第37話 友達に贈る、小さな約束
秋の朝、《麦穂亭》の厨房には、焼きたてのパンの香りと、窯から伝わる柔らかな熱が満ちていた。
外では冷たい風が石畳の通りを吹き抜け、早朝の市場へ向かう商人たちが厚手の上着を羽織って歩いている。数日前まで街のあちこちに残っていた秋穫祭の飾りもほとんど片づけられ、店先に並ぶ果物や野菜の種類が、少しずつ冬の訪れを感じさせるものへ変わり始めていた。
シアは作業台の前で丸パンの生地を整えながら、昨夜ミレイユから預かった濃紺の布袋を思い出していた。
騎士団に入ったとき、先輩から贈られたという小物入れ。長く使われた布地には少し色褪せた部分があり、口の縫い目もほつれていたが、丁寧に扱われてきたことが分かる品だった。
昨日、ミレイユは急がなくていいと言ってくれた。だからシアも、今日の仕事が終わってから直すと約束した。
その約束を思い出すだけで、胸の奥が少し温かくなる。
(誰かの大切なものを預かるのは、久しぶりかもしれない)
以前の暮らしでも、他人の持ち物を扱うことはあった。父の書類、継母の衣装、異母妹の装飾品。けれど、それらは信頼されて預けられたというより、管理や手入れを任されていただけだった。
失くしてはいけないし、傷つけてもいけない。少しでも問題があれば責められるという緊張ばかりが先に立ち、持ち主がその品をどれほど大切にしているかを考える余裕さえなかった。
今は違う。
ミレイユは、シアなら直してくれると思って預けてくれた。そして、急がなくていいとも言ってくれた。
その違いが、嬉しかった。
「シア、手が止まってるぞ」
オットーの声に、シアははっとした。
「すみません。少し考え事をしていました」
「昨日、友達から預かったもののことか?」
シアが驚いて顔を上げると、オットーは作業台の向こうで生地を分割しながら、わずかに口元を緩めていた。
「マルタから聞いた。裁縫を頼まれたんだろう?」
「はい。ミレイユさんが大切にしている布袋なんです。今日、仕事が終わってから直そうと思っています」
「そうか。大事なものなら、落ち着いてやることだな。ただ、今はこっちの生地を頼むぞ。冷えてくると発酵の進み方も変わるから、いつまでも待たせておけん」
「はい。気をつけます」
シアは手元へ意識を戻し、生地の表面を傷めないように丸め直した。
以前なら、仕事中に考え事をした自分を責め、必要以上に落ち込んでいただろう。しかし今は、注意された理由を理解し、目の前の仕事へ集中すればいいと思える。
注意されることと、自分の存在を否定されることは違う。
その当たり前のことを、シアは《麦穂亭》で少しずつ覚えていた。
◇
午前中の営業は、いつもより少し忙しかった。
近くの工房で働く職人たちがまとめてパンを買いに来たほか、宿《銀鹿亭》から翌日の注文について確認の使いが訪れたため、シアは売り場と帳簿の間を何度か行き来することになった。
注文数そのものに変更はなかったが、受け取りの時間を少し早めたいという相談だった。
「主人から、できればいつもより早い時間に受け取れないかと頼まれまして。明日は朝から客の出入りが多いそうなんです」
使いの男性は申し訳なさそうに帽子を胸元へ抱えていた。
シアは注文表を確かめ、希望された時刻を余白へ書き留める。
「承知しました。ただ、仕込みの都合もありますので、確認してからお返事してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。無理を言っているのはこちらですから」
シアは男性に少し待ってもらい、厨房のオットーへ事情を伝えた。
オットーは翌朝の仕込み予定を確認し、ほかの注文と重ならないかを考えてから頷いた。
「その時間なら何とかなる。ただし、それ以上早くするのは難しい。ほかのパンまで焼き上がりを急がせるわけにはいかんからな」
「分かりました。そのようにお伝えします」
売り場へ戻ったシアは、確認できた内容を男性へ丁寧に説明した。
「ご希望のお時間でお渡しできます。ただ、それより早い時間への変更は難しいそうです」
