第34話 十個だけの蜂蜜林檎パン
王立図書館で利用証を作った翌朝、《麦穂亭》の厨房には、いつもの小麦とは少し違う甘い香りが漂っていた。
作業台の端に置かれた籠には、ローザが届けてくれた林檎が並んでいる。祭りの頃よりわずかに小ぶりなものが多いものの、傷は少なく、皮には艶があり、オットーが一つずつ手に取って確かめても状態に問題はなかった。
「十個なら、これで十分だ」
オットーが選んだ林檎を三つ、作業台へ移す。
シアはその隣で、以前自分がまとめた蜂蜜林檎パンの記録を開いていた。
祭りでは初日に四十個、二日目には三十個を用意し、どちらも売り切れた。
けれど今回は十個だけ。
祭りが終わったあとの普通の日に、どれだけ手に取ってもらえるのかを見るための試し売りだ。
「本当に十個だけでいいんですよね」
シアが確認すると、オットーは林檎を洗いながら頷いた。
「ああ」
「昨日、ニコがまた食べたいと言っていましたし、祭りで買えなかったというお客さんもいました。十五個くらいなら――」
「十個」
「……はい」
オットーの返事に迷いはなかった。
シアもそれ以上は言わず、記録の端へ「十」と書き込んだ。
売れそうだから増やす。
それだけなら簡単だ。
しかし今日確かめたいのは、最大で何個売れるかではない。
通常営業の中へ蜂蜜林檎パンを入れたとき、材料と作業時間をどれだけ使うのか。他のパン作りに影響しないのか。そして祭りという特別な理由がなくても、客が九枚の銅貨を払って選ぶのか。
それを知るための十個だった。
(分かっているのに、増やしたくなるんだな)
自分でも少しおかしくなった。
以前なら、数字を増やしたいというより、求められたものを全部用意しなければならないと思っただろう。
今は違う。
売れるかもしれないから作りたい。
喜んでもらえるかもしれないから増やしたい。
理由は前向きになった。
けれど、前向きな理由であっても、限界を超えてよいわけではない。
「シア」
「はい」
「考えるのはあとだ。今日は林檎の下ごしらえを覚えるんだろ」
「そうでした」
記録を閉じる。
今日、シアが楽しみにしていたのは売れ行きだけではない。
これまで蜂蜜林檎パンの仕込みは主にオットーが行い、シアは材料費の計算や販売、包装を担当していた。祭り前の試作でも味の感想や価格について意見を出したが、林檎そのものの下ごしらえは任されていない。
今日はそこを教えてもらう約束だった。
オットーが包丁を一本置く。
「まず皮だ。薄く剥け」
「はい」
「速さはいらん。実を削りすぎるな」
シアは林檎を手に取った。
料理はできる。
伯爵家にいた頃も、自分の食事を自分で用意することは珍しくなかったし、厨房の手が足りないときには下ごしらえを任されることもあった。
ただ、商品として使う食材を扱うとなれば意味が違う。
自分が食べるだけなら、多少形が崩れても困らない。
店の商品なら、使える量や見た目、火の入り方まで考える必要がある。
包丁の刃を当て、ゆっくり皮を剥いていく。
「そこ、厚い」
「はい」
「今度は薄すぎる。切れるぞ」
「……難しいですね」
「林檎の皮剥きでそんな顔する奴、久しぶりに見た」
「商品に使うと思うと緊張します」
「林檎は逃げん」
思わず笑いそうになり、刃先が少しずれた。
「ほら、笑うからだ」
「オットーさんが笑わせたんです」
「俺のせいにするな」
それでも、一つ目を剥き終える頃には力の入れ方が分かってきた。
オットーが確認し、少し厚く残った部分を指で示す。
「最初ならこんなもんだ。次」
「はい」
二つ目は一つ目より薄く剥けた。
三つ目では途中で皮が長くつながり、シアは少し嬉しくなる。
けれど、最後まで一本につなげようと意識した瞬間、皮が切れた。
「あ……」
「何を目指してる」
「少し、最後までつなげたくなりました」
「遊ぶ余裕が出てきたなら結構だ」
オットーが鼻で笑う。
以前なら、仕事中にそんなことを考えた自分を責めたかもしれない。
けれど今は、少し楽しいと思ったことを、そのまま楽しいと感じられた。
