第31話 十個だけの新しい挑戦
秋穫祭の名残が街から少しずつ消えていく一方で、《麦穂亭》には祭りのあとだからこそ始まる新しい仕事が残っていた。
祭りが終わって二日目の朝、シアはいつも通り厨房へ下りると、作業台の端に置かれた小さな札へ目を向けた。そこには今日焼くパンの種類と数がオットーの字で記されており、その一番下には、普段なら存在しない一行が追加されている。
――蜂蜜林檎パン、十個。
祭りのために考えた商品を、通常の日にも売ってみる。
たった十個ではあるものの、その十個は祭りで売った七十個とは意味が違っていた。祭りという特別な理由がなくても客が買ってくれるのか、九枚という価格を高いと感じないか、通常の商品と一緒に並べたときにどの程度選ばれるのか。それを確かめるための十個だった。
「おはようございます」
「おはよう、シア。ローザはもう少ししたら来るってさ」
店側から顔を出したマルタが答えた。まだ開店前で、正面の扉には内側から閂が掛かっているものの、通りでは商人たちが店先を整える音が聞こえ始めている。
シアは壁に掛けられた前掛けを身につけながら、作業台へ近づいた。
「林檎が届くまでは、いつもの成形をしていていいですか?」
「ああ。今日は十五だ」
生地を確認していたオットーが答える。
「十五個ですね」
「祭りが終わったからって、いきなり増やさねえぞ」
「増やしてくださいとは言っていません」
「顔に書いてある」
「書いていないと思います」
真面目に返したつもりだったが、マルタが吹き出した。
シア自身も、少し遅れて頬が緩んだ。
以前なら、任せられる数が少ないことを「自分が役に立っていないから」と受け取っていたかもしれない。しかし今では、十五個という数が自分の現在の技量と今日の仕事量を考えて決められたものだと分かっている。
しかも今日は、丸パンの成形だけをするわけではない。
林檎が届けば、蜂蜜林檎パンの仕込みにも参加する。
(今日は、覚える日でもある)
シアは最初の生地を手に取り、オットーから教わった感触を思い出しながら丸めていった。力を入れすぎれば生地を傷め、弱すぎれば形が整わないため、表面を張らせる感覚を確かめながら作業を進める。
七つ目を終えたところで、オットーが隣から一つを持ち上げた。
「これ」
シアは一瞬身構えたものの、すぐに形を見る。
「右側が少し重いでしょうか」
「前ほどじゃない。底を見ろ」
言われた通り裏返すと、閉じた部分がわずかに厚い。
「……ここですね」
「力で押さえ込んでる」
「形を整えようとしすぎました」
「たぶんな」
叱られたわけではない。
失敗でもない。
改善する場所を教えてもらっただけだ。
シアはそのパンを戻し、次の生地へ手を伸ばした。
「次は気をつけます」
「全部同じにしようとするなよ」
「はい」
返事をしながら、少しだけ笑う。
その言葉を聞くのも、もう初めてではない。
パンは一つずつ微妙に違う。それでも商品として必要な範囲に収まっていればいい。以前の自分なら、その考えを受け入れることにもっと時間がかかっただろう。
十五個目を終える頃には、最初の緊張も薄れていた。
「終わりました」
オットーが一つずつ確認し、二個だけ少し位置を直す。
「今日はこれでいい」
「はい」
「明日も十五」
「増えないんですね」
「増やしてほしかったのか?」
聞き返され、シアは少し考えた。
「……少しだけ」
「正直だな」
「でも、今日は林檎パンがありますから、十五でいいです」
「なら最初からそう言え」
オットーの口元がわずかに上がる。
シアも笑いながら作業台を片づけ始めた。
できることを増やしたい。
もっと覚えたい。
その気持ちは今もある。
けれど、できることを増やすために自分の限界を無視する必要はないのだと、少しずつ分かるようになっていた。
◇
朝の光が通りへ十分に差し込む頃、店の正面から扉を叩く音がした。
「私が出ます」
シアが手を拭いて店側へ向かうと、扉の向こうには大きな籠を抱えたローザが立っていた。籠の中には赤や黄色の混じった林檎が並んでおり、祭り前に見たものより少し小ぶりな実も含まれている。
「おはよう、シア。持ってきたよ」
「おはようございます。ありがとうございます」
「言ってた通り、大きさは揃えてないよ。その代わり、傷みの早そうなのは避けてきた」
