第30話 私が選んだ暮らし
テーブルの上に置かれた一枚の紙には、シアがこれまで何度も書き足してきた言葉が並んでいた。
住み込みの部屋をこれからも使いたいこと。食事について。休みについて。帳簿や注文整理、仕入れ、在庫確認にも関わりたいこと。パン作りを学び続けたいこと。そして、一人ですべてを抱え込まないこと。
秋穫祭が終わった翌日の午後、《麦穂亭》の店内には穏やかな時間が流れていた。昼の客足が途切れた隙を使い、シアはマルタとオットーの二人と向かい合って、試用期間を終えたあとの働き方について改めて細部を確認している。
すでに、ここで働き続けることそのものは三人の間で決まっている。
祭りの前に、シアは自分から「ここで働き続けたい」と伝えた。マルタとオットーもまた、彼女に残ってほしいと思っていることを伝えてくれた。住み込みを続けることも、食事や休みを今までと同じように確保することも、帳簿や注文管理を正式な仕事として任せることも、パン作りを学び続けることも話し合っている。
だから今日の話し合いは、残るかどうかを決めるためのものではない。
これから長く働くために、曖昧な部分を残さないためのものだった。
「じゃあ、まず給金からだな」
オットーが腕を組みながら言った。
シアの背筋がわずかに伸びる。
「はい」
マルタはシアの紙とは別に用意していた帳面を開き、何かを確認してから口を開いた。
「試用中は、仕事を覚えてもらう期間として決めた金額だったでしょう? でも今は、最初の頃とはできることが全然違うからね」
「はい」
「接客と会計は一人でも任せられる。注文の整理もできるし、帳簿も見られる。騎士団の定期注文は、今じゃシアの方が細かいところまで覚えてるくらいだし」
「それは、私が記録しているからです」
「記録して、必要なときに確認できるようにしてるのも仕事だよ」
当たり前のように返され、シアは口を閉じた。
自分では、まだどこかで「できて当然」と考えてしまう。
帳簿へ書くこと。
注文を間違えないよう整理すること。
相手がいつ何を必要としているのか確認すること。
誰かが困らないよう先に準備すること。
伯爵家では、それらに価値があるとは思っていなかった。
正確には、価値がないと思わされていた。
やって当然。
できて当然。
失敗すれば責められ、うまくできても何も言われない。
けれど今は違う。
「それに、仕入れ先との話にも参加してもらってる」
オットーが続ける。
「最終的に店として決めるのは今のところ俺たちだが、お前の意見はちゃんと使ってる。林檎パンだってそうだ」
「……はい」
「だったら、その分は仕事として扱う」
シアは膝の上に置いた手を見た。
(仕事として扱う)
以前にも似た言葉を聞いた。
それでも、何度聞いても胸の奥へゆっくり染み込んでくる。
「それでね」
マルタが帳面をシアの方へ少し向ける。
「試用期間が終わったあとは、週ごとの給金を銅貨三百二十枚にしようと思ってる」
シアは一瞬、言われた数字を頭の中で繰り返した。
「……三百二十枚」
「そう。住み込みの部屋代は取らない。朝と夕の食事も、今まで通り基本的には一緒に食べる。昼は仕事の流れによって店で食べたり、自分で用意したりになるけど、そのあたりも今までと大きく変えない」
シアは無意識に計算を始めていた。
一週間で銅貨三百二十枚。
四週間なら千二百八十枚。
もちろん一か月がきっちり四週間とは限らないし、生活用品や衣服、自分で買う昼食などの支出もある。
それでも、部屋代がかからず、朝夕の食事も基本的に用意される。
以前から持っている逃亡資金へ手をつけなくても、日々の生活を自分の給金だけで維持しながら、少しずつ蓄えることもできる。
「多すぎませんか?」
考えた末に出た言葉がそれだった。
マルタが眉を上げる。
「何と比べて?」
「……試用期間中と比べて、です」
「仕事増えてるんだから上がるでしょ」
