第28話 仕事のあとに待つもの
秋穫祭二日目の朝、《麦穂亭》の厨房には、まだ日の出前だというのに甘酸っぱい林檎の香りが満ちていた。
窯の火が赤く揺れ、その熱を受けた作業台の上では、オットーが蜂蜜林檎パンの生地を一つずつ分けている。昨日より販売数は十個少ない三十個だが、騎士団へ届けるパンは五十個に増えており、通常販売分や《銀鹿亭》《赤い鍋亭》への定期注文まで合わせれば、決して余裕のある朝ではなかった。
シアは昨日と同じように空色の髪紐で髪をまとめ、前掛けを着けて作業台の前に立っていた。
「今日は二十個からだ」
オットーが丸パン用の生地を示す。
「昨日より少ないですね」
「午後から休む奴に、朝だけで一日分働かせる気はない」
「でも、お昼までは働けます」
「だから二十だ」
即答され、シアはそれ以上言い返さずに生地へ手を伸ばした。
昨日一日でかなりの数を扱ったため、指先にはまだ少し疲れが残っている。痛いほどではないが、いつもより生地を包み込む感覚が鈍い気がした。
一つ目を丸め、作業台へ置く。
二つ目。
三つ目。
形は崩れていない。
けれど四つ目を整えたところで、シアは一度手を止めた。
「オットーさん」
「何だ」
「少し、指が疲れています」
以前なら言わなかった程度の疲れだった。
動かせる。
作業もできる。
それでも、昨日の夜に「疲れたら言う」と決めたばかりだ。
オットーはシアの手元を見る。
「痛むのか?」
「痛くはありません。ただ、いつもより動かしにくい気がします」
「なら急ぐな。二十がきつそうなら途中でやめろ」
「はい」
「あと、力入れすぎるなよ。疲れてるときほど無意識に握る」
言われて、自分の手元を見直す。
確かに先ほどの生地には、指の跡が少し強く残っていた。
「分かりました」
次の生地では意識して力を抜く。
急がない。
昨日と同じ速さでやる必要もない。
オットーと同じ形にする必要もない。
(今日は今日の手でやればいい)
十五個目を終える頃には、最初に感じていた違和感も少し薄れていた。
「どうだ」
「まだできます」
「本当か?」
問われ、シアは自分の指を開いたり閉じたりする。
「はい。でも、二十個で終わりにします」
「それでいい」
残り五個を丁寧に整え、最後の一つを作業台へ置く。
「二十個、終わりました」
オットーが一通り確認する。
「昨日より少し形が甘いのがあるな」
胸の奥がわずかに縮む。
けれど、オットーはそのまま続けた。
「疲れてる割には問題ない。このまま焼く」
「直さなくていいですか?」
「直すほどじゃない」
「分かりました」
シアは手を離した。
完璧ではない。
それでも商品として問題がないなら、何度も触らない。
少しずつ身についてきた判断だった。
手を洗って店側へ出ると、マルタが祭り用の値札を棚へ置いているところだった。
昨日と同じ蜂蜜林檎パン。
ただし、その横には小さく「本日三十個」と書き加えられている。
「分かりやすいですね」
「昨日、何人にも聞かれたからね。今日は最初から書いとく」
「予約は?」
「なし」
「追加は?」
「基本なし。オットーに余裕があって、通常分と注文分に絶対影響しないなら相談。それ以外は終わり」
「はい」
昨日と同じ方針だ。
シアは会計台へ回り、今日の注文表を開いた。
騎士団、丸パン三十一、黒麦パン十九。
合計五十。
追加変更はない。
《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の注文も確認済み。
昨日のような服飾店の大口注文は今日はないため、その分だけ店頭販売には余裕がある。
「シア」
マルタに呼ばれて顔を上げる。
「午後のこと、忘れてない?」
「忘れていません」
「本当に?」
「はい」
「忙しかったら残ろう、とか考えてない?」
図星を突かれたわけではない。
少なくとも、今はまだ。
それでも、もし昼になって客が並んでいたら。
もしパンが足りなくなったら。
もしマルタとオットーが忙しそうだったら。
自分だけ出かけてもいいのだろうかと考える可能性はある。
「……少しは考えるかもしれません」
正直に答えると、マルタが腰へ手を当てた。
「じゃあ今のうちに言っとく。今日は予定通り行きなさい」