シアは閂を外して扉を広く開け、ローザが籠を運び入れられるよう脇へ寄った。
「ここでいい?」
「はい。あとで重さも確認したいので、作業台の近くへお願いします」
「相変わらず細かいねえ」
「今日は試験販売なので、次に作るとき比較できるようにしたいんです」
ローザが籠を置きながら、感心したように眉を上げた。
「もう次のこと考えてるの?」
「売れれば、です」
「売れなかったら?」
「なぜ売れなかったのか考えます」
口にしたあと、それがオットーから教わった言葉とほとんど同じだと気づいた。
厨房から聞いていたらしいオットーが低く笑う。
「覚えてるじゃねえか」
「大事だと思ったので」
ローザは二人を交互に見てから、楽しそうに笑った。
「すっかりパン屋の人だね、シア」
その言葉に、シアは一瞬だけ目を瞬いた。
以前なら、どう返せばいいのか迷ったかもしれない。
自分は伯爵令嬢で、本当の名前はエリシア・ベルフォードで、ここにいる「シア」は身を隠すために使い始めた名前なのだと、心のどこかで線を引いていた時期もある。
けれど今は違う。
「はい。《麦穂亭》で働いていますから」
自然に答えられた。
ローザは特別な意味など感じていないらしく、「そうだったね」と笑いながら籠の中から一つの林檎を持ち上げる。
「これくらい小さいのも混ぜたけど、煮るなら問題ないだろ?」
シアも林檎を受け取り、表面を確認した。
「私は問題ないと思います。でも、オットーさんにも見てもらいます」
「うん、それでいい」
自分の判断だけで店の材料を決めない。
しかし、分からないからすべて任せるのでもない。
確認できるところは自分で見て、そのうえでパン作りに詳しい人へ聞く。
昨日まで何度も話してきたことを、今日も実際の仕事として行う。
オットーが林檎を二つほど手に取って状態を確かめると、問題ないと頷いた。
「これなら使える」
「じゃあ決まりだね」
ローザが伝票を取り出す。
シアは受け取り、数量と金額を確認してから帳簿へ記録した。
祭り前より価格はわずかに落ち着いている。
今回の十個分だけで考えれば、九枚という販売価格を変える必要はなさそうだった。
「林檎の値段がもっと下がったら、パンも安くするの?」
ローザが何気なく尋ねる。
シアはすぐには答えなかった。
「それは、材料費だけでは決められないと思います」
「へえ?」
「蜂蜜も使いますし、オットーさんが林檎を煮る時間や、包む手間もあります。それに、値段を何度も変えるとお客さんが分かりにくいと思うので……」
そこまで言ってから、オットーを見る。
「合っていますか?」
「だいたいな」
「だいたいですか」
「値段の決め方は材料費だけじゃない。だが、お前が言ったことも入る」
「では、あとで詳しく教えてください」
「覚えてたのか」
「昨日お願いしました」
「そうだったな」
ローザがまた笑う。
「本当に次から次へと覚えたがるねえ」
シアは林檎を籠から取り出しながら、自分でもそう思った。
覚えたいことが多い。
以前は、必要だから覚えていた。
間違えれば困るから。
怒られないために。
今は、知りたいから覚えたいことが増えている。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
◇
開店前の仕込みが一段落すると、いよいよ蜂蜜林檎パンの準備が始まった。
祭りのときにも手伝ったため、シアは大まかな流れを知っている。しかし今日は、ただ補助をするのではなく、自分でも作り方を覚えたいと伝えている。
オットーは林檎を一つ手に取り、包丁を置いた。
「まず切る」
「はい」
「祭りのときもやったな」
「やりました」
「今日は俺が最初の一個だけやる。大きさを見るんじゃなくて、何のためにこのくらいにするのか考えろ」
シアは真剣に手元を見る。
オットーが林檎を切り分ける。
極端に細かくはない。
しかし、大きすぎもしない。
「食感を残すためでしょうか」
「それもある」
「大きすぎると、パンへ包みにくい?」
「そうだ」
「小さすぎると、煮たときに形がなくなりすぎる」
「そういうことだ」
シアは頷き、自分の包丁を持った。
「同じ大きさに揃えなくていいぞ」
「……先に言われました」
「言っとかないと揃えるだろ」
「否定できません」
祭り前の試作でも、シアは林檎の大きさを必要以上に揃えようとした。あのときよりは分かっているつもりだが、長年身についた癖が完全になくなったわけではない。