皮を剥いた林檎を切り分け、芯を取り除く。
大きさを揃える理由も教わった。
「大きさが違いすぎると、火の入り方が変わる。小さいのだけ柔らかくなりすぎるからな」
「このくらいですか?」
「もう少し小さくてもいい。ただし細かくしすぎるな。食ったときに林檎だと分からなくなる」
シアは祭りの日に食べた蜂蜜林檎パンを思い出した。
柔らかくなった林檎の食感。
蜂蜜の甘さ。
パンの香ばしさ。
あの味が好きだったから、もう一度作ってみたいと思った。
「私、このパンが好きです」
切りながら口にすると、オットーが鍋を用意しつつ横目で見る。
「知ってる」
「言いましたっけ?」
「何回もな」
「そんなにですか?」
「林檎が好きだ、蜂蜜と合う、また作りたい、普通の日にも売ってみたい。十分聞いた」
並べられると少し恥ずかしい。
「……好きなものについて話しすぎでしょうか」
「別にいいだろ」
オットーは切った林檎を鍋へ入れた。
「売る側が好きじゃないもんを無理に勧めるよりはな」
蜂蜜を加え、弱い火にかける。
甘い香りが少しずつ立ち始めた。
シアは鍋の中を覗き込む。
「ずっと混ぜるんですか?」
「触りすぎると崩れる。焦げないように見ながら、必要なときだけだ」
「パン生地と似ていますね」
「何でも触りゃいいってもんじゃないところはな」
また自分のことを言われている気がする。
「私、そんなに触りすぎますか?」
「最初はな。今はだいぶましだ」
「それならよかったです」
鍋の中で林檎が少しずつ透き通り、蜂蜜を含んで艶を帯びていく。
厨房へ広がる香りに気づいたのか、売り場からマルタが顔を出した。
「始まったね」
「はい。今日は十個です」
「聞いてるよ」
「増やしません」
「まだ誰も言ってないだろう?」
「先に言っておこうと思って」
マルタが笑う。
「成長したのかしてないのか分からないねえ」
「増やさないと分かっているので、成長していると思います」
「自分で言うようにもなったね」
シアも笑った。
鍋の中の林檎が仕上がるまで、オットーから火加減を見るポイントを教わる。香りだけではなく、果汁の出方や木匙を動かしたときの重さも目安になるらしい。
帳簿なら数字を見れば分かる。
けれど厨房の仕事には、数字だけでは測れないものが多い。
シアはそれが面白かった。
◇
林檎を冷ましている間に、通常のパン作りが進んだ。
蜂蜜林檎パンだけを作っているわけではない。
丸パンも、黒麦パンも、胡桃パンも、いつも通り店へ並べなければならない。
だからこそ、十個という数の意味が見えてくる。
林檎を切る時間。
鍋を見る時間。
冷ます場所。
包むための紙。
通常の作業台を使う時間。
祭りのときには事前に専用の時間を作っていたが、普通の日に追加するなら、既存の仕事へどう組み込むかを考えなければならない。
シアは時計代わりの砂時計と厨房の動きを見比べながら、手元の紙へ簡単に記録していった。
「皮剥きと切り分けで……これくらい。煮る時間は待っているだけではないから、その間に別の作業ができますね」
「ただし鍋から離れすぎるな」
「はい。冷ます時間は作業そのものではありませんが、場所を使います」
「そうだな」
「祭りのときは専用に場所を空けていましたけど、普段は毎日それをするのは難しそうです」
オットーが生地を分割しながら頷いた。
「だから十個だ」
「……分かってきました」
「数字だけじゃ分からんだろ」
「はい」
以前なら、その言葉に少し悔しさを感じたかもしれない。
数字が得意であることは、自分にとって数少ない自信だった。
けれど今は、数字で分からないことを教えてもらえるのが嬉しい。
「だから、私が厨房のことも知った方がいいんですね」
「全部できるようになる必要はないぞ」
「はい。全部やるためではなくて、考えるときに知らないままにしないためです」
オットーの手が一瞬止まった。
それから、いつものように短く頷く。
「それならいい」
その返事が、シアには褒められたように聞こえた。
実際に褒めたのかどうかは分からない。
オットーはそういうことをあまり言葉にしない。