「でも、本当に忙しかったら」
「そのときは私たちから相談する。でも、シアが勝手に『忙しそうだから休みをやめます』って決めるのは禁止」
「禁止ですか?」
「禁止」
厨房からオットーの声も飛んでくる。
「俺も同意だ」
二対一になった。
「……分かりました」
「返事がちょっと不満そうだね」
「不満ではありません。ただ、まだ少し慣れません」
「何に?」
「自分がいなくてもいいと思うことに、です」
口にすると、自分でも少し寂しく聞こえた。
マルタは一瞬だけ目を細めたあと、会計台越しにシアを見る。
「いなくてもいいんじゃないよ」
「え?」
「いてくれたら助かる。でも、いなきゃ回らない店にはしないってこと」
その違いを理解するまで、少し時間が必要だった。
必要とされること。
依存されること。
同じではない。
「シアが休む日も、私が休む日も、オットーが休む日もある。誰か一人が倒れたら全部終わるようなやり方じゃ、長く続けられないでしょ?」
「……はい」
「だから今日は働いて、それから遊びに行く。それでいいの」
シアは小さく頷いた。
(いてほしい。でも、いなければ壊れるわけではない)
伯爵家では違った。
頼られていると思っていた仕事の多くは、実際には押しつけられていただけだった。自分が断れば怒られ、自分が失敗すれば責められ、自分がいなくなる可能性など誰も考えていなかった。
ここでは、自分が働くことを望まれている。
けれど、自分の休みまで差し出すことは求められていない。
「午後、行ってきます」
改めて言うと、マルタが笑った。
「よし」
◇
店を開けて間もなく、昨日蜂蜜林檎パンを買えなかった客が何人も訪れた。
「今日はある?」
「はい。今でしたらございます」
「じゃあ二つ!」
「ありがとうございます」
昨日「朝から楽しみにしていた」と言っていた女性もやってきた。
「あった!」
棚を見るなり声を上げる。
「昨日は申し訳ありませんでした」
「いいのよ。今日は早く来たから」
「何個になさいますか?」
「二つ。家で待ってる子がいるの」
シアは二つを包みながら、昨日断ったことでこの客が二度と来なくなるわけではなかったのだと知る。
女性は代金を払い、包みを受け取ると笑って帰っていった。
(昨日、無理に追加しなくてよかった)
断った。
それでも今日、また来てくれた。
すべての要望へその場で応えることだけが、客を大切にする方法ではない。
その実感は、仕入れや帳簿の数字から学ぶこととは違う種類の経験として、シアの中へ残った。
蜂蜜林檎パンは今日も順調に売れていったが、昨日ほどの勢いではない。
祭り初日に買った者が多いからだろう。
それでも朝のうちに半数近くが売れ、マルタは満足そうだった。
「三十でちょうどよかったかもね」
「午後まで残るでしょうか」
「どうだろうねえ」
「ミレイユさんが食べたがっていました」
「じゃあ一個取っとく?」
シアは反射的に首を横へ振った。
「駄目です」
「即答だ」
「昨日、本人にも予約はできないと言いました」
「友達でも?」
「友達だからこそ、あとから特別扱いしたら怒られそうです」
「それは確かに」
マルタが楽しそうに笑う。
「売り切れてたら、あとでオットーに作ってもらうんだっけ?」
「祭りが終わってから、お願いしてみようと思っています」
「自分も食べたい?」
問われ、シアは少し考える。
試作は食べた。
味は知っている。
けれど、本番の商品として焼かれたものも食べてみたい。
「はい。私も食べたいです」
「じゃあ祭りが終わったら、三人……いや、ミレイユちゃん入れて四人分作ってもらおうか」
「オットーさんが作ってくださるなら」
「聞こえてるぞ」
厨房から低い声が飛んでくる。
「作ってくれる?」
「林檎が残ってたらな」
「だって」
マルタがシアへ笑いかける。
「では、ローザさんの林檎が残っていたら、お願いします」
以前なら、商品ではないものを自分のために作ってほしいなど言えなかった。
今でも少し遠慮はある。
それでも、食べたいと思ったものを「食べたい」と言えるようになっている。
◇
午前の半ば、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
