第21話 忙しい朝に、頼るということ
まだ朝日が屋根の向こうから姿を見せる前、麦穂亭の厨房には窯の熱と発酵した生地の匂いが満ち始めていた。
南側訓練場への定期納入が本格的に始まる朝である。
試験として三日間パンを届けた経験はあったものの、今日からは「試し」ではない。週に四日、丸パン二十五個と黒麦パン十五個を基準として納め、それと並行して銀鹿亭をはじめとする以前からの注文や店頭販売分も焼かなければならない。
シアが厨房へ下りたときには、オットーがすでに発酵具合を確かめていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
返事をしたオットーは壁際の時計へ目を向けたあと、何も言わず頷いた。始業時刻より必要以上に早く下りてきていないことを確認したのだろう。
以前なら、それだけでもシアは落ち着かなかった。
仕事が増える日なのだから、普段より早く働かなければならないのではないか。自分だけ寝ていていいのかと、夜のうちから考えていたはずだ。
昨夜も一度は目が覚めた。
それでも階下へ下りなかったのは、オットーとマルタから繰り返し言われてきたことを思い出したからだ。
(早く起きたことと、早く働かなければならないことは別なのよね)
そう自分へ言い聞かせ、もう一度布団へ入った。
完全に不安が消えたわけではない。それでも、二度目に目を開けたときには、窓の外がわずかに明るくなっていた。
「今日は、何から始めればいいですか?」
「丸パンだ。騎士団分と店頭分を分けて成形する。昨日と同じ数をお前に任せるから、終わったら黒麦の方を手伝え」
「分かりました」
シアは手を洗い、エプロンを整えてから作業台へ立った。
そこには発酵を終えた生地が、扱いやすい大きさに分けられている。騎士団へ納めるからといって特別なパンを作るわけではなく、普段店頭へ並べているものと同じだ。
だからこそ、いつも通り作らなければならない。
生地を一つ手に取る。
昨日指摘されたのは、形を整えようとするあまり底を閉じるときに触りすぎることだった。
シアは丸くすることだけへ意識を向けず、生地の張り方を確かめながら手を動かした。最初の一つを置き、二つ目へ移る前にオットーの方を見る。
「いちいち俺を見るな」
すぐに言われた。
「……すみません」
「謝ることじゃない。全部確認してほしいのか?」
シアは自分の手元へ視線を戻した。
「いいえ。自分でやってみます」
「分からなくなったら聞け」
「はい」
そのまま二つ目へ手を伸ばす。
何も聞かずに進めることと、自分で判断して進めることは違う。
困ったら聞いていいと分かったうえで、自分でやってみる。
以前のシアには、その中間がなかった。
自分だけで完璧にやるか、失敗して叱られるか。
今は違う。
途中で確認してもいいし、間違えれば直せばいい。
そのことを意識すると、手の力も少し抜けた。
七つ目まで終えたところで、オットーが隣へ来た。
「見せろ」
シアは場所を空ける。
オットーは並んだ生地を眺め、二つだけ軽く指先で確かめた。
「昨日よりいい」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、三つ目は少し緩い。焼けないほどじゃないから、そのままでいい」
「はい」
「続けろ」
短い指示だったが、シアの口元は自然に緩んだ。
昨日よりいい。
その一言だけで、次の生地へ触れる指先が少し軽くなる。
◇
店側では、マルタが開店前の棚を整えていた。
騎士団への納入が始まったからといって、昔から来てくれている客の分を減らしすぎるわけにはいかない。とはいえ、一日に焼ける量には限りがある。
マルタは注文帳を開き、今日の欄をもう一度確認した。
南側訓練場。
丸パン二十五、黒麦パン十五。
銀鹿亭。
いつもの定期分。
赤い鍋亭。
黒麦パン十五。
そのほかに店頭販売分がある。
「増えたねえ」
独り言をこぼしながら、厨房へ目を向ける。
作業台ではシアが丸パンを成形していた。
最初に店へ来た日のことを思い出す。
痩せているわけではなかったが、どこか身体を小さく見せようとしているような娘だった。質問するたびに、答えを間違えないよう相手の顔色を窺っていた。
できることを聞けば、掃除、洗濯、料理、裁縫、計算、帳簿と次々に挙げた。
それだけ聞けば器用な娘だ。
けれどマルタが強く覚えているのは、能力よりも「役に立たなければここに置いてもらえない」とでも言いたげだった目の方だった。
最近は少し変わった。
髪には自分で選んだ空色の紐があり、仕事で分からないことがあれば質問するようになった。疲れたときに疲れたと言い、休日には友達と市場へ出かけ、戻ってきたときには楽しそうに買ったものの話までした。
それでも、根深く残っているものがあることもマルタは知っている。
忙しくなるほど、シアは自分へ仕事を集めようとする。
誰かが困っていると、自分がやればいいと思う。
昨日も「助けが必要なら言う」という話をしたばかりだった。
(さて、今日はどうなるかね)
マルタは棚の位置を直しながら、厨房へもう一度目を向けた。
助けを求める機会など、ない方がいい。
けれど必要になったとき、言えるかどうか。
そこは仕事の技術とは別に、シアが覚えていかなければならないことなのだろう。
「マルタ」
