第22話 ここにいたいという気持ち
騎士団への定期納入が始まってから数日が経ち、《麦穂亭》の朝には以前とは少し違う流れが生まれていた。
納入のある日は、店頭販売分や昔からの定期注文と混ざらないよう、空の籠へ先に札をつけておく。丸パン二十五個、黒麦パン十五個という数量も注文帳だけに残すのではなく、厨房側の小さな板へ書き出し、焼き上がったものを移すたびに確認できるようにした。
黒麦パンを二つ店頭へ出してしまった日の失敗から決めた方法だったが、それ以降は同じ間違いが起きていない。
「二十三、二十四、二十五。丸パンは揃っています」
シアは籠の中を確認してから札の数字へ小さな印をつけ、隣の籠へ視線を移した。
「黒麦も十五個あります。今日は大丈夫です」
「今日は、じゃなくて今日もだ」
作業台の向こうでオットーが言う。
シアは顔を上げた。
「この前は二つ足りなかったので」
「あれも最終的には四十揃っただろ」
「そうですけれど」
「なら納品はできてる」
言われてみればその通りだった。
途中で問題が起きたことと、仕事そのものが失敗したことを、無意識に同じものとして扱っていたらしい。
「……今日も大丈夫です」
「そうだ」
オットーは満足そうに頷いた。
以前なら、こんなやり取りをする余裕はなかったかもしれない。
注文が増えれば、その分だけ失敗してはいけないという緊張が増していた。今も責任を感じないわけではないが、失敗しないことだけではなく、失敗しにくい仕組みを作ることや、何かあったときに修正することまで仕事なのだと少しずつ理解し始めている。
シアは納品票を確認し、帳面へ挟んだ。
「今日は私が届けてきます」
「ああ。店はこっちでやる」
「分かりました」
荷車の持ち手を握ったところで、オットーがシアを見る。
「重さは?」
問われた意味を理解し、シアは一度荷車を動かして確かめた。
以前なら「大丈夫です」と即答していただろう。
今は腕や腰へかかる重さを確認する。
「問題ありません。ただ、帰りに仕入れの品を載せるなら重くなりそうです」
「今日は帰りに買うものはない」
「では大丈夫です」
「途中で疲れたら?」
「休みます」
「よし」
確認が終わる。
マルタが店側から顔を出した。
「気をつけてね」
「はい。行ってきます」
扉を開けると、朝の空気が頬へ触れた。
秋穫祭が近づいているためか、通りには普段より荷車が多い。商人たちは店先へ色とりどりの布を吊るし始め、広場へ続く道では木組みの飾り台を運ぶ男たちの姿も見えた。
祭りそのものはまだ先だ。
けれど、街は少しずつその日に向かって動いている。
シアも荷車を押しながら、人々の間を歩いた。
最初にこの街へ着いた日のことを思い出す。
何も知らなかった。
どこで眠れるのかも、仕事が見つかるのかも分からなかった。
それでも、戻らないと決めて歩いた。
今は同じ街の道を、《麦穂亭》のパンを載せた荷車と一緒に歩いている。
(ずいぶん変わった)
まだ長い時間が経ったわけではない。
それなのに、街の見え方がまるで違っていた。
◇
南側訓練場の門が見えてくると、顔を覚えている年上の門番が先に手を上げた。
「おはよう、麦穂亭」
「おはようございます」
「今日はシアさんなんだな」
「はい。先日はオットーさんがお世話になりました」
「世話ってほどじゃないよ。むしろパンを持ってきてもらってるのはこっちだ」
門番は荷車を覗き込んだ。
「今日は四十?」
「はい。丸パン二十五個と黒麦パン十五個です」
「じゃあいつものところへどうぞ」
「ありがとうございます」
門を通る。
最初にここへ来たときには、剣を持つ騎士が何人もいるだけで身体へ力が入った。
今も剣そのものが平気になったわけではない。
腰へ武器を下げた男が急に近づけば、身体が反応することもある。
それでも、この場所のすべてが怖いわけではなくなった。
門番。
食事棟。
荷車を置く場所。
受け取りを担当する年配の男。
ミレイユが訓練している場所。
少しずつ、知らない場所ではなくなっている。
