第25話 ここで働き続けたい
翌日の午後、《麦穂亭》の厨房には、いつもの小麦や焼きたてのパンとは少し違う、甘酸っぱい香りが漂っていた。
作業台の端にはローザから仕入れた林檎が六つ並び、その隣では蜂蜜の瓶が秋の日差しを受けて淡い琥珀色に輝いている。朝の営業が一段落したあと、オットーは通常の仕込みに使う生地から一部を取り分け、祭りへ向けた林檎パンの試作を始めていた。
「シア、林檎を剥けるか」
「はい」
頼まれたシアは袖を少し上げ、洗っておいた林檎を手に取った。
「大きさはどうしますか?」
「去年は細かく切った。煮崩れすぎない程度だ」
「分かりました。これくらいでしょうか」
最初の一つを切り、オットーへ見せる。彼は指先で一片を摘まんで確認すると、小さく頷いた。
「それでいい。全部同じにしようとしすぎるなよ」
「……先に言われました」
「お前は言っとかないと揃えようとするからな」
「気をつけます」
シアは苦笑しながら次の林檎へ手を伸ばした。
以前なら、同じ大きさに切れと言われていなくても、すべてを寸分違わず揃えようとしたかもしれない。形が違えば失敗だと思い込み、必要以上に時間をかけていただろう。
今は、目的を考えられる。
食べたときに極端な差が出ず、火の通りが揃えばいい。見た目だけを完璧にすることが目的ではない。
「そのくらいで十分だよ」
向かい側で鍋を用意していたマルタが言った。
「お祭りで一個ずつ林檎の大きさを測ってたら、日が暮れちゃうからね」
「はい」
「返事が素直になったねえ」
「前も素直だったと思います」
「前は『はい』って言いながら、こっそり完璧にしようとしてた」
図星だった。
シアが包丁を持ったまま黙ると、マルタが声を立てて笑う。
「ほら、当たってる」
「……少しだけです」
「少し?」
「たぶん」
「そこも正直になった」
からかわれているのに、不快ではなかった。
シアは林檎を切りながら、自分でも口元が緩んでいることに気づく。
最後の一つを切り終える頃には、鍋の中へ蜂蜜と少量の水が入れられていた。そこへ林檎を加えると、マルタが木匙でゆっくり混ぜていく。
熱が入るにつれて、甘い香りが厨房いっぱいに広がった。
「いい匂いですね」
「まだ食べちゃ駄目だよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……一つくらいなら、と思いました」
正直に答えると、今度はオットーまで鼻で笑った。
「味見は必要だ」
「では」
「まだ早い」
「はい」
伸ばしかけた手を素直に引っ込める。
林檎が少し透き通るまで煮えたところで、オットーが火から下ろした。完全に冷めるまでは生地へ包めないらしく、その間にシアは店頭へ戻り、午後の客を迎えることになった。
◇
秋穫祭を目前にした通りは、朝よりさらに賑やかだった。
祭りのために街へ入ってきた商人が荷を運び、近隣から来たらしい家族連れも増えている。通りの上には麦穂と色布を組み合わせた飾りが渡され、風が吹くたび、橙や赤の布が秋空の下で柔らかく揺れた。
《麦穂亭》でも普段より客足が多く、シアは会計と品出しを行き来していた。
「丸パン四つと白パンを六つ」
「ありがとうございます。白パンは三つで銅貨十二枚ですので、六つで二十四枚です。丸パン四つが二十枚ですから、合わせて四十四枚になります」
代金を受け取り、包みを渡す。
次の客へ声をかけようとしたところで、店の外から見覚えのある少年が顔を覗かせた。
「シアお姉ちゃん!」
「ニコ君、こんにちは」
ニコは店へ入るなり、棚を端から端まで確認した。
「林檎のパンは?」
「まだ試作中です」
「今日作るって聞いた」
「誰からですか?」
「ローザおばさん」
情報が早い。
シアが思わず笑うと、隣でパンを並べていたマルタが呆れたように腰へ手を当てた。
「ローザったら、もう喋ったの?」
「お母さんも知ってるよ」
