第23話 私がしたい仕事
翌朝、シアが目を覚ますと、窓の向こうには薄い雲を透かした秋の光が広がっていた。夜のあいだに少し冷え込んだらしく、寝台から出した足先へ触れる床の冷たさに肩をすくめながら、シアは椅子へ掛けてあった上着を手に取った。
階下からは、すでに《麦穂亭》が一日を始める音が聞こえている。薪の爆ぜる音、作業台へ何かを置く鈍い響き、厨房と店を行き来する足音が、床板を通してかすかに伝わってきた。
以前なら、その音を聞いた瞬間に寝台から飛び出していただろう。
自分だけが休んでいるような気がして、誰かより遅れることを怖がり、まだ決められた時間になっていなくても階下へ下りようとしたはずだ。
けれど今朝のシアは、窓辺へ行ってカーテンを開き、冷たい空気を少しだけ部屋へ入れてから身支度を始めた。
(間に合う)
決められた時間には十分間に合う。
それを確かめてから髪を整え、空色の髪紐で結ぶ。鏡の中の自分を見て、昨日机へ置いた紙へ目を向けた。
正式に働くことになった場合に確認したいこと。
給金。
休み。
住み込みの部屋。
食事。
仕事の範囲。
騎士団への注文管理。
仕入れや帳簿への関わり方。
そして最後に書いた、自分がやりたい仕事。
昨夜は答えを一つに決められなかった。
パン作りも覚えたい。接客も嫌いではない。数字を扱う仕事は好きだし、注文を整理して店の動きを考えることにも面白さを感じている。
そのどれか一つを選ばなければならないのだと思っていたが、眠って起きた今も、やはり一つには絞れなかった。
「……それも、聞いてみればいいのよね」
小さく呟き、紙を机へ戻す。
答えが分からないなら尋ねる。
それも、この店で覚え始めたことの一つだった。
◇
「おはようございます」
「おはよう、シア」
階下へ下りると、マルタは店頭へ並べる布を広げていた。秋穫祭が近いため、いつもの生成り色ではなく、麦の穂を刺繍した明るい茶色の布を使うらしい。
厨房ではオットーが窯の温度を確認している。
「おはようございます、オットーさん」
「ああ。寝られたか」
「はい」
「昨日の話で夜中まで悩んでないだろうな」
シアは一瞬黙った。
「……少し考えました」
「やっぱりね」
店側からマルタが笑う。
「でも、眠れなくなるほどではありませんでした」
「ならいい」
オットーはそれ以上追及せず、作業台の上に置かれた生地を示した。
「今日はこっちからやれ」
「丸パンですか?」
「ああ。昨日より数が多い」
シアは手を洗い、前掛けを整えて作業台へ向かった。
店頭分に加え、《銀鹿亭》への定期分がある。騎士団への納入日は明日なので今日は四十個を別に確保する必要はないが、祭りが近づくにつれて店頭客そのものが増え始めていた。
「昨日の粉の値上がりについて、あとで帳面に今後の試算を書いてもいいですか?」
生地を分けながら尋ねる。
「何を書く?」
「黒麦粉の価格が今のままの場合と、もう一段階上がった場合です。祭りの時期は使用量も増えると思うので、先に目安があった方が判断しやすいかと思って」
オットーが生地を捏ねる手を止めずに答える。
「やっとけ。ただし、祭りでどれだけ売れるかは去年と同じとは限らんぞ」
「はい。予想と確定を分けて書きます」
「ならいい」
シアは頷き、手元へ意識を戻した。
丸めた生地の表面を張らせ、底を閉じる。
昨日より少し速い。
形も揃ってきた。
ただ、五つ目を作ったところで、隣のオットーのものと比べると自分の方がわずかに背が高いことに気づいた。
「オットーさん」
「何だ」
「これ、少し高すぎますか?」
オットーが見る。
「問題ない」
「では、このままにします」
「直さないのか」
シアは手元の生地を見てから頷いた。
「昨日、触りすぎだと言われたので」
「覚えてたか」
「はい」
「なら上出来だ」
たったそれだけの言葉だったが、シアの口元が少し緩んだ。
完璧だから褒められたのではない。
前に教えられたことを覚え、少し進んだから認めてもらえた。
(こういうのも、嬉しい)
伯爵家にいた頃は、昨日よりできるようになったことを誰かと確かめる経験がほとんどなかった。できれば次を求められ、できなければ責められるだけで、途中という状態を許された記憶がない。
けれどパン作りには、明確に途中がある。
最初から職人と同じようにはできない。
昨日より今日。
今日より明日。
その積み重ねでいいのだ。
◇
