第32話 自分のために読む本
蜂蜜林檎パンをもう一度十個だけ焼くと決めてから、《麦穂亭》の日常は祭り以前の落ち着きを少しずつ取り戻していた。
祭りのために増えていた注文は減り、騎士団への定期注文も通常の四十個へ戻っている。朝の厨房には相変わらず窯の熱と小麦の香りが満ちていたものの、何種類もの注文札を並べて何度も数を確かめなければならなかった数日前と比べれば、シアにも周囲を見渡す余裕があった。
その余裕があるからこそ、以前とは違うものも見えてくる。
「シア、そっちはもういいぞ」
オットーに声をかけられ、シアは手元の布巾を止めた。
「でも、作業台の端がまだ……」
「そこは俺が使う。拭いてもまた粉だらけになる」
「……確かにそうですね」
以前なら、それでも最後まで拭いていたかもしれない。しかし今は布巾を洗い、決められた場所へ戻すと、次の仕事を探す前に壁の注文表へ目を向けた。
今日の大きな注文はない。
騎士団への定期分はすでに準備が進んでおり、《銀鹿亭》への分も明日の朝だ。帳簿も昨日までの数字を確認してあるため、今すぐ自分がやらなければならない仕事はなかった。
(なら、無理に見つけなくてもいい)
仕事がない時間を見つけると不安になり、何かを探して動き回っていた頃とは違う。
「少し水を飲んできます」
「ああ」
自分からそう告げて厨房を離れる。
店の奥に置かれた水差しから木杯へ水を注ぎ、ゆっくり飲んだ。窓から入る朝の風は祭り前より冷たくなっており、熱のこもった厨房にいた身体には心地よい。
飲み終えたところで、マルタが会計台の下から一枚の紙を出した。
「そういえば、明日だったね」
「はい」
何のことかすぐに分かった。
王立図書館へ行くための休み。
自分から希望した一日だ。
「道、分かる?」
「大体は。中央広場から北へ向かうんですよね」
「そう。公爵家の方まで行ったら行きすぎ。大きな時計塔がある通りを右に曲がれば、見えると思うよ」
「時計塔を右ですね」
シアは頭の中で道順を組み立てた。
「地図、描こうか?」
「……お願いします」
以前なら、たぶん「大丈夫です」と答えていた。
道を聞いたのだから自分で覚えなければならない、迷ったとしても自分の責任だと考えただろう。
けれど、迷わないために助けを借りることは悪いことではない。
マルタは使いかけの紙の裏へ簡単な道筋を描き始めた。
「ここが《麦穂亭》。この通りをまっすぐ行って中央広場、それから北へ。時計塔はすぐ分かるから、そこを右。図書館は石造りの大きな建物で、正面に階段があるよ」
「入るのに何か必要ですか?」
「読むだけなら大丈夫だったはず。ただ、本を借りるなら登録が必要だったと思う」
「登録……」
「詳しいことは向こうで聞きな」
「はい」
シアは地図を受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。明日は仕事のこと考えなくていいからね」
釘を刺され、シアは苦笑した。
「図書館で帳簿の本を探すのは、仕事を考えたことになりますか?」
「もう探す気だったの?」
「少しだけ」
マルタは呆れたように笑う。
「好きなら読んでもいいけど、それしか読んじゃ駄目って決まりはないからね」
「それしか……」
言われて、シアは考え込んだ。
図書館へ行きたいと思ったとき、最初に浮かんだのは商業や帳簿、仕入れに関する本だった。
それは確かに読みたい。
しかし、仕事に必要な本ではなく、ただ自分が読みたい本は何だろう。
(私は、何を読みたいんだろう)
答えはすぐに出なかった。
それが少しおかしくて、同時に楽しみでもあった。
◇
その日の午後、騎士団への配達を終えて《麦穂亭》へ戻る途中、シアは市場の入口でミレイユと出会った。
勤務中らしく、濃紺の騎士服に剣を下げている。
以前なら、まず腰の剣へ目が向いていた。
今日は先に顔を見た。
「あ、シア」
「ミレイユさん。こんにちは」
「配達帰り?」
「はい。今日は四十個です」
「通常に戻ったもんね。祭り中は本当に大変だったよ」
ミレイユは肩を回しながら大きく息を吐いた。
「ミレイユさんも、忙しかったですよね」
「忙しかった。二日目の午後がなかったら、たぶん三日目はもっと機嫌悪かったと思う」
