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『家族も婚約者も、もういりません 〜婚約破棄された伯爵令嬢は、遠い街で人生をやり直す〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第40話 自分で決めたことだから



 休日明けの朝、《麦穂亭》の厨房には、まだ夜の冷たさが残っていた。


 窓の外は薄青く、通りを走る荷馬車の車輪が、遠くで石畳を踏む音を響かせている。窯の前だけはすでに温かく、オットーが薪の燃え具合を確かめるたびに、赤い火が彼の横顔を照らしていた。


 シアは作業台の上に並んだ生地を見下ろし、指先でそっと表面を押した。


 昨日よりも、少しだけ張りが弱い。


 気温が下がったせいだろうか。それとも、粉の状態が違うのだろうか。


 以前なら、そんな違いに気づいても口には出せなかった。自分の考えが間違っていたらどうしようと迷い、結局、オットーから指示があるまで手を止めていたはずだった。


「オットーさん、この生地なんですけど、昨日より少し柔らかい気がします。丸めるときの力加減を変えた方がいいでしょうか」


 シアが尋ねると、オットーは手を拭いて作業台へ近づいた。


「どれだ」


 差し出された生地を手に取り、表面を確かめる。軽く伸ばしてから元の位置へ戻すと、オットーは小さく頷いた。


「よく気づいたな。今日は粉の吸い方が少し違う。無理に締めると表面が裂けるから、いつもより優しく扱え」


「はい。最初の一つを見ていただいてもいいですか?」


「ああ。やってみろ」


 シアは両手で生地を包み、力を入れすぎないように形を整えた。手のひらの下で生地がゆっくりと丸くなり、最後に綴じ目を下へ向けると、オットーが横から確かめる。


「それでいい。あとは同じように進めろ」


「ありがとうございます」


 シアは次の生地へ手を伸ばした。


 教えてもらうことは、恥ずかしいことではない。


 分からないまま進めて失敗するより、確かめてから覚えた方がいい。そう理解できるようになってから、厨房での仕事は以前よりもずっと楽しくなっていた。


 作業台の向こうで、オットーが別の生地を量り始める。


「昨日は川沿いへ行ったんだったな」


「はい。ミレイユさんと南の石橋まで歩いてきました」


「寒くなかったか?」


「帰る頃には少し。でも、上着を持っていったので大丈夫でした」


「そうか。あの辺りは風が抜けるからな」


 オットーはそれだけ言うと、再び仕事へ戻った。


 シアも生地を整えながら、昨日見た川面を思い出した。


 昼間は青かった水が、夕方には橙色に染まっていた。ミレイユと並んで石橋を歩き、蜂蜜菓子を食べ、次も一緒に出かけようと約束した。


 楽しかった時間は、もう終わっている。


 けれど、思い出すたびに気持ちが温かくなる。


(次のお休みには、どこへ行こうかな)


 そう考えたところで、シアは手元の生地へ意識を戻した。


 今は仕事の時間だ。


 休日の楽しみは大切にしながら、今日の仕事もしっかり終える。


 どちらか一方を諦める必要はないのだと、今のシアは少しずつ分かり始めていた。


     ◇


 開店前、シアは注文帳を広げ、今日の予約分を確認していた。


 騎士団への定期納品はない日だが、《銀鹿亭》からは丸パン十二個と黒麦パン六個、《赤い鍋亭》からは丸パン十個の注文が入っている。どちらも前日までにオットーが数量を確認し、仕込みに組み込んでいたものだった。


 シアは予約分の籠へ札を置き、売り場に並べるパンと混ざらないようにした。


「マルタさん、《銀鹿亭》の受け取りは午前中、《赤い鍋亭》は昼前で間違いありませんか?」


「ああ、そうだよ。昨日確認したとおりだね」


「分かりました。予約分は奥の棚に分けてあります」


「ありがとう。今日は朝から少し忙しくなりそうだから、助かるよ」


 マルタは会計台の引き出しを確かめながら笑った。


 シアは注文帳を閉じ、売り場の棚へ向かう。


 以前は、仕事を任されると、失敗しないことばかり考えていた。


 けれど今は、どうすればマルタやオットーが仕事を進めやすいかを考えるようになった。自分の担当だけを終わらせるのではなく、店全体の流れを見る余裕が少しずつ生まれている。


