第26話 祭りの前日に選ぶもの
秋穫祭を翌日に控えた朝、《麦穂亭》の前を通る人々の足取りは、普段より明らかに忙しなかった。
通りの上には麦穂を束ねた飾りと赤や橙の布が渡され、店先へ小さな旗を取り付ける商人や、荷車いっぱいの商品を運び込む職人の姿が絶えない。中央広場の方角からは屋台を組み立てる槌音が風に乗って届き、窓を開けるたび、焼いた木の匂いと乾いた秋の空気が店内へ入り込んできた。
《麦穂亭》でも、いつもの朝とは少し違う光景が広がっている。
厨房ではオットーが通常分のパンを焼きながら、明日の仕込みに使う材料を作業台の端へ分けていた。店側ではマルタが祭り用の値札を書き、シアは会計台の上へ広げた注文表と在庫表を見比べながら、今日中に確認すべき項目へ一つずつ印をつけている。
「林檎は昨日の夕方に届いた分で足ります。蜂蜜も予定数を作るには問題ありません。小麦粉はハンスさんから追加分が届く予定で、黒麦粉は今ある分と今日の納品分で足ります」
指で行を追いながら確認すると、マルタが値札を書く手を止めた。
「胡桃は?」
「林檎パンには使わないことになりましたから、通常販売分だけなら今の在庫で足ります。ただ、祭りで胡桃パンが普段より売れる可能性はあります」
「去年はどうだったっけ?」
「記録では、初日に普段の一・六倍ほど出ています」
「そんな細かい数字まで出したの?」
「去年の販売数と、同じ曜日の通常時の販売数を比べました」
シアが答えると、厨房からオットーの低い声が飛んできた。
「去年と今年が同じとは限らんぞ」
「はい。騎士団の注文も増えていますし、今年は林檎パンも出します。ですから、去年の数字をそのまま使うつもりはありません」
「ならいい」
オットーはそれだけ言って生地へ向き直った。
以前なら、その短い返答を「余計なことをした」と受け取っていたかもしれない。けれど今のシアには、オットーが数字を否定したのではなく、数字だけで決めるなと教えているのだと分かる。
「胡桃パンは、少し増やす?」
マルタが尋ねる。
「増やすなら、どのくらいまでなら無理がありませんか?」
「十くらいなら問題ない」
厨房から返ってきた答えを聞き、シアは注文表の余白へ書き込んだ。
「では、通常より十個増を目安にして、午前中の売れ方を見て追加できるか判断する形でしょうか」
「それでいいよ」
マルタが頷いたところで、シアは次の項目へ視線を移した。
騎士団。
初日四十八個。丸パン三十個、黒麦パン十八個。
二日目五十個。丸パン三十一個、黒麦パン十九個。
服飾店。
三十個。店頭受け取り。丸パン十八個、胡桃パン十二個。
《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の通常注文もある。さらに店頭用の通常商品と、祭り限定の蜂蜜林檎パン四十個。
紙の上へ並べてしまえば、どれもただの数字に見える。
しかし、その一つ一つを実際にオットーが生地から作り、窯で焼かなければならない。マルタは店頭へ並べ、客へ渡し、シアも会計や包装、注文の受け渡しをする。
(数字だけ見て、できると思ってはいけない)
ハンスの店で仕入れについて教わったときにも感じたことだった。
安いか高いかだけではない。
多いか少ないかだけでもない。
数字の向こうには、作業する人間と時間と場所がある。
「オットーさん」
「何だ」
「明日の朝、私がパンの成形へ入る時間はありますか?」
オットーは手を止めずに答えた。
「丸パンの一部は頼む。ただし、林檎パンには入るな」
「分かりました」
「不満か?」
「少しだけ」
素直に答えると、マルタが吹き出した。
「作りたかったんだ?」
「試作を手伝ったので、本番も少し作ってみたかったです」
「祭りが終わったら作らせてやる」
オットーは生地を折り返しながら、いつもの調子で続ける。