「お休みできてよかったです」
「シアもね。ちゃんと途中で仕事やめて出てきたし」
その言葉に、シアは祭りの日を思い出した。
まだ店には仕事が残っていた。
蜂蜜林檎パンも売っていた。
それでも、マルタとオットーに送り出され、着替えてミレイユと祭りへ出た。
最初は店のことが気になった。
けれど、戻ったときにも《麦穂亭》はきちんとそこにあった。
「最初は、少し落ち着きませんでした」
「知ってる。何回か後ろ振り返ってたもん」
「見られていたんですね」
「友達だからね」
ミレイユは笑ったあと、シアの持っている空の配達籠へ視線を落とした。
「今日は重くなかった?」
「帰りなので軽いです。行きも途中で一度休みました」
「ちゃんと休んでる」
「練習していますから」
「いいことだ」
二人は市場の端を並んで歩いた。
ミレイユは巡回の途中で、シアも店へ戻る途中なので長く話せるわけではない。それでも、以前のように「仕事中だから」と会話を切り上げようとは思わなくなっていた。
「そういえば、明日はお休みなんです」
シアが言うと、ミレイユが振り向く。
「また?」
「また、というほど多くないと思います」
「違う違う。自分から休みの話するようになったなって」
「あ……」
言われて初めて気づいた。
以前なら、休みがあることを自分から話題にすることさえ、どこか後ろめたかった。
「明日、王立図書館へ行こうと思っています」
「図書館?」
「はい。一度行ってみたくて」
「いいね。かなり大きいよ」
「ミレイユさんも行くんですか?」
「たまに。騎士団で調べ物があるときとか。個人的には……料理の本を見たことがある」
「料理をするんですか?」
思わず聞き返すと、ミレイユが少しむっとした顔になる。
「その反応は何?」
「すみません。少し意外で」
「一応できるよ。簡単なのなら」
「何を作るんですか?」
「肉を焼く」
「……料理ですね」
「今ちょっと間があったよね?」
「ありません」
「絶対あった」
ミレイユが不満そうに言い、シアは笑った。
こうして冗談を言える相手がいることにも、もう以前ほど驚かなくなっている。
「一人で行くの?」
「はい」
「そっか」
ミレイユはそれ以上、「一緒に行こう」とは言わなかった。
シアが一人で行きたいのだと理解してくれたらしい。
「迷ったら職員に聞けばいいよ。あそこ、本当に広いから」
「マルタさんにも言われました」
「初めてなら、一日じゃ全部見られないと思う」
「そんなに……」
「だから全部見ようとしないこと」
ミレイユが指を一本立てる。
「シア、絶対端から全部見ようとするでしょ」
「……しません」
「今考えた?」
「少しだけです」
二人で笑う。
「読みたいもの決めてるの?」
「帳簿や商業についての本は見たいです」
「やっぱり仕事じゃん」
「でも、それ以外も見たいと思っています」
「何を?」
シアは少し考えてから首を横に振った。
「まだ、分かりません」
「なら、棚見て決めればいいんじゃない?」
「棚を見て?」
「うん。題名見て、気になったの取ればいいでしょ」
あまりにも単純な答えだった。
しかしシアにとっては、その単純さが新鮮だった。
「役に立つかどうかは?」
「別に考えなくていいんじゃない?」
「……そういうものですか」
「遊びで読む本なんてそんなもんだよ」
ミレイユはそう言うと、分かれ道で足を止めた。
「私はこっち。明日楽しんできて」
「はい」
「あと、面白い本あったら教えて」
「分かりました」
「仕事の本以外ね」
念を押され、シアは笑った。
「努力します」
手を振って別れたあと、《麦穂亭》へ向かいながら考える。
題名を見て、気になったものを選ぶ。
役に立つかどうかを考えなくてもいい。
祭りで櫛を選んだときと、少し似ているのかもしれない。
◇
翌朝、シアはいつもの時間より少し遅く目を覚ました。
階下から、パン作りの音が聞こえてくる。
木の道具が作業台へ置かれる音や、窯の扉が動く音。それらはもう、彼女にとって《麦穂亭》の朝を知らせる馴染み深いものになっていた。
以前の休みの日なら、その音を聞いた瞬間に身体を起こしていた。
今日は寝台の中で目を開けたまま、しばらく天井を見る。
(今日は休み)
何度も言い聞かせなくても分かっている。
