第40話 自分で決めたことだから
休日明けの朝、《麦穂亭》の厨房には、まだ夜の冷たさが残っていた。
窓の外は薄青く、通りを走る荷馬車の車輪が、遠くで石畳を踏む音を響かせている。窯の前だけはすでに温かく、オットーが薪の燃え具合を確かめるたびに、赤い火が彼の横顔を照らしていた。
シアは作業台の上に並んだ生地を見下ろし、指先でそっと表面を押した。
昨日よりも、少しだけ張りが弱い。
気温が下がったせいだろうか。それとも、粉の状態が違うのだろうか。
以前なら、そんな違いに気づいても口には出せなかった。自分の考えが間違っていたらどうしようと迷い、結局、オットーから指示があるまで手を止めていたはずだった。
「オットーさん、この生地なんですけど、昨日より少し柔らかい気がします。丸めるときの力加減を変えた方がいいでしょうか」
シアが尋ねると、オットーは手を拭いて作業台へ近づいた。
「どれだ」
差し出された生地を手に取り、表面を確かめる。軽く伸ばしてから元の位置へ戻すと、オットーは小さく頷いた。
「よく気づいたな。今日は粉の吸い方が少し違う。無理に締めると表面が裂けるから、いつもより優しく扱え」
「はい。最初の一つを見ていただいてもいいですか?」
「ああ。やってみろ」
シアは両手で生地を包み、力を入れすぎないように形を整えた。手のひらの下で生地がゆっくりと丸くなり、最後に綴じ目を下へ向けると、オットーが横から確かめる。
「それでいい。あとは同じように進めろ」
「ありがとうございます」
シアは次の生地へ手を伸ばした。
教えてもらうことは、恥ずかしいことではない。
分からないまま進めて失敗するより、確かめてから覚えた方がいい。そう理解できるようになってから、厨房での仕事は以前よりもずっと楽しくなっていた。
作業台の向こうで、オットーが別の生地を量り始める。
「昨日は川沿いへ行ったんだったな」
「はい。ミレイユさんと南の石橋まで歩いてきました」
「寒くなかったか?」
「帰る頃には少し。でも、上着を持っていったので大丈夫でした」
「そうか。あの辺りは風が抜けるからな」
オットーはそれだけ言うと、再び仕事へ戻った。
シアも生地を整えながら、昨日見た川面を思い出した。
昼間は青かった水が、夕方には橙色に染まっていた。ミレイユと並んで石橋を歩き、蜂蜜菓子を食べ、次も一緒に出かけようと約束した。
楽しかった時間は、もう終わっている。
けれど、思い出すたびに気持ちが温かくなる。
(次のお休みには、どこへ行こうかな)
そう考えたところで、シアは手元の生地へ意識を戻した。
今は仕事の時間だ。
休日の楽しみは大切にしながら、今日の仕事もしっかり終える。
どちらか一方を諦める必要はないのだと、今のシアは少しずつ分かり始めていた。
◇
開店前、シアは注文帳を広げ、今日の予約分を確認していた。
騎士団への定期納品はない日だが、《銀鹿亭》からは丸パン十二個と黒麦パン六個、《赤い鍋亭》からは丸パン十個の注文が入っている。どちらも前日までにオットーが数量を確認し、仕込みに組み込んでいたものだった。
シアは予約分の籠へ札を置き、売り場に並べるパンと混ざらないようにした。
「マルタさん、《銀鹿亭》の受け取りは午前中、《赤い鍋亭》は昼前で間違いありませんか?」
「ああ、そうだよ。昨日確認したとおりだね」
「分かりました。予約分は奥の棚に分けてあります」
「ありがとう。今日は朝から少し忙しくなりそうだから、助かるよ」
マルタは会計台の引き出しを確かめながら笑った。
シアは注文帳を閉じ、売り場の棚へ向かう。
以前は、仕事を任されると、失敗しないことばかり考えていた。
けれど今は、どうすればマルタやオットーが仕事を進めやすいかを考えるようになった。自分の担当だけを終わらせるのではなく、店全体の流れを見る余裕が少しずつ生まれている。
もちろん、まだ判断できないことも多い。
焼く数を増やすかどうかも、材料を新しく仕入れるかどうかも、店の経営に関わることだ。自分の考えだけで決めてはいけない。
それでも、確認する前に自分なりの案を考えることはできる。
シアは棚の端に置かれた胡桃パンを見て、昨日よりも少し少なめに並べ直した。
午前中は丸パンを買う客が多い。
胡桃パンを奥へ置けば、会計台の近くに少し余裕ができる。
その配置をマルタに伝えると、彼女は売り場を見渡して頷いた。
「いいと思うよ。今日はそれでやってみようか」
「はい」
自分で考えたことが、店の仕事に役立つ。
その小さな手応えが、シアには嬉しかった。
◇
開店から一時間ほど経った頃、《銀鹿亭》の使いの男性がやって来た。
以前にも何度か顔を合わせたことのある、三十代ほどの男性だった。肩から革の鞄を下げ、少し急いで来たのか、額に薄く汗を浮かべている。
「おはようございます。《銀鹿亭》です。予約のパンを受け取りに来ました」
「おはようございます。丸パン十二個と黒麦パン六個ですね。すぐにご用意します」
シアが奥の棚へ向かおうとすると、男性が申し訳なさそうに声をかけた。
「ああ、そのことなんですが。今朝、急に宿泊客が増えましてね。できれば丸パンを、あと八個ほど追加できないかと思って」
シアは足を止めた。
丸パンを八個。
それだけ聞けば、決して大きな数には思えない。
