第39話 川沿いの道で見つけたもの
休日の朝、シアは窓から差し込む柔らかな日差しに目を覚ました。
薄いカーテンの向こうには澄んだ秋空が広がり、遠くから荷馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。階下ではすでに《麦穂亭》の仕事が始まっているらしく、焼きたてのパンの香りが二階の部屋にまで届いていた。
いつもなら、その香りを感じる頃には厨房で生地を整えている。
けれど今日は、マルタとオットーから休むように言われている日だった。
そして、ただの休日ではない。
(今日は、ミレイユさんと川沿いへ行く日だ)
そう思った途端、シアの口元に自然と笑みが浮かんだ。
数日前、自分からミレイユを誘ったときのことを思い出す。断られるかもしれないという不安はあったが、ミレイユは嬉しそうに頷いてくれた。勤務表を確認したあとも、わざわざ店まで知らせに来てくれたのだ。
そのときの笑顔を思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。
シアは寝台から起き上がり、窓を少し開けた。
ひんやりとした空気が頬に触れ、思わず肩をすくめる。通りの向こうでは、籠を抱えた女性が隣人と挨拶を交わしており、まだ幼い子どもが母親の手を引きながら何かをねだっていた。
どこにでもある、穏やかな朝の風景だった。
けれど、シアにとっては、その何気なさが今でも少し不思議だった。
誰かの機嫌をうかがいながら起きる必要がない。
朝から怒鳴られることを心配しなくてもいい。
今日の予定を、自分で楽しみにしていてもいい。
遠い街へ来てから何度も感じてきたことだが、こうして休日の朝を迎えるたびに、そのありがたさを新しく実感する。
(今日は、仕事のことを考えすぎないようにしよう)
もちろん、パン屋の仕事が嫌になったわけではない。
むしろ、今では仕事をしている時間が好きだった。
けれど、好きな仕事があることと、休日まで仕事のことだけを考えることは違う。マルタもオットーも、そのことを何度も教えてくれた。
シアは窓を閉め、衣装箱から外出用の服を取り出した。
選んだのは、落ち着いた淡い青色のワンピースだった。派手な装飾はなく、袖口と襟元に控えめな刺繍が入っているだけだが、動きやすく、街を歩くにはちょうどいい。
その上から、秋の冷たい風を防ぐために薄手の上着を羽織る。
髪を整えるために鏡の前へ立つと、引き出しにしまっていた麦穂模様の櫛が目に入った。
秋穫祭で、自分のために選んだものだった。
あの日、店先で何度も手に取って迷ったことを思い出す。生活に絶対必要なものではないから、買うべきではないのではないかと考えた。
それでも、最後には自分の気持ちを優先して買った。
今では、その選択を後悔していない。
シアは櫛を手に取り、髪へ差し込んだ。
続いて、空色のリボンを取り出す。
櫛だけでも十分だろうかと少し迷ったが、今日は友達と出かける日なのだから、いつもより少しお洒落をしてもいいと思った。
鏡の中の自分を確かめながら、リボンの位置を整える。
「……これで、いいかな」
誰に聞かせるでもなく呟くと、鏡の中の少女も少し照れたように笑っていた。
その表情を見て、シアはふと思った。
(以前の私なら、こんなふうに鏡の前で迷うこともなかったかもしれない)
伯爵家にいた頃、身につけるものを選ぶ基準は、自分が好きかどうかではなかった。
家の名に恥じないか。
継母に目をつけられないか。
異母妹より目立っていないか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は、自分が気に入った櫛をつけ、自分が好きな色のリボンを結んでいる。
それだけのことなのに、今日という日が少し特別に思えた。
◇
階下へ降りると、マルタが朝食の支度をしていた。
食卓には温かな野菜のスープと丸パンが用意されており、厨房からはオットーが生地を扱う音が聞こえてくる。
「おはようございます、マルタさん」
「おはよう、シア。今日はずいぶんいい顔をしてるね」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。楽しみにしてたんだろう?」
マルタは笑いながら、シアの前へスープの器を置いた。
シアは少し照れたように頷く。
「はい。ミレイユさんと一緒に、川沿いを歩く約束をしているので」
「それは聞いてるよ。天気もよくなってよかったね」
「昨日の夜は少し風が強かったので、心配していたんです」
「この空なら、しばらくは大丈夫そうだね。ただ、川の近くは風が冷たいから、帰りが遅くなるなら気をつけるんだよ」
「はい。上着も持っていきます」
マルタは満足そうに頷き、シアの髪へ目を向けた。
「あら、その櫛。今日はリボンも一緒なんだね」
「はい。少しだけ、お洒落をしてみました」
「よく似合ってるよ。せっかくのお出かけなんだから、それくらい楽しみな」
「ありがとうございます」
シアは微笑み、温かなスープを口へ運んだ。
柔らかく煮込まれた野菜の甘みが広がり、体の内側から少しずつ温まっていく。
朝食を食べながら、シアは今日の予定を思い返した。
中央広場でミレイユと待ち合わせ、昼食を取ってから南側の石橋へ向かう。川沿いの道を歩き、時間があれば近くの菓子屋にも寄る予定だった。
遠くへ旅をするわけではない。
大きな催しがあるわけでもない。
けれど、自分で決めた予定があるというだけで、朝からこんなにも気持ちが弾んでいる。
「そういえば、図書館の本は読み終わったのかい?」
マルタの問いかけに、シアは顔を上げた。
「はい。昨夜、最後まで読みました」
「そうかい。面白かった?」
「とても。川沿いの町を紹介している本なんですけど、景色だけではなく、そこで暮らしている人たちのことも書かれているんです」
話し始めると、自然と言葉が増えた。
「町によって市場で売られているものが違ったり、川の流れを利用して荷物を運んでいたりして、同じ公爵領の中でも暮らし方が違うんだなと思いました」