「まだ売るって決まってないんだけどねえ」
「おいしかったら売るんでしょ?」
ニコの問いに、シアは厨房を見る。
「おいしいだけでは決められないんです」
「なんで?」
「必要な林檎を仕入れられるか、他のパンを作る時間が足りるか、値段をいくらにするか、それから何個くらいなら無理なく作れるかも考えないといけません」
ニコは難しい顔になった。
「パンって、作って売るだけじゃないんだ」
「そうですね。私もここで働くようになってから、たくさん知りました」
「じゃあ、作れるように頑張って」
「できる範囲で頑張ります」
「絶対作って、じゃないの?」
「できない約束はしないんです」
シアが答えると、ニコは少し考えたあとで頷いた。
「じゃあ、できたら一個取っといて」
「それも予約を受けると決まってからですね」
「シアお姉ちゃん、前より厳しい」
「そうでしょうか?」
「でも笑うようになった」
思いがけない言葉に、シアの動きが止まった。
ニコは深く考えて言ったわけではないらしく、そのまま棚に並ぶパンを見ている。
「最初の頃、もっとずっとこうしてた」
少年は自分の顔を真面目そうに固めてみせた。
「私、そんな顔をしていましたか?」
「してた」
横からマルタが答えた。
「マルタさんまで」
「今だって真面目な顔はするけどね。前とは違うよ」
シアは自分の頬へ触れた。
自分の顔を一日中見ることはできないから、どれほど変わったのかは分からない。
けれど最近、笑うことが増えた自覚はあった。
「今の方がいいよ」
ニコは簡単に言うと、丸パンを二つ買って帰っていった。
扉の鈴が小さく鳴る。
シアはその背中を見送ったあと、しばらく自分の頬に残った温かさを意識していた。
「子どもはよく見てるからね」
マルタが言う。
「……そうですね」
「嫌だった?」
「いいえ」
シアは首を横に振る。
「嬉しかったです」
以前の自分を否定したいわけではない。
あの頃の自分は、そうしなければ生きていけなかった。
笑わない方が安全だった。意見を言わない方が責められず、欲しいものを欲しいと言わなければ奪われたときの痛みも少なくて済んだ。
けれど、ここでは少し違う。
(今の方が好きかもしれない)
その気持ちは、まだ誰かへ言うには少し照れくさかった。
だから胸の中だけで大切にして、次の客へ「いらっしゃいませ」と声をかけた。
◇
午後の客足が落ち着くと、いよいよ林檎パンの試作が始まった。
冷ました林檎を生地へ包む作業は、シアが想像していたより難しい。欲張って具を入れすぎると閉じられず、少なすぎればパンを割ったときに寂しく見える。
オットーが最初に見本を一つ作った。
「これくらいだ」
「林檎は三切れくらいですね」
「大きさで変えろ。数だけ覚えるな」
「はい」
シアも一つ作ってみる。
生地を広げ、中央へ林檎を置き、包む。
最初の一つは閉じた部分が少し厚くなった。
「これはどうでしょう」
「焼ける」
「直さなくていいですか?」
「その程度ならな」
「分かりました」
二つ目は林檎を少し減らす。
今度はきれいに閉じられたが、マルタが横から覗き込んだ。
「それ、ちょっと中身が少なくない?」
「そうですか?」
「祭りで買って割ったとき、『林檎これだけ?』って思われるかも」
シアは最初のものと見比べる。
「では、一つ目と二つ目の間くらいでしょうか」
「そうだな」
オットーが頷く。
三つ目。
今度は林檎を適度に入れ、閉じる部分を厚くしすぎないよう注意する。
「これなら?」
「いい」
シアは嬉しくなった。
「では、これを基準にします」
「全部同じじゃなくていいぞ」
「分かっています」
「念のためだ」
「オットーさん、最近そればかり言います」
「必要なくなったら言わん」
「では、早く言われなくなるようにします」
「それで無理に完璧にしようとしたら意味ないだろ」
言い返せなくなり、シアは口を閉じた。
マルタが隣で吹き出す。
