第36話 友達だから、頼みたいこと
秋の朝は、少しずつ冷たさを増していた。
《麦穂亭》の厨房では、窯から漏れる熱が心地よく感じられるようになり、開店前に換気のため窓を開ける時間も以前より短くなっている。通りを歩く人々の服装にも変化が見られ、薄い上着を羽織る者や、首元へ布を巻く者が増えていた。
シアは厨房の作業台で丸パンの生地を整えながら、窓の外へ一度だけ目を向けた。
朝の光を受けた石畳には、昨夜の雨が残した小さな水たまりがある。荷馬車が通るたびに水面が揺れ、車輪の跡が細い筋となって伸びていた。
「今日は冷えますね」
隣で生地を分割していたオットーが、窓の方へ視線を向ける。
「そうだな。そろそろ朝の仕込みも、温度を見ながら調整しないといかん」
「生地の膨らみ方が変わるんですか?」
「ああ。寒くなれば時間がかかる。いつもと同じ時間だけ見てると、思ったように仕上がらんことがある」
シアは手元の生地を見つめた。
同じ材料を使い、同じように捏ねても、気温や湿度によって結果が変わる。
帳簿の数字だけでは分からないことが、厨房にはいくつもある。
「では、冬になったらもっと変わるんですね」
「変わるぞ。朝の仕込みも今と同じにはいかん」
「覚えることが、まだたくさんありますね」
シアがそう言うと、オットーは短く笑った。
「全部一度に覚えようとするなよ」
「分かっています。今日は今日の仕事をします」
「ならいい」
シアは生地を整える作業へ戻った。
以前なら、新しいことを教わるたびに、すぐに覚えなければならないと焦っていた。
今は違う。
知らないことがあるのは当然だと思える。
教わり、試し、失敗したら直していけばいい。
そう考えられるようになったのは、《麦穂亭》で過ごした日々のおかげだった。
◇
開店からしばらくすると、いつものように客が訪れ始めた。
朝食用の丸パンを買う職人、家族のために黒麦パンを選ぶ女性、胡桃パンを一つだけ買っていく老人。シアはそれぞれの注文を受けながら、棚の残数を確認し、必要に応じてマルタへ声をかけた。
朝の混雑が落ち着き始めた頃、店の扉が開いた。
「おはよう、シア!」
明るい声とともに入ってきたのは、ミレイユだった。
いつもの濃紺の騎士服を着ているが、今日は腰の剣のほかに、肩から小さな革鞄を下げている。
「おはようございます、ミレイユさん」
「今日は丸パンを四つと、蜂蜜パンを二つお願い」
「はい。全部で銅貨三十四枚です」
シアは注文されたパンを袋へ入れながら、ミレイユの表情を見た。
いつもより少し落ち着かない様子だった。
笑顔は変わらない。
けれど、何かを言いかけてはやめるように、視線が何度か売り場の奥へ向いている。
「ミレイユさん、何かありましたか?」
シアが尋ねると、ミレイユは少し驚いた顔をした。
「え?」
「いつもと少し違うように見えたので」
「……分かる?」
「少しだけですけど」
ミレイユは苦笑した。
「シア、そういうところ鋭くなったよね」
「そうでしょうか」
「うん。前は自分のことばっかり気にしてたのに、最近は周りをよく見てる」
シアは少し考えた。
以前から、周囲の様子を観察することは得意だった。
誰が何を求めているのか。
何をすれば怒られずに済むのか。
どこに問題が起きそうなのか。
そういうことばかり考えていた。
けれど今は、少し違う。
相手が困っているなら助けたい。
疲れているなら休んでほしい。
そう思って見ることが増えた。
「……そうかもしれません」
シアが答えると、ミレイユは少しだけ表情を和らげた。
「実は、ちょっと相談があるんだ」
「相談、ですか?」
「うん。でも仕事の邪魔になるといけないから、あとで時間があれば聞いてほしくて」
シアは売り場の奥へ目を向けた。
マルタは別の客へ対応している。
今すぐ長く話すのは難しい。
「今日は午後に帳簿の整理がありますけど、そのあとなら少し時間が取れると思います」
「本当?」
「はい。ただ、終わる時間がはっきりしないので……」
そこで少し考える。
「夕方、《麦穂亭》へ来てもらうことはできますか?」
「もちろん」
「もし仕事が長引いたら、少し待っていただくかもしれません」
「それは大丈夫。私も訓練が終わってからになるし」
ミレイユはほっとしたように笑った。
「ありがとう、シア」
「まだ何もしていませんよ」
「聞いてくれるだけでも助かるんだよ」
その言葉に、シアは少しだけ胸が温かくなった。
