第29話 これからも続けたい仕事
秋穫祭が終わった翌朝、《麦穂亭》の前を通る人の流れは、昨日までとはまるで違っていた。
通りを飾っていた色鮮やかな布の一部はすでに取り外され、中央広場の方からは露店を片づける荷車の音が聞こえてくる。祭りの間は朝から響いていた笛や太鼓もなく、代わりに職人たちの足音や商店の戸を開ける音が、少し冷えた朝の空気の中へ戻ってきていた。
シアは自室の小さな鏡代わりの磨き板の前で髪を整えながら、昨日買ったばかりの櫛を手にしていた。
柄には、小さな麦穂の模様が彫られている。
必要だから買ったものではない。
壊れた櫛の代用品でもない。
自分が欲しいと思ったから、銅貨十四枚を払って買った。
その事実は、一晩眠ったあとでも不思議なほど嬉しかった。
「……うん」
髪を梳き終え、櫛を机の上へ置く。
空色の髪紐で髪をまとめると、仕事着へ着替えた。
昨日の午後はミレイユと祭りを歩いたため、足には少しだけ疲れが残っている。中央広場の人混みから離れたいと自分から言えたことも、林檎茶を飲みながら友達について話したことも、まだ鮮明に覚えていた。
そして、帰ってきたときに口にした言葉も覚えている。
――帰ってくる場所があるのって、いいですね。
思い出すと、胸の奥が静かに温かくなった。
(ここで、暮らしていきたい)
昨日と同じ気持ちが、朝になっても残っている。
祭りの高揚感だけでそう思ったのではないらしい。
シアは櫛を引き出しへしまい、母の銀のペンダントが入った小箱とは少し離れた場所へ置いた。
どちらも大切だ。
けれど意味は違う。
銀のペンダントは、失いたくない過去のもの。
麦穂の櫛は、自分で選んだ今のものだった。
引き出しを閉めて階下へ向かう。
「おはようございます」
厨房へ入ると、すでにオットーが窯の火を見ていた。
「おう。足は?」
「少し疲れています。でも、痛くはありません」
「手は?」
昨日の朝、指の疲れを申告したことを覚えていたらしい。
シアは両手を開閉してみる。
「昨日より軽いです」
「なら今日は十五からだ」
「昨日より減っていませんか?」
「祭り明けだぞ。客も少し落ち着く」
「私の手とは関係なく?」
「両方だ」
シアは少し考えたあと、頷いた。
「分かりました」
以前なら、もっとできると証明しようとしたかもしれない。
今は、十五個をきちんと作ればいい。
作業台へ立ち、一つ目の生地へ手を伸ばした。
◇
祭り明けの《麦穂亭》は、静かというほどではなかったものの、前日までの慌ただしさと比べればずいぶん落ち着いていた。
朝の常連たちがいつもの時間に来る。
ハロルドはいつも通り黒麦パンを二つ買い、ニコは店へ飛び込んでくるなり会計台へ身を乗り出した。
「シア姉ちゃん、林檎パン!」
「ありません」
「終わったの!?」
「秋穫祭限定でしたから」
ニコが本気で落ち込んだ顔をする。
「昨日、父ちゃんが寝坊したんだよ……」
「ニコも寝坊したのでは?」
「俺は起きてた!」
「本当に?」
「……途中で一回寝たけど」
それは起きていたと言えるのだろうか。
シアが笑いを堪えていると、ニコが恨めしそうに見上げてきた。
「笑った」
「少しだけです」
「もう作らない?」
「私には決められません」
答えてから、厨房の方を見る。
「ただ、祭りが終わったら私たちが食べる分を作ってくださるという話はしています」
「ずるい!」
「商品ではありませんから」
「俺も食べたい!」
ニコの声が厨房まで届いたらしく、オットーの低い声が返ってきた。
「聞こえてるぞ」
「オットーさん! 作って!」
「店で売るかは別だ」
「じゃあ売って!」
「だから、それを今から考えるんだ」
ニコは完全には納得していないようだったが、今日は丸パン三つを買って帰っていった。
その背中を見送ったあと、マルタが会計台の横で笑う。
「もう一回くらい作ってもよさそうだね」
「商品としてですか?」
「まだ分からないけどね。祭り限定にするつもりだったけど、何人か聞いてきたし」
シアはすぐに頷くのではなく、棚と注文表へ視線を向けた。
「林檎の値段と、通常日の売れ方を見てからの方がいいと思います」
「うん」
「祭りでは特別な商品だから買ってくださった方もいると思います。普段の日にも同じ数が売れるとは限りません」
「それもそうだね」
「もし試すなら、最初は少ない数で……」
そこまで言ってから、シアは少し口を閉じた。