「オットーの勝ち」
「勝負だったんですか?」
「今決めた」
「ずるいです」
そんな話をしながら、三人で十二個の試作品を作った。
半分には蜂蜜で煮た林檎だけを入れ、残りには少量の胡桃を加えて食感を変える。焼く前に目印として胡桃入りの方へ小さな切れ込みを入れ、窯へ運んだ。
焼き上がるまでの時間、シアは何度も窯の方を見てしまう。
「見ても早く焼けないよ」
マルタに言われる。
「分かっています」
「でも気になる?」
「はい」
「私も」
二人で笑う。
やがて厨房へ、焼けた小麦と林檎、蜂蜜の香りが広がり始めた。
オットーが窯から天板を取り出す。
表面はこんがりと色づき、切れ込みを入れた方からは胡桃の香ばしい匂いも混じっている。
「すぐ食べるなよ」
オットーが先に釘を刺した。
「分かっています」
「顔が食べたそうだぞ」
「食べたいですから」
「否定しなくなったねえ」
マルタが楽しそうに笑った。
少し冷ましてから、三人は一つ目を切り分けた。
蜂蜜林檎だけのもの。
シアは渡された一切れを手に取る。
まだ温かい。
「いただきます」
一口食べる。
柔らかなパンの中から、林檎の甘酸っぱさが広がった。蜂蜜の甘さは強すぎず、噛むと林檎の食感も少し残っている。
シアの目が自然に大きくなる。
「おいしいです」
「本当に?」
「はい。好きです」
迷わず言えた。
「林檎をもう少し甘くした方がいいか?」
オットーが聞く。
シアはもう一口食べ、考える。
「私は、このくらいが好きです。林檎の酸味が残っていますし、蜂蜜を増やすとパン自体の味が分かりにくくなる気がします」
「私も今くらいかな」
マルタが頷く。
「子ども向けなら甘い方が喜びそうだけど、大人も買うからね」
次に胡桃入りを食べる。
こちらは食感が増し、香ばしさも強い。
「こっちもおいしいですね」
「祭りで二種類出すか?」
マルタの提案に、シアはすぐには賛成しなかった。
昨日まで作っていた表を思い出す。
「二種類にすると、作業が増えませんか?」
「増えるな」
オットーが即答する。
「値札も二つになりますし、数の管理も分ける必要があります」
「じゃあ一種類?」
「私は、その方がいいと思います。胡桃入りもおいしいですけれど、祭りで初めて出すなら、まず林檎だけの方が分かりやすいです」
マルタは二種類を食べ比べてから頷いた。
「確かにね。それに胡桃が苦手な人もいるし」
「林檎だけでいくか」
オットーが決める。
「値段は?」
「材料を計算します」
シアは待っていたように帳面を引き寄せた。
林檎の仕入れ値。
蜂蜜。
生地。
通常の丸パンより少し大きい一個当たりの使用量。
薪や細かな費用まで厳密に一個単位へ割り振ることは難しいが、少なくとも材料費と普段の商品との釣り合いは見られる。
計算しながら、シアは途中で手を止めた。
「ローザさんが、林檎は祭り直前に値上がりする可能性があると言っていました」
「ああ」
「今の仕入れ値だけで決めない方がいいですね」
「じゃあ少し余裕を見る?」
「はい。ただ、高くしすぎると買いにくくなります」
オットーが腕を組む。
「九枚」
シアは計算を見る。
「銅貨九枚なら、林檎が少し上がっても大丈夫そうです」
「去年はいくらだったっけ?」
「八枚だったと思う」
マルタが答える。
「今年は材料が少し上がってるからね」
「では九枚で試して、販売数は……」
シアは言いかけて止まる。
これは自分だけで決めることではない。
「何個なら作れますか?」
「祭り当日なら四十」
オットーが答えた。
「二日目は?」
「三十くらいだな。他の注文次第で増減する」
「では、最初から全部売れる前提で増やさず、その数を基準にしましょう。売り切れが早ければ、来年の記録にも残せます」
「来年か」
マルタが呟いた。
シアはそこで、自分が自然に「来年」と言ったことに気づいた。
筆を持った指が止まる。
来年。