しかし、今日の丸パンには《赤い鍋亭》の予約分もある。朝の売れ行きもよく、棚に並んでいる分をそのまま追加注文へ回せば、普段から買いに来る客の分が足りなくなるかもしれない。
以前のシアなら、相手が困っていると分かった瞬間に頷いていただろう。
頼みを断ることが怖かったからだ。
できるかどうかを確かめる前に、何とかしますと言ってしまう。そして、あとから自分一人で帳尻を合わせようとしたかもしれない。
けれど、今は違う。
「追加で丸パン八個ですね。ご相談いただきありがとうございます。ただ、ほかのお客様の予約もありますので、在庫と厨房の予定を確認させてください。少しお待ちいただけますか?」
男性はほっとしたように頷いた。
「もちろんです。急なお願いで申し訳ありません」
「いえ。お宿もお忙しいのですね」
シアは注文帳を開き、現在の数を確かめた。
すでに焼き上がっている丸パンのうち、《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の予約分を除くと、売り場に回せる数は限られている。次の焼き上がりは昼近くになる予定で、今すぐ八個を追加するのは難しそうだった。
シアは帳簿を持って厨房へ向かった。
「オットーさん、《銀鹿亭》から丸パン八個の追加をお願いされています。今の予約分を除くと、すぐに八個はお渡しできません。次の焼き上がりを待っていただくことは可能でしょうか?」
オットーは窯の前で手を止め、壁に掛けた仕込み表を見た。
「八個か。次の分は昼前だな。全部を回すと、店売りが少なくなる」
「はい。私もそう思いました」
「それで、どうする?」
尋ねられて、シアは少しだけ考えた。
すぐに答えを求められても、慌てる必要はない。
注文帳に書かれた数字を頭の中で並べ、使いの男性が急いでいた様子を思い出す。
「まず、お宿で必要な時間を確認したいです。朝食用でしたら間に合わないかもしれませんし、昼食用なら次の焼き上がりを待っていただけるかもしれません。それから、丸パンでなくてもよければ、ほかの種類をご案内できるかもしれません」
オットーはシアを見た。
「なるほど。今すぐ渡せるパンの数も見ておけ」
「はい。予約分を除いて確認します」
「それでいい。勝手に追加を引き受けなかったのも正しい判断だ」
シアは頷き、売り場へ戻った。
褒められたことは嬉しかった。
けれど、それ以上に、自分の考えを伝えて仕事を進められたことが嬉しかった。
「お待たせしました。追加の丸パンですが、すぐに八個をご用意するのは難しい状況です」
男性の表情が少し曇る。
シアはその変化を見ながら、落ち着いて続けた。
「次の焼き上がりは昼前になります。お宿では、何時頃までに必要でしょうか?」
「実は、今朝到着したお客様の朝食用なんです。厨房でも用意しているんですが、パンだけ少し足りなくなってしまって」
「そうでしたか。では、昼前では遅いですね」
シアは棚へ目を向けた。
現在、予約分を除いて販売できる丸パンは四個だった。黒麦パンと胡桃パンには、まだ少し余裕がある。
「丸パンでしたら、今すぐお渡しできるのは四個までです。残りの四個については、黒麦パンや胡桃パンに変更していただくこともできます。ただ、種類によってお値段が違いますので、お宿の方へ確認していただいた方がよろしいでしょうか?」
男性はしばらく考えたあと、頷いた。
「それなら助かります。朝食の献立にもよりますが、黒麦パンなら使えると思います。いったん宿へ戻って確認してもいいでしょうか」
「はい。もちろんです。ただ、店売りのパンですので、長い時間のお取り置きはお約束できません。確認が取れましたら、なるべく早めにお知らせください」
「分かりました。すぐ戻ります」
男性は元の予約分だけを受け取り、代金を支払って店を出ていった。
シアは扉が閉まるのを見届け、追加注文がまだ確定していないことを注文帳へ書き添えた。
勝手にパンを取り置くことはしない。
けれど、相談があった事実は残しておく。
マルタが隣へ来て、帳簿を覗き込んだ。
「ちゃんと話せたね」
「はい。でも、少し緊張しました」
「そうだろうね。困っているお客様へ、できませんと言うのは簡単じゃないよ」
シアは静かに頷いた。
「以前の私だったら、確認せずに引き受けていたと思います」
「そうかもしれないね」
マルタは穏やかに笑った。
「でも、できないことをできると言う方が、あとで相手を困らせるだろう?」
「はい。今日は、そのことを考えられました」
「それなら十分だよ。お客様のためにも、店のためにもね」
シアは注文帳へ視線を落とした。
断ることは、相手を突き放すことではない。
自分にできる範囲を伝え、その中で方法を探すこともできる。
それを、今朝は実際に行動へ移せた。
(……少しずつ、できるようになっているんだ)
そう思ったが、シアはすぐに帳簿を閉じた。
仕事はまだ続いている。
今は、目の前の客を迎える時間だった。
◇
《銀鹿亭》の使いは、それから間もなく戻ってきた。
宿の厨房で確認したところ、追加分は丸パン四個と黒麦パン四個で問題ないという。シアは改めて在庫を確認し、マルタにも内容を伝えてから、追加分を包んだ。