最初の一個を切る。
オットーのものと比べると、少し細かい。
「小さいでしょうか」
「少しな。でも使えないほどじゃない」
「次はもう少し大きくします」
二個目では少し意識して大きくする。
今度は一片だけ大きくなった。
シアの指が止まりかけたところで、オットーが先に言った。
「それ一個だけ切ればいい」
「全部やり直す必要はない?」
「ない」
「……はい」
大きな一片だけを半分にする。
それで終わりだ。
(直す必要があるところだけ直せばいい)
パン作りだけの話ではない気がした。
すべてを最初からやり直す必要はない。
一つ間違えたからといって、その前までの仕事まで無価値になるわけでもない。
切り終えた林檎を鍋へ移し、蜂蜜を加える。
甘い香りがゆっくりと厨房へ広がり始めると、店側で開店準備をしていたマルタが顔を覗かせた。
「もういい匂い」
「まだ煮始めたばかりです」
「匂いは先に来るからね」
マルタが鍋を覗く。
「祭り思い出すねえ」
「私は昨日も思い出していました」
「帳簿見ながら?」
「はい」
「シアらしい」
笑われても嫌ではない。
シアは木べらで鍋をゆっくり混ぜながら、林檎の色が変わっていくのを見つめた。
蜂蜜の甘い香り。
火の熱。
窯から漂う焼きたてのパンの匂い。
外から聞こえる荷車の車輪。
いつもの朝に、少しだけ違うものが混ざっている。
「楽しいです」
自然に言葉が出た。
オットーが隣で生地を確認しながら、「そうか」とだけ答える。
それ以上何も言わないところが、シアにはありがたかった。
◇
十個の蜂蜜林檎パンが焼き上がったのは、朝の客が増え始める少し前だった。
窯から出したばかりのパンは、丸みのある表面に薄い焼き色がつき、近づくだけで林檎と蜂蜜の香りが分かる。
シアは並んだ十個を見つめた。
「祭りのときより少し小さいですか?」
「同じだ」
「そう見えただけでしょうか」
「十個しか並んでないからだろ」
「ああ……」
祭りでは何十個も並んでいた。
今日は十個だけ。
数が違えば、見え方も変わる。
マルタが店頭の棚の一角を空け、そこへ蜂蜜林檎パンを並べていく。
「札はどうする?」
「私、書いてもいいですか?」
「お願い」
シアは小さな商品札を用意した。
――蜂蜜林檎パン 銅貨九枚。
その下へ何か書き足そうとして、手を止める。
「どうしたの?」
「『本日十個』と書くか迷っています」
「書きたい理由は?」
「数が少ないと分かった方がいいかと思ったんですが、急いで買わせるように見えないでしょうか」
マルタが少し考える。
「今日は試しに十個だけって書けば?」
「試験販売だと伝える?」
「そう。売り切れを煽るんじゃなくて、今日は少量しか作ってませんって意味で」
「それならいいと思います」
シアは札の下へ小さく書き加えた。
――祭り後の試し焼きのため、本日は十個のみ。
書き終えて棚へ置く。
「これでどうでしょう」
「いいんじゃない?」
開店の時刻になり、マルタが正面扉を開けた。
冷たい朝の空気が店内へ入り込み、パンの香りが通りへ流れていく。
いつもの《麦穂亭》の一日が始まった。
◇
最初に蜂蜜林檎パンへ気づいたのは、毎朝仕事へ向かう途中に丸パンを買う中年の職人だった。
「お、祭りのやつか?」
棚を見ながら尋ねられ、シアは会計台の内側から答えた。
「はい。少しだけ作ってみました」
「祭りのとき食い損ねたんだよな」
「では、よろしければ」
「一個もらうよ。あと丸パン二つ」
「ありがとうございます」
最初の一個が売れた。
シアは蜂蜜林檎パンと丸パンを包みながら、胸の奥が少しだけ弾むのを感じた。
(まず一個)
しかし、まだ一個だ。
帳簿へ販売数を書き込み、次の客を迎える。
その後しばらくは、いつものパンばかりが売れた。
蜂蜜林檎パンを見る人はいる。
値札を確認する人もいる。
けれど、そのまま丸パンや黒麦パンを選ぶ人も多かった。
シアはそれを見ながら、少し不思議な感覚を覚えた。
祭りの日は、並べたそばから売れていった。
今日は違う。
客は普段の朝食や昼食としてパンを買いに来ている。
特別な日ではない。
九枚のパンを一つ買うなら、五枚の丸パンと別のものを選ぶ人もいるだろう。
(これが通常の日なんだ)
売れないことを怖がるのではなく、違いを見る。
そのための十個だ。
