第27話 売り切れたなら、それでいい
秋穫祭の始まりを告げる鐘が街の上へ響き渡ってからしばらくすると、《麦穂亭》の前を行き交う人の数は目に見えて増え始めた。
普段なら仕事へ向かう職人や買い物へ出る近所の住民が中心となる時間帯だが、今日は親子連れや着飾った若者たち、中央広場へ商品を運ぶ商人まで混じっている。通りの向こうから笛や太鼓の音が断続的に届き、店の前へ吊るされた麦穂飾りも、人々が通り過ぎるたびに生まれる風を受けて小さく揺れていた。
そんな祭りの賑わいを感じながらも、シアは厨房の作業台から目を離さなかった。
「二十二、二十三……二十四」
最後の生地を丸く整え、先に成形したものと並べる。
以前より形は揃うようになったものの、オットーが作ったものと比べれば、わずかに高さや丸みに違いがある。それでも、必要以上に触って形を直すことはしなかった。
「オットーさん、二十四個終わりました。確認をお願いします」
隣で蜂蜜林檎パンの生地を扱っていたオットーが手を止め、シアの並べた生地を順番に見る。
一つを指先で軽く押し、別の一つは横から眺めたあと、最後まで確認したところで頷いた。
「問題ない。このまま焼く」
「形が少し違うものがありますけれど」
「パンなんだから全部同じ顔にはならん」
「……はい」
「前より触りすぎなくなったな」
褒められたのだと気づくまで、少しだけ時間がかかった。
「ありがとうございます」
「なら次は店へ行け。そろそろマルタ一人じゃきつい」
「はい」
前掛けについた粉を払い、手を洗って店側へ出ると、すでに入口近くまで客が並んでいた。
マルタは会計台で二組の客を相手にしながら、その次に待っている老人へ「少し待ってね」と声をかけている。棚のパンも朝一番とは比べものにならないほど減っており、特に丸パンの列には大きな隙間ができていた。
「シア、お願い!」
「はい」
すぐに会計台の反対側へ入り、待っていた客へ向き直る。
「お待たせしました。ご注文を伺います」
「丸パン四つと、黒麦を二つ。それから、あれはもう売ってるのかい?」
老人が指した先には、昨夜マルタが書いた値札がある。
――秋穫祭限定 蜂蜜林檎パン 銅貨九枚。
「はい。もう焼き上がっています」
「じゃあ一つもらおうかな。孫が林檎好きでね」
「ありがとうございます」
シアは注文を繰り返し、間違いがないことを確認してから包み始めた。
蜂蜜林檎パンを手に取ると、ほんのり甘い香りが鼻先をくすぐる。
試作したものより少し小ぶりで、丸い生地の上には薄く煮た林檎が見える。蜂蜜は生地そのものと林檎の両方へ使われているが、甘くなりすぎないようオットーが量を調整していた。
「いい匂いだな」
「私も好きな香りです」
自然に答えてから、シアは少しだけ目を瞬いた。
商品について「人気があります」でも「おすすめです」でもなく、自分が好きだと答えた。
老人はそんなシアの小さな驚きには気づかず、「じゃあ孫も喜ぶだろう」と笑って代金を置く。
「丸パン四つで銅貨二十枚、黒麦パン二つで十四枚、蜂蜜林檎パン一つで九枚ですので、合わせて四十三枚になります」
「はいよ」
「ちょうどいただきます。ありがとうございました」
客を送り出したところで、すぐ次の家族が前へ進んできた。
そこからは、考え込む暇もないほど客が続いた。
丸パン。
白パン。
黒麦パン。
胡桃パン。
そして、蜂蜜林檎パン。
注文を聞き、数を確認し、包み、代金を受け取る。途中で棚の残数を確かめ、厨房から追加が出てくる時間も頭へ入れておく。
「丸パンを八つください」
若い男性から注文され、シアは棚を確認した。
今あるのは六つ。
厨房では追加分を焼いているが、窯から出るまでには少し時間が必要になる。
「現在、店頭にある丸パンは六つです。追加分が焼き上がるまで少しお待ちいただければ、八つご用意できます」
「どのくらい?」
「確認してまいりますので、少々お待ちください」
以前なら「たぶんすぐです」と答えていたかもしれない。
