第24話 祭りの準備と、私の居場所
秋穫祭が近づくにつれて、《麦穂亭》の朝は少しずつ早くなっていた。
まだ空に夜の色が薄く残る時間、厨房では窯へ入れられた薪が赤く燃え、店の奥には発酵した生地と小麦粉の匂いが満ちている。シアが身支度を整えて階下へ下りると、オットーはすでに作業台の前に立ち、前夜から準備していた生地の状態を確かめていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「今日は少し冷えますね」
「秋だからな。発酵も夏と同じじゃない」
オットーは布を持ち上げ、生地へ指先を触れる。シアも隣から覗き込んだが、見ただけでは違いまでは分からない。
「気温で時間が変わるんですよね」
「変わる。時計だけ見てりゃいいってもんじゃない」
「生地を見るんですか?」
「触って、匂いも見る」
シアは頷いた。
数字で整理できることは多い。しかし、パン作りには数字だけでは決められないこともある。
それが最近は面白いと思えるようになっていた。
「シア、起きてるならこっちもお願い」
店側からマルタの声が聞こえる。
「はい」
厨房を出ると、会計台の上に昨日までシアが作っていた秋穫祭用の一覧表が広げられていた。その横には去年の帳面と今年の注文帳、さらに一枚の新しい紙が置かれている。
「これ、昨日の夕方に来た注文」
「見てもいいですか?」
「もちろん」
紙を受け取り、内容へ目を通す。
注文主は街の中心部にある服飾店だった。秋穫祭当日に働く店員へ配る昼食として、丸パンと胡桃パンを合わせて三十個ほしいという。
「受けるかどうかは、まだ返事をしていないんですね」
「うん。シアが作った表を見てから決めようと思ってね」
その言葉に、シアは少しだけ姿勢を正した。
「私の表で、ですか?」
「そのために作ってるんだろ?」
「そうですけれど……」
自分がまとめたものが、本当に店の判断へ使われる。
昨日も祭りの準備を任せてもらったが、実際の注文を前にすると責任の重さが少し違って感じられた。
シアは一覧表へ視線を落とす。
「少し確認してもいいですか?」
「いいよ」
「この注文は、祭り当日の昼までに三十個です。受け渡しは店頭でしょうか。それとも配達でしょうか」
「そこまでは聞いてないね」
「では、受けるなら先に確認した方がいいと思います。配達だと、その時間に一人が店を離れることになりますから」
マルタが頷いた。
「確かにそうだね」
「それから、種類ごとの数が書かれていません。丸パンと胡桃パンを合わせて三十個なので、内訳も必要です」
「なるほど」
「あと……」
シアは表と注文書を見比べる。
店頭販売分を昨年と同程度にするだけなら、三十個の追加は不可能ではない。
しかし、今年は騎士団への定期注文がある。
秋穫祭期間中の騎士団分は別途相談となっており、まだ人数が確定していない。そこへ大口注文を次々受ければ、後から調整できなくなる可能性がある。
「今すぐ受けるとは言わない方がいいと思います」
「理由は?」
マルタに尋ねられ、シアは表を指した。
「騎士団の祭り期間中の数量がまだ決まっていません。それが普段と同じ四十個なら、この注文も受けられる可能性は高いです。でも、増える場合は窯と作業時間の余裕が少なくなります」
「そうだね」
「ですから、今日か明日まで返事を待っていただけるなら、その間に騎士団へ確認してから決めた方が安全だと思います」
話している途中、厨房からオットーが出てきた。
「俺もそれでいい」
「聞いていたんですか?」
「聞こえる」
オットーは一覧表を覗き込み、指で数字を追う。
「三十なら焼くだけなら入る。ただ、店頭分まで増やすなら朝の仕込みを前倒しする必要がある」
「前日にできる作業は増やせますか?」
「多少はな。ただ、何でも前の日にやりゃいいわけじゃない」
「では、前日にできることと当日にすることを分けて書いてもらえますか?」
「俺が?」
「私では分からないので」