「明日は数が多い。慣れてない作業まで入れたら、お前も俺も余裕がなくなる」
「はい。それなら店頭と丸パンを頑張ります」
「頑張りすぎるなよ」
「……難しい注文ですね」
「今のお前には必要だ」
言い返せない。
シアは少し唇を尖らせそうになり、自分でもそれに気づいて笑った。
「では、頑張りすぎないように頑張ります」
「それも変だろ」
「でも意味は分かるよ」
マルタが笑いながら値札を持ち上げる。
そこには大きめの文字で、明日から販売する商品の名前が書かれていた。
――秋穫祭限定 蜂蜜林檎パン 銅貨九枚。
自分たちで試作し、材料を計算し、値段を決めた商品が、本当に店へ並ぶ。
シアはその札を見つめるだけで、胸の奥が少し浮き立った。
「これ、店の外にも出す?」
「一枚あった方が分かりやすいですね。ただ、四十個しかありませんから、あまり大きく宣伝すると早く売り切れてしまうかもしれません」
「売り切れるならいいじゃない」
「買いに来たのにない、と言われませんか?」
「言われるかもしれないね。でも、ないものはないよ」
あっさりと返され、シアは瞬きをする。
「それでいいんですか?」
「いいんだよ。無理して百個作って余らせる方が困るでしょ?」
「……そうですね」
「売り切れたら『今日は終わりました』って言えばいい。それで怒る人がいたって、ないものは出せないんだから」
マルタの言葉を聞きながら、シアは祭り用の表へ目を落とした。
すべての客の希望へ応えなくてもいい。
できる範囲を決め、その中で仕事をする。
何度も教わってきたことなのに、祭りという特別な日を前にすると、また「全部できなければ」と考えそうになっていた。
「四十個でいきます」
「うん」
「売り切れても、追加はしません」
「オットーが余裕あるって言ったら?」
「そのときは相談します」
「よし」
マルタが満足そうに笑った。
◇
朝の営業が始まると、祭り前日の街らしい客が次々と訪れた。
家族で食べるためにいつもより多く買う者、明日の朝は混雑するからと前日のうちに保存の利く黒麦パンを求める者、祭りへ出店するため昼食を買いに来た職人たちもいる。
シアは会計台と棚の間を行き来しながら、普段以上に残数へ気を配った。
「丸パンを六つお願い」
「ありがとうございます。六つで銅貨三十枚です」
「明日は林檎のパンを出すんだって?」
代金を差し出した中年の女性が、店頭に置いた札へ目を向ける。
「はい。明日は四十個を予定しています」
「予約できる?」
「申し訳ありません。今回は店頭販売のみなんです」
断る言葉を口にしても、以前のように身体が強張ることはなかった。
「そうなの。じゃあ朝に来ないとね」
女性は特に怒ることもなく、包みを受け取って帰っていく。
次に並んでいた男性も値札を見て、「四十なら昼まではないかな」と笑った。
「売れ方が分かりませんので、お約束はできません」
「そりゃそうだ」
それだけで会話は終わる。
(断っても、怒られない)
もちろん、すべての客がそうだとは限らない。
それでも「できません」と言った瞬間に責められるのが当然ではないと、日々の小さな経験が少しずつ身体へ教えてくれている。
昼前になると、店内の客が途切れた。
シアは残数を確認し、帳面へ書き込む。丸パンは予想より早く減っているが、午後分としてオットーが追加を焼いている。胡桃パンも増量した十個のうち半分近くがすでに出ていた。
「祭り前でも結構増えますね」
「毎年こんなもんだよ」
マルタは棚を整えながら答えた。
「明日はもっとすごいけどね」
「どのくらいですか?」
「朝から夕方まで、人が切れないこともある」
「……それは少し緊張します」
「怖い?」
聞かれ、シアは少し考えた。
「怖いというより、失敗しないか心配です。でも、楽しみでもあります」
「なら十分」
マルタが棚へ最後の胡桃パンを並べたところで、扉の鈴が鳴った。