けれど今は、自分が決められないことを約束しない。
厨房へ顔を出す。
「オットーさん、丸パンの追加はあとどのくらいですか?」
「十分くらいだ」
「分かりました」
店へ戻り、待っている男性へ伝える。
「十分ほどです」
「それなら待つよ。ほかも見てくる」
「ありがとうございます。戻られた際に売れてしまう可能性がありますので、六つだけ先にお取り置きしておきましょうか?」
「そうしてくれる?」
「はい」
すでに店頭へ出ている六つを分けておき、残り二つだけ焼き上がり後に加えることにする。
男性が外へ出ると、マルタが隣から小さく頷いた。
「いい対応だったよ」
「ありがとうございます」
「でも次、来てるよ」
「はい」
褒められたことを喜ぶのはあとにして、次の客へ向き直る。
忙しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
◇
蜂蜜林檎パンが二十個を切ったのは、朝の鐘からそれほど時間が経っていない頃だった。
「マルタさん」
「どうした?」
「林檎パン、残り十九個です」
「早いねえ」
マルタが驚いて棚を見る。
四十個。
多すぎるのではないかと心配していた数が、すでに半分以上売れている。
祭りの特別商品という珍しさもあるだろう。店の前の札を見て入ってくる客もいれば、林檎を仕入れたローザから聞いたという近所の住民もいた。
「追加する?」
マルタに聞かれ、シアはすぐには答えなかった。
「オットーさんの作業次第だと思います」
「だね」
「騎士団の四十八個と、《銀鹿亭》《赤い鍋亭》の分、それから服飾店の三十個があります。店頭の通常分も必要ですから」
「じゃあ聞いてみようか」
二人で厨房へ入ると、オットーはちょうど焼き上がった丸パンを窯から出しているところだった。
熱気と香ばしい匂いが一気に広がる。
「林檎パンが残り十九個です」
マルタが告げると、オットーの手がわずかに止まった。
「もうか」
「追加できそう?」
「できなくはない」
その返事を聞いた瞬間、シアの頭には材料数と残りの注文が浮かんだ。
できる。
しかし、できることと、やるべきことは同じではない。
「何個くらいなら作れますか?」
「材料だけなら二十以上いける」
「時間は?」
「そこだな」
オットーは窯の中を確認しながら、作業台に並ぶ生地へ視線を移した。
「林檎パンを追加すると、昼前の通常分が遅れる。騎士団と予約分には影響させんが、店頭の丸パンが一度切れるかもしれん」
シアは会計台へ戻って注文表を確認した。
今日の目的は、蜂蜜林檎パンを可能な限り多く売ることではない。
祭りの日でも普段の客が来る。
定期注文もある。
そして騎士団との約束もある。
「追加しない方がいいと思います」
戻ってきたシアが言うと、マルタが理由を尋ねるように顔を向けた。
「林檎パンは四十個と決めました。今から追加すると、売れるかもしれませんが、通常のパンを買いに来る方へ影響します。それに、明日も三十個作ります」
「売り切れたら?」
「売り切れたと伝えます」
「怒られたら?」
昨夜と同じ問いだった。
けれど今度は、シアはほとんど迷わなかった。
「申し訳ありませんとお伝えします。でも、追加できないものはできません」
マルタが笑う。
「決まりだね」
オットーも異論はないらしく、次の生地へ手を伸ばした。
「四十で終わりだ」
「はい」
店へ戻る途中、シアは胸の奥に小さな緊張が残っていることへ気づいた。
(本当に、売り切れてもいい)
自分に言い聞かせる。
誰かが欲しいと言っても、全部へ応える必要はない。
昨日確認したことを、今日は実際にやる。
◇
蜂蜜林檎パンの最後の一つを買ったのは、小さな女の子を連れた母親だった。
「これで最後なんですか?」
「はい。本日分はこれで終了です」
「よかったね、間に合って」
母親が笑うと、女の子は包まれたパンを両手で大事そうに抱えた。
「りんご、いっぱい?」