「でも、部屋も使わせていただいていますし、食事も」
「それは最初から込みで話してた条件だよ」
「パン作りも、まだ教えていただいている途中です」
今度はオットーが口を開いた。
「じゃあ聞くが、帳簿を間違えずに整理できる奴を別に雇ったら、給金はいらないのか?」
「必要です」
「注文をまとめる奴は?」
「必要です」
「接客する奴は?」
「必要だと思います」
「仕入れの数字を見て、保管場所や売れ残りまで考えて意見を出す奴は?」
シアは返事をしようとして、少しだけ詰まった。
「……必要です」
「それを何個かやってるのがお前だ」
低い声だったが、責める響きはなかった。
シアは自分の手を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
「自分の仕事になると、少し分からなくなります」
「何が?」
「どこまでが、お金をいただいていい仕事なのか」
口にしてから、自分でも不思議な感覚がした。
客へパンを売れば代金を受け取る。
仕入れ先へ材料を頼めば代金を払う。
それは当たり前だと思えるのに、自分自身の働きへ対価が支払われる話になると、急に判断が鈍る。
マルタはしばらくシアを見ていた。
「じゃあ、それも覚えていこうか」
「覚える?」
「自分の仕事には価値があるってこと」
シアが顔を上げる。
「高すぎると思ったら聞いていいし、逆に仕事が増えて給金と合わないと思ったら、それも言っていい。私たちだって間違えることはあるからね」
「給金が少ないと思ったら……私から言ってもいいんですか?」
「言っていいよ」
あまりにも普通に返されたため、シアはしばらく何も言えなかった。
伯爵家で、自分の仕事について条件を求めるなど考えたこともない。
婚約者だった頃も同じだ。
ディートリヒのために予定を整え、招待状を確認し、贈答品を選び、書類を整理しても、それは婚約者として当然の役割だった。
それなのに、婚約を破棄されたときには「書類を整理するだけなら使用人を雇えば済む」と言われた。
今なら少しだけ分かる。
(使用人を雇えば済むなら、その人には給金を払う)
自分が無償でやっていたからといって、仕事そのものに価値がなかったわけではない。
価値を認められていなかっただけなのだ。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
悔しいのかもしれない。
悲しいのかもしれない。
けれど、その感情は以前のように自分を押し潰すほどではなかった。
今は、その反対側にあるものを知っている。
「……三百二十枚、いただきます」
シアは顔を上げた。
「働いた分として、受け取ります」
マルタが微笑む。
「うん」
オットーも短く頷いた。
「それでいい」
シアは紙の給金の項目へ、銅貨三百二十枚と書き加えた。
自分の手で書いた数字を見ても、もう「多すぎるから減らしてほしい」とは言わなかった。
◇
「次は休みだね」
マルタが言うと、シアは紙の次の項目へ目を移した。
「はい」
「基本は今までと同じ。定期的に休みを入れる。祭りや大口注文みたいに忙しい時期はずらすこともあるけど、なくすんじゃなくて移す」
「なくすのではなく、移す」
「そう」
シアはその言葉も書き留める。
「昨日みたいに半日だけ休むこともありますか?」
「あるよ。逆に丸一日休むこともある。店の予定とシアの予定を見ながら決めよう」
「私の予定も?」
「昨日、ミレイユちゃんと出かけたでしょ」
「はい」
「ああいう予定が先に決まってるなら言ってくれればいい。絶対全部合わせられるとは約束できないけど、最初から分かってれば調整しやすいから」
シアは紙へ書きながら、小さく頷いた。
「では、ミレイユさんと次に出かける日が決まったら、早めに相談します」
「そうして」
「……遊びに行く予定を仕事の相談として伝えるのは、少し不思議です」
「なんで?」
「仕事より優先してはいけないような気がしていました」