それでも、十分だった。
やがて冷ました林檎を生地へ包む作業に入る。
ここでもシアは、最初から十個すべてを任されたわけではない。
「まず二つ」
「二つだけですか?」
「二つやって見せろ」
「はい」
生地を広げる。
林檎を中央へ置く。
欲張って入れすぎれば閉じられないし、少なければ商品として物足りない。
決められた量を置き、生地を寄せる。
一つ目は閉じ目が少し厚くなった。
「ここ、ですね」
「自分で分かるなら次直せ」
二つ目は少し薄くする。
オットーが確認した。
「これならいい。あと三つやれ」
「五つまでですか?」
「今日はな。残りは俺がやる」
「分かりました」
任されなかった五つを残念に思わないわけではない。
けれど、全部やらせてもらえないことと、自分に価値がないことは違う。
今は練習中。
それだけだ。
五つを終えると、オットーが残りを包んでいく。
同じ作業なのに速さが違う。
シアは邪魔にならない位置から手元を見た。
「見て覚えろ。ただし、明日いきなり十個やれると思うなよ」
「はい」
「返事が素直すぎるな」
「少しずつの方が、結果的に長く続けられると分かってきましたから」
オットーがちらりとこちらを見る。
「なら覚えとけ」
「忘れないようにします」
十個の蜂蜜林檎パンが天板へ並んだ。
祭りの日には四十個が並んでいた。
あのときと比べれば少ない。
けれど今日は、この十個がちょうどいい。
◇
焼き上がった蜂蜜林檎パンが店頭へ並んだのは、朝の混雑が落ち着き始めた頃だった。
九枚の銅貨。
価格は祭りのときと同じ。
シアは小さな札に商品名と価格を書き、その下へ「本日十個」とだけ添えた。
限定という言葉で急かしたくはなかった。
今日作った数を、そのまま伝えるためだ。
「並びました」
マルタが一つを眺める。
「見た目は祭りのときと同じだね」
「はい。林檎は少し小ぶりでしたけど、入れる量はオットーさんが調整してくれました」
「シアも包んだんだろ?」
「五つだけです」
「どれ?」
「分かりません」
焼く前なら覚えていた。
けれど天板を動かし、焼き上がったものを並べるうちに混ざってしまった。
マルタが笑う。
「じゃあ、どれを買ってもシアのかもしれないね」
「オットーさんのかもしれません」
「それでいいんだよ」
最初の蜂蜜林檎パンが売れたのは、それから十分ほど後だった。
買ったのは、祭りの日には来ていなかった中年の女性だった。
「これ、林檎が入ってるの?」
「はい。蜂蜜で煮た林檎を包んでいます」
「甘い?」
「蜂蜜の甘さはありますが、林檎の酸味も残っています。かなり甘いものがお好きでしたら、蜂蜜パンの方が甘く感じると思います」
シアは正直に答えた。
売りたいからといって、誰にでも「おすすめです」と言う必要はない。
「じゃあ、一つもらおうかしら」
「ありがとうございます」
一つ目。
シアは売上記録へ印をつけた。
続けて二つ目が売れたのは、昼前だった。
今度は祭りで食べたという若い男性だった。
「これ、祭りのやつですよね?」
「はい。同じものです。ただ、今日は試しに十個だけ作っています」
「また出すんですか?」
「今日の売れ方や、作るときの負担を見てから考える予定です」
「じゃあ今日買っとこう」
男性は一つだけ買っていった。
そのあとしばらく動かなかった。
シアは売り場の奥から蜂蜜林檎パンを見る。
八個残っている。
祭りの日なら、並べた直後から次々と売れた。
今日は違う。
(やっぱり、祭りと普通の日は違う)
分かっていた。
けれど実際に目の前で見ると、数字として記録しただけでは分からない感覚がある。
九枚の銅貨は、丸パンより高い。
普段の朝食や昼食として買うなら、いつものパンを選ぶ人も多い。
祭りでは「せっかくだから」と買ってくれた人もいただろう。
「気になる?」
マルタが尋ねる。
「はい」
「売れないのが?」
「それも少しあります。でも……」
シアは残っている八個を見る。
「面白いです」
「面白い?」