「十分です。ありがとうございます。宿の主人にも伝えておきます」
男性が帰ったあと、シアは注文表の受け取り時刻を書き直し、マルタへも変更内容を伝えた。
以前なら、客の希望を叶えなければならないと考え、厨房の都合を確認する前に引き受けてしまったかもしれない。
けれど今は、できることとできないことを分けて考えられる。
客に喜んでもらうことは大切だが、そのために店の仕事を無理に増やす必要はない。
「ちゃんとオットーに確認したんだね」
マルタが注文表を見ながら言った。
「はい。私だけでは決められないことなので」
「それでいいんだよ。注文を受けるのも大事だけど、無理なく用意できるかを確かめるのも同じくらい大事だからね」
シアは頷き、確認済みの印をつけた。
小さな判断だった。
けれど、自分の役割を理解したうえで仕事を進められたことが、少し誇らしかった。
◇
昼を過ぎると、店内の客足は落ち着いた。
シアは売り場の棚を整えながら、残っているパンの数を確認していた。丸パンが十四個、黒麦パンが七個、胡桃パンが四個。午後の客足を考えれば、追加で焼く必要はなさそうだった。
そのとき、入口の扉が開き、冷たい秋風とともに一人の男性が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げたシアは、見覚えのある姿に自然と表情を和らげた。
「レオンハルト様。こんにちは」
「ああ、こんにちは。今日は少し冷えるな」
レオンハルトは濃紺の外套を羽織っていた。店の外には護衛の騎士が一人控えているが、彼自身はいつものように静かな足取りで会計台へ近づいてくる。
「そうですね。厨房は窯があるので暖かいんですけど、売り場にいると外の寒さが分かるようになりました」
「これからもっと冷える。体調には気をつけてくれ」
「ありがとうございます。レオンハルト様も、お忙しいでしょうからお気をつけください」
何気なく返した言葉だった。
けれど、レオンハルトは一瞬だけ目を細めた。
「……ありがとう」
その返事が思いのほか柔らかく聞こえ、シアは少し不思議に思った。
客の体調を気遣うことは、特別なことではない。マルタもよく常連客へ同じような言葉をかけている。
それなのに、彼が礼を言ったあと、二人の間には短い沈黙が生まれた。
気まずい沈黙ではなかった。
ただ、すぐに次の言葉を探さなくてもよいような、不思議な間だった。
先に視線を動かしたのはレオンハルトだった。
「今日は、あの林檎のパンはないんだな」
「はい。次に作る日は、まだ決まっていないんです」
「そうか。少し残念だ」
その言葉に、シアは思わず笑みをこぼした。
「そんなに気に入っていただけたんですか?」
「ああ。林檎の味がきちんと残っていて、甘さもちょうどよかった」
「嬉しいです。私も、あのパンが好きなので」
「前にもそう言っていたな」
レオンハルトが穏やかに言う。
シアは少し驚いて彼を見た。
「覚えていらしたんですか?」
「もちろん。自分が好きだから作りたいと思った、と言っていただろう。あのとき、ずいぶん嬉しそうだったから」
シアは言葉を失いかけた。
自分では、そんな顔をしていたつもりはなかった。仕事の話をしているとき、相手にどのような表情を見せているかなど、これまでほとんど考えたことがない。
「……そうでしたか」
「ああ」
レオンハルトはそれ以上からかわず、パンの棚へ視線を戻した。
そのさりげなさに、シアはほっとする。
けれど、胸の奥には小さな温かさが残っていた。
(私が何を好きなのか、覚えていてくださったんだ)
彼は多くの人と会い、領内のさまざまな仕事に関わっているはずだ。そんな人が、小さなパン屋の店員の好みを覚えている。
それが少し意外で、嬉しかった。
「では、今日は丸パンを四つと黒麦パンを二つもらおう」
「はい。全部で銅貨三十四枚です」
シアはパンを袋へ入れ、代金を受け取った。
会計を終えたあと、レオンハルトはすぐには帰らず、会計台の端に置かれた小さな紙へ目を向けた。
そこには、シアが休憩中に書き留めた図書館の返却予定日が記されていた。
「図書館へ行ったのか?」