「丸パン四個で銅貨二十枚、黒麦パン四個で銅貨二十八枚です。追加分は合計四十八枚になります」
「はい。こちらでお願いします」
男性は代金を支払い、パンの入った包みを受け取った。
「急なお願いだったのに、助かりました。宿の主人も礼を言っていましたよ」
「こちらこそ、ご確認いただきありがとうございました。お客様にも喜んでいただけると嬉しいです」
男性は笑って店を出ていった。
シアはその背中を見送り、追加分の販売数を帳簿へ記入した。
売り場の丸パンは一時的に少なくなったが、《赤い鍋亭》の予約分には手をつけていない。午後の販売については、マルタとオットーが相談して調整することになっていた。
すべてを自分一人で解決したわけではない。
それでも、最初の相談を受け、必要なことを確かめ、代案を伝え、最後まで会計を終えた。
その一連の仕事を、自分の判断で進められた。
シアは帳簿の数字を確かめながら、静かに息を吐いた。
以前なら、誰かに褒めてもらうまで安心できなかったかもしれない。
けれど今は、予約分が守られていることも、追加注文が正しく記録されていることも、自分で確認できる。
それが、何より確かな手応えだった。
◇
昼前になると、《麦穂亭》の客足は少し落ち着いた。
シアは会計台の下に置いた小さな鞄を見た。
中には、王立図書館で借りた『川沿いの町を歩く』が入っている。
昨夜、読み終えた本を布で包み、傷がつかないようにしまっておいた。返却期限まではまだ少し余裕があるが、今日は仕事が終わったあとに返しに行こうと決めている。
初めて自分の名前で借りた本。
読んでいるうちに、実際の川沿いを歩いてみたくなった本。
そして、ミレイユとの休日を生むきっかけになった本だった。
返してしまうのは少し惜しい。
けれど、図書館にはまだたくさんの本がある。
次に何を読むか考えるのも楽しみだった。
「マルタさん、今日の仕事が終わったら、図書館へ寄ってもいいでしょうか?」
シアが尋ねると、マルタは棚を拭く手を止めた。
「もちろんだよ。借りた本を返しに行くんだったね」
「はい。返却期限より前ですが、読み終わったので」
「いいことじゃないか。閉店後の片づけが終わったら、行っておいで」
「ありがとうございます」
シアはそう答えてから、少し考えた。
以前の自分なら、図書館へ行く予定があっても、誰かの仕事が残っていれば手伝わなければと思っただろう。
たとえ自分の担当が終わっていても、帰ることに罪悪感を覚えたはずだった。
けれど今日は、必要な仕事を終えたら図書館へ行くと決めている。
もちろん、店が本当に忙しければ相談する。
しかし、ただ遠慮するためだけに、自分の予定を諦める必要はない。
「それまでに、今日の帳簿と棚の整理を終わらせておきます」
「そうしてくれると助かるよ」
マルタは笑った。
「でも、全部一人で抱え込むんじゃないよ。時間になっても終わらない仕事があれば、ちゃんと相談するんだ」
「はい。分かりました」
シアは頷き、午後の仕事へ戻った。
◇
午後の客足が落ち着いた頃、店の扉が開いた。
鈴の音に顔を上げたシアは、入口に立つ人物を見て、思わず表情を和らげた。
レオンハルトだった。
落ち着いた色の外套を羽織り、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。店の外には護衛の男性が控えていたが、レオンハルト自身は一人で店内へ入ってきた。
「こんにちは、シア」
「こんにちは、レオンハルト様。いらっしゃいませ」
シアは会計台の前へ進んだ。
彼が来るかもしれないと、昨日の夜に考えていた。
川沿いで見た景色を話してみたい。
その気持ちは、今も胸の中に残っている。
けれど、仕事中だ。
まずは客として迎えなければならない。
「今日は何になさいますか?」
「丸パンを四つと、胡桃パンを二つお願いします」
「かしこまりました」
シアは棚からパンを取り、数を確かめながら包んだ。
丸パン四個で銅貨二十枚。
胡桃パン二個で銅貨十二枚。
合計三十二枚。
包みを整えてから、シアは少しだけ顔を上げた。
「あの、レオンハルト様」
「はい?」
「以前、お話しした旅行記のことを覚えていらっしゃいますか?」
レオンハルトの表情が、少し明るくなった。
「『川沿いの町を歩く』ですね」
「はい。覚えていてくださったんですね」
「もちろんです。シアが楽しそうに話していたので」
シアは嬉しくなった。
けれど、以前のように驚いて言葉を止めることはなかった。
今日は、自分から話したいことがある。
「実は昨日のお休みに、ミレイユさんと南側の川沿いを歩いてきたんです。旅行記を読んでいたら、私も実際の川を見たくなって」
「そうだったのですか」
レオンハルトは穏やかに頷いた。
「南側というと、古い石橋のある辺りでしょうか」
「はい。石橋も、川沿いの道も歩いてきました」
シアは包みを会計台へ置き、昨日の景色を思い出した。
「昼間は水面が青くて、木々の色が映っていたんです。でも夕方になると、川が橙色に変わっていって……。同じ場所なのに、まったく違う景色に見えました」
話しながら、シアは自然と笑顔になっていた。
「それから、川沿いに古い石碑があったんです。昔、街の人たちが協力して堤を直した記念だと、ミレイユさんが教えてくださいました」