いつものように顔を上げたシアは、入ってきた人物を見て一瞬だけ目を丸くした。
「レオンハルト様」
濃紺の上着に身を包んだレオンハルトが、店内へ入ってくる。今日は騎士服ではなく、以前店へ来たときと同じような比較的簡素な服装だったが、祭りの日でも彼の姿勢や立ち居振る舞いは自然と目を引いた。
店内にいた客の一人が気づき、慌てて姿勢を正そうとする。
レオンハルトは軽く手を上げた。
「気にしないでくれ。今日は客として来ただけだ」
その言葉に、店内の空気が少しだけ緩む。
マルタも特別な態度を取らず、「いらっしゃい」と普段通り声をかけた。
「本当に来たんですね」
シアが言うと、レオンハルトの眉がわずかに上がった。
「来ると言った覚えはないが」
「食べてみたいとはおっしゃっていました」
「覚えていたのか」
「はい」
「なら、来た甲斐はあったな」
レオンハルトの視線が棚へ移る。
蜂蜜林檎パンは、まだ七つ残っていた。
「まだあるか?」
「はい」
「では一つ」
「一つでよろしいんですか?」
「なぜ増やそうとする」
「ミレイユさんなら三つ買いますから」
「あれを基準にするな」
思わずシアの口元が緩む。
「では、一つですね」
「ああ。それと丸パンを二つ」
「ありがとうございます」
蜂蜜林檎パンを一つ、丸パンを二つ。
包みながら、シアはふと丸パンの形を見る。
自分が今朝作ったものかもしれない。
以前なら、それを確かめたくなっただろう。
けれど今日は聞かなかった。
誰が形を整えたとしても、《麦穂亭》のパンであることに変わりはない。
「蜂蜜林檎パンが銅貨九枚、丸パン二つで十枚ですので、十九枚です」
レオンハルトが硬貨を置く。
「ちょうどお預かりします」
「昨日は全部売れたんだったな」
「はい。四十個、午前中で完売しました」
「それなら今日は増やしてもよかったんじゃないか?」
責める口調ではない。
シアは少し考え、昨日の判断を説明する。
「作ろうと思えば増やせました。でも、通常のパンや予約分が遅れる可能性があったので、追加しませんでした。今日は最初から三十個にしています」
「昨日売れたのに、今日は減らしたのか」
「はい。今日は騎士団の注文が昨日より二個多いですし、昨日より私が働く時間も短いので」
レオンハルトの視線がシアへ戻る。
「短い?」
「午後から、ミレイユさんと祭りへ行くんです」
口にしたあと、以前の自分なら公爵家の跡取りへ「仕事を休んで遊びに行く」と言うことに罪悪感を覚えただろうと思った。
しかし今は、それほど怖くない。
「そうか」
レオンハルトはごく自然に頷いた。
「それなら、午前中に来て正解だったな」
「林檎パンのためですか?」
「それもある」
それも。
短い言葉の意味を考える前に、後ろに次の客が並んだ。
レオンハルトも気づいたらしく、包みを受け取る。
「忙しいところを邪魔したな」
「いえ。ありがとうございました」
「祭りを楽しんでこい」
その言葉に、シアは微笑んだ。
「はい。楽しんできます」
レオンハルトが店を出たあと、次の客へ向き直る。
けれど胸の奥には、先ほどの会話の余韻が少し残っていた。
(楽しんできます、って言えた)
楽しんでもいいのか、と尋ねるのではない。
楽しんでくると、自分から言った。
その違いが嬉しかった。
◇
店を出たレオンハルトは、通りを少し進んだところで足を緩めた。
祭りの人波は朝から多く、中央広場へ近づくほど混雑している。普段なら馬車を使う距離でも今日は徒歩の方が早い場所が多く、護衛も少し離れた位置から人の流れを警戒していた。
手には《麦穂亭》の包みがある。
蜂蜜林檎パンを買うために来た。
それ自体は嘘ではない。
昨日、シアから聞いて興味を持った。
ただ、店へ入って最初に確認したのが棚ではなく会計台の向こうにいる彼女だったことを、レオンハルト自身は自覚していた。
(まただな)
以前、配達にシアが来なかったときも気づいた。
次に店で顔を見たときには、わずかな安堵を覚えた。
今日も、彼女がいつもの空色の髪紐をつけて店に立っている姿を見た瞬間、どこか肩の力が抜けた。
理由を決めつけるつもりはない。
まだ、そこまでのものではないと思っている。
ただ、気になる相手ではある。