 もちろん、まだ判断できないことも多い。


 焼く数を増やすかどうかも、材料を新しく仕入れるかどうかも、店の経営に関わることだ。自分の考えだけで決めてはいけない。


 それでも、確認する前に自分なりの案を考えることはできる。


 シアは棚の端に置かれた胡桃パンを見て、昨日よりも少し少なめに並べ直した。


 午前中は丸パンを買う客が多い。


 胡桃パンを奥へ置けば、会計台の近くに少し余裕ができる。


 その配置をマルタに伝えると、彼女は売り場を見渡して頷いた。


「いいと思うよ。今日はそれでやってみようか」


「はい」


 自分で考えたことが、店の仕事に役立つ。


 その小さな手応えが、シアには嬉しかった。


     ◇


 開店から一時間ほど経った頃、《銀鹿亭》の使いの男性がやって来た。


 以前にも何度か顔を合わせたことのある、三十代ほどの男性だった。肩から革の鞄を下げ、少し急いで来たのか、額に薄く汗を浮かべている。


「おはようございます。《銀鹿亭》です。予約のパンを受け取りに来ました」


「おはようございます。丸パン十二個と黒麦パン六個ですね。すぐにご用意します」


 シアが奥の棚へ向かおうとすると、男性が申し訳なさそうに声をかけた。


「ああ、そのことなんですが。今朝、急に宿泊客が増えましてね。できれば丸パンを、あと八個ほど追加できないかと思って」


 シアは足を止めた。


 丸パンを八個。


 それだけ聞けば、決して大きな数には思えない。


 しかし、今日の丸パンには《赤い鍋亭》の予約分もある。朝の売れ行きもよく、棚に並んでいる分をそのまま追加注文へ回せば、普段から買いに来る客の分が足りなくなるかもしれない。


 以前のシアなら、相手が困っていると分かった瞬間に頷いていただろう。


 頼みを断ることが怖かったからだ。


 できるかどうかを確かめる前に、何とかしますと言ってしまう。そして、あとから自分一人で帳尻を合わせようとしたかもしれない。


 けれど、今は違う。


「追加で丸パン八個ですね。ご相談いただきありがとうございます。ただ、ほかのお客様の予約もありますので、在庫と厨房の予定を確認させてください。少しお待ちいただけますか?」


 男性はほっとしたように頷いた。


「もちろんです。急なお願いで申し訳ありません」


「いえ。お宿もお忙しいのですね」


 シアは注文帳を開き、現在の数を確かめた。


 すでに焼き上がっている丸パンのうち、《銀鹿亭》と《赤い鍋亭》の予約分を除くと、売り場に回せる数は限られている。次の焼き上がりは昼近くになる予定で、今すぐ八個を追加するのは難しそうだった。


 シアは帳簿を持って厨房へ向かった。


「オットーさん、《銀鹿亭》から丸パン八個の追加をお願いされています。今の予約分を除くと、すぐに八個はお渡しできません。次の焼き上がりを待っていただくことは可能でしょうか?」


 オットーは窯の前で手を止め、壁に掛けた仕込み表を見た。


「八個か。次の分は昼前だな。全部を回すと、店売りが少なくなる」


「はい。私もそう思いました」


「それで、どうする?」


 尋ねられて、シアは少しだけ考えた。


 すぐに答えを求められても、慌てる必要はない。


 注文帳に書かれた数字を頭の中で並べ、使いの男性が急いでいた様子を思い出す。


「まず、お宿で必要な時間を確認したいです。朝食用でしたら間に合わないかもしれませんし、昼食用なら次の焼き上がりを待っていただけるかもしれません。それから、丸パンでなくてもよければ、ほかの種類をご案内できるかもしれません」