レオンハルトは目を細めた。
「あの石碑をご覧になったのですね」
「ご存じなんですか?」
「ええ。子どもの頃、父と一緒に川沿いを歩いたときに教えてもらいました」
「そうなんですね」
シアは少し驚いた。
レオンハルトが子どもの頃、父親と川沿いを歩いていた。
それは、自分が知らない彼の姿だった。
公爵家の跡取りとして働く今の彼とは違う、まだ幼かった頃の話。
そんなことを聞けるのが、少し嬉しかった。
「私は、石碑にたくさんの方のお名前が刻まれているのを見て、素敵だなと思ったんです」
「素敵、ですか?」
「はい。貴族の方だけではなく、職人さんや商人さんのお名前もあって。この街は、いろいろな人が力を合わせて守ってきたんだなって」
レオンハルトはしばらくシアを見つめた。
その眼差しは、いつもより少しだけ真剣だった。
「……そう感じていただけたのなら、嬉しいです」
シアは首を傾げた。
「レオンハルト様?」
「領地を守るというのは、公爵家だけでできることではありません。川を整える人、道を修繕する人、食べ物を作る人。そうした人々の仕事が積み重なって、街の暮らしが成り立っています」
シアは静かに頷いた。
「私も、昨日同じようなことを考えました」
「そうでしたか」
「はい。パン屋で働いている私も、その中の一人なのかなって」
口にしてから、少しだけ照れくさくなった。
以前なら、こんなことを言うのは思い上がりだと思ったかもしれない。
けれど、今朝の仕事を思い出す。
注文を確認し、客の相談を受け、できることを考えて伝えた。
自分がいなければ店が回らない、などと思っているわけではない。
それでも、自分の仕事が誰かの役に立っていることは確かだった。
「今日も、お宿から急な追加注文があったんです」
シアは続けた。
「最初は少し困りました。でも、できる数を確認して、別の種類のパンをご案内したら、お客様にも納得していただけました」
「それはよかったですね」
「はい。以前の私なら、きっと何でも引き受けようとしていたと思います。でも、今日は無理な約束をしないで済みました」
シアは少し笑った。
「お客様にも、店にも、迷惑をかけずに済んだので、ほっとしました」
レオンハルトは穏やかに微笑んだ。
「相手の希望を聞きながら、できることを考えたのですね」
「はい。オットーさんにも確認しました」
「それは大切なことだと思います」
彼の言葉に、シアは頷いた。
以前なら、褒められると、それだけで自分の判断が正しかったと安心していただろう。
けれど今日は違った。
自分で数字を確かめた。
予約分を守った。
相手へ事情を説明し、納得してもらった。
だから、仕事を終えた時点で、もう自分なりに納得できていた。
レオンハルトの言葉は、その上に重なる温かなものだった。
◇
レオンハルトは、シアの話を聞きながら、以前の彼女を思い出していた。
初めて《麦穂亭》で言葉を交わした頃、シアはいつも慎重だった。
注文を聞く声は丁寧で、仕事ぶりも真面目だったが、自分のことを話すときには、どこか遠慮があった。
何かを尋ねても、必要なことだけを答え、それ以上は口にしない。
そんな印象があった。
けれど、今は違う。
自分から旅行記の話を始め、昨日見た景色を楽しそうに語っている。
仕事で困ったことがあっても、どう考えて対応したのかを話してくれる。
それは、誰かに認められようとしている姿ではなかった。
自分が経験したことを、自分の言葉で伝えている。
(……彼女は、この街での暮らしを大切にしているんだな)
レオンハルトはそう感じた。
シアがどこから来たのかは知らない。
なぜ、この街で一人暮らしを始めたのかも聞いていない。
けれど、彼女が今の仕事を好きで、友人との時間を楽しみ、自分の生活を少しずつ広げていることは分かる。
その変化が、レオンハルトには嬉しかった。
「シア」
「はい?」
「昨日の川沿いは、楽しかったですか?」
尋ねると、シアは迷わず頷いた。
「はい。とても楽しかったです」
その返事には、以前のようなためらいがなかった。
「私からミレイユさんを誘ったんです。少し緊張しましたけど、喜んでいただけて……。一緒に歩いて、食堂でお昼を食べて、菓子屋さんにも寄りました」
「それは、素敵な休日でしたね」
「はい。また一緒に出かけようと約束したんです」
シアは嬉しそうに笑った。
レオンハルトも自然と微笑んだ。
「次は、どちらへ?」
「まだ決めていません。でも、図書館へ一緒に行くのもいいねって話しています」
「図書館ですか」
「はい。私、今日の仕事が終わったら、借りた本を返しに行くつもりなんです」
そう言ってから、シアは少しだけ照れた。
「次に何を借りようか、まだ決めていないんですけど」
「それなら、選ぶ時間も楽しめそうですね」
「はい。そう思っています」
シアは微笑んだ。
仕事を終えたら図書館へ行く。
それは、自分で決めた今日の予定だった。
誰かに連れていってもらうわけではない。
誰かの許可を待っているわけでもない。
自分の仕事を終え、自分の足で行く。
そのことを、今は自然に楽しみにできていた。
◇
会話が一段落したところで、シアは包みを差し出した。