それくらいなら認めてもいいのかもしれない。
レオンハルトは包みから蜂蜜林檎パンを取り出した。
歩きながら食べるのは行儀がいいとは言えないが、祭りの日なら珍しくもない。
一口かじると、最初に蜂蜜の柔らかな甘さが広がり、そのあとに林檎の酸味が残った。
「なるほど」
シアが林檎を好きだから選んだ。
それを思い出しながらもう一口食べる。
以前買った蜂蜜パンとは違う。
派手ではないが、甘さだけで終わらない味だった。
レオンハルトは少しだけ笑い、残りを包み直した。
◇
正午が近づく頃には、蜂蜜林檎パンは残り二つになっていた。
騎士団用の五十個もすでに焼き上がり、籠へ分けられている。
「丸三十一、黒麦十九」
シアが確認する。
「合計五十。札もついています」
「今日は俺が持っていく」
オットーが言った。
シアは一瞬だけ顔を上げる。
「でも、まだお昼前です」
「だからだ。お前はあと少しで上がるだろ」
「配達して戻ってきてからでも――」
「昨日より二個多いし、祭りで道も混んでる。往復したら休む時間が減る」
反論しようとして、シアは言葉を飲み込んだ。
午後の約束を守る。
そのためには、仕事をどこかで区切らなければならない。
「……お願いします」
「おう」
「気をつけてください」
「お前に言われるとはな」
オットーが荷車を押して出ていく。
その背中を見送りながら、シアは胸の奥に残る小さな落ち着かなさを受け止めた。
騎士団の注文管理は自分が担当している。
それでも、配達まで毎回自分がしなければならないわけではない。
以前、一度学んだことだ。
(任せてもいい)
店へ戻る。
残りの仕事を片づけようとしたところで、マルタが声をかけた。
「シア、あと何するつもり?」
「会計の途中分をまとめて、棚を整えて、それから午後分の――」
「会計だけでいい」
「棚は?」
「私がやる」
「午後分は?」
「オットーが戻ってから二人でやる」
「でも」
そこまで言って、シアは止まった。
また同じことをしようとしている。
休む前に、できるだけ多く終わらせる。
自分がいない時間の分まで働いてからでなければ、休んではいけないように。
「……会計だけにします」
「よし」
帳面を開き、午前中の数字をまとめる。
林檎パンは残り二つ。
通常商品も予想の範囲内。
大きな間違いはない。
硬貨と記録も一致している。
「終わりました」
「じゃあ上がり」
「はい」
返事をしてからも、シアは会計台の前に立っていた。
「シア?」
「……本当に、もういいんですよね」
「いいよ」
「まだお客さんが来ます」
「来るね」
「林檎パンも二つ残っています」
「残ってるね」
「私がいなくても」
そこまで言ったところで、マルタが柔らかく笑った。
「昨日言ったでしょ。いてくれたら助かる。でも、休む日にまでいなきゃ駄目な店にはしない」
シアはゆっくり息を吐いた。
「分かりました」
「着替えておいで。ミレイユちゃんが来る前にご飯も食べな」
「はい」
今度こそ会計台を離れる。
階段へ向かいかけたところで、扉の鈴が鳴った。
思わず振り返る。
若い夫婦が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
反射的に声を出すと、マルタが笑いながら手を振る。
「はい、そこまで。あとは私」
「……お願いします」
客へもう一度軽く頭を下げ、シアは階段を上った。
◇
自室へ戻り、扉を閉める。
階下からはまだ客の声が聞こえていた。
それなのに、自分は仕事着を脱ごうとしている。
胸の奥が少し落ち着かない。
(でも、今日はここまで)
自分で言い聞かせるように、前掛けを外した。
仕事用の服から、以前マルタと相談して用意した生成りのブラウスと濃い茶色のスカートへ着替える。
空色の髪紐はそのまま使うか少し迷った。
鏡代わりの磨き板へ自分を映す。
やはり、この色は好きだ。
「これでいい」
自分で決め、髪を結び直した。
引き出しの奥には、母の銀のペンダントがある。
昨日決めた通り、今日は持っていかない。
人の多い祭りで失くすのが怖いから。
それも、自分で選んだ。
小さな財布へ必要な分だけ硬貨を入れる。
以前の市場では、何か買うこと自体に迷っていた。
今日はどうだろう。
