第33話 私の時間を、私が決める
王立図書館へ出かけた翌朝、《麦穂亭》の厨房にはいつも通り、焼き上がったパンと温めた窯の匂いが満ちていた。
祭りの余韻が街から完全に消えたわけではなく、店先を通る人々の会話にはまだ露店や催し物の話が混じっている。しかし店の仕事そのものは、ようやく普段の流れへ戻りつつあった。壁に掛けられた注文表から祭り用の札が消え、騎士団への注文も通常の四十個に戻ったことで、厨房に漂う忙しさにも以前の規則正しさが戻っている。
シアは作業台の前で丸パンの生地を整えながら、指先へ伝わる柔らかさを確かめていた。
押しすぎない。
形を気にするあまり、何度も触り直さない。
オットーから繰り返し教えられたことを意識しながら、ひとつずつ天板へ並べていく。
「前より早くなったな」
隣の作業台で別の生地を扱っていたオットーが、こちらを見ずに言った。
「ありがとうございます」
「ただし、早くなったからって数を勝手に増やすなよ」
「……分かっています」
「今、ちょっと間があったな」
「昨日休んだので、今日はもう少しできるかもしれないと思っただけです」
「それを勝手に増やすって言うんだ」
低い声で返され、シアは思わず口元を緩めた。
以前なら、できるかもしれないと思えば黙ってやっていただろう。
疲れていても、頼まれていなくても、できることを残しておく方が悪いと思っていた。
今は違う。
「では、増やしたくなったら先に聞きます」
「ああ。それならいい」
今日シアに任されているのは二十個だった。
祭りの朝と同じ数ではあるものの、あの日のような張り詰めた忙しさはない。十六個目まで整えたところで一度指を開閉してみると、痛みも強い疲れも感じなかった。
(昨日、休んだからかな)
図書館ではかなり歩いたし、長い時間本も読んだ。
それでも、厨房で一日働くのとは身体の使い方が違う。
休みとは、何もしないことだけを指すわけではないらしい。
自分がしたいことをして過ごしても、仕事から離れていれば身体や気持ちの使い方は変わる。
最後の生地を整え終えると、シアは手を洗った。
「二十個、終わりました」
オットーが天板を見る。
「悪くない。右端の二つだけ、少し締めすぎだ」
「どれですか?」
「これとこれ」
指された二つを見比べる。
自分ではほとんど同じに見えた。
「直した方がいいですか?」
「いや。今触ったら余計悪くなる」
「……では、このままにします」
「それでいい」
直したくなる気持ちを抑え、天板から離れる。
失敗ではない。
完璧でもない。
その間にあるものを、そのまま受け入れることにも少しずつ慣れてきた。
「シアー、ちょっと来てくれる?」
店の方からマルタの声が聞こえた。
「はい」
手を拭いて売り場へ向かう。
朝の混雑は一段落しており、会計台の前には客が一人いるだけだった。いつも黒麦パンを買うハロルドで、紙袋を受け取ったところらしい。
「おはよう、シアちゃん」
「おはようございます、ハロルドさん」
「祭りは楽しめたかい?」
「はい。友達と歩きました」
「それはよかった。若いんだから、働いてばっかりじゃいかんよ」
ハロルドは満足そうに頷く。
「はい。最近は、休むことも覚えています」
「そりゃ結構」
笑いながら店を出ていく背中を見送り、シアはマルタへ向き直った。
「何でしょう?」
「これ」
マルタが会計台へ一枚の紙を置く。
見覚えのある紙だった。
王立図書館の利用登録用紙。
昨夜マルタに署名してもらったものだ。
「昨日、書いたところ以外も確認しておいたよ。店の所在地と、あたしの名前。これで大丈夫だと思う」
「ありがとうございます」
受け取って確認する。
名前の欄には、自分で書いた「シア」。
勤務先には《麦穂亭》。
そして保証人の欄には、マルタの署名。
紙の上に並んだ文字を見ていると、不思議な感覚があった。
どれも今の自分を示している。
「今日、持っていく?」
「今日ですか?」
「仕事が終わってから行きたいって昨日言ってただろ?」
「閉館時間を確認してから、と……」
「確認したよ」
「え?」
「朝、パンを買いに来たお客さんが図書館の近くで働いてるっていうから聞いた。今日は日が沈む少し前まで開いてるってさ」
シアは用紙から顔を上げた。
「聞いてくださったんですか?」
「ついでだよ、ついで」
マルタは何でもないことのように言う。