「お待たせしました。丸パン四つと胡桃パン二つで、銅貨三十二枚です」
「ありがとうございます」
レオンハルトは代金を支払い、パンを受け取った。
そのとき、店の扉が開き、別の客が入ってきた。
シアはすぐに顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
レオンハルトも新しい客に気づき、会計台から一歩下がった。
「お仕事の邪魔をしてはいけませんね」
「いえ。お話しできて嬉しかったです」
シアはそう答えてから、自分の言葉に少しだけ驚いた。
けれど、言い直そうとは思わなかった。
本当に嬉しかったからだ。
レオンハルトは一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「私もです。また、川沿いのお話を聞かせてください」
「はい。ぜひ」
シアは笑顔で頷いた。
レオンハルトが店を出ると、扉の鈴が静かに鳴った。
その音を聞きながら、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
昨日、川沿いを歩きながら、彼へ話してみたいと思った。
そして今日、自分から話しかけることができた。
それだけのことなのに、嬉しかった。
けれど、今は仕事中だ。
シアは気持ちを切り替え、新しく来た客へ向き直った。
「お待たせしました。今日は何になさいますか?」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
◇
午後の仕事が終わりに近づく頃、シアは帳簿の数字を確かめていた。
朝の追加注文も、午後の販売分も、すべて記録されている。
予約分の受け渡しも問題なく終わり、残ったパンの数も棚と一致していた。
シアは最後の数字を書き込み、帳簿を閉じた。
「マルタさん、今日の販売記録は終わりました。残数も確認してあります」
「ありがとう。こっちも片づけが終わったよ」
マルタは棚を拭き終え、布巾を畳んだ。
「図書館へ行くんだったね。そろそろ出た方がいいんじゃないかい?」
シアは壁の時計へ目を向けた。
まだ間に合う時間だった。
「はい。今日はここまでで大丈夫でしょうか?」
「ああ。もう店の仕事は終わってるよ」
「分かりました。では、行ってきます」
シアはそう言って、会計台の下に置いていた鞄を手に取った。
そのとき、厨房からオットーが顔を出した。
「シア、明日の粉の数を確認しておいてくれたか?」
「はい。今日の仕込み分を差し引いた数を、仕入れ帳の横へ書いてあります」
「そうか。助かる」
オットーは頷き、再び厨房へ戻ろうとした。
シアは一瞬、手伝えることがないか尋ねようとした。
けれど、すぐに思い直した。
自分の担当は終わっている。
マルタも、もう帰っていいと言ってくれた。
それなら、今日は自分の予定を大切にしよう。
「オットーさん、私はこれから図書館へ行ってきます。明日もよろしくお願いします」
「ああ。気をつけて行ってこい」
オットーは振り返り、短く答えた。
シアは笑顔で頷いた。
以前なら、帰ることに申し訳なさを感じていただろう。
けれど今は、仕事を終えた自分が図書館へ行くことに、後ろめたさはなかった。
シアは上着を羽織り、鞄を肩へ掛けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。暗くなる前に戻っておいで」
マルタの声に見送られ、シアは《麦穂亭》を出た。
◇
夕方の街には、仕事を終えた人々の姿が増え始めていた。
市場では店じまいの準備が進み、荷車を押す商人たちが声を掛け合っている。通りの角からは焼き栗の香りが漂い、少し冷たくなった風がシアの頬を撫でた。
シアは鞄を確かめながら、王立図書館へ向かった。
以前、初めてこの道を歩いたときは、何度も立ち止まって周囲を見回した。
図書館の場所を間違えていないだろうか。
自分のような者が入ってもいいのだろうか。
そんなことを考えていた。
けれど今日は、迷わず歩ける。
図書館の場所も、入口の手続きも、借りられる本の数も知っている。
知らなかったことが、一つずつ自分の知識になっている。
そのことが、嬉しかった。
やがて、三階建ての王立図書館が見えてきた。
石造りの建物は夕方の光を受けて柔らかく輝き、入口の階段には数人の利用者が行き交っている。
シアは扉を開け、静かな館内へ入った。
外の賑わいが遠ざかり、紙と木の匂いがふわりと広がる。
閲覧席では本を読む人々が静かに頁をめくり、奥の書架の間を司書が歩いていた。
シアは返却窓口へ向かった。
「こんにちは。本を返却したいのですが」
声をかけると、灰色の髪の司書が顔を上げた。
「あら、シアさん。こんにちは」
「こんにちは。こちらをお願いします」
シアは鞄から布包みを取り出し、中の本を丁寧に差し出した。
司書は表紙を確かめ、貸出記録を開いた。
「『川沿いの町を歩く』ですね。返却期限より前ですし、本の状態も問題ありません」
「ありがとうございます」
「最後まで読めましたか?」
「はい。とても面白かったです」
シアは微笑んだ。
「この本を読んで、実際に川沿いを歩いてみたくなったんです。それで昨日、友達と南側の石橋へ行ってきました」
司書は嬉しそうに目を細めた。
