第38話 私から誘ってもいいですか
朝の冷たい空気が、開店前の《麦穂亭》へ入り込んでいた。
厨房の窓は換気のために少しだけ開けられており、外を通る荷馬車の車輪の音が、焼き上がりを待つパンの香りに混じって聞こえてくる。秋穫祭が終わってから街は普段の落ち着きを取り戻していたが、朝の市場だけは相変わらず活気に満ちていた。
シアは作業台の端で、焼き上がった丸パンを数えながら、注文表と照らし合わせていた。
今日は騎士団への定期納品がある日だ。丸パン二十五個と黒麦パン十五個、合わせて四十個を、決められた時間までに用意することになっている。
数え終えたパンを専用の籠へ移し、ほかの注文と混ざらないよう札を添える。数が多いからといって慌てて運べば、柔らかいパンを潰してしまうこともあるため、籠の底に敷く布の状態まで確かめた。
「騎士団の分、数が揃いました」
シアが声をかけると、オットーは次の生地を扱う手を止めずに頷いた。
「よし。受け渡しの前に、もう一度確認してくれ。昨日、宿の受け取り時間も変わったからな」
「はい。そちらは別の棚にまとめてあります。札にも変更後の時間を書いておきました」
「なら大丈夫だ。最近は安心して任せられる仕事が増えたな」
何気ない言葉だったのだろう。
けれどシアは、籠を持つ手を少しだけ止めた。
「……ありがとうございます」
オットーは振り返り、彼女の表情を見て少し眉を上げた。
「褒めたからって、全部一人でやろうとするなよ。四十個の籠を運ぶときは手を借りろ」
「はい。そこは間違えません」
シアが笑って答えると、オットーも満足そうに頷いた。
以前なら、安心して任せられると言われた瞬間、もっと働かなければならないと思っただろう。期待を裏切らないためには、自分の負担を増やすしかないと考えていた。
今は違う。
任された仕事を正確に終えることと、必要なときに人の手を借りることは、矛盾しない。
シアは籠の持ち手を確かめながら、そんな変化を静かに感じていた。
◇
午前中の納品を終え、店へ戻った頃には、通りの人通りも少し落ち着いていた。
騎士団の受け取り担当者からは、いつも通り数量に問題がないことを確認してもらった。次の定期納品についても変更の申し出はなく、シアは受領の記録を帳簿へ書き込んだ。
売り場ではマルタが客の相手をしており、焼きたての胡桃パンを勧める声が聞こえる。シアは手を洗ってから会計台へ戻り、空いた時間に包装紙の残りを確認した。
そんなとき、店の扉が開いた。
「こんにちは、シア!」
明るい声に顔を上げると、ミレイユが入口に立っていた。
今日は騎士服の上に薄い外套を羽織っており、頬には外の冷たい風を受けた赤みが残っている。訓練の合間なのか、いつもより少し急いだ足取りで会計台へ近づいてきた。
「こんにちは、ミレイユさん。今日はお早いんですね」
「午前の訓練が少し早く終わったの。午後は報告書の整理があるから、その前にお昼を買っておこうと思って」
「それなら、丸パンと胡桃パンがまだありますよ」
「じゃあ、丸パン二つと胡桃パン一つお願い」
シアは注文されたパンを袋へ入れ、代金を受け取った。
その間、ミレイユは会計台の向こうにいる彼女をじっと見ていた。
「……どうかしましたか?」
「ううん。なんだか最近、前より楽しそうだなと思って」
シアは少し驚いた。
「そうでしょうか?」
「うん。前も笑ってたけど、最近は自然に笑うことが増えた気がする」
ミレイユはそう言ってから、少し慌てたように手を振った。
「あ、別に前が悪かったって意味じゃないよ。ただ、仕事してるときも、何か嬉しいことがあったときも、表情が分かりやすくなったなって」
シアは返事をする前に、少しだけ考えた。
自分では、それほど変わったつもりはない。
毎朝起きて、パン屋で働いて、食事をして、夜には本を読む。休みの日には街へ出かけることもあり、ミレイユと会えば仕事以外の話もする。
以前は想像できなかった生活だった。
(楽しいと思えることが、増えたからかもしれない)
「……最近、好きなことが増えたんです」
シアが答えると、ミレイユは嬉しそうに身を乗り出した。
「例えば?」
「パン作りもそうですし、図書館で本を読むことも。それから、友達とお話しする時間も好きです」
「図書館?」
ミレイユが目を丸くした。
「もしかして、利用証を作れたの?」
「はい。少し前に登録して、本も一冊借りました」
「本当!? よかったじゃない!」
思いのほか大きな声になり、近くで商品を選んでいた客がこちらを振り返った。