マルタは楽しそうに耳を傾けていた。
「へえ。仕事の本じゃなくても、勉強になることはあるもんだね」
「はい。でも、勉強しようと思って読んだわけではないんです。ただ、知らない場所のことを知るのが楽しくて」
「それが一番いいんじゃないかい」
マルタは穏やかに笑った。
「本っていうのは、何かの役に立てるためだけに読むものじゃないだろう?」
シアは少し考えてから頷いた。
「……そうですね」
伯爵家にいた頃は、読む本にも理由が必要だった。
礼儀作法を学ぶため。
帳簿の知識を得るため。
家の仕事を滞りなく進めるため。
何かを楽しむためだけに本を開くことなど、ほとんどなかった。
けれど、今回借りた旅行記には、明確な目的がなかった。
ただ読みたかったから借りた。
そして、読んでいるうちに実際の景色を見たくなった。
その結果、今日の約束が生まれたのだ。
「返却日は、もう少し先だったね」
「はい。でも、読み終わったので、明日にでも返しに行こうと思っています。仕事が終わる時間と図書館の開館時間を確認してからになりますけど」
「そうするといいよ。借りたものは、忘れないうちに返した方が安心だからね」
シアは頷いた。
図書館の利用証を作ったとき、司書から借りられる冊数と期限を教えてもらった。
二冊まで、十日間。
初めて自分の名前で本を借りたときの嬉しさは、今でも覚えている。
返却を終えたら、今度は何を借りよう。
そのことも、楽しみの一つになっていた。
◇
昼前、シアは《麦穂亭》を出発した。
中央広場へ続く通りには、休日を楽しむ人々の姿があった。買い物籠を提げた夫婦や、手をつないで歩く親子、仕事仲間らしい数人の若者たちが、それぞれ楽しそうに言葉を交わしている。
店先には秋の果物が並び、焼き栗の香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。
シアは歩きながら、街の様子を眺めた。
《麦穂亭》で働くようになってから、この街の道にも少しずつ慣れてきた。
市場へ続く道。
騎士団の施設へ向かう道。
図書館のある通り。
よく利用する店の場所も覚え、顔見知りになった商人もいる。
それでも、今日歩く予定の川沿いは、まだ行ったことのない場所だった。
(同じ街なのに、知らないところがたくさんあるんだ)
そう考えると、これから先の暮らしが少し楽しみになる。
毎日同じ仕事をしていても、休日に違う道を歩けば、新しい景色に出会えるかもしれない。
それは、これまでのシアにはなかった発想だった。
中央広場へ着くと、噴水の近くにミレイユの姿が見えた。
今日は騎士服ではなく、落ち着いた深緑色の上着と動きやすい長いスカートを身につけている。赤茶色の髪は普段と同じように後ろでまとめられていたが、結び目には小さな飾りがついていた。
「シア!」
ミレイユは彼女を見つけると、嬉しそうに手を振った。
「こんにちは、ミレイユさん。お待たせしましたか?」
「ううん、私も今来たところ。今日はいい天気になったね」
「はい。お出かけにはちょうどよさそうです」
二人は顔を見合わせて笑った。
ミレイユはシアの髪へ視線を向けると、目を輝かせた。
「あ、その櫛! 秋穫祭で買ったやつだよね?」
「はい。今日はつけてみました」
「やっぱり似合うね。リボンも可愛いし、すごくいいと思う」
「ありがとうございます。ミレイユさんも、今日はいつもと雰囲気が違って素敵です」
シアがそう言うと、ミレイユは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、少し照れたように笑う。
「ありがとう。騎士服じゃないと落ち着かないこともあるんだけど、今日はこれでよかったかな」
「とてもお似合いです」
「ふふっ。シアに褒めてもらえると嬉しいな」
ミレイユは自分の袖口を軽く整えた。
騎士団では、制服を着ている時間が長い。
訓練中も任務中も、動きやすさや規律が優先される。休日に私服を選ぶことはできるが、普段はそれほど気にしていなかった。
それでも今日は、シアと出かけるのだから少しはお洒落をしたいと思った。
そのことを本人に言うのは少し恥ずかしく、ミレイユは別の話題を選んだ。
「まずはお昼にしようか。川沿いまで歩く前に、腹ごしらえしておいた方がいいと思うんだ」
「はい。よろしくお願いします」
「じゃあ、私がよく行く食堂があるから、そこにしよう」
二人は並んで歩き始めた。
秋穫祭のときも一緒に街を歩いたが、今日はまた違う楽しさがあった。
祭りの賑わいに包まれた特別な日ではなく、普段の街を二人で歩く。
そんな何気ない時間を楽しめることが、シアには嬉しかった。
◇
ミレイユが案内してくれた食堂は、中央広場から少し南へ進んだ場所にあった。
木製の看板には鍋の絵が描かれており、入口の脇にはその日の料理を書いた小さな札が掛けられている。窓からは温かな明かりが漏れ、扉を開けると香草と煮込み料理の香りが二人を迎えた。
店内は昼食を楽しむ客で賑わっていたが、幸い窓際の卓が一つ空いていた。
二人はそこへ案内され、ミレイユが勧める煮込み料理を注文した。
「ここの料理、野菜がたくさん入ってて美味しいんだよ。騎士団の仲間と来ることもあるんだけど、寒い時期は特に人気なの」
「楽しみです。外を歩いていたら、少し体が冷えてきたので」
「そうだよね。川沿いはもっと風が冷たいから、先に温まっておこう」
料理を待つ間、二人は最近の出来事を話した。
ミレイユは騎士団の訓練が少しずつ冬向けの内容へ変わり始めたことを教えてくれた。朝の冷え込みが強くなるため、体を温める時間を十分に取らないと、思わぬ怪我につながることがあるらしい。
シアも《麦穂亭》での仕事について話した。
気温が下がるにつれて生地の発酵に気を配る必要があることや、朝の仕込みでオットーがいつも以上に時間を確認していること。
仕事内容はまったく違うのに、季節の変化へ対応しなければならない点は似ている。