「中にも入っていますよ」
シアが答えると、女の子の顔が明るくなる。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
親子を見送り、シアは棚へ残された値札を見た。
四十個。
すべて売れた。
試作したときに自分が好きだと言った林檎を使い、皆で考えたパンが、四十人分の誰かの手へ渡っていった。
じわじわと喜びが広がる。
「マルタさん」
「うん?」
「売り切れました」
「見てたよ」
「……全部です」
「そうだね」
マルタは笑いながら値札を外した。
「嬉しい?」
「はい」
シアは迷わず頷いた。
「とても嬉しいです」
そこへ次の客が入ってきた。
値札が外された棚を見て、すぐに尋ねる。
「林檎パンは?」
「申し訳ありません。本日分は完売しました。明日も三十個販売する予定です」
「ええ、もうないの?」
女性は明らかに残念そうな顔をした。
シアの肩に、一瞬だけ力が入る。
「朝から楽しみにしてたのに」
「申し訳ありません」
「追加で焼かないの?」
来た。
昨夜から考えていた場面が、本当にやってきた。
シアは前掛けの端を握りそうになり、途中で手を止めた。
必要以上に謝る必要はない。
「本日は通常の商品と、ご予約いただいている分の製造がありますので、蜂蜜林檎パンの追加販売は行わない予定です」
「少しくらい作れない?」
胸の奥がざわつく。
頼まれた。
断る。
その組み合わせには、今でも過去の記憶が結びつきやすい。
けれど、目の前の女性は父でも、継母でも、リリアナでもない。
そして自分は、命令を受けているわけではない。
「申し訳ありません。明日でしたら三十個販売いたします」
女性はしばらく残念そうに棚を見ていたが、やがて肩を落とした。
「じゃあ明日、早く来るしかないか」
「お待ちしております」
「せっかくだから今日は胡桃パンもらうわ。二つ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
怒鳴られない。
責められない。
食事を抜かれることも、夜通し立たされることもない。
女性は胡桃パンを買い、普通に帰っていった。
シアはその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
「シア」
隣からマルタが呼ぶ。
「はい」
「今の、ちゃんと断れたね」
「……はい」
「怖かった?」
少し考えてから、シアは頷いた。
「少しだけ。怒られるかもしれないと思いました」
「でも怒られなかった」
「はい」
「怒る人もいるかもしれないけどね」
マルタは優しい嘘で包もうとはしなかった。
「お客だからって、全員がいい人とは限らないよ。無茶を言う人もいるし、こっちが悪くなくても怒る人はいる。でも、だからって無理な注文を全部受けなくていい」
「……はい」
「シア一人でどうにもならない相手なら、私かオットーを呼びな」
その言葉を聞いて、シアは以前なら何と答えていただろうと考えた。
大丈夫です。
自分でできます。
迷惑をかけません。
そんな言葉だった気がする。
「そのときは、お願いします」
今はそう答えた。
マルタはそれ以上何も言わず、次の客を迎えるために顔を上げた。
◇
昼が近づくにつれ、街の賑わいはさらに大きくなった。
中央広場から演奏の音が聞こえ、店の前を色鮮やかな衣装を着た一団が通り過ぎる。子どもたちは木製の小さな風車を持って走り、露店で買ったらしい焼き菓子を食べながら歩く人も多かった。
その華やかな景色とは対照的に、《麦穂亭》の中は仕事の音で満ちている。
包装紙の擦れる音。
硬貨が触れ合う音。
窯からパンを出す音。
客の声。
扉の鈴。
シアは会計をしながら、棚の残数を数え、受け取り予定の注文も確認していた。
服飾店の三十個はすでに用意できている。
店頭受取の札をつけ、通常販売分とは離した場所へ置いてある。
騎士団分も、籠へ札をつけてから入れた。