「どうしたの?」
「また私が決めるように話していました」
「案を出すのと決めるのは別でしょ」
「……はい」
「続けて」
シアは少し考え直す。
「私なら、最初は十個くらいで試したいです。ただ、オットーさんの作業量と材料の都合もあるので、作るかどうかは相談したいです」
「よし。じゃああとで三人で考えよう」
「はい」
自分の意見を言う。
しかし、自分だけで決めない。
その線引きも、少しずつ自然になってきていた。
◇
朝の混雑が落ち着いたところで、シアは祭り期間の帳簿を会計台の奥へ広げた。
昨日の夜は疲れていたため、細かな集計を翌日に回した。
数字は逃げない。
その言葉通り、帳面は今も同じ場所にある。
「やっと見られます」
思わず呟くと、マルタが笑った。
「昨日から気になってた?」
「かなり」
「休みより?」
「昨日の午後は祭りの方が大事でした」
答えてから、シア自身が少し驚いた。
マルタも目を丸くしたあと、楽しそうに笑う。
「それは進歩だねえ」
「私もそう思います」
椅子へ座り、売上記録を整理する。
通常商品の販売数。
騎士団への増量分。
服飾店の三十個。
蜂蜜林檎パン。
仕入れ。
林檎。
蜂蜜。
小麦。
祭り期間だけ増えた包装紙。
単純に売上だけを見れば、普段より大きい。
しかし、材料費も増えている。
さらに、オットーとマルタの作業量も普段より多かった。
シアは紙の端へ項目を分けて書いていく。
「シア」
「はい」
「楽しそうだね」
マルタに言われ、顔を上げる。
「そう見えますか?」
「祭り歩いてたときとは違う顔だけどね」
「どう違うんでしょう」
「こっちは真剣に遊んでる顔」
「仕事ですよ?」
「分かってるよ」
マルタは笑いながら客用の籠を整える。
シアも再び帳面へ目を落とした。
(でも、楽しい)
数字を並べる。
違いを探す。
理由を考える。
どこへ費用がかかり、どこで余裕が生まれたのかを見る。
以前の伯爵家でも、似たようなことはしていた。
けれど、あの頃は間違えないためだった。
責められないため。
誰かの機嫌を損ねないため。
仕事が終われば次の仕事が増えた。
どれだけ整えても、自分が何を考えたかを聞かれることはなかった。
今は違う。
「マルタさん」
「ん?」
「昨日の服飾店の注文ですが、店頭受取にしていただいたので、配達の人手が必要ありませんでしたよね」
「そうだね」
「もし今後、大口注文を受ける場合も、店頭受取なら受けられる範囲が広がると思います」
「うん」
「ただ、数が増えると包装に時間がかかります。昨日は私が店にいましたけれど、誰かが休みの日なら同じ数でも難しいかもしれません」
マルタが手を止め、シアの紙を覗き込む。
「そこまで書いてるの?」
「はい。次に似た注文が来たとき、数だけで判断しない方がいいと思って」
「オットーにも見せようか」
「お願いします」
厨房へ持っていくと、オットーは生地を休ませているところだった。
粉のついた手を布で拭き、シアの紙を見る。
「祭りの反省か」
「はい」
「売上は?」
「まだ途中ですが、蜂蜜林檎パンは材料費を引いても十分残っています。ただ、手間を考えると通常の丸パンほど単純ではありません」
「林檎を煮る時間もあるからな」
「はい。それに祭り期間は他の商品も多く売れました。林檎パンだけの効果とは分けた方がいいと思います」
オットーが紙を見ながら頷く。
「で、どうしたい」
その問いに、シアは一瞬だけ戸惑った。
「どうしたい、ですか?」
「林檎パン。お前がやりたいって言い出したんだろ」
「はい」
「祭りで終わりにしたいのか、また売りたいのか」
作れるかどうかではない。
売れるかどうかだけでもない。
自分がどうしたいか。
シアは帳面へ視線を落とした。
ニコが食べたがっていた。
昨日買えなかった客もいた。
レオンハルトも食べた。
自分も、もう一度食べたい。
「……また、売ってみたいです」
言葉にすると、その気持ちがはっきりした。
「毎日ではなくてもいいと思います。林檎の値段や仕入れにもよりますし、オットーさんの負担もあります。でも、祭りだけで終わりにするより、少ない数で試してみたいです」
「何個だ」
「十個くらいから」
「理由は?」
「通常日にどのくらい売れるか分からないからです。十個なら、売れ残った場合の影響も大きくありません。それと……」
「それと?」
「私も作り方を覚えてみたいです」
オットーが顔を上げた。