 オットーはシアを見た。


「なるほど。今すぐ渡せるパンの数も見ておけ」


「はい。予約分を除いて確認します」


「それでいい。勝手に追加を引き受けなかったのも正しい判断だ」


 シアは頷き、売り場へ戻った。


 褒められたことは嬉しかった。


 けれど、それ以上に、自分の考えを伝えて仕事を進められたことが嬉しかった。


「お待たせしました。追加の丸パンですが、すぐに八個をご用意するのは難しい状況です」


 男性の表情が少し曇る。


 シアはその変化を見ながら、落ち着いて続けた。


「次の焼き上がりは昼前になります。お宿では、何時頃までに必要でしょうか?」


「実は、今朝到着したお客様の朝食用なんです。厨房でも用意しているんですが、パンだけ少し足りなくなってしまって」


「そうでしたか。では、昼前では遅いですね」


 シアは棚へ目を向けた。


 現在、予約分を除いて販売できる丸パンは四個だった。黒麦パンと胡桃パンには、まだ少し余裕がある。


「丸パンでしたら、今すぐお渡しできるのは四個までです。残りの四個については、黒麦パンや胡桃パンに変更していただくこともできます。ただ、種類によってお値段が違いますので、お宿の方へ確認していただいた方がよろしいでしょうか?」


 男性はしばらく考えたあと、頷いた。


「それなら助かります。朝食の献立にもよりますが、黒麦パンなら使えると思います。いったん宿へ戻って確認してもいいでしょうか」


「はい。もちろんです。ただ、店売りのパンですので、長い時間のお取り置きはお約束できません。確認が取れましたら、なるべく早めにお知らせください」


「分かりました。すぐ戻ります」


 男性は元の予約分だけを受け取り、代金を支払って店を出ていった。


 シアは扉が閉まるのを見届け、追加注文がまだ確定していないことを注文帳へ書き添えた。


 勝手にパンを取り置くことはしない。


 けれど、相談があった事実は残しておく。


 マルタが隣へ来て、帳簿を覗き込んだ。


「ちゃんと話せたね」


「はい。でも、少し緊張しました」


「そうだろうね。困っているお客様へ、できませんと言うのは簡単じゃないよ」


 シアは静かに頷いた。


「以前の私だったら、確認せずに引き受けていたと思います」


「そうかもしれないね」


 マルタは穏やかに笑った。


「でも、できないことをできると言う方が、あとで相手を困らせるだろう?」


「はい。今日は、そのことを考えられました」


「それなら十分だよ。お客様のためにも、店のためにもね」


 シアは注文帳へ視線を落とした。


 断ることは、相手を突き放すことではない。


 自分にできる範囲を伝え、その中で方法を探すこともできる。


 それを、今朝は実際に行動へ移せた。


(……少しずつ、できるようになっているんだ)