丸パン三十。
黒麦十八。
何度も確認したくなる気持ちはあったが、一度数え、マルタにも確認してもらった以上、また最初から数え直す必要はない。
(確認することと、不安だから何度もやり直すことは違う)
シアは騎士団用の籠から手を離した。
そこへ扉の鈴が鳴り、見覚えのある少年が入ってくる。
「シア姉ちゃん!」
「ニコ、こんにちは」
「すごい人!」
「今日は祭りですから」
ニコは店内を見回したあと、空になった林檎パンの棚へ気づいた。
「あれ? 林檎のやつは?」
「売り切れました」
「ええっ!」
あまりにも素直な落胆ぶりに、シアは思わず笑ってしまった。
「明日もありますよ」
「明日は父ちゃんと祭り行くんだよ。朝来れるかな……」
「三十個だけなので、早い方がいいかもしれません」
「取っといてよ」
「駄目です」
「即答!」
「今日は誰の分も取っておきませんでしたから、ニコだけ特別にはできません」
「友達なのに?」
どこかで聞いたような言葉に、シアはさらに笑った。
「今日、同じことを言った人がいました」
「誰?」
「ミレイユさんです」
「あの騎士のお姉ちゃん?」
「はい。でも駄目でした」
「騎士でも駄目なら俺も無理かあ」
妙な納得の仕方をしながら、ニコは丸パンを三つ買っていった。
その背中を見送っていると、マルタが小声で囁く。
「人気者だねえ、シア」
「林檎パンが、ですか?」
「そっちじゃないよ」
「?」
「分からないならいいよ」
意味が分からず首を傾げたものの、すぐ次の客が来たため、シアは考えるのをやめた。
◇
騎士団への配達は、予定通りシアが担当した。
店が忙しいこともあり、オットーから「今日は俺が行く」と言われる可能性も考えていたが、昼前には客足が一度落ち着き、マルタも「今なら大丈夫」と送り出してくれた。
荷車へ二つの籠を積み、重さを確かめる。
四十八個なので普段より八個多い。
「重いか?」
オットーに聞かれ、シアは持ち手を握って一度動かした。
「普段より重いですが、運べます。ただ、途中で疲れたら休みます」
「そうしろ」
「行ってきます」
「気をつけてね」
祭りで混雑する中央広場を避け、いつもの道より少し外側を通る。
街中はどこも普段より人が多かったが、訓練場へ向かうにつれて人通りは減り、祭りの音も遠くなっていった。
途中、シアは腕に少し疲れを感じた。
以前ならそのまま歩いていただろう。
けれど今日は道端の邪魔にならない場所へ荷車を寄せ、持ち手から手を離した。
「……少し休もう」
誰も命令していない。
休んだからといって、怠けているわけでもない。
約束の時間には十分間に合う。
呼吸を整え、腕を軽く動かしてから再び荷車を引く。
南側訓練場へ着いたときには、ちょうど昼の訓練が終わりかけていた。
「お、今日は来たな、《麦穂亭》」
門番が笑いながら声をかける。
「こんにちは。今日は四十八個です」
「祭り増量分だな。聞いてるよ」
中へ通され、いつもの受け渡し場所へ向かう。
食事の準備をしていた係の者たちも慌ただしく動いていたが、シアが荷車を止めると、年配の調達担当者がすぐに出てきた。
「ご苦労さまです」
「本日の分です。丸パン三十個、黒麦パン十八個になります」
「確認します」
籠を開け、一緒に数える。
問題はない。
「四十八、確かに受け取りました。明日は五十でしたね」
「はい。丸パン三十一個、黒麦パン十九個です」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
受け渡しが終わったところで、少し離れた場所から聞き慣れた声がした。
「シア!」
振り向くと、ミレイユがこちらへ歩いてくる。
朝に店へ来たときより少し髪が乱れ、額には薄く汗が浮かんでいた。
「ミレイユさん。巡回は終わったんですか?」
「午前の分はね。これから食事して、午後は中央広場側」
「忙しそうですね」
「シアに言われたくないなあ」
「私はお店の中が中心ですから」