「林檎パンを?」
「はい。全部を一人で作れるようになりたいという意味ではありません。林檎を煮るところや、包むところを覚えたいです」
「何でだ」
理由を尋ねられる。
シアは少し考えた。
「好きだからです」
「林檎が?」
「それもあります。でも、自分が好きだと思ったものが商品になって、お客さんが買ってくださったのが嬉しかったんです。数字を考えるのも好きですけれど、作る方にも関わってみたいと思いました」
オットーはすぐには返事をしなかった。
シアの顔を見てから、マルタを見る。
「どうする?」
「私は賛成。毎日は無理でも、週に一回くらいなら試せるんじゃない?」
「林檎次第だな」
「ローザに聞いてみよう」
話が進んでいく。
シアは少し慌てた。
「本当にいいんですか?」
「お前がやりたいって言ったんだろ」
「言いましたけれど」
「なら試す。駄目ならやめる。それだけだ」
簡単な言葉だった。
けれど、シアにとっては簡単ではなかった。
(やってみたいと言って、やってみてもいい)
成功を保証できなくても。
必ず利益になると証明できなくても。
試してみることが許される。
「ありがとうございます」
「礼は売れてからでいい」
「売れなかったら?」
「何で売れなかったか考える」
オットーは当たり前のように答えた。
「失敗したら怒らないんですか?」
口にしてから、シアは自分でも少し驚いた。
オットーも一瞬黙った。
マルタの表情から笑みが消える。
重い沈黙ではない。
二人とも、シアの言葉を軽く流さずに受け取っているのだと分かった。
「失敗したら困ることはある」
オットーがゆっくり答えた。
「材料を無駄にしたら注意もする。何度言っても同じことをやるなら怒ることもある」
「はい」
「でも、考えて試して、それで売れなかっただけなら、それは次の材料だ」
「次の……」
「十個作って三個しか売れなかったら、七個余ったってだけじゃない。何で三個は売れたのか、何で七個は売れなかったのかを考えりゃいい」
シアは黙って聞く。
「お前、いつも数字見てそういうことやってるだろ」
「……はい」
「なら同じだ」
胸の奥にあった小さな固まりが、ゆっくりほどけていく。
「分かりました」
「ただし」
オットーが太い指を一本立てる。
「最初から百個作りたいとか言ったら止める」
「言いません」
「ならいい」
マルタが吹き出す。
シアも笑った。
「十個からお願いします」
「ローザの林檎を確認してからな」
「はい」
◇
昼前、ローザが野菜の入った籠を抱えて店へやってきた。
「祭り明けなのに、あんたたち元気ねえ」
「ローザこそ」
「私は今日は半分休みみたいなもんよ。昨日までで売れるだけ売ったからね」
マルタが蜂蜜林檎パンの話をすると、ローザは腕を組んだ。
「林檎ならまだあるよ。ただ、祭り前より少し値段は落ち着くと思う」
「すぐに?」
「二、三日で急にってほどじゃないけどね。祭り用にまとめ買いしてた菓子屋が減るから」
シアは帳面の横へメモを取る。
「同じくらいの林檎を十個分だけお願いすることはできますか?」
「できるよ。いつ?」
シアはオットーを見る。
自分で決めない。
「明後日ならどうですか?」
オットーが少し考える。
「定期注文も軽い。いいだろ」
「では、明後日でお願いします」
「了解。十個分より少し多めに持ってくるよ。大きさ見て選べばいい」
「ありがとうございます」
ローザがシアの手元を見る。
「それ、何書いてるの?」
「祭りの売上と材料費です」
「へえ。やっぱりシアはそういうの好きだね」
「はい。好きです」
もう迷わず答えられる。
「パン作るのも?」
「好きです。まだ上手ではありませんけれど」
「接客は?」
「好きです」
「じゃあ何が一番好きなの?」
何気ない質問だった。
けれど、シアの手が止まった。
一番。
帳簿。
接客。
発注。
仕入れ。
パン作り。
どれか一つに決める必要があるのだろうか。
以前、同じようなことを考えたことがある。
そのときは「全部やってみたい」と答えた。
今も気持ちは変わっていない。
「一番は、まだ分かりません」
「そうなの?」
「はい。でも、分からないままでもいいと思っています」
ローザが目を丸くする。
「いろいろやってみて、その中で見つけたいです。それに、一つだけに決めなくてもいいのかもしれません」
「欲張りだねえ」
「……欲張りでしょうか」
「いい意味でね」