「シア姉ちゃん!」
勢いよく扉が開いたのは、それから少し経った頃だった。
予想していた声に、シアは思わず笑った。
ニコが息を切らしながら店へ飛び込んでくる。
「まだある!?」
「あります。走ってきたんですか?」
「寝坊してない!」
「それは分かりましたから、まず息を整えてください」
ニコは膝へ手をつき、何度か大きく息をした。
店内にいた二人の客が笑っている。
「一個!」
「蜂蜜林檎パンですね」
「うん!」
「銅貨九枚です」
ニコは握りしめていた硬貨を会計台へ置いた。
シアが確認すると、きちんと九枚ある。
「ちょうどお預かりします」
「今食べていい?」
「外なら。まだ少し温かいので、火傷しないようにしてください」
「分かった!」
包みを受け取ったニコは店を出ると、すぐ扉の横で袋を開いた。
「店の前で食べるんですか?」
「だって待てない!」
ニコは慎重に一口かじる。
その瞬間、目を大きく見開いた。
「うまい!」
通りにまで響く声だった。
近くを歩いていた女性が思わず振り返る。
「そんなに大きな声を出さなくても……」
「祭りのとき食べたかったんだもん!」
「今日は食べられてよかったですね」
「うん!」
嬉しそうに食べる姿を見ていると、シアまで嬉しくなった。
ただ、自分が食べたいと思ったもの。
作ってみたいと思ったもの。
それを誰かが美味しそうに食べている。
(嬉しい)
その感情を、もう否定する必要はなかった。
◇
昼が近づく頃までに、十個のうち六個が売れた。
祭りの勢いと比べれば遅い。
しかし、通常日の商品として考えれば悪くないのかもしれない。
シアは販売時間と数を簡単に記録していた。
「そこまで書くの?」
マルタが会計台の横から紙を覗き込む。
「朝の早い時間に三個、そのあと昼前までに三個です」
「うん」
「買ってくださった方のうち、二人は祭りで食べられなかったと言っていました。一人は祭りで食べて美味しかったから、もう一度と」
「ニコは?」
「食べたかったから、です」
「それは知ってる」
二人で笑う。
残り四個。
シアは棚を見た。
「今日中に全部売れなかったら、どうしますか?」
「まず夕方まで置くよ」
「はい」
「それでも残ったら、三人で食べようか」
「売れ残りなのに、いいんですか?」
「傷んでなきゃね。捨てるよりいいでしょ」
シアは頷いた。
「では、残った数も記録します」
「本当に楽しそうだねえ」
「はい」
もう隠す必要もない。
帳簿も、販売記録も、客の反応を見ることも楽しい。
パンを作ることも少しずつ楽しくなっている。
自分の中に、こんなに好きなものがあったのだと、最近になって初めて知った。
◇
昼を少し過ぎた頃、扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたシアは、入ってきた人物を見てわずかに目を見開いた。
暗い色の上着を着たレオンハルトだった。
今日は供の姿も見えない。
「こんにちは」
「こんにちは、シア」
祭りの日に中央広場で会って以来だった。
あのときは公爵家の代表として人々に囲まれていたため、今の落ち着いた姿を見ると少しだけ不思議に感じる。
「今日はお仕事ではないんですか?」
「午前中で一段落した。午後も戻るが、その前に昼食を買おうと思ってな」
「そうでしたか」
シアがいつものように棚を案内しようとしたところで、レオンハルトの視線が蜂蜜林檎パンの札へ向いた。
「これは」
「あ」
シアは思い出した。
祭り前、商品として決まったら教えてほしいと言われていた。
結局、祭り前に改めて伝える機会はなかったものの、彼は祭りの日に食べている。
「祭りが終わったあとも作ることにしたのか?」
「まだ決めてはいません。今日は十個だけ試しているんです」
「試している?」
「普通の日にも買っていただけるか知りたくて」
レオンハルトが札を見る。
「残りは?」
「四個です」
「では一つもらおう」
「ありがとうございます」
シアは棚から一つ取ろうとして、ふと手を止めた。
「でも、以前もう食べてくださいましたよね」
「食べたな」
「今日は試験販売なので、祭りで食べたことのない方が買ってくださる方が、記録としては……」
言いながら、自分でも少し迷う。
客に「買わない方がいい」と言っているようなものだ。
レオンハルトは一瞬きょとんとしたあと、低く笑った。