シアが答えると、オットーは少しだけ眉を上げた。
「分からないって言えるようになったな」
不意に言われ、シアは瞬きをした。
「……そうでしょうか」
「前なら分からなくても、自分で何とか調べようとしてただろ」
「それは悪いことですか?」
「調べるのは悪くない。パン屋の仕事を始めたばかりの奴が、職人に聞けば済むことまで一人で抱えるのは効率が悪い」
相変わらず言い方はぶっきらぼうだったが、意味はよく分かる。
「では、教えてください」
「ああ」
オットーは一覧表の余白を指した。
「そこ空いてるだろ。書け」
「はい」
シアは筆を取った。
前日までにできる作業。
当日の早朝に必要な作業。
焼成順。
窯を空けておかなければならない時間。
オットーが話す内容を整理しながら、シアは欄を増やしていく。
マルタは二人の様子をしばらく眺めてから、注文書を持ち上げた。
「じゃあ服飾店には、明日まで返事を待ってもらうよ」
「お願いします」
「それで騎士団の確認は?」
「次の納品が今日なので、私が聞いてきてもいいでしょうか」
「聞くだけならいい」
オットーが答える。
「その場で追加を受けるなよ」
「はい。数量を確認して、変更がある場合は持ち帰ります」
「よし」
シアは自然に答えてから、ふと笑った。
「何だ」
「最初の頃より、確認されることが減った気がします」
「同じことを何度も聞かせるな」
「はい」
「でも、勝手に決めていいって意味じゃないぞ」
「分かっています」
自分で判断できる範囲。
相談すべき範囲。
持ち帰るべきこと。
少しずつ、その境目が見えるようになってきていた。
◇
朝の開店後は、祭りを前にした買い物客が次々と訪れた。
店の前の通りには麦穂を束ねた飾りが増え、向かいの店では軒先へ赤と橙色の布が渡されている。広場の方角からは木槌の音が断続的に響き、ときどき荷車を引く男たちの掛け声が聞こえてきた。
「黒麦を二つください」
「ありがとうございます」
いつもの時間にハロルドがやってくる。
シアは黒麦パンを二つ取り、紙へ包んだ。
「今日はいつもより賑やかですね」
「祭り前だからな。年寄りには少しうるさいくらいだ」
そう言いながらも、ハロルドの表情はどこか楽しそうだった。
「ハロルドさんも秋穫祭へ行かれるんですか?」
「毎年な。見るだけだが」
「見るだけでも楽しいですか?」
シアが尋ねると、ハロルドは少し意外そうに彼女を見る。
「シアは初めてか?」
「はい。この街では初めてです」
「なら見とくといい。食い物も店も増えるが、一番面白いのは街の連中だ」
「街の人たち、ですか?」
「普段は難しい顔してる奴まで浮かれてるからな」
ハロルドは代金を置き、包みを受け取った。
「仕事ばかりしてないで、少しくらい歩いてこい」
「予定が合えば、友達と行こうと思っています」
「そうか」
ハロルドの目元がわずかに緩んだ。
「そりゃいい」
そのまま店を出ていく背中を見送り、シアは小さく笑った。
友達と行く。
以前なら、それを人へ話すだけでも気恥ずかしかったかもしれない。
今は、自分の予定として自然に口にできる。
「お姉ちゃん!」
次に扉を開けたのはニコだった。
「こんにちは、ニコ君」
「祭りの日、林檎のパン出る?」
入ってくるなり聞かれ、シアは思わず笑った。
「まだ決まっていません」
「えー!」
「試作もまだです」
「去年おいしかったのに」
「ニコ、店に入っていきなり困らせないの」
後ろから母親らしい女性の声が飛んでくる。
「困っていませんよ」
シアは笑いながら答えた。
「ただ、本当にまだ決まっていないんです。作ることになったら店頭でお知らせします」
「じゃあ毎日見に来る」
「毎日買わないなら営業妨害だぞ」
厨房からオットーの声が聞こえ、ニコが頬を膨らませる。
「見るだけだもん!」
「見るだけなら外から見ろ」
「オットーさん」
シアがたしなめると、店の奥からマルタの笑い声がした。
「最近シアに怒られてばっかりだね」
「怒っていません」
「俺も怒られてない」
