りません。秋穫祭の前なら店頭分も増えると思いますが、祭りのあとまで同じ量を使うかは分かりません」
「なるほど」
ベルトは不機嫌になる様子もなく頷いた。
「では、最低量を少し下げた場合は?」
「その場合、単価は変わりますか?」
「少し上がります。ただ、現在お使いの商会よりはわずかに安くできると思います」
マルタがシアを見る。
「今決める?」
問いかけられ、シアは首を横へ振った。
「オットーさんにも確認した方がいいと思います。それから、今の仕入れ先との関係もあります」
マルタが笑った。
「私もそう思う」
ベルトへ向き直る。
「今日は条件だけ預からせてもらえますかね」
「もちろんです」
「今の仕入れ先を急に切るつもりはありません。そのうえで、追加分として使えるか考えます」
「承知しております。こちらとしても、長く取引していただける方がありがたいので」
ベルトは条件を書いた紙を残し、立ち上がった。
帰り際、シアへ目を向ける。
「お若いのに、ずいぶん数字に慣れていらっしゃいますね」
シアの肩がわずかに強張った。
どこで覚えたのか。
そう続くのではないかと思った。
けれど、ベルトは単純な感想として言っただけらしい。
「ありがとうございます。まだ教わっている途中です」
「十分助かってるよ」
横からマルタが言う。
シアは少し照れながら頭を下げた。
「では、また数日後にでも伺います」
「はい。こちらでも検討しておきます」
ベルトが出ていったあと、シアは条件表をもう一度見た。
「どうした?」
厨房から出てきたオットーが尋ねる。
マルタが紙を渡す。
「騎士団から紹介された商会だってさ。小麦と黒麦粉を安くできるらしい」
オットーは条件を読み、すぐに眉を寄せた。
「量が多いな」
「シアも同じこと言ってたよ」
「だろうな」
シアは帳面を開く。
「最低量を下げた場合の条件も出してくださるそうです。今の仕入れ先を変えるのではなく、増えた分だけお願いする方法もあるそうです」
「それならありかもしれん」
「でも、今の仕入れ先にも相談した方がいいと思います」
オットーがシアを見る。
「何でだ?」
「こちらの使用量が増えたなら、今の仕入れ先でも条件を変えられるかもしれません。それに、これまで必要なときに少量でも届けていただいていますから」
オットーの口元が少し上がった。
「そこまで考えたか」
「……何か変でしたか?」
「いや。俺も同じことを考えてた」
「では、よかったです」
「明日の仕入れで聞いてみる。お前も来るか?」
シアは少し迷った。
仕入れ先との話を実際に聞くことは勉強になる。
「行きたいです」
「じゃあ来い」
「はい」
新しい仕事を一つ覚える。
それが楽しみだと思える。
以前なら、仕事が増えることは責任が増えることだった。
失敗すれば責められる。
できなければ価値がないと言われる。
だから何でもできるふりをした。
今は違う。
知らないなら、教わればいい。
決められないなら、相談すればいい。
シアは商会から渡された紙を注文帳へ挟んだ。
◇
その日の午後、南側訓練場では、食事を終えた騎士たちが休憩に入っていた。
「今日の黒麦パン、もうないのか?」
「四十個しか来てないぞ」
「俺、丸パンだった」
「交換してやろうか?」
「食ったあとに言うな」
食事棟の端でそんな声が飛び交う。
ミレイユは木の椅子へ腰を下ろしながら、最後に残しておいた黒麦パンをちぎった。
「それ、くれ」
向かいに座る若い騎士が手を伸ばす。
「嫌」
「即答かよ」
「自分の食べたでしょ」
「丸パンだった」
「知らない」
ミレイユは平然と一口食べた。
三日間の試験が終わり、麦穂亭からのパンはすっかり訓練場の昼食へ馴染み始めている。
最初は「近くのパン屋から試しに取る」という話だった。
今では、どちらのパンを取れるかで軽い言い合いが起きる程度には評判がいい。
「そういや、あのパン屋の女の子、今日来てたな」
別の騎士が言う。
「シア?」
「名前まで覚えてんのかよ」
「ミレイユがしょっちゅう話してるから」
「私そんなに話してる?」
「蜂蜜パンの話と一緒に」
ミレイユは少し考えた。
「してるかも」
「認めるんだな」
周囲から笑いが起こる。
嫌ではなかった。