「私は客として数えてもらえないのか?」
「いえ、そういう意味ではありません」
「祭りで食べて、もう一度食べたいと思った客が買うのも記録になるだろう?」
言われて、シアは瞬きをした。
「……確かにそうですね」
「なら一つ頼む」
「はい」
少し恥ずかしくなりながら包みを用意する。
「ほかには何になさいますか?」
「今日のおすすめは?」
以前にも聞かれた問いだった。
シアは棚を見る。
今日は黒麦パンの焼き色がよく、香りも強い。
「黒麦パンです。今日は焼き色がきれいで、オットーさんもいい出来だと言っていました」
「では、それを二つ」
「ありがとうございます。蜂蜜林檎パンが九枚、黒麦パンが七枚ずつなので、全部で銅貨二十三枚です」
レオンハルトが硬貨を置く。
シアは数を確認してから包みを渡した。
「ちょうどお預かりします」
「祭りは楽しめたか?」
突然ではないが、仕事以外の問いだった。
シアの手がほんの少し止まる。
「はい。とても楽しかったです」
「ミレイユと回ったんだったな」
「はい。中央広場を見て、林檎のお茶も飲みました」
そこまで話してから、自然に言葉が続いた。
「それから、櫛を買いました」
「櫛?」
「麦穂の模様が彫ってあるものです」
レオンハルトが少し意外そうに目を細めた。
「気に入ったのか?」
「はい。必要だったからではなくて、欲しかったので買いました」
自分でも、なぜそこまで説明したのか分からない。
ただ、嬉しかったことを誰かへ話したくなった。
レオンハルトは笑わなかった。
「それなら、いい買い物だったな」
「はい」
胸の奥が少し温かくなる。
レオンハルトはそれ以上、値段も理由も尋ねなかった。
「私は祭りの間、ゆっくり店を見る暇はほとんどなかった」
「やはりお忙しかったんですね」
「二日目の午後だけ少し歩けたが、それでも仕事半分だった」
「では、あまり休めなかったのでは?」
「そうだな。だが、あれも仕事のうちだ」
その答えを聞きながら、シアは以前の自分ならどう感じただろうと考えた。
忙しいことを当然として、休めないことにも疑問を持たなかったかもしれない。
「お休みは取れるんですか?」
尋ねてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
しかしレオンハルトは気にした様子もなく答える。
「明後日の午後は空けるつもりだ」
「それなら、よかったです」
「シアに心配されるとは思わなかった」
「私も、休むように言われていますから」
「なるほど。説得力があるな」
「まだ練習中ですけれど」
レオンハルトの口元に笑みが浮かぶ。
シアもつられて少し笑った。
以前は彼と話すとき、言葉を間違えないよう気を張っていた。
公爵家の跡取り。
騎士団にも関わる人物。
自分とは遠い身分の人。
その認識は今も変わっていない。
それでも、パンを買いに来る客として話す時間には、以前ほど肩へ力が入らなくなっている。
「そういえば」
レオンハルトが店内を見回した。
「祭りが終わったら、試用期間も終わる頃ではなかったか?」
シアは目を瞬いた。
以前、働き始めて間もないことは話している。試用期間についても、会話の中で触れたことがあった。
「はい」
「どうなった?」
その問いに、シアの口元が自然に緩んだ。
「これからも、ここで働くことになりました」
言葉にした瞬間、昨日とはまた違う嬉しさが湧いた。
「正式に?」
「はい。お給金やお休み、仕事のことも話し合いました」
「そうか」
レオンハルトの表情が柔らかくなる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「嬉しそうだな」
言われて、シアは自分の頬へ意識を向けた。
「……分かりますか?」
「分かる」
即答だった。
少しだけ恥ずかしくなり、視線を会計台へ落とす。
「嬉しいので」
「それなら何よりだ」
その声は穏やかだった。
レオンハルトは彼女がなぜこの街へ来たのかを知らない。
以前どこで暮らしていたのかも、なぜ過去について話したがらないのかも知らない。
だからこそ、余計な意味をつけずに「おめでとう」と言ってくれる。
シアには、それが心地よかった。
「仕事は増えたのか?」
「増えました。でも、一人で全部やらないことも条件にしました」
「条件に?」
「はい」
