第20話 いなくなってから気づくこと
翌朝、麦穂亭の厨房では、いつもより少し早い時間から仕入れ用の空袋が作業台の脇へまとめられていた。
シアは丸パンの成形を終えると、手についた粉を丁寧に払い、壁際に置かれた注文帳へ目を向けた。今日は午前の混雑が落ち着いたあと、オットーと一緒に普段の仕入れ先へ行くことになっている。
昨日訪ねてきたフォルン商会から、新しい取引条件を提示された。
単価だけを見れば魅力はある。
けれど、麦穂亭がこれまで小麦粉や黒麦粉を仕入れてきた相手との付き合いもあり、何より一度に仕入れなければならない量が多かった。
(安いから、変えればいいわけじゃない)
シアは昨日から何度か、そのことを考えていた。
伯爵家にいた頃にも、似たような判断をすることはあった。
同じ品なら安い方がいい。
けれど、安い品が必要な日に届かなければ意味がない。品質が安定しなければ、結果的に損をすることもある。
急ぎの注文へ対応してくれる相手。
少量でも届けてくれる相手。
支払いを数日待ってくれる相手。
長い取引の中で積み重なった信用には、帳簿へ数字として書き込めない価値がある。
「シア、そっち終わったか?」
オットーの声で思考を戻し、シアは成形した丸パンを確認した。
「はい。二十四個です」
「昨日より揃ってるな」
オットーは一つずつ見るのではなく、並んだ生地全体を眺めてから、そのうち二つを手に取った。
「こっちはいい。こっちは少し締めすぎだ」
「どの辺りでしょうか?」
「底を閉じるときだな。形を整えようとして触りすぎてる」
シアは指摘された生地を見つめる。
確かに、形だけなら隣のものより丸い。
けれど表面の張り方が少し違う。
「きれいにしようとしすぎました」
「売り物なんだから見た目も大事だ。ただ、見た目だけ整えて生地を駄目にしたら意味がない」
「はい」
「明日はそこ気をつけろ」
「分かりました」
注意されても、胸の奥が冷たくならない。
昨日より良くなった部分を認められ、そのうえで次に直す場所を教えられている。
シアはその違いを、もう何度も経験していた。
それでも、こうして指摘を受けるたびに少しずつ身体へ覚え込ませているような気がする。
間違いを指摘されることと、自分の価値を否定されることは違う。
「オットーさん」
「何だ?」
「仕入れ先では、私も質問していいでしょうか?」
「聞きたいことがあるなら聞け」
「私が決めてもいいのですか?」
「決めるのは俺とマルタだ」
即答された。
けれど、声はいつも通りだった。
「ただ、お前が気づいたことは言え。昨日みたいにな」
「はい」
自分の意見を言っていい。
ただし、最終的な決定権まで自分にあるわけではない。
その境界が、シアには分かりやすかった。
何もかも背負わなくていい代わりに、考えることまでやめなくていい。
「それと、祭り前の仕入れについても聞くぞ」
「秋穫祭ですね」
「ああ。騎士団の注文も始まったから、去年と同じ量じゃ足りん。だからって今から買い込みすぎると保管場所がなくなる」
シアは注文帳の端に書いておいた数字を思い出した。
「通常の注文と、騎士団分と、祭り前に増える見込みを分けて考えた方がよさそうですね」
「その辺りも聞いてみろ」
「分かりました」
返事をすると、オットーは次の生地へ向かった。
シアも作業を再開する。
外では朝の通りを荷車が通り、車輪の音が石畳の上を転がっていく。店側からはマルタの明るい声が聞こえ、そのあとに客の笑い声が続いた。
もうすっかり聞き慣れた麦穂亭の朝だった。
◇
午前の混雑が落ち着くと、シアはオットーと一緒に店を出た。
「行ってきます」
「はいよ。シア、オットーが余計なもの買おうとしたら止めとくれ」
マルタが会計台の向こうから言う。
「俺を何だと思ってる」