それでも身体には、仕事へ向かう習慣が残っていた。
シアは一度大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
「……もう少し」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び目を閉じた。
眠り直すほどではない。
ただ、温かい寝台に少し長くいる。
それだけのことが、以前は難しかった。
やがて起き上がると、顔を洗い、髪を整えた。
今日は仕事着ではない。
ミレイユと市場へ出かけたときに自分で選んだ生成りのブラウスと濃い茶色のスカートを身につける。髪には淡い空色のリボンを結び、祭りで買った麦穂模様の櫛を使って乱れを整えた。
鏡代わりの小さな磨き板へ映る自分を見る。
「……うん」
仕事へ行く服ではない。
誰かに見せるためでもない。
自分がこれで出かけたいと思った服だ。
引き出しを開けると、銀のペンダントが目に入った。
母の形見。
市場へ出かけた日も、祭りの日も、人の多い場所では失くすのが怖くて置いていった。
図書館なら祭りほど混雑してはいないだろう。
少し迷ったものの、シアは今日も手を伸ばさなかった。
(今日は、つけなくてもいい)
大切だからこそ、毎回身につける必要はない。
自分が安心できる日に使えばいい。
引き出しを閉じ、マルタが描いてくれた地図と財布を小さな袋へ入れた。
階下へ下りると、店はすでに開いていた。
「おはようございます」
「おはよう」
会計台にいたマルタが振り返る。
「ちゃんと仕事着じゃない」
「今日は休みですから」
「分かってきたねえ」
「まだ確認されますけれど」
厨房からオットーの声がする。
「朝飯食ってけ」
「はい」
店の奥の小さな卓上には、丸パンと卵、温かいスープが用意されていた。
シアは席につく。
以前なら、忙しい店の音を聞きながら自分だけ食事をすることに罪悪感を覚えただろう。
今も完全に何も感じないわけではない。
客が入れば、身体が反応しそうになる。
しかし、そのたびに自分の膝へ手を置いた。
(今日は私の仕事ではない)
だからといって、店の一員ではなくなるわけでもない。
食事を終え、食器だけ片づける。
「洗います」
「置いときな」
オットーに言われ、手が止まった。
「自分の分だけでも」
「休み」
「……はい」
素直に置く。
マルタが笑っている。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。暗くなる前には帰っておいで」
「はい」
オットーも厨房から顔だけ出した。
「迷ったら聞けよ」
「分かっています」
シアは扉を開ける。
外の空気は少し冷たかった。
けれど空はよく晴れている。
「行ってきます」
もう一度、小さく口にした。
背後から「行ってらっしゃい」と返ってくる。
その言葉を聞いてから、シアは王立図書館へ向かって歩き始めた。
◇
中央広場は、祭りの日とはまるで違って見えた。
あれほど並んでいた露店はほとんど姿を消し、広場の中央に残っているのは普段から営業している店と噴水だけだった。飾りの一部はまだ建物の軒先に残っているものの、通りを埋め尽くしていた人波もない。
シアは少し足を止めた。
祭りの日には、ここをミレイユと歩いた。
人の多さに疲れたときには休み、林檎のお茶を飲んだ。
そして、自分のために櫛を買った。
今日は一人だ。
寂しいとは思わなかった。
(今日は、私が行きたいところへ行く)
マルタの地図を確認し、北へ向かう。
大きな時計塔はすぐに見つかった。
そこを右へ曲がる。
石造りの建物が並ぶ通りを少し進むと、やがて周囲より一段大きな建物が見えてきた。
シアは思わず歩みを緩めた。
「……大きい」
三階建ての石造りの建物は、正面だけでも《麦穂亭》がいくつも入ってしまいそうな幅がある。中央には幅広い階段が伸び、その上に大きな木製の扉が設けられていた。
壁面には細長い窓が規則正しく並び、入口の上には本を開いた形の紋章が彫られている。
これが王立図書館。
シアは階段を上がった。
扉を開くと、外とは違う静かな空気が迎える。
紙と革、木の棚が混じった独特の匂い。
高い天井。
正面には受付台があり、その奥にはすでに何列もの本棚が見えている。