ミレイユは慌てて口元を押さえ、シアと顔を見合わせる。
「……ごめん、嬉しくて」
「ふふっ。ありがとうございます」
シアは小さく笑った。
以前、ミレイユと図書館の話をしたとき、いつか利用してみたいと伝えていた。そのことを覚えていてくれたのだと思うと、嬉しさが増した。
「何を借りたの?」
「『川沿いの町を歩く』という旅行記です。いろいろな町の市場や、そこで暮らす人たちのことが書かれているんです」
「へえ、旅行記か。シアらしいような、ちょっと意外なような」
「私も、最初は仕事に関係する本を借りようと思っていたんです。でも、せっかくなら普段読まないものにしてみようと思って」
「それ、いいと思う。せっかくの自分の時間だもんね」
ミレイユは嬉しそうに頷いた。
その言葉を聞き、シアはふと昨夜のことを思い出した。
旅行記を読みながら、知らない町へ行ってみたいと考えたこと。
レオンハルトが、いつか見た景色の話を聞かせてほしいと言ってくれたこと。
そして、いつかという遠い未来だけではなく、今の自分にも何かできることがあるのではないかと思ったこと。
シアは少し迷ってから、ミレイユへ声をかけた。
「あの、ミレイユさん」
「ん?」
「今度のお休みの日に、少しお付き合いしていただきたい場所があるんですけど……」
言い終える前から、胸が少し速く打ち始めた。
誰かに誘われることはあっても、自分から誘うことにはまだ慣れていない。相手に予定があるかもしれないし、せっかくの休みを使わせてしまうかもしれない。
けれど、ミレイユはすぐに笑顔になった。
「もちろん! どこへ行きたいの?」
「街の川沿いを、少し歩いてみたいんです」
「川沿い?」
「はい。旅行記を読んでいたら、川の近くにある市場や橋を見てみたくなって……。遠くの町へ行くのはまだ難しいですけど、この街にも綺麗な場所があるんじゃないかと思ったんです」
ミレイユは少し考えるように視線を上げた。
「それなら、南側の石橋の近くがいいかも。川沿いに歩ける道があるし、天気がよければ景色も綺麗だよ」
「そうなんですか?」
「うん。市場から少し離れてるから、そこまで人も多くないし。休みの日にのんびり歩くにはちょうどいいと思う」
シアの表情が明るくなる。
「行ってみたいです」
「じゃあ、一緒に行こう!」
ミレイユは即答したあと、少しだけ首を傾げた。
「でも、シアの次のお休みっていつ?」
「まだ確認していないんです。今日、マルタさんに聞いてみようと思っています」
「そっか。私も勤務表を見ておくね。予定が合えば、ぜひ行こう」
「ありがとうございます」
シアはほっと息を吐いた。
まだ日程は決まっていない。
けれど、自分から誘えた。
そして、ミレイユは喜んでくれた。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
◇
午後の仕事が落ち着いた頃、シアはマルタへ声をかけた。
「マルタさん、少しお聞きしてもいいですか?」
「何だい?」
「次のお休みの日を確認したいんです」
マルタは会計台の下から勤務予定を書いた紙を取り出した。
「次の休みなら、三日後だね。何か予定でもできたのかい?」
「はい。ミレイユさんと、街の川沿いを歩いてみようと思っているんです」
マルタは一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「へえ、いいじゃないか。今度はシアから誘ったの?」
「……はい」
「そうかい」
マルタは予定表を畳みながら、少しだけ声を柔らかくした。
「楽しんでおいで。仕事のことは気にしなくていいからね」
「ありがとうございます」
「それにしても、川沿いか。今の季節なら、夕方の景色が綺麗だろうね」
「そうなんですか?」
「ああ。南側の石橋のあたりは、夕日が川に映るんだよ。昔から、あの辺りは散歩する人が多いんだ」
シアはその景色を想像した。
川面に映る夕日。
石橋。
秋の風。
そして、隣にはミレイユがいる。
旅行記の中で読んだような景色を、自分の目で見ることができるかもしれない。
「……楽しみです」
思わず漏れた言葉に、マルタは優しく頷いた。
「うん。そういう楽しみは、いくつあってもいいんだよ」
◇
その日の夕方、シアは仕事を終えると、自室へ戻った。
机の上には、修繕途中の濃紺の布袋が置かれている。
ミレイユから預かった大切なもの。
口の部分はすでに直してあり、残っているのは底の角の小さなほつれだけだった。
シアは椅子へ座り、裁縫道具を取り出した。