マルタはすぐに否定せず、少し考えてから答えた。
「仕事を放り出して遊びに行くなら困るよ。でも、休みの日に何するかはシアの自由だ」
「はい」
「寝ててもいいし、ミレイユちゃんと出かけてもいいし、一人で買い物してもいい。王立図書館に行ったっていいしね」
「図書館……」
シアの手が止まった。
「興味ある?」
「あります」
王都にいた頃も本を読むことはあった。
ただし、自分の楽しみだけのために図書館へ行くという発想はほとんどなかった。調べものや家の用事と結びつかない読書に時間を使えば、他にやるべきことがあるだろうと思ってしまっていたからだ。
「この街には大きい王立図書館があるよ」
「知ってはいました。でも、まだ行ったことはありません」
「じゃあ今度の休みに行ってみたら?」
「……行ってみたいです」
新しい予定が一つ生まれた。
誰かに頼まれた予定ではない。
仕事でもない。
自分が行ってみたい場所。
シアは紙の端へ、小さく「王立図書館」と書いた。
◇
部屋と食事については、すでに話していた内容を確認する形で決まった。
今使っている二階の部屋は、そのままシアが使う。
部屋代は取らない。
朝と夕の食事は基本的にマルタたちと一緒に食べ、昼は仕事の状況に合わせる。
シアが自分で食べたいものを買ったり、休みの日に外で食べたりするのは自由。
その一つ一つを紙へ書いていく。
「本当に、この部屋をずっと使っていいんですね」
シアが確認すると、マルタが少し不思議そうな顔をした。
「ずっとっていうのが何十年って意味なら、さすがに先のことまでは分からないけど、働いてる間はね」
「あ……はい」
シアは少し恥ずかしくなった。
「そこまで先のことを聞いたつもりではありませんでした」
「分かってるよ」
マルタが笑う。
「でも、シアがいつか別のところに住みたいって思うかもしれないし」
「別のところ……」
「今すぐじゃなくてね。何年かしたら、自分で部屋を借りたいって思うかもしれないでしょう?」
考えたこともなかった。
今の部屋は好きだ。
《麦穂亭》で暮らしたい。
その気持ちは本物だ。
けれど、それが「一生ここから動いてはいけない」という意味ではないのだと気づく。
「そのときに、考えてもいいんですね」
「もちろん」
「ここで働きながら、別のところに住むことも?」
「通える場所ならね」
シアは紙へ書こうとして、やめた。
今すぐ決める必要はない。
(未来って、一つだけじゃないんだ)
伯爵家にいた頃、未来は決められていた。
ディートリヒと結婚する。
侯爵家の妻になる。
家のために役割を果たす。
自分がそれを望むかどうかは、未来を決める条件には入っていなかった。
今は違う。
ここで暮らし続けてもいい。
いつか別の部屋を借りてもいい。
仕事を続けながら新しいことを覚えてもいい。
まだ何も決めなくてもいい。
「今は、この部屋にいたいです」
シアは言った。
「それでいいよ」
マルタの返事も、それ以上ではなかった。
今の希望を伝えれば、それで十分だった。
◇
「仕事の範囲は、これでいいか」
オットーがシアの紙を指で示した。
接客。
会計。
注文整理。
帳簿。
在庫確認。
仕入れへの参加。
騎士団を含む定期注文の管理。
パン作りの修業。
必要に応じた店の改善案。
改めて並べてみると、かなり多い。
「……多いですね」
シアが呟く。
「だから全部を毎日やるんじゃない」
オットーが言う。
「今日は接客が忙しけりゃ帳簿はあと。仕入れの日なら成形を減らす。配達が必要なら誰が行くか決める。全部同時にやろうとするな」
「はい」
「あと、最終判断だな」
シアは顔を上げる。
「仕入れ先を変えるとか、商品の値段を変えるとか、大口注文を正式に受けるとか、その辺は今のところ俺かマルタが決める」
「はい。それがいいと思います」
「ただし、お前の意見は聞く」
「ありがとうございます」
「慣れてきたら、任せる範囲は増やす」