シアは紙を見て、少し照れたように頷いた。
「はい。利用証を作って、本を一冊借りました」
「何を借りたんだ?」
「『川沿いの町を歩く』という旅行記です。まだ途中なんですけど、とても面白くて」
「旅行記か。意外だな」
「そうでしょうか?」
「仕事に関係する本を選ぶと思っていた」
シアは小さく笑った。
「最初は私もそう思っていました。でも、せっかくのお休みなので、仕事とは関係のない本を読んでみたくなったんです」
「それはいい選び方だと思う」
レオンハルトの声には、静かな賛同があった。
「どんなところが面白い?」
そう尋ねられ、シアは少し考えてから答えた。
「知らない町にも、そこで暮らしている人たちの日常があるところです。市場で売っているものも、食べ物も、街並みも違うのに、朝になるとお店が開いて、夕方には家へ帰る人がいるんです」
言葉を重ねるうちに、旅行記の頁が頭の中へ浮かんできた。
「それを読んでいたら、いつか自分でも歩いてみたいと思うようになりました。今すぐではないんですけど、知らない町へ行って、そこにしかないものを見てみたいなって」
そこまで話してから、シアは少し慌てた。
「すみません。私ばかり話してしまって」
「いや」
レオンハルトは穏やかに首を振った。
「続けてくれて構わない。楽しそうに話しているのを聞くのは、嫌いじゃない」
その言葉に、シアの指先が袋の持ち手へ触れたまま止まった。
特別な意味を込められたわけではないのだろう。
彼はいつも礼儀正しく、人の話を丁寧に聞いてくれる。
それでも、今の言葉はなぜか胸に残った。
「……ありがとうございます」
シアが少し俯くと、レオンハルトも一瞬だけ視線を落とした。
自分が何を言ったのか、遅れて意識したようだった。
彼女の話を聞くのが楽しい。
それは事実だった。
パンのことでも、本のことでも構わない。彼女が自分で選んだものについて話すとき、その表情が柔らかくなるのを見るのが好きだった。
けれど、それをそのまま言葉にしてよいのかどうかは、まだ分からない。
彼女はここで働き、ようやく自分の暮らしを築き始めたところなのだ。
自分の立場が、彼女に余計な気遣いをさせることもあるだろう。
だから、今はただ、彼女が安心して話せる相手でありたかった。
「この公爵領にも、川沿いの町はいくつかある」
レオンハルトは話題を戻した。
「市場が有名な町もあるし、古い石橋が残っている場所もある。遠出ができるようになったら、訪ねてみるといい」
「本当ですか?」
シアの表情が明るくなる。
「はい。いつか行ってみたいです」
「……そうだな」
レオンハルトは、少しだけ言葉を選んだ。
「そのとき、どんな町だったか聞かせてもらえたら嬉しい」
シアは瞬きをした。
旅に出る約束ではない。
どこかへ一緒に行こうと誘われたわけでもない。
ただ、いつか自分が見た景色の話を聞きたいと言ってくれた。
それだけなのに、胸の奥が静かに温かくなった。
「……はい」
シアはゆっくり頷いた。
「そのときは、ぜひお話ししたいです」
レオンハルトの口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「楽しみにしている」
その言葉を聞いた瞬間、シアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
理由は分からなかった。
けれど、嫌な気持ちではない。
むしろ、その未来を自分も少し楽しみにしていることに気づいた。
レオンハルトは袋を持ち直した。
「では、そろそろ失礼する。仕事の邪魔をしてしまったな」
「いいえ。今は落ち着いていましたから」
シアは微笑んだ。
「私も、お話しできて楽しかったです」
口にしてから、少しだけ驚いた。
仕事中の客へ、そんなことを言ったのは初めてかもしれない。
けれど、言い直したいとは思わなかった。
レオンハルトも一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく笑った。
「……それなら、よかった」
彼は軽く会釈し、店を出ていった。