 そう思ったが、シアはすぐに帳簿を閉じた。


 仕事はまだ続いている。


 今は、目の前の客を迎える時間だった。


     ◇


 《銀鹿亭》の使いは、それから間もなく戻ってきた。


 宿の厨房で確認したところ、追加分は丸パン四個と黒麦パン四個で問題ないという。シアは改めて在庫を確認し、マルタにも内容を伝えてから、追加分を包んだ。


「丸パン四個で銅貨二十枚、黒麦パン四個で銅貨二十八枚です。追加分は合計四十八枚になります」


「はい。こちらでお願いします」


 男性は代金を支払い、パンの入った包みを受け取った。


「急なお願いだったのに、助かりました。宿の主人も礼を言っていましたよ」


「こちらこそ、ご確認いただきありがとうございました。お客様にも喜んでいただけると嬉しいです」


 男性は笑って店を出ていった。


 シアはその背中を見送り、追加分の販売数を帳簿へ記入した。


 売り場の丸パンは一時的に少なくなったが、《赤い鍋亭》の予約分には手をつけていない。午後の販売については、マルタとオットーが相談して調整することになっていた。


 すべてを自分一人で解決したわけではない。


 それでも、最初の相談を受け、必要なことを確かめ、代案を伝え、最後まで会計を終えた。


 その一連の仕事を、自分の判断で進められた。


 シアは帳簿の数字を確かめながら、静かに息を吐いた。


 以前なら、誰かに褒めてもらうまで安心できなかったかもしれない。


 けれど今は、予約分が守られていることも、追加注文が正しく記録されていることも、自分で確認できる。


 それが、何より確かな手応えだった。


     ◇


 昼前になると、《麦穂亭》の客足は少し落ち着いた。


 シアは会計台の下に置いた小さな鞄を見た。


 中には、王立図書館で借りた『川沿いの町を歩く』が入っている。


 昨夜、読み終えた本を布で包み、傷がつかないようにしまっておいた。返却期限まではまだ少し余裕があるが、今日は仕事が終わったあとに返しに行こうと決めている。


 初めて自分の名前で借りた本。


 読んでいるうちに、実際の川沿いを歩いてみたくなった本。


 そして、ミレイユとの休日を生むきっかけになった本だった。


 返してしまうのは少し惜しい。


 けれど、図書館にはまだたくさんの本がある。


 次に何を読むか考えるのも楽しみだった。


「マルタさん、今日の仕事が終わったら、図書館へ寄ってもいいでしょうか?」


 シアが尋ねると、マルタは棚を拭く手を止めた。


「もちろんだよ。借りた本を返しに行くんだったね」


「はい。返却期限より前ですが、読み終わったので」


「いいことじゃないか。閉店後の片づけが終わったら、行っておいで」


「ありがとうございます」


 シアはそう答えてから、少し考えた。


 以前の自分なら、図書館へ行く予定があっても、誰かの仕事が残っていれば手伝わなければと思っただろう。


 たとえ自分の担当が終わっていても、帰ることに罪悪感を覚えたはずだった。


 けれど今日は、必要な仕事を終えたら図書館へ行くと決めている。


 もちろん、店が本当に忙しければ相談する。


 しかし、ただ遠慮するためだけに、自分の予定を諦める必要はない。


「それまでに、今日の帳簿と棚の整理を終わらせておきます」


「そうしてくれると助かるよ」


 マルタは笑った。


「でも、全部一人で抱え込むんじゃないよ。時間になっても終わらない仕事があれば、ちゃんと相談するんだ」


「はい。分かりました」


 シアは頷き、午後の仕事へ戻った。


     ◇


 午後の客足が落ち着いた頃、店の扉が開いた。


 鈴の音に顔を上げたシアは、入口に立つ人物を見て、思わず表情を和らげた。


 レオンハルトだった。


 落ち着いた色の外套を羽織り、いつものように穏やかな笑みを浮かべている。店の外には護衛の男性が控えていたが、レオンハルト自身は一人で店内へ入ってきた。


「こんにちは、シア」


「こんにちは、レオンハルト様。いらっしゃいませ」


 シアは会計台の前へ進んだ。


 彼が来るかもしれないと、昨日の夜に考えていた。


 川沿いで見た景色を話してみたい。


 その気持ちは、今も胸の中に残っている。


 けれど、仕事中だ。


 まずは客として迎えなければならない。


「今日は何になさいますか?」


「丸パンを四つと、胡桃パンを二つお願いします」


「かしこまりました」


 シアは棚からパンを取り、数を確かめながら包んだ。


 丸パン四個で銅貨二十枚。


 胡桃パン二個で銅貨十二枚。


 合計三十二枚。


 包みを整えてから、シアは少しだけ顔を上げた。


「あの、レオンハルト様」


「はい?」


「以前、お話しした旅行記のことを覚えていらっしゃいますか?」


 レオンハルトの表情が、少し明るくなった。