シアは少し驚いた。
「増えるんですか?」
「いつまでも同じことだけやらせるつもりはない」
「でも、私ができるようになるかは」
「そのとき見ればいい」
未来を今ここですべて保証する必要はない。
できるようになったら任せる。
難しければ、その時点で考える。
それだけのことなのだろう。
「では、覚えたいです」
「何を?」
「今、私が決めてはいけないことを、どう考えて決めているのか」
オットーが少し目を細めた。
「仕入れ先を変える判断も、商品の値段を決めることも、大口注文を受けることもです。すぐに決めたいのではなくて、どう考えるのかを知りたいです」
「分かった」
「教えていただけますか?」
「ああ」
シアは紙へ新しく書き加える。
――店として判断する方法を学ぶ。
それを見たマルタが笑った。
「また仕事増やした」
「覚えるだけです」
「シアは覚えたらやりたくなるでしょ」
否定しようとして、できなかった。
「……たぶん」
「なら、増やすときは相談ね」
「はい」
三人の間に笑いが広がった。
◇
話し合いが終わりかけたところで、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
シアは反射的に立ち上がろうとした。
「座ってていいよ」
マルタが先に立つ。
入ってきたのはハロルドだった。
「おや、何か会議かね」
「シアのこれからの仕事の話」
マルタが答える。
ハロルドはシアを見る。
「ということは、これからもいるのかい?」
シアは椅子から立ち上がった。
以前なら、「置いていただけることになりました」と答えたかもしれない。
けれど今日は違う。
「はい。これからも《麦穂亭》で働きます」
自分で選んだ言葉だった。
「そりゃよかった」
ハロルドは嬉しそうに笑う。
「いつもの黒麦パン、二つもらおうか」
「はい」
シアは会計台へ移動した。
黒麦パンを二つ取り、包む。
いつもの仕事。
特別ではないやり取り。
それなのに、今日は少しだけ違って感じる。
「銅貨十四枚です」
「はいよ」
硬貨を受け取り、確認する。
「ちょうどお預かりします。ありがとうございました」
「明日もいるかい?」
「はい」
「じゃあまた明日」
「お待ちしています」
ハロルドが店を出ていく。
その背中を見送ってから、シアは会計台の端へ手を置いた。
明日もいる。
来週もいる。
来月も、おそらくいる。
来年については、まだ何が起きるか分からない。
それでも、自分の意思でその未来を考えることができる。
「シア」
マルタが呼ぶ。
「はい」
「最後にもう一個」
「何でしょう」
「困ったときのこと」
シアは少しだけ表情を引き締めた。
以前から何度も話していることだった。
忙しいとき。
自分だけでは難しいとき。
疲れが翌日に残りそうなとき。
分からないことがあるとき。
早めに相談する。
「はい」
「昨日もちゃんと疲れたって言えたし、前よりずっと言えるようになってる。でも、仕事増えるとまた抱え込みそうだからね」
「私も、それは少し心配です」
「自覚あるんだ」
「あります」
マルタが笑う。
シアも少し笑った。
「私は、まだ……」
言葉を探す。
以前、口にしようとして最後まで言えなかった言葉がある。
助けてください。
簡単な言葉のはずなのに、自分にはまだ重い。
「『困っています』なら言えると思います」
「うん」
「『一人では難しいです』も、前よりは言えると思います」
「うん」
「でも……」
喉の奥で言葉が止まる。
オットーもマルタも急かさない。
言わなければならないわけではない。
それでも、シアは少しだけ試してみたくなった。
昨日、自分のために休んだ。
欲しかった櫛を買った。
疲れたと言った。
今日、自分の仕事へ対価を受け取ると決めた。
自分の希望を条件として伝えた。
なら、もう一つだけ。
シアは指先を軽く握ったあと、ゆっくり開いた。
「もし……私が一人でできなくなったら」