思っていたより、ずっと広い。
(全部見るのは無理)
ミレイユの言葉を思い出し、少し笑った。
受付には、灰色がかった髪を後ろでまとめた女性が座っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。初めてですか?」
「はい」
どうやら入口で迷っている様子から分かったらしい。
「閲覧だけなら、そのままご利用いただけます。館外へ本を借りる場合は利用登録が必要です」
「登録には何が必要ですか?」
「この街に住んでいることを確認できるものと、保証人か勤務先の証明です。商店で働いている方なら、店主の署名でも大丈夫ですよ」
シアは少し考える。
今すぐ借りる必要はない。
「今日は中で読むだけにします」
「分かりました。初めてでしたら、こちらが館内案内です」
一枚の紙を渡される。
一階は一般書、生活、商業、地理、旅行記。
二階は歴史、法律、自然、専門書。
三階は研究資料や古い文献が多く、一部は閲覧手続きが必要。
「探している分野はありますか?」
「商業や帳簿についての本を見たいです」
「それでしたら一階の東側です。棚番号十二から十五ですね」
「ありがとうございます」
シアは案内図を見る。
そのまま向かおうとして、受付の女性が尋ねた。
「ほかには?」
「ほか……」
「何か読みたいものがあれば、お探ししますよ」
シアは答えに迷った。
「まだ、分からないんです」
「では、歩いて探すのもいいと思います」
女性は穏やかに微笑んだ。
「図書館は、探していなかった本を見つける場所でもありますから」
その言葉が、シアの中に残った。
「……はい」
礼を言い、館内へ進む。
◇
最初に向かったのは、やはり商業関係の棚だった。
帳簿の基本。
商店における仕入れ。
地方ごとの流通。
保存食と季節価格。
題名を追うだけでも興味深い。
「こんなに……」
シアは一冊を手に取った。
小規模商店の帳簿について書かれた本だ。
開いてみると、売上と仕入れを分けて記録する方法だけでなく、季節ごとの比較や、商品一つあたりの利益を考える方法まで載っている。
(読みたい)
近くの閲覧机へ持っていき、椅子に座る。
気づけば夢中になっていた。
《麦穂亭》の帳簿で実際に見ている数字と結びつけながら読むと、以前ならただ知識として覚えていた内容が、具体的な意味を持って理解できる。
蜂蜜林檎パンの価格。
材料費。
作業時間。
売れる数。
廃棄の可能性。
すべてがつながっている。
頁をめくる手が止まらない。
やがて窓から差し込む光の角度が変わっていることに気づき、シアは顔を上げた。
「……どれくらい読んでいたんだろう」
周囲を見れば、席にいる人も入れ替わっている。
シアは少し慌てて立ち上がりかけた。
しかし、すぐに座り直した。
(急ぐ必要はない)
今日は一日ここにいるために休んだ。
誰かに提出するために本を読んでいるわけではない。
シアは頁の途中に備え付けの栞を挟み、本を閉じた。
面白かった。
けれど、今日はこれだけを読むために来たわけではない。
ミレイユとの会話を思い出す。
――仕事の本以外ね。
「……探してみよう」
商業書を元の棚へ戻し、別の棚へ向かった。
◇
生活。
料理。
裁縫。
植物。
地理。
旅行記。
シアは一つずつ棚を眺めていった。
料理の棚ではパンに関する本が気になったが、今日は一度通り過ぎる。
裁縫も得意だ。
けれど、それも今は違う気がした。
地理の棚へ入る。
国の各地を描いた地図帳が並んでいた。
シアはその前で足を止める。
自分が生まれ育った土地。
王都。
そして、今いるアルヴェイン公爵領。
地図を開けば、それらは線と文字でつながっている。
けれど今日は、故郷との距離を確かめたいとは思わなかった。
別の本へ目を移す。
旅人が各地を歩き、その土地の景色や食べ物について記した旅行記があった。
表紙には、山の向こうに広がる湖が描かれている。
シアの手が伸びた。
仕事には必要ない。
今すぐ役立つ知識でもない。
それでも、なぜか気になった。
(これを読んでみたい)
本を抱え、閲覧机へ戻る。
最初の頁を開いた。
そこに書かれていたのは、遠い北方にある湖の話だった。