「『川沿いの町を歩く』ですね」


「はい。覚えていてくださったんですね」


「もちろんです。シアが楽しそうに話していたので」


 シアは嬉しくなった。


 けれど、以前のように驚いて言葉を止めることはなかった。


 今日は、自分から話したいことがある。


「実は昨日のお休みに、ミレイユさんと南側の川沿いを歩いてきたんです。旅行記を読んでいたら、私も実際の川を見たくなって」


「そうだったのですか」


 レオンハルトは穏やかに頷いた。


「南側というと、古い石橋のある辺りでしょうか」


「はい。石橋も、川沿いの道も歩いてきました」


 シアは包みを会計台へ置き、昨日の景色を思い出した。


「昼間は水面が青くて、木々の色が映っていたんです。でも夕方になると、川が橙色に変わっていって……。同じ場所なのに、まったく違う景色に見えました」


 話しながら、シアは自然と笑顔になっていた。


「それから、川沿いに古い石碑があったんです。昔、街の人たちが協力して堤を直した記念だと、ミレイユさんが教えてくださいました」


 レオンハルトは目を細めた。


「あの石碑をご覧になったのですね」


「ご存じなんですか?」


「ええ。子どもの頃、父と一緒に川沿いを歩いたときに教えてもらいました」


「そうなんですね」


 シアは少し驚いた。


 レオンハルトが子どもの頃、父親と川沿いを歩いていた。


 それは、自分が知らない彼の姿だった。


 公爵家の跡取りとして働く今の彼とは違う、まだ幼かった頃の話。


 そんなことを聞けるのが、少し嬉しかった。


「私は、石碑にたくさんの方のお名前が刻まれているのを見て、素敵だなと思ったんです」


「素敵、ですか?」


「はい。貴族の方だけではなく、職人さんや商人さんのお名前もあって。この街は、いろいろな人が力を合わせて守ってきたんだなって」


 レオンハルトはしばらくシアを見つめた。


 その眼差しは、いつもより少しだけ真剣だった。


「……そう感じていただけたのなら、嬉しいです」


 シアは首を傾げた。


「レオンハルト様?」


「領地を守るというのは、公爵家だけでできることではありません。川を整える人、道を修繕する人、食べ物を作る人。そうした人々の仕事が積み重なって、街の暮らしが成り立っています」


 シアは静かに頷いた。


「私も、昨日同じようなことを考えました」


「そうでしたか」


「はい。パン屋で働いている私も、その中の一人なのかなって」


 口にしてから、少しだけ照れくさくなった。


 以前なら、こんなことを言うのは思い上がりだと思ったかもしれない。


 けれど、今朝の仕事を思い出す。


 注文を確認し、客の相談を受け、できることを考えて伝えた。


 自分がいなければ店が回らない、などと思っているわけではない。


 それでも、自分の仕事が誰かの役に立っていることは確かだった。


「今日も、お宿から急な追加注文があったんです」


 シアは続けた。


「最初は少し困りました。でも、できる数を確認して、別の種類のパンをご案内したら、お客様にも納得していただけました」


「それはよかったですね」


「はい。以前の私なら、きっと何でも引き受けようとしていたと思います。でも、今日は無理な約束をしないで済みました」


 シアは少し笑った。


「お客様にも、店にも、迷惑をかけずに済んだので、ほっとしました」


 レオンハルトは穏やかに微笑んだ。


「相手の希望を聞きながら、できることを考えたのですね」


「はい。オットーさんにも確認しました」


「それは大切なことだと思います」


 彼の言葉に、シアは頷いた。


 以前なら、褒められると、それだけで自分の判断が正しかったと安心していただろう。


 けれど今日は違った。


 自分で数字を確かめた。


 予約分を守った。


 相手へ事情を説明し、納得してもらった。


 だから、仕事を終えた時点で、もう自分なりに納得できていた。


 レオンハルトの言葉は、その上に重なる温かなものだった。


     ◇


 レオンハルトは、シアの話を聞きながら、以前の彼女を思い出していた。


 初めて《麦穂亭》で言葉を交わした頃、シアはいつも慎重だった。


 注文を聞く声は丁寧で、仕事ぶりも真面目だったが、自分のことを話すときには、どこか遠慮があった。


 何かを尋ねても、必要なことだけを答え、それ以上は口にしない。


 そんな印象があった。


 けれど、今は違う。


 自分から旅行記の話を始め、昨日見た景色を楽しそうに語っている。


 仕事で困ったことがあっても、どう考えて対応したのかを話してくれる。


 それは、誰かに認められようとしている姿ではなかった。


 自分が経験したことを、自分の言葉で伝えている。


(……彼女は、この街での暮らしを大切にしているんだな)