声が少し震えた。
「助けて、ください」
言えた。
ほんのわずかに間が空いた。
マルタは大げさに喜ばなかった。
オットーも褒めなかった。
ただ、マルタが穏やかに答えた。
「うん。そのときは言って」
オットーも頷く。
「できることなら手伝う。俺らだけで無理なら、別の方法を考える」
シアは唇を少し噛み、目元へ集まりそうになった熱をこらえた。
拒まれなかった。
弱いとも言われなかった。
そんなこともできないのかと責められなかった。
「……ありがとうございます」
「でもな」
オットーが続ける。
「限界まで我慢してから言うなよ」
思わず笑ってしまった。
「はい」
「倒れる直前に『助けてください』は遅いからね」
「分かりました」
「本当に?」
「……練習します」
「そこは前と同じだね」
マルタも笑った。
完璧にはできない。
すぐには変われない。
それでも、言える言葉は少しずつ増えている。
嫌です。
疲れました。
行きたいです。
好きです。
手伝ってください。
困っています。
一人では難しいです。
そして今日、ようやく言えた。
助けてください。
シアは紙の一番下へ、小さな文字を書き加えた。
――困ったら、助けを求める。
その文字を見ても、恥ずかしいとは思わなかった。
◇
夕方になる前、ローザが約束していた林檎について確認に来た。
「明後日の朝でいい?」
「はい。お願いします」
「十個分って話だったけど、少し小ぶりなのも混ぜれば安くできるよ」
シアはすぐに答えず、オットーを見る。
「煮るなら大きさは揃ってなくてもいい」
「では、小ぶりのものも混ぜてください。ただ、傷みが早いものが多い場合は、使う日まで持つか教えていただけますか?」
「もちろん」
ローザがにやりと笑う。
「祭り終わっても林檎パン続けるんだね」
「まずは十個だけ試します」
「シアが決めたの?」
「提案はしました。作ることを決めたのは三人です」
「いいじゃない」
ローザは満足そうに頷いた。
「じゃあ、いい林檎持ってくるよ」
「ありがとうございます」
話がまとまり、ローザが帰っていく。
その直後、店の前をニコが通った。
シアと目が合う。
少年は一度通り過ぎかけてから、慌てて戻ってきた。
「シア姉ちゃん!」
「どうしました?」
「今、ローザさん来てたよね?」
「来ていました」
「林檎!?」
勘がいい。
シアは少しだけ笑った。
「明後日、蜂蜜林檎パンを十個だけ作る予定です」
「本当!?」
「まだ予定です。焼く途中で問題があれば変わるかもしれません」
「買う!」
「予約は受けません」
「なんで!」
「十個しか作らないからです」
「じゃあ朝来る!」
「寝坊しないでくださいね」
「しない!」
ニコは嬉しそうに走っていった。
その背中を見ながら、マルタが呟く。
「一個は売れそうだね」
「まだ買っていません」
「厳しい」
「売上は受け取ってからです」
「帳簿係らしいねえ」
シアは笑いながら、林檎パンの試験販売予定を注文帳とは別の記録へ書き込んだ。
祭りが終わっても、新しいことは続いていく。
◇
その日の夕方。
ベルフォード伯爵邸では、グレゴールが執務机の前で一枚の古い記録を睨んでいた。
エリシアが姿を消してから、すでに相応の日数が過ぎている。
領内。
隣接する領地。
主要街道。
乗合馬車の停留所。
少しずつ範囲を広げて調べさせているものの、決定的な情報は見つかっていない。
若い女が一人で移動したという話はいくつもある。
しかし、それがエリシアだと断定できるものはなかった。
「これだけ探して、なぜ見つからん」
低い声に、机の前へ立つ家令が慎重に答えた。
「伯爵令嬢として宿泊しているのであれば、より早く見つかったでしょう。しかし、お嬢様が身分を明かさず移動されている場合、記録だけで追うのは難しいかと」
「金はどうした」
「現在も確認しております」
「十八の娘が、何日も一人で移動できるだけの金をどこから用意した」