「今日のシアの仕事なら、午後の片づけまでやっても十分間に合うと思う。もちろん、行きたくなければ別の日でもいいけどね」
行きたい。
そう思った。
しかし同時に、頭の中では今日の残りの仕事が並び始める。
帳簿の確認。
明日の《銀鹿亭》への注文数。
在庫の確認。
売り場の片づけ。
それらを終えてからなら行けるだろうか。
「……行ってもいいですか?」
「だから、いいって言ってるだろう?」
「いえ、そうではなくて」
シアは自分の言葉を探した。
「仕事を途中で残して行くのではなく、今日の私の分が終わったら、行きたいです」
マルタは少しだけ目を細めた。
「うん。それでいいよ」
「ありがとうございます」
「ただし、図書館へ行きたいからって、昼休み削って仕事を前倒ししたら駄目だからね」
考えかけていたことを見抜かれ、シアは口を閉じる。
「……しません」
「今考えたね?」
「少しだけです」
「まったく」
呆れながらも、マルタは笑っていた。
シアも利用登録用紙を大切に折り畳む。
仕事のあとに、自分の予定がある。
そのために仕事を急ぐのではなく、決められた仕事を終え、そのあと自分の時間を使う。
(できるかな)
少しだけ不安がある。
けれど昨日、自分は一日休んだ。
店は問題なく動いていた。
祭りの日にも途中で仕事を終えて出かけた。
あの日も《麦穂亭》は、自分がいなくなったあとも営業を続けた。
なら今日も、きっと同じだ。
◇
昼前、店に見覚えのある赤茶色の髪が現れた。
「こんにちはー。蜂蜜パンある?」
「ありますよ」
シアが答えると、ミレイユは嬉しそうに売り場へ近づいた。
今日は勤務中らしく、濃紺の騎士服姿だ。腰には剣を下げているが、シアの視線は一度そこを通っただけで、すぐにミレイユの顔へ戻った。
「三つください」
「今日は最初から三つなんですね」
「学習したから」
「何をですか?」
「二つって言ってから三つに増やすと、シアに笑われる」
「笑ってはいません」
「絶対ちょっと笑ってる」
ミレイユが財布を取り出している間に、シアは蜂蜜パンを三つ袋へ入れた。
「昨日、図書館行った?」
「はい」
「どうだった?」
「とても楽しかったです」
シアが迷わず答えると、ミレイユの表情が少し変わった。
驚いたというより、嬉しそうだった。
「へえ。何読んだの?」
「最初は小さな商店の帳簿についての本を読みました」
「やっぱり」
「でも、そのあと旅行記も読みました」
「おお」
「北の方にある湖について書かれていました。冬には周囲の山が雪で白くなって、春になると雪解け水が湖へ流れ込むそうです」
話しながら、昨日読んだ景色が頭へ浮かぶ。
「湖の近くでは魚料理が有名で、夏には船で向こう岸まで渡れるそうです。それから、いろいろな街の小さなお店を紹介する本も読みました」
「ずいぶん読んだね」
「途中で目が疲れました」
「ちゃんとやめた?」
「はい。また行けばいいと思ったので」
ミレイユが少し目を丸くしたあと、笑った。
「それ、すごい進歩じゃない?」
「そうでしょうか」
「前のシアなら、閉館まで全部読もうとした気がする」
「……私も、そう思います」
否定できない。
シアは会計を済ませ、袋を渡す。
「それで、利用登録もすることにしました」
「本借りるの?」
「はい。今日、仕事が終わったら登録用紙を持っていこうと思っています」
「今日も行くんだ」
「少しだけです。登録をして、本を一冊選べたら」
「二冊借りられるんじゃない?」
「どうして知っているんですか?」
「私も登録してるから」
「料理の本を借りるためですか?」
「なんでそこに戻るの?」
ミレイユが眉を寄せる。
「騎士団の調べ物でも使うし、普通に本を借りることもあるよ」
「どんな本を借りるんですか?」
「剣術とか、騎士の記録とか……あと、料理」
「やっぱり料理も」
「悪い?」
「いいえ」
シアは少し笑った。
「今度、おすすめを教えてください」
「いいよ。肉を上手に焼く本とか」
「本当に肉が好きなんですね」
「好きだよ。シアが林檎好きなのと同じ」
言われて納得する。
「確かにそうですね」
「で、今日は何借りるの?」
「まだ決めていません」
「じゃあ昨日と同じだ。棚見て決めればいい」
「はい。そのつもりです」
自分の口から自然にそう言えた。
役に立つものを探さなければ。