ニコがきょろきょろと三人を見る。
「仲いいね」
何気なく言われた言葉に、シアの手が止まった。
仲がいい。
マルタとオットーだけではなく、そこへ自分まで含められたように聞こえた。
「そう見える?」
マルタが面白そうに尋ねる。
「うん」
ニコは迷わない。
「だっていつも三人で話してるし」
子どもにとっては、それだけのことなのだろう。
けれどシアの胸には、静かに温かなものが広がった。
「ほらニコ、買ったなら帰るよ」
「はーい。シアお姉ちゃん、林檎のパン作ってね!」
「作ると決まったら、ですね」
「絶対だよ!」
「だから決まってないって言ってるだろ」
またオットーの声が飛び、ニコは笑いながら母親と店を出ていった。
シアは閉まった扉を見ながら、頬に残る笑みを消せなかった。
◇
騎士団への納品へ出たのは、朝の混雑が一段落してからだった。
荷車にはいつもの四十個が積まれている。
丸パン二十五個。
黒麦パン十五個。
札も確認した。
納品票も持った。
シアは一度荷車を動かして重さを確かめてから、《麦穂亭》を出た。
通りは以前より人が多かったため、急がずに進む。荷車同士がすれ違いにくい場所では端へ寄り、広場近くでは飾り台を運ぶ人々が通り過ぎるのを待った。
以前のシアなら、少しでも遅れないようにと焦ったかもしれない。
今は納品時刻まで余裕を持って出ている。
途中で止まることも、計画の中に含まれていた。
(急がなくても間に合う)
そう思えるだけで、荷車を握る手にも余計な力が入らない。
南側訓練場へ着くと、顔馴染みになった門番がこちらを見つけた。
「おはよう、麦穂亭」
「おはようございます」
「祭り前でも時間ぴったりだな」
「少し早めに店を出ました」
「正解だ。街の中心はもっと混むぞ」
「そうみたいですね」
門を通り、食事棟へ向かう。
訓練場では数組の騎士が木剣を使った訓練をしていた。乾いた音が響くたび、シアの身体は今でもわずかに緊張する。
けれど足は止めなかった。
怖くないふりもしない。
(少し怖い。でも、歩ける)
木剣を持った騎士たちはシアへ近づいてこない。
ここでは訓練しているだけだ。
そう理解しながら、自分の速度で食事棟へ進んだ。
「おはようございます」
調達担当の年配の男が出てくる。
「おはようございます、シアさん」
「本日分、丸パン二十五個と黒麦パン十五個です」
「確認します」
二人で数え、受領印をもらう。
納品自体は問題なく終わった。
「それと、一つ確認したいことがあります」
「何でしょう」
「秋穫祭の期間中ですが、パンの数量は通常通り四十個でよろしいでしょうか。《麦穂亭》でも祭り用の準備が始まっているので、増減の可能性があれば早めに相談していただけると助かります」
「ああ、それでしたか」
男は少し困ったように眉を寄せた。
「ちょうどこちらでも話していたところです。巡回が増えるので、食事を取る人数が普段より増える可能性があります」
シアは頷いた。
「どのくらいでしょうか」
「まだ確定ではありません。多ければ五十前後になるかもしれませんが、騎士団だけでなく応援の者も入りますので」
「分かりました」
四十から五十。
十個増える可能性がある。
しかし、これは確定ではない。
「では、現時点では増量をお約束せず、人数が決まりましたら《麦穂亭》へご連絡いただく形でよろしいでしょうか」
「ええ。いつまでなら調整できますか?」
ここは自分だけでは決められない。
「確認して、次回の納品時にお伝えします」
「お願いします」
シアは帳面へ簡単に書き留める。
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「シア」
振り返ると、ミレイユが訓練場側から歩いてくる。
「ミレイユさん。おはようございます」
「おはよう。今日も配達?」
「はい。ちょうど終わったところです」
「よかった。少し話せる?」
シアは調達担当者を見る。
「こちらは終わっていますよ」
「ありがとうございます」
