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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第35話 残った一個が教えてくれたこと


 翌朝、《麦穂亭》の厨房には、まだ街が目覚めきらないうちから小麦の香りが広がっていた。


 窓の外では荷馬車が石畳を通り、車輪の軋む音が遠ざかっていく。秋穫祭が終わってから数日が過ぎ、街は普段の落ち着きを取り戻していたが、朝の市場へ向かう商人たちの足取りだけは相変わらず忙しそうだった。


 シアは厨房の作業台を拭き終えると、棚の上に置かれた小さな包みへ目を向けた。


 昨日、十個だけ作った蜂蜜林檎パン。


 八個が売れ、一個は三人で味見をした。そして最後の一個は、翌朝まで置いたときに状態がどう変わるかを確かめるため、オットーが保存しておいたものだった。


「気になるか」


 背後から声をかけられ、シアは振り返った。


「はい。昨日から少し楽しみにしていました」


「売れ残ったパンを見るのが楽しみとは、変わった奴だな」


「昨日のままなのか、変わっているのか、気になりますから」


 オットーは短く笑い、手を洗ってから包みを作業台へ移した。


「なら、見てみろ。ただし、昨日と同じ条件で保存した場合の話だ。暑い日も寒い日も同じになるとは限らんぞ」


「はい」


 シアは包みを開いた。


 見た目は昨日とほとんど変わらない。焼き色も綺麗に残っているし、表面が極端に湿っている様子もなかった。


 けれど、指先で軽く触れると違いが分かった。


「少し、柔らかくなっていますね」


「どの辺りだ」


「林檎が入っているところの近くです。外側は昨日とあまり変わりませんけど、中央が少し……」


 言葉を探しながら、シアは生地の状態を確かめる。


「しっとりしています」


「そうだな。切ってみろ」


 オットーから小さな包丁を受け取り、パンを二つに切り分けた。


 断面には、蜂蜜を含んだ林檎が見える。


 その周囲の生地は、昨日よりわずかに色が濃くなっていた。


「林檎の水分が移ったんでしょうか」


「そう考えていい。ただ、これだけで悪くなったと決めるな。食感が変わっただけかもしれん」


 オットーは片方を手に取り、断面を確認する。


「匂いは?」


「蜂蜜と林檎の香りがします。昨日より少し弱い気がしますけど……」


「気のせいかもしれんな。そこは無理に決めなくていい」


「はい」


 シアは記録用の紙を持ってきた。


 昨日の販売数の下へ、保存後の状態を書き加える。


 外側の変化は小さい。


 林檎の周囲はややしっとりしている。


 香りの違いは不確か。


 記録しながら、ふと手が止まった。


「オットーさん。これ、食べて確認してもいいんでしょうか」


「状態を見て問題がなさそうならな。昨日から保存方法も決めておいたし、今日は味も確かめるつもりだった」


「分かりました」


 オットーは保存していた時間と場所を改めて確認してから、小さく切り分けたパンを口へ運んだ。


 しばらく噛み、飲み込んでから頷く。


「昨日より生地が少し重いな。林檎の周りは柔らかくなってるが、味は悪くない」


 シアも一切れ受け取った。


 口に含むと、昨日とは違う食感があった。


 焼きたてのときは生地の軽さと林檎の柔らかさがはっきり分かれていたのに、今は境目が少し曖昧になっている。


「……私は、昨日の方が好きです」


 考えてから、そう答えた。


「そうか」


「でも、今日の方が好きな人もいるかもしれません。柔らかいパンが好きな方なら、こちらの方が食べやすそうです」


「それはあるな」


 オットーは残りの断面を見た。


「ただし、客に翌日まで置いて食べてもらうつもりなら、保存方法や品質をもっと確かめる必要がある。今日一回見ただけじゃ、売り方までは決められん」


「はい。今日の結果だけで決めないようにします」


 シアは記録へ「翌日販売の可否は未判断」と書いた。


 昨日のうちに全部売れていたら、この違いには気づかなかった。


 残ったからこそ、知ることができた。


(売れ残ったものにも、役割があったんだ)