「こんにちはー!」
明るい声とともに入ってきたのはミレイユだった。
今日は勤務の途中らしく、濃紺の騎士服を身につけ、腰には剣がある。けれどシアは彼女の姿を認識した時点で、剣ではなく先に顔を見ることができた。
「ミレイユさん、こんにちは」
「明日の前に来られた。すごいね、外までいい匂い」
「いつものパンです」
「私にはいつものパンも十分いい匂いなの」
ミレイユは棚を眺め、蜂蜜パンを見つけると迷わず指を向けた。
「二つ」
「今日は二つなんですね」
「三つにした方がいい?」
「私は止めませんけれど」
「じゃあ三つ」
「増えましたね」
二人のやり取りを聞いていたマルタが笑う。
「シア、完全に扱いを覚えたね」
「蜂蜜パンについては、たぶん」
「私の扱いが蜂蜜パン基準になってない?」
「違うんですか?」
「否定しづらいなあ」
ミレイユが苦笑しながら代金を置いた。
シアが三つを包んでいると、彼女は店頭の祭り用値札に気づいた。
「これ、話してた林檎パン?」
「はい。試作がうまくいったので、明日から出すことになりました」
「食べたい」
「明日はお仕事ですよね?」
「そうなんだよ。しかも朝から巡回」
ミレイユは心底残念そうな顔をする。
「取っておいて、って言ったら駄目?」
「今回は予約を受けないことにしています」
「友達でも?」
冗談めかした問いかけに、シアは一瞬だけ考えたあと、首を横に振った。
「友達でも、です」
「うん。そう言うと思った」
ミレイユは笑った。
不満そうではない。
むしろ少し嬉しそうにさえ見える。
「でも二日目も出すんでしょ?」
「三十個の予定です」
「なら午後まで残ってたら買う」
「残っていなかったら、祭りが終わったあとに作ってもらえるかオットーさんに聞いてみます」
「それなら待てる」
シアは包みを渡した。
「それと、二日目の午後ですが、私も行けることになりました」
「本当?」
「はい。午前中まで店を手伝って、そのあとはお休みにしていただけます」
ミレイユの表情が明るくなる。
「よかった。じゃあ前に話した通り、中央広場?」
「行きたいです。それから……」
シアは一度言葉を止めた。
自分から誘ってもいいと言ったのは、以前の市場歩きの帰りだった。
あのときは「次は自分から」と思ったのに、今回の祭りについて最初に勤務予定を伝えてくれたのはミレイユだった。
それなら、祭りの中で何をするかくらいは、自分から一つ提案してみたい。
「もし時間があったら、果物茶を飲みませんか?」
「果物茶?」
「前に飲んだ林檎のお茶がおいしかったので、また飲みたいです。祭りにも同じ店が出ているかは分かりませんけれど」
「いいね。探そう」
「ミレイユさんは木苺ですね」
「覚えてた?」
「はい」
「じゃあ、見つけたら絶対寄ろう」
絶対、という言葉にシアは少しだけ笑う。
「売り切れていたら、別のものにしましょう」
「シアは現実的だなあ」
「《麦穂亭》でも、ないものは出せないと教わったところです」
「じゃあ林檎茶がなかったら、シアが次に好きなもの探しだね」
次に好きなもの。
その言葉が心に残った。
好きなものは、一つだけでなくていい。
まだ知らないものを試して、増やしていってもいいのだ。
「それも楽しそうです」
「でしょ?」
ミレイユが笑ったところで、外から彼女を呼ぶ騎士の声が聞こえた。
「あ、戻らなきゃ。じゃあ二日目、昼過ぎに迎えに来るね」
「はい。お待ちしています」
「明日は忙しいだろうけど、無理しすぎないでね」
「気をつけます」
シアは少し考えてから付け加えた。
「疲れたら、疲れたと言います」
ミレイユは一瞬目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「うん。そうして」
彼女が店を出ていくと、シアは扉の向こうへ消える濃紺の背中を見送った。