そのときも自分が《麦穂亭》にいることを、まるで当然のように考えていた。
胸が少しだけ速く鳴った。
「シア?」
マルタが気づく。
「どうしたの?」
「いえ……」
誤魔化そうとして、やめる。
「今、来年の記録に残せると言いました」
「言ったね」
「私……来年もここにいるつもりで考えていたみたいです」
口にすると、急に恥ずかしくなる。
まだ正式に働き続けると決まったわけではない。
一か月の試用期間がある。
それなのに勝手に来年まで考えてしまった。
「すみません」
反射的に謝り、すぐに唇を閉じる。
「……今のは、謝ることではないですね」
「うん」
マルタは穏やかに答えた。
オットーも何も否定しない。
厨房には焼きたての林檎パンの香りが残っている。外からは客の歩く音が聞こえ、窓の向こうでは祭りの飾りが風に揺れていた。
シアは手元の帳面を見る。
「来年も、ここにいたいです」
今度は、はっきりと言った。
◇
マルタはすぐには返事をしなかった。
驚いたからではない。
シアが自分から言葉を続けようとしているように見えたからだ。
最初に店へ来た日の少女なら、「ここで働かせてください」と言うだけでも、身体中へ力を入れていた。
失敗したら追い出されると思っていた。
休めと言えば不安そうな顔をし、食事を出せば申し訳なさそうにし、部屋を使わせても鍵を握ったまま戸惑っていた。
そのシアが今、自分の意思で未来を口にしている。
マルタは急かさなかった。
「ここで、働き続けたいです」
シアがもう一度言う。
「パン作りはまだ全然できません。接客も、マルタさんみたいにはできません。でも、帳簿や注文を整理する仕事は好きです。仕入れについて考えるのも好きだと分かりました。それから……パン作りも、もっと覚えたいです」
言葉を重ねるにつれて、シアの声から迷いが少しずつ消えていく。
「分からないこともたくさんありますし、たぶん、また一人でやろうとしてしまうこともあると思います。でも、それも直していきたいです」
シアはそこで一度息を整えた。
「だから、一か月が終わったあとも、《麦穂亭》で働きたいです」
マルタは隣にいる夫を見る。
オットーはいつものように腕を組んでいた。
「だそうだよ」
「聞こえてる」
「何か言ってあげなよ」
「お前が言えばいいだろ」
「こういうときくらい店主らしくしな」
「お前も店主だ」
二人が言い合い始め、シアは思わず瞬きをした。
大切なことを言ったつもりだったのに、いつもの調子である。
けれど、そのいつものやり取りが逆に緊張を解いてくれた。
「ふっ……」
小さく笑いが漏れる。
マルタが振り返った。
「何笑ってるの」
「すみません。いえ、謝りません」
「そうそう」
「大切な話なのに、いつも通りだなと思って」
「大切な話だからって、急に別人みたいになる必要ないだろ」
オットーが言った。
その言葉に、シアはまた笑った。
「そうですね」
オットーは作業台へ片手を置き、シアを見る。
「俺たちも、お前が続けたいなら雇うつもりだった」
シアの笑みが止まった。
「……本当ですか?」
「ああ」
「いつから……」
「だいぶ前から」
「そんなに前からですか?」
「試用期間だから黙ってた」
マルタが補足する。
「私たちだけで勝手に『残ってほしい』って決めて、シアが嫌だって言えなくなったら困るでしょ?」
シアは返事ができなかった。
残ってほしい。
その言葉が胸の中へ落ちてくるまで、少し時間がかかった。
(私に、残ってほしいと思ってくれていた)
役に立つから。
それだけではないのかもしれない。
もちろん仕事なのだから、働けることは必要だ。
けれどマルタとオットーは、シアが何をしたいのかを先に聞こうとしてくれた。
自分たちが雇いたいという気持ちを、彼女の選択より前へ出さなかった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