 そう考えると、昨日少しだけ胸に残っていた不安が薄れていく。


 失敗しなかったから安心したのではない。


 結果が予定通りでなくても、次へつながるものを見つけられたからだった。


     ◇


 朝の営業が始まると、厨房の落ち着いた空気は一変した。


 丸パンを求める客が続き、出勤前らしい職人たちが次々と店へ入ってくる。焼きたてのパンが棚へ運ばれるたびに香りが広がり、マルタの明るい声が会計台の向こうから聞こえてきた。


 シアはいつも通り売り場へ立ち、注文を受けながら釣り銭を渡していく。


「丸パンを四つと、胡桃パンを二つお願いします」


「ありがとうございます。丸パンが銅貨五枚ずつ、胡桃パンが六枚ずつですので、全部で三十二枚になります」


 客から銅貨を受け取り、数を確認する。


 会計を終えたところで、次の客が棚の端を見ながら尋ねた。


「昨日、林檎のパンがあったって聞いたんだけど」


 シアは顔を上げた。


 初めて見る若い女性だった。


「はい。昨日は試しに十個だけ作りました」


「今日はないの?」


「申し訳ありません。今日は作っていないんです」


「そうなんだ。昨日、母が買って帰ってきて、おいしかったって言ってたから」


 女性は少し残念そうに棚を見た。


「また作る予定は?」


「まだ日程は決まっていません。ただ、昨日の結果を見て、少量ずつ作る方法を考えているところです」


「じゃあ、また来たときにあったら買ってみるわ」


「ありがとうございます」


 女性は代わりに蜂蜜パンを二つ買っていった。


 シアはその背中を見送ったあと、会計台の下に置いた小さな紙へ一つ印をつける。


 蜂蜜林檎パンについての問い合わせ、一件。


 昨日買った本人ではなく、家族から話を聞いて来た客。


 これも記録しておきたいことだった。


 しかし、次の客が入ってきたため、そこで筆を置いた。


 記録より接客が先だ。


 今すぐ詳しく書かなければ忘れてしまうような内容ではないし、必要ならあとで整理すればいい。


「いらっしゃいませ」


 シアは笑顔で客を迎えた。


 その様子を横で見ていたマルタは、何も言わずに釣り銭用の銅貨を補充する。


 以前のシアなら、気になったことをその場で全部書き留めようとしたかもしれない。


 今は、仕事の順番を自分で考えている。


 それもまた、店で働くようになってから身についた変化だった。


     ◇


 昼前になると、ローザが店へ顔を出した。


 腕には野菜の入った籠を抱え、いつものように元気な声で挨拶する。


「おはよう、シアちゃん。昨日の林檎、どうだった?」


「おはようございます、ローザさん。十個作って、八個売れました」


「へえ、なかなかじゃないか」


「ありがとうございます。でも、祭りの日とは売れ方がかなり違いました」


「そりゃそうだろうね。祭りの日はみんな、いつもより財布の紐が緩くなるから」


 ローザは笑いながら籠を床へ置いた。


「で、また作るのかい?」


「そのことで、少し聞きたいことがあるんです」


「何だい?」


 シアは会計台から一歩出て、ローザの近くへ移動した。


「昨日いただいた林檎は、少し小ぶりでしたよね。あの大きさのものは、今後も同じくらいの値段で仕入れられますか?」


 ローザはすぐに答えず、少し考えた。


「今のところはね。ただ、秋の終わりに近づけば変わるよ。大きさだけじゃなく、品種や保存状態でも値段が違うから」


「そうなんですね」


「昨日の林檎は、見た目が少し小さいだけで味はいいやつだった。でも、いつでも同じものがあるとは限らない」


 シアは頷く。


「では、同じ値段で作り続けられるとは考えない方がいいですね」


「そういうこと。安いときもあれば、高いときもある」


「もし、また十個くらい作るとしたら、前もって相談してもいいですか?」


「もちろん。こっちも数が分かれば用意しやすいからね」