「おはようございます」
食事棟へ着くと、調達担当者が書類を持って出てきた。
「おはようございます。今日はシアさんですね」
「はい。四十個お持ちしました」
「確認しましょう」
二人で数える。
丸パン二十五。
黒麦パン十五。
問題はない。
「確かに受け取りました」
印をもらい、シアは納品票を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。今のところ、量もちょうどいいですよ」
「不足はありませんか?」
「ありません。多少人数が増える日は他の食事で調整していますから、パンを毎回変動させるより扱いやすいですね」
その言葉に、シアは少し安心した。
「もし継続して不足するようでしたら、《麦穂亭》へお知らせください。ただ、増量についてはその場でお約束できませんので、一度持ち帰って確認いたします」
「分かっていますよ」
調達担当者は穏やかに笑った。
「最初からその条件でお願いしていますから」
「はい」
自分で決められないことを、その場で決めない。
それも以前より自然に言えるようになった。
「シア!」
聞き慣れた声がして、シアは振り返った。
訓練場の方からミレイユが歩いてくる。今日は訓練の途中らしく、額に薄く汗を浮かべ、髪もいつもよりきつくまとめられていた。
「ミレイユさん。おはようございます」
「おはよう。今日は来たんだね」
「はい。今日は問題なく四十個揃いました」
「この前もちゃんと四十個来てたよ」
「そうなのですが、今日は最初から揃いました」
「なるほど。それは大事だ」
ミレイユは真面目な顔で頷いたあと、すぐに笑った。
「市場のときより元気そう」
「市場の日も元気でしたよ」
「帰る頃は結構疲れてたでしょ」
「……それはそうです」
「でも楽しかった?」
シアは迷わず頷いた。
「楽しかったです」
「ならよかった」
市場へ出かけた日の記憶は、今でも鮮明だった。
仕事ではない時間。
何かを買わなければならないから歩いたのではなく、見たいものを見るために店へ入り、食べたいものを自分で選んだ。
ミレイユから意見を求められ、自分がいいと思った方を答えた。
そして、疲れる前に二人で休んだ。
何も生み出していない時間だったはずなのに、無駄だったとは思わない。
「また行きましょうね」
シアが言う。
ミレイユが目を瞬く。
「シアから言ってくれるんだ?」
「……駄目でしたか?」
「逆。嬉しい」
ミレイユの笑顔が大きくなる。
「行こう。次はどこがいい?」
「まだ決めていません」
「じゃあ、今度考えよう」
「はい」
次。
その言葉が自然に存在する。
一度だけではない。
また会う。
また出かける。
また話す。
そういう約束が、自分の生活の中へ増えていく。
「シア、そろそろ戻らなくて大丈夫?」
ミレイユが尋ねた。
シアは時計の位置を確かめる。
「そうですね。店へ戻ります」
「うん。またね」
「また」
荷車を押して歩き出す。
数歩進んでから、シアは振り返った。
ミレイユはすでに訓練場へ戻ろうとしていたが、シアの視線に気づいてもう一度手を振った。
シアも小さく手を振り返す。
それから、今度こそ《麦穂亭》へ向かった。
◇
午前の仕事が落ち着いた頃、店の裏口に一台の荷車が止まった。
「邪魔するよ」
太い声とともに入ってきたのは、粉袋を肩へ担いだハンス・レーヴェンだった。
五十代半ばほどの男で、日に焼けた顔に灰色の髭を短く整えている。大柄な身体には長年穀物袋を運び続けてきた者らしい厚みがあり、オットーとは十年以上取引を続けている。
「来たか」
オットーが厨房から出てくる。
「頼まれた分だ。黒麦が二袋増えてる」
「ああ」
「祭り前にまた増やすなら、早めに言ってくれ。麦がなくなるわけじゃないが、街へ入る荷車が混む」
「分かった」
シアは帳面を持って裏口へ向かった。
「こんにちは、ハンスさん」
「おう、帳面の嬢ちゃん」
「シアです」
「知ってるよ」
ハンスが笑う。