少しだけ誇らしくなって、シアは続けた。
「困ったときは相談します。それから……助けが必要なときは、助けてくださいと言うことにしました」
言ってから、胸がわずかに高鳴った。
昨日初めて口にできた言葉を、今度は別の人へ話している。
レオンハルトは一瞬だけ黙った。
その沈黙に、否定の気配はなかった。
「それは、いい条件だな」
「はい」
「守れそうか?」
「……練習します」
「そこは即答ではないんだな」
「まだ自信はありませんから」
正直に答えると、レオンハルトが小さく笑った。
「なら、その方が信用できる」
その言葉に、シアも笑った。
やがてレオンハルトは包みを手に取り、扉へ向かう。
「仕事の邪魔をしたな」
「いいえ。お買い上げありがとうございました」
「林檎パンの結果が出たら、また教えてくれ」
「はい。覚えていたら」
「そこは覚えていてほしいな」
「努力します」
冗談めいた返事ができたことに、自分でも少し驚いた。
レオンハルトも笑いながら扉を開ける。
「では、また」
「ありがとうございました」
扉の鈴が鳴り、彼の姿が通りへ消えていった。
シアは少しの間、閉じた扉を見ていた。
胸の奥に、ほんのわずかな温かさが残っている。
(話しやすくなった)
それが何を意味するのかまでは考えなかった。
ただ、以前より自然に話せる相手が一人増えたことを、嬉しいと思った。
◇
店を出たレオンハルトは、紙袋を片手に通りを歩いていた。
祭りの飾りはほとんど外されていたものの、軒先にはまだ色布の紐が残っている店もあり、街全体にはわずかな余韻が漂っている。
歩きながら、先ほどのシアの表情を思い出す。
初めて南側訓練場で会った頃、彼女は何かを尋ねるたびに必要以上に緊張していた。
言葉を選び、相手の反応を見て、自分の答えが間違っていないか確かめるようなところがあった。
今も慎重さは残っている。
けれど、今日の彼女は自分から櫛の話をした。
祭りが楽しかったと言った。
欲しかったから買ったのだと、少し嬉しそうに話した。
そして、《麦穂亭》で働き続けることになったと話したときの表情は、以前の彼女からは想像しにくいほど柔らかかった。
(随分、笑うようになったな)
レオンハルトはそう思いながら、紙袋を持ち直した。
彼女の過去を知りたいという気持ちが、まったくないわけではない。
なぜあれほど働くことに怯えが混じっていたのか。
なぜ木剣を持った男が近づいただけで身体が強張ったのか。
なぜ自分の希望を口にすることへ、あれほど慎重だったのか。
気になることはいくつもある。
しかし、それを自分から聞くつもりはなかった。
彼女が話したいと思ったなら聞けばいい。
そうでないなら、今の彼女を見ていればいい。
少なくとも今日は、正式に働き続けることが決まったと聞けた。
「……おめでとう、か」
口にした言葉を思い返し、レオンハルトはわずかに笑った。
もっと別のことを言いたかったような気もする。
だが、何を言いたかったのかまでは自分でも分からない。
その答えを急いで探す必要もないだろう。
彼は午後の仕事へ戻るため、公爵家の方角へ歩いていった。
◇
午後の客足が落ち着き始めた頃、蜂蜜林檎パンは残り二個になっていた。
シアは販売記録へ数字を書き込む。
「八個」
「思ったより売れたね」
マルタが棚を見ながら言った。
「はい。でも、夕方まで見たいです」
「もちろん」
残り二個を見つめながら、シアは今日の客の反応を思い返した。
祭りで食べられなかった人。
祭りで食べて、もう一度買った人。
林檎が好きだから選んだ人。
ニコ。
レオンハルト。
それぞれ理由が違う。
単に「八個売れた」と書くだけでは見えないものがある。
「お客さんが買った理由も、分かる範囲で残しておきたいです」
「全員に聞くの?」
「それはしません。聞かれたことや、向こうから話してくださったことだけです」
「ならいいね」
シアは紙の端へ簡単な記録を加えた。
完璧な調査ではない。
けれど次に考える材料にはなる。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、仕事帰りらしい若い女性二人だった。
「まだ林檎のある?」
「はい。二個あります」
「よかった。朝見たとき買おうか迷ったのよ」
一人がそう言い、もう一人も棚を見る。
「私も一つもらおうかな」