「祭りではあんなに早く売れたのに、今日は二個です。同じパンで、同じ値段なのに、日が違うだけでこんなに変わるんですね」
「そりゃ変わるよ。祭りの日は財布の紐も緩むし、珍しいものを食べたくなるからね」
「普通の日なら、いつものパンを買う人も多い」
「そういうこと」
シアは記録へ時間を書き足した。
「十個にしてよかったです」
自分の口から自然に出た。
マルタが笑う。
「朝は十五個作りたそうだったけど?」
「今は十個でよかったと思っています」
「それが分かれば十分だね」
売れ残るかもしれない。
その可能性を考えても、胸が潰れるような不安はなかった。
失敗すれば怒鳴られる。
損が出れば自分の責任にされる。
そういう場所ではない。
今日は試すために作った。
結果がどうであっても、次を考える材料になる。
オットーが言っていたことを、今は少し実感できる。
◇
昼を過ぎた頃、店の扉が勢いよく開いた。
「こんにちは!」
声だけで誰か分かる。
「ニコ、こんにちは」
「林檎のパンある!?」
靴屋の息子であるニコは、挨拶を終えるより先に売り場を見回した。
蜂蜜林檎パンを見つけると、目を輝かせる。
「あった!」
「今日は十個だけです」
「祭りのと同じ?」
「同じですよ」
「一個ください!」
「九枚の銅貨だけど、大丈夫?」
「持ってきた!」
ニコは小さな財布を開き、銅貨を一枚ずつ会計台へ並べた。
シアは急かさず数える。
九枚。
「ちょうどです」
「やった!」
袋へ一つ入れて渡す。
「ありがとうございます」
「また作る?」
「まだ決めていません」
「えー」
「今日の分がどれくらい売れるか見て、それから考えます」
ニコは少し不満そうだったが、以前のように「絶対作って」とは言わなかった。
「じゃあ、いっぱい売れたらまた作る?」
「いっぱい売れることだけで決めるわけではないんです」
「なんで?」
子どもらしいまっすぐな疑問だった。
シアは少し考える。
「作るのに時間がかかるからです。林檎を切って、蜂蜜で煮て、冷まして、パンの中に入れて焼きます。その間にも、丸パンや黒麦パンを作らないといけません」
「ふうん……」
「だから、たくさん売れても、作るのが大変すぎたら毎日はできません」
「じゃあ、ときどき?」
「それならできるかもしれません」
ニコの表情が明るくなる。
「じゃあ、ときどきでいい!」
「まだ決まっていませんよ」
「でも、ときどきならできるかもしれないんでしょ?」
「……そうですね」
「じゃあ待ってる!」
蜂蜜林檎パンを大切そうに抱え、ニコは店を出ていった。
シアはその背中を見送る。
「ときどき、か」
口にすると、マルタが隣で頷いた。
「毎日じゃなくても商品にはできるからね」
「曜日を決めるとか、林檎が安い時期だけにするとか」
「そういうやり方もある」
「予約は……」
そこまで言って止まる。
祭りのとき、予約を取らなかった理由を思い出した。
「予約にすると、作らなければならない数が先に決まってしまいますね」
「そうだね」
「今はまだ、そこまでしない方がよさそうです」
「自分で分かったならよし」
選択肢は一つではない。
毎日売るか、やめるか。
その二つだけではない。
時々作る。
季節だけ作る。
少量だけ出す。
いろいろ試してから決める。
シアは紙へ「毎日以外も考える」と書き加えた。
◇
午後になって、蜂蜜林檎パンはさらに三つ売れた。
残り四つ。
祭りのときほどの勢いはない。
けれど、まったく売れないわけでもない。
そのうち二人は祭りで食べた客だった。
一人は初めて買った客。
シアは可能な範囲で、どちらなのかも記録した。
そして夕方前。
店の扉が開き、落ち着いた足音が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたシアは、一瞬だけ目を見開いた。
「レオンハルト様」
「ああ」
濃紺の外套を羽織ったレオンハルトが店へ入ってくる。
今日は従者の姿はなく、一人だった。