 レオンハルトはそう感じた。


 シアがどこから来たのかは知らない。


 なぜ、この街で一人暮らしを始めたのかも聞いていない。


 けれど、彼女が今の仕事を好きで、友人との時間を楽しみ、自分の生活を少しずつ広げていることは分かる。


 その変化が、レオンハルトには嬉しかった。


「シア」


「はい?」


「昨日の川沿いは、楽しかったですか?」


 尋ねると、シアは迷わず頷いた。


「はい。とても楽しかったです」


 その返事には、以前のようなためらいがなかった。


「私からミレイユさんを誘ったんです。少し緊張しましたけど、喜んでいただけて……。一緒に歩いて、食堂でお昼を食べて、菓子屋さんにも寄りました」


「それは、素敵な休日でしたね」


「はい。また一緒に出かけようと約束したんです」


 シアは嬉しそうに笑った。


 レオンハルトも自然と微笑んだ。


「次は、どちらへ?」


「まだ決めていません。でも、図書館へ一緒に行くのもいいねって話しています」


「図書館ですか」


「はい。私、今日の仕事が終わったら、借りた本を返しに行くつもりなんです」


 そう言ってから、シアは少しだけ照れた。


「次に何を借りようか、まだ決めていないんですけど」


「それなら、選ぶ時間も楽しめそうですね」


「はい。そう思っています」


 シアは微笑んだ。


 仕事を終えたら図書館へ行く。


 それは、自分で決めた今日の予定だった。


 誰かに連れていってもらうわけではない。


 誰かの許可を待っているわけでもない。


 自分の仕事を終え、自分の足で行く。


 そのことを、今は自然に楽しみにできていた。


     ◇


 会話が一段落したところで、シアは包みを差し出した。


「お待たせしました。丸パン四つと胡桃パン二つで、銅貨三十二枚です」


「ありがとうございます」


 レオンハルトは代金を支払い、パンを受け取った。


 そのとき、店の扉が開き、別の客が入ってきた。


 シアはすぐに顔を向けた。


「いらっしゃいませ」


 レオンハルトも新しい客に気づき、会計台から一歩下がった。


「お仕事の邪魔をしてはいけませんね」


「いえ。お話しできて嬉しかったです」


 シアはそう答えてから、自分の言葉に少しだけ驚いた。


 けれど、言い直そうとは思わなかった。


 本当に嬉しかったからだ。


 レオンハルトは一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「私もです。また、川沿いのお話を聞かせてください」


「はい。ぜひ」


 シアは笑顔で頷いた。


 レオンハルトが店を出ると、扉の鈴が静かに鳴った。


 その音を聞きながら、シアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 昨日、川沿いを歩きながら、彼へ話してみたいと思った。