「十分忙しいでしょ。林檎パンどう?」
「四十個、全部売れました」
「もう!?」
ミレイユが本気で悔しそうな顔をする。
「やっぱり朝に一個買っておけばよかった」
「予約は受けないと言ったじゃないですか」
「客として並べば買えたじゃん」
「お仕事の途中だったでしょう?」
「そうなんだけどさあ」
ミレイユの後ろを通りかかった若い騎士が笑った。
「クローデル、朝からその林檎パンの話してたぞ」
「余計なこと言わなくていいから!」
「蜂蜜パン三つ持って戻ってきたくせに」
「それとこれとは別なの!」
周囲から笑い声が上がる。
シアも口元を押さえた。
「笑ったね?」
「すみません」
「そこは謝らなくていいよ。明日は絶対食べるから」
「残っていれば」
「シアまで意地悪になってきた」
「事実です」
そんなやり取りをしていると、訓練場の奥から数人の騎士が歩いてきた。
その中にレオンハルトの姿がある。
シアは自然に姿勢を整えた。
「こんにちは、レオンハルト様」
「ああ。配達か」
「はい。本日は四十八個、お届けしました」
「祭り期間の増量分だったな」
「はい。明日は五十個です」
レオンハルトは荷車の空になった籠へ目を向け、それからシアを見る。
「店も忙しいだろう」
「とても忙しいです。でも、楽しいです」
自分でも驚くほど、答えはすぐに出た。
レオンハルトがわずかに目を細める。
「そうか」
「林檎パンも全部売れたんですよ」
横からミレイユが口を挟んだ。
「私は買えなかったけど」
「朝、三つも蜂蜜パンを買っただろう」
「なんで知ってるんですか?」
「戻ってきて自分で言っていた」
「あれ、私が言ったんでしたっけ」
レオンハルトは呆れたように息をつき、シアへ視線を戻した。
「林檎パン?」
「秋穫祭用に作った蜂蜜林檎パンです。今日四十個、明日は三十個だけ販売します」
「シアが考えたのか?」
「皆で決めました。林檎を使いたいと言ったのは私ですけれど」
「なぜ林檎を?」
理由を聞かれ、シアは少しだけ迷った。
商売上の理由なら説明できる。
ローザから仕入れられること。
秋の果物として祭りに合うこと。
蜂蜜との相性。
原価。
けれど、それより先に浮かんだ理由があった。
「私が、林檎を好きだからです」
言ってから、胸の奥が少しくすぐったくなる。
レオンハルトは笑うでもなく、ごく自然に頷いた。
「それなら、一度食べてみたいな」
「明日は三十個だけです」
「予約は?」
「受けていません」
「公爵家でも?」
冗談なのか本気なのか分からないほど落ち着いた声だった。
シアは少しだけ目を丸くしたあと、ミレイユの方を見る。
彼女はすでに笑いを堪えるような顔をしている。
「……今朝、ミレイユさんにも同じことを聞かれました」
「私は友達でも駄目って言われました」
「では、私も駄目そうだな」
「はい」
シアは頷いた。
「レオンハルト様でも、駄目です」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
周囲にいた騎士の一人が、驚いたようにレオンハルトを見る。
しかし当人は不快そうな顔をするどころか、わずかに口元を緩めた。
「分かった。客として買えるときに行こう」
「はい。売り切れていたら、申し訳ありません」
「そのときは諦める」
あまりにも普通に返され、シアの肩から力が抜けた。
(断っても、関係は壊れない)
ミレイユのときもそうだった。
客へ林檎パンの追加を断ったときもそうだった。
そして今、公爵家の跡取りであるレオンハルトへ断っても、彼は怒らなかった。
立場が上だから、必ず従わなければならないわけではない。
少なくとも、この人はそういう接し方をしてこない。
「そろそろ戻ります。店が忙しいので」
シアが言うと、ミレイユが頷いた。
「また明日ね。私は二日目の午後を楽しみにしてる」
「私もです」
「疲れたら?」
「言います」
「よし」
ミレイユが満足そうに笑う。