自分が誰かの相談相手になる。
それも、仕事としてではなく、友達として。
そんなことを頼まれる日が来るとは、以前は想像していなかった。
◇
午後の仕事を終えたシアは、会計台の帳簿を閉じた。
今日の売上と仕入れの記録に大きな問題はなく、翌日の注文数も確認できている。蜂蜜林檎パンについては、昨日まとめた記録をオットーへ渡し、次に作る日を急いで決める必要はないという結論になった。
通常営業の中で無理なく作れる日を選び、林檎の価格を確認してから判断する。
それが今の《麦穂亭》の方針だった。
シアは帳簿を棚へ戻し、マルタへ声をかけた。
「今日の仕事、終わりました」
「お疲れさま。今日はもういいよ」
「ありがとうございます」
「ミレイユちゃん、来るんだっけ?」
「はい。少し相談があるそうです」
「じゃあ、奥の卓を使いな。店はもうすぐ落ち着くから」
「いいんですか?」
「もちろん。友達が来るんだろ?」
マルタは当然のように言った。
シアはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「はい。友達です」
その響きが、今でも好きだった。
以前は、友達という言葉を自分に向けて使うことに戸惑っていた。
けれど今は、ミレイユのことを友達だと言える。
そして、相手も同じように思ってくれている。
それが嬉しかった。
◇
夕方、ミレイユは約束通り《麦穂亭》へやってきた。
訓練を終えたばかりらしく、髪は少し乱れ、肩には疲れが見える。それでもシアの姿を見つけると、すぐに笑顔になった。
「お疲れさま、シア」
「ミレイユさんも、お疲れさまです」
「今日はちょっと疲れた。新人の訓練につき合ってたから」
「大変だったんですね」
「うん。でも、まあ悪くないよ」
ミレイユはそう言いながら、店の奥へ案内された。
マルタが温かいお茶を二つ用意してくれる。
「ゆっくり話しておいで」
「ありがとうございます」
二人は礼を言い、奥の小さな卓へ向かい合って座った。
窓から差し込む夕方の光が、卓の上へ柔らかく落ちている。
シアは湯気の立つお茶を一口飲んだ。
「それで、相談というのは?」
ミレイユは少しだけ姿勢を正した。
「実はね、騎士団の新人のことで相談したいんだ」
「新人さん、ですか?」
「うん。今年入った子なんだけど、すごく真面目で、何でも一人でやろうとするんだよね」
シアの手が、杯の縁で止まった。
ミレイユは続ける。
「訓練でも雑用でも、頼まれたことは全部引き受ける。自分の仕事が終わっても、ほかの人が動いてると休まない。周りが手伝おうとしても、大丈夫ですって言うんだ」
聞き覚えのある話だった。
あまりにも。
「……それは」
「シアに似てるでしょ?」
ミレイユが少し困ったように笑った。
シアは否定できなかった。
「似ているかもしれません」
「でしょ。だから、どう声をかけたらいいかなって」
「私に、ですか?」
「うん」
ミレイユは真剣な表情で頷いた。
「シアも最初はそうだった。でも今は、休みたいって言えるし、手伝ってほしいって言えるようになったでしょ。だから、どういう言葉が嬉しかったのか、聞いてみたかったんだ」
シアはすぐには答えられなかった。
自分が変わった理由。
何を言われて、何を感じたのか。
考えてみると、一つの言葉だけではなかった。
マルタが休んでいいと言ってくれたこと。
オットーが無理に仕事を増やさなかったこと。
ミレイユが自分の気持ちを待ってくれたこと。
レオンハルトが、答えを急がせずに話を聞いてくれたこと。
いろいろな出来事が重なっている。
「……難しいですね」
シアは正直に答えた。
「私も、最初からできたわけではないので」
「うん」
「休んでいいと言われても、本当に休んでいいのか分からなかったんです。誰かが働いているのに、自分だけ座っているのが怖くて」
ミレイユは黙って聞いていた。
「手伝ってもらうことも、最初は苦手でした。自分ができないと思われるのが嫌だったというより……」
そこで言葉が止まる。
胸の奥に、古い感覚が浮かんだ。
頼れば責められる。
できなければ役に立たないと言われる。
そういう記憶。
けれど、そこまで話す必要はない。
シアは少し息を整えた。
「……自分の仕事は、自分で全部終わらせなければならないと思っていたんです」
「そっか」
「でも、ここでは違いました」
シアは厨房の方へ目を向けた。
奥からオットーが道具を片づける音が聞こえる。