「前に新しい焼き型を三つ買って帰ってきた男」
「あれは必要だった」
「二つは半年使わなかっただろ」
シアは二人を見比べ、笑いを堪えながら尋ねた。
「今回は小麦粉と黒麦粉の話ですよね?」
「そうだ」
「なら、焼き型を売っている店には寄らないようにします」
「シアまでそっちにつくのか」
「頼んだよ」
マルタに送り出され、二人は通りへ出た。
仕入れ先は麦穂亭から歩いて十五分ほどの場所にあるという。
オットーの歩幅は大きいが、シアに合わせているのか、今日は少しゆっくりだった。
「足、まだ疲れてるか?」
突然尋ねられる。
「少しだけです。でも、昨日より軽くなりました」
「ならいい」
「マルタさんから聞いたのですか?」
「朝聞いた」
自分の知らないところで体調が共有されていたことに一瞬だけ驚いたが、それが監視のためではないことは分かる。
仕事の割り振りに必要だから伝えたのだろう。
「無理そうなら言えよ」
「はい。今は歩けます」
「なら行くぞ」
それだけで話は終わった。
通りを進むにつれて、パンや料理を売る店が多い一角から、商人や倉庫の集まる区画へ景色が変わっていく。荷車の数が増え、大きな麻袋を肩へ担いだ男たちが行き交い、開いた倉庫の奥には木箱や樽が積まれていた。
乾いた穀物の匂い。
木材と縄の匂い。
少し離れたところからは香辛料の強い香りも漂ってくる。
「ここだ」
オットーが足を止めた。
そこは大きな商会ではなかった。
間口の広い店の奥がそのまま倉庫になっており、入口には小麦の穂を束ねた簡素な看板が掛かっている。
中へ入ると、五十歳前後の男が帳面から顔を上げた。
「おう、オットー。今日は早いな」
「話がある」
「いきなり怖い言い方すんなよ。値上げならまだしてないぞ」
「違う」
男はそこでシアへ目を向けた。
「そっちのお嬢さんは?」
「うちのシアだ」
あまりにも自然に紹介され、シアは一瞬だけ反応が遅れた。
うちのシア。
所有されているような嫌な響きではなかった。
麦穂亭で働く者として、ごく自然に仲間へ含められた言い方だった。
「シアです。よろしくお願いします」
「おお、あんたが。最近入った子が帳面をずいぶん整理してくれたって聞いてるぞ」
シアはオットーを見る。
「誰からですか?」
「俺じゃない」
「マルタだろ。先週来たときに言ってたぞ」
男は笑いながら手を差し出した。
「俺はハンス・レーヴェン。ここで粉と穀物を扱ってる。麦穂亭とはもう十年以上の付き合いだ」
本文上必要な継続取引先となるため、シアはその名前を覚えるように意識した。
「よろしくお願いします、ハンスさん」
「よろしく。で、話って何だ?」
オットーが昨日受け取ったフォルン商会の条件表を取り出した。
「騎士団への納入が始まった」
「ああ、聞いてる。南の訓練場だろ?」
「週四日、四十個だ」
「そりゃ増えるな」
「昨日、騎士団経由でフォルン商会が来た」
ハンスの表情が少し変わった。
しかし怒るのではなく、差し出された条件表へ目を落とす。
「なるほどな」
「うちとしては、お前んとこを切る気はない」
「ありがたい話だが、商売だからな。条件が合わなきゃ仕方ない」
「だから先に聞きに来た」
オットーがシアを見る。
話せ、ということらしい。
シアは持参した注文帳を開いた。
「これまでの使用量に騎士団分を加えると、週ごとの必要量はこのくらい増える見込みです。ただ、追加注文の有無と秋穫祭前の店頭販売分がまだ確定していません」
ハンスが帳面を覗き込む。
「ずいぶん細かくつけてるな」
「まだ試している途中です。売れ残りと不足も分けています」
「騎士団の分も?」
「はい。試験期間は三日間すべて売れ残りがありませんでした。今後も同じとは限りませんが、基準量は大きく変わらないと思います」
「それで、うちに何を聞きたい?」
シアは少し呼吸を整えた。