レオンハルトは二人の会話を聞いていたが、何の約束なのか尋ねることはなかった。
「帰りも人が多い。気をつけろ」
「ありがとうございます」
シアは荷車の持ち手を握り、訓練場をあとにした。
◇
シアが去ったあと、ミレイユは隣に立つレオンハルトを横目で見た。
「殿下でも予約できませんでしたね」
「なぜ私だけ特別扱いされると思うんだ」
「思ってなかったんですか?」
「思っていない」
「本当に?」
「クローデル」
「はいはい」
ミレイユは笑いながら両手を軽く上げた。
以前なら、シアがレオンハルトへあれほどはっきり「駄目です」と言える姿を想像できなかった。
最初に会った頃の彼女は、何かを尋ねられるたびに相手の望む答えを探しているように見えた。自分の希望を言うより先に、迷惑をかけない方法を考えていた。
けれど先ほどのシアは違った。
レオンハルトが相手でも、店の決まりを曲げなかった。
それでいて、拒絶するような硬さもない。
ただ「できないから、できない」と伝えていた。
「何だ」
視線に気づいたレオンハルトが尋ねる。
「いえ。シア、変わったなと思って」
「以前よりよく笑うようには見える」
「分かるんですね」
「何度か会っていれば、それくらいは分かる」
「へえ」
「その顔はやめろ」
「何も言ってませんよ」
ミレイユは笑いながら食堂へ向かう。
まだ何でもない。
それは今も変わらない。
ただ、レオンハルトがシアの変化を認識できる程度には、彼女を見ている。
そのことだけは覚えておこうと思った。
◇
《麦穂亭》へ戻ったシアを待っていたのは、午前中ほどではないものの途切れることのない客だった。
昼食を買う者、祭りを回った帰りに家族への土産を求める者、林檎パンが売り切れたと聞いて残念がる者もいた。
そのたびにシアは「本日分は完売しました」と伝えた。
最初の一回ほど緊張しない。
二回目。
三回目。
何度言っても、それだけで店が壊れることはなかった。
午後になると服飾店の従業員が予約分を取りに来た。シアは札と注文表を照合し、丸パン十八個、胡桃パン十二個を一緒に確認してから渡す。
「助かったわ。今日は店を閉める暇もなくて」
「こちらこそ、ご注文ありがとうございました」
「来年もお願いするかも」
来年。
その言葉に、シアの胸がわずかに動いた。
「はい」
答えてから、少しだけ笑う。
「そのときは、またご相談ください」
来年、自分がここにいる。
まだ一年先のことなど分からない。
それでも、以前のように「その頃にはいないかもしれない」と考えることはなかった。
(来年も、ここで注文を受けていたい)
その願いを持つことが、もう怖くなかった。
◇
夕方。
祭りの初日が終わりへ近づく頃、《麦穂亭》の棚にはわずかなパンしか残っていなかった。
完全に空ではない。
黒麦パンが三つ。
白パンが四つ。
胡桃パンが二つ。
朝からの売れ方を考えれば、十分にうまく調整できた結果だった。
最後の客を見送ったあと、マルタが扉へ閉店札を出した。
「終わったあ……」
大きく伸びをする。
厨房から出てきたオットーも、いつもより疲れた顔をしていた。
「明日もあるぞ」
「今くらい終わった気分にさせてよ」
「明日の仕込みがある」
「分かってるって」
二人の会話を聞きながら、シアは会計台の椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、自分が思っていた以上に足が疲れていることへ気づく。
ふくらはぎが重い。
肩にも少し張りがある。
「シア?」
マルタが見る。
反射的に「大丈夫です」と言いかけ、シアは口を閉じた。
「……疲れました」
「うん」
「かなり」
「うん」
「少し座っていたいです」
「そうしな」
それだけだった。
シアは背もたれへ身体を預け、ゆっくり息を吐いた。
疲れている。
けれど、嫌な疲れではない。
朝からたくさんの客と話した。
林檎パンが全部売れた。
無理な追加をしないと決めた。