「面白いね。騎士団もパン屋も、寒くなると気をつけることが増えるんだ」
ミレイユが笑うと、シアも頷いた。
「そうですね。私はまだ教えていただくことばかりですけど、少しずつ覚えていきたいです」
「でも、もう結構いろいろできるんじゃない?」
「できることは増えました。でも、まだオットーさんに確認しなければ分からないこともありますし、マルタさんのようにお客様の様子を見て対応するのも難しくて」
シアは少し考えてから続けた。
「ただ、分からないことがあっても、以前ほど怖くなくなりました。聞けば教えていただけますし、間違えたときも、次にどうすればいいかを考えられるので」
ミレイユはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それって、すごくいいことだと思う」
「そうでしょうか?」
「うん。分からないことを聞ける場所って、大事だから」
その声には、普段より少しだけ実感がこもっていた。
シアは以前、ミレイユから相談された新人騎士のことを思い出した。
何でも一人でやろうとして、助けを求めることが苦手な人。
自分にも、よく似たところがあった。
「あの、新人騎士の方は、その後いかがですか?」
シアが尋ねると、ミレイユは嬉しそうに頷いた。
「少しずつだけど、変わってきたよ。この前、自分から手伝ってほしいって言ってくれたんだ」
「本当ですか?」
「うん。装備の整理をしていたときなんだけど、一人じゃ時間がかかりそうだったからって、隣にいた先輩へ声をかけたの」
ミレイユは当時の様子を思い出しながら笑った。
「手伝ってもらったあと、何度も謝ろうとしてたけど、先輩が『助かったならそれでいい。次はお前が誰かを手伝えばいい』って言ってくれてね」
シアは静かに耳を傾けた。
「その子、最初は驚いてた。でも最後には、ちゃんとありがとうって言えたんだ」
「……よかったです」
シアの声にも、自然と安堵が混じった。
自分が相談を受けたとき、すぐに何かが変わるとは思っていなかった。
長く身についた考え方は、簡単には変わらない。
それでも、周囲の人が少しずつ安心できる経験を重ねさせてくれれば、いつか助けを求めることが怖くなくなるかもしれない。
「シアが話してくれたこと、参考になったよ」
ミレイユが言った。
「休んでいいって言うだけじゃなくて、実際に休んでも困らないようにすることが大事なんだって、私も考えるようになった」
「私も、まだ練習中です」
シアは少し照れたように笑った。
「でも、ミレイユさんが相談してくださったことは、嬉しかったです」
「私も、シアに話してよかった」
二人の間に、穏やかな沈黙が生まれた。
そのとき、料理が運ばれてきた。
深い器には柔らかく煮込まれた肉と野菜が盛られ、湯気とともに香草の香りが立ち上っている。添えられたパンは表面が軽く焼かれており、温かな煮込み料理によく合いそうだった。
シアは一口食べ、思わず目を細めた。
「……美味しいです」
「でしょ?」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「ここの煮込み、味がしっかりしてるのに、食べ終わったあと重たくならないんだよね」
「野菜の甘みがよく出ています。それに、香草の香りも強すぎなくて、食べやすいです」
「シアって、本当に食べ物のことをよく見てるね」
「パン屋で働くようになってから、前より気になるようになったんです」
シアは照れたように答えた。
「何を使っているのか、どういう味の組み合わせなのか、つい考えてしまって」
「それだけ仕事が好きなんだね」
ミレイユはそう言ってから、少し首を傾げた。
「でも、今日は食べる方も楽しんでね。せっかくのお休みなんだから」
シアは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「はい。そうします」
料理を味わいながら、二人は仕事とは関係のない話もした。
最近読んだ本のこと。
街で見かけた可愛い小物のこと。
寒くなったらどんな服を着たいかということ。
ミレイユは剣術の本だけでなく、料理の本も読むことがあるらしい。ただし、読んだからといって必ずしも上手に作れるわけではないと、少し困ったように笑った。
「この前も、簡単そうな焼き菓子を作ってみたんだけど、思ってたより硬くなっちゃって」
「焼き時間が長かったんでしょうか?」
「たぶん。途中で確認すればよかったんだけど、書いてある時間を信じすぎたみたい」
「窯や材料の状態でも変わりますから、難しいですよね」
シアが真剣に答えると、ミレイユは笑った。
「そういうところ、やっぱりシアはパン屋さんだね」
「……すみません。また仕事の話に」
「いいんだって。シアが楽しそうに話してくれるなら、私も楽しいから」
その言葉に、シアは嬉しそうに微笑んだ。
以前なら、自分の話ばかりしてはいけないと考え、途中で口を閉ざしていただろう。
けれど、ミレイユは話を聞いてくれる。
興味を持って質問してくれる。
そして、自分のことも話してくれる。
会話とは、こういうものなのかもしれない。
どちらか一方が相手を楽しませ続ける必要はない。
互いに話し、聞き、笑い合う。
その時間が、シアには心地よかった。
◇
昼食を終えた二人は、街の南側へ向かった。
中央広場から離れるにつれて、道の雰囲気は少しずつ変わっていった。
大きな商店が並ぶ通りを抜けると、小さな工房や住宅が増え、石畳の幅も少し狭くなる。窓辺には鉢植えが置かれ、家の前では年配の女性が洗濯物を取り込んでいた。
近くの工房からは木を削る音が聞こえ、通りの角では少年が犬と遊んでいる。
シアは歩きながら、その一つ一つを眺めた。
「この辺りは、初めて来ました」
「そうなんだ。中央広場からは少し離れてるし、用事がなければあまり通らないかもしれないね」
「はい。でも、落ち着いた雰囲気で素敵ですね」
「私も好きなんだ。訓練が休みの日に、たまに散歩することがあるよ」
ミレイユは通りの先を指さした。