オットーの声が飛んでくる。
「何だい?」
「黒麦、予定より発酵が早い。先に窯入れる」
「分かった。店頭の丸パンは?」
「少し遅れる」
「開店には間に合う?」
「間に合わせる」
いつものような会話だった。
だが今日は注文が多い。
マルタは入口の札を表へ出しながら、いつもより忙しい朝になることを覚悟した。
◇
開店してしばらくすると、予想通り客が重なった。
最初に来たのはハロルドだった。
「おはよう。黒麦二つ頼む」
「おはようございます、ハロルドさん」
シアは焼き上がった黒麦パンを紙へ包みながら、数を確認する。
「今日は早いですね」
「騎士団に取られる前に来た」
ハロルドは冗談めかして言った。
「騎士団分は別に確保していますので、ハロルドさんの分がなくなるわけではありません」
「そう言って油断させる気だな」
「何のためにですか?」
「俺にも分からん」
会計台の向こうでマルタが笑う。
「朝から何やってんだい」
ハロルドが銅貨を置いている間に、入口の鈴が鳴った。
続いて二人。
さらに一人。
常連客だけではない。
通りがかった職人らしい男が丸パンを四つ頼み、その後ろでは若い女性が胡桃パンを選んでいる。
シアは一人ずつ注文を聞き、棚からパンを取り、金額を確認して包んでいった。
以前よりずっと慣れた。
客の声を聞きながら棚の残数も見る。
丸パンが減っている。
次の焼き上がりはまだ少し先だ。
「丸パン、あと八つです」
マルタへ伝える。
「次が出るまで?」
「オットーさんが先ほど、もう少しかかると」
「じゃあ八つ売れたら一度切ろう」
「はい」
客へ余計な期待をさせないため、棚の札へ「次の焼き上がりまで少々お待ちください」と書いた小札を準備する。
その間にも会計は続いた。
「シア姉ちゃん!」
聞き慣れた声がして、ニコが入口から顔を出した。
「おはようございます、ニコ」
「母ちゃんが、明日の十個忘れないでって!」
「覚えています。丸パン十個、お昼までですね」
「うん!」
「注文帳にも書いてありますから大丈夫ですよ」
ニコは安心したように頷いたが、今日は買い物ではなかったらしく、そのまま帰ろうとした。
ところが入口で別の客とぶつかりそうになり、慌てて横へ避ける。
「こら、走るんじゃないよ」
マルタに注意され、ニコは「はーい」と返しながら今度は歩いて出ていった。
その様子に店内の客から小さな笑いが起こる。
いつもの麦穂亭の朝。
ただし、今日はその「いつも」が少しだけ忙しい。
シアは次の客から代金を受け取った。
「丸パンを六つ」
「申し訳ありません。現在、丸パンはあと三つです。次の焼き上がりまで少しお待ちいただくことになります」
「どれくらい?」
シアは答える前に厨房を見る。
時間を勝手に決めない。
「確認してまいります」
厨房へ入ると、オットーが窯の前で次の天板を準備していた。
「丸パン、次はどのくらいで出せますか?」
「十五分くらいだ」
「分かりました」
戻って伝えると、客は「じゃあ黒麦を三つ混ぜて」と注文を変えた。
「丸パン三つと黒麦パン三つですね」
「ああ」
「ありがとうございます」
包みを作りながら、シアは棚の残数を更新する。
そのとき、裏口側から大きな音がした。
何かが倒れたような鈍い音だった。
シアの肩が跳ねる。
胸が一瞬だけ強く縮み、指先から力が抜けかけた。
しかし、すぐにオットーの声が聞こえた。
「袋が倒れただけだ! 何でもない!」
怒鳴っているのではない。
店側にも聞こえるよう大きな声を出しただけだ。
それでも身体は、意味を理解するより先に反応していた。
シアは一度息を吸った。
(驚いた。でも、ここは麦穂亭)
手元を見る。
丸パン三つ。
黒麦パン三つ。
まだ包みの途中だ。
「大丈夫?」
目の前の客が心配そうに尋ねた。
反射的に「大丈夫です」と言いかける。
けれど、少しだけ止まった。
「……少し驚きました。でも、もう平気です」
そう答えると、客は「ならよかった」と笑った。
シアも小さく頭を下げ、包みを完成させた。
怖くなかったことにはしない。
けれど、怖さや驚きがあったからといって、そのあと何もできなくなるわけでもない。
代金を受け取り、釣り銭を返す。
客が出ていったところで、マルタが隣からそっと声をかけた。
「少し水飲む?」
シアは身体の状態を確かめた。
胸の速さはもう戻り始めている。
「今は大丈夫です。もしまた苦しくなったら言います」
「分かった」
マルタはそれ以上勧めなかった。
そのことにも、シアは少し安心した。
◇
朝の混雑が落ち着き始めた頃、今度は厨房側で問題が起きた。
「シア、注文帳!」
オットーに呼ばれ、シアは会計台の下から帳面を持って厨房へ入った。
「はい」
「騎士団分、確認するぞ」
作業台には納品用の籠が二つ並んでいる。
丸パンと黒麦パンを別々に入れ、数を間違えないよう札をつける予定だった。
シアは帳面を開く。
「丸パン二十五個、黒麦パン十五個です」
「数えろ」
一緒に確認する。
丸パンは二十五。
黒麦パンを数え始め、十三個目でシアの指が止まった。
「……十三個です」
「何?」
オットーも数える。
やはり十三個しかない。
黒麦パンが二個足りない。
シアの胸が冷えた。
材料の計算をしたのは自分だ。
昨日、在庫数を一度間違えた。
そのあと修正した。
(私がまた間違えた?)