欲しいと言われても断った。
レオンハルトにも予約はできないと伝えた。
騎士団の注文も間違えなかった。
そして、疲れたと口にできた。
「シア、今日の林檎パンの売上、あとで数える?」
マルタが尋ねる。
シアは一瞬だけ帳簿へ目を向けた。
数えたい。
どのくらい売れたのか、通常商品と合わせてどうだったのか、原価を引いたらどうなるのかも気になる。
けれど今は、足が重い。
「……明日でもいいですか?」
自分の口から出た言葉に、シア自身が少し驚いた。
マルタは当然のように頷く。
「もちろん」
「数字、気にならないのか?」
オットーがからかうように言う。
「気になります」
「ならやればいいだろ」
「でも、今は疲れています」
「そうか」
「明日でも数字は逃げません」
言い切ると、オットーが小さく笑った。
「正解だ」
シアも笑った。
数字は逃げない。
仕事も、今日全部終わらせなくていい。
明日できることは、明日に回していい。
それは以前の自分なら、怠けだと思っていたことだった。
「夕飯、何がいい?」
マルタに聞かれ、シアは考える。
「温かいものが食べたいです」
「じゃあ野菜の煮込みにしようか。昨日の肉も少し残ってるから入れよう」
「嬉しいです」
「パンは?」
オットーが棚に残ったものを見る。
「黒麦?」
少し迷い、シアは首を横に振った。
「今日は白パンがいいです」
「珍しいな」
「なんとなく、今日は柔らかいものが食べたいので」
「なら白パンにしよう」
自分の食べたいものを言う。
それだけのことが、今は日常の中へ少しずつ馴染んでいる。
マルタが夕食の準備を始め、オットーは明日の仕込みへ戻る。シアはもう少しだけ椅子に座ってから、身体が軽くなったところで立ち上がった。
「何する気?」
マルタに見つかる。
「食器を出そうかと」
「それくらいならお願い」
「はい」
全部を禁止されるわけではない。
休んだあと、できることをする。
シアは三人分の食器を並べながら、今日一日を思い返した。
祭りはまだ終わっていない。
明日も朝から仕事がある。
蜂蜜林檎パンは三十個。
騎士団へは五十個。
そして午後になれば、ミレイユと中央広場へ出かける。
(明日は仕事だけの日じゃない)
そのことが嬉しかった。
仕事を終えたら、友達と祭りへ行く。
果物茶を探す。
ほかにも何か見つけるかもしれない。
今日、店頭でたくさんの人が楽しそうに祭りへ向かう姿を見た。
明日は自分も、その中へ入る。
「シア」
マルタに呼ばれ、顔を上げる。
「何を笑ってるの?」
言われて初めて、自分が笑っていたことに気づいた。
「明日のことを考えていました」
「仕事?」
「それもあります。でも、そのあとのことです」
「ああ、ミレイユちゃんと出かけるんだったね」
「はい」
シアは窓の向こうへ目を向けた。
日が落ちても、祭りの灯りは街を明るく照らしている。
「楽しみなんです」
今日、何度目か分からないほど、自分の気持ちをそのまま口にした。
忙しい一日だった。
疲れた。
失敗しないか不安にもなった。
断るときには怖さもあった。
それでも、楽しかった。
売り切れたものは、売り切れたままでよかった。
できないことを断ってもよかった。
疲れたら座ってよかった。
今日やらなくていい仕事を明日へ残してもよかった。
それでも店は回り、一日は無事に終わった。
シアは自分の席へ座り、マルタが運んできた湯気の立つ煮込みを見て、素直に「おいしそうです」と笑った。
外ではまだ祭りの音が続いている。
けれど今夜は、それを追いかける必要はない。
温かい食事を食べ、身体を休め、明日の朝を迎えればいい。
そして明日の午後には、自分のために祭りへ出かける。
働く時間も、休む時間も、誰かと笑う時間も、少しずつ自分の暮らしになっていく。
シアは白パンを一口分ちぎり、温かな煮込みへ浸した。
明日も忙しくなるだろう。
それでも、その先に楽しみが待っていると思えることが、今は何より嬉しかった。