欲しいものがあれば買いたい。
なければ買わなくてもいい。
林檎茶があれば飲みたい。
なければ別の味を試してみたい。
(何をしなければならないか、じゃない)
今日は午後から、自分が何をしたいかを考える。
それだけで少し胸が弾んだ。
階下へ戻ると、マルタが用意してくれた昼食がテーブルに置かれていた。
「食べてから行きな」
「ありがとうございます」
「ミレイユちゃんと食べ歩きするんじゃないの?」
「します」
「なら少なめにしといた」
小さめの白パンと野菜のスープ。
シアは椅子へ座り、湯気の立つ器へ顔を近づけた。
「いただきます」
ゆっくり食べる。
仕事が終わった直後だからと急ぐ必要はない。
ミレイユが来るまでまだ時間はある。
白パンを食べ終え、スープも飲みきったところで、扉の鈴が鳴った。
「こんにちはー!」
聞き慣れた明るい声。
シアは思わず椅子から立ち上がった。
「ミレイユさん」
店へ出ると、そこにいたのは騎士服姿ではないミレイユだった。
淡い緑色のシャツに濃い茶色の細身のズボン、腰までの軽い上着。以前市場へ出かけたときと似た装いだが、今日は髪に深い青色の紐を結んでいる。
シアが選んだものだ。
「お待たせ」
「いえ。私も今、昼食を食べ終えたところです」
ミレイユはシアの姿を上から下まで見て、嬉しそうに笑った。
「その服、やっぱり似合うね」
「ありがとうございます。ミレイユさんも、その髪紐を使ってくださっているんですね」
「もちろん。シアが選んでくれたやつだし」
その言葉が嬉しくて、シアは自分の空色の髪紐へ触れた。
「お揃いではありませんけれど、少し似ていますね」
「色違いみたいでいいじゃん」
「はい」
マルタが会計台の向こうから二人を見る。
「じゃあ、楽しんでおいで」
「行ってきます」
シアは自然に答えた。
以前、仕事を終えて自室へ戻るときに「ただいま」と言えたことがあった。
今度は、この場所から遊びへ出かけるために「行ってきます」と言った。
「夕方までには戻る?」
「その予定です」
「遅くなりそうなら気をつけてね。祭りの日は暗くなっても人が多いから」
「はい」
ミレイユが扉を開ける。
外から祭りの音と人々の声が一気に入ってきた。
「行こっか、シア」
「はい」
二人で店を出る。
午後の通りは朝よりさらに賑わっていた。
色とりどりの布飾りが頭上で揺れ、屋台から焼いた肉や甘い菓子の香りが流れてくる。笛と太鼓の音が重なり、子どもたちの笑い声や商人の呼び込みがその間を埋めていた。
シアは一瞬だけ足を止めた。
「すごい人ですね」
「大丈夫そう?」
ミレイユがすぐに聞く。
シアは人波を見る。
多い。
前の市場よりずっと多い。
少し圧倒される。
「今は大丈夫です。でも、疲れたら言います」
「うん。私も言う」
「約束です」
「約束」
二人で笑い、歩き始める。
ミレイユが少し前を歩こうとはしない。
シアを引っ張ることもない。
肩が触れない程度の距離で、同じ速さで隣を歩いている。
「まず中央広場?」
ミレイユが尋ねた。
シアは少し考える。
誰かに行き先を決めてもらう必要はない。
「果物茶のお店を探したいです」
「最初から?」
「はい。なくなる前に」
「なるほど。林檎パンで学んだね」
「売り切れたなら仕方ありませんけれど、飲めるなら飲みたいです」
「よし。じゃあ探そう」
二人は人波の中へ入っていった。
◇
中央広場へ続く大通りには、普段は見かけない屋台が何十軒も並んでいた。
焼き肉。
煮込み。
木の実を絡めた菓子。
果物を煮た甘い汁。
刺繍布。
木彫り細工。
革製品。
子ども向けの玩具。
農村から運ばれた野菜や果物まである。
「どれが果物茶だろう」
ミレイユが背伸びをする。
「前のお店と同じ看板なら、果物の絵がありました」
「探してみようか」
歩きながら左右の屋台を見る。
シアは何度か気になるものへ視線を向けた。
小さな刺繍布。
木製の櫛。
秋色の紐。
以前なら、見てもすぐに「必要ない」と判断していただろう。
今日は、見るだけでも楽しいと知っている。
「気になる?」
ミレイユが木製の小物を並べた屋台を指す。
「少し」
「見る?」
シアは果物茶を探す道の先と、屋台を交互に見る。
「……見たいです」