マルタが柔らかく笑う。
「まだ正式な条件の話はしてないよ」
「それでも、嬉しいです」
「なら、ちゃんと話そうか」
マルタは椅子を引いた。
「試用期間が終わる前にと思ってたけど、シアが先に言ってくれたからね」
シアも向かいへ座る。
オットーは一度窯を確認してから、二人の横へ椅子を持ってきた。
昨日まで紙へ書いていた確認事項が、頭の中へ浮かぶ。
給金。
休み。
部屋。
食事。
仕事内容。
自分がやりたいこと。
「確認したいことがあります」
シアが言う。
「うん。聞いて」
「正式に働くことになった場合、今の部屋は引き続き使わせていただけますか?」
「そのつもりだよ。住み込みでいいならね」
「使いたいです」
「食事も今まで通り。朝と夜は基本的に一緒、昼は仕事の流れ次第」
「はい」
「給金は試用中より上げる」
オットーが具体的な条件を説明する。
シアは聞きながら、必要なところを紙へ書いた。試用期間中より責任が増える分、給金も増える。帳簿や注文管理は正式な仕事の一部として扱い、パン作りについては見習いとして続ける。
「休みはどうなりますか?」
自分から聞いた。
以前なら、最も尋ねにくかったことだ。
マルタは特別なことのように扱わず答える。
「今までと同じように取ってもらう。ただ、祭りや大口注文があるときは前後へずらすこともある。その場合は相談して決める」
「分かりました」
「休みはいりません、とか言わないんだね」
「……少し言いそうになりました」
「言いそうになったんだ」
「でも、聞くと決めていたので」
シアは持ってきていた紙を見せる。
「昨日、確認したいことを書いておいたんです」
マルタが覗き込む。
「ずいぶん書いたね」
「考え始めたら増えました」
「いいことだ」
オットーが言う。
「働くなら条件は聞いとけ」
シアは頷く。
伯爵令嬢だった頃、働くという概念を自分へ当てはめたことはなかった。
仕事はしていた。
誰よりも多くの書類を整理し、家の予定を管理し、贈答や支払いを確認していた。
けれど給金はなかった。
休みを決める権利もなかった。
仕事の範囲も曖昧で、終われば次が増えた。
何をすればいいかではなく、何でもしなければならなかった。
今は違う。
「もう一つ、いいですか?」
「もちろん」
「仕事の範囲についてです」
シアは自分で書いた項目を見る。
「帳簿や注文、在庫の確認を担当するようになったとしても、最終的に店として決めるのはオットーさんとマルタさん、ということで合っていますか?」
「ああ」
「仕入れ先との相談に私が参加することはありますか?」
「あるだろうな。ハンスのところにも連れていったし」
「その場合も、私が勝手に契約を決めることはしない」
「当然だ」
「では、私が確認して整理して、必要なら意見を言うところまでですね」
「今のところはな」
今のところ。
その言葉に、シアは顔を上げる。
「将来は変わる可能性があるんですか?」
「お前が覚えればな」
オットーの答えは簡単だった。
「最初から全部任せる気はない。だが、何年経っても同じ仕事だけさせるとも言ってない」
何年。
また未来を示す言葉が出た。
今度は驚くより先に、嬉しいと思えた。
「覚えたいです」
「なら覚えろ」
「はい」
シアは紙へ一つ印をつけた。
自分がしたい仕事。
帳簿。
注文。
仕入れ。
接客。
パン作り。
全部を完璧にできる必要はない。
少しずつ覚えればいい。
「それから……」
最後の質問だけは、少し迷った。
「何?」
マルタが待ってくれる。
「もし私が、仕事を抱えすぎているように見えたら、教えてもらえますか?」
マルタの表情が柔らかくなる。
「もちろん」
「自分でも言う練習はします。でも、まだ気づくのが遅いかもしれないので」
「分かった」
オットーも頷く。
「ただし、俺たちが言うまで黙ってていいって意味じゃないぞ」
「はい」
「困ったら?」