「ありがとうございます」
二人が一つずつ購入する。
銅貨十八枚を受け取り、シアは包みを渡した。
「ありがとうございました」
扉が閉じる。
棚を見る。
蜂蜜林檎パンが置かれていた場所には、商品札だけが残っている。
「……十個」
声にしたシアへ、マルタが笑う。
「売れたね」
「はい」
「どうする?」
尋ねられ、シアはすぐに「もっと作りましょう」とは言わなかった。
売り切れた。
嬉しい。
けれど、それだけで毎日増やせるとは限らない。
「今日の記録をまとめます」
「うん」
「それから、オットーさんと作業量を確認して、林檎の値段も見ます」
「うん」
「そのうえで……また十個か、少し増やすか考えたいです」
マルタが満足そうに頷く。
「じゃあ、そうしよう」
シアは商品札を棚から外した。
祭りの日のような大成功ではない。
何十個も売れたわけではない。
けれど、今日の十個には今日の意味がある。
自分が「また売ってみたい」と言った。
作り方を覚えたいと言った。
店の二人と相談して、十個だけ作った。
そして十個すべてが、それぞれの客の手へ渡った。
(嬉しい)
胸の中に生まれた言葉を、今度は口にしてみる。
「嬉しいです」
マルタが振り返る。
「うん」
「全部売れたこともですけれど……やってみたいと言ったことを、本当にやってみられたのが嬉しいです」
「じゃあ次も考えないとね」
「はい。でも、今日はまず記録します」
「そこはシアだねえ」
笑われながら、シアも笑った。
◇
夕方、オットーが厨房から出てくると、シアはまとめた紙を持っていった。
「十個、全部売れました」
「聞いた」
「売り切れたのは昼を少し過ぎてからです。祭りで食べた方の再購入もありました。祭りで買えなかった方もいました」
「そうか」
「次回について相談したいです」
オットーは紙を受け取った。
「何個作りたい」
「まず、同じ十個でもう一度試したいです」
「増やさないのか?」
「一日だけでは分からないと思うので」
オットーが紙から顔を上げる。
「今日売れた理由に、祭りの直後だからということもあるかもしれません。それに、今日買ってくださった方が次も買うとは限りません」
「なるほどな」
「もしもう一度十個売れたら、その次に十二個か十五個を考えてもいいと思います」
「曜日も見ろ」
「曜日?」
「今日は祭り明けで人の動きが普段と少し違う。次に同じ曜日で試すか、違う曜日で試すかでも意味が変わる」
シアは目を見開き、すぐに紙へ書き加えた。
「それも必要ですね」
「あと天気」
「雨の日は客足が変わる?」
「変わる」
「……覚えることが増えました」
「嫌か?」
シアは首を横に振った。
「いいえ。楽しいです」
迷わず答えられた。
オットーはそれ以上何も言わず、紙を返した。
「じゃあ次は三日後だ」
「十個ですか?」
「ああ。林檎があるならな」
「ローザさんに明日確認します」
「それでいい」
シアは予定を書き込む。
三日後。
蜂蜜林檎パン、十個。
ただし林檎の状態と価格を確認する。
曜日と天気も記録する。
「オットーさん」
「なんだ」
「今日、作り方を教えてくださってありがとうございました」
「まだ林檎切って煮るところまでだ」
「それでもです」
「次は包む方もやれ」
シアの顔が明るくなる。
「いいんですか?」
「覚えたいんだろ」
「はい」
「なら覚えろ。ただし通常の成形もやるぞ」
「分かりました」
やりたい仕事が、また一つ先へ進んだ。
◇
その日の夜。
夕食を終えたシアは自室へ戻り、机に向かっていた。
今日の販売記録は店の帳簿と一緒に保管してある。
自室で開いているのは、仕事とは別の小さな紙だった。
そこには以前、自分で書いた言葉がある。
――王立図書館へ行ってみたい。
シアはその文字を見つめた。
今日、レオンハルトから休みについて聞いた。
彼も祭りのあとに休みを取ると言っていた。
自分も休みを取っていい。
そのことは、昨日の話し合いで正式に確認している。
(いつにしよう)
以前なら、「店が暇な日」を探しただろう。
今も店の予定を無視するつもりはない。
けれど、店が完全に暇になる日などないのかもしれない。
だからこそ、予定として相談する。
シアは紙を持って立ち上がった。
階下へ戻ると、マルタが会計台で翌日の硬貨を準備していた。
「マルタさん」
「どうしたの?」