「今までより仕入れ量を増やした場合、価格や配送条件を調整していただくことはできますか?」
ハンスはすぐに答えず、腕を組んだ。
「どれくらい増える?」
「最低でもこの程度です。ただ、祭り前は一時的に増えると思います」
「一気に全部持ってくか?」
「できれば分けたいです」
「理由は?」
「麦穂亭の保管場所では、一度に増やしすぎると湿気と置き場所の問題が出るからです。それに、使用量が見込みより少なかった場合、余らせることになります」
「なるほど」
ハンスはオットーを見る。
「この子、本当に最近入ったのか?」
「そうだ」
「どこで覚えたんだ、こんなこと」
その問いに、シアの指が帳面の端で止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、オットーは気づいたらしい。
「前のところで似たような仕事をしてたらしい。詳しいことは俺も知らん」
それ以上説明しなかった。
ハンスも深く追及しなかった。
「そうか。なら話が早い」
シアは静かに息を吐いた。
「分割ならできる。毎週決まった曜日に持っていく形なら、今より少し下げられるぞ。ただし、フォルンほどは下げられん」
「どのくらいですか?」
提示された数字を、シアは帳面へ書く。
フォルン商会よりわずかに高い。
ただし最低注文量は少なく、必要に応じて増減できる。
「急な追加は?」
オットーが聞く。
「今まで通り。倉庫にあれば出す」
「祭り前でも?」
「三日前までに言ってくれりゃ優先する。ただ、前日に倍よこせは無理だ」
「それはしない」
オットーが即答した。
シアは数字を見比べる。
「フォルン商会より単価は少し高いですが、余剰が出にくく、保管場所も圧迫しませんね」
「そうなるな」
「それと、急な追加へ対応していただける可能性があります」
ハンスが笑う。
「そっちは保証まではできねえぞ」
「はい。だから『可能性』です」
「しっかりしてるな」
オットーが鼻を鳴らした。
「余計なことまで背負おうとするところはあるがな」
「オットーさん」
「違うか?」
反論しようとして、シアは少し考えた。
「……以前よりは減ったと思います」
「ならいい」
ハンスが二人を見て笑う。
「じゃあ、今まで通りうちを使ってくれるってことでいいのか?」
オットーはシアへ視線を向けた。
「どう思う?」
最終決定を任されたわけではない。
意見を聞かれている。
シアは条件をもう一度確認した。
「私は、こちらでお願いする方が麦穂亭には合っていると思います。ただ、フォルン商会も乾物を扱っているそうなので、必要になれば別の商品で相談できるかもしれません」
「俺も同じだ」
オットーはハンスへ向き直った。
「粉は今まで通り頼む。量を増やす。配送日は後でマルタと決めて知らせる」
「了解。こっちも在庫を少し厚くしとく」
取引は、それで決まった。
誰かを切り捨てる必要もなかった。
安いという理由だけで飛びつく必要もない。
これまでの関係を守りながら、新しい選択肢を残すこともできる。
シアは帳面へ条件を書き込みながら、少しだけ不思議な気持ちになった。
伯爵家でも、自分は似たことをしていた。
複数の条件を比べ、相手との関係を考え、先の支出を予測する。
けれど、その仕事を誰かに認められた記憶はほとんどない。
できて当然だった。
できなければ叱られた。
今は、自分の考えを求められ、そのうえで最終的な責任は店主が負ってくれる。
(同じことをしているのに、こんなに違う)
「シア」
「はい」
「帰るぞ」
「はい」
ハンスへ挨拶し、二人は店を出た。
帰り道、オットーはしばらく何も言わなかった。
倉庫街を抜けたところで、ようやく口を開く。
「どうだった?」
「勉強になりました」
「それだけか?」
「……楽しかったです」