開店してからしばらくすると、店には途切れることなく客が訪れた。
秋穫祭を前に街へ来る商人が増え、普段は見かけない顔も混じっている。シアが会計を担当し、マルタが品出しと客への案内をしながら、厨房ではオットーが追加分を焼いていた。
「丸パンを六つと、胡桃を四つ」
「ありがとうございます。丸パンが銅貨五枚ですので六つで三十枚、胡桃パンが一つ六枚で四つですから二十四枚、合わせて銅貨五十四枚です」
旅装の男から代金を受け取り、釣りを返す。
「計算が速いね」
「ありがとうございます」
「祭りの日も開いてるのかい?」
シアは一度マルタを見る。
秋穫祭当日の営業について、まだ最終決定はしていない。
「現在、営業時間と販売数を検討しております。決まりましたら店頭へお知らせを出す予定です」
「そうか。じゃあまた見に来るよ」
「お待ちしております」
客を送り出したあと、マルタが感心したように眉を上げた。
「今の、いいね」
「何がですか?」
「決まってないことを勝手に答えなかったところ」
「あ……」
「前なら『確認してきます』って、その場ですぐ厨房まで走ってたんじゃない?」
シアは少し考えた。
「……そうかもしれません」
「今は?」
「まだ決まっていないことなので、決まっていないと答えました」
「うん。それでいい」
マルタが棚へパンを補充しながら笑う。
「何でもその場で答えが出るわけじゃないからね」
「はい」
シアも会計台へ戻る。
決まっていない。
分からない。
できない。
少し疲れた。
嫌ではないけれど、次は先に聞いてほしい。
以前なら口にできなかった言葉が、少しずつ自分の中へ増えている。
それは否定的な言葉が増えたのではなく、自分と他人との間に線を引くための言葉を覚えているのだと、最近になって分かり始めていた。
◇
昼前、客足が一度落ち着いた頃だった。
店の扉が開き、ローザが籠を抱えて入ってきた。
「こんにちは」
「ローザさん、こんにちは」
「マルタいる?」
「いるよ。どうしたの?」
奥から出てきたマルタへ、ローザは籠の中を見せた。
赤く色づいた林檎が詰まっている。
「今年の早生、まとまって入ったんだけどさ。祭り前だから菓子屋がずいぶん押さえちゃってね。いつもの値段で回せるのは今週くらいかもしれない」
シアは思わず林檎を見る。
果物茶の店で飲んだ林檎のお茶を思い出した。
甘さの中に少し酸味があり、自分は木苺よりこちらが好きだと思った味だ。
「去年も上がったねえ」
マルタが一つ手に取る。
「今年はどのくらい?」
「まだ分からない。でも祭り直前は上がると思うよ」
昨日は黒麦粉。
今日は林檎。
祭りが近づくということは客が増えるだけではなく、材料を欲しがる店も増えるということなのだ。
「マルタさん」
「ん?」
「祭り用に林檎を使うパンを作る予定はありますか?」
「一応考えてるよ。去年は林檎と蜂蜜を煮て、小さめのパンに包んだんだ」
「売れたんですか?」
「午前中でほとんどなくなった」
「だったら今年もやるか?」
厨房から出てきたオットーが尋ねる。
マルタは腕を組んだ。
「やりたいけど、去年と同じ数でいいかは悩むね。今年は騎士団の注文もあるし」
「騎士団分は祭りの期間だけ別相談だ」
「だからって好きなだけ店頭分を増やせるわけじゃないでしょ」
二人の話を聞きながら、シアは頭の中で仕事量を組み立てていた。
通常の店頭分。
昔からの定期注文。
騎士団。
祭り用の商品。
増える客。
材料の価格。
窯で一度に焼ける量。
そして三人の作業時間。
「……去年の記録はありますか?」
シアが尋ねる。
オットーとマルタが同時にこちらを見た。
「何の?」
「秋穫祭の販売数です。何を何個作って、どのくらいの時間に売り切れたか分かれば、今年の目安になると思います」
マルタが考える。
「売上帳ならあるよ。ただ、商品ごとの売り切れ時間までは書いてないね」
「販売個数だけでも大丈夫です」
「倉庫の棚に去年の帳面があるはずだ」
オットーが言う。
「昼飯のあとで出す」
「見てもいいですか?」
「そのために出すんだ」
「ありがとうございます」
ローザが三人を見比べ、笑った。
「すっかり店の人だねえ、シアちゃん」
胸の奥が温かくなる。
以前なら、どう答えていいか分からなかったかもしれない。
今は違った。
「はい。《麦穂亭》で働いています」
自然に言える。
「そうだね」