「次のお休みについて相談してもいいですか?」
マルタが顔を上げる。
「もちろん」
「王立図書館へ行ってみたいんです」
「いいね」
「いつなら大丈夫でしょうか」
聞いてから、シアは少し考えた。
いつなら休ませてもらえるか、ではない。
「……私の希望を先に言ってもいいですか?」
マルタの口元が柔らかくなる。
「言ってみて」
「できれば、三日後の林檎パンを終えた次の日がいいです」
「理由は?」
「林檎パンの記録をその日のうちにまとめて、次の日は仕事から離れてみたいからです。それと、図書館なら一日ゆっくり見たいです」
「じゃあオットーと予定見てみようか」
「はい」
マルタが厨房へ声をかける。
少しして出てきたオットーと、翌日以降の注文予定を確認した。
騎士団の定期注文。
《銀鹿亭》への白パン。
《赤い鍋亭》への黒麦パン。
大口注文は今のところない。
蜂蜜林檎パンの二度目の試験販売を三日後に行った翌日は、比較的調整しやすかった。
「休め」
オットーが言う。
「一日ですか?」
「一日だ」
「朝だけ手伝わなくても?」
「休みだって言ってるだろ」
シアは少しだけ口を閉じた。
以前なら、ここで「でも」と続けたかもしれない。
今日は違う。
「分かりました。お休みします」
「よし」
マルタが笑う。
「図書館、初めてなら午前中から行った方がいいよ。かなり広いから」
「そんなに大きいんですか?」
「この辺じゃ一番大きいんじゃない? 私も何年も行ってないけど」
シアの胸に期待が広がる。
「楽しみです」
「ミレイユちゃん誘う?」
「……どうしましょう」
考える。
ミレイユと一緒なら楽しいだろう。
けれど、本をゆっくり見たい気持ちもある。
何より、一人で行ってみたいという気持ちも少しあった。
「今回は、一人で行ってみたいです」
自分の答えを口にすると、不思議なほどしっくりきた。
「いいんじゃない?」
「はい」
一人でいることと、孤独であることは違う。
今なら、その違いが少し分かる。
友達がいる。
帰る場所もある。
だから、一人で出かけることも怖くない。
「では、その日をお休みにしたいです」
「決まりだね」
「ありがとうございます」
シアは自室へ戻ると、小さな紙へ日付を書き加えた。
――休み。王立図書館へ行く。
まだ数日先。
けれど、それは自分で希望して決めた予定だった。
机の引き出しを開ける。
麦穂の櫛。
母の銀のペンダント。
祭りの予定を書いた紙。
そこへ今日の紙も重ねようとして、シアは少し考えたあと、机の上へ残した。
まだ終わっていない予定だからだ。
窓の外では、祭りの飾りをすっかり外した通りに夜の静けさが戻っている。昼間には商人や職人の声が響いていた道も人影が減り、向かいの建物から漏れる灯りが石畳を淡く照らしていた。
シアは椅子へ座り、今日一日を思い返した。
蜂蜜林檎パンを十個作った。
林檎の切り方を教わった。
十個すべて売れた。
レオンハルトに正式に《麦穂亭》で働き続けることを伝えた。
次の試験販売を決めた。
そして、自分から休みたい日を相談した。
どれも大きな事件ではない。
それでも、シアには大切だった。
(やってみたいことが、増えている)
仕事でも。
仕事以外でも。
以前は、やらなければならないことばかりだった。
今は、自分がやってみたいことを予定へ入れられる。
しかも、それを全部一人で抱える必要はない。
今日の林檎パンだって、自分一人で作ったわけではない。
ローザが林檎を届け、オットーが教え、マルタが売り場を整え、自分もその中の一人として関わった。
それでいい。
むしろ、その方がいいのだと今は思える。
シアは小さな紙の「王立図書館」という文字を指先でなぞり、微笑んだ。
「楽しみ……」
声に出しても、もう不安にはならなかった。
明日はまた仕事をする。
三日後には、もう一度蜂蜜林檎パンを十個焼く。
その翌日は、一日休んで王立図書館へ行く。
仕事と休みの両方が、同じ未来の中に並んでいる。
シアは灯りを落とし、寝台へ入った。
階下には《麦穂亭》があり、明日の朝になればまたパンの香りが漂ってくる。
けれど今夜、眠りへ落ちる前の彼女が楽しみにしていたのは、仕事だけではなかった。
まだ見たことのない大きな図書館で、誰にも頼まれていない本を、自分のためだけに選ぶ日。
その予定を思い浮かべながら、シアは静かに目を閉じた。