「仕入れの話が?」
「はい」
シアは少し恥ずかしくなった。
「変でしょうか?」
「いや。俺には分からんが、好きなら覚えろ」
「はい」
「パンもな」
「もちろんです」
オットーがわずかに笑った。
「店ってのは、焼くだけじゃ回らん。売るだけでも回らん。仕入れも帳面も掃除も客の顔を覚えるのも、全部いる」
その言葉を聞きながら、シアは歩く。
「私、そういう仕事が好きなのかもしれません」
「そういう?」
「いろいろなものを見て、足りないものを考えたり、数字を整理したりすることです」
「前にも言ってたな」
「はい。でも、前より分かった気がします」
好きだと思う。
それを口にすることに、もう以前ほど抵抗はなかった。
◇
同じ日の午後。
ベルフォード伯爵家では、一枚の請求書を前に三人の人間が言い争っていた。
「ですから、こちらは先月分です」
商人の男が困り果てた顔で説明する。
応接室の卓上には、二枚の請求書と一冊の古い帳簿が置かれていた。
グレゴールは椅子へ深く座り、険しい顔で紙を睨んでいる。その向かいには、屋敷へ織物や生活用品を納めている商会の担当者が座り、少し離れたところには家令とマーサが立っていた。
「先月分は払ったはずだ」
グレゴールが低い声で言う。
「それが、こちらで確認できておりません」
「こちらの帳簿には支払い済みとある」
「拝見しても?」
家令が帳簿を差し出す。
商人は該当箇所を確認し、首を傾げた。
「伯爵様。こちらは支払い済みの記録ではなく、支払い予定日の記録ではないでしょうか」
「何?」
「日付の横に印がありません」
「印?」
「以前は、ご入金いただいたあとに小さな丸印をつけておられました」
グレゴールの眉間の皺が深くなる。
「誰がだ」
家令が黙る。
マーサも視線を落とした。
「誰がやっていたと聞いている!」
声が大きくなり、マーサの肩が揺れた。
「……エリシア様です」
室内の空気が止まった。
グレゴールの顔がさらに険しくなる。
「またあいつか」
吐き捨てるような声だった。
「なぜ引き継ぎをしていない」
家令は答えられない。
グレゴールは卓を指で叩いた。
「屋敷の仕事を放り出して逃げたうえ、必要なことすら伝えていないのか」
商人がわずかに目を伏せた。
この家の内情へ口を出す立場ではない。
しかし、何かを言いたそうな表情だった。
「伯爵様」
家令が慎重に口を開く。
「エリシア様が屋敷を出られた前夜、引き継ぎを命じられたのはヴァルモント侯爵家に関する書類だったかと存じます」
グレゴールの指が止まる。
「だから何だ」
「屋敷全体の帳簿については、引き継ぎの指示が出ておりませんでした」
「指示がなくても必要だと分かるだろう!」
怒鳴り声が室内へ響いた。
家令は口を閉じた。
その瞬間、商人の男がわずかに眉を動かした。
だが何も言わない。
グレゴールは苛立ちを抑えられないまま帳簿をめくる。
「では、この印がなければ支払ったかどうか分からんというのか?」
「すべてではございません。ただ、エリシア様が確認していた取引については……」
「なぜ一人に任せていた!」
家令の顔に、ほんの一瞬だけ困惑が浮かんだ。
「伯爵様が、エリシア様へ確認するようにと……」
「私のせいだと言うのか?」
「そのような意味ではございません」
家令はすぐに頭を下げた。
グレゴールは舌打ちをした。
「もういい。支払い状況を全部確認しろ。今日中だ」
「すべて、でございますか?」
「聞こえなかったのか」
「……承知いたしました」
家令は青ざめた。
先月だけでも取引先は十を超える。
それぞれの請求書と帳簿、支払い記録を照合する必要がある。
これまで誰がやっていたのか。
その答えは、もう出ていた。
エリシアだった。
商人が静かに立ち上がる。
「では、こちらの請求については確認後に改めてご連絡いただければ結構です」