家令は手元の書類を見る。
「お嬢様個人の支出について、屋敷側の記録にはほとんど残っておりません」
「なら持っていないはずだろう」
「そうとは限りません」
グレゴールの眉が動く。
「どういう意味だ」
「屋敷の帳簿に記録されるのは、あくまで伯爵家から支払われた金銭です。お嬢様が個人的に得た金銭まで、すべて記録されていたとは断言できません」
「個人的に得る?」
「可能性の話です」
家令は慎重に言葉を選んだ。
「以前、お嬢様が刺繍をされているところを見たという使用人が何人かおります。ただし、それが趣味だったのか、何らかの形で金銭を得ていたのかまでは確認できておりません」
グレゴールはしばらく黙った。
「調べろ」
「すでに商人への聞き取りを始めております。ただ、屋敷の名を出して大きく探せば、事情を嗅ぎつけられる可能性がございます」
「目立たせるな」
「承知しております」
グレゴールは椅子の背へ身体を預けた。
机の端には、未処理の書類が積まれている。
エリシアがいた頃には、ここまで積み上がることはなかった。
誰かが先に整理し、急ぐものと待てるものを分けていたからだ。
今では、その「誰か」が何をしていたのかを一つずつ確認しなければならない。
「見つけたら連れ戻す」
グレゴールが言う。
家令は返事をするまで、ほんのわずかに間を置いた。
「……承知いたしました」
その言葉に異を唱える立場ではない。
ただ、家令には一つだけ分からないことがあった。
エリシアが自分の意思で出ていったのなら、見つけたからといって本当に戻るのだろうか。
その疑問を口にすることはなく、家令は一礼して執務室を出た。
残されたグレゴールは、机の上の書類へ目を落とす。
彼が探しているのは、娘がどこで何をしているのかという答えではなかった。
失ったものを元の場所へ戻す方法だった。
少なくとも今の彼は、その違いに気づいていなかった。
◇
《麦穂亭》の夜は、祭りの二日間よりずっと静かだった。
夕食を終えたシアは、自室の机へ向かっていた。
今日、三人で確認した内容をもう一度読み返す。
試用期間終了後も、《麦穂亭》で働く。
週の給金は銅貨三百二十枚。
現在の部屋を継続して使用する。
朝夕の食事は基本的にこれまで通り。
休みは定期的に確保し、忙しい時期には相談して移動することはあっても、なくさない。
接客、会計、注文整理、帳簿、在庫確認、仕入れへの参加、定期注文管理。
パン作りは引き続き学ぶ。
店としての最終判断は当面マルタとオットーが行い、シアは必要な知識を学んでいく。
一人で全部を抱えない。
困ったら相談する。
そして最後に書いた一文。
――困ったら、助けを求める。
シアはその文字を指先でそっとなぞった。
「助けてください……」
誰もいない部屋で、もう一度だけ口にする。
まだ少し胸がざわつく。
けれど、言えない言葉ではなくなった。
紙を机の書類入れへ戻す。
引き出しを開けると、麦穂の模様が彫られた櫛が目に入った。
その隣には、祭りの日に書いた小さな予定の紙がある。
ミレイユ。
中央広場。
林檎のお茶。
その予定は、もう終わった。
けれど、紙を捨てようとは思わなかった。
楽しかった予定だから。
実際に自分が望んで、自分から約束し、出かけた日の記録だから。
シアは紙の下へ、新しく一つ書き加えた。
――王立図書館へ行ってみたい。
まだ日付はない。
誰と行くかも決めていない。
一人でもいい。
ミレイユを誘ってもいい。
休みの日が決まってから考えればいい。
さらに、その横へもう一つ。
――明後日、蜂蜜林檎パン十個。
こちらは仕事の予定だ。
自分からやってみたいと言った仕事。
二つの予定を並べて見る。
遊び。
仕事。
どちらも自分の未来にある。
(前は、明日のことを考えるのも嫌だったのに)
伯爵家にいた頃、明日は今日の続きでしかなかった。
また仕事を頼まれる。
また何かを間違えないよう気をつける。