「マルタさんもオットーさんも、私が休んでも怒りませんでした。手伝ってくださいと言っても、嫌な顔をしませんでした」
「うん」
「一度だけじゃなくて、何度もそうだったから……少しずつ、本当に大丈夫なんだと思えるようになったんです」
ミレイユはゆっくり頷いた。
「一回言えば変わるわけじゃないんだね」
「はい。たぶん、言葉だけでは難しいと思います」
「行動で見せる?」
「そうですね」
シアは少し考えた。
「その新人さんが休んだとき、周りの人も普通にしていることが大事なのかもしれません。休んだからといって、何かを責めたり、あとで仕事を増やしたりしないことも」
ミレイユの表情が変わった。
「……なるほど」
「それから、手伝ってもらったあとに、申し訳なさそうにしていたら……」
シアは自分の経験を思い出す。
「ありがとうでいいんだよ、と言ってもらえると、少し安心するかもしれません」
ミレイユはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり笑う。
「シア、すごいね」
「え?」
「いや、なんか……すごく分かりやすかった」
「そうでしょうか」
「うん。私、休めって言えば休むと思ってたところがあったかも」
ミレイユは杯を両手で包んだ。
「でも、その子にとっては、休んだあとに何が起きるか分からないのが怖いのかもしれないんだね」
シアは小さく頷いた。
「私の場合は、そうでした」
それ以上は言わなかった。
ミレイユも聞かなかった。
ただ、少しだけ表情を和らげる。
「ありがとう。相談してよかった」
シアはその言葉を聞き、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
今まで、自分は誰かに助けてもらう側だった。
もちろん、仕事では役に立ってきた。
帳簿を整理し、注文をまとめ、パンを売る。
けれど今日は違う。
自分が経験したことを、友達のために話した。
それが相手の役に立った。
「……私も、嬉しいです」
「何が?」
「ミレイユさんが、私に相談してくれたことです」
ミレイユは少し驚いた顔をした。
「相談するくらい普通でしょ?」
「私には、あまり普通ではなかったので」
シアは微笑んだ。
「でも、これからは普通になったらいいなと思います」
ミレイユの表情が柔らかくなる。
「じゃあ、これからも相談するね」
「はい」
「シアも、何かあったら相談してよ」
「……はい」
以前なら、即答できなかったかもしれない。
けれど今は、少しだけ自然に答えられた。
◇
話が一段落した頃、ミレイユが思い出したように鞄を開いた。
「あ、そうだ。もう一つあった」
「何でしょう?」
「これ、見てほしくて」
取り出されたのは、小さな布袋だった。
濃紺の布で作られているが、口の部分の縫い目がほつれている。
「訓練で使ってる小物入れなんだけど、最近ここが駄目になっちゃって」
シアは布袋を受け取った。
厚手の布。
丈夫な糸。
使い込まれた跡がある。
「直せそうですね」
「本当?」
「はい。口の部分を縫い直せば、まだ使えると思います」
「よかった。新しいの買おうかと思ってたんだけど、これ結構気に入ってるんだよね」
ミレイユは少し照れたように笑った。
「騎士団に入ったとき、先輩にもらったやつだから」
シアは布袋をもう一度見た。
ただの道具ではない。
大切な思い出があるものだ。
「……それなら、丁寧に直したいですね」
「お願いできる?」
「はい」
答えてから、シアは少し考えた。
自分は裁縫が得意だ。
けれど、今は仕事もある。
図書館から借りた本も読みたい。
自分の時間も大切にしたい。
「ただ、今日すぐにはできないと思います」
そう告げると、ミレイユはすぐに頷いた。
「もちろん。急ぎじゃないよ」
「明日の仕事が終わってから、少しずつ直してもいいですか?」
「うん。いつでも大丈夫」
「ありがとうございます」
シアは布袋を大切に受け取った。
以前なら、頼まれた瞬間に今夜中に仕上げようとしただろう。
相手が急いでいなくても、自分が早く終わらせなければならないと思ったはずだ。
けれど今は、無理のない予定を伝えられる。
それを相手も受け入れてくれる。
そんな関係が、嬉しかった。
「……シア」
「はい?」
「今の、すごくよかったと思う」
「何がですか?」
「ちゃんと、すぐにはできないって言えたこと」
ミレイユは笑った。