「まあ。それは素敵ですね」
「はい。本で読んだ景色と、自分の目で見る景色は、少し違うんだなと思いました」
「本は、知らない場所を教えてくれますからね。でも、実際に歩いてみると、そこには本に書ききれないものがあるでしょう?」
「はい。水の音や風の冷たさまで感じられて、とても楽しかったです」
司書は頷き、本を返却棚へ置いた。
「次の本も借りていきますか?」
「はい。今日は少し探してみたいと思っています」
「それなら、ゆっくり選んでくださいね。閉館までには、まだ時間がありますから」
「ありがとうございます」
シアは礼を言い、書架の方へ歩き始めた。
◇
図書館の中を歩くのは、まだ少し緊張する。
けれど、それは以前のような怖さではなかった。
知らない本がたくさんあることへの、心地よい緊張だった。
シアは書架の間をゆっくり歩きながら、背表紙に書かれた題名を眺めた。
旅の記録。
街の歴史。
季節の植物。
料理や暮らしについての本。
どれも興味深かった。
最初は、また旅行記を借りようと思っていた。
けれど、棚を眺めているうちに、別の本が目に留まった。
『街の小さな庭と季節の花』。
表紙には、石畳の道に面した小さな庭が描かれていた。
シアは本を手に取り、頁を開いた。
そこには、街の家々で育てられている草花や、季節ごとの庭の様子が紹介されていた。
春に咲く花。
夏の日差しに強い植物。
秋に色づく木々。
冬でも緑を残す草。
どれも、特別な貴族の庭園ではない。
小さな家の窓辺や、店先の鉢植え、通りの片隅にある花壇の話だった。
(……こういう本も、面白そう)
シアは頁をめくりながら、昨日歩いた川沿いの道を思い出した。
家の前に置かれた鉢植え。
石橋の近くで売られていた秋の花。
道端に落ちていた赤い葉。
それらを、もっと詳しく知ることができるかもしれない。
シアは本を閉じ、腕に抱えた。
もう一冊借りることもできる。
けれど、今回はこの一冊をゆっくり読んでみたいと思った。
何冊も借りることより、読みたい本を選ぶことが大切だ。
シアはそのまま貸出窓口へ戻った。
「こちらを一冊、お願いします」
司書は本の表紙を見て、微笑んだ。
「今度は花の本ですね」
「はい。昨日、川沿いを歩いていたら、いろいろな植物が目に入ったので」
「なるほど。季節によって、街の景色はずいぶん変わりますからね」
司書は利用証を受け取り、貸出記録へ書き込んだ。
「返却期限は十日後です」
「はい。ありがとうございます」
シアは本を受け取り、鞄へ丁寧にしまった。
図書館を出ると、空は少しずつ夕方の色へ変わっていた。
シアは階段を下り、街の通りへ歩き出した。
鞄の中には、新しく借りた本がある。
それだけで、帰り道が少し楽しく感じられた。
◇
《麦穂亭》へ戻る途中、シアは小さな花屋の前で足を止めた。
店先には、秋の花が並んでいた。
薄紫色の花。
黄色い小さな花。
赤く色づいた葉を添えた花束。
昨日、川沿いで見た花売りの籠を思い出す。
シアはしばらく眺めてから、店の女性へ声をかけた。
「こんにちは。この黄色い花は、何という名前ですか?」
店主は顔を上げ、笑顔で答えた。
「秋灯草ですよ。寒くなる前まで咲いてくれる花です」
「秋灯草……」
シアは小さく繰り返した。
「綺麗ですね」
「ありがとうございます。小さな鉢でも育てられますよ」
その言葉に、シアは少し心を動かされた。
自分の部屋の窓辺に、花を置く。
そんなことを考えたことは、これまでほとんどなかった。
伯爵家にいた頃、部屋へ飾る花を自分で選ぶことはなかった。庭園には季節の花が咲いていたが、それを眺める余裕もあまりなかった。
けれど今は、自分の部屋がある。
小さな机があり、窓があり、好きな本を置く場所がある。
そこへ花を一鉢置いたら、どんなふうになるだろう。
シアは値札を見た。
小さな鉢植えで、銅貨十八枚。
決して買えない金額ではない。
けれど、今日はすぐに財布を取り出さなかった。
部屋の窓辺に置いても問題ないだろうか。
水やりはどのくらい必要なのだろう。
仕事で忙しい日も、きちんと世話ができるだろうか。
シアは少し考えてから、店主へ尋ねた。
「あの、育て方を教えていただいてもいいですか?」
「もちろんですよ」
店主は嬉しそうに頷き、日当たりや水やりについて説明してくれた。
シアは一つ一つ聞きながら、自分の部屋の窓辺を思い浮かべた。
朝は日が入る。
けれど、冬になると冷え込みが強くなるかもしれない。
それなら、置く場所を考えた方がよさそうだった。
「ありがとうございます。今日は育て方を教えていただけて嬉しかったです。部屋の置き場所を確かめてから、また見に来てもいいでしょうか?」
「ええ、もちろん。無理に今日決めなくてもいいんですよ」
店主は笑った。
「花は、育てる人の暮らしに合っているのが一番ですから」
シアはその言葉に頷いた。
「はい。また伺います」
店を離れながら、シアは少しだけ笑った。
欲しいと思ったものを、すぐに諦める必要はない。
けれど、欲しいと思った瞬間に買わなければならないわけでもない。
自分の暮らしに合うかどうかを考え、納得してから選べばいい。