荷車を端へ寄せ、ミレイユと食事棟の邪魔にならない場所へ移動した。
「勤務が分かったの」
ミレイユが嬉しそうに言う。
シアもすぐに何のことか分かった。
「秋穫祭ですか?」
「そう。当日はさすがに無理だけど、二日目の午後なら空く」
「本当ですか?」
「うん。ただ、午前中は勤務だから、少し遅くなるけど」
シアの胸が弾む。
だが、すぐに返事はしなかった。
「私も《麦穂亭》の予定を確認します」
ミレイユが一瞬目を丸くしたあと、にこりと笑う。
「うん。それがいい」
「行けるかどうか、まだ分かりません」
「分かってる。無理なら別の日にしよう」
「はい」
約束したから何が何でも休まなければならないわけではない。
仕事があるから必ず諦めなければならないわけでもない。
予定を確認して、二人が行ける日を探せばいい。
「何か見たいものある?」
ミレイユが尋ねる。
「まだよく分からないんです」
「じゃあ屋台かな。食べ物多いよ」
「ミレイユさんらしいですね」
「否定できない」
二人で笑う。
「でも、シアが見たいところを優先していいからね」
「それなら……」
シアは少し考える。
秋穫祭について知っていることは少ない。
それでもハロルドが、街の人を見るのが面白いと言っていた。
「広場を歩いてみたいです。お店だけではなくて、飾りや人も見てみたいです」
「いいね。中央広場はかなり賑やかになるよ」
「では、行けたらそこへ」
「決まり」
ミレイユが頷いたところで、遠くから彼女を呼ぶ声がした。
「あ、戻らないと」
「お仕事中でしたね」
「うん。また店にも行くよ」
「お待ちしています」
「それじゃあ、また」
「はい。また」
ミレイユが訓練場へ戻っていく。
シアはその背中を見送ってから、空になった荷車へ手をかけた。
帰ったら予定を確認しよう。
そう思うだけで、帰り道が少し楽しみになった。
◇
昼過ぎ、《麦穂亭》へ戻ったシアは、騎士団から聞いた内容をそのままオットーとマルタへ伝えた。
「最大で五十前後の可能性があります。ただし、まだ確定ではありません。いつまでなら数量変更へ対応できるか聞かれたので、次の納品時に回答すると伝えました」
「五十か」
オットーが腕を組む。
「十増えるくらいなら焼ける。ただし祭り当日の朝に言われても無理だ」
「前日ではどうですか?」
「他の注文次第だな」
シアは朝作った表を見る。
「では、騎士団分については二日前までに確定してもらうのはどうでしょう」
「二日前なら調整できる」
「それなら服飾店の三十個も受けられそう?」
マルタが尋ねる。
シアはすぐに答えず、表へ数字を入れる。
騎士団が最大五十。
服飾店三十。
既存の定期分。
昨年の店頭販売数。
林檎パンを作る場合の追加。
「店頭分を去年より大幅に増やさなければ、数字上は入ります」
「数字上は?」
「オットーさんとマルタさんが作れる量は、私だけでは決められません」
「正解」
オットーが表を見る。
「服飾店の三十は受ける。ただし店まで取りに来てもらう。それならいける」
「種類の内訳も確認しますね」
「ああ」
「林檎パンは?」
マルタが聞く。
オットーはしばらく考えた。
「試作してからだ」
「よし」
マルタが嬉しそうに手を叩く。
シアも思わず笑う。
「試作はいつですか?」
「食べたいだけだろ」
「それもあります」
否定せずに答えると、オットーが呆れたように眉を上げた。
「堂々と言うようになったな」
「林檎が好きなので」
「いいじゃない。明日の午後、少し作ってみようよ」
「明日は騎士団の納品ないしな」
「では、私も手伝っていいですか?」
「もちろん」
祭りの準備表に、また一つ予定が加わる。
仕事なのに、楽しみだった。
「それから、もう一つ相談があります」
シアが言う。
「何?」
「ミレイユさんの秋穫祭の勤務が分かったそうです。二日目の午後なら空いていると聞きました」
マルタがすぐに笑顔になる。
「行っておいで」
「まだ店の予定を確認していません」
「だから今確認してるんでしょ?」