「じゃあ寄ろう」
屋台には木製の櫛や小箱、匙、髪留めが並んでいた。
シアは小さな櫛を手に取る。
今持っている櫛は、伯爵家を出るときに持ってきた実用品だ。
壊れてはいない。
まだ使える。
だから新しいものは必要ない。
けれど、手に取った櫛の柄には小さな麦穂の模様が彫られていた。
「それ、シアっぽい」
ミレイユが言う。
「私っぽいですか?」
「《麦穂亭》で働いてるからっていう単純な理由だけど」
「それならマルタさんにもオットーさんにも似合います」
「オットーさんがそれで髪とかしてるところ想像しちゃった」
シアも想像してしまい、笑いがこぼれる。
「髪、短いですけれど」
「だから余計に」
店主が二人の会話を聞いて笑っていた。
シアはもう一度、櫛を見る。
欲しいだろうか。
値段は銅貨十四枚。
買えない金額ではない。
必要かと聞かれれば、必要ではない。
けれど。
(欲しいかどうかなら……)
指先で麦穂の彫りをなぞる。
「これ、ください」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「毎度」
店主が紙へ包む。
シアは銅貨十四枚を数えて渡した。
包みを受け取ったあと、胸の奥が少しだけ高鳴っていることに気づく。
「買ったね」
ミレイユが嬉しそうに言う。
「はい」
「必要だから?」
「いいえ」
シアは包みを両手で持った。
「欲しかったからです」
「そっか」
ミレイユはそれ以上、大げさに褒めなかった。
そのことがありがたかった。
何かを一つ買っただけで、特別なことにしなくてもいい。
それでもシアにとっては、小さくて確かな変化だった。
◇
果物茶の屋台を見つけたのは、それから少しあとだった。
「あった!」
ミレイユが指を差す。
以前訪れた店と同じ果物の絵が描かれた札が下がっている。祭り用の屋台らしく普段の店より簡素だが、並んでいる壺には林檎、木苺、柑橘、桃の札がついていた。
「林檎、あります」
「木苺もある!」
二人は顔を見合わせる。
「予定通りですね」
「なんか嬉しいね」
列へ並び、順番を待つ。
前には親子連れがいて、子どもが桃と林檎のどちらにするか真剣に悩んでいた。
シアはその姿を見ながら、自分も少し前までは「好きな方を選ぶ」という行為そのものに慣れていなかったことを思い出す。
順番が来る。
「林檎を一つお願いします」
「私は木苺!」
温かい果物茶を受け取り、代金を払う。
人混みの中央で飲むのは落ち着かないため、広場の端にある腰掛けを探した。
幸い、二人分の空きがある。
「座ろう」
「はい」
腰を下ろすと、歩いていたときには気づかなかった足の疲れを少し感じた。
シアは林檎茶へ口をつける。
甘酸っぱい香り。
以前飲んだときと同じ味だった。
「……おいしいです」
「こっちもおいしいよ」
「一口、交換しますか?」
言ってから、シアは少し驚いた。
ミレイユも目を丸くする。
「いいの?」
「嫌ならいいんですけれど」
「嫌じゃないよ。むしろ飲みたい」
互いの器を少しだけ交換する。
シアは木苺の茶を一口飲んだ。
林檎より酸味が強く、香りも華やかだ。
「どう?」
「おいしいです。でも、私はやっぱり林檎の方が好きです」
「私は木苺だなあ。林檎もおいしいけど」
「違っていいんですね」
「そりゃそうでしょ」
ミレイユが笑う。
「同じもの好きじゃないと友達になれないなら大変だよ」
シアも笑った。
友達だから同じものを選ばなくてもいい。
違うものを好きだと言ってもいい。
嫌なことは嫌だと言っていい。
疲れたら疲れたと言っていい。
そして、会いたいなら自分から誘っていい。
「ミレイユさん」
「ん?」
「今日、一緒に来られてよかったです」
ミレイユの表情が少し柔らかくなる。
「私も」
「それから……」
シアは器の中で揺れる林檎茶を見る。
「前に、次は私から誘ってもいいかと聞きましたよね」
「うん」
「今日は、私から誘えたことになるでしょうか」
「なるよ」
「よかった」
「そこ気にしてたの?」
「少し」
ミレイユは笑ったあと、少しだけ身体をシアの方へ向けた。
「じゃあ、その次は私から誘う」
「はい」
「その次はシア」
「交代ですか?」
「分かりやすいでしょ」