その判断も、自分でできるのだ。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、店の明かりはすでに落とされ、厨房から夕食の香りが漂っていた。
シアが裏口から入ると、マルタが振り返った。
「おかえり、シア。図書館はどうだった?」
「ただいま戻りました。本を返して、新しい本を借りてきました」
「そうかい。今度は何の本だい?」
「街の庭や、季節の花について書かれた本です」
シアは鞄から本を取り出し、表紙を見せた。
マルタは興味深そうに眺めた。
「へえ。今度は花かい」
「はい。昨日、川沿いでいろいろな植物を見たので、もっと知りたくなったんです」
「いいじゃないか。うちの店先にも、小さな鉢を置いたことがあるよ」
「そうなんですか?」
「ああ。昔は花を育てていたんだけどね。忙しくなってから、すっかりご無沙汰になっちまった」
マルタは懐かしそうに笑った。
シアは少し考えてから、帰り道で花屋に寄ったことを話した。
「秋灯草という花を見たんです。とても綺麗で、部屋に置いてみたいと思ったんですけど、まずは育て方を教えていただきました」
「そうかい。ちゃんと考えたんだね」
「はい。部屋の窓辺に置いても大丈夫か、確かめてから決めようと思って」
マルタは頷いた。
「それがいいね。花を育てるのも楽しいけど、世話をする時間が必要だからね」
「はい。でも、いつか育ててみたいです」
「それなら、今度一緒に置き場所を考えようか」
「ありがとうございます」
シアは嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、厨房からオットーが顔を出した。
「花の話か?」
「はい。シアが花を育ててみたいんだってさ」
マルタが答えると、オットーは少し考えた。
「窓辺に置くなら、水をこぼさないように受け皿を使えよ」
「はい。気をつけます」
「それと、冬は窓の近くが冷える。花によっては場所を変えた方がいい」
シアは驚いた。
「オットーさん、お詳しいんですね」
「昔、マルタがいろいろ育ててたからな。何度も鉢を運ばされた」
オットーは少し困ったように言った。
マルタが笑う。
「そうだったね。あんた、重い鉢を運ぶのは上手だったよ」
「褒めてるのか、それは」
「もちろんさ」
二人のやり取りに、シアも思わず笑った。
こんなふうに、何気ない話をしながら夕食の準備をする。
それが、今のシアの日常になっていた。
◇
夕食のあと、シアは自室へ戻った。
机の上には、今日借りた本が置かれている。
窓の外では、秋の夜風が静かに吹いていた。
シアは椅子へ腰を下ろし、鞄から小さな帳面を取り出した。
そこには、自分の収入と支出を記録している。
《麦穂亭》で働き始めてから、少しずつ続けてきた習慣だった。
最初は、銅貨一枚を使うことにも迷った。
自分のためにお金を使うことが、怖かったからだ。
けれど今は、必要なものを買い、楽しみのためにも少しずつ使えるようになっている。
シアは帳面を開き、最近の支出を確かめた。
休日の昼食代。
日用品。
秋穫祭で買った櫛。
図書館の利用登録に使った銅貨。
どれも、自分で考えて使ったお金だった。
花の鉢植えは銅貨十八枚。
今の収入なら、買えない金額ではない。
けれど、冬に向けて必要になるものもある。
上着や靴の手入れ、寒さを防ぐための小物。
これから先の暮らしを考えれば、使い道を決めずに残しておくお金も必要だった。
シアは帳面の余白へ、小さく書き込んだ。
『秋灯草の鉢植え 銅貨十八枚。置き場所を確認してから考える』
書き終えると、少しだけ笑みが浮かんだ。
買うかどうかは、まだ決めていない。
けれど、欲しいと思ったものを忘れないように書いておく。
それも、自分の暮らしを大切にする方法の一つだった。
シアは帳面を閉じ、今度は図書館で借りた本を開いた。
頁には、秋の花の絵が描かれている。
その中に、今日見た秋灯草によく似た花があった。
シアは説明を読みながら、花屋で教えてもらったことを思い出した。
水やり。
日当たり。
寒さへの注意。
ただ綺麗だと思うだけではなく、育てるために必要なことを知る。
それも、楽しかった。
(……知らないことを覚えるのって、こんなに楽しいんだ)
シアは静かに微笑んだ。
伯爵家にいた頃、知識は役目を果たすためのものだった。
礼儀作法。
帳簿。
家の仕事。
必要だから覚え、失敗しないために学んだ。
けれど今は、知りたいから本を開いている。
自分が興味を持ったことを、自分の時間に学んでいる。
その違いが、今のシアには大きかった。
◇
しばらく本を読んでいると、シアはふと今日の出来事を思い返した。
朝、《銀鹿亭》から追加注文を受けた。
すぐに引き受けることはせず、予約分を確かめ、オットーに相談した。
そして、自分で考えた代案を客へ伝えた。
午後には、レオンハルトへ自分から話しかけた。
昨日見た川沿いの景色を伝え、仕事であったことも話した。
彼は楽しそうに聞いてくれた。
そのあと、自分の仕事を終え、図書館へ行った。
借りた本を返し、新しい本を選び、帰り道には花屋へ寄った。
どれも、大きな出来事ではない。
けれど、今日の自分は、いくつものことを自分で決めていた。
シアは本を閉じ、机の上へ置いた。
(……私は、少しずつ変わっているんだ)