シアは一瞬だけ迷う。
以前なら、「大丈夫です」と答えただろう。
今は違う答えを探す。
「……相談します」
「もっと具体的に」
オットーに言われ、シアは息を吸った。
助けてください。
その言葉が喉元まで来た。
けれど、声にするにはまだ少し怖い。
誰かへ助けを求めることは、自分の弱さを渡すことのように感じてしまう。
シアはそれをごまかさなかった。
「まだ……『助けてください』とすぐ言える自信はありません」
「うん」
マルタは急かさない。
「でも、困っています、とか、一人では難しいです、とか……そういう言い方なら、前よりできると思います」
「それでいい」
オットーが言った。
「言い方は何でもいい。黙って潰れなきゃな」
胸の奥にあった緊張が、少しほどけた。
「はい。練習します」
今度は自分から言った。
◇
正式な雇用条件についての話が一段落した頃、店の扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアが立ち上がって店頭へ出ると、そこにはローザがいた。
その後ろからニコまで顔を覗かせている。
「どうでした?」
ローザが開口一番に尋ねた。
「何がですか?」
「林檎パン」
「ローザさん、情報を広めすぎです」
「広めてないよ。ニコにしか言ってない」
「そのニコ君がお母様にも話しています」
「じゃあ三人だけ」
「十分です」
シアが困ったように笑うと、ローザも笑った。
「で、おいしかった?」
「はい」
「売る?」
シアは一度厨房を見る。
オットーが頷いた。
「売ります」
「やった!」
なぜかニコが一番喜んだ。
「秋穫祭当日からです。蜂蜜で煮た林檎を包んだパンで、一つ銅貨九枚の予定です」
「予約は?」
「大量でなければ、祭り当日の店頭販売を優先します」
「僕のは?」
「早く来てください」
「取っといてよ!」
「それを始めると、みんなの分を取っておかなければならなくなります」
シアが真面目に答えると、ニコは唇を尖らせた。
「厳しい」
「店員ですから」
そう答えた自分に、シアは少し驚いた。
店員。
《麦穂亭》の店員。
その言葉を、今は何のためらいもなく自分へ使える。
「林檎、どのくらいいる?」
ローザが仕事の顔になる。
シアは用意していた試算表を持ってくる。
「祭り初日は四十個、二日目は三十個を基準にします。通常の商品へ使う分はありませんので、試作で使った量から考えると――」
必要数を伝える。
ローザは頷きながら聞いた。
「そのくらいなら確保できるよ。ただ、値段は昨日言った通り、少し上がるかもしれない」
「上限はどのくらいになりそうですか?」
「今のところ、一籠で銅貨五枚増しくらいまでだと思う」
シアは頭の中で計算する。
「その範囲なら、販売価格を変えなくても大丈夫です」
「じゃあ押さえとく?」
ここで自分だけでは決めない。
「オットーさん、マルタさん」
二人も店頭へ出てくる。
条件を説明し、確認する。
「それで頼む」
オットーが決めた。
「分かりました。ローザさん、その条件でお願いします」
「はいよ」
話が決まる。
シアは帳面へ仕入れ予定を書き込んだ。
ローザがその手元を見てから、ふと尋ねる。
「そういやシアちゃん、ここに来てそろそろ一か月じゃない?」
シアの手が止まる。
「はい」
「そのあとどうするの?」
「ローザ」
マルタが軽くたしなめた。
「あ、ごめん。余計なこと聞いた?」
「いいえ」
シアは首を横に振る。
今なら答えられる。
「これからも《麦穂亭》で働かせてもらうことになりました」
ローザの顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「はい」
「よかったじゃない!」
「ありがとうございます」
「そりゃよかったよ。あんたがいなくなったら、ここの帳面また大変なことになりそうだし」
「おい」
オットーが低い声を出す。