ローザは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ林檎、必要な数が決まったら早めに言って。あたしも確保できるか見ておくから」
「助かるよ」
マルタが答えた。
シアは林檎を見ながら、ふと考える。
「もし試作をするなら、食べてみてもいいですか?」
三人が一斉にシアを見る。
シアは自分が何かおかしなことを言ったのかと不安になる。
「……駄目ですか?」
「いや」
マルタが笑い始める。
「シアから味見したいって言うとは思わなくて」
「あ……」
言われて気づく。
仕事の確認という理由だけではない。
林檎が好きだから、食べてみたいと思った。
「私、林檎が好きみたいなんです」
「みたい?」
ローザが首を傾げる。
「この前、友達と果物茶を飲んだんです。私は林檎を選んで、それがおいしくて」
「ああ、ミレイユちゃんと出かけた日かい?」
「はい」
「それで林檎好きに気づいたの?」
「そうみたいです」
ローザが声を立てて笑った。
「そりゃいい。じゃあ今年の林檎はシアちゃんに味見してもらわないとね」
「仕事としてなら、きちんと感想を言います」
「仕事じゃなくても食べていいんだよ」
マルタに言われ、シアは少しだけ頬を緩めた。
「では……仕事ではなくても食べたいです」
「よし。今年はちゃんとシアの分も作ろう」
「まだ作るって決めてないぞ」
「オットー、こういうときは空気を読むんだよ」
「店の材料を決める話で空気を読んでどうする」
いつものやり取りが始まり、ローザまで加わって笑う。
シアもその輪の中で笑いながら、林檎の香りを吸い込んだ。
◇
昼食を終えると、オットーが倉庫から三冊の帳面を持ってきた。
「去年の祭り前後」
「ありがとうございます」
シアは会計台の奥に座り、帳面を開いた。
去年の文字は今より簡素だった。
日ごとの売上総額。
材料購入。
定期注文。
特別商品のおおよその数。
細かな販売時間はないものの、祭りの三日前から明らかに売上が増え、当日は通常日の倍近い数が動いている。
「すごい……」
「祭りの日は朝から人が多いからね」
マルタが隣へ椅子を持ってくる。
「昼過ぎには棚がほとんど空になったよ」
「追加では焼かなかったんですか?」
「焼いた。でも追いつかなかった」
「それなら今年は増やした方がいいでしょうか」
「単純に倍、とはできないね」
マルタは帳面を指で叩く。
「作るのは私たちだから」
シアは頷く。
売れるなら増やす。
数字だけなら簡単だ。
しかし、人間が作る以上、限界がある。
「窯で一度に焼ける数と、一回に必要な時間を確認してもいいですか?」
「いいよ」
「あと、前日のうちに準備できる作業と、当日でなければできない作業を分けたいです」
マルタがシアを見る。
「本格的になってきたね」
「やりすぎでしょうか?」
「いや。むしろ必要だと思ってた」
オットーが厨房から答える。
「毎年、俺とマルタで頭の中だけでやってたからな」
「頭の中だけだったんですか?」
「だいたいな」
「よく間違えませんでしたね」
「間違えたよ」
マルタがあっさり言う。
「去年なんか蜂蜜を一瓶足りなくして、祭り前日の夕方に買いに走った」
「お前が確認したって言っただろ」
「あんたも見たでしょ」
「俺は粉を見た」
「じゃあ二人とも悪いね」
シアは思わず笑った。
「では、今年は一覧を作りましょう」
「頼める?」
マルタが聞く。
シアは答えようとして、一度だけ止まった。
頼まれた。
できる。
だから「はい」と言えばいい。
けれど昨日、正式に働くなら自分がしたい仕事について考えようと思った。
今目の前にあるこれは、まさに自分がしたいと思える仕事だった。
「はい。やりたいです」
マルタの表情が少し変わる。
「やりたい?」
「はい」
シアは帳面へ目を落とす。
「去年の記録を見て、今年必要な量を考えて、オットーさんとマルタさんが無理なく作れる数を整理するのは……面白そうです」
「面白そう、か」
「変でしょうか?」
「全然」
マルタが笑う。
「ただ、シアが仕事を面白そうって言うの、初めて聞いた気がしてね」
シア自身もそうかもしれないと思った。
「私、数字を見て考えるのが好きなんだと思います」
「昨日も粉の値段計算してたな」
「はい」
「じゃあ、それも正式に働く話をするときに言え」
オットーの言葉に、シアは顔を上げる。
「言っていいんですか?」