「そうですが」
シアは表を見る。
祭り二日目。
当日ほどではないにしても、普段より客は多いだろう。
「忙しくありませんか?」
「忙しいだろうね」
マルタはあっさり答えた。
「だったら――」
「でも一日中三人揃ってなきゃ店が潰れるわけじゃないよ」
シアは口を閉じる。
オットーも表を見ながら言う。
「午後なら朝の仕込みと一番忙しい時間は過ぎてる」
「でも、片付けや翌日の準備が」
「俺とマルタでできる」
「二人に負担が増えませんか?」
「増える」
また、あっさりと言われた。
シアは戸惑う。
「なら――」
「少し増えるのと、無理なのは違う」
オットーはシアを見る。
「お前が休みの日も、俺たちは仕事してただろ」
「はい」
「その逆もある。俺かマルタが休めば、お前が少し多く動く日もある」
言われて、シアは理解する。
誰か一人が休むことで、残る人の仕事が少し増えることはある。
だからといって、休んではいけないわけではない。
「二日目の午後、行ってきな」
マルタが言う。
「午前中まで手伝ってもらえれば十分だよ」
「……いいんですか?」
「行きたいんでしょ?」
問われ、シアは自分の気持ちを確かめる。
仕事が心配だから諦める。
それなら簡単だ。
けれど本当は、ミレイユと歩きたい。
この街の祭りを見たい。
「行きたいです」
「じゃあ決まり」
「ありがとうございます」
そう言ったあと、シアは少し考えて付け加える。
「もし当日、予想していなかったほど忙しくなったら相談してください。絶対に何があっても出かける、という意味ではありません」
「分かった。ただし、ちょっと客が増えたくらいで勝手に予定を取り消すなよ」
オットーに先回りされる。
「……分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは正直だねえ」
マルタが笑い、シアも困ったように笑った。
「気をつけます」
予定表の祭り二日目の午後。
シアはそこへ小さく印をつけた。
仕事ではない予定。
けれど、それも自分の予定だった。
◇
その日の夕方、店の客足が少なくなった頃、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアが顔を上げると、レオンハルトが入ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは」
今日は一人だった。
落ち着いた濃灰色の上着を着ており、いつものように店内を一度見渡してから棚へ近づく。
「今日は何になさいますか?」
「昨日の丸パンはうまかった」
唐突に言われ、シアは一瞬反応が遅れた。
「……私が成形したものですか?」
「ああ」
「本当ですか?」
「嘘を言う理由がない」
「そうですね」
シアは笑う。
「ありがとうございます」
「前に買ったものより形も良くなっていた」
「右側が少し高い方も分かりましたか?」
「分かった」
「やっぱり分かるんですね……」
「気にしているのか?」
「少しだけ。でも、オットーさんには売れると言われました」
「実際、問題なく食べた」
「ならよかったです」
以前なら、形が少し歪んだことばかりを気にしたかもしれない。
今は、次はもう少し上手く作りたいと思える。
「今日は何を買われますか?」
「おすすめは?」
聞かれ、シアは棚を見る。
丸パン。
黒麦パン。
胡桃パン。
蜂蜜パン。
白パン。
以前なら、商品の特徴だけを説明しただろう。
けれど、ふと昨日書いた紙を思い出した。
自分がしたい仕事。
自分が好きなもの。
そして、自分の意見。
「今日は胡桃パンがおすすめです」
「理由は?」
「焼き色がきれいです。それと、今日のものは胡桃が少し香ばしく焼けています」
「シアは好きなのか?」
「胡桃パンも好きです。でも……」
少し考える。
「今は林檎を使ったパンが楽しみです」
「林檎?」
「秋穫祭用に作るかもしれないんです。まだ試作前なので、売ると決まったわけではありません」