 ローザは籠の中から小さな林檎を一つ取り出した。


「それと、昨日のとは別に、こういうのもあるよ。酸味が少し強いけど、煮ると香りがいい」


 シアは受け取らず、まず値段を尋ねた。


「昨日のものより高いですか?」


「少しだけね。でも、量をまとめるなら相談できるよ」


「ありがとうございます。オットーさんとマルタさんに聞いてから、また相談します」


「うん。それがいい」


 ローザは満足そうに頷いた。


 以前のシアなら、少しでも安く買える可能性があると分かれば、その場で細かく条件を詰めようとしたかもしれない。


 けれど今は、店の仕入れを自分一人で決める立場ではないと理解している。


 必要な情報を集めることと、最終的に決めることは違う。


 それを区別できるようになったのも、《麦穂亭》で働くうちに学んだことだった。


「そういえば、シアちゃん」


「はい?」


「この前、祭りで買った櫛、使ってるんだね」


 ローザの視線が、シアの髪へ向いた。


 麦穂模様の木製の櫛。


 今日は空色のリボンと一緒に使っている。


「はい。気に入っています」


「似合ってるよ。あんた、前より表情が明るくなったねえ」


「……そうでしょうか」


「そうだよ。最初に会った頃なんて、何を言っても遠慮してばっかりだったもの」


 ローザは悪気なく笑う。


「今は欲しいものを買って、好きなパンを作って、ちゃんと自分の考えも言うようになったじゃないか」


 シアは少しだけ視線を落とした。


 褒められることには、まだ慣れていない。


 けれど、否定したいとも思わなかった。


「……ここへ来てから、少しずつ覚えました」


「いいことだよ」


 ローザはそれ以上踏み込まず、野菜の籠を持ち直した。


「じゃあ、また林檎が必要になったら言っておくれ」


「はい。ありがとうございます」


 店を出ていくローザを見送りながら、シアは自分の髪へそっと触れた。


 櫛は、今日もきちんとそこにある。


 自分が欲しいと思って買ったもの。


 誰かから与えられた役割のためではなく、自分の好みで選んだものだった。


     ◇


 昼食のあと、シアは昨日の蜂蜜林檎パンの記録を整理していた。


 売上だけを見れば、十個中八個。


 しかし実際には、そこへ至るまでの作業時間や材料費、販売した時間帯、客の反応など、確認すべきことがいくつもある。


 オットーは厨房で午後の仕込みを進め、マルタは売り場の片づけをしていた。


 シアは帳簿の横へ計算用の紙を置き、まず昨日使った林檎の量を確認する。


 次に蜂蜜。


 小麦粉。


 その他の材料。


 包装紙。


 それぞれの費用を合計してから、販売した八個分の売上と見比べる。


 ただし、ここで出た差額がそのまま利益になるわけではない。


 林檎を切る時間も、煮る時間も、パンを包む時間も必要だった。


 通常のパンを作るために使える時間が減ったことも考えなければならない。


「……難しいですね」


 思わず呟く。


 数字だけなら計算できる。


 けれど、どこまでを費用として考えるかによって、見え方が変わる。


 シアは少し考えたあと、厨房へ声をかけた。


「オットーさん、今、少しお時間ありますか?」


「何だ」


「昨日の蜂蜜林檎パンについて、確認したいことがあります」


「急ぎか?」


「いいえ。今すぐでなくても大丈夫です」


「なら、これが終わってからだ」


「分かりました」


 シアは素直に席へ戻った。


 以前なら、相手が忙しそうにしていれば質問そのものを諦めていたかもしれない。


 あるいは、邪魔にならないようにと自分だけで答えを出そうとしただろう。


 今は、聞きたいことがあると伝え、相手の都合を確認できる。


 それで十分だった。


 しばらくして、オットーが手を洗ってやってきた。


「で、何だ」


「こちらです」


 シアは計算用紙を見せる。