「何の仕事がしたいか聞くって昨日言っただろ」
「そうでした」
「パン作りだけが仕事じゃない。店には帳面も注文も仕入れもある」
オットーは作業台へ粉を広げながら続ける。
「俺はパンを焼くのが一番得意だ。マルタは客と話すのが俺よりずっと上手い。お前は数字と整理が得意。それだけの話だ」
「でも、接客もパン作りも続けたいです」
「続けりゃいい」
あまりに簡単に言われ、シアは瞬きをした。
「一つに決めなくてもいいんですか?」
「誰が決めろと言った?」
「……誰も言っていません」
自分で勝手にそう思っていただけだ。
「では、全部やってみたいです」
「全部一人で抱えるなよ」
「それは……気をつけます」
「そこは即答できないんだね」
マルタに笑われる。
シアも苦笑した。
「まだ練習中なので」
「なら上出来」
昨日オットーから言われた言葉を、今度はマルタが使った。
シアはまた笑い、去年の帳面へ視線を戻した。
◇
午後になると、シアは通常の仕事の合間に秋穫祭用の表を作り始めた。
去年の販売数をそのまま今年の目標にするのではなく、まず通常日の平均を出し、祭り前にどの程度増えていたかを比較する。そのうえで今年新たに増えた騎士団の注文を別枠にし、《銀鹿亭》や《赤い鍋亭》への定期分とも混ざらないよう欄を分けた。
まだ数字を入れられない場所は空白にしてある。
分からないものを推測だけで埋めないためだ。
「これ、何?」
夕方近くに蜂蜜パンを買いに来たミレイユが、会計台の端から覗き込んだ。
「秋穫祭の準備表です」
「もう作ってるの?」
「去年の記録を見て、今年どのくらい作れそうか考えているところです」
「騎士団の分も?」
「はい。ただ、祭りの期間は人数が変わる可能性があるので、そこはまだ空欄です」
ミレイユは感心したように表を見る。
「これ、うちの調達担当が喜びそう」
「騎士団用ではありませんよ」
「分かってる。でも、こういう表好きそうなんだよね」
シアは蜂蜜パンを包みながら尋ねる。
「秋穫祭の日は、ミレイユさんもお仕事ですか?」
「たぶんね。人が増えるから巡回も多くなるし」
「そうですか」
少しだけ残念に思う。
祭りの日に一緒に歩けたら楽しそうだと思ったのだ。
その感情が顔に出たのか、ミレイユが少し首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ……もしお休みなら、一緒に見て回れたらと思っただけです」
言ってから、シアは自分の口から自然に出た言葉に驚いた。
前に次は自分から誘いたいと言った。
けれど、実際にこうして誘うようなことを口にするのは初めてだった。
ミレイユも目を丸くしている。
その反応に不安がよぎる。
「仕事なら仕方ありませんから――」
「待って待って」
ミレイユが慌てて手を上げる。
「嫌なんじゃないよ。嬉しくてびっくりしただけ」
「……そうなんですか?」
「うん。すごく」
ミレイユは笑った。
「当日は難しいかもしれないけど、祭りは一日だけじゃないからさ。勤務が分かったら教えるよ」
「はい」
「シアも店の休み分からないでしょ?」
「そうでした」
二人で顔を見合わせる。
「じゃあ、お互い分かってから決めよう」
「はい。行ける日が合ったら、一緒に行きたいです」
「私も」
約束はまだ完成していない。
日にちも時間も決まっていない。
それでも、シアは嬉しかった。
「それと」
ミレイユが少し身を乗り出す。
「この前の果物茶、また飲みたい?」
「はい。林檎のお茶がおいしかったです」
「私、やっぱり木苺かな」
「好みが違いますね」
「だから交換して一口ずつ飲める」
「それは……いいですね」
そんな話をしているところへ、マルタが厨房から出てきた。
「ミレイユちゃん、今日はずいぶん楽しそうだね」
「いつも楽しいですよ」
「そう?」
「マルタさん、その言い方は何ですか」
「別に?」
マルタは笑いながら棚へ向かう。
ミレイユが小声でシアへ囁いた。
「絶対何か含んでる」
「私もそう思います」
「シアまで言うようになったね」
二人で笑う。
マルタは聞こえていたらしく、振り返らずに肩を揺らしていた。
◇
その頃、ベルフォード伯爵家では、グレゴールの机へ新たな報告書が置かれていた。
「これだけか」
低い声に、家令は姿勢を正した。
「はい。隣接する二領と主要街道沿いの宿場を確認させましたが、お嬢様と思われる方の確実な情報は得られておりません」