そう思った。
以前の自分が、すべて間違っていたわけではない。
あの頃も、できることを精一杯やっていた。
ただ、自分の気持ちを後回しにすることが当たり前になっていた。
誰かに頼まれれば断れず、失敗すれば必要以上に自分を責め、休むことにも遠慮していた。
けれど今は、できることとできないことを考えられる。
分からないことは尋ねられる。
自分の予定を大切にできる。
そして、誰かと過ごす時間を楽しみにできる。
シアは窓辺へ歩み寄った。
夜の街には、家々の明かりが点々と灯っている。
遠くには、昨日歩いた川の方角がある。
今頃、石橋の上には誰かが立っているだろうか。
川面には、月の光が映っているだろうか。
そんなことを考えていると、自然とレオンハルトの顔が浮かんだ。
今日、彼は自分の話を丁寧に聞いてくれた。
川沿いの景色も、仕事であったことも。
そして、また話を聞かせてほしいと言ってくれた。
(……また、お話しできたらいいな)
シアは少しだけ微笑んだ。
以前なら、そんな願いを抱くことさえためらったかもしれない。
彼は公爵家の跡取りだ。
自分とは立場が違う。
けれど、今のシアは、彼と話す時間が好きだった。
それは、誰かに決められた気持ちではない。
自分の中から自然に生まれたものだった。
その気持ちに、今すぐ名前をつける必要はない。
ただ、また会えたら嬉しい。
それで十分だった。
◇
同じ頃、公爵家の屋敷では、レオンハルトが執務室の机に向かっていた。
机の上には、領内の商会から届いた報告書が並んでいる。
冬に向けた物資の流通。
街道の整備状況。
市場の取引記録。
どれも、公爵家の跡取りとして確認しなければならないものだった。
レオンハルトは一枚ずつ書類へ目を通し、必要な箇所へ印をつけていた。
やがて、最後の報告書を読み終えると、椅子の背へ軽く体を預けた。
窓の外には、夜の街の明かりが見える。
その中に、《麦穂亭》という小さなパン屋がある。
そして、そこで働くシアがいる。
レオンハルトは、今日の会話を思い出した。
川沿いの景色を話していた彼女の表情。
仕事で困ったことがあったとき、自分で考えて対応したと話していた声。
図書館へ行く予定を、楽しそうに語っていた姿。
(……彼女は、自分の暮らしを築いているんだな)
そう感じた。
レオンハルトは、シアの過去を知らない。
どこから来たのかも、なぜ一人でこの街へ来たのかも聞いていない。
けれど、彼女が今の生活を大切にしていることは分かる。
仕事を覚え、友人を作り、休日を楽しみ、自分の好きな本を読む。
その一つ一つを、彼女自身が選んでいる。
レオンハルトは静かに微笑んだ。
彼女がどんな事情を抱えているとしても、今の暮らしを尊重したい。
自分の立場を使って、何かを与えようとは思わなかった。
ただ、彼女が自分の足で歩いていることを、嬉しく感じていた。
(……また、話を聞かせてもらえたらいい)
レオンハルトはそう思い、書類を整えた。
次に《麦穂亭》へ行くとき、彼女はどんな話をしてくれるだろう。
新しく借りた本のことかもしれない。
仕事で覚えたことかもしれない。
あるいは、また知らない場所へ出かけた話かもしれない。
そのどれでも、きっと楽しいだろう。
レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。
夜の街は静かだった。
けれど、その静けさの中で、多くの人々がそれぞれの暮らしを営んでいる。
シアも、その一人なのだ。
◇
シアは寝台へ入る前に、明日の準備を整えた。
仕事用の服を畳み、櫛を机の引き出しへしまい、朝に必要なものを手の届く場所へ置く。
窓の外では、秋の夜風が静かに吹いていた。
シアは最後に、机の上の本へ目を向けた。
『街の小さな庭と季節の花』。
明日も仕事が終わったら、続きを読もう。
そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。
今日一日、いろいろなことがあった。
仕事で考え、判断し、客へ説明した。
レオンハルトへ自分から話しかけた。
図書館へ行き、新しい本を選んだ。
花屋では、欲しいものを見つけたが、すぐに買わずに考えることにした。
どれも、自分で決めたことだった。
シアは明かりを落とし、寝台へ横になった。
遠い街へ来たとき、彼女はただ逃げることしか考えていなかった。
家族から離れること。
婚約者から離れること。
誰にも頼らず、自分の力で生きていくこと。
それが、すべてだった。
けれど今は違う。
頼ることもできる。
断ることもできる。
自分の予定を決めることもできる。
そして、誰かと一緒に過ごす時間を楽しみにすることもできる。
シアは静かに目を閉じた。
明日も、いつもの仕事が待っている。
けれど、その毎日の中には、まだ知らないことがたくさんある。
覚えたい仕事。
読みたい本。
行ってみたい場所。
会って話したい人。
その一つ一つを、これから自分で選んでいけばいい。
シアは小さく微笑んだ。
(……明日も、私が決めていいんだ)
その思いを胸に、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。