「材料費と売上を比べることはできます。でも、作業時間をどう考えればいいのか、まだよく分からなくて」


 オットーは椅子へ腰を下ろし、紙へ目を通した。


「昨日は俺が林檎を煮て、お前が皮を剥いた。包むのも半分ずつだったな」


「はい」


「なら、昨日の時間をそのまま次の費用にするのは違う」


「どうしてですか?」


「お前はまだ練習中だからだ。慣れればもう少し早くなるし、俺が全部やるなら別の時間になる」


 シアは頷く。


「では、今の作業時間と、慣れた場合の時間を分けて考えた方がいいんですね」


「そうだな。ただし、慣れたら必ずこの時間になるって決めつけるなよ」


「はい」


 オットーは紙の端を指で叩いた。


「それから、昨日は他のパンを減らさずに作れた。だが、忙しい日に同じことをやろうとしたら、どこかへ負担が出る」


「その負担も考える必要がある……」


「そういうことだ」


 シアは新しい欄を作った。


 通常営業への影響。


 作業担当者。


 仕込み時間。


 材料の変動。


 保存状態。


 販売数。


 項目が増えていく。


 しかし、以前のように全部を一度で完璧にまとめようとは思わなかった。


「これを全部調べてからでないと、次を作れないわけではないですよね」


 シアが尋ねると、オットーは頷いた。


「ああ。商売なんて、全部分かってから始められるもんじゃない。分かる範囲で考えて、無理のない数で試すんだ」


「……そうなんですね」


「ただし、何も考えずにやるのとは違うぞ」


「はい」


 シアは紙を見つめた。


 昨日、十個作った。


 今日、そのうち残した一個を確かめた。


 そして今、次に作るならどうするかを考えている。


 全部がつながっていた。


 失敗を避けるために動くのではなく、少しずつ分かることを増やすために動く。


 その考え方は、彼女にとってまだ新しかった。


「オットーさん」


「何だ」


「次に作るとき、また林檎の下ごしらえをさせてもらえますか?」


「いいぞ」


「ありがとうございます」


「ただし、仕事の量を見てからだ」


「はい。無理に増やしません」


 オットーが少し笑った。


「最近、それを自分から言うようになったな」


「何度も言われましたから」


「覚えたなら結構だ」


 シアも笑う。


 注意されることが、以前ほど怖くなくなっていた。


     ◇


 その日の午後、ミレイユは騎士団の訓練場で、休憩中の同僚たちと水を飲んでいた。


 秋穫祭の警備が終わり、訓練の予定も通常に戻っている。


 訓練場の端には木剣が並び、若い騎士たちが二人一組で動きを確認していた。乾いた木のぶつかる音が時折響き、秋の冷たい風が汗ばんだ首筋を通り抜けていく。


「クローデル、最近よくパン屋へ行ってるな」


 隣の騎士が何気なく言った。


「《麦穂亭》?」


「ああ。前から好きだったのか?」


「パンは好きだったけど、最近は友達がいるからね」


「友達?」


「そこで働いてる子」


 ミレイユは水筒の蓋を閉めた。


「シアっていうんだけど、すごく真面目で、計算が得意で、最近はパン作りも覚えてるんだ」


「へえ」


「それに、話してると面白いよ」


 同僚が少し意外そうに眉を上げた。


「お前がそこまで人のことを話すのは珍しいな」


「そう?」


「食べ物の話ならよく聞くけどな」


「それは否定しない」


 ミレイユが笑うと、相手も笑った。


 しかし、そのあとミレイユは少しだけ表情を和らげた。


 最初に会った頃のシアを思い出す。


 店の仕事を丁寧にこなし、客へ礼儀正しく接する一方で、自分のことを聞かれると戸惑っていた少女。


 何かを断ることにも、休みたいと言うことにも、どこか怯えがあった。


 それが今では、自分から休日の予定を考え、図書館へ行き、好きな本を借りるようになった。


 友達と歩きたいと言ってくれたこともある。


(変わったよね、シア)