最初にまともに話したとき、シアが注文量と価格を細かく確認していたため、いつの間にか「帳面の嬢ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
「数量を確認します」
「好きなだけ確認しな」
袋を一つずつ数える。
小麦粉。
黒麦粉。
注文通りだ。
「間違いありません」
「こっちが納品書」
受け取った紙へ目を通す。
数量。
単価。
合計。
シアは途中で指を止めた。
「ハンスさん」
「ん?」
「黒麦粉の単価が、前回より少し上がっています」
「ああ。よく見てるな」
オットーも近づいてくる。
「上がったのか?」
「黒麦だけだ。今週から仕入れ値が上がった。北側の収穫が思ったより少なかったらしい」
「どれくらい続く?」
「分からん。祭りが終わる頃には落ち着くかもしれんし、そのまま冬まで行くかもしれん」
シアは帳面を開いた。
値上がり幅は大きくない。
しかし、騎士団への定期納入が始まり、黒麦パンを焼く量は以前より増えている。
積み重なれば無視できない。
「今の黒麦パンの価格を維持した場合、利益はどのくらい減りますか?」
シアはオットーを見る。
「計算してみろ」
「はい」
帳面と納品書を持って会計台へ移動する。
一袋から使える量。
一個当たりに必要な粉。
燃料。
ほかの材料。
完全に正確な原価を一瞬で出せるわけではないが、現在の記録からおおよその影響は計算できる。
数字を書きながら、シアは妙な感覚を覚えていた。
嫌ではない。
むしろ楽しい。
価格が変わる。
その結果、何が変わるのか。
どこまでなら現在の価格で耐えられるのか。
注文量が増えればどうなるのか。
数字同士がつながって、一つの店の動きになっていく。
(私、こういうことが好きなのね)
以前から計算は得意だった。
伯爵家でも帳簿を扱っていた。
けれど、そこでは「できて当然」の仕事だった。
終わらせても誰かが喜ぶわけではなく、間違えれば責められる。
今は違う。
自分が出した数字をもとに、三人で考える。
「今の値上がりだけなら、すぐに黒麦パンの価格を変えるほどではないと思います」
シアは計算結果を見せた。
「ただ、騎士団の注文分がありますので、以前より影響は大きくなっています。この価格が続くか、さらに上がるようなら、もう一度考えた方がいいです」
オットーが数字を見る。
「そうだな」
ハンスも横から覗き込む。
「俺に値下げしろって話じゃないんだな」
「無理にお願いして、ハンスさんが困る価格になっても続かないと思います」
シアは答えた。
「ただ、今後どのくらい変わりそうか分かれば、こちらも準備できます」
「なるほど」
ハンスは顎髭を撫でる。
「次の仕入れ前には分かる範囲で知らせる。それ以上は約束できん」
「十分です。ありがとうございます」
「しかしオットー」
「何だ」
「いいの拾ったな」
その言葉に、シアの身体がわずかに固まった。
拾った。
悪意がないことは分かる。
それでも一瞬、自分が誰かの所有物のように感じた。
オットーはシアの変化に気づいたらしい。
「拾ったんじゃない」
ハンスへ向かって、淡々と言う。
「シアがうちを選んで働きに来たんだ」
シアは顔を上げた。
ハンスも「ああ」と頷く。
「そりゃそうだな。悪かった、シア」
「……いえ」
反射的にそう答えてから、少し考える。
「少し驚きました。でも、悪く言ったわけではないことは分かっています」
「そう言ってもらえると助かる」
ハンスは素直に頭を下げた。
「次から気をつける」
「ありがとうございます」
それで終わった。
怒鳴り合いにもならない。
自分が不快に感じたことを完全に隠す必要もなかった。
オットーが横から口を挟む。
「で、粉はいつまでそこに置いとく」
「今運ぶよ。相変わらずせっかちだな」
「店の裏口塞いでる奴に言われたくない」
二人がいつもの調子で言い合いながら袋を運び始める。
シアも手伝おうとしたが、オットーに止められた。
「お前は帳面」
「でも――」