「あの角を曲がると、川が見えてくるはず」
シアは自然と歩く速度を少し上げた。
やがて、建物の間から明るい光が差し込み、遠くから水の流れる音が聞こえてきた。
角を曲がった瞬間、視界が大きく開ける。
そこには、ゆったりと流れる川があった。
川幅はそれほど広くないが、水面には青空が映り、陽の光を受けて細かな波がきらきらと輝いている。両岸には黄色や赤に色づいた木々が並び、落ち葉が風に揺られながら石畳の上を転がっていた。
少し先には古い石橋が架かっている。
灰色の石を積み重ねて造られた橋は、長い年月を経てもなお堂々とした姿を保っていた。欄干には控えめな装飾が施され、橋の上を歩く人々が、ときおり足を止めて川を眺めている。
「……綺麗」
シアは思わず呟いた。
ミレイユは隣で微笑んだ。
「でしょ? 私も初めて来たとき、同じことを思ったよ」
「こんな場所があったんですね」
「街の中心から少し離れてるから、知らない人もいると思う。でも、地元の人には結構人気なんだよ」
シアは川の方へ数歩進み、石垣の手前で足を止めた。
水面には空の色だけでなく、岸辺の木々の影も映っている。
風が吹くたびに波紋が広がり、映った景色が細かく揺れた。
旅行記の中で読んだ川沿いの町を思い出す。
あの本には、古い橋のある町や、水運で栄えた市場のことが書かれていた。
けれど、頁の中の景色には音も匂いもなかった。
今、目の前にある川には、水の流れる音がある。
秋風の冷たさがある。
木々の葉が擦れ合う音や、橋を渡る人々の話し声がある。
(本で読むのも楽しかったけど、自分の目で見ると、こんなに違うんだ)
シアは胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
遠くの町へ行かなくても、知らない景色はある。
自分が暮らしている街の中にも、まだ見たことのない場所がある。
そのことが嬉しかった。
「少し歩いてみようか」
ミレイユの声に、シアは頷いた。
「はい。ぜひ」
二人は川沿いの道をゆっくり歩き始めた。
◇
川沿いの道は、思っていたよりも歩きやすかった。
低い石垣の向こうには川が流れ、反対側には住宅や小さな庭が並んでいる。道の途中には木製の長椅子が置かれ、年配の夫婦が並んで景色を眺めていた。
少し先では、幼い子どもが父親と一緒に落ち葉を拾っている。
子どもは赤く色づいた葉を見つけるたびに歓声を上げ、父親へ見せていた。
シアはその様子を眺めながら、穏やかな気持ちになった。
ここには、特別な催しがあるわけではない。
誰かが大きな声で客を呼び込んでいるわけでもない。
それでも、人々はそれぞれの時間を楽しんでいる。
「こういう場所、いいですね」
シアが言うと、ミレイユは頷いた。
「うん。私も、何も考えずに歩きたいときはここへ来ることがあるよ」
「ミレイユさんにも、そういうときがあるんですか?」
「もちろん。騎士だって、ずっと気を張っていられるわけじゃないからね」
ミレイユは少し笑った。
「訓練がうまくいかなかった日とか、考えることが多かった日とか。そういうとき、ここを歩いてると少し落ち着くんだ」
シアは隣を歩く友人を見た。
ミレイユはいつも明るく、頼りになる人だった。
騎士として働き、周囲の人を気遣い、困っている相手がいれば自然に手を差し伸べる。
そんな彼女にも、疲れる日や悩む日がある。
当たり前のことなのに、改めて聞くと少し新鮮だった。
「……私も、そういう場所を見つけたいです」
シアが言うと、ミレイユは穏やかに微笑んだ。
「今日、ここがそうなったら嬉しいな」
「はい。もう、少しそうなっている気がします」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあと、しばらく言葉を交わさずに歩いた。
沈黙は気まずくなかった。
水の音を聞き、風に揺れる木々を眺めながら、同じ道を歩く。
無理に話題を探さなくてもいい。
その心地よさが、シアには新鮮だった。
しばらく進むと、道の脇に小さな石碑が立っているのが見えた。
表面には古い文字が刻まれていたが、長い年月のために一部が読みづらくなっている。
「これは何でしょう?」
シアが尋ねると、ミレイユは石碑を見つめた。
「昔、この川が増水したときに、街の人たちが協力して堤を直した記念だって聞いたことがあるよ」
「そうなんですか」
「詳しい年代までは覚えてないけどね。騎士団の先輩が、巡回のときに教えてくれたんだ」
シアは石碑へ近づき、読める部分を確かめた。
そこには、川の整備に関わった人々の名が刻まれていた。
貴族の名だけではない。
職人や商人らしい名前も並んでいる。
シアはその文字をしばらく見つめた。
「……たくさんの人が関わったんですね」
「うん。川は便利だけど、増水すると危険なこともあるからね。今でも、雨が続く時期には見回りが増えるんだ」
ミレイユは川の方へ視線を向けた。
「街を守る仕事って、剣を持つことだけじゃないんだなって、騎士団に入ってから思うようになったよ」
その言葉に、シアは静かに頷いた。
自分が暮らしている街には、多くの人の仕事が積み重なっている。
道を整える人。
橋を修繕する人。
食べ物を作る人。
商売をする人。
そして、街の安全を守る人。
その一つ一つがあるから、今の暮らしが成り立っている。
(私も、その中の一人なんだ)
パン屋で働く自分の仕事も、誰かの日常につながっている。
朝食にパンを買う人。
仕事の合間に食べる人。
家族のために持ち帰る人。
大きな仕事ではないかもしれない。
けれど、自分が焼くのを手伝ったパンが、誰かの一日を支えている。
そう考えると、少し誇らしかった。
◇
石橋へ近づくにつれて、人通りが少し増えてきた。
橋のたもとには小さな花売りが店を出しており、籠には秋の花が色ごとに分けて並べられている。通りかかった女性が花を選び、店主と楽しそうに話していた。
ミレイユは橋の欄干へ目を向けた。
「ここから見る川も綺麗なんだよ。少し上がってみようか」