必要なものを選ばなければ。
そう考えなくてもいい。
「仕事終わるの何時くらい?」
「いつも通りなら、午後の片づけが終わってからです」
「急いで終わらせたりしない?」
「マルタさんにも同じことを言われました」
「信用ないなあ」
「……自覚はあります」
シアが答えると、ミレイユは声を立てて笑った。
その声につられて、会計台の奥にいたマルタも笑っている。
「じゃあ、私は戻るね」
「はい。お仕事、気をつけて」
「シアも。図書館で閉館まで粘らないように」
「しません」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切ろうよ」
笑いながら出ていくミレイユを見送り、シアは小さく息を吐いた。
楽しい。
ほんの短い会話だった。
それでも、仕事の途中に友達が店へ来て、自分の休みの話をする。
そんな日常が、少しずつ当たり前になっていた。
◇
午後になると、《麦穂亭》の客足は落ち着いた。
シアは明日の注文表を確認し、《銀鹿亭》へ届ける白パン三十個と朝の丸パン二十個を別欄へ記入する。騎士団への定期注文がある日なので、四十個分も重ならないよう作業順を確認した。
以前なら、そこからさらに翌々日の注文まで確認し始めていたかもしれない。
今日は手を止めた。
(今日、確認する必要があるのはここまで)
帳簿を閉じる。
次に売り場の在庫を数えた。
丸パン十二。
黒麦パン六。
胡桃パン五。
白パン八。
蜂蜜パン四。
夕方の客足を考えれば、追加で焼く必要はない。
マルタへ報告すると、「分かった」と返ってきた。
「それで終わり?」
「会計台の周りを片づけます」
「それはやっていい」
「はい」
布巾で台を拭き、釣り銭を確認する。
床に落ちていた小さな紙片を拾い、屑籠へ入れた。
そのあと、何か残っていないか周囲を見回す。
厨房からパン生地を叩く音が聞こえる。
オットーはまだ働いている。
マルタも店にいる。
自分だけ帰っていいのだろうかという感覚が、胸の奥から顔を出した。
(私の仕事は終わった)
そう考えても、足はすぐには動かなかった。
マルタが気づいた。
「どうしたの?」
「……何か、ほかにありますか?」
「ないよ」
「でも、オットーさんはまだ仕事をしています」
「そりゃ店主だからね」
「マルタさんも」
「あたしも店主だから」
あまりにも簡単に返される。
シアは会計台の端へ指を置いた。
「私だけ先に終わっても、いいんでしょうか」
マルタはすぐには答えなかった。
少し考えてから、シアの正面に立つ。
「シア。前にも言ったけど、働く人みんなが同じ時間に仕事を終える必要はないんだよ。役割が違えば、始まる時間も終わる時間も違う」
「はい」
「オットーは明日の仕込みがある。あたしは店を閉めるまでいる。でも、それはあたしたちの仕事。シアが残ったからって、オットーの仕事がなくなるわけじゃないし、店を早く閉められるわけでもない」
シアは黙って聞いた。
「逆に、シアの仕事が多い日にあたしが先に休むことだってある。誰かが働いてるから自分も働かなきゃいけないんじゃなくて、自分の仕事が何かを見て決めるんだよ」
「自分の仕事……」
「そう。それに今日は、仕事のあとに予定があるんだろ?」
「はい」
「なら行きな。仕事が終わったあとまで店に縛りつけるつもりはないよ」
縛りつける。
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ベルフォード家では、仕事が終わるという感覚そのものが曖昧だった。
頼まれればやる。
呼ばれれば行く。
夜でも、食事中でも、自分の予定があっても関係なかった。
そもそも、自分の予定というものがほとんど存在しなかった。
(だから、分からないんだ)
仕事が終わったあとに自分の時間があることを、頭では理解していても身体がまだ覚えていない。
「……練習します」
シアは言った。
「仕事が終わったら、帰る練習を」
「住み込みだから帰る場所もここだけどね」
「……確かに」
二人で笑う。
厨房からオットーの声が飛んできた。
「シア、まだいたのか?」
「今、帰るところです」
「図書館行くんだろ。暗くなるぞ」
「はい」
シアは自室へ上がり、仕事着から外出用の服へ着替えた。
昨日と同じ生成りのブラウスと濃い茶色のスカート。