すぐに帳面を見る。
仕込み量は足りているはずだ。
頭の中で数字を追い始める。
赤い鍋亭十五。
騎士団十五。
店頭分。
朝に売れた数。
どこかで振り分けを間違えたのだろうか。
「シア」
オットーの声がする。
「はい」
「今、何考えてる」
「私が計算を間違えたのかもしれません」
「帳面見ろ」
「はい」
数字を追う。
計算上は合っている。
けれど現物が二つ足りない。
「帳面では、必要数を仕込んでいます」
「なら次は?」
オットーは答えを教えずに待った。
シアは周囲を見る。
店頭。
厨房。
焼き上がったパン。
冷ましている分。
「店頭へ出した数を確認します」
「行け」
店へ戻り、マルタへ尋ねる。
「黒麦パン、朝の最初に何個出しましたか?」
「最初?」
「はい。騎士団分が二個足りません。帳面では仕込み数は合っています」
マルタの表情が変わる。
「待って。最初の籠は……」
棚を見る。
売れた数と残りを計算する。
「ああ、二個多く出してる」
「二個?」
「私だ。朝、棚へ移すときに騎士団分の籠から取った」
マルタが額へ手を当てた。
「ごめん、シア。札を置く前だったから店頭分だと思った」
原因が分かった。
シアの身体から、張り詰めていた力が少し抜ける。
しかし、すぐに別の問題が浮かぶ。
「では、騎士団分が二個足りません」
「次の黒麦は?」
「まだ生地がある」
オットーが厨房から答える。
「ただ、いつもの出発時間には少し遅れる」
シアは時計を見る。
いつもの時間に出れば余裕を持って訓練場へ着く。
焼き上がりを待てば、到着は遅くなるかもしれない。
どうする。
足りないまま行くわけにはいかない。
十三個だけ先に持っていき、二個を後から届ける方法もある。
けれど二往復になる。
店も忙しい。
シアの頭の中で、いくつもの選択肢が一度に動き始めた。
「私、十三個を先に――」
言いかけて止まる。
昨日言われたことを思い出した。
全部を自分で処理しようとしない。
分からないなら相談する。
手伝ってほしいなら言う。
シアは口を閉じ、もう一度考えた。
自分一人で決める必要はない。
「オットーさん、マルタさん」
二人がこちらを見る。
喉が少し詰まる。
たった一言なのに、思ったより言いにくかった。
「……どうするのが一番いいか、相談してもいいですか?」
マルタの表情が柔らかくなった。
「もちろん」
オットーも厨房から出てくる。
「選択肢は?」
シアは指を折るのではなく、帳面へ目を落としながら整理した。
「今ある分だけ先に届けて二個を後から持っていくか、全部焼き上がるまで待ってから届けるかです。ただ、二往復すると店を長く空けますし、待つといつもの到着時間より遅くなる可能性があります」
「他には?」
問われ、シアは考える。
「……訓練場へ、遅れる可能性を先に伝えることはできますか?」
「使いを出すほどの距離じゃないが、使いを出したら結局人が減る」
マルタが店の外へ目を向ける。
「ローザのところの子に頼む手もあるけど、急に使いを頼むのはねえ」
「俺が持っていく」
オットーが言った。
シアは顔を上げた。
「でも、厨房が――」
「焼き上がるまで俺はここにいる。焼けたら全部揃えて、俺が荷車で持っていく。お前は店に残れ」
「オットーさんが?」
「ああ」
「でも、私の担当です」
「注文記録の担当だろ。配達を全部お前一人でやる契約じゃない」
シアは言葉を失った。
確かに、その通りだった。
いつの間にか、騎士団への注文を任されたことと、自分が毎回必ず届けなければならないことを同じものとして考えていた。
「それに、遅れるっていっても大した時間じゃない」
オットーは窯を見る。
「焼き上がりを待っても、食事には十分間に合う。向こうが『何時までに必ず』って条件をつけてるわけじゃない」
「……そうですね」
「だったら慌てて二往復する必要はない」
マルタがシアの肩へ触れようとして、一瞬だけ手を止めた。
シアがそれに気づく。
以前なら、突然触れられることに身体が固まることがあった。
マルタはもうそれを知っているから、無意識に触れずに止めたのだろう。
シアはその手を見たあと、自分からほんの少し近づいた。
マルタは確認するようにシアの顔を見てから、肩へ軽く手を置いた。
「私が間違えて二つ出しちまったんだから、あんたが全部何とかしなくていいんだよ」
「……はい」
「それに、今日は店も忙しい。こっちを手伝ってくれた方が助かる」
助かる。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた罪悪感が少し形を変えた。
配達へ行かないことは、仕事を放り出すことではない。
ここに残ることも仕事なのだ。
「分かりました」
シアは頷いた。
「お願いします、オットーさん」