「はい」
二人は石橋へ上がった。
橋の上から眺めると、川は思っていたよりも遠くまで続いていた。
街の建物の間を抜け、緩やかに曲がりながら、遠くの丘の方へ伸びている。
川沿いには小さな倉庫や荷物を運ぶための施設も見えた。
シアは欄干のそばに立ち、しばらく景色を眺めた。
「……この川も、遠くの町まで続いているんでしょうか」
「うん。途中でほかの川と合流するから、ずっと同じ名前ではないけどね」
「そうなんですね」
「この公爵領には、川沿いに発展した町がいくつもあるんだよ。市場が有名なところもあるし、古い橋が残っているところもある」
ミレイユの説明を聞いた瞬間、シアの胸が小さく跳ねた。
数日前、レオンハルトも似たようなことを話していた。
市場が有名な町。
古い石橋が残る場所。
いつか訪ねてみるといい、と。
そして、どんな町だったか聞かせてもらえたら嬉しいと言ってくれた。
(……同じことを、覚えている)
シアは少し不思議な気持ちになった。
ミレイユと一緒に歩いているのに、ふと別の人の言葉が浮かぶ。
そのことに、自分でも少し驚いた。
「シア?」
ミレイユが隣から声をかけた。
「どうかした?」
「あ、いいえ」
シアは慌てて首を振った。
「以前、川沿いの町のことを教えていただいたことがあって。そのお話を思い出していました」
「そうなんだ。誰かに?」
「はい。《麦穂亭》へ来てくださるお客様です」
シアはそれ以上詳しく説明しなかった。
隠そうと思ったわけではない。
ただ、なぜかその会話を簡単に話してしまうのが少し惜しい気がした。
ミレイユは気にした様子もなく頷いた。
「そっか。じゃあ、いつか本当に行ってみるのもいいかもね」
「はい。まだ先になると思いますけど、いつか行ってみたいです」
「そのときは、ちゃんと休みを取ってね。旅先でも仕事のことばっかり考えちゃ駄目だよ」
ミレイユが冗談めかして言うと、シアは笑った。
「気をつけます。でも、きっとパン屋さんは見てしまうと思います」
「それはもう仕方ないか」
二人は笑い合った。
橋の上を、秋の風が吹き抜ける。
シアは少しだけ上着の襟元を押さえ、川の向こうへ目を向けた。
遠くの景色は、まだ知らない世界につながっている。
けれど、今は無理にそこへ行こうとは思わなかった。
自分には、帰る場所がある。
働く場所がある。
そして、一緒に歩いてくれる友達がいる。
そのことが、今は何より大切だった。
◇
石橋を渡ったあと、二人は少し離れた通りにある菓子屋へ向かった。
店は大きくなかったが、木製の看板には焼き菓子の絵が描かれ、窓には季節の果物を使った菓子が並んでいた。
扉を開けると、蜂蜜と焼きたての生地の甘い香りが漂ってきた。
「……いい香りですね」
シアは思わず呟いた。
「でしょ? ここの焼き菓子、人気なんだよ」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
店内には小さな棚が並び、蜂蜜を使った菓子や胡桃入りの焼き菓子、果物を混ぜ込んだ菓子などが丁寧に並べられていた。
シアは一つ一つを眺めながら、焼き色や形の違いを確かめた。
同じ蜂蜜を使っていても、焼き方によって色が違う。
胡桃の入れ方にも工夫があり、表面に見えるものと、生地の中へ混ぜ込んだものでは印象が変わっていた。
シアが真剣に棚を眺めていると、隣からミレイユの笑い声が聞こえた。
「シア、すっかり仕事の顔になってる」
「……あ」
シアは少し恥ずかしくなった。
「すみません。つい、どうやって作っているのか気になってしまって」
「いいんだよ。好きなものを見てると、そうなるよね」
ミレイユは笑いながら、棚の端に置かれた小さな蜂蜜菓子を指さした。
「私はこれが好き。甘すぎないし、お茶にも合うんだ」
シアはその菓子を眺めた。
小ぶりな丸い形で、表面には薄く焼き色がついている。
見た目は素朴だが、丁寧に作られていることが分かった。
「美味しそうですね」
「じゃあ、これにしようか」
ミレイユは店員へ声をかけ、蜂蜜菓子を二つ注文した。
シアも財布を取り出そうとしたが、ミレイユが先に代金を支払った。
「あの、ミレイユさん。私の分は……」
「約束したでしょ?」
ミレイユは笑った。
「布袋を直してくれたお礼に、一つご馳走するって」
シアは言葉を止めた。
そうだった。
自分も、受け取ると約束したのだ。
濃紺の布袋は、すでに修繕を終えてミレイユへ返してある。
口のほつれも、底の角の緩みも、丁寧に直した。
ミレイユはとても喜んでくれた。
そのお礼として菓子を一つご馳走したいと言われたとき、シアは最初こそ遠慮したが、最後には受け取ると決めた。
(……そうだった。私も、約束したんだ)
シアは財布をしまい、素直に頭を下げた。
「ありがとうございます。大切にいただきます」
「うん。気に入ってくれると嬉しいな」
ミレイユは満足そうに笑った。
店を出たあと、二人は近くの小さな広場にある長椅子へ腰を下ろした。
包みを開くと、蜂蜜の甘い香りがふわりと広がる。
シアは一口食べ、ゆっくりと味わった。
表面は軽く歯ごたえがあり、中は思っていたよりもしっとりとしている。蜂蜜の甘さは控えめで、後味には香ばしさが残った。
「……美味しいです」
「よかった!」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「ここの菓子、派手じゃないけど、また食べたくなる味なんだよね」
「分かります。甘さが強すぎないので、最後まで美味しく食べられますね」
シアはもう一口食べた。
蜂蜜林檎パンとは、もちろん違う。
けれど、甘さを抑えることで材料の香りを引き立てているところには、参考になる部分があった。
そう考えかけて、シアは少し笑った。
「……また仕事のことを考えてしまいました」
「いいんじゃない? 好きなんでしょ、パン作り」
「はい。でも、今日は味わう方を楽しみます」
「うん。それがいいと思う」
二人は菓子を食べながら、道を行き交う人々を眺めた。