「冗談だよ」
「半分本気だろ」
「半分はね」
ローザは笑ったあと、シアを見る。
「でも本当に、よかったね」
今度の声は少し穏やかだった。
シアも笑う。
「はい。私も、嬉しいです」
「じゃあ祭りの林檎、いいの持ってくるよ。就職祝い込みで」
「代金はきちんと払います」
「そこは商売だから払ってもらうよ」
「なら安心しました」
「シアちゃんらしいねえ」
店の中に笑い声が広がった。
◇
夕方、騎士団から使いの者が訪れた。
秋穫祭期間中の食事人数が正式に決まったという。
「初日は四十八名、二日目は五十名を予定しております。三日目からは通常に戻る見込みです」
シアは内容を書き留める。
「ありがとうございます。増量分について確認いたしますので、少々お待ちください」
オットーと相談する。
通常四十個から、初日は八個増。
二日目は十個増。
既存の祭り注文と合わせても、事前に分かっていれば対応可能な範囲だ。
「受ける」
オットーが答えた。
シアは使者へ向き直る。
「初日四十八個、二日目五十個で承ります。丸パンと黒麦パンの内訳は、通常と同じ割合でよろしいでしょうか?」
「可能であればお願いします」
比率を計算し、端数を調整する。
「では初日は丸パン三十個、黒麦パン十八個。二日目は丸パン三十一個、黒麦パン十九個でいかがでしょう」
「問題ありません」
「追加変更については、仕込みの都合上、今後はできる限り二日前までにお願いいたします。急な変更の場合は、対応できる範囲でのご相談になります」
「承知しました」
正式に決まった数量を注文帳へ記入する。
祭り用の表の空欄が、また一つ埋まった。
使者を送り出したあと、シアは全体を確認する。
服飾店三十個。
騎士団四十八、五十。
既存定期分。
店頭販売。
林檎パン。
作る数だけ見れば多い。
けれど、前日準備と当日の工程を分け、焼く順番も決めてある。
「これなら、いけそうですね」
「いけそう、で止めとけ」
オットーが言う。
「絶対いけるとは言わない」
「はい」
「当日何があるか分からんからな」
「分かりました」
確定していることと、予想。
できることと、できると思うこと。
その違いを、シアは以前より意識するようになっていた。
「それで」
マルタが祭り二日目の欄を指す。
「午後はちゃんと行くんだからね」
「……この数でもですか?」
「朝から昼まで手伝ってもらう。そこから先は私たちでやる」
「でも、五十個あります」
「騎士団分は午前中に渡す」
「服飾店も」
「それも午前」
「林檎パンが残ったら」
「店で売る」
「片付けが――」
「シア」
マルタが名前を呼ぶ。
シアは口を閉じた。
「何て約束した?」
「少し忙しくなったくらいで、勝手に予定を取り消さない」
「うん」
「今のところ、予定通り準備すれば回る。違う?」
シアは表を見る。
「……違いません」
「じゃあ行っておいで」
「はい」
まだ少し不安だ。
けれど、同時に楽しみでもある。
「ミレイユさんに伝えておきます」
「そうしな」
シアは祭り二日目の午後につけた小さな印を消さなかった。
◇
夜、自室へ戻ったシアは、机の前に座って一日の記録を整理した。
秋穫祭の注文。
林檎の仕入れ。
騎士団の増量。
明日確認すること。
そして、正式雇用について話した内容。
給金。
住み込みの部屋。
食事。
休み。
仕事内容。
自分がやりたいこと。
紙へ書いていた疑問には、ほとんど答えがついた。
シアは一番上へ、新しい一文を書いた。
――試用期間終了後も、《麦穂亭》で働く。
文字を書き終え、筆を置く。
何度見ても嬉しかった。
(私が決めた)
父に決められたのではない。
婚約者に求められたのでもない。
家の都合でもない。
逃げた先で仕方なく続けるのでもない。
自分でここにいたいと思い、それを言葉にして、条件を確認したうえで決めた。
机の引き出しを開ける。
母の銀のペンダント。