「ああ」
そこまで言ってから、シアは一度息を吸った。
まだ言葉が足りない気がした。
昨日、オットーから言われたことが頭に浮かぶ。
手伝ってほしいなら言え。
シアはエプロンの端を握りそうになり、途中で指を開いた。
「……配達を、手伝ってください」
声は少し小さかった。
それでも、はっきり聞こえた。
オットーは大げさに褒めることも、驚くこともしなかった。
「分かった」
ただ、それだけ答えた。
マルタも何も言わず、肩へ置いた手を離す。
その自然さに、シアは救われた。
(言えた)
胸の奥でそう思ったとき、目の奥が少し熱くなりかけた。
けれど泣きたいわけではない。
何かが大きく変わったというより、固く閉じていた扉を少しだけ開けられたような感覚だった。
助けてください、ではない。
それでも「手伝ってください」と、自分から言えた。
「シア、客だよ」
入口の鈴が鳴る。
マルタの声に、シアは店側を振り返った。
「はい。行きます」
仕事は続いている。
シアは帳面を閉じると、店へ戻った。
◇
不足した二個を含め、黒麦パン十五個が揃ったのは、いつもの出発時間を少し過ぎた頃だった。
オットーは丸パン二十五個と合わせて荷車へ積み、納品票を受け取った。
「ここへ受け取りの印をもらえばいいんだな?」
「はい。もし数量について変更のお話があれば、その場では決めずに持ち帰ってください」
「分かってる」
「それから――」
言いかけたところで、オットーが片眉を上げる。
「俺は初めてのお使いに行く子どもか?」
「……違います」
「なら任せろ」
シアは口を閉じた。
不安がないわけではない。
自分が行かない配達。
自分がその場で確認できない受け取り。
けれど、オットーは店主である。
本来なら、シアよりずっとこの仕事の責任を持つ立場だ。
「お願いします」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
オットーが荷車を押して出ていく。
シアはその背中を見送り、姿が通りの向こうへ消えるまで戸口に立っていた。
「心配?」
後ろからマルタが尋ねる。
「……少し」
「オットーが?」
「いえ。オットーさんは大丈夫だと思います」
「じゃあ何が?」
シアは自分の気持ちを探した。
「自分が担当していたことを、誰かにお願いしたままにするのが、まだ少し落ち着かないんだと思います」
「なるほどね」
「何かあったら、自分がその場にいなかったせいだと思ってしまいそうで」
マルタはすぐに否定しなかった。
少し考えてから、棚の空いた場所へ新しいパンを並べる。
「じゃあ、何かあったらそのとき考えよう」
「そのとき?」
「そう。まだ何も起きてないのに、先に自分のせいにしても仕方ないだろ?」
シアは黙ってその言葉を受け止めた。
「もし向こうで数を間違えたら、オットーが確認する。条件の話が出たら持ち帰る。荷車の車輪が外れたら、あの人がどうにかする。それでもどうにもならなきゃ帰ってきて相談する」
マルタはそこでシアを見る。
「シアがいない場所で起きることまで、シアの責任じゃないよ」
胸の奥へ、その言葉がゆっくり落ちていく。
伯爵家では違った。
自分がその場にいなくても、気づかなかったことを責められた。
使用人が忘れた仕事。
リリアナがなくした物。
父の予定。
ベアトリーチェの機嫌。
ディートリヒへの返事。
知らなかったでは済まされなかった。
なぜ確認しなかった。
なぜ先に気づかなかった。
なぜ考えなかった。
そう言われ続けた。
「……難しいです」
シアは小さく笑った。
「何が?」
「自分の責任ではないことを、自分の責任にしないのが」
「そりゃ、ずっと逆をやってきたなら難しいだろうね」
マルタは何気なく返した。
「でも、難しいのと、できないのは別だよ」
その言葉に、シアは目を瞬いた。
「はい」
「ほら、客が来るよ」
通りから二人連れが近づいてくる。
シアは姿勢を整えた。
「いらっしゃいませ」
扉が開くと同時に、いつもの仕事へ戻った。
◇
南側訓練場へ着いたオットーは、門で少しだけ足止めされた。
「麦穂亭です。パンを持ってきた」
門番の若い騎士が一瞬目を丸くする。
「あれ? 今日はシアさんじゃないんですね」
「悪いか」
「いえ、そういう意味では」
隣にいた年上の騎士が笑いを堪えている。
「食事棟ですよ。荷車、そのまま入れて大丈夫です」
「分かった」
オットーは荷車を押して門を通った。
シアが何度も来ているだけあって、話は通っているらしい。
食事棟へ向かう途中にも、訓練を終えた騎士が荷車を見て声を上げた。
「パン来たぞ」
「今日は早いな」
「いや、いつもより少し遅くないか?」
「食えりゃいい」
好き勝手な声が聞こえる。
オットーは気にせず進んだ。