「前なら、たぶん今夜中にやろうとしたでしょ?」
「……はい」
「だから、嬉しい」
シアは少し恥ずかしくなり、布袋へ視線を落とした。
「まだ練習中です」
「うん。でも、ちゃんとできてるよ」
その言葉を聞き、シアは小さく笑った。
◇
夕食の時間が近づき、ミレイユは席を立った。
「そろそろ帰るね。今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「布袋は本当に急がなくていいからね」
「はい。直せたらお渡しします」
「楽しみにしてる」
ミレイユは鞄を肩へ掛け、店の入口へ向かった。
シアも見送りに立つ。
外へ出ると、夕方の空は薄い橙色に染まっていた。
通りを歩く人々の足音が、石畳へ静かに響いている。
「シア」
ミレイユが振り返った。
「はい」
「今日、相談してよかった」
その表情は、いつもの明るい笑顔とは少し違っていた。
穏やかで、真剣だった。
「私、騎士だからって、何でも自分で解決しなきゃいけないと思ってたところがあるんだよね」
シアは黙って聞いた。
「でも、友達に聞くのもいいんだなって思った」
ミレイユは少し照れたように笑う。
「だから、ありがとう」
シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……私も、そう思います」
「うん?」
「友達だから、頼ってもいいんですね」
ミレイユは嬉しそうに頷いた。
「そうだよ」
それから、少しだけいたずらっぽく笑う。
「だから今度、シアも私に何か頼んでね」
「何か、ですか?」
「うん。小さいことでもいいから」
シアは少し考えた。
今すぐ頼みたいことは思いつかない。
けれど、いつか何かを頼んでもいい。
そう思えることが嬉しかった。
「……分かりました」
「約束ね」
「はい。約束です」
ミレイユは手を振り、通りを歩いていった。
シアはその背中が見えなくなるまで見送った。
◇
夜、自室へ戻ったシアは、机の上へ濃紺の布袋を置いた。
口の部分の縫い目がほつれている。
直すこと自体は難しくない。
けれど、大切な思い出があるものだと聞いた以上、丁寧に扱いたかった。
シアは裁縫道具を取り出しかけて、手を止めた。
(今日は、まだやらなくていい)
ミレイユは急がなくていいと言っていた。
自分も、明日の仕事が終わってから直すと伝えた。
なら、今日はその約束を守ればいい。
裁縫道具を引き出しへ戻し、代わりに図書館から借りた旅行記を手に取った。
頁を開く。
川沿いの町では、夕方になると橋の上から夕日を眺める人が多いらしい。
旅人はその景色を見ながら、知らない土地にも帰りたくなる場所があるのだと記していた。
シアはその一文を読み、少しだけ微笑んだ。
(私にも、帰りたい場所ができた)
《麦穂亭》。
マルタとオットーがいる場所。
仕事があり、食事があり、休める部屋がある場所。
そして、友達が訪ねてきてくれる場所。
以前は、家という言葉を聞くと胸が重くなった。
帰らなければならない場所。
役割を果たさなければならない場所。
失敗してはいけない場所。
けれど今は違う。
帰ってきたいと思える場所がある。
そのことが、何より嬉しかった。
シアは本を閉じ、机の上の布袋を見た。
ミレイユが大切にしているもの。
それを自分に預けてくれた。
信頼されているのだと思う。
仕事ができるからではない。
伯爵令嬢だったからでもない。
ただ、シアという友達だから。
「……嬉しいな」
小さく呟く。
明日は仕事が終わったあと、布袋を直そう。
急がず、丁寧に。
そして直せたら、ミレイユへ渡そう。
そのとき、今日のお礼ももう一度伝えたい。
シアは明かりを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、秋の風が静かに吹いている。
遠い街へ来たとき、彼女は誰にも頼らず生きていかなければならないと思っていた。
けれど今は、少し違う。
自分で働き、自分で生活を選ぶことと、誰かを頼ることは矛盾しない。
そして、頼るだけではなく、頼られることもある。
今日、ミレイユが相談してくれたように。
シアは目を閉じた。
明日も仕事がある。
覚えたいことも、やりたいこともある。
けれど今夜は、少しだけ別のことを考えていた。
いつか自分が困ったとき、ミレイユに何を頼もうか。
そんな未来を自然に思い描けるようになったことが、彼女には何より嬉しかった。