「乗合馬車は?」
「確認しております。ただ、お嬢様が本名を使用されていない場合、乗客名簿だけでは追えない可能性がございます」
グレゴールは不機嫌そうに報告書をめくった。
娘が屋敷を出てから、予想以上に時間が経っている。
最初はすぐ戻ると思っていた。
手持ちの金が尽きれば帰る。
働いた経験もない伯爵令嬢が一人で暮らせるはずがない。
そう考えていた。
しかし戻らない。
周辺を探しても見つからない。
「金はどれだけ持っていた」
「分かりません」
「なぜ分からない」
家令はわずかに言葉を選んだ。
「お嬢様個人のお金について、家の帳簿には詳細が残っておりません」
「小遣い程度だろう」
「それ以外の収入があった可能性までは、こちらでは確認できません」
「収入?」
「確証はございません」
家令は余計な推測を避けた。
屋敷へ出入りしていた商人の中には、エリシアが刺繍や縫い物をしていたことを知る者もいるかもしれない。しかし、家令自身がその売買を把握していたわけではない。
「なら調べろ」
「承知しました」
グレゴールは椅子へ深く座り直す。
「捜索範囲をもう一つ外へ広げる。主要都市へ向かう乗合馬車も確認させろ」
「すべてでしょうか」
「可能な範囲でだ。大事にするな」
「はい」
「それから、ヴァルモント家にはまだ言うな」
「承知しております」
家令が退室したあと、グレゴールは机に残った報告書を見る。
娘一人がいなくなっただけ。
本来なら、それだけのはずだった。
ところが屋敷では、いまだに細かな混乱が続いている。
商人への支払い。
招待状。
使用人の衣類。
リリアナの私的な注文。
ヴァルモント家との予定。
それぞれを別の者へ振り分けても、以前のようには噛み合わない。
エリシアが残していた手控えをもとに仕組みを作り直させているが、そこに書かれていない仕事が後から出てくる。
(なぜ、あれはすべて自分で抱えていた)
グレゴールの中に浮かんだ疑問は、娘を気遣うものではなかった。
なぜ報告しなかった。
なぜ誰でも引き継げる形にしていなかった。
なぜもっと詳細な記録を残さなかった。
責任の向かう先は、いまだにエリシアだった。
自分たちが彼女へどれほどの仕事を押しつけていたのかという考えには、まだ至っていない。
◇
《麦穂亭》の夜は、いつも通りパンの香りの残る夕食で終わった。
片付けを済ませて自室へ戻ったシアは、机に置いてあった昨日の紙を広げる。
確認したいことの一覧。
その一番下にある「自分がやりたい仕事」という項目へ、今日は書けることがあった。
シアは筆を取り、ゆっくりと文字を加える。
――帳簿や注文の整理。
――仕入れと在庫の確認。
――店頭での接客。
――パン作りも覚えたい。
そこまで書き、少し考えてからもう一行加えた。
――店をどうしたらもっと良くできるか、一緒に考えたい。
書き終えた文字を見つめる。
誰かから命令された仕事ではない。
自分でやりたいと思ったことだ。
(こんなふうに考えてもいいんだ)
胸の奥が温かくなる。
その一方で、今日のミレイユとの会話も思い出した。
秋穫祭。
一緒に歩ける日があれば行きたい。
仕事の予定を確認して、休みが合えば出かける。
仕事と休み。
どちらか一方を選ぶのではない。
働くことが好きでもいい。
休むことを楽しみにしてもいい。
友達と出かける予定を持ちながら、明日の仕事を楽しみにしてもいい。
シアは紙の隅へ、小さく別の言葉を書いた。
――秋穫祭。ミレイユさんと予定を確認する。
仕事の紙に書くことではない気もした。
けれど、消さなかった。
これからの自分に必要なのは、仕事だけではないからだ。
窓の外へ目を向けると、通りには秋穫祭の飾りがまた少し増えていた。店先へ吊るされた麦穂の飾りが夜風に揺れ、遠くからは祭りのための木組みを作る槌の音がかすかに響いてくる。
この街で初めて迎える祭り。
《麦穂亭》の一員として忙しく働く時間がある。
友達と歩ける時間もあるかもしれない。
そして、その先には試用期間の終わりが待っている。
以前なら、期限が近づくことは怖かった。
何かを失う日が近づいているように感じたはずだ。
今は少し違う。
終わりではなく、その先を選ぶための日が近づいている。
(私は、ここで何をしたいのか)
昨日より、その答えが少し増えた。
シアは紙を丁寧に机へ置き、明日の朝に備えて灯りを落とした。