「待て」
グレゴールが呼び止める。
「支払いが遅れているという話を外でするな」
商人の表情がわずかに硬くなった。
「当商会は、お取引先の事情をむやみに外へ話すことはございません」
「ならいい」
商人は一礼した。
応接室を出ると、廊下の先まで案内してきた使用人が申し訳なさそうに頭を下げる。
「お手数をおかけいたしました」
「あなたが謝ることではありませんよ」
商人はそう答え、玄関へ向かった。
以前、この屋敷へ来たときには、請求書の確認で待たされた記憶がほとんどなかった。
若い令嬢が直接商人の前へ出ることは少なかったものの、必要な書類には付箋代わりの小紙が挟まれ、支払い予定と確認済みの区別が一目で分かるようになっていた。
あれを誰がしていたのか、今になって理解する。
商人は何も言わず、ベルフォード伯爵邸をあとにした。
◇
「どうして私がこんなものを確認しなければならないの?」
同じ頃、リリアナは自室で不満そうに書類を睨んでいた。
マーサが持ってきたのは、来月までに返事が必要な招待状の束だった。
「伯爵様から、今度こそご自身で内容を確認するようにと……」
「今度こそって何よ。今までも確認していたわ」
マーサは答えなかった。
実際には、以前のリリアナは招待状を一枚ずつ確認していなかった。
エリシアが日時、主催者、参加者、過去の関係、贈り物の必要性などを整理したあと、出席すべきものだけをリリアナへ伝えていた。
その作業がなくなった今、机の上には似たような封筒が何通も並んでいる。
「これは?」
「北部の子爵家です」
「行く必要ある?」
「私には分かりません」
「前はどうしていたのよ」
マーサの口が止まった。
リリアナの目が細くなる。
「何?」
「……エリシア様が、確認されていました」
またその名前だった。
最近、どこへ行っても聞く。
帳簿。
招待状。
贈り物。
仕立て屋への連絡。
食事会の日程。
ヴァルモント侯爵家への返事。
誰かが困るたびに、最後には同じ名前が出てくる。
「お姉様がいなくてもできるでしょう」
「もちろんでございます」
「だったら調べて」
「はい」
マーサは答えたものの、何をどう調べればいいのか分からなかった。
リリアナは苛立ちながら別の招待状を手に取る。
「それより、明日のヴァルモント家のお茶会の準備は?」
「明日……でございますか?」
「そうよ」
マーサの顔色が変わった。
「何よ」
「お茶会は、明後日では……」
「明日よ。ディートリヒ様からそう聞いたもの」
「ですが、こちらの予定表には……」
マーサが机の端に置かれた紙を取る。
そこには明後日の日付が書かれていた。
リリアナが眉を寄せる。
「誰が書いたの?」
「先週、私が……」
「なら、あなたの間違いじゃない」
「ですが、そのときリリアナ様から明後日と伺いました」
「私が間違えたって言うの?」
「い、いえ……」
マーサはすぐに目を伏せた。
リリアナは不機嫌そうに立ち上がる。
「もういいわ。ディートリヒ様に確認する」
その場で手紙を書こうとして、今度は便箋の前で手が止まった。
急な確認をどう書けば失礼にならないのか。
以前なら、文章を考える必要すらなかった。
エリシアが下書きを作り、それを少し直せば済んでいた。
「マーサ」
「はい」
「文面を考えて」
「私が、でございますか?」
「他に誰がいるのよ」
マーサは青ざめた。
◇
その日の夕方、ヴァルモント侯爵邸へ届いた手紙を読んだディートリヒは、露骨に眉をひそめた。
「何だ、これは」
同席していた母が視線を上げる。
「どうしたの?」
「リリアナからです。明日のお茶会の時間を確認したいと」
「明日?」
「明後日です」
ディートリヒは手紙を卓へ置いた。
文章も妙だった。