腰の剣へ目が向かなかったわけではない。
けれど、それだけではなくなっている。
ミレイユが持っている剣と、過去に自分を怖がらせたものは同じではない。
頭で理解していたことが、少しずつ身体にも届き始めていた。
◇
同じ日の午後、ベルフォード伯爵邸では、祭りを前に浮き立つアルヴェインの街とはまるで違う重苦しい空気が漂っていた。
グレゴール・ベルフォードは執務室の机へ積み上げられた書類を前に、露骨な苛立ちを隠そうともしていなかった。
「なぜ、まだ終わっていない」
低く押し殺した声に、机の前へ立つ家令が慎重に口を開く。
「確認対象が想定より多くございます。商会への支払いだけではなく、屋敷の備品、被服、贈答品、修繕費まで、支払日と実際の処理日が一致していないものがいくつかありまして」
「そんなものは帳簿を見れば分かるだろう」
「帳簿だけでは判断できないものがございます」
「なぜだ」
家令は手元の書類を一枚取り上げた。
「こちらは支払い予定日が記載されておりますが、実際に支払いを行った印がありません。一方、別の書類には同じ印があり、商人側も受領済みだと回答しております」
「だから、その印の意味を調べろと言っている」
「調べております。しかし……」
家令はわずかに言葉を選んだ。
「エリシア様が個人的に使用されていた記号について、意味を把握している者がおりません」
グレゴールの眉間へ深い皺が刻まれる。
「またあれか」
「はい」
「たかが支払いの管理だろう」
吐き捨てるような言葉に、家令は反論しなかった。
しかし、ここ数日で彼自身も理解し始めていた。
たかが、ではなかった。
支払いの予定を立てる。
実際に支払われたか確認する。
領地側から届く報告と屋敷側の帳簿を照合する。
贈答品を頼んだ場合は、注文した者、届け先、支払元まで確認する。
延期や変更があれば、その理由を別の記録へ残す。
エリシアがしていたことは、単純に数字を書き写すだけではなかった。
しかも、その多くを正式な「担当」として与えられていたわけではない。
誰かが困るたびに呼ばれ、頼まれ、最後には彼女が処理していた。
「それなら本人を見つければ済む」
グレゴールが言う。
「捜索はどうなっている」
「隣接領と主要街道沿いの宿場、乗合馬車の停留所については引き続き確認しております。ただ、今のところ有力な情報はございません」
「金を持たずに十八の娘が、いつまでも一人で逃げ続けられるはずがない」
グレゴールはそう断言した。
家令は黙って頭を下げる。
エリシアがどれほどの金を持っていたのか、誰も知らない。
そもそも、彼女が自分の金を持っている可能性を、伯爵家の者たちはほとんど考えていなかった。
「遠くへ行った可能性は?」
「否定できません」
「なら範囲を広げろ」
「どこまででしょうか」
「王都へ向かう街道と、大きな都市だ。若い女が一人で働ける場所など限られている」
「承知いたしました」
「ただし、大事にはするな。伯爵令嬢が家出したなどと広める必要はない」
「はい」
家令が書類をまとめて退出すると、グレゴールは椅子の背へ身体を預けた。
机の上には、まだ処理の終わっていない紙が残っている。
以前なら、これほど書類が溜まることはなかった。
必要なものだけが自分の机へ届き、確認すべき箇所には印があり、署名すれば済む状態に整えられていた。
誰がそうしていたのかを、グレゴールは考えようとしなかった。
今もなお、考えるべきなのは娘の苦労ではなく、娘が仕事を放り出して消えたことだと思っている。
「戻れば済む話を」
苛立ちを込めて呟き、次の書類へ手を伸ばした。
だが、そこに書かれた商会名と金額を見ても、何の支払いなのかすぐには分からなかった。
◇
ヴァルモント侯爵家でも、別の種類の混乱が続いていた。