「なるほど」
「私、林檎が好きだと最近分かったので」
レオンハルトの目に、わずかな興味が浮かぶ。
「最近?」
「友達と果物茶を飲みに行ったんです。林檎と木苺をそれぞれ選んで、私は林檎の方が好きだと思いました」
「そういう意味か」
「はい」
「友達というのはミレイユか?」
「はい」
そこまで答えてから、シアは少し驚いた。
「ミレイユさんと友達だと、ご存じでしたか?」
「以前、二人で話しているところを見た。それにミレイユ本人が、友達だと言っていた」
「そうなんですね」
ミレイユが自分を友達だと、他の人にも普通に話している。
それが嬉しかった。
「秋穫祭も、予定が合えば一緒に回ることになりました」
「そうか」
「二日目の午後に行けそうです」
話してから、シアは自分が随分と仕事以外の話をしていることに気づいた。
「すみません。パンの話から随分離れてしまいました」
「俺が聞いたんだ。謝る必要はない」
「……そうでした」
謝りそうになった自分に気づき、シアは小さく息を吐く。
「では、謝りません」
レオンハルトの口元がわずかに緩んだ。
「それがいい」
その表情を見て、シアの胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなくなる。
嫌な感じではない。
けれど理由が分からず、シアは会計台へ視線を落とした。
「胡桃パンでしたね」
「ああ。二つもらおう」
「ありがとうございます」
包みながら、シアは尋ねる。
「レオンハルト様も秋穫祭ではお仕事ですか?」
「ああ。公爵家側でも確認することが多い。初日はほとんど自由にはならないだろう」
「大変ですね」
「毎年のことだ」
「では、二日目は?」
尋ねてから、シアは手を止めた。
なぜ二日目まで聞いたのだろう。
自分はミレイユと出かける予定だ。
レオンハルトの予定を知る必要はない。
「二日目か?」
「……すみません。特に意味はありません」
反射的に謝ってから、また気づく。
「いえ、今のは……聞いてはいけないことなら、答えなくて大丈夫です」
言い直す。
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「午後なら中央広場を見に行く可能性はある。公爵家の人間として顔を出す必要があるからな」
「そうなんですね」
「会うかもしれないな」
「人が多いなら、分からないかもしれません」
「確かに」
二人とも少し笑った。
シアは胡桃パンの包みを渡す。
「銅貨十二枚です」
レオンハルトが代金を置く。
「林檎のパンができたら教えてくれ」
「売ることになったら、ですね」
「ああ」
「まだ試作前なので、お約束はできません」
「分かっている」
その返事があまりに自然で、シアは嬉しくなる。
この人は、自分が「まだ決まっていない」と言っても不機嫌にならない。
できない約束をしなくてもいい。
「では、決まったらお知らせします」
「楽しみにしている」
レオンハルトが店を出ていく。
扉の鈴が鳴り、外の人波へその背中が消えた。
シアは会計台へ戻ろうとして、厨房との境に立つマルタに気づいた。
「……いつからいました?」
「胡桃パンのあたり」
「ほとんど最初ではありませんか」
「邪魔しちゃ悪いと思って」
「普通の接客です」
「そうだね」
マルタはそれ以上何も言わず、意味ありげに笑うこともしなかった。
ただ厨房へ戻る前に、一度だけシアの顔を見る。
「楽しそうに話せるお客さんが増えるのは、いいことだよ」
「……はい」
それなら、素直に頷ける。
シアは会計台へ戻り、レオンハルトから受け取った代金を箱へしまった。
◇
夜。
仕事を終えたシアは、自室の机へ祭りの予定を書き加えていた。
仕事の予定表ではない。
昨日まで確認したいことを書いていた紙とは別に、小さな紙を一枚用意した。
秋穫祭二日目。
午前――《麦穂亭》を手伝う。
午後――ミレイユと中央広場。
まだ変更の可能性はある。