ローザは豪快に笑った。
「若いんだから、やれるだけやってみな。ただし倒れるまでやるのは駄目だよ」
「はい」
「この店の二人もそこはうるさそうだし」
「うるさいぞ」
厨房からオットーが返す。
「ほらね」
店内に笑い声が広がった。
◇
午後になると、店内はさらに落ち着いた。
祭りで買い物を済ませた住民が多いのか、普段より客足は少ない。
シアは帳簿をまとめ終え、祭り期間の簡単な記録を一枚の紙へ整理した。
売れたもの。
想定より多かったもの。
少なかったもの。
大口注文。
騎士団の増量。
蜂蜜林檎パン。
材料価格。
作業上の負担。
来年同じ祭りが来たときに、今年の経験を使えるようにするためだ。
「これ、来年まで取っとく?」
マルタが紙を見ながら尋ねる。
「はい。その方がいいと思います」
「じゃあ帳簿と一緒に保管しよう」
来年。
また、その言葉が出た。
昨日、服飾店の従業員から聞いたときにも胸が動いた。
今日は、さらに自然にその先を想像できる。
「来年は、今年より準備しやすいですね」
シアが言う。
「シアが覚えててくれたらね」
マルタの返事に、胸が温かくなる。
「覚えています」
そこまで答えてから、シアは少しだけ考えた。
試用期間。
その言葉が頭に浮かんだ。
ここへ来て働き始めたとき、最初に決めた一か月。
終わりが近づいている。
マルタとオットーからは、残ってほしいと言われた。
自分も、ここにいたいと答えた。
けれど正式な条件については、まだ最後まで話していない。
祭りの準備で忙しくなり、そのまま今日まで来てしまった。
シアは帳面を閉じる。
「マルタさん」
「なに?」
「少し、お話ししてもいいですか?」
声に緊張が混じった。
マルタはそれに気づいたらしく、手を止める。
「もちろん」
「オットーさんも一緒にお願いしたいです」
マルタの表情が少し真剣になる。
「オットー!」
「聞こえてる」
厨房から返事があり、少ししてオットーが店側へ出てきた。
三人で客用の小さなテーブルを囲む。
シアは一度自室へ戻り、以前から書き足してきた紙を持ってきた。
賃金。
休み。
部屋。
食事。
仕事内容。
騎士団の注文管理。
帳簿。
仕入れ。
パン作り。
店の改善。
そして、その下に後から書いた言葉。
――分からないことは、分かる人に聞く。
――一人で全部やろうとしない。
紙を見たマルタが、少し驚いた顔をした。
「ちゃんとまとめてたんだね」
「はい」
「いつから?」
「試用期間のあとも残ってほしいと言っていただいた日から、少しずつです」
オットーが向かいへ座る。
「話すか」
「はい」
シアは紙を握る手に力が入らないよう、意識して指を緩めた。
雇ってもらう。
置いてもらう。
そう考えるだけなら、条件など言わずに相手へ任せればいい。
けれどマルタは以前、自分たちは「残っていい」と言っているのではなく、「残ってほしい」と言っているのだと教えてくれた。
ならばこれは、お願いだけをする場ではない。
これからどう働くのかを、三人で決める場だ。
「まず、私から言ってもいいですか?」
「もちろん」
「はい」
シアは一度息を整えた。
「私は、試用期間が終わったあとも、《麦穂亭》で働きたいです」
以前にも言った言葉。
けれど今日は、その先がある。
「住み込みも、できれば続けたいです。この部屋が好きですし、ここで暮らしたいと思っています」
マルタが静かに頷く。
「それから、仕事は接客だけではなく、帳簿や注文の整理、仕入れや在庫の確認も続けたいです。騎士団の注文管理も、任せていただけるなら続けたいです」
「パン作りは?」
オットーが尋ねる。
「続けたいです。まだできないことの方が多いですけれど、少しずつ覚えたいです」
「店の改善は?」
「それも、考えていいなら続けたいです」
言葉にするたび、自分が欲張りなのだと少し思う。
それでも、どれも削りたくなかった。
「ただ……」
二人を見る。
「全部を私だけの仕事にはしたくありません」
マルタの目が少し細くなる。
「注文を整理していても、配達が必要ならお願いしたいです。仕入れで分からないことがあれば教えてほしいです。パン作りも、できないことをできるとは言いません」
シアは紙の下に書いた二つの文を見る。
「一人で全部やろうとしないことを、仕事の条件にしたいです」
口にしてみると、少し変な条件にも聞こえた。
けれどオットーは笑わなかった。