公爵家の跡取りが小さなパン屋へ一人で現れることにも、以前ほど店内が固まることはなくなった。たまたま居合わせた客が気づいて少し姿勢を正したものの、レオンハルト自身が普段通りにしているため、大きな騒ぎにはならない。
彼はパンの棚を眺め、蜂蜜林檎パンのところで足を止めた。
「また作ったのか」
「はい。今日は試しに十個だけです」
「祭りのときだけではなかったんだな」
「まだ、普段の商品にすると決めたわけではありません」
シアは売上記録へ一度目を落とす。
「普通の日にも買っていただけるか、作る負担が大きすぎないか、それを確かめるために作りました」
「なるほど」
レオンハルトが残っている四つを見る。
「売れ行きは?」
「今のところ六個です」
「祭りより遅い?」
「かなり違います」
シアは正直に答えた。
「でも、それが分かってよかったと思っています。祭りで売り切れたからといって、普通の日にも同じ数を作っていたら、たぶん残っていました」
「それで十個か」
「はい。朝は十五個でもいいんじゃないかと思っていましたけど」
「増やさなかった?」
「オットーさんに止められました」
レオンハルトの口元がわずかに緩む。
「止められたのか」
「はい。でも、今は十個でよかったと思っています」
「なら、止められた甲斐があったな」
「そうですね」
話していると、祭りの日より自然に言葉が出る。
レオンハルトは公爵家の跡取りだ。
その事実は変わらない。
けれど《麦穂亭》へ来た彼は、パンを買う客でもある。
「一つもらおう」
「蜂蜜林檎パンをですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
シアは一つを袋へ入れた。
代金を受け取る。
七個目。
記録へ印をつけようとして、レオンハルトがシアの手元を見た。
「そこまで記録しているのか?」
「今日は試し売りなので。売れた時間と、祭りで食べたことがある方かどうかも、分かる範囲で書いています」
「客全員に聞いているわけではないんだろう?」
「はい。会話の中で分かった場合だけです。わざわざ質問すると、買い物の邪魔になってしまうので」
「そうか」
レオンハルトは小さく頷いた。
その視線が一瞬、シアの髪へ向く。
「その櫛」
「え?」
「祭りで買ったものか?」
シアは髪に差している麦穂模様の櫛へ手を触れた。
「はい」
「気に入ったんだな」
「はい。自分で欲しいと思って買いました」
答えたあと、以前ならその言葉を口にすることさえ少し恥ずかしかっただろうと思う。
今は違う。
「麦穂の模様が、《麦穂亭》みたいで好きなんです」
「似合っている」
「……ありがとうございます」
不意に言われ、指先が櫛の縁で止まった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど、どう返してよいか分からなくなるほどではない。
「レオンハルト様は、祭りで何か買われましたか?」
自然に問い返すことができた。
今度はレオンハルトが少し意外そうな顔をする。
「俺か?」
「はい。お仕事もあったと思いますけど」
「あまり買い物をする時間はなかったな。食べ物はいくつか買った」
「何を食べたんですか?」
「肉串と焼き菓子。それから、ここの林檎パンだ」
「林檎パンも祭りの食べ物に入るんですね」
「祭りの日に買ったからな」
「確かにそうです」
シアが笑うと、レオンハルトもわずかに笑った。
店の奥でその様子を見ていたマルタは、声をかけることなく別の客の袋詰めを続けた。
最初の頃、レオンハルトが店へ来るたびに緊張していたシアはもういない。
身分差を忘れたわけではない。
けれど、必要以上に怯えてもいない。
相手に質問されれば答えるだけだった娘が、今では自分から問い返している。
その変化を、マルタは何も言わずに見守った。
「では、いただいていく」
レオンハルトが袋を持つ。
「はい。ありがとうございました」
「次も作るのか?」
「今日の結果を見てから相談します」
「そうか」
「もし次があっても、取り置きはできないと思います」
祭りのときと同じように告げると、レオンハルトは苦笑した。