髪を整えるときには、麦穂模様の櫛を使った。
空色のリボンも結ぶ。
利用登録用紙と財布を袋へ入れ、階下へ戻った。
店にはまだ客がいた。
マルタが対応している。
厨房ではオットーが働いている。
それでもシアは、入口へ向かった。
「行ってきます」
マルタが客への応対の合間に振り返る。
「行ってらっしゃい」
オットーも厨房から声だけ返した。
「暗くなる前にな」
「はい」
扉を開ける。
昨日とは違う。
今日は朝から休みだったわけではない。
仕事をした。
その仕事を終えてから、自分のために出かける。
外へ一歩踏み出したとき、胸の奥に小さな緊張と、それ以上の嬉しさがあった。
(仕事が終わったあとも、私の時間なんだ)
その当たり前を、自分の足で確かめるように歩き始めた。
◇
王立図書館へ着いた頃には、午後の光がかなり傾いていた。
昨日ほど長くはいられない。
けれど今日は、それでいい。
正面階段を上がり、大きな扉を開ける。
紙と革と木の匂い。
静かな空気。
昨日と同じ場所なのに、二度目というだけで少し親しみを感じた。
受付には昨日と同じ灰色がかった髪の女性がいた。
「こんにちは」
「こんにちは。昨日の方ですね」
「覚えているんですか?」
「初めて来た方は、わりと覚えていますよ」
女性は穏やかに笑った。
「登録ですか?」
「はい」
シアは用紙を差し出した。
女性が内容を確認する。
「勤務先は《麦穂亭》……ああ、パン屋さんですね」
「ご存じですか?」
「何度か買ったことがあります。胡桃パンが好きです」
思わぬところで店の名前を知る人に会い、シアは少し嬉しくなった。
「ありがとうございます」
「あなたが焼いているんですか?」
「私はまだ練習中です。今は丸パンの成形を少しずつ任せてもらっています」
「そうなんですね」
女性はそれ以上詳しく聞かず、用紙へ必要な印を押した。
「登録料が銅貨二枚です」
「はい」
シアは財布から二枚取り出す。
受け取った女性は、小さな木札を用意した。
表には図書館の紋章。
裏には番号と名前が記される。
女性がペンを取る。
「お名前は、シアでよろしいですね?」
ほんの一瞬、胸の奥が静かになった。
けれど迷いはなかった。
「はい。シアです」
女性がその名前を書く。
シア。
短い名前。
逃げるために使い始めた名前。
けれど今は、友達が呼ぶ名前であり、仕事の書類へ記す名前であり、自分が選んだ生活の中で使っている名前だ。
「こちらが利用証です。なくさないようにしてくださいね」
「はい」
木札を受け取る。
指先で文字をなぞることはしなかった。
ただ、しばらく見つめた。
(私の名前)
以前、騎士団との注文書に書かれた「シア」を見たときにも、同じようなことを思った。
あのときよりも今は、その感覚が深い。
「本は二冊まで、十日間です。延長したい場合は期限前に受付へ来てください」
「分かりました」
「今日は借りていきますか?」
「はい。一冊、探してみます」
「ごゆっくり。閉館まではまだ時間がありますよ」
「ありがとうございます」
利用証を袋へ入れ、シアは本棚へ向かった。
◇
昨日読んだ旅行記が気になった。
けれど同じ本を借りるのではなく、今日は別のものを探すことにした。
棚の前をゆっくり歩く。
北方。
南部。
海辺。
山岳地方。
外国の街について書かれたものまである。
一冊ずつ背表紙を読む。
役に立つかどうかは考えない。
自分が気になるかどうか。
それだけを基準にする。
やがて、一冊の本に目が止まった。
『川沿いの町を歩く』
大きな川に沿って点在する町々を旅した記録らしい。
表紙には石橋と小舟が描かれている。
手に取る。
少し厚い。
十日で読めるだろうか。
(全部読めなくても、返せばいい)
そう思えたことに、自分で少し驚いた。
借りたからには必ず最後まで読まなければならない。
以前ならそう考えた。
けれど本は義務ではない。
途中で合わないと思えば返してもいい。
気に入れば最後まで読めばいい。
シアはその本を抱えた。
もう一冊借りられる。
商業書の棚へ向かおうとして、足を止める。
(二冊借りられるからって、二冊借りなくてもいい)
必要だから最大まで使わなければならないわけではない。
今日は一冊で十分だ。
その判断に、妙な満足感があった。
受付へ戻る。
「こちらをお願いします」
「一冊でいいですか?」