「いいんじゃないか」
「……いいんですか?」
「むしろ守れ」
「はい」
マルタも頷く。
「私たちからも、それは条件にしたいね」
「私だけではなく?」
「私もオットーもだよ。誰か一人だけ無茶するのは禁止」
昨日聞いた言葉とつながる。
自分がいなければ回らない店にはしない。
それはシアだけのためではない。
三人で働くための約束なのだ。
「休みについては?」
マルタが尋ねる。
シアは紙へ目を落とす。
以前なら、休みは少なくていいと言っただろう。
働かせてもらえるだけで十分だと。
けれど、昨日の午後を知っている。
休みの日にしか得られないものがあることを知った。
「定期的に、お休みが欲しいです」
言った瞬間、少しだけ心臓が速くなる。
要求している。
自分のための条件を。
「友達と出かけたり、自分の買い物をしたりする時間が欲しいです」
マルタは笑った。
「うん」
「忙しい時期は相談します。でも、忙しそうだからという理由だけで、自分から全部なくさないようにしたいです」
「それも採用」
「簡単に決まるんですね」
「変なこと言ってないからね」
シアは少し笑った。
話し合いは、まだ終わっていない。
賃金。
住み込みの扱い。
食事。
具体的な休みの取り方。
仕事の範囲。
決めるべきことはいくつもある。
けれど、最初に一番言いたかったことは言えた。
ここで働きたい。
ここで暮らしたい。
仕事を選びたい。
休む時間も欲しい。
一人で全部を抱えたくない。
どれも、以前の自分なら口にできなかったものだった。
「賃金の話もするぞ」
オットーが言う。
シアの背筋が少し伸びる。
「はい」
「試用中と同じじゃない」
「え?」
「任せる仕事が増えてる」
「でも、まだ教えていただいていることも多いです」
「教えるのと、仕事してないのは別だ」
オットーは腕を組む。
「接客できる。会計できる。注文整理できる。帳簿も見られる。仕入れの相談もできる。騎士団の注文も回してる。成形も少しずつできる」
「……はい」
「それで試用中と同じ扱いにしたら、こっちがおかしい」
シアはすぐに返事ができなかった。
自分の仕事へ値段をつける。
伯爵家では考えたこともなかった。
何をしても当然だった。
家族なのだから。
姉なのだから。
婚約者なのだから。
それが理由だった。
「シア?」
マルタの声で顔を上げる。
「すみません。少し……」
謝りかけ、言い直す。
「少し、驚きました」
「賃金が上がるのが?」
「はい」
「嫌?」
「いいえ」
首を横に振る。
「嬉しいです」
声にすると、胸の奥が熱くなった。
「私がした仕事を、仕事として見てもらえているのが、嬉しいです」
マルタは何も急かさず、シアの言葉を待ってくれた。
オットーも黙っている。
「私……」
少しだけ声が震えた。
「ここで働き始めたときは、自分で食べていけるなら、それで十分だと思っていました」
遠い街まで逃げてきた。
宿代も食事代も必要だった。
生きるために仕事を探した。
「でも今は、それだけではなくなりました」
自分の手を見る。
パン生地を触る手。
帳簿を書く手。
代金を受け取る手。
昨日、欲しかった櫛を自分のために買った手。
「この仕事を、続けたいです」
顔を上げる。
「生活するためだけではなく、私が続けたいと思う仕事だから、続けたいです」
マルタの目元が柔らかくなる。
オットーは短く頷いた。
「なら、条件を決めるぞ」
「はい」
シアも頷く。
逃げてきた先で、偶然見つけた求人だった。
一か月だけ試してもらえると思っていた。
その場所で今、自分はこれからの働き方を話している。
外では、祭りの飾りを片づける音が聞こえていた。
楽しかった二日間が終わり、街は普段の暮らしへ戻ろうとしている。
けれどシアにとって、今日から始まる日常は、ここへ来たばかりの頃と同じものではなかった。
働かせてもらう場所ではない。
ただ逃げ込んだ場所でもない。
自分で残ると決め、自分の仕事を選び、自分の条件を言葉にしていく場所になりつつある。
テーブルの上には、何度も書き足した一枚の紙がある。
その一番下に、まだ少しだけ空白が残っていた。
シアはその空白を見つめながら、これからマルタとオットーと一緒に埋めていくのだと思った。
誰かに決められた未来を書き写すのではない。
自分が続けたいと思う暮らしを、自分の言葉で決めていく。
そのことを、もう怖いだけだとは思わなかった。