「袋運ぶのと帳面、どっちがお前の仕事だ」
聞かれて、シアは少し考えた。
「今は、帳面です」
「ならそっちやれ」
「はい」
以前なら、それでも袋を運ぼうとしたかもしれない。
今は机へ戻った。
納品書を帳面へ転記し、黒麦粉の単価変更も記録する。
それから、次回の仕入れ時に価格を再確認するという印をつけた。
◇
昼を過ぎた頃、店の客足が一度落ち着いた。
シアは会計台で帳面を整理していたが、厨房からマルタに呼ばれた。
「シア、ちょっとこっち来て」
「はい」
何か仕事だと思って入ると、オットーも作業台の横に立っている。
二人とも手を止めていた。
「どうしましたか?」
「座って」
マルタが小さな椅子を示す。
シアは少し戸惑った。
「何か間違えましたか?」
「してないよ」
「では……?」
「いいから座りな」
言われるまま腰を下ろす。
マルタとオットーが向かい側に座った。
二人が揃って自分を見る。
それだけで、胸の奥に古い緊張が生まれた。
何か言われる。
ここにいられなくなるようなことだろうか。
(違う。まだ何も言われていない)
自分へ言い聞かせる。
マルタがその表情を見て、少し困ったように笑った。
「そんな顔しなくていいよ」
「どんな顔でしょう」
「今から追い出されるみたいな顔」
言い当てられて、シアは黙った。
「……少しだけ、そう思いました」
「正直でよろしい」
マルタは笑ったあと、声を少し落ち着かせる。
「試しで働いてもらう期間のこと、覚えてる?」
「はい。一か月です」
「そう」
心臓が強く鳴った。
最初にここへ来た日。
一か月。
まずはその間、働いてみる。
それから先を決める。
あのときは、それだけでも十分だった。
明日眠る場所があり、働けることが嬉しかった。
「まだ一か月全部終わったわけじゃない」
オットーが言う。
「だから正式な話を今日決めるわけじゃない」
「はい」
「ただ、そろそろ終わった後のことも考えとけ」
シアは膝の上で手を重ねた。
「終わった後……」
「うちは、シアがこのまま働きたいなら残ってもらうつもりだよ」
マルタが言った。
シアはすぐに言葉を返せなかった。
聞き間違えたわけではない。
残ってもらうつもり。
それは、試しではなくなるということだ。
「……私が?」
「ほかに誰がいるんだい」
「でも、まだ一か月経っていません」
「だから今すぐ返事しろとは言ってない」
オットーが腕を組む。
「こっちの考えだけ先に言っとく。お前も考えろ」
「私が……決めるんですか?」
二人の顔を見る。
マルタが少し眉を寄せた。
「そりゃそうだよ」
「でも、お二人が残っていいと言ってくださるなら――」
「そこ」
マルタが言葉を止める。
「残っていい、じゃない」
シアは目を瞬いた。
「私たちは、残ってほしいと思ってる」
はっきりと言われる。
「でも、シアがここで働きたいかは別の話だよ」
胸の奥が、強く揺れた。
残っていい。
置いてもらえる。
追い出されない。
それだけを考えていた。
自分がどうしたいかを考えるより先に、相手から許可をもらえるかどうかを考えていた。
「嫌なら別の店を探してもいい」
オットーが続ける。
「もっと給金のいいところが見つかるかもしれん。パン屋じゃなく、帳場専門で雇う店もあるだろう。お前は数字が使える」
「……はい」
「住み込みじゃない働き方をしたくなるかもしれないし、自分で部屋を借りたいと思うかもしれない」
「はい」
「だから考えろ」
シアは俯いた。
選べる。
その事実が、嬉しいのに怖い。
最初にここへ来たときは、選択肢がほとんどなかった。
金は限られていた。
街のことも知らなかった。
泊まり続ければ金が減る。
働かなければ生きていけない。
《麦穂亭》の求人を見つけ、飛び込んだ。
あれも自分で選んだことではある。
けれど今は違う。
少しだけ街を知った。
給金も受け取っている。
仕事の経験もできた。
別の場所を探すことも、最初の日よりは現実的だ。
そのうえで、どこにいたいのか。
(私は、どうしたい?)