「はい」
女性が確認する。
「十日後までです」
「分かりました」
本と利用証を受け取る。
自分で選んだ一冊。
仕事には直接関係ない。
誰かに頼まれたわけでもない。
シアは本を胸元へ抱え、図書館を出た。
◇
外へ出ると、空は夕方の色へ変わり始めていた。
まだ暗くはない。
急げば十分、《麦穂亭》へ戻れる。
けれど、シアは階段を下りたところで立ち止まった。
少し疲れている。
朝から働いたあとにここまで歩き、本棚の間を歩いた。
(休んでから帰ろう)
以前なら、暗くなる前に戻らなければと、そのまま歩き続けただろう。
図書館の前には石造りの低い腰掛けがある。
そこへ座った。
本を膝へ置き、空を見る。
夕暮れの風は冷たい。
けれど、仕事のあとにこうして座っていることが不思議だった。
何かを待っているわけではない。
誰かに命じられたわけでもない。
ただ疲れたから休んでいる。
それだけだ。
「……少し、疲れました」
小さく声に出してみる。
誰も責めない。
当然だった。
しばらく休むと、足の重さが少し軽くなった。
シアは立ち上がり、《麦穂亭》へ向かった。
◇
店へ戻った頃には、ちょうどマルタが表の看板を中へ入れようとしているところだった。
「あ、おかえり」
「ただいま戻りました」
「間に合ったね」
「途中で少し休んだので、思ったより遅くなりました」
「休んだならいいよ」
シアは持っている本を見せた。
「借りられました」
「登録できた?」
「はい」
袋から木札を取り出す。
「これが利用証です」
マルタが覗き込む。
「シアって書いてあるね」
「はい」
「嬉しそう」
指摘され、シアは利用証を見る。
「……嬉しいです」
素直に認めた。
「この名前で、借りられました」
マルタは何も詳しく聞かなかった。
シアが過去を話していないことを知っている。
それでも、今の名前を大切にしていることだけは分かっているのだろう。
「よかったね」
「はい」
厨房からオットーが出てくる。
「何借りた?」
「旅行記です」
「パンの本じゃないのか」
「今日は違います」
「成長したな」
「どういう意味ですか?」
「仕事以外の本借りてきたんだろ」
シアは少し考え、それから笑った。
「そうですね。成長したのかもしれません」
夕食まで少し時間がある。
シアは自室へ本を置きに行こうとして、階段の前で止まった。
「マルタさん」
「何?」
「明日の仕事について、一つ確認してもいいですか?」
「いいよ」
「騎士団への配達は私が行く予定ですよね」
「そのつもりだけど」
「分かりました。それだけです」
マルタが不思議そうに見る。
「図書館行ったあとまで仕事の確認?」
「いえ」
シアは首を振る。
「明日の予定を確認したかっただけです。今から何か準備しようとは思っていません」
「ならよし」
「本を読みたいので」
そう言った瞬間、自分でも少し驚いた。
仕事の準備より、本を読みたい。
以前なら口にすることさえできなかっただろう。
マルタは嬉しそうに笑った。
「夕飯まで読んできな」
「はい」
自室へ上がる。
窓際の椅子へ座り、借りてきた本を開く。
最初の町は、大きな川に架かる古い石橋で知られているらしい。
頁を読み始める。
階下から店じまいの音が聞こえる。
オットーとマルタはまだ働いている。
けれどシアは立ち上がらなかった。
自分の仕事は終わった。
今は、自分の時間だ。
◇
その夜、シアが本を閉じたのは、夕食を終えてからしばらく経った頃だった。
読み進めたのは全体の五分の一ほど。
まだ先は長い。
それでも急ぐ必要はない。
十日ある。
疲れたら途中でやめてもいい。
机の端には図書館の利用証が置かれている。
その横には麦穂模様の櫛。
空色のリボン。
自分で選んだものが少しずつ増えていた。
シアは予定を書いている紙を取り出した。
昨日書いた言葉がある。
――また行きたい。
――次は本を借りる。
その二つに、小さく線を引く。
もう叶った。
思っていたより早かった。
その下に新しく書く。
――借りた本を、自分のペースで読む。
書いてから、少し考えた。
期限までに読む、ではない。
全部読む、でもない。
自分のペースで読む。
それでいい。
(自分の時間も、自分で決めていい)
仕事をする時間。
休む時間。
友達と過ごす時間。
一人で歩く時間。
本を読む時間。