冬には周囲の山が白く染まり、春になると雪解け水が流れ込む。湖畔の町では魚料理が有名で、夏には船で対岸まで渡ることができるという。
シアはゆっくり読み進めた。
帳簿の本とは違う。
数字も、仕事の手順もない。
知らない景色の話ばかりだ。
けれど、それが楽しかった。
(こんな場所があるんだ)
行く予定などない。
それでも想像することはできる。
青い湖。
白い山。
船。
知らない料理。
知らない町。
頁をめくるたび、自分の知らない世界が広がっていく。
ふと、胸の奥が不思議な感覚に包まれた。
以前の自分なら、遠い土地のことを知っても意味がないと思ったかもしれない。
伯爵家とヴァルモント家の間で決められた生活を送り、やるべき仕事をこなし、その先も同じように続いていくのだと考えていた。
遠い場所へ行く未来など想像しなかった。
けれど、自分は実際に遠い街まで来た。
知らないパン屋で働き始めた。
友達ができた。
祭りへ行った。
欲しいものを買った。
そして今、誰にも命じられず図書館で旅行記を読んでいる。
(いつか、どこかへ行くこともできるのかな)
すぐに行きたいわけではない。
《麦穂亭》を離れたいわけでもない。
むしろ、今の場所が好きだ。
それでも、「ここにいること」と「どこにも行けないこと」は同じではない。
いつか休みを取って、少し遠くの町へ行く。
そんな未来があってもいい。
その考えに気づいたとき、シアは旅行記の上へ置いた自分の指を見つめた。
選べる未来が、少しずつ増えている。
◇
昼になり、シアは図書館の外へ出た。
館内では飲食できないため、近くの広場にある長椅子へ座る。
朝、《麦穂亭》でマルタが持たせてくれた丸パンとチーズが袋に入っていた。
「お昼くらい買えばよかったのに」
渡されたときにはそう言った。
するとマルタは、「休みの日に店のパンを食べたら駄目って決まりもないよ」と笑った。
確かにその通りだ。
シアは丸パンを一口食べる。
食べ慣れた味だった。
けれど、いつもとは違う場所で食べるだけで少し違って感じる。
広場には同じように昼食を取る人が何人かいた。
学生らしい若者。
書類を抱えた男性。
小さな子どもを連れた母親。
誰もシアを気にしていない。
シアも彼らのことを詳しく知らない。
それが心地よかった。
昼食を終えると、少し休んでから再び図書館へ戻る。
今度は、最初から商業書へは向かわなかった。
旅行記の棚へ戻る。
午前中の本を読み終え、別の一冊を探す。
その途中だった。
棚の下段に、少し色褪せた背表紙を見つけた。
題名は『街角の小さな店々』。
各地の小さな商店を訪ね、そこで働く人々の暮らしを書いた本らしい。
仕事の本とも言える。
旅行記とも言える。
シアは少し笑った。
「これなら、どちらでしょう」
誰に尋ねるでもなく小さく呟き、本を手に取った。
頁を開く。
最初に出てきたのは、小さな港町の菓子店だった。
老夫婦が二人で営み、季節ごとに商品を少しずつ変えている。
次は山間の仕立屋。
その次は、家族で営む食堂。
どの店も大きくはない。
けれど、それぞれに暮らしがある。
働く人がいる。
常連客がいる。
失敗もある。
売れない日もある。
それでも次の日には店を開ける。
読みながら、シアは《麦穂亭》を思い出した。
マルタ。
オットー。
毎朝二個の黒麦パンを買うハロルド。
元気に駆け込んでくるニコ。
野菜や果物を届けるローザ。
蜂蜜パンが好きなミレイユ。
時々パンを買いに来るレオンハルト。
そして、自分。
(私も、こういう店の中にいるんだ)
その実感が、静かに胸へ広がった。
伯爵令嬢ではない。
婚約者でもない。
誰かの仕事を黙って引き受ける人でもない。
《麦穂亭》で働くシアとして、小さな店の毎日の中にいる。
それが嬉しかった。
◇
午後の光が傾き始めた頃、シアは二冊目の本を閉じた。
まだ読みたい。
けれど、少し目が疲れている。
(今日はここまでにしよう)
以前なら、せっかく来たのだから閉館まで読まなければ損だと考えただろう。
今日は違う。
また来ればいい。
そのためには、借りられるように登録してもいいかもしれない。
受付へ戻る。
「すみません」
「はい」
朝の女性が顔を上げた。
「利用登録について、もう一度教えていただけますか?」