それでも、自分の予定として書いた。
シアはその文字をしばらく眺めた。
伯爵家にいた頃にも予定表は作っていた。
父の予定。
継母の茶会。
リリアナの買い物。
ディートリヒとの会食。
商人の訪問。
贈答品の手配。
使用人の衣類。
屋敷の備品。
そこにはいつも、誰かのための予定が並んでいた。
自分の予定を書くことは、ほとんどなかった。
今、目の前の紙には自分の名前こそ書かれていないが、すべて自分の予定だった。
仕事をする。
友達と出かける。
祭りを見る。
そのどれも、誰かから命令されたものではない。
(私の予定なんだ)
指先で紙の端へ触れる。
たった二行なのに、捨てたくないと思った。
机の引き出しを開ける。
そこには空色の髪紐を買ったときの小さな財布や、母から残された銀のペンダントがある。
シアは少し迷ってから、祭りの日の紙をその中へしまった。
大切なものと同じ場所に置きたかった。
引き出しを閉め、今度は正式雇用について書いた紙を広げる。
今日、また一つ分かったことがある。
シアは「自分がやりたい仕事」の欄へ、文字を加えた。
――分からないことは、分かる人に聞く。
書いてから、少し笑う。
仕事の種類ではない。
けれど、これから働くうえで自分が大切にしたいことだった。
さらに、その下へもう一行。
――一人で全部やろうとしない。
こちらは書いた瞬間、自信がなくなった。
「……これは難しそう」
思わず声に出る。
それでも消さない。
できることだけを書くのではなく、これからできるようになりたいことを書いてもいいはずだ。
今日、祭りの注文を考えたときも、オットーにパン作りの工程を聞いた。
騎士団で人数の増加を聞いたときも、その場で約束しなかった。
ミレイユとの予定も、《麦穂亭》へ戻って確認した。
以前より少しはできている。
窓の外から、人々の笑い声が聞こえた。
祭りの飾り付けを終えた職人たちが帰るところらしい。昼間に比べれば静かな通りには、軒先へ吊るされた飾りが夜風を受けて揺れている。
シアは窓辺へ立った。
遠くに中央広場の灯りが見える。
数日後には、あそこをミレイユと歩いているかもしれない。
もしかすると、仕事で来ているレオンハルトとも会うかもしれない。
明日は林檎パンの試作をする。
騎士団へ伝える条件も決める。
服飾店からの注文も正式に受けることになるだろう。
やることは増えている。
それでも、以前のように息苦しくはなかった。
違いは、仕事量だけではない。
自分一人の責任ではないからだ。
オットーがパンを焼く。
マルタが客と話す。
自分が数字を整理する。
必要なら互いに確認する。
疲れれば休む。
分からなければ聞く。
そして、仕事が終われば自分の時間へ戻る。
(ここでなら、働いていけるかもしれない)
昨日は「ここにいたい」と思った。
今日は、その気持ちが少しだけ具体的になった。
ただ置いてもらう場所ではない。
自分の得意なことを使い、知らないことを教えてもらい、ときには誰かを手伝い、自分も手伝ってもらう場所。
そんな働き方を、シアは今まで知らなかった。
窓を閉め、寝台へ向かう。
明日も朝は早い。
けれど、林檎パンの試作があると思うと少し楽しみだった。
(おいしいといいな)
仕事のことなのに、最初に浮かんだのは売上でも効率でもなかった。
自分が食べて、おいしいと思えるものができたら嬉しい。
そして、それを店へ来る人たちにも食べてもらえたらもっと嬉しい。
そんな単純な気持ちを抱きながら、シアは毛布へ身体を沈めた。
階下には、明日のために整えられた《麦穂亭》の厨房がある。
引き出しには、友達と出かける予定を書いた紙がある。
机には、自分がこれからどんなふうに働きたいのかを書き始めた紙がある。
仕事だけでもない。
休みだけでもない。
誰かに与えられた予定だけでもない。
少しずつ増えていくそれらすべてが、今のシアの暮らしだった。
そしてその暮らしを、これからも自分で選んでいきたいと思えることが、何より嬉しかった。