ディートリヒは応接室の長椅子に座り、目の前の招待客一覧へ視線を落としていた。数日後に予定されている茶会について、リリアナが用意した確認表だった。
以前の席次問題を受けて作り直されたものだが、今度は招待客の一人について、夫人だけが記載されている。
「夫はどうした?」
向かいに座るリリアナが眉を寄せる。
「何が?」
「ラウゼン男爵夫人だ。夫人だけ招くのか?」
「だって、お茶会でしょう? 女性だけでもおかしくないじゃない」
「今回は母上主催だが、途中から父上も顔を出す。それにラウゼン男爵は先月、うちの領地事業へ出資している」
「そんなこと、私は知らないわ」
「確認しなかったのか?」
ディートリヒの声に苛立ちが混じる。
リリアナは一覧表を机へ置いた。
「どうして私がそこまで確認しなければならないの? 招待状を出す相手くらい、使用人が分かっているでしょう」
「その使用人に、誰を呼ぶべきか決めさせるのか?」
「お姉様はやっていたのでしょう?」
不意に出たエリシアの呼称に、ディートリヒの眉が動いた。
「エリシアは使用人ではない」
「でも、そういうことをしていたんでしょう?」
「だから何だ」
「だったら誰かにやらせればいいじゃない」
リリアナの声が尖る。
「あなたは最近、何かあるたびにお姉様なら、お姉様ならって……そんなにお姉様がよかったなら、どうして婚約を破棄したのよ」
ディートリヒは言葉を失った。
恋しかったからではない。
エリシアと婚約を続けたいと思っているわけでもない。
華やかさがなく、会話も面白くなく、自分の隣へ立つ女性として物足りないと思った判断を、今でも間違いだったとは考えていなかった。
ただ、彼女がいなくなってから、面倒なことが増えた。
それだけのはずだった。
「話をすり替えるな」
「すり替えてないわ!」
リリアナは椅子から身を乗り出した。
「私と婚約するって決めたのはディートリヒ様でしょう? それなのに、最近ずっと私とお姉様を比べてるじゃない!」
「比べられるようなことをするからだ」
口にした瞬間、リリアナの表情が固まった。
ディートリヒ自身も、言葉が強すぎたと気づいた。
しかし謝罪は出なかった。
「……そう」
リリアナは一覧表を掴む。
「だったら、お姉様を連れ戻せばいいじゃない」
「何?」
「お父様も探しているんでしょう? 見つけて、仕事だけさせればいいわ。婚約者は私なんだから、それで問題ないでしょう?」
あまりにも当然のように言われ、今度はディートリヒの方が返答に詰まった。
それは、自分が心のどこかで考えていたことと大きく違わない。
エリシアが戻り、以前のように面倒な調整をしてくれれば、今起きている問題の多くは消える。
婚約者として隣へ立つのはリリアナでいい。
書類や贈答、予定の調整はエリシアがすればいい。
そうすればすべて収まる。
理屈の上では、そのように思えた。
けれど、リリアナの口から聞くと、なぜか妙な引っかかりが残った。
「とにかく、この一覧はやり直せ」
ディートリヒはその違和感を掘り下げず、話を打ち切った。
「ラウゼン家だけじゃない。招待客同士の関係も確認しろ」
「分かったわよ」
リリアナは乱暴に紙を持ち上げ、応接室を出ていく。
扉が閉じたあと、ディートリヒは深く息を吐いた。
机には、エリシアがいれば自分のところへ来る前に修正されていたであろう一覧が残っている。
それでも彼はまだ、自分が失ったものを正しく理解してはいなかった。
◇
その頃、《麦穂亭》では、夕方の営業を終えたあとも明日の準備が続いていた。
ハンスから届いた小麦粉と黒麦粉はすでに所定の場所へ収められ、ローザから仕入れた林檎も傷みがないか確認してある。オットーは翌朝使う材料を分け、マルタは包装用の紙と紐をいつもより多めに準備していた。
シアは店頭の机で、注文ごとに色の違う小さな札を作っていた。
騎士団用。
服飾店用。
《銀鹿亭》。
《赤い鍋亭》。
店頭販売分。