シアが自分の友達であることを、隠したいとも思わない。
「昨日も一緒に市場行ったし」
「へえ」
「お前、休日までパン屋に関わってんのか」
「シアと出かけただけ。パン屋は関係ないでしょ」
「で、何食った?」
「肉」
「やっぱり食ってんじゃねえか」
また笑われる。
ミレイユも笑った。
昨日のシアは、店で見るときとは少し違っていた。
仕事中の彼女はよく周囲を見ている。
客の動き。
棚の残り。
金額。
注文。
誰かが困っていないか。
いつもどこかへ意識を向けている。
昨日は、そうではない時間が増えていた。
雑貨屋で布袋を眺め、買うかどうかを迷う。
肉を食べて笑う。
果実茶を飲み比べる。
自分から「林檎の方が好き」と言う。
どれも小さなことだ。
けれど、ミレイユには、それが妙に印象へ残っていた。
髪紐の店で、自分が余計なことを言ったときもそうだ。
シアは怒らなかった。
ただ、「次は言う前に聞いてください」と言った。
その瞬間、ミレイユは少し嬉しかった。
もちろん、勝手に話したこと自体は自分が悪い。
けれど、シアが嫌なことを嫌だと伝えてくれた。
(前だったら、笑って流してたかもしれないな)
最初に会った頃のシアなら、どうだっただろう。
たぶん「大丈夫です」と言った気がする。
その言葉を、ミレイユはもう何度か聞いている。
最近は減った。
それがいいことなのだろうと、ミレイユは思う。
「何にやにやしてんだ?」
向かいの騎士に言われ、ミレイユは眉を寄せた。
「してない」
「してた」
「パンがおいしいだけ」
「それでその顔になるか?」
「なる」
適当に返して、残りの黒麦パンを口へ運ぶ。
シアが何から逃げてきたのか、ミレイユは知らない。
聞くつもりもない。
ただ、今のシアが麦穂亭で笑えるなら、それでいいと思っている。
いつか話したくなれば聞く。
話したくなければ、聞かない。
友達だから何でも知る権利があるとは思わなかった。
「ミレイユ」
後ろから呼ばれ、振り返る。
レオンハルトが食事棟へ入ってきたところだった。
「はい」
「午後の訓練について少し確認する」
「今行きます」
ミレイユは最後の一口を食べ、立ち上がった。
レオンハルトの手元を見ると、今日は丸パンが一つ残っている。
「今日は丸パンだったんですね」
「ああ」
「昨日も食べたのに」
レオンハルトがわずかに目を細める。
「何の話だ?」
「麦穂亭で買ったでしょう?」
「……なぜ知っている」
「シアから聞きました」
ミレイユは少し笑う。
「自分が形を作ったパンを選んでもらったって、嬉しそうでしたよ」
レオンハルトの視線が、一瞬だけ手元の丸パンへ落ちた。
「そうか」
それだけだった。
だが、ミレイユはその反応を見逃さなかった。
昨日、シアには余計なことを言わないと決めた。
だから今も、何かを断定するつもりはない。
「どうでした?」
「何が」
「シアが作った丸パン」
「形は少し悪かった」
「そこは正直なんですね」
「本人もそう言っていた」
「味は?」
「普通にうまかった」
「じゃあ、次はもっと上手になったのを食べないとですね」
レオンハルトは少しだけ考えた。
「ああ」
短い返事だった。
ミレイユはそれ以上何も言わなかった。
まだ何でもない。
本当に、その程度だ。
だからこそ、急いで名前をつける必要もなかった。
◇
夕方、麦穂亭へ一人の少年が駆け込んできた。
「シア姉ちゃん!」
ニコだった。
息を切らしながら、入口で立ち止まる。
「どうしました?」
「母ちゃんが、丸パン六つ!」
「いつものですね」
「あと、これ!」
ニコが差し出したのは、小さく折られた紙だった。
開くと、丸パン六つのほかに、「明後日、追加で十個お願いできるか」と書かれている。
「靴屋さんの注文ですか?」
「うん。職人さんが二人来るんだって」
「分かりました。確認しますね」
「十個くらいならできるだろ?」
ニコは悪気なく言った。
シアはすぐに「できます」と答えそうになり、口を止めた。
明後日は騎士団への納入日でもある。
銀鹿亭の定期注文も重なる。
十個だけなら、おそらく作れる。
けれど、自分だけで決めることではない。
「たぶん大丈夫だと思います。でも、オットーさんに確認してから返事をします」