「もちろんです」
街に居住していること。
勤務先の確認。
店主の署名があれば登録できること。
登録料として銅貨二枚。
一度に借りられるのは二冊。
基本の貸出期間は十日間。
シアは説明を聞きながら頷いた。
「用紙を持ち帰ってもいいですか?」
「ええ。勤務先の方にこちらへ署名をいただいてください」
「分かりました」
一枚の登録用紙を受け取る。
自分の名前を書く欄。
居住地。
勤務先。
保証人。
シアの視線が、一瞬だけ名前の欄で止まった。
――シア。
今の自分が使っている名前。
騎士団との注文書にも書いた。
《麦穂亭》の記録にも使っている。
しかし、公的な施設へ登録するとなれば、同じように使えるのだろうか。
「すみません」
「はい?」
「名前について、確認してもいいですか?」
「どうぞ」
「家名がない場合でも、登録できますか?」
受付の女性は特に驚かなかった。
「できますよ。職人や奉公人の方には家名を使わない方もいますから。ただ、勤務先の確認は必要です」
シアの肩から、わずかに力が抜けた。
「そうですか」
「何か問題がありますか?」
「いいえ。ありがとうございます」
それ以上は聞かれなかった。
シアも説明しなかった。
紙を丁寧に畳み、袋へ入れる。
(シアで、登録できる)
それが思った以上に嬉しかった。
偽名として使い始めた名前だった。
けれど今では、その名前で働き、その名前で友達に呼ばれ、その名前で客から声をかけられる。
自分で選んだ生活と結びついた名前になっている。
もちろん、本当の名前が消えたわけではない。
エリシア・ベルフォードだった過去までなくなるわけでもない。
けれど、今の自分がシアであることも嘘ではない。
図書館の利用登録用紙を持って、シアは建物を出た。
◇
帰り道、中央広場へ差しかかったところで、シアは少しだけ寄り道をした。
祭りの日にミレイユと飲んだ果実茶の店は、今日はいつもの場所で営業している。
店先の札を見る。
林檎。
木苺。
柑橘。
いくつか種類が並んでいる。
シアは財布へ手を入れた。
今日は図書館へ行っただけで、まだ何も買っていない。
飲まなくても帰れる。
家へ戻れば水もお茶もある。
それでも、林檎の文字を見ると飲みたいと思った。
「林檎のお茶を一つください」
「はいよ」
店主が温かい果実茶を用意する。
代金を払い、紙杯を受け取った。
湯気とともに甘酸っぱい香りが立つ。
広場の端にある長椅子へ座り、一口飲む。
「……おいしい」
祭りの日ほど人はいない。
隣にミレイユもいない。
それでも美味しい。
(誰かと一緒に飲むのも好き。でも、一人で飲むのも嫌いじゃない)
そのことを知れただけでも、今日出かけた意味がある気がした。
図書館で読んだ遠い土地の話を思い出す。
知らない湖。
知らない町。
小さな店々。
いつか行ってみたい場所ができるかもしれない。
今すぐでなくてもいい。
まずは図書館へ、もう一度行きたい。
今度は本を借りたい。
シアは残りの果実茶をゆっくり飲み終え、《麦穂亭》へ向かった。
◇
夕方の《麦穂亭》には、焼き上がったパンの香りと夕食のスープの匂いが混じっていた。
シアが扉を開けると、会計台にいたマルタがすぐに気づく。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
言ってから、少し笑う。
もう、このやり取りにも慣れてきた。
「どうだった?」
「とても広かったです」
「それだけ?」
「本がたくさんありました」
「図書館だからねえ」
「それから……」
シアは袋から利用登録用紙を取り出した。
「本を借りられるようにしたいんです。勤務先の店主の署名が必要だそうで、お願いしてもいいですか?」
マルタは用紙を受け取った。
「もちろん」
厨房から出てきたオットーも紙を見る。
「何借りるんだ?」
「まだ決めていません」
「帳簿か?」
「今日は帳簿の本も読みました」
「やっぱり仕事してるじゃないか」
「でも、旅行記も読みました」
シアは少し胸を張った。
「遠い北の湖について書かれた本です」
マルタが笑う。
「ちゃんと仕事じゃない本も読めたんだ」
「はい。それから、小さなお店を紹介する本も読みました」
「それは仕事じゃねえのか?」