自分へ問いかける。
答えは、思っていたより近いところにあった。
朝起きて、階下へ下りる。
オットーが窯を見ている。
マルタが棚を整えている。
自分の仕事がある。
ハロルドが黒麦パンを買いに来る。
ニコが元気よく店へ飛び込んでくる。
ローザが塀越しに話しかける。
ミレイユが蜂蜜パンを買いに来る。
ときどきレオンハルトも店へ来る。
帳面がある。
注文がある。
失敗すれば直す。
疲れれば休む。
仕事が終われば夕食を食べ、自分の部屋へ戻る。
休日には友達と出かける。
それらを思い浮かべたとき、胸の中へ浮かんだ言葉は一つだった。
「……ここにいたいです」
声に出してから、自分でも驚いた。
マルタもオットーも何も言わない。
シアは顔を上げた。
「まだ、試用期間が終わっていないのは分かっています。それに、正式な条件もまだ決めていないと思います」
「ああ」
「でも、私……」
胸の奥から言葉を探す。
「《麦穂亭》で働くのが好きです」
マルタの表情がゆっくりと緩む。
「パンを作るのはまだ上手ではありません。でも、少しずつできることが増えるのは嬉しいです。店に立つのも、注文を整理するのも、帳簿を見るのも好きです」
自分が好きなことを、こんなに続けて口にしたことがあっただろうか。
「それに、ここでなら……失敗しても、次にどうするかを考えられます」
言葉にすると、目の奥が少し熱くなる。
「休んでもいいと言ってもらえます。分からないことを聞いても、怒られません。手伝ってくださいと言っても……嫌な顔をされませんでした」
オットーが少しだけ視線を逸らした。
マルタは黙って聞いている。
「だから、できるなら」
一度息を整える。
許可を乞う言葉ではなく、自分の希望として言いたかった。
「私は、ここで働き続けたいです」
言えた。
胸の中にあったものを、そのまま言葉にできた。
マルタが大きく息を吐く。
「そっか」
「はい」
「なら、正式な話は試用期間が終わる前にしよう。給金も仕事の内容も、住み込みを続けるかどうかも、ちゃんと話そう」
「住み込みを続けるかも、選べるんですか?」
「当たり前だよ。部屋代をどうするかって話もあるし、給金との兼ね合いもあるからね」
シアは驚いた。
残れるかどうかだけではない。
どう働くかまで話し合う。
「条件を聞いてから変えたくなったら言え」
オットーが言う。
「一度『ここにいたい』って言ったから全部従え、なんて話じゃない」
「……はい」
「給金上げろって言ってもいいぞ」
「えっ」
「無茶なら断るけどな」
マルタが吹き出した。
「先に脅してどうするんだい」
「交渉ってのはそういうもんだろ」
「違うと思います」
シアが思わず口を挟む。
二人がこちらを見る。
一瞬の沈黙のあと、マルタが声を上げて笑った。
「ほら、シアにも言われた」
「お前ら二人で俺を悪者にするな」
「してません」
シアも笑った。
目の奥にあった熱が、涙になる前に柔らかなものへ変わっていく。
「では、条件を聞いてから考えます」
「それでいい」
「もし分からないことがあったら、質問します」
「ああ」
「自分にとって嫌な条件があったら……」
そこで少しだけ言葉が止まる。
嫌だと言う。
まだ簡単ではない。
けれど、言えないままではいたくない。
「相談します」
まずはそこまで言った。
マルタが頷く。
「十分だよ」
話は終わった。
何か正式な契約を交わしたわけではない。
それでも、シアにとっては大きな時間だった。
ここに置いてほしい、ではない。
ここにいたい。
初めて、自分のこれからをそんな言葉で選んだ。
◇
その日の午後、シアは厨房で丸パンの成形をしていた。
オットーが横で別の生地を扱っている。
以前より手つきは慣れた。
それでも、同じ大きさへ揃えるのはまだ難しい。
「それ、触りすぎ」
「あ」
指摘され、シアは手を止めた。
「またやりました」
「形を直そうとしすぎだ」
「少し歪んでいるのが気になって」
「焼けば多少変わる」
「はい」
「完璧な丸にしようとするな」
その言葉に、シアは生地を見た。
「パンもですか?」
「何が」
「少しくらい形が違ってもいいんですね」
「売れないほど崩れてなきゃな」
オットーは当然のように言う。
「同じ重さで同じ生地でも、全部まったく同じ形にはならん」
「そういうものですか」
「人間の手で作ってるからな」
シアは次の生地を取る。
丸くする。
底を閉じる。
少しだけ歪んでいる。
直したくなる。
けれど、そこで手を離した。
「これでどうですか?」
オットーが見る。
「いい」
「少し右が高いです」
「いい」
「でも――」
「いい」
シアは笑った。
「分かりました」
天板へ置く。
完全ではない。
それでも、売れるパンになる。
そんな当たり前のことが、なぜか今の自分には心地よかった。