 ミレイユは水筒を腰へ戻した。


 ただ、その変化がすべて順調だと思っているわけではない。


 シアには、まだ話していない過去があるのだろう。


 何かを怖がる理由も、簡単には消えないはずだ。


 けれど、無理に聞き出すつもりはなかった。


 今のシアが楽しそうにしているなら、それを一緒に喜びたい。


 困っているときには、助けを求められる友達でいたい。


 それでいい。


「さて、休憩終わり!」


 ミレイユは立ち上がった。


 同僚が木剣を持ち直す。


「今日も帰りにパン屋か?」


「今日は行かないよ」


「珍しいな」


「毎日行ったら、シアの仕事の邪魔になるでしょ」


 ミレイユは笑って訓練場へ戻った。


 友達だからといって、いつも一緒にいる必要はない。


 会いたいときに会い、話したいときに話す。


 それぞれの生活があって、その中で時間を分け合う。


 シアが少しずつ覚えていることを、ミレイユも大切にしたかった。


     ◇


 夕方、《麦穂亭》の営業が落ち着いた頃、シアは今日の記録をまとめ終えた。


 蜂蜜林檎パンについて問い合わせた客は三人。


 そのうち一人は、昨日買った家族から話を聞いて来店した。


 別の一人は祭りで食べたことがある客。


 残る一人は、店頭に商品がないことを知ったうえで、次の販売予定を尋ねていた。


 数としては多くない。


 しかし、昨日の売上だけでは分からなかったことが見えてきた。


「昨日売れた八個だけが、需要の全部じゃないんですね」


 シアが言うと、マルタは会計台を拭きながら頷いた。


「そうだね。買いたくても、その日に来られない人もいるから」


「でも、問い合わせがあったからといって、必ず買ってもらえるとも限りません」


「その通り」


「……難しいです」


「だから商売は面白いんだよ」


 マルタは笑った。


「数字を見て考えるのは大事。でも、数字だけで人の気持ちが全部分かるわけじゃないからね」


 シアは静かに頷いた。


 以前、伯爵家で扱っていた帳簿にも数字は並んでいた。


 支払い。


 購入品。


 贈答品。


 使用人の費用。


 予定された催し物。


 そこに書かれた数字を正しく整理することが、自分の仕事だった。


 けれど《麦穂亭》では、その数字の向こうに人の顔がある。


 ニコが嬉しそうに蜂蜜林檎パンを買っていったこと。


 初めて買った客が味を確かめるように選んでいたこと。


 レオンハルトが祭りのときと同じ商品を手に取ったこと。


 そして今日、母親から話を聞いたという女性が、わざわざ店へ来てくれたこと。


 どれも、数字だけでは表せない。


「私、もっと知りたいです」


 シアは自然に口にしていた。


「パンを作ることも、売ることも、どうして買っていただけるのかも。帳簿をつけるだけじゃなくて、その数字がどうして生まれるのかを知りたいです」


 マルタは手を止めた。


 しばらくシアを見てから、穏やかに笑う。


「じゃあ、これからも少しずつ覚えていけばいいよ」


「はい」


「ただし、全部一人でやろうとしないこと」


「……はい」


「そこは忘れないでね」


「忘れないようにします」


 シアは笑って答えた。


 今なら、その言葉を素直に受け取れる。


 何でもできるようになりたい。


 けれど、何でも一人でやらなければならないわけではない。


 その違いが、少しずつ分かってきた。


     ◇


 夜、自室へ戻ったシアは、机の上に今日の記録を置いた。


 蜂蜜林檎パンの販売記録。


 翌朝の状態確認。


 材料費と作業時間。


 問い合わせの数。


 次回へ向けた課題。


 紙の枚数は増えたが、以前のように重く感じなかった。


 仕事の記録を整理することが好きだった。


 それは今も変わらない。