「まだ頼んでいない」
「先にお伝えしておこうかと」
「分かった。見つけたときに買う」
「はい」
レオンハルトが店を出る。
扉が閉まったあと、シアは売上記録へ七つ目の印をつけた。
「七個」
呟く。
「そっちなんだねえ」
マルタの声に振り向く。
「何がですか?」
「いや、何でもないよ」
「?」
首を傾げたが、マルタは笑うだけだった。
◇
閉店時刻が近づいた頃、蜂蜜林檎パンは二つ残っていた。
十個中、八個。
シアは売り場に残った二つを見ながら、記録をまとめる。
「八個でした」
オットーが厨房から出てきた。
「そうだな」
「二個、残りました」
「見りゃ分かる」
「……怒らないんですか?」
口にしてから、自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
オットーが眉を寄せる。
「何をだ」
「売れ残ったことを」
「十個作って八個売れた。二個残った。それだけだろ」
「でも、材料費が」
「最初から残る可能性込みで十個にしたんだ」
「はい」
「売り切らなきゃ失敗なら、試し売りにならん」
シアは黙って二つのパンを見る。
分かっていた。
頭では。
けれど実際に商品が残ったとき、胸の奥に古い感覚が浮かんだ。
間違えた。
損を出した。
責められる。
そんな言葉が、反射のように現れた。
(でも、違う)
ここでは違う。
オットーは怒っていない。
マルタも責めていない。
誰も「なぜ全部売らなかった」と言わない。
「八個売れたなら、普通の日でも買う客はいる」
オットーが続ける。
「ただし、祭りみたいに三十も四十も出るわけじゃない。朝から十個全部並べる必要があるかも考えられる。材料の値段次第じゃ、毎回同じ値段で出せるとも限らん」
「はい」
「今日分かったのはそれだ」
シアは記録を見る。
十個作った。
八個売れた。
二個残った。
祭り経験者が少なくとも数人。
初めて買った客もいる。
作業時間。
林檎の下ごしらえ。
通常作業への影響。
書けることがたくさんある。
「失敗じゃ、ないんですね」
「何をもって失敗って言ってる?」
シアは答えに詰まった。
売れ残ったこと。
利益を最大にできなかったこと。
自分の判断が完全ではなかったこと。
以前の自分なら、その全部を失敗と呼んだだろう。
「……全部売れなかったこと、だと思いました」
「なら毎日、閉店までにパン全部売れなきゃ失敗か?」
「それは……違います」
「だろ」
オットーは残った二つの蜂蜜林檎パンを見る。
「一つは明日の朝まで置いて、状態を見る」
「状態?」
「時間が経ったときに林檎の水分が生地へどれくらい移るか。売る時間を考える材料になる」
シアの目が少し大きくなる。
「残ったから、分かることがあるんですね」
「そういうことだ」
「もう一つは?」
「食う」
「……食べるんですか?」
「売らんもんをどうするつもりだ」
あまりにも当然の答えで、シアは笑ってしまった。
「誰が食べますか?」
「お前が食えばいい」
「私ですか?」
「作りたいって言い出したのはお前だろ。今日、自分で五つ包んだんだ。味も見ろ」
「でも、どれが私の包んだものか分かりません」
「別にいい」
マルタが奥から皿を持ってくる。
「三つに切ろう。みんなで食べればいいよ」
「三つに?」
「一人で食べたかった?」
「いえ。一緒に食べたいです」
シアは迷わず答えた。
マルタが蜂蜜林檎パンを三つに切る。
少し不揃いになった。
一番大きなものをオットーへ渡そうとすると、彼は小さい方を取った。
「作った奴が食え」
「オットーさんも作りました」
「いいから」
シアは少し大きな一切れを受け取る。
三人で店奥の卓を囲んだ。
閉店前の静かな時間。
外では帰宅する人々の足音が聞こえる。
シアは蜂蜜林檎パンを一口食べた。
祭りのときと同じ味。
けれど今日は、自分で林檎の皮を剥き、切り、煮るところを見て、生地へ包んだ。
「……おいしいです」
「そりゃよかった」
オットーも食べる。
マルタは林檎の部分を味わいながら考えるように頷いた。