扉が閉まり、外の冷たい風が途切れる。
シアはしばらく会計台の前に立っていた。
いつもの店内には、いつものパンの香りが満ちている。何か特別なことが起きたわけではないのに、さっきまで交わしていた会話の温かさが、まだ胸に残っていた。
(また、お話しできたらいいな)
自然に浮かんだ思いに、シアは少しだけ驚いた。
レオンハルトは客であり、公爵家の跡取りだ。自分から会いに行くような相手ではない。
けれど、また店へ来てくれたら、そのときは借りた本の続きを話してみたい。
そんなことを考えていると、背後からマルタの声がした。
「シア、楽しそうだったね」
シアは振り返った。
「はい。旅行記の話をしました」
「そうかい」
マルタは微笑み、会計台の横へ新しい包装紙を置いた。
「また話せるといいね」
「……はい」
シアは少し照れたように頷いた。
その表情を見たマルタは、何も言わずに売り場へ戻っていった。
シアも仕事へ戻る。
けれど、その日の午後、図書館から借りた旅行記のことを思い出すたびに、レオンハルトの言葉が一緒に浮かんできた。
――どんな町だったか聞かせてもらえたら嬉しい。
まだ訪れたことのない町の景色が、少しだけ鮮やかに思えた。
◇
《麦穂亭》を出たレオンハルトは、通りの端で待っていた護衛の騎士と合流した。
公爵家の屋敷へ戻る馬車は、少し離れた広場に停めてある。二人は人通りの多い商店街を抜けながら、午後の執務について短く言葉を交わした。
「このあと、商会からの報告書が届く予定です」
「ああ。戻ったら確認する」
「承知しました」
護衛の騎士はそれ以上話しかけず、周囲へ注意を向けた。
レオンハルトも歩調を変えずに進んだが、意識の一部はまだ《麦穂亭》に残っていた。
シアが旅行記について話していたときの表情を思い出す。
知らない町を歩いてみたいと語る彼女は、いつもより少しだけ声が弾んでいた。
仕事の話をするときも楽しそうだが、今日はそれとは違う柔らかさがあった。
(ああいう顔もするんだな)
レオンハルトは、以前の彼女を思い出した。
初めて《麦穂亭》で会った頃、シアはいつも丁寧だった。
言葉遣いも、姿勢も、仕事の進め方も。
けれど、どこか必要以上に慎重で、自分のことを話すときには少し戸惑う様子があった。
それが今では、好きなパンの話をする。
友人と祭りを歩いた思い出を語る。
図書館で借りた本について、目を輝かせながら話してくれる。
その変化が嬉しかった。
同時に、彼女のことをもっと知りたいと思っている自分にも気づいていた。
どんな本が好きなのか。
どんな景色を見てみたいのか。
仕事が終わったあと、どんな時間を過ごしているのか。
知りたいことはいくつもある。
しかし、それを一度に尋ねるつもりはなかった。
彼女が自分から話したいと思ったことを、少しずつ聞ければいい。
レオンハルトは、手にしたパンの袋へ目を落とした。
今日買ったのは、いつもの丸パンと黒麦パンだ。
それでも、店を出るときには少し名残惜しさがあった。
(……また話せるといい)
その思いが、単に常連客として店員と話す楽しさだけではないことを、彼はまだはっきりと言葉にしていなかった。
ただ、彼女が笑顔で「楽しかった」と言ってくれたことが、思いのほか嬉しかった。
それだけは、確かだった。
◇
午後の仕事を終えたシアは、マルタへ声をかけた。
「今日の仕事、終わりました」
「お疲れさま。今日はもういいよ」
「ありがとうございます」
「ミレイユちゃんの布袋、直すんだっけ?」
「はい。昨日預かったので、今日少しずつ直そうと思っています」
「そうかい。無理しないようにね」
「はい」
シアは自室へ戻った。
机の上には、昨夜置いたままの濃紺の布袋がある。
騎士団に入ったとき、先輩から贈られたもの。長く使ってきたからこそ、縫い目がほつれたのだろう。
シアは椅子へ座り、裁縫道具を取り出した。
まず、布袋の状態をもう一度確かめる。
口の部分の縫い目がほどけているが、布そのものは大きく傷んでいない。糸を取り除き、同じ色に近い丈夫な糸を選べば、目立たず直せそうだった。