◇
夕方になると、店の前を通る人の数が増えた。
秋穫祭へ向けた飾り付けを見に来る人もいるらしく、普段より子どもの姿が多い。
シアが棚を整えていると、入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
入ってきたのはレオンハルトだった。
今日は騎士団の服ではなく、濃紺の上着に落ち着いた色のシャツを合わせている。身分を知らなければ裕福な商家の青年にも見えるが、姿勢や周囲を見る目には隠しきれない育ちがあった。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は何になさいますか?」
「そうだな」
レオンハルトは棚を見る。
蜂蜜パン。
胡桃パン。
丸パン。
黒麦パン。
シアは急かさず待った。
「丸パンを二つ」
「ありがとうございます」
「それと胡桃を一つ」
「はい」
パンを包む。
「今日はシアが作ったものはあるか?」
聞かれ、手が少し止まった。
「丸パンでしたら、いくつか私が成形したものがあります」
「分かるのか?」
「はい。まだ形に少し癖がありますので」
「なら、それを二つ」
「本当にいいのですか?」
言ってから、シアは自分で少しおかしくなる。
「すみません。売っているものなのですから、いいに決まっていますね」
「そうだな」
レオンハルトの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「店主にも、前よりましになったと聞いた」
シアは目を見開いた。
「オットーさんがそんなことを?」
「言っていた」
「……それは、少し恥ずかしいです」
「なぜだ?」
「まだ練習中ですから」
「練習中のものを売っているのだろう?」
「はい」
「なら客として買うだけだ」
以前にも似たことを言われた気がする。
特別扱いではない。
かわいそうだから買うのでもない。
店に並んでいる商品だから選ぶ。
それが嬉しかった。
「ありがとうございます」
シアは自分が成形したものの中から、焼き上がりのいい二つを選んだ。
そのうち一つは、少しだけ右側が高い。
先ほどオットーから「いい」と言われたものだった。
一瞬、別のものへ替えようかと思う。
けれどやめた。
「こちらです」
「前より丸いな」
「分かりますか?」
「前のはもっと分かりやすかった」
シアは思わず笑った。
「そうですね。私もそう思います」
代金を受け取る。
レオンハルトはパンの包みを持ったまま、店内を少し見回した。
「騎士団への納入は慣れたか?」
「はい。まだ緊張することはありますが、最初よりずっと慣れました」
「今日は問題なかったようだな」
「はい。四十個、最初から揃いました」
自分で言ってから、少し子どもじみた報告だったかと思う。
しかしレオンハルトは笑わなかった。
「それはよかった」
「ありがとうございます」
「この前は店主が来ていたから、何かあったのかと思った」
「黒麦パンを二つ店頭へ多く出してしまったんです」
「聞いた」
「私は店へ残って、オットーさんに配達をお願いしました」
レオンハルトがわずかに眉を上げる。
「そうしたのか」
「はい」
なぜか、少しだけ誇らしい。
「自分から、手伝ってくださいと言えました」
そこまで話してから、シアは瞬きをした。
客へ話す内容としては個人的すぎたかもしれない。
「すみません。仕事とは関係のないことを」
「いや」
レオンハルトは静かに首を横へ振った。
「シアにとって大事なことだったのだろう?」
その言葉に、シアは返事を忘れた。
なぜ大事なのか、彼は知らない。
シアがどんな家で暮らしていたのかも、何をされてきたのかも知らない。
それでも、自分が少し嬉しそうに話したことを見て、そう受け取ったのだろう。
「……はい」
シアはゆっくり頷いた。
「大事なことでした」
「なら聞けてよかった」
それ以上は聞かない。
どうして今まで言えなかったのか。
誰に頼れなかったのか。
何があったのか。
何も尋ねない。
その距離がありがたかった。
「また来る」
レオンハルトが言う。
「はい。お待ちしています」
扉が開く。
外の冷え始めた空気が少しだけ店内へ入り、彼が出ていくと鈴が鳴った。
シアはしばらく扉を見ていた。
「シア」
厨房からマルタの声がする。
「はい」
「お客さん帰った?」
「はい」
「なら、ちょっと手伝って」
「分かりました」
シアは会計台を整え、厨房へ向かった。
その頬が少しだけ緩んでいることには、自分では気づかなかった。
◇
店を出たレオンハルトは、紙袋から漂う焼きたての匂いを感じながら通りを歩いていた。
右手には丸パン二つと胡桃パン。
公爵家へ戻れば夕食が用意されている。
それでも《麦穂亭》へ寄った。