空色の髪紐を買ったときから使っている財布。
秋穫祭でミレイユと出かける予定を書いた小さな紙。
その横へ、今日まとめた正式雇用の紙を入れようとして、シアは一度手を止めた。
これは店の仕事に関わる大切な記録だから、引き出しへしまい込むより、必要なときすぐ確認できる場所の方がいい。
そう考えて、机の上にある書類入れへ移した。
「……こっちですね」
自分で置き場所を決める。
そんな些細なことさえ、今は少し楽しい。
窓辺へ行くと、街は祭りを目前にしてまだ明るかった。中央広場の方角では準備が続いているらしく、灯りの下を人影が行き交い、ときおり木材を動かす音が夜の空気を伝ってくる。
この街へ着いた日、自分は何も持っていないような気がしていた。
実際には少しのお金があった。
衣服があった。
裁縫道具があった。
母のペンダントがあった。
料理も洗濯も掃除もできた。
文字も読めた。
計算もできた。
帳簿も扱えた。
働くために必要なものを、自分は思っていたよりたくさん持っていた。
足りなかったのは、それらを自分自身のために使ってもいいと思う気持ちだったのかもしれない。
家族のためではなく。
婚約者のためでもなく。
誰かに怒られないためでもない。
自分で選んだ場所で、自分が暮らしていくために使う。
(私、ちゃんと働けている)
胸の奥へ、ゆっくりと実感が広がった。
まだパン職人ではない。
帳簿だって知らないことはある。
仕入れも、ハンスと話したことでようやく入り口へ立ったところだ。
失敗もする。
今日だって、誰かに言われなければ仕事を抱えすぎるかもしれない。
それでもいい。
間違えたら直す。
分からなければ聞く。
一人で難しければ相談する。
疲れたら、疲れたと言う。
嫌なことは、嫌だと伝える。
そして、楽しいことは楽しいと言っていい。
シアは窓辺で小さく笑った。
明日は祭りの準備がさらに忙しくなる。
林檎パンを正式に作るための材料も届き始める。
ミレイユには二日目の午後に行けると伝えたい。
仕事がある。
友達との約束がある。
自分の部屋がある。
明日の食事を心配しなくていい。
そして試用期間が終わったあとにも、ここへ戻ってくる生活が続いている。
「……嬉しい」
声にしてみる。
誰もいない部屋で、自分だけが聞く言葉だった。
それでも、以前とは違う。
嬉しいと感じたことを、自分で否定しない。
シアは机へ戻ると、秋穫祭の予定を書いた紙を引き出しから取り出した。
二日目の午後。
ミレイユと中央広場。
その下へ、新しく一つ書き加える。
――林檎のお茶を飲めたら嬉しい。
書き終えてから、自分でも少しおかしくなった。
仕事の予定でも、必要な用事でもない。
ただ自分がしたいこと。
それを忘れないための予定だった。
シアは紙を引き出しへ戻し、灯りを消す前にもう一度だけ《麦穂亭》の床へ耳を澄ませた。
階下は静かだった。
明日の朝になれば、またオットーが窯へ火を入れ、マルタが店を開ける準備を始める。シアもそこへ下り、三人で一日を始める。
それはもう、借り物の生活には思えなかった。
逃げてきた自分が一時的に身を隠す場所でもない。
シアは寝台へ入り、毛布を胸元まで引き上げた。
(ここで働きたい)
今日、自分の口で伝えた言葉をもう一度心の中で確かめる。
そのあとへ、今度は少しだけ違う言葉が続いた。
(ここで暮らしていきたい)
まだ遠い未来のことまでは分からない。
一年後も、何年後も、すべてが同じとは限らない。
けれど少なくとも今は、自分からこの場所を選びたいと思っている。
その気持ちだけで十分だった。
窓の外を吹く秋の風が、祭りの飾りを小さく揺らしている。
もうすぐ、この街で初めての秋穫祭が始まる。
そして祭りが終われば、シアは試用中の住み込み店員ではなく、正式な《麦穂亭》の店員として新しい朝を迎えることになる。
その日を想像しても、もう怖くはなかった。