オットーに聞かれ、シアは少し考えた。
「……半分くらいでしょうか」
「結局仕事じゃないか」
「でも、面白かったです」
マルタが署名欄を確認する。
「名前はシアでいいんだね?」
「はい」
迷わず答えた。
「家名がなくても登録できるそうです。《麦穂亭》で働いていることを確認できれば大丈夫だと言われました」
「じゃあ、書いとくよ」
「ありがとうございます」
マルタが署名する。
その筆先を見つめながら、シアは胸の奥に小さな喜びが広がるのを感じた。
明日、この紙を持っていけばいい。
次からは本を借りられる。
「明日行くのか?」
オットーが聞く。
「いいえ」
「珍しいな」
「明日は仕事ですから」
「仕事のあとなら行けるだろ」
シアは少し驚いてオットーを見る。
「行ってもいいんですか?」
「仕事終わってんなら好きにしろ」
あまりにも当然のように言われ、シアは瞬きをした。
仕事が終わったあとの時間。
自分の時間。
それも、まだ完全には身についていない感覚だった。
「……では、閉館時間を確認してみます」
「そうしな」
マルタが用紙を返してくれる。
「今日は疲れた?」
シアは自分の身体を確かめた。
足は少し重い。
目も、本を長く読んだせいか少し疲れている。
「少し疲れました。でも、楽しかったです」
「なら夕食食べて、今日は早めに休みな」
「はい」
素直に頷いた。
夕食の席では、図書館で読んだ本の話をした。
北の湖のこと。
冬には山が白くなること。
湖畔では魚料理が有名なこと。
港町の菓子店や山間の仕立屋について書かれた本のこと。
マルタは興味深そうに聞き、オットーはパン屋の話が出てこなかったことに少し不満そうだった。
「パン屋はなかったのか」
「今日読んだところにはありませんでした」
「なら次探せ」
「探してみます」
「結局仕事の本になるじゃない」
マルタに言われ、三人で笑った。
食事を終えたあと、シアは自室へ戻った。
机の上には、昨日まで置いていた小さな予定の紙がある。
――休み。王立図書館へ行く。
シアはその文字を見つめ、ゆっくり線を引いた。
予定が終わったからだ。
けれど、その下へ新しい言葉を書き加える。
――また行きたい。
さらに少し考え、
――次は本を借りる。
と続けた。
それから、もう一つ。
――いつか、知らない町にも行ってみたい。
書き終えてから、シアは少しだけ恥ずかしくなった。
すぐに行く予定などない。
どこへ行きたいのかも決まっていない。
それでも、消そうとは思わなかった。
未来の予定は、必ず実行すると決まっていることだけを書くものではないのかもしれない。
やってみたい。
行ってみたい。
読んでみたい。
食べてみたい。
会いたい。
そういう小さな希望を残しておく場所があってもいい。
シアは紙を畳まず、机の上へ置いた。
窓の外には、夜の街が広がっている。
この街へ着いた日、彼女にとってアルヴェイン公爵領は、ただベルフォード家から遠い場所だった。
見つかりにくい場所。
逃げ切るための場所。
それだけだった。
けれど今では違う。
《麦穂亭》がある。
友達がいる。
好きな果実茶を売る店がある。
自分で選んだ櫛を買った広場がある。
そして今日、新しく王立図書館という場所が加わった。
(知らない場所が、少しずつ私の知っている場所になっていく)
それは、逃げてきた街が暮らす街へ変わっていくことなのかもしれない。
シアは麦穂模様の櫛を机の上へ置き、髪をほどいた。
明日は仕事。
いつもの朝が始まる。
けれど、その先には仕事だけではない時間もある。
また図書館へ行く日も、ミレイユと出かける日も、自分一人で知らない店へ入る日もあるだろう。
そんな未来を考えられることが、今は嬉しかった。
「次は、何を読もうかな」
小さく呟きながら、シアは利用登録用紙を大切に机の端へ置いた。
答えはまだ決めなくていい。
棚の前に立って、そのとき気になった本を選べばいい。
誰かの役に立つためではなく、自分が知りたいと思ったから読む本を。
明かりを落として寝台へ入ったあとも、シアの頭には高い本棚と、まだ開いていない無数の本が浮かんでいた。
明日からの仕事も楽しみだった。
けれど今夜は、それと同じくらい、次の休みが来ることも楽しみだった。