「……これなら、大丈夫」
小さく呟き、針へ糸を通して慎重に縫い始める。
裁縫は得意だった。
伯爵家にいた頃、自分の衣服を直すことは珍しくなかったし、使用人たちの手が足りないときには、衣装のほつれを直すこともあった。
けれど今は、その技術を誰かに命じられて使っているわけではない。
友達が大切にしているものを、直してあげたい。
ただ、それだけだった。
針を進めながら、シアは昨日の会話を思い出した。
ミレイユが相談してくれた新人騎士のこと。
何でも一人でやろうとして、休むことが苦手な人。
その話を聞いたとき、自分のことを思い出した。
以前の自分なら、休むことは怠けることだと思っていた。
頼ることは迷惑をかけることだと思っていた。
けれど今は、少し違う。
休んでもいい。
頼ってもいい。
そして、自分が誰かの役に立つこともある。
そのことが、嬉しかった。
シアは縫い目を確認した。
糸の間隔は揃っている。
布を引っ張っても、ほつれが広がる様子はない。
最後の部分を丁寧に留め、糸を切った。
「……できました」
思わず声が漏れる。
布袋を両手で持ち、口の部分を開いたり閉じたりして確かめる。
問題はなさそうだった。
しかし、そこで手を止めた。
ただ縫い目を直すだけでよかったのだろうか。
長く使われた布袋だから、ほかにも弱くなっている部分があるかもしれない。
シアは底の縫い目や角の部分も確認した。
大きな傷みはない。
ただ、片側の角だけ少し糸が緩んでいる。
「……ここも直しておこうかな」
そう思いかけて、すぐに考え直した。
ミレイユが頼んだのは、口の部分の修繕だった。
勝手にほかの部分まで手を加えていいのだろうか。
もちろん、壊れそうな場所を直すこと自体は悪くない。
けれど、大切な思い出の品だからこそ、本人の希望を確認した方がいいかもしれない。
シアは布袋を机へ置いた。
(次に会ったとき、聞いてみよう)
自分がよかれと思ったことが、必ず相手の望むこととは限らない。
そのことも、少しずつ学んでいた。
◇
翌日の午後、ミレイユは訓練を終えたあと、《麦穂亭》へ立ち寄った。
店内には焼きたての胡桃パンの香りが漂い、夕方の客が数人、棚の前で商品を選んでいる。
ミレイユは会計台の前に立つシアを見つけ、笑顔で手を振った。
「こんにちは、シア」
「こんにちは、ミレイユさん」
「今日は蜂蜜パンある?」
「はい。あと三つあります」
「じゃあ二つください」
シアはパンを袋へ入れながら、少しだけ嬉しそうに笑った。
「それと、布袋の修繕が終わりました」
「本当?」
「はい。ただ、一つ確認したいことがあって」
シアは会計を終えたあと、マルタへ声をかけた。
「少しだけ、奥へ行ってもいいですか?」
「いいよ。今はあたしが見てるから」
「ありがとうございます」
シアは自室から布袋を持ってきた。
ミレイユと店の奥の卓へ座り、修繕した部分を見せる。
「口の部分は縫い直しました。開け閉めしても問題ないと思います」
ミレイユは布袋を受け取り、指先で縫い目をなぞった。
「……すごい」
「大丈夫そうですか?」
「うん。どこがほつれてたのか分からないくらい綺麗」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、シア」
「よかったです」
シアはほっと息を吐いた。
「それと、底の角の部分も少し糸が緩んでいるんです。まだ使えますけど、今のうちに直しておいた方がいいかもしれません」
「そうなの?」
「はい。ただ、勝手に直すのはどうかと思って、まだ触っていません」
ミレイユは少し驚いたようにシアを見た。
「……そこまで考えてくれたんだ」
「大切なものだと聞いたので」
シアは少し恥ずかしくなり、視線を落とした。
「もしよければ、そこも直せます。でも、今のままがいいなら、そのままにします」
ミレイユはしばらく布袋を見つめていた。
そして、ゆっくり笑った。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「はい」
「でも、急がなくていいからね」