針へ糸を通し、布の状態を確かめながら、少しずつ縫い進める。
以前なら、頼まれたことはできるだけ早く終わらせなければならないと思っていただろう。
けれど今は、無理のない時間を選び、丁寧に仕上げることを大切にしている。
ミレイユが急がなくていいと言ってくれたことも、シアの気持ちを軽くしていた。
縫い目を整え、最後の糸を留める。
布袋を裏返して確認すると、底の角も綺麗に補強できていた。
「……できました」
シアは小さく微笑んだ。
口を開け閉めし、底の部分を軽く押してみる。
使ううえで問題はなさそうだった。
これなら、ミレイユへ返せる。
シアは布袋を丁寧に畳み、机の端へ置いた。
(次に会ったとき、渡そう)
そのとき、ふと別のことを思い出した。
ミレイユに、三日後の休みを伝えなければならない。
騎士団の勤務がどうなっているかは分からないが、予定が合えば一緒に川沿いを歩ける。
シアは小さな紙を取り出し、忘れないように書き留めた。
以前なら、休みの日の予定を自分から作ることなど考えなかった。
休めるなら、次の仕事の準備をする。
空いた時間があれば、何か役に立つことを探す。
そんな毎日だった。
けれど今は、休みの日に何をしたいかを考えている。
しかも、一人ではなく、友達と一緒に。
(……本当に、変わったな)
シアは紙を見つめながら、少しだけ笑った。
◇
翌日、ミレイユは騎士団の勤務表を確認していた。
訓練場の隅にある掲示板には、今週の当番と休暇の予定が書かれている。ミレイユは自分の名前を探し、三日後の欄へ目を向けた。
「……あ、空いてる」
思わず声が漏れた。
隣で勤務表を見ていた同僚の女性騎士が、首を傾げる。
「何か予定でもあるの?」
「うん。友達と出かけるかもしれなくて」
「へえ。珍しいね、ミレイユがそんなに嬉しそうなの」
「そう?」
「うん。最近、よくその友達の話をしてるでしょ」
ミレイユは少し考えた。
確かに、シアの話をすることは増えたかもしれない。
パン屋で働いている友達。
真面目で、少し遠慮がちで、でも最近はよく笑うようになった女の子。
最初に会った頃は、どこか無理をしているように見えた。
けれど今は、自分の好きなことを話し、休みの日に出かけたいと言えるようになっている。
その変化が嬉しかった。
「……大事な友達なんだ」
ミレイユが答えると、同僚は穏やかに笑った。
「それなら、予定が合うといいね」
「うん」
ミレイユは勤務表をもう一度確認した。
三日後は休み。
シアも同じ日が休みなら、一緒に出かけられる。
しかも、今回はシアから誘ってくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
(シアから誘ってくれるなんて、最初の頃は想像できなかったな)
ミレイユは小さく笑った。
友達だから、頼ってもいい。
友達だから、一緒に出かけたいと言ってもいい。
シアが少しずつそう思えるようになっているなら、自分も嬉しい。
ミレイユは勤務表を閉じ、訓練場へ戻った。
◇
その日の午後、ミレイユは《麦穂亭》へ立ち寄った。
店内には焼きたての蜂蜜パンの香りが漂い、会計台の向こうではシアが帳簿を整理していた。
「こんにちは、シア!」
「こんにちは、ミレイユさん」
シアは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「ちょうどお伝えしたいことがあったんです」
「私も!」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
ミレイユが先に口を開く。
「三日後、休みだったよ」
「本当ですか?」
「うん。シアは?」
「私も、その日がお休みです」
「じゃあ、決まりだね!」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
シアも自然と頬が緩む。
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。せっかくだし、お昼を食べてから川沿いへ行こうか」
「いいですね」
「途中に小さな菓子屋もあるから、気になったら寄ってみてもいいし」
シアは少しだけ目を輝かせた。
「菓子屋さんもあるんですか?」
「うん。焼き菓子が美味しいって評判なんだよ」
「……それは、少し気になります」
ミレイユは楽しそうに笑った。
「シア、食べ物の話になると本当に嬉しそうだね」
「すみません」
「謝らなくていいって。私も好きだし」