前に騎士団用の黒麦パンが店頭へ紛れた経験から、今回は最初から置き場所も分ける。札には数量だけでなく受け渡し時間も書き、誰が見ても分かるようにした。
「これなら明日の朝、私以外が見ても分かると思います」
シアが札を並べると、マルタが一枚ずつ確認した。
「いいね。服飾店は向こうが取りに来るから、配達と間違えないようにしてあるんだ」
「はい。『店頭受取』と書きました」
「騎士団は?」
「いつもの籠へ先に札をつけます。パンを入れる前にです」
「そこ大事だね」
二人で顔を見合わせ、少し笑う。
失敗したことが、そのまま次の仕事へ生きている。
間違いをなかったことにするのではなく、同じことが起きにくいように変える。
シアはその考え方が好きだった。
「シア」
厨房から出てきたオットーが声をかける。
「はい」
「今日はもう上がれ」
「でも、まだ明日の――」
そこまで言ったところで、シアは自分で口を閉じた。
店頭の机を見る。
注文札はできた。
在庫確認も終わった。
明日の工程はオットーと確認した。
包装材もマルタが準備している。
自分が今から絶対にしなければならない仕事は、思いつかない。
「……分かりました」
答えると、オットーが少しだけ眉を上げた。
「今日は早いな」
「何がですか?」
「引き下がるのが」
「私も少しは成長しています」
「そうか」
「たぶん」
「最後で弱くなるな」
マルタが笑いながら、シアの背中を軽く押した。
「明日は朝から忙しいんだから、今日はちゃんと寝なさい。疲れた顔で祭りを迎えたら、せっかくの林檎パンがおいしく見えないよ」
「パンと私の顔は関係ありますか?」
「店員が暗い顔して売ってたら多少はね」
「それなら、寝ます」
「そこは素直なんだ」
シアは自室へ上がる前に、店内を振り返った。
棚はほとんど空になっている。
明日の朝には、ここへたくさんのパンが並ぶ。
自分たちで決めた林檎パンも並ぶ。
外の通りには、すでに祭り前夜の灯りが増えていた。
◇
部屋へ戻ったシアは、寝間着へ着替える前に小さな机へ向かった。
引き出しを開けると、二日目の予定を書いた紙が入っている。
――午前、《麦穂亭》。
――午後、ミレイユと中央広場。
――林檎のお茶を飲めたら嬉しい。
最後の一行を見て、シアは小さく笑った。
今日、ミレイユと約束した。
林檎茶がなければ、次に好きなものを探す。
(次に好きなもの、か)
今までなら、好きなものが増えることに意味があるとは思わなかった。
好きな食べ物。
好きな色。
好きな仕事。
好きな場所。
会いたい人。
行きたい場所。
そうしたものが増えれば、失うのが怖くなるような気もする。
けれど同時に、自分の暮らしが少しずつ広がっていく。
シアは引き出しの中にある空色の髪紐へ触れた。
明日は仕事だから、いつもの実用的な結び方で使おう。
二日目、ミレイユと出かけるときには、新しく用意した服を着るつもりだった。
母の銀のペンダントはどうするか。
以前の市場では、人混みで失うのが怖くて身につけなかった。
今回の秋穫祭は、あのときよりさらに人が多い。
「……やめておこう」
小さく呟き、ペンダントは引き出しへ残すことにした。
大切だから身につけなければならないわけではない。
大切だから、安全な場所へ置いていく。
それも自分で選べる。
引き出しを閉じたあと、シアは窓を開けた。
夜の街には、いつもより多くの灯りが並んでいる。中央広場の方角から音楽の練習らしい笛の音がかすかに聞こえ、通りを歩く人々の声も遅い時間まで途切れない。
明日、この街で初めての秋穫祭が始まる。
《麦穂亭》へ来てから、いろいろな初めてがあった。
自分で食事を買った。
自分で髪紐を選んだ。
給金を受け取った。
友達ができた。
仕事で自分の名前を使った。
疲れたと言った。
嫌なことを嫌だと伝えた。
手伝ってほしいと頼んだ。