「分かっています」
シアは微笑んだ。
「仕事が終わったあと、時間があるときに直します」
「うん。それでお願い」
ミレイユは布袋をシアへ戻した。
その表情は、いつもより少し柔らかかった。
「シアに頼んでよかった」
その言葉を聞いた瞬間、シアの胸の奥が温かくなった。
誰かに必要とされることは、以前からあった。
けれど、それは自分が役に立つからだった。
仕事ができるから。
帳簿をつけられるから。
言われたことを断らないから。
今は違う。
ミレイユは、自分を友達として頼ってくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
「……私も、頼んでもらえて嬉しかったです」
シアが答えると、ミレイユは少し照れたように笑った。
「じゃあ、これからも頼っちゃおうかな」
「はい。でも、できないことはできないと言いますよ」
「それでいいんだよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
◇
ミレイユが帰ったあと、シアは布袋を自室の机へ置いた。
修繕した口の部分は、綺麗に仕上がっている。
残っているのは、底の角の小さなほつれだけだった。
今すぐ直そうと思えば、できる。
けれど、今日は少し疲れていた。
仕事も忙しかったし、午後にはミレイユと話した。
シアは椅子へ座り、しばらく布袋を見つめた。
(明日でも、いいよね)
ミレイユは急がなくていいと言ってくれた。
自分も、時間があるときに直すと伝えた。
なら、今日は休んでもいい。
シアは裁縫道具を引き出しへしまい、代わりに図書館から借りた旅行記を取り出した。
頁を開く。
川沿いの町では、秋になると小さな収穫祭が開かれるらしい。
市場には果物や焼き菓子が並び、町の人々が集まって食事を楽しむ。
その描写を読みながら、シアは《麦穂亭》の秋穫祭を思い出した。
忙しかった。
けれど、楽しかった。
仕事が終わったあと、ミレイユと一緒に街を歩いた。
自分で欲しいと思った櫛を買った。
蜂蜜林檎パンも売り切れた。
その一つ一つが、今では大切な思い出になっている。
そして今日、もう一つ思い出すことが増えた。
レオンハルトと交わした、旅行記の話。
知らない町へ行ってみたいと言ったとき、彼は笑わなかった。
無理だとも、必要ないとも言わなかった。
ただ、いつか見た景色の話を聞かせてほしいと言ってくれた。
(……楽しみにしている、って)
シアは本の頁へ視線を落とした。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それは、ミレイユに相談を頼まれたときの嬉しさとは、どこか違っていた。
けれど、何が違うのかはまだ分からない。
無理に答えを出す必要もないと思った。
今はただ、また話せたら嬉しい。
その気持ちを、大切にしておきたかった。
シアは旅行記を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕方の空が、少しずつ暗くなっている。
遠くの通りから、子どもたちの笑い声が聞こえた。
以前は、誰かに頼られることが怖かった。
失敗すれば責められると思っていたから。
けれど今は、頼られることが嬉しい。
自分ができることを、相手のために使いたいと思える。
そして、できないことはできないと言える。
それだけではない。
誰かと話す時間を楽しみにしたり、まだ見たことのない景色を想像したりする余裕も生まれていた。
シアは机の上の布袋を見た。
ミレイユが大切にしているもの。
それを直すことは、ただの裁縫ではない。
友達との約束だった。
急がなくていい。
無理をしなくていい。
けれど、丁寧に。
相手の気持ちを大切にしながら。
シアは小さく微笑んだ。
明日、時間があれば続きを直そう。
そして完成したら、ミレイユへ渡そう。
そのとき、きっとまた笑ってくれる。
それから、いつかレオンハルトが店へ来てくれたら、旅行記の続きを話してみたい。
そんな二つの楽しみを胸に、シアは静かに明かりを落とした。