少し離れた場所では、母親に手を引かれた女の子が店先の飾りを指さしている。
若い夫婦らしい二人が、買い物袋を持って楽しそうに話していた。
そんな風景を見ているうちに、シアはふと思った。
(こういう時間を、誰かと過ごせるようになったんだ)
特別なことは何もしていない。
昼食を食べ、川沿いを歩き、菓子を買っただけだ。
けれど、シアにとっては、その一つ一つが大切だった。
誰かの都合に合わせて連れ出されたわけではない。
自分から誘い、自分で行きたい場所を選んだ。
そして、ミレイユも楽しんでくれている。
そのことが、嬉しかった。
◇
菓子屋を出たあと、二人は再び川沿いの道へ戻った。
陽は少しずつ傾き始め、川面には昼間とは違う柔らかな光が映っている。
木々の影が長く伸び、石橋の欄干にも淡い橙色が差し込んでいた。
シアは歩きながら、景色の変化を楽しんだ。
昼間は青く見えた水面が、今は少し金色を帯びている。
風が吹くたびに波が揺れ、光が細かく砕けるように広がっていた。
「……本当に綺麗ですね」
シアが呟くと、ミレイユは頷いた。
「うん。この時間の川が、一番好きなんだ」
二人は石橋の手前で足を止めた。
近くには景色を眺める人が何人かいたが、昼間よりも人通りは少なくなっていた。
シアは石垣のそばに立ち、川の流れを見つめた。
今日一日、いろいろな景色を見た。
知らない通り。
小さな工房。
古い石碑。
石橋。
そして、夕日に染まる川。
どれも、この街に以前からあったものだ。
自分が知らなかっただけで、ずっとここにあった。
(……私の知らないことって、まだたくさんあるんだ)
そのことを、今は怖いと思わなかった。
むしろ、楽しみだった。
知らないものがあるなら、これから知っていけばいい。
行ったことのない場所があるなら、いつか歩いてみればいい。
自分の人生には、まだ選べることがたくさん残っている。
シアは静かに息を吐いた。
「ミレイユさん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
ミレイユは少し驚いたように彼女を見た。
「どうしたの、急に」
「私から誘ったのに、いろいろ案内していただいて。食堂も菓子屋さんも教えていただきましたし、川沿いもとても綺麗でした」
シアは少し照れたように笑った。
「本当に、楽しかったです」
ミレイユはしばらく彼女を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「私も楽しかったよ」
「本当ですか?」
「もちろん。シアと一緒に歩けて嬉しかった」
ミレイユは川の方へ視線を向けた。
「それに、今日はシアが誘ってくれたでしょ? あれ、すごく嬉しかったんだ」
シアは少し驚いた。
「……そうなんですか?」
「うん。今までは私から誘うことが多かったからね。シアが行きたい場所を教えてくれて、一緒に行こうって言ってくれたのが嬉しかった」
ミレイユは照れたように笑った。
「友達なんだから、私ばっかり誘わなくてもいいんだよ」
その言葉に、シアの胸が温かくなった。
自分から誘うことは、相手に負担をかけることだと思っていた。
けれど、ミレイユは喜んでくれた。
誘われることを、嬉しいと思ってくれた。
「……また、どこかへ行きませんか?」
シアは少しだけ勇気を出して言った。
ミレイユはすぐに頷いた。
「うん。もちろん!」
「次は、別の場所も見てみたいです」
「じゃあ、また一緒に考えよう。図書館で本を探してもいいし、街の北側にも面白い場所があるんだよ」
「図書館も、いいですね」
シアは嬉しそうに笑った。
「今度は、ミレイユさんがおすすめしてくださる本も読んでみたいです」
「本当? じゃあ、今度一緒に行こうよ。私も借りたい本があるんだ」
「はい。ぜひ」
二人は顔を見合わせて笑った。
次の約束が、自然に生まれた。
それは大きな約束ではない。
日程も、まだ決まっていない。
けれど、また一緒に出かけたいと思える相手がいる。
そのことが、シアには何より嬉しかった。
◇
夕日が少しずつ川の向こうへ傾いていく。
シアはその景色を見つめながら、ふと数日前の会話を思い出した。
《麦穂亭》へパンを買いに来たレオンハルト。
旅行記の話をしたとき、彼は楽しそうに耳を傾けてくれた。
知らない町を歩いてみたいと言った自分に、いつか見た景色の話を聞かせてほしいと告げてくれた。
その言葉が、今も胸の中に残っている。
(……今日のことを、お話ししてみたい)
そう思った瞬間、シアは少しだけ驚いた。
今日一日を一緒に過ごしたのはミレイユだ。
友達と歩いた川沿いの道。
美味しかった昼食。
菓子屋で買った蜂蜜菓子。
それらを思い出すことは自然だった。
けれど、その景色を別の誰かにも伝えたいと思った。
しかも、真っ先に浮かんだのがレオンハルトの顔だったことに、自分でも戸惑った。
(どうして、レオンハルト様のことを……)
シアは川面へ視線を落とした。
彼は《麦穂亭》の客であり、公爵家の跡取りだ。
身分も立場も違う。
自分から会いに行くような相手ではないし、仕事の合間に話せる時間も限られている。
それでも、彼と話す時間は心地よかった。
自分の話を丁寧に聞いてくれる。
好きなものを覚えていてくれる。
そして、いつかの未来について話すとき、否定せずに耳を傾けてくれる。
そのことが、嬉しかった。
(……また、お話しできたらいいな)
シアは胸の奥に生まれた小さな温かさを感じながら、夕日に染まる川を見つめた。
それがどんな気持ちなのか、まだ分からない。
けれど、無理に名前をつける必要はないと思った。
今はただ、また会えたら嬉しい。
その気持ちを、大切にしておきたかった。
「シア?」
隣からミレイユの声がした。
シアは顔を上げた。
「はい?」
「寒くない? 少し風が強くなってきたけど」
言われてみれば、昼間よりも空気が冷たくなっている。
シアは上着の襟元を押さえ、微笑んだ。
「少し冷えてきましたね。でも、大丈夫です」