「でも、行きたい場所を思いついた方が誘えばいいと思います」
「……それもそうだね」
「私、少しは上手になったでしょうか」
「何が?」
「友達が」
ミレイユは一瞬だけ黙った。
そのあと、笑うのではなく、穏やかな顔で答える。
「友達って、上手とか下手とかじゃないと思うよ」
「そうなんですか?」
「少なくとも私は、シアと一緒にいて楽しい。それで十分じゃない?」
胸の奥が温かくなる。
「……私もです」
「じゃあ合格」
「試験ではないと言ったばかりなのに」
「あ、本当だ」
二人で笑った。
◇
そのあとも、二人は祭りの中をゆっくり歩いた。
すべての屋台を見る必要はない。
気になったところで止まり、疲れたら休む。
シアは焼いた栗を少し買い、ミレイユと分けた。ミレイユは香辛料の効いた串焼きを見つけ、二人で一本ずつ食べた。
人が増えた場所では、ミレイユが何度かシアの様子を確認した。
「平気?」
そのたび、シアも自分の身体へ意識を向ける。
「今は平気です」
しばらくして、中央広場で楽団の演奏が始まると、人々が一か所へ集まり始めた。
肩が触れそうなほど距離が縮まり、後ろからも次々と人が来る。
シアの呼吸が少し浅くなった。
人が多い。
前も後ろも知らない人ばかり。
すぐ横を、大きな声で笑う男性たちが通る。
身体が無意識に強張った。
「シア?」
ミレイユの声が聞こえる。
大丈夫。
そう答えそうになる。
けれど、違う。
「……少し、疲れました」
「離れようか」
「はい。人の少ないところへ行きたいです」
「分かった」
ミレイユはシアの腕を勝手に掴まず、先に人の少ない方向を示した。
「こっちなら抜けられそう」
「はい」
二人でゆっくり人波から離れる。
広場の外側まで来ると、シアは大きく息を吐いた。
「ごめんなさい」
言ってから、自分で気づく。
「……違いますね」
ミレイユが何も言わず待ってくれる。
「ありがとうございます」
「うん」
「少し休みたいです」
「休もう」
近くの低い石壁へ腰掛ける。
ミレイユは何があったのか問い詰めなかった。
ただ隣へ座り、自分も足を伸ばす。
「私も結構疲れた」
「ミレイユさんも?」
「朝から巡回して、そのあと祭り歩いてるんだから疲れるよ」
「そうですよね」
「だから休憩。二人とも」
「はい」
シアは膝の上へ手を置いた。
まだ少し心臓が速い。
けれど、逃げ出したいほどではない。
自分から「人の少ないところへ行きたい」と言えた。
それだけで、先ほどの苦しさが少し違って感じられる。
(我慢しなくても、一緒にいられる)
それが嬉しかった。
◇
休んでから、二人は中央広場の混雑を避けて裏通り側を歩いた。
日が傾き始め、建物の壁が橙色に染まっている。
「そろそろ戻る?」
ミレイユが尋ねる。
シアは少し考えた。
足は疲れている。
でも、もう一つだけ見たいものがあった。
「帰る前に、林檎を見てもいいですか?」
「林檎?」
「ローザさんのところです。祭りにも店を出していると言っていたので」
「もちろん」
二人で探すと、広場から少し離れた通りに野菜と果物を積んだ露店があり、その奥に見慣れた顔があった。
「あら、シア!」
「ローザさん」
「今日はお休み?」
「午前中は働いていました。午後からです」
「ちゃんと休めたんだね。よかったじゃない」
「はい」
ローザの前には赤や黄色の林檎が籠いっぱいに並んでいる。
「林檎パン、昨日も今日もよく売れました」
「聞いたよ。昨日買った人がうちにも言いに来たもの」
「本当ですか?」
「『あの林檎どこの?』ってね。ちゃんと《麦穂亭》に卸してるって宣伝しといたよ」
ローザが豪快に笑う。
「ありがとうございます」
「で、祭り終わっても林檎パンやるの?」
「まだ決まっていません。マルタさんとオットーさんに相談します」
「そうだね。シアが勝手に決めちゃ駄目だ」
「はい」
その線引きも、もう自然に答えられる。
ローザは籠から少し小さな林檎を一つ取り出した。
「これは?」
「え?」
「今日よく頑張ったご褒美」
差し出された林檎を見る。
以前なら、無料で何かを受け取ることに強い戸惑いがあった。
「いただいていいんですか?」
「いいよ。売り物にするには少し小さいから」