理由を問われれば、パンが気に入ったからだと答えられる。
実際、それは嘘ではない。
だが店へ入り、シアの姿を見たときに感じた小さな安堵まで、パンだけで説明できるのかは分からなかった。
先日、いつもの配達に彼女が来なかった。
店主から事情を聞き、問題がないことは分かっていた。
それでも今日、訓練場で彼女の姿を見たときにも、店で声を聞いたときにも、無意識に安心した。
(気にしすぎているのかもしれないな)
そう考える。
ただし、それをすぐに何かの感情へ当てはめるつもりはない。
興味を持っているのは確かだった。
最初に会ったときから、シアには不思議なところがある。
店で働き始めて間もないというのに、注文条件を整理し、自分が決められる範囲と決められない範囲を明確にしていた。
数字に強い。
礼儀も身についている。
けれど、自分の作ったパンを買われただけで驚き、誰かへ仕事を頼めたことを大切そうに話す。
そして武器が近づいたときには、明らかに恐怖を見せた。
理由を知りたいと思わないわけではない。
それでも、本人が話していないことへ踏み込む理由はない。
レオンハルトは紙袋の中から丸パンを一つ取り出した。
少しだけ右側が高い。
たぶん、これがシアの作ったものだろう。
一口食べる。
味は他の丸パンと変わらない。
きちんとうまい。
「また上手くなったな」
誰に聞かせるでもなく呟き、残りを紙へ戻した。
次に店へ行ったとき、そう伝えてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、公爵邸へ向かう道を歩いていった。
◇
その夜、仕事を終えたシアは自分の部屋へ戻った。
机の上には、空色の髪紐を買った日に使った小さな財布が置かれている。
引き出しには、逃げる前から持っていた金と、ここで受け取った給金を分けてしまっていた。
シアは椅子へ座り、今日マルタたちから言われたことを思い出した。
試用期間が終わったあとも、働き続けてほしい。
ただし、自分で決める。
条件も話し合う。
住み込みを続けるかどうかも選べる。
ここにいたい。
あのとき口にした言葉は、今も変わらない。
けれど、だからといって何も考えずにすべて受け入れるのは違うのだろう。
シアは紙を一枚取り出した。
正式に働くなら、確認したいこと。
給金。
休み。
住み込みの部屋。
食事。
仕事の範囲。
騎士団への注文管理。
仕入れや帳簿へどこまで関わるのか。
書いているうちに、自分でも少し驚いた。
以前なら、雇ってもらえるなら何でもします、と答えていたはずだ。
今は、自分がどんな条件で働くのかを知ろうとしている。
それはわがままではない。
マルタもオットーも、確認していいと言った。
(私は、ここにいたい)
改めて思う。
(だからこそ、ちゃんと話したい)
嫌なことがあれば相談する。
分からないことがあれば聞く。
できないことを、できるふりで引き受けない。
疲れたら休む。
必要なら、手伝ってほしいと言う。
そうやって働き続けたい。
紙の一番下に、もう一つ書き加えた。
――自分がやりたい仕事。
そこまで書いて、シアは筆を止めた。
何を書けばいいのか考える。
パン作り。
接客。
帳簿。
注文整理。
仕入れ。
どれも面白い。
全部を一人で抱えたいわけではない。
けれど、どれか一つだけを選びたいわけでもない。
「……欲張りかしら」
小さく笑う。
以前なら、自分が何をしたいかなど考えもしなかった。
今は、したいことがいくつもある。
それなら正式な話をするときに相談すればいい。
紙を折らず、そのまま机の端へ置いた。
明日になれば、また確認したいことが増えるかもしれない。
急いで完成させる必要はない。
窓の外では、秋穫祭へ向けて飾られた通りの灯りが遠くに見えている。昼間より静かになった街を、ときどき馬車の音だけが通り過ぎていった。
この街へ来た夜には、明日のことすら分からなかった。
今は、一か月の試用期間が終わったあとのことを考えている。
それより先のことまで、ほんの少し想像できる。
シアは立ち上がり、窓を閉めてから寝台へ向かった。
明日も仕事がある。
そのことが嬉しい。
けれど、仕事があるからここにいたいだけではない。
友達がいる。
知っている人が増えた。
自分で選んだ物が部屋にある。
帰ってくる場所がある。
そして、自分がどうしたいのかを聞いてくれる人たちがいる。
寝台へ入り、毛布を胸元まで引き上げる。
(ここにいたい)
昼間に口にした言葉を、もう一度心の中で確かめる。
今度はそこに、不安よりも温かなものが残った。
誰かに許されたからではない。
追い出されないと分かったからでもない。
自分で、この場所を選びたいと思った。
その違いを胸に抱いたまま、シアは静かに目を閉じた。