食事棟へ着くと、以前シアから話を聞いていた年配の調達担当者が出てきた。
「おや。今日は店主殿ですか」
「黒麦を店頭へ二つ多く出してしまってな。焼き直してた」
「なるほど。食事の時間には十分間に合っていますよ」
「ならいい」
一緒に数を確認する。
丸パン二十五。
黒麦パン十五。
間違いない。
受け取りの印をもらい、納品票を畳んだところで、後ろから聞き覚えのない女性の声がした。
「オットーさん?」
振り返る。
赤みのある茶髪を後ろでまとめた若い女性騎士が立っていた。
「誰だ?」
「ミレイユです。シアの友達の」
「ああ」
名前は何度も聞いている。
本人を見るのは初めてではないが、まともに話すのはこれが初めてだった。
「いつもシアがお世話になってます」
ミレイユが笑う。
「それはこっちの台詞だ。休みの日に連れ出してくれたんだろ」
「連れ出したって、人聞き悪いですね。ちゃんと誘いましたよ」
「そうか」
「シアは?」
「店だ」
ミレイユが少しだけ首を傾げた。
「何かありました?」
「何でそう思う」
「いつも配達に来てたから」
「店が忙しい。俺が代わっただけだ」
「なるほど」
ミレイユは納得したように頷いた。
「じゃあ帰りに寄ってみようかな」
「蜂蜜パン目当てか」
「それもあります」
「それも?」
「友達の顔を見に行くんです」
迷いなく言われ、オットーは少しだけ目を細めた。
シアが初めて友達ができたと報告した日の顔を思い出す。
あのとき、ひどく嬉しそうだった。
「来るなら夕方の方がいい。昼過ぎまでは忙しい」
「分かりました」
「蜂蜜パンが残ってる保証はないぞ」
「そこはシアにも言われてます」
ミレイユが笑う。
「ちゃんと店の人ですね、シア」
「あいつは最初から店の人だ」
オットーは当然のように答えた。
ミレイユの表情が少し柔らかくなる。
「そうですね」
そのとき、訓練場の方から数人の騎士が歩いてきた。
先頭にいる男を見て、周囲の者がわずかに姿勢を正す。
オットーも顔は知っていた。
麦穂亭へ蜂蜜パンを買いに来た男。
アルヴェイン公爵家の跡取り、レオンハルトだ。
「今日は店主が来たのか」
レオンハルトは荷車を見てから、オットーへ視線を向けた。
「ああ。シアは店だ」
「そうか」
それだけ答えたものの、ほんの一瞬だけ視線が荷車の後ろへ動いたことを、ミレイユは見ていた。
いつもなら、そこにシアがいる。
「何か問題でも?」
レオンハルトが尋ねる。
「店頭に黒麦を二つ多く出した。焼き直して少し遅れただけだ」
「食事には間に合っているな」
調達担当者が頷く。
「問題ありません」
「ならいい」
レオンハルトはそれ以上口を出さなかった。
オットーは少しだけ彼を見る。
身分の高い人間というものに、良い印象ばかりを持っているわけではない。
けれど、この男は少なくとも、パンが少し遅れた程度で威張り散らす人間ではないらしい。
「店へ来たときは、どうも」
オットーが言う。
「こちらこそ。蜂蜜パンはうまかった」
「そうか」
「丸パンもな」
その言葉で、オットーは思い出した。
シアが作った少し形の悪い丸パンを選んだと聞いている。
「シアが作ったやつか」
「ああ」
「今朝はあのときよりましなの作ってたぞ」
レオンハルトの眉がわずかに動いた。
「そうか」
「そのうち当たりを引けば食える」
「店主がそれを言うのか?」
「全部同じ形にできるまで待ってたら、いつまで経っても覚えん」
オットーは平然としている。
ミレイユが横で笑った。
「レオンハルト様、また買いに行かないとですね」
「お前は何を楽しんでいる」
「別に何も?」
その返事を聞きながら、オットーは納品票を懐へ入れた。
「じゃあ俺は戻る。店が忙しい」
「ああ」
レオンハルトが頷く。
ミレイユは手を上げた。
「シアに、あとで行くかもしれないって伝えてください」
「自分で言え」
「それもそうですね」
オットーは荷車を押し、食事棟を離れた。
その背中を見送りながら、ミレイユは隣のレオンハルトへちらりと視線を向けた。
彼はすでに食事棟へ目を向けている。
特別な表情はない。
だからミレイユも何も言わなかった。
シアへ余計なことを言わないと決めたのだから、こちらでも同じだ。
ただ、いつも配達へ来る人間が来なかったとき、その不在にすぐ気づいた人が自分以外にもいた。
それだけは、覚えておこうと思った。
◇
オットーが麦穂亭へ戻ったのは、昼の混雑が始まる少し前だった。
入口の鈴が鳴ると、会計台にいたシアがすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ああ」
「どうでしたか?」
尋ねた声には、隠しきれない緊張が混じっている。
オットーは荷車を裏へ回す前に、懐から納品票を出した。