また誰かの機嫌を損ねないようにする。
婚約者の予定を整え、妹の欲しいものを譲り、継母の要求を聞き、父に逆らわない。
自分が何をしたいかなど、明日の予定には必要なかった。
今は違う。
明後日には林檎パンを作る。
いつか王立図書館へ行く。
ミレイユとも、また出かけたい。
成形をもっと上手になりたい。
仕入れのことも覚えたい。
店がどうやって商品の値段を決めているのかも知りたい。
自分の給金で、また何か欲しいものを買うかもしれない。
そして、困ったときには助けを求める。
シアは椅子から立ち上がり、窓を少し開けた。
祭りを終えた街の夜は静かだった。遠くにはまだ片づけをする荷車の音が残っているものの、昨日までの賑わいはすでに薄れ、冷たい秋の風が部屋の中へ入り込んでくる。
寒さを感じ、すぐに窓を閉める。
それから、自分の部屋を見回した。
小さな寝台。
机。
椅子。
衣服。
仕事の記録。
母の銀のペンダント。
空色の髪紐。
自分で選んだ服。
麦穂の櫛。
どれも、ここへ来たばかりの日にはなかったものだ。
物だけではない。
仕事がある。
友達がいる。
会えば少し嬉しくなる客たちがいる。
自分の意見を聞いてくれる人がいる。
明日の予定がある。
行ってみたい場所もある。
そして何より、自分がここにいたいと思っている。
シアは机の上に置かれた部屋の鍵を手に取った。
最初にこの鍵を渡された夜のことを、今でも覚えている。
自分だけの部屋。
勝手に入られない場所。
眠ってもいい場所。
最初は、それだけで胸がいっぱいになった。
今は、その鍵の意味が少し変わっている。
逃げ込むための部屋の鍵ではない。
仕事を終えて戻ってくる場所の鍵。
友達と出かけたあとに帰ってくる場所の鍵。
明日また働くために休む場所の鍵。
「……私の部屋」
小さく口にした。
誰にも聞かせる必要のない言葉だった。
それでも、自分の耳で聞くと嬉しかった。
シアは鍵を机へ戻し、灯りを少し落とす。
明日も仕事がある。
明後日には、新しい林檎パンの試みがある。
その先には、まだ決まっていない休みの日があり、王立図書館へ行ってみたいという予定がある。
未来はまだ空白だらけだった。
けれど今のシアにとって、その空白は恐ろしいものではない。
誰かに書き込まれるのを待つ場所でもない。
(私が決めていいんだ)
どこで働くのか。
どこで暮らすのか。
何を好きになるのか。
誰と友達になるのか。
何を買うのか。
どこへ出かけるのか。
何を学びたいのか。
そして、苦しいときに誰かへ助けを求めるのか。
すべてを一度に決める必要はない。
一つずつ選べばいい。
間違えたなら直せばいい。
分からなければ聞けばいい。
疲れたなら休めばいい。
自分一人で難しければ、助けを求めてもいい。
シアは寝台へ入り、毛布を肩まで引き上げた。
階下から、ごく小さく物音が聞こえる。マルタとオットーが最後の戸締まりをしているのだろう。
その音を聞いても、不安にはならない。
むしろ、自分以外の誰かが店のことをしている音を聞きながら眠れることに、静かな安心を覚えた。
「おやすみなさい」
誰もいない部屋で小さく呟き、目を閉じる。
明日になれば、また《麦穂亭》の一日が始まる。
特別な祭りではない。
大きな事件が起こる予定もない。
パンを焼き、客を迎え、帳簿を書き、必要なら仕入れを相談する。
そんな普通の日が待っている。
けれどシアは、今ではその普通の日々を何より大切に思っていた。
家族に決められた暮らしでも、婚約者のために用意された未来でもない。
遠い街まで逃げてきた一人の少女が、自分で選び直した暮らし。
その中で、エリシア・ベルフォードではなく「シア」と呼ばれる日々が、少しずつ彼女自身の人生になっている。
眠りへ落ちる直前、シアの胸に浮かんだのは、過去への恐怖ではなかった。
明日の朝、またパンの香りの中で目を覚ましたい。
そんな、ごく普通の願いだった。