丁寧に書こうとしているのは分かるが、同じ意味の言葉が繰り返され、最後には「念のためお伺い申し上げます」とある。
「日程くらい覚えておけないのか」
「誰にでも間違いはありますよ」
母の声は穏やかだった。
だが、ディートリヒの苛立ちは収まらない。
「最近、こういうことが多すぎます。花の件もそうでした。先日は仕立て屋への返事も遅れた」
「あなたも確認すればよいでしょう」
「なぜ私がそこまでしなければならないのです」
口にした直後、母の視線が少し冷たくなった。
「婚約者だからではなくて?」
ディートリヒは黙った。
「相手にばかり求めるものではありませんよ」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味?」
「エリシアのときは、こんなことはなかった」
言ってから、室内が静かになった。
母は何も言わない。
ディートリヒ自身も、自分が口にした名前を意識した。
最近、何かが滞るたびに思い出す。
エリシアなら日程を間違えなかった。
エリシアなら相手の好みを覚えていた。
エリシアなら返事を忘れなかった。
だが、それは恋しさではない。
彼女の顔を思い出して胸が痛むわけでも、戻ってきてほしいと切実に願っているわけでもなかった。
ただ、不便なのだ。
以前なら起きなかった小さな問題が、何度も起きる。
「……あの子がしていたことを、あなたは随分軽く見ていたのね」
母が言った。
「書類を整理するだけだと思っていました」
「そう言っていたわね」
「実際、使用人を雇えばできることです」
「なら、雇ったら?」
返す言葉が詰まる。
母はティーカップを置いた。
「あなたは今も、エリシアさんでなければできないと思っているわけではないのでしょう?」
「当然です」
「なら、必要な仕事を整理して、できる者へ任せなさい。それがあなたの言う『使用人を雇えば済む』ということでしょう」
ディートリヒは黙り込んだ。
何を任せればいいのか。
まず、そこから分からない。
エリシアが何をしていたのか、正確に把握していなかったからだ。
「リリアナさんと婚約するのでしょう?」
「その予定です」
「なら、比べるような言葉は本人の前で口にしない方がいいわ」
「比べてなど――」
否定しかけて、止まる。
母はそれ以上追及しなかった。
ディートリヒは卓上の手紙を見下ろした。
明後日だと返せば済む。
ただ、それだけのことだ。
それなのに、胸の奥には苛立ちが残っていた。
◇
麦穂亭へ戻ったシアは、午後の仕事を終えたあと、ハンスから聞いた条件をマルタへ説明していた。
「なるほどね。少し安くしてくれるうえに、分けて持ってきてくれるなら助かる」
「はい。フォルン商会より単価だけなら高いですが、余らせる可能性は低くなると思います」
「じゃあ今まで通りハンスさんのところに頼もうか」
マルタがオットーを見る。
「ああ。フォルン商会には断る。ただ、乾物で条件が合うものがあれば話を聞いてもいい」
「それがよさそうだね」
話がまとまる。
シアは新しい仕入れ条件を帳面へ書き込んだ。
以前の数字は消さない。
変更した日付と、新しい条件を横へ加える。
「シア」
マルタが呼んだ。
「はい?」
「明日から騎士団の定期分が本格的に始まるだろ?」
「はい」
「しばらく朝は忙しくなると思う」
「分かっています」
「だから、無理そうになったら早めに言うんだよ」
シアは頷きかけてから、少し考えた。
「どのくらいで言えばいいでしょうか?」
「ん?」
「倒れそうになってからでは遅いですよね」
「そりゃそうだ」
「でも、少し疲れただけなら働けます」
マルタは手を止めた。
シアは真剣だった。
疲れを隠さないことは少しずつ覚えた。
けれど、どこから助けを求めていいのかは、まだ分からない。
「そうだねえ……」
マルタは少し考える。