 けれど、仕事を終えたあとの時間まで、すべて帳簿に使う必要はない。


 シアは紙を引き出しへしまい、図書館から借りた旅行記を手に取った。


 今日は川沿いの町を紹介する章の続きからだ。


 頁を開くと、小さな市場の挿絵が描かれていた。


 石橋のたもとに並ぶ露店。


 果物を積んだ籠。


 焼き菓子を売る店。


 川を行き交う小舟。


 見たことのない景色なのに、なぜか少し親しみを感じる。


 シアはゆっくり読み進めた。


 旅人が市場で買った菓子を食べながら、川辺の腰掛けで休む場面に差しかかる。


 そこで、ふと手を止めた。


(私も、いつか別の街を歩いてみたい)


 以前、遠い街へ行くことは逃げることだった。


 王都から離れ、誰にも見つからない場所を探すために、馬車を乗り継いだ。


 途中の町では、宿と食事と次の馬車のことばかり考えていた。


 景色を楽しむ余裕はほとんどなかった。


 けれど今は違う。


 もし別の街へ行くなら、そこに何があるのかを見たい。


 知らない料理を食べたい。


 綺麗な景色を眺めたい。


 土産物を選んでみたい。


 そして、旅を終えたら《麦穂亭》へ帰ってきたい。


 その考えに気づいたとき、シアは本から顔を上げた。


「……帰ってくる」


 小さく呟く。


 以前は、どこかへ行くことばかり考えていた。


 今は、帰る場所がある。


 だから、また出かけたいと思えるのかもしれない。


 シアは窓の外へ目を向けた。


 街の灯りが静かに揺れている。


 この街には、まだ行ったことのない場所がたくさんある。


 図書館も、まだほんの一部しか見ていない。


 ミレイユと一緒に歩きたい道もある。


 それから、いつか一人で訪れてみたい店も。


 全部、今すぐでなくていい。


 仕事を続けながら、少しずつ自分の世界を広げていけばいい。


 シアは本を閉じ、机の端へ置いた。


 その隣には、麦穂模様の櫛と図書館の利用証がある。


 どちらも自分で選んだものだった。


 そして今日、もう一つ分かったことがある。


 売れ残った一個のパンは、失敗の証ではなかった。


 次にどうすればいいのかを考えるための、大切な手がかりだった。


(私も、そうなのかもしれない)


 以前の自分ができなかったこと。


 間違えたこと。


 知らなかったこと。


 それらを全部、失敗として抱え込む必要はない。


 今から覚えればいい。


 次に生かせばいい。


 それでも分からなければ、誰かに聞けばいい。


 シアは明日の予定を確認した。


 午前は売り場。


 午後は注文表の整理。


 騎士団への定期注文について、追加の連絡があれば確認する。


 そして、仕事が終わったら旅行記の続きを読む。


 以前なら、最後の予定は書かなかっただろう。


 けれど今は、仕事以外の時間も自分の生活に含まれている。


 そのことが、静かに嬉しかった。


 明かりを消し、寝台へ横になる。


 厨房からはもう物音が聞こえない。


 マルタもオットーも、一日の仕事を終えたのだろう。


 明日になれば、また店が開く。


 パンを焼き、客を迎え、帳簿をつける。


 その繰り返しの中で、少しずつ新しいことを覚えていく。


 シアは目を閉じた。


 明日もきっと、すべてが予定通りに進むわけではない。


 それでも、以前ほど怖くはなかった。


 分からないことがあれば、知ればいい。


 できないことがあれば、教わればいい。


 そして、うまくいかなかったことにも、次へつながる何かが残っているかもしれない。


 そんなふうに考えられるようになった自分を、今夜のシアは少しだけ誇らしく思っていた。

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