「四十個、全部受け取り。遅れも問題なし」
受け取り印を見る。
シアの肩から力が抜けた。
「よかった……」
「そんな心配してたのか」
「少しだけです」
「顔は少しじゃないぞ」
マルタが横から言う。
シアは頬へ手を当てた。
「そんなに出ていましたか?」
「出てたね」
恥ずかしそうに視線を落としたあと、シアは納品票を受け取った。
「ありがとうございます、オットーさん」
「ああ」
「それから……配達を手伝ってくださって、ありがとうございました」
「仕事だ」
「はい。でも、私がお願いしたので」
オットーは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、どういたしまして」
その返事に、シアは笑った。
「向こうで何かありましたか?」
「ミレイユに会った。夕方来るかもしれん」
「ミレイユさんに?」
表情がすぐに明るくなる。
「ああ。それと公爵家の坊ちゃんにも会った」
「レオンハルト様ですか?」
「そうだ。パンがうまかったってさ」
「どのパンでしょう」
「蜂蜜と、お前が作った丸パン」
シアは一瞬だけ目を見開いた。
「覚えていらしたんですか?」
「本人に聞け」
オットーはそれ以上説明せず、荷車を裏へ運んでいった。
シアは納品票を持ったまま、その背中を見送る。
レオンハルトが自分の作った丸パンを覚えていた。
ただ、それだけのことだ。
客がパンを覚えていてくれた。
働く者として喜んでいいことなのだろう。
(嬉しい)
胸の内で素直に言葉へすると、ほんの少し頬が熱くなった。
なぜなのかまでは考えない。
今は、パンを褒めてもらえたことが嬉しい。
「シア」
マルタに呼ばれる。
「はい」
「その納品票、しまう前に記録お願い」
「分かりました」
シアは帳面を開いた。
南側訓練場。
四十個。
丸パン二十五。
黒麦パン十五。
全数受け取り。
遅れによる問題なし。
今日起きたことも、備考へ短く残す。
黒麦パン二個を店頭分へ誤って振り分け。
追加焼成。
次回から納品用籠へ先に札をつける。
書き終えたところで、マルタが覗き込んだ。
「最後のは?」
「同じことを防ぐためです。今日はパンを入れてから札をつける予定でしたから、次からは空の籠へ先に『騎士団分』と札をつければ間違えにくいと思います」
「いいね。それでいこう」
「はい」
「私が間違えたって書かなくていいの?」
マルタが冗談めかして尋ねる。
シアは少し考えた。
「誰が間違えたかより、なぜ間違えたかの方が次には必要だと思います」
マルタは数秒だけシアを見つめた。
「何でしょう?」
「いや。いいこと言うようになったと思って」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
マルタは笑って店側へ戻った。
シアは自分が書いた文字を見る。
以前なら、誰が失敗したかを記録することが何より重要だった。
責任を明らかにするため。
叱る相手を決めるため。
同じ失敗を防ぐことより、誰のせいなのかを決めることが先だった。
ここでは違う。
失敗した人を責めるためではなく、次に困らないために記録する。
(私も、そうしてもらっている)
黒麦粉を一袋多く数えたときも、責められなかった。
だから今日、マルタの間違いを責める理由もない。
ただ直して、次へ進めばいい。
◇
昼食を終えたあと、シアは裏庭の古い長椅子へ腰を下ろした。
朝から忙しかったため、足だけではなく肩にも疲れが残っている。厨房の熱気から離れた裏庭には秋へ向かう風が流れ、壁際の香草が小さく揺れていた。
手には水の入った木杯がある。
以前なら、この程度の疲れで座っている自分を責めていただろう。
今日は違った。
マルタから「休憩しておいで」と言われたとき、素直にここへ来た。
そして座った。
(疲れている)
それを認める。
今朝は驚くこともあった。
パンが二つ足りないと分かったときには、自分の身体が昔のように冷たくなった。
失敗。
不足。
間に合わないかもしれない。
その言葉が揃っただけで、何か恐ろしいことが起きるような気がした。
けれど実際に起きたのは、相談だった。
誰が悪いと怒鳴るのではなく、どうすれば間に合うかを三人で考えた。
そしてシアは言った。
配達を手伝ってください、と。
思い出すと、まだ少し胸がざわつく。
頼った。
自分がやるはずだった仕事を、他の人へ頼んだ。
それなのに、誰も嫌な顔をしなかった。
オットーは戻ってきた。
納品も終わった。
店も回っている。
(私が全部やらなくても、終わった)
以前にも似たことを思った。
自分が休んでも店は回る。
自分がいなくても、すべてが壊れるわけではない。
今日はそこから、もう一歩だけ先へ進んだ気がする。
自分ができないときに誰かへ頼っても、仕事は回る。