「普通の日に毎日出すには、ちょっと手がかかるかねえ」
「私もそう思います」
シアは記録を思い出す。
「でも、今日八個売れました。だから、たとえば林檎の値段が安定している時期に、週に一度か二度だけ少量を出すのはどうでしょう」
「曜日を決める?」
「最初から固定しなくてもいいと思います。ローザさんから林檎の値段を聞いて、オットーさんが厨房の予定を見て、作れそうな日に出す。それを何回か続けてから、決めてもいいかと」
オットーがパンを食べ終える。
「悪くない」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、お前が林檎を仕込めるようになれば少し負担は減る」
「覚えます」
「一気に覚えるなよ」
「……はい。少しずつ覚えます」
マルタが笑った。
「そこまで言えるようになったなら大丈夫そうだね」
シアは残りのパンを食べる。
売れ残った一個。
以前なら、それを損失の証のように感じたかもしれない。
今は違う。
今日の結果を三人で食べている。
もう一個は明日、時間が経った状態を確かめるために残す。
何一つ、無駄になっていない。
(失敗じゃなくて、情報になる)
以前オットーに言われた言葉が、ようやく自分の中へ落ちた気がした。
◇
閉店後、シアは今日の記録を整理した。
作った数、十個。
販売数、八個。
試食、ひとつ。
翌日状態確認、一つ。
祭りの日より販売速度は遅い。
通常日でも需要あり。
林檎の下処理に時間が必要。
通常商品の作業との調整が必要。
少量・不定期販売を候補とする。
林檎の価格を確認する。
シア自身も下処理と包み方を練習する。
最後まで書いてから、紙の下に小さく一文を加えた。
――売り切れなくても、分かることがある。
仕事の記録として必要な言葉ではない。
けれど今の自分には、残しておきたかった。
紙を閉じ、自室へ戻る。
机には図書館から借りた旅行記が置かれていた。
昨日は川沿いの最初の町まで読んだ。
今日は続きを読みたい。
けれど、その前に身体の状態を確かめる。
指を開閉する。
林檎を切り、パンを包み、売り場でも働いた。
少し疲れている。
痛みはない。
「今日は……少しだけ読もう」
無理に頁数を決めない。
椅子へ座り、旅行記を開く。
川沿いの町では、週に一度、大きな市場が開くらしい。
周辺の村から野菜や果物が集まり、普段は扱わない菓子や料理も並ぶという。
シアの視線が、その記述で止まった。
(週に一度)
昼間話していた蜂蜜林檎パンのことを思い出す。
毎日でなくてもいい。
決まった日だけ作るものがあってもいい。
仕事と旅行記が、思わぬところでつながった。
「……面白い」
小さく呟く。
図書館へ行ったことも。
本を借りたことも。
蜂蜜林檎パンを十個だけ作ったことも。
今日二個残ったことも。
全部、やってみなければ分からなかった。
失敗しないように、最初から正しい答えを選ばなければならないと思っていた頃には、こんな考え方はできなかった。
シアは頁をめくる。
すぐに答えを決めなくてもいい。
試してみる。
違えば直す。
疲れたら休む。
分からなければ聞く。
そして、自分が好きだと思ったものなら、もう一度やってみてもいい。
それは仕事でも、暮らしでも同じなのかもしれない。
数頁読んだところで目に疲れを感じ、シアは本を閉じた。
「今日はここまで」
声に出して決める。
読み終えていない。
けれど、それでいい。
蜂蜜林檎パンも、今日だけですべてを決めなかった。
本も同じだ。
明日には明日の続きがある。
シアは寝台へ入り、明かりを落とした。
甘く煮た林檎の香りが、まだわずかに髪へ残っている気がする。
十個作って、八個売れた。
たったそれだけの数字から、今日はずいぶん多くのことを知った。
そして何より、自分が作りたいと言ったパンを、自分の手で少し作れたことが嬉しかった。
次に作る日がいつになるかは、まだ決まっていない。
だからこそ、次に作るときには今日より少し上手になりたい。
そう思いながら、シアは静かに目を閉じた。