「そろそろ戻ろうか。暗くなる前に帰った方がいいし」
「はい」
二人は川へ最後に目を向け、帰り道を歩き始めた。
夕日の光は少しずつ弱まり、石橋の影が長く伸びていた。
その景色を、シアは心の中へ丁寧にしまった。
◇
中央広場へ戻る頃には、街の雰囲気も夕方のものへ変わっていた。
商店では片づけが始まり、食堂からは夕食の香りが漂っている。仕事を終えた人々が家路を急ぎ、子どもたちの声も少しずつ少なくなっていた。
噴水の前で、ミレイユが足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ。誘ってくれてありがとう」
ミレイユは笑った。
「また一緒に出かけようね」
「はい。ぜひ」
二人は手を振り合い、それぞれの帰り道へ向かった。
シアは《麦穂亭》へ向かいながら、今日見た景色を思い返していた。
川の流れ。
古い石橋。
秋の木々。
夕日に染まる水面。
そして、ミレイユと交わした会話。
どれも、大切な思い出になっていた。
途中、いつもの市場の近くを通ると、果物屋のローザが店先を片づけていた。
「あら、シアちゃん。今日はお休みだったの?」
「こんにちは、ローザさん。はい。友達と出かけてきたんです」
「そうなの。いい顔してるじゃない」
ローザは笑いながら、空になった木箱を重ねた。
「どこへ行ってきたの?」
「南側の川沿いです。石橋の近くを歩いてきました」
「ああ、あそこね。今の時期は綺麗でしょう」
「はい。夕日が川に映って、とても素敵でした」
シアが答えると、ローザは懐かしそうに目を細めた。
「昔はね、私もよくあそこを歩いたものよ。市場の仕事が休みの日に、家族と一緒にね」
「そうなんですね」
「今でも時々行くけど、季節によって景色が違うから飽きないの。春になれば花が咲くし、夏は川風が気持ちいいしね」
シアは少し驚いた。
今日見た景色は、秋のものだった。
けれど、春や夏にはまた違う姿になる。
同じ場所でも、季節が変われば新しい景色に出会えるのだ。
「……また行ってみたいです」
「それがいいわ。今度は違う季節にも歩いてごらんなさい」
ローザはそう言ってから、シアの髪へ目を向けた。
「あら、その櫛、可愛いわね」
「ありがとうございます。秋穫祭で買ったものなんです」
「よく似合ってるわ。自分で選んだの?」
「はい」
「それはいい買い物をしたわね」
ローザは満足そうに頷いた。
シアは少し照れながら礼を言い、店先を離れた。
帰り道を歩きながら、ふと思う。
この街には、自分のことを知っている人が少しずつ増えている。
マルタとオットー。
ミレイユ。
ローザ。
そして、《麦穂亭》へ来てくれる常連客たち。
誰も、以前の自分を知らない。
伯爵家の令嬢だったことも、婚約を破棄されたことも、家を出てきた理由も知らない。
それでも、今の自分を見て声をかけてくれる。
仕事を頑張っていることを知ってくれる。
休日を楽しんでいることを喜んでくれる。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、マルタが夕食の準備をしていた。
「おかえり、シア」
「ただいま戻りました」
「どうだった? 川沿いは」
シアは上着を脱ぎながら、嬉しそうに答えた。
「とても綺麗でした。石橋の近くから川が見えて、夕方になると水面が橙色に染まるんです」
「そうかい。楽しめたみたいだね」
「はい。それから、ミレイユさんに食堂と菓子屋さんも教えていただきました」
「へえ。どこの菓子屋だい?」
シアが店の場所と特徴を説明すると、マルタはすぐに思い当たったようだった。
「ああ、あそこかい。昔からある店だよ。素朴だけど、美味しい菓子を作るんだ」
「はい。蜂蜜菓子をいただいたんですけど、とても美味しかったです」
「そうかい。それはよかったね」
マルタは笑いながら、夕食の器を並べた。
そのとき、厨房からオットーが顔を出した。
「帰ったか。ずいぶん楽しそうだな」
「はい。とても楽しかったです」
「そうか。それなら何よりだ」
オットーは短く答え、再び厨房へ戻ろうとした。
けれど、途中で足を止める。
「明日はいつも通りの仕込みだからな。今日は早めに休めよ」
「はい。ありがとうございます」
シアが答えると、オットーは満足そうに頷いた。
マルタはその様子を見て、少し笑った。
「あの人も、シアが休みを楽しめたのが嬉しいんだよ」
「……そうなんですか?」
「そうさ。仕事ばっかりしてたら、息が詰まっちまうからね」
シアは静かに頷いた。
この家では、働くことだけを求められているわけではない。
休むことも、楽しむことも、大切にしてもらえる。
そのことが、ありがたかった。
◇
夕食を終え、自室へ戻ったシアは、机の上に置いていた旅行記を手に取った。
『川沿いの町を歩く』。
初めて図書館で借りた本だった。
頁を開くと、そこには知らない町の市場や、古い橋、川沿いの暮らしについて書かれている。
昨日まで読んでいたときとは、少し印象が違っていた。
今日、自分の目で川を見たからだろう。
水の音。
秋風の冷たさ。
石橋の手触り。
夕日に染まる水面。
それらを思い出しながら読むと、頁の中の景色が以前よりも鮮やかに感じられた。
(……本を読んだから、今日の景色を見たくなったんだ)
シアは静かに微笑んだ。
そして、今日の景色を見たことで、また別の場所へ行ってみたくなった。
知らない町。
知らない道。
知らない人々の暮らし。
その一つ一つを、いつか自分の目で見てみたい。
けれど、今すぐ遠くへ行きたいわけではなかった。
この街にも、まだ知らない場所がある。
今日の川沿いだって、つい先日までは知らなかった。
これからも、少しずつ歩いてみればいい。
シアは本を閉じ、机の端へ置いた。
明日、仕事が終わったあとに図書館へ行けるか確認しよう。
返却期限まではまだ余裕があるが、読み終わった本を返し、次に読む本を選ぶのも楽しみだった。
そして、今度はミレイユと一緒に図書館へ行く約束もできた。
日程はまだ決まっていない。