それらは誰かから余ったものを与えてもらう時間ではない。
自分の生活の一部だ。
そのことを理解するまで、ずいぶん時間がかかった。
けれど、急いで全部できるようになる必要もないのだろう。
シアは利用証を引き出しへしまおうとして、少し迷った。
そして財布と一緒に持ち歩く袋へ入れる。
また図書館へ行くためだ。
次の休みでなくてもいい。
仕事が早く終わった日。
少し本を見たいと思った日。
自分で行くと決めればいい。
「明日は仕事」
声に出す。
その言葉に重さはなかった。
仕事が嫌なのではない。
むしろ好きだ。
《麦穂亭》で働くことも、帳簿を見ることも、パンを整えることも、客と話すことも好きになっている。
だからこそ、それ以外の時間まで仕事で埋める必要はないのかもしれない。
好きな仕事を、好きなまま続けるためにも。
シアは寝台へ入った。
枕元には借りてきた旅行記を置いてある。
もう少し読みたい気持ちはあった。
しかし、目が少し重い。
(今日はここまで)
そう決めて、明かりを消した。
◇
同じ頃、《麦穂亭》から少し離れた公爵家の屋敷では、レオンハルトが執務室の机へ向かっていた。
祭りに関する報告書はほぼ片づき、残っているのは商人組合から提出された収支の確認と、警備記録の最終整理だけだった。
向かいに立つ家令が、数枚の書類を机へ置く。
「秋穫祭については、大きな事故もなく終了しております。商人側からも概ね好評との報告です」
「警備の負担は?」
「初日が最も大きく、二日目以降は予定範囲内です。騎士団から改善案がいくつか上がっておりますので、来年の計画へ反映できます」
「分かった。まとめておいてくれ」
「承知しました」
家令が退室したあと、レオンハルトは椅子の背へ身体を預けた。
祭りの日に食べた蜂蜜林檎パンを、ふと思い出す。
蜂蜜の甘さのあとに林檎の酸味が残る、小さなパン。
最初は単に新商品だと思っていた。
けれどシアから、「私が林檎を好きだからです」と聞いてから、少し印象が変わった。
彼女自身の好みが、あのパンが作られるきっかけの一つだった。
初めて会った頃のシアなら、自分の好きなものをあんなふうに口にしただろうか。
レオンハルトには分からない。
彼は彼女の過去を知らない。
ただ、初めて見たときより表情が柔らかくなったことは分かる。
(また、考えているな)
自覚すると、少しだけ苦笑した。
気になる相手。
今のところ、それ以上の言葉をつけるつもりはない。
会えば話したいと思う。
店へ行けば、いるかどうかを探してしまう。
以前より笑うようになったことに気づく。
その程度だ。
机へ視線を戻すと、商人組合の資料の中に《麦穂亭》の名前はなかった。
当然だ。
祭りに参加したすべての小さな店が、公爵家へ直接報告を出すわけではない。
だからといって、わざわざ調べる理由もない。
レオンハルトは書類をめくった。
少しして、窓の外へ目を向ける。
街には夜の灯りが増え始めている。
祭りが終わっても、人々の暮らしは続いていく。
店を開ける者。
仕事を終えて帰る者。
家族と食事をする者。
友人と会う者。
それぞれが、自分の時間を過ごしている。
(シアも、今頃は仕事を終えているだろうか)
そう考えてから、レオンハルトは自分の思考に気づいた。
やはり、気になるらしい。
それ以上を考える前に、残っている報告書へ手を伸ばした。
◇
その頃のシアは、レオンハルトが自分のことを考えているなど知るはずもなく、すでに眠りについていた。
枕元には、一冊の旅行記がある。
机の上では、明日の仕事に必要なものではなく、図書館の利用証が月明かりをわずかに受けていた。
逃げるために遠くまで来た彼女の生活には、いつの間にか「仕事のあと」という時間が生まれている。
誰かのために空けておかなければならない時間ではない。
呼ばれたら差し出すための時間でもない。
明日は働く。
その次の日も、きっと働く。
けれど仕事が終われば、その先をどう過ごすかは自分で決められる。
まだ、その自由を使うたびに少し迷う。
それでも今日、シアは仕事を終えた店を自分から出て、図書館へ行き、自分の名前で利用証を作り、自分が読みたいと思った本を一冊だけ借りて帰ってきた。
小さなことばかりだった。
けれど、今の彼女にとっては、その一つ一つが自分の人生を取り戻している証だった。