「今分かる?」
「聞いてきます」
厨房へ入り、注文表を確認しているオットーへ紙を見せる。
「明後日、ニコの家から丸パンを十個追加でお願いしたいそうです」
「明後日か」
オットーが注文表を見る。
「騎士団四十。銀鹿亭三十。店頭分……十ならいけるな」
「では、お受けしていいですか?」
「ああ。ただし昼までなら問題ないが、朝一番は無理だ」
「時間も確認します」
シアは店へ戻った。
「ニコ、十個は大丈夫です。ただ、朝一番には用意できません。お昼までならできます」
「聞いてない」
「では、お母様に確認してもらえますか?」
「分かった。すぐ行ってくる!」
「今の六つを忘れています」
走り出しかけたニコが止まった。
「あ」
マルタが吹き出す。
「何しに来たんだい」
「パン!」
「ほら、持っていきな」
包みを受け取ったニコは、今度こそ店を飛び出していった。
しばらくして戻ってきて、「昼まででいいって!」と伝え、追加注文が正式に決まった。
シアは注文帳へ記入する。
明後日。
靴屋。
丸パン十個。
昼まで。
たったそれだけの注文だった。
けれど、シアは書き終えた文字を見て、少しだけ嬉しくなった。
「どうしたんだい?」
マルタが尋ねる。
「以前なら、最初に聞かれたとき、できると言っていたと思います」
「十個なら実際できたけどね」
「はい。でも、それは確認したから分かったことです」
「そうだね」
「できるかもしれないことと、私が決めていいことは違うんですね」
マルタは少し目を細めた。
「その通りだよ」
シアは帳面を閉じた。
できること。
できないこと。
できるかどうか、まだ分からないこと。
そして、自分が決めていいことと、誰かへ相談すること。
以前の世界では、その境目がほとんどなかった。
命じられたら、やる。
できなくても、やる。
間に合わなくても、自分のせい。
誰かの失敗を見つけられなくても、自分のせい。
だから、できないと言うことが怖かった。
今は少し違う。
「シア」
オットーが厨房から呼ぶ。
「はい」
「今日の成形、朝よりましになってたぞ」
突然の言葉に、シアは瞬きをした。
「本当ですか?」
「ああ。最後の方は揃ってた」
嬉しさが込み上げる。
「ありがとうございます」
「だから明日は、今日と同じ数やれ」
「はい」
「増やしてほしいなら言え」
シアは少し考えた。
もっとやってみたい。
けれど、いきなり全部を任されたいわけではない。
「……もう少し慣れたら、増やしたいです」
「分かった」
オットーはそれだけ言って厨房へ戻った。
断っても、機会がなくならなかった。
今はまだ同じ量。
慣れたら増やす。
そんな選び方もできる。
シアは自分の両手を見る。
粉が薄く残っている。
この手は、以前も働いていた。
家族のために。
婚約者のために。
誰かが困らないように。
誰かに怒られないように。
けれど今は、自分で選んだ場所で働いている。
知らないことを教わりながら、少しずつできることを増やしている。
そして、できないことまでできると言わなくても、ここから追い出されることはない。
店の外では、夕方の通りを人々が行き交っている。
仕事帰りの職人。
買い物袋を抱えた女性。
走っていく子ども。
その中に、さっきパンを抱えて帰ったニコの姿もあった。
「シア、そろそろ棚の残り数えてくれる?」
マルタの声がする。
「はい」
シアは棚へ向かった。
丸パン。
黒麦パン。
胡桃パン。
蜂蜜パン。
一つずつ確認し、帳面へ書いていく。
数字を記録することは、昔から得意だった。
けれど、同じ仕事でも今は意味が違う。
失敗しないためだけではない。
明日、必要な分を用意するため。
店を続けるため。
客へパンを渡すため。
そして、自分がここで働き続けるため。
シアは最後の数字を書き終えると、帳面を閉じた。
明日はオットーと仕入れ先へ行く。
新しいことを教わる日になる。
楽しみだと思う気持ちと、少し緊張する気持ちが同時にあった。
(分からなければ、聞けばいい)
全部できるふりをしなくていい。
自分にできることを一つずつ増やしていけばいい。
そう思えるようになったことが、今のシアには何より嬉しかった。