そして、自分からここで働き続けたいと言った。
(明日は、どんな日になるんだろう)
以前なら、未来を考えるときには失敗しない方法ばかり探していた。
今も不安がなくなったわけではない。
客が多すぎたらどうしよう。
会計を間違えたら。
注文を取り違えたら。
林檎パンが売れなかったら。
逆に、早く売り切れて客に怒られたら。
考え始めれば、心配はいくらでも出てくる。
それでも、明日が来るのが嫌ではなかった。
シアは窓枠へ置いていた手を離し、静かに窓を閉めた。
「楽しみ」
誰かに聞かせるためではなく、自分の気持ちを確かめるように口にする。
その言葉は、もう以前ほど不思議には感じなかった。
翌朝。
まだ夜明け前の薄暗い時間に目を覚ましたシアは、階下から聞こえてくる物音に気づいた。
窯へ薪を入れる音。
作業台へ道具を置く音。
オットーはもう起きている。
シアは寝台から身体を起こし、少しだけ自分の状態を確かめた。
眠気はある。
身体は重くない。
昨日早く休んだおかげで、疲れも残っていない。
(大丈夫だから動く、ではなくて、今日は動ける)
似ているようで、自分の中では少し違う。
無理を押し隠すための「大丈夫」ではなく、今の状態を確かめた結果として動ける。
シアは身支度を整え、空色の髪紐で髪をまとめた。
鏡代わりの小さな磨き板へ映った自分を見る。
伯爵家を出た朝と、同じ顔のはずだった。
けれど、今はあの日より少しだけ表情が柔らかく見える。
ニコに言われたことを思い出し、シアは頬へ触れた。
(今の方が好き)
今度は、心の中ではっきりと言えた。
部屋を出て階段を下りると、厨房から小麦と薪の香りが流れてくる。
「おはようございます」
シアが声をかけると、オットーが作業台の向こうから顔を上げた。
「おはよう。早いな」
「昨日、早く休みましたから」
「眠いならもう少し寝ててもよかったぞ」
「少し眠いです。でも、起きられます」
「なら顔洗ってこい。始めるぞ」
「はい」
その声を聞きつけたマルタも、店側から顔を出した。
「おはよう、シア」
「おはようございます」
「いよいよだね」
マルタの笑顔につられて、シアも笑う。
「はい。楽しみです」
窓の外では、夜の色が少しずつ薄れ始めていた。
祭りの朝を知らせる鐘が鳴るまで、まだ時間がある。
それでも《麦穂亭》ではすでに窯の火が赤く燃え、生地が並び、三人の一日が始まっている。
シアは前掛けの紐を結び直すと、昨日作った注文札を確認してから作業台へ向かった。
今日やるべきことは多い。
けれど、全部を一人でやるわけではない。
オットーが焼き、マルタが店を整え、自分もできることをする。分からなければ聞き、間に合わなければ相談し、疲れたならそれを伝える。
そして、売り切れたものは売り切れたと言えばいい。
できない約束をしなくてもいい。
シアは丸パン用の生地へ手を伸ばす前に、隣のオットーへ確認した。
「今日は、どこまで私が成形しますか?」
「まず二十四。終わったら一度声をかけろ」
「分かりました」
最初から全部を抱え込まない。
任された分を終え、その先はまた相談する。
シアは一つ目の生地を手に取った。
窓の外で、秋穫祭の始まりを告げる最初の鐘が鳴り始める。
街のあちこちで扉が開き、屋台へ火が入り、人々が中央広場へ向かって歩き始める気配が広がっていく中、《麦穂亭》にも焼きたてのパンの香りが満ちていった。
この街へ逃げてきたときには、自分が祭りの日を楽しみに待つようになるとは想像もしていなかった。
まして、その祭りを迎える店の一員として、自分の仕事を持って立っている未来など考えたこともなかった。
それでも今は、ここにいる。
誰かに置かれた場所ではなく、自分で選んだ場所に。
シアは形を整えた最初の生地を作業台へ置き、次の一つへ手を伸ばした。
祭りの朝は、始まったばかりだった。