けれど、また会って話せばいい。
予定が合わなければ、別の日にすればいい。
そう思えることが、嬉しかった。
シアは窓辺へ歩み寄り、夜の街を眺めた。
遠くには、今日歩いた川の方角がある。
今頃、石橋の上には誰かが立っているだろうか。
川面には、月の光が映っているだろうか。
そんなことを考えていると、ふとレオンハルトの顔が浮かんだ。
旅行記の話を、楽しそうに聞いてくれた人。
自分が好きだと言ったパンのことを、覚えていてくれた人。
いつか見た景色の話を聞かせてほしいと言ってくれた人。
(……次に会えたら、今日のことをお話ししてみよう)
シアは少しだけ微笑んだ。
今日の川は、旅行記に出てくる遠い町の川ではない。
けれど、自分にとっては初めて見る景色だった。
それを話したら、レオンハルトはどんな顔をするだろう。
きっと、いつものように穏やかに耳を傾けてくれる。
そして、何か知らないことを教えてくれるかもしれない。
そんな想像をしただけで、胸の奥が少し温かくなった。
(……どうして、こんなに楽しみなんだろう)
シアは窓の外を見つめたまま、少し考えた。
レオンハルトと話す時間は、長くない。
彼は忙しい人だし、《麦穂亭》へ来るのも仕事の合間なのだろう。
それでも、会話の一つ一つが心に残っている。
自分の話を聞いてくれたこと。
好きなものを覚えていてくれたこと。
また話を聞きたいと言ってくれたこと。
そのどれもが、嬉しかった。
けれど、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
シアは小さく息を吐き、窓を閉めた。
無理に答えを出す必要はない。
今はただ、また会えたら嬉しい。
その気持ちを、大切にしておけばいい。
◇
同じ頃、公爵家の屋敷では、レオンハルトが執務室の机に向かっていた。
机の上には領内の商会から届いた報告書が並び、街道の整備状況や冬に向けた物資の流通について、確認すべき項目がいくつも残っている。
彼は書類へ目を通しながら、必要な箇所へ印をつけていた。
やがて、最後の報告書を読み終えると、椅子の背へ軽く体を預けた。
窓の外には、夕暮れを過ぎた街の明かりが見える。
今日も一日、さまざまな報告を受けた。
領内の市場のこと。
街道のこと。
川沿いの施設のこと。
どれも、公爵家の跡取りとして把握しておかなければならないものだった。
その中に、南側の石橋付近の歩道についての報告もあった。
秋の落ち葉が増える時期に合わせ、滑りやすい場所の清掃を進めているという内容だった。
レオンハルトはその報告を思い出し、ふと《麦穂亭》で交わした会話を思い出した。
シアが旅行記を借りたと話していたこと。
知らない町を歩いてみたいと、少し照れながら語っていたこと。
その表情が、今も記憶に残っている。
(……あの本は、もう読み終わっただろうか)
レオンハルトは机の端へ置いた書類を整えながら、そんなことを考えた。
彼女は本を読む時間を楽しみにしていた。
仕事とは関係のない本を選んだことを、少し嬉しそうに話していた。
その様子を思い出すと、自然と口元が緩む。
彼女は、以前よりも自分の好きなことを話すようになった。
その変化が、レオンハルトには嬉しかった。
ただ、彼女がどのような事情でこの街へ来たのかは知らない。
なぜ以前は、あれほど慎重に言葉を選んでいたのかも分からない。
だからこそ、無理に踏み込むつもりはなかった。
彼女が今の暮らしを大切にしていることだけは、話しているうちに伝わってくる。
それを壊したくはなかった。
(……また、あの店へ行く機会があれば)
レオンハルトは少し考えた。
パンを買うこと自体は、いつものことだ。
けれど最近は、店へ行く理由がそれだけではなくなっている気がする。
彼女がどんな本を読んだのか。
どんなことを考えたのか。
そんな話を聞けることを、楽しみにしている自分がいる。
その気持ちを、まだはっきりと言葉にするつもりはなかった。
ただ、次に会ったとき、彼女がまた楽しそうに話してくれたらいいと思った。
レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。
遠くの街には、今日も多くの人々の暮らしがある。
その中に、《麦穂亭》という小さなパン屋がある。
そして、そこで働く一人の少女がいる。
そのことが、以前よりも少し特別に感じられていた。
◇
シアは寝台へ入る前に、机の上の旅行記をもう一度見た。
借りたときには、ただ面白そうだと思っただけの本だった。
けれど、その一冊がきっかけで、今日という休日が生まれた。
ミレイユを誘い、知らない道を歩き、初めての景色を見た。
そして、その景色を誰かに話したいと思った。
本を読むことが、こんなふうに自分の毎日を広げてくれるとは思わなかった。
シアは小さく微笑んだ。
明日からは、また《麦穂亭》での仕事が始まる。
朝早く起きて、パンを焼く準備をし、注文を確認して、客を迎える。
いつもの毎日が待っている。
けれど、その毎日の中には、今日のような楽しみもある。
次の休みには、どこへ行こう。
どんな本を読もう。
誰と、どんな話をしよう。
そんな未来を思い描けることが、今のシアには嬉しかった。
遠い街へ来たとき、彼女はただ逃げることしか考えていなかった。
家族から離れること。
婚約者から離れること。
誰にも頼らず、自分の力で生きていくこと。
それが、すべてだった。
けれど今は違う。
自分のために働き、自分のために休み、自分のために出かける。
そして、誰かと一緒に過ごす時間を大切にできる。
そのことが、何より嬉しかった。
シアは明かりを落とし、寝台へ横になった。
窓の外では、秋の夜風が静かに吹いている。
今日見た夕日の色を思い出しながら、シアはゆっくりと目を閉じた。
次にレオンハルトが店へ来てくれたら、川沿いの景色を話してみよう。
そう考えると、明日からの仕事も少し楽しみに思えた。
そして、シアは穏やかな気持ちで眠りについた。