頼ることは、役に立たないことではない。
「難しいな……」
思わず小さくこぼした。
「何が?」
突然、塀の向こうから声がして、シアは驚いて顔を上げた。
ローザだった。
隣の青果店との境にある低い塀の向こうで、空箱を抱えている。
「ローザさん」
「ごめんごめん。独り言だった?」
「はい。少しだけ」
「聞かなかったことにしようか?」
シアは迷ってから、首を横へ振った。
「大丈夫です。仕事で、人に頼るのは難しいと思っていました」
「そりゃ難しいときもあるね」
ローザは空箱を地面へ置いた。
「でも、一人で店やってる人間だって、結局誰かに頼ってるよ。野菜作る人がいなきゃ私は売れないし、荷車引いてくれる人がいなきゃ店まで届かない」
「そうですね」
「全部自分でやってる人なんて、たぶんいないよ」
ローザはそう言ってから、シアの木杯を見る。
「休憩中?」
「はい」
「なら休んどきな。私も戻るから」
「ローザさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「今のお話です」
「別に大したこと言ってないよ」
ローザは笑い、空箱を持ち上げる。
「夕方、いい林檎が残ったら見せに行くよ」
「はい。お願いします」
塀の向こうから姿が消える。
シアは木杯を両手で包み、残った水を飲んだ。
全部自分でやっている人はいない。
当たり前のことなのかもしれない。
けれど、自分の中へ落ち着くまでには、まだ何度も経験する必要がありそうだった。
◇
夕方の鐘が鳴る少し前、本当にミレイユが麦穂亭へやってきた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、ミレイユさん」
シアが笑う。
昨日一日会わなかっただけなのに、顔を見ると安心する。
それを以前なら不思議に思ったかもしれない。
今は、友達だからなのだろうと思える。
「オットーさんから聞きました。訓練場で会ったんですね」
「うん。今日はシアじゃなかったから、最初ちょっとびっくりした」
「朝、少し問題があって」
「大丈夫だった?」
ミレイユの声がわずかに真面目になる。
「はい。黒麦パンを二個、店頭へ多く出してしまったんです。追加で焼いて、オットーさんに届けてもらいました」
「なるほど。食事には普通に間に合ってたよ」
「よかったです」
「それで、シアは店に残ったんだ」
「はい」
シアは少し迷ったあと、続けた。
「私から、オットーさんに配達を手伝ってくださいとお願いしました」
ミレイユの目がわずかに見開かれた。
その反応に、シアは少し恥ずかしくなる。
「そんなに驚きますか?」
「ごめん。悪い意味じゃなくて」
「分かっています」
ミレイユは少し考えてから笑った。
「そっか。言えたんだね」
「はい」
「どうだった?」
シアは朝の感覚を思い出す。
「怖くは……なかったです。言う前は、少し緊張しました」
「うん」
「でも、オットーさんが普通に『分かった』と言ってくださって、それで終わりました」
「それが普通だからね」
「はい。最近、それが少し分かってきました」
ミレイユは何も教え諭すようなことは言わなかった。
ただ嬉しそうに頷いた。
「じゃあ今日はお祝いに蜂蜜パンを三つ」
「お祝いと関係がありますか?」
「あるよ」
「二つではなく三つ食べたいだけでは?」
「……それもある」
二人で笑う。
シアは棚を見る。
「今日は四つ残っています。三つでも大丈夫です」
「じゃあ三つ」
「一つは夜用ですか?」
「今日は本当に夜まで残す」
「前にも聞いた気がします」
「今日は本当」
シアは蜂蜜パンを三つ包みながら、名前を書く必要がないことに少しだけ物足りなさを感じた。
予約ではなく、その場で買っているから当然だ。
「そういえば」
ミレイユが会計をしながら声を落とす。
「レオンハルト様も、シアがいないの気づいてたよ」
シアの手が少し止まる。
「そうなのですか?」
「いつも来てる人が違えば気づくでしょ」
「そうですね」
シアは納得した。
「オットーさんから、私が作った丸パンのことも聞きました」
「覚えてたよ」
「……嬉しいです」
今度は隠さず言えた。
ミレイユが少しだけ笑う。
「うん」
「何ですか?」
「何でもない」
「前にもそう言っていました」
「今日は本当に何でもないよ」
シアは少し疑うように見たものの、ミレイユはそれ以上何も言わなかった。
まだ、何かを決めつける必要はない。
それより今は、シアが自分の作ったパンを褒められて素直に喜んでいることの方が大切だった。
「じゃあ、また来るね」
「はい。お待ちしています」
ミレイユが蜂蜜パンを抱えて店を出る。
シアはその背中を見送り、自然に笑っている自分に気づいた。
◇
閉店後、三人でその日の記録を確認した。