シアは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
謝らない。
理由を探しすぎない。
好意として差し出されたものを、好意として受け取る。
林檎を手にしたまま、シアは笑った。
「帰ったら食べます」
「林檎好きだもんね」
「はい。好きです」
その答えも、もう迷わなかった。
◇
《麦穂亭》へ戻る頃には、空は薄い紫色へ変わり始めていた。
祭りの灯りが一つずつ点き、これから夜の賑わいが始まろうとしている。
「ただいま戻りました」
扉を開けて言うと、会計台の向こうにいたマルタが顔を上げた。
「おかえり。楽しかった?」
「はい。とても」
即答だった。
「疲れた?」
「疲れました」
これも即答できた。
「でも、楽しかったです」
「それならよし」
厨房からオットーも顔を出す。
「林檎パンは?」
ミレイユが期待を込めて尋ねる。
「売り切れた」
「やっぱり!」
「でも林檎は残ってる」
「じゃあ?」
「祭りが終わってからな」
「やった!」
ミレイユが嬉しそうに拳を握る。
シアも笑った。
「私も食べたいです」
「分かってる」
オットーは呆れたように言いながら厨房へ戻っていった。
「シア、それ何?」
マルタが手元を見る。
シアは紙包みを持ち上げた。
「櫛です」
「買ったの?」
「はい」
「必要だった?」
同じことを聞かれた。
シアは少しだけ胸を張る。
「いいえ。欲しかったので買いました」
マルタの目が柔らかくなる。
「そっか」
「麦穂の模様なんです」
包みを開いて見せる。
「本当だ。かわいいね」
「ミレイユさんには、私っぽいと言われました」
「そりゃ《麦穂亭》のシアだからね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
《麦穂亭》のシア。
誰かの娘としてでも、誰かの婚約者としてでもない。
ここで働き、暮らしている自分。
「……はい」
シアは麦穂の彫られた櫛を見つめながら、ゆっくり頷いた。
「私、《麦穂亭》のシアです」
言葉にすると、思っていた以上に嬉しかった。
ミレイユが隣で笑っている。
マルタも笑っている。
厨房からはオットーが明日の片づけをする音が聞こえる。
外では祭りの音楽が続いている。
その全部が、今の自分の暮らしの中にある。
シアは手の中の櫛を大切に包み直した。
欲しかったから買ったもの。
友達と一緒に歩いた日に、自分で選んだもの。
これから髪を整えるたび、今日のことを思い出すかもしれない。
働いたあとに遊びへ行ったこと。
人混みに疲れたと言えたこと。
休みたいと伝えられたこと。
林檎茶を飲んだこと。
友達と違うものを好きだと言えたこと。
そして、仕事へ戻るためではなく、自分が帰りたいと思う場所へ帰ってきたこと。
「シア?」
ミレイユに呼ばれ、顔を上げる。
「また笑ってる」
「はい」
「何か面白かった?」
シアは少し考えた。
面白かったわけではない。
ただ、嬉しい。
「帰ってくる場所があるのって、いいですね」
口にしたあと、胸の奥が少しだけ震えた。
マルタは何も問い返さなかった。
ミレイユも、過去について聞かなかった。
ただ、隣で静かに頷いてくれた。
「うん。いいよね」
それだけで十分だった。
シアはもう一度、店の中を見回した。
明日からは祭りではない日々が戻ってくる。
帳簿をつける日。
パンを売る日。
仕入れを考える日。
成形を練習する日。
友達と次の予定を考える日。
忙しい日も、失敗する日も、疲れる日もあるだろう。
それでも今は、その先にある暮らしを続けてみたいと思っている。
(ここで、暮らしていきたい)
以前、口にした「ここにいたい」よりも、少しだけ先へ進んだ気持ちだった。
逃げてきたからいる場所ではない。
許されたから残る場所でもない。
自分が選び、自分で働き、自分で帰ってくる場所。
シアは麦穂の櫛を胸元へそっと抱き、店の中に残る焼きたてのパンの香りを吸い込んだ。
秋穫祭の二日目は、まだ夜を残している。
けれど彼女にとって一番大切だったのは、祭りの華やかさそのものではなかった。
仕事のあとに楽しみが待っていたこと。
そして、その楽しみを終えたあとにも、帰りたいと思える場所が待っていたことだった。