「明日の分まで無理しないと終わらないと思ったら、かな」
「明日の分?」
「今日ちょっと疲れるくらいなら、飯食って寝れば戻るだろ。でも、今日無理したせいで明日の仕事ができなくなりそうなら、やりすぎだ」
オットーも横から口を挟む。
「あと、分からんのに黙って進めるな。手伝ってほしいなら言え」
「手伝ってほしい、と……」
「ああ」
シアはその言葉を胸の中で繰り返した。
手伝ってほしい。
助けてほしい。
似ているようで、少し違う。
どちらも、以前の自分には難しい言葉だった。
「すぐに言えるかは、分かりません」
正直に答えた。
「それでいいさ」
マルタは笑った。
「言えないかもしれないって言えたなら、前よりずっと分かりやすいよ」
シアも少し笑う。
「練習します」
「何でも練習にするねえ」
「覚えたいので」
「じゃあ明日、忙しくなったら使う機会があるかもしれないね」
「……できれば、忙しすぎない方がいいです」
「それは私も同感」
店内に笑い声が広がった。
シアは帳面へ視線を戻す。
明日の欄には、いくつもの注文が並んでいる。
南側訓練場。
丸パン二十五。
黒麦パン十五。
銀鹿亭。
いつもの定期分。
店頭販売分。
そして翌日には、ニコの家から頼まれた追加の丸パン十個もある。
仕事は増えている。
責任も増えている。
けれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
全部を一人で背負わなくていいと知っているからだった。
「明日の粉の量、もう一度確認してもいいですか?」
「いいぞ」
オットーが答える。
シアは計算を始めた。
必要量を書き出し、余裕分を加え、在庫と照らし合わせる。途中で一度数字が合わなくなり、最初から確認すると、黒麦粉の在庫を一袋多く数えていたことに気づいた。
「あ……」
「どうした?」
「私が間違えました。黒麦粉を一袋多く数えています」
「直せ」
「はい」
消して、正しい数字を書く。
誰も怒鳴らない。
誰も「こんなこともできないのか」と言わない。
オットーは修正後の数字を確認し、「これで合ってる」とだけ言った。
シアは帳面を見つめた。
(間違えた)
けれど、その次に続く言葉は、もう以前とは違っていた。
(だから、直した)
それで終わる。
間違いは、自分自身の価値を決める判決ではない。
ただ直すべき一つの数字だった。
確認を終えた頃、店の外は夕暮れに染まり始めていた。
マルタが戸口の看板を中へ入れ、オットーは翌朝使う道具を整えている。
シアも帳面を閉じた。
「今日はどうだった?」
マルタが尋ねる。
「仕入れのお話が楽しかったです」
「そこなんだね」
「はい。それから、少し疲れました」
「足?」
「足もです。でも、昨日ほどではありません」
「じゃあ今日はちゃんと食べて、ちゃんと寝な」
「はい」
シアは迷わず返事をした。
明日はまた仕事がある。
騎士団への定期納入が、本当の意味で日常の仕事として始まる。
自分にできることも、まだできないこともある。
それでいい。
全部をできる人間にならなくても、この場所では働いていける。
シアは閉じた注文帳へそっと手を置いたあと、それをいつもの棚へ戻した。
階段へ向かう途中、厨房から漂ってきたスープの匂いに気づき、少しだけ足を止める。
「オットーさん」
「何だ?」
「夕食、いただいてもいいですか?」
オットーは鍋の蓋を開けながら、当然のように答えた。
「そのために作ってる」
「ありがとうございます」
シアは席へ向かった。
腹が空いたから食べる。
疲れたから休む。
分からないから聞く。
間違えたから直す。
できないことは相談する。
どれも当たり前のことなのだろう。
けれどシアにとっては、その当たり前を一つずつ覚えていく毎日こそが、自分で選び直した人生そのものだった。