騎士団への納入は無事終了。
店頭販売も大きな不足なし。
銀鹿亭と赤い鍋亭への注文も問題なく渡せた。
忙しい一日だったが、仕事そのものはすべて終わっている。
「シア」
オットーが帳面を閉じる前に言った。
「今日どうだった」
昨日も似たことを聞かれた。
けれど今日は、答えが少し違う。
「忙しかったです」
「それは見りゃ分かる」
「途中で驚きましたし、黒麦パンが足りないと分かったときは怖くなりそうでした」
マルタが静かに聞いている。
「でも、相談できました」
「ああ」
「それから、手伝ってほしいと言えました」
オットーは頷いた。
「言ってたな」
「……言ってよかったです」
口にすると、胸の奥が少し温かくなる。
シアは自分の両手を見た。
今日も粉が爪の近くに残っている。
「私、ずっと、誰かに頼ると迷惑になると思っていました」
マルタが何も言わず待ってくれる。
「自分の仕事を誰かにお願いしたら、その人の仕事を増やします。だから、できるなら自分で全部やらなければいけないと思っていたんです」
「できないときも?」
マルタが尋ねる。
シアは少しだけ黙った。
「……できないと言うこと自体が、駄目だと思っていました」
声が小さくなる。
過去のことを詳しく話したわけではない。
それでも、自分がどう感じていたのかを、以前よりは言葉にできる。
「でも今日は、私がお願いしたことで、ちゃんと仕事が終わりました」
「そうだな」
オットーが答える。
「店ってのはそういうもんだ。一人で全部やるなら、俺もマルタもお前もいらん」
「それは極端じゃないかい?」
「分かりやすいだろ」
マルタが呆れたように笑う。
シアもつられて笑った。
「明日も忙しいですか?」
「明日は騎士団はない。ただ、靴屋の十個がある」
「では、今日よりは少し少ないですね」
「たぶんな」
「たぶん?」
「店頭の客は読めん」
それは確かにそうだ。
シアは注文帳を見た。
予定できること。
予定できないこと。
自分でできること。
誰かへ頼ること。
すべてを事前に完璧に整えることはできない。
だから、そのとき考えればいい。
「今日は疲れました」
シアは自分から言った。
マルタが笑う。
「うん。顔に出てる」
「でも、嫌な疲れではありません」
「なら飯食って寝な」
「はい」
立ち上がろうとして、シアはふと止まった。
「オットーさん」
「何だ?」
「また必要になったら、手伝ってくださいとお願いしてもいいですか?」
オットーは一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつものぶっきらぼうな顔に戻る。
「必要なら言え」
「はい」
「ただし、できることまで全部押しつけるなよ」
「それはしません」
「ならいい」
マルタが声を上げて笑った。
シアも笑う。
笑いながら、胸の奥へ静かな安心が広がっていく。
頼ってもいい。
それは、何もできない人間になることではない。
できることを自分で行い、できないことや一人では難しいことがあれば、誰かへ声をかける。
そして、誰かが困っていれば、自分もできる範囲で手を貸す。
それだけのことだった。
(いつか、「助けてください」と言うこともできるのかな)
まだ、その言葉を声にするところまでは想像できなかった。
けれど以前のように、絶対に無理だとも思わない。
今日、「手伝ってください」と言えた。
それなら、今はそれで十分だった。
夕食の支度をするオットーの横で、マルタが皿を並べている。シアも手伝おうとしてから、自分が朝から働き続けていたことを思い出し、まず椅子へ腰を下ろした。
「今日は座って待ってていいんですか?」
「聞く前にもう座ってるじゃないか」
マルタに言われ、シアは自分が先に座っていたことへ気づいた。
「……本当ですね」
「成長したねえ」
「そこまででしょうか」
「最初の頃なら、鍋まで奪って働こうとしてたよ」
オットーが鍋の蓋を押さえながら言う。
「奪ってはいません」
「似たようなもんだ」
シアは少し頬を膨らませたものの、すぐに笑ってしまった。
窓の外では日が沈み、通りの明かりが一つずつ灯り始めている。
遠くでは誰かが店じまいをする音がし、荷車の車輪が石畳をゆっくり通り過ぎていった。厨房には温かなスープの匂いが広がり、今日焼いたパンの残り香と混ざっている。
忙しい一日だった。
小さな失敗もあった。
驚くこともあった。
自分だけでは処理できないこともあった。
それでも仕事は終わり、夕食の時間になった。
シアは目の前へ置かれた皿を見て、両手を膝の上でゆっくりほどいた。
「いただきます」
誰かへ頼ったからといって、自分の価値が減るわけではない。
そのことを、今日は昨日より少しだけ信じられる気がしていた。