二人はしばらく、当日の予定について話した。
昼食を食べてから出かけること。
南側の石橋を目指して歩くこと。
天気が悪ければ、無理をせず別の日にすること。
そして、時間があれば菓子屋へ立ち寄ること。
大きな旅行ではない。
遠い町へ行くわけでもない。
けれど、シアにとっては十分に楽しみな予定だった。
「あ、それと」
シアは思い出したように言った。
「布袋の修繕、終わりました」
「本当?」
「はい。少しお待ちください」
シアはマルタへ声をかけ、奥から布袋を持ってきた。
ミレイユは受け取ると、口の部分と底の角を丁寧に確かめた。
「……すごい。綺麗になってる」
「使ううえでは問題ないと思います」
「ありがとう、シア。本当に助かった」
ミレイユは布袋を両手で包み、嬉しそうに笑った。
「これ、ずっと使いたかったんだ」
「大切なものですものね」
「うん」
ミレイユは少しだけ視線を落とした。
「騎士団に入ったばかりの頃、私も結構失敗してたんだよね。訓練についていけなくて、落ち込むこともあったし」
シアは黙って聞いていた。
「そのとき、先輩がこれをくれたの。小物を失くさないようにって。最初はただの袋だと思ってたけど、使ってるうちに手放せなくなっちゃって」
ミレイユは懐かしそうに笑った。
「だから、直してもらえて嬉しい」
シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
大切な思い出があるものを、自分が直した。
そのことが、嬉しかった。
「……よかったです」
シアが微笑むと、ミレイユも笑った。
「今度のお出かけ、私がお菓子をご馳走するね」
「えっ?」
「お礼!」
シアは少し慌てた。
「そんな、気にしないでください。私が好きで直したんですから」
「分かってる。でも、私も何かしたいんだよ」
ミレイユは少しだけ真剣な表情になった。
「友達だから、ありがとうって伝えたいの」
その言葉に、シアは返事を止めた。
友達だから。
頼ってもいい。
頼られてもいい。
そして、感謝を伝え合ってもいい。
シアは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「……では、お菓子を一つだけ、ご馳走になってもいいですか?」
「もちろん!」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、楽しみにしててね」
「はい」
シアも微笑んだ。
今度の休みが、ますます楽しみになった。
◇
夜、自室へ戻ったシアは、図書館から借りた旅行記を開いた。
川沿いの町の市場。
古い石橋。
夕日に染まる水面。
頁の中に描かれた景色を眺めながら、三日後の予定を思い浮かべる。
ミレイユと一緒に歩く川沿いの道。
途中で立ち寄るかもしれない菓子屋。
そして、何気ない会話。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
(……私から誘って、よかった)
以前なら、相手の都合を考えすぎて、結局何も言えなかっただろう。
迷惑かもしれない。
断られたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は、少し違う。
相手にも予定がある。
だから、都合を聞けばいい。
断られたら、また別の日を考えればいい。
それだけのことだった。
シアは本を閉じ、机の上に置いた。
窓の外では、秋の風が静かに吹いている。
遠い街へ来たとき、彼女は自分の人生をやり直すことだけを考えていた。
働いて、お金を貯めて、誰にも頼らず生きていく。
それができれば十分だと思っていた。
けれど今は、少しずつ欲しいものが増えている。
好きな仕事。
読んでみたい本。
友達と過ごす時間。
知らない景色。
そして、いつか誰かに話したくなるような思い出。
シアは小さく微笑んだ。
三日後が楽しみだった。
明日も明後日も仕事はある。
けれど、その先に自分で決めた予定が待っている。
それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
シアは明かりを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、秋の夜が静かに深まっていく。
今度の休みには、どんな景色が見られるだろう。
どんな話をするだろう。
そんなことを考えながら、シアは穏やかな気持ちで目を閉じた。