 そして今日、自分から話しかけることができた。


 それだけのことなのに、嬉しかった。


 けれど、今は仕事中だ。


 シアは気持ちを切り替え、新しく来た客へ向き直った。


「お待たせしました。今日は何になさいますか?」


 その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。


     ◇


 午後の仕事が終わりに近づく頃、シアは帳簿の数字を確かめていた。


 朝の追加注文も、午後の販売分も、すべて記録されている。


 予約分の受け渡しも問題なく終わり、残ったパンの数も棚と一致していた。


 シアは最後の数字を書き込み、帳簿を閉じた。


「マルタさん、今日の販売記録は終わりました。残数も確認してあります」


「ありがとう。こっちも片づけが終わったよ」


 マルタは棚を拭き終え、布巾を畳んだ。


「図書館へ行くんだったね。そろそろ出た方がいいんじゃないかい?」


 シアは壁の時計へ目を向けた。


 まだ間に合う時間だった。


「はい。今日はここまでで大丈夫でしょうか?」


「ああ。もう店の仕事は終わってるよ」


「分かりました。では、行ってきます」


 シアはそう言って、会計台の下に置いていた鞄を手に取った。


 そのとき、厨房からオットーが顔を出した。


「シア、明日の粉の数を確認しておいてくれたか?」


「はい。今日の仕込み分を差し引いた数を、仕入れ帳の横へ書いてあります」


「そうか。助かる」


 オットーは頷き、再び厨房へ戻ろうとした。


 シアは一瞬、手伝えることがないか尋ねようとした。


 けれど、すぐに思い直した。


 自分の担当は終わっている。


 マルタも、もう帰っていいと言ってくれた。


 それなら、今日は自分の予定を大切にしよう。


「オットーさん、私はこれから図書館へ行ってきます。明日もよろしくお願いします」


「ああ。気をつけて行ってこい」


 オットーは振り返り、短く答えた。


 シアは笑顔で頷いた。


 以前なら、帰ることに申し訳なさを感じていただろう。


 けれど今は、仕事を終えた自分が図書館へ行くことに、後ろめたさはなかった。


 シアは上着を羽織り、鞄を肩へ掛けた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。暗くなる前に戻っておいで」


 マルタの声に見送られ、シアは《麦穂亭》を出た。


     ◇


 夕方の街には、仕事を終えた人々の姿が増え始めていた。


 市場では店じまいの準備が進み、荷車を押す商人たちが声を掛け合っている。通りの角からは焼き栗の香りが漂い、少し冷たくなった風がシアの頬を撫でた。


 シアは鞄を確かめながら、王立図書館へ向かった。


 以前、初めてこの道を歩いたときは、何度も立ち止まって周囲を見回した。


 図書館の場所を間違えていないだろうか。


 自分のような者が入ってもいいのだろうか。


 そんなことを考えていた。


 けれど今日は、迷わず歩ける。


 図書館の場所も、入口の手続きも、借りられる本の数も知っている。


 知らなかったことが、一つずつ自分の知識になっている。


 そのことが、嬉しかった。


 やがて、三階建ての王立図書館が見えてきた。


 石造りの建物は夕方の光を受けて柔らかく輝き、入口の階段には数人の利用者が行き交っている。


 シアは扉を開け、静かな館内へ入った。


 外の賑わいが遠ざかり、紙と木の匂いがふわりと広がる。


 閲覧席では本を読む人々が静かに頁をめくり、奥の書架の間を司書が歩いていた。


 シアは返却窓口へ向かった。


「こんにちは。本を返却したいのですが」


 声をかけると、灰色の髪の司書が顔を上げた。


「あら、シアさん。こんにちは」


「こんにちは。こちらをお願いします」


 シアは鞄から布包みを取り出し、中の本を丁寧に差し出した。


 司書は表紙を確かめ、貸出記録を開いた。


「『川沿いの町を歩く』ですね。返却期限より前ですし、本の状態も問題ありません」


「ありがとうございます」


「最後まで読めましたか?」


「はい。とても面白かったです」


 シアは微笑んだ。


「この本を読んで、実際に川沿いを歩いてみたくなったんです。それで昨日、友達と南側の石橋へ行ってきました」


 司書は嬉しそうに目を細めた。


「まあ。それは素敵ですね」


「はい。本で読んだ景色と、自分の目で見る景色は、少し違うんだなと思いました」


「本は、知らない場所を教えてくれますからね。でも、実際に歩いてみると、そこには本に書ききれないものがあるでしょう?」


「はい。水の音や風の冷たさまで感じられて、とても楽しかったです」


 司書は頷き、本を返却棚へ置いた。


「次の本も借りていきますか?」


「はい。今日は少し探してみたいと思っています」


「それなら、ゆっくり選んでくださいね。閉館までには、まだ時間がありますから」


「ありがとうございます」


 シアは礼を言い、書架の方へ歩き始めた。


     ◇


 図書館の中を歩くのは、まだ少し緊張する。


 けれど、それは以前のような怖さではなかった。


 知らない本がたくさんあることへの、心地よい緊張だった。


 シアは書架の間をゆっくり歩きながら、背表紙に書かれた題名を眺めた。


 旅の記録。


 街の歴史。


 季節の植物。


 料理や暮らしについての本。


 どれも興味深かった。


 最初は、また旅行記を借りようと思っていた。


 けれど、棚を眺めているうちに、別の本が目に留まった。


 『街の小さな庭と季節の花』。


 表紙には、石畳の道に面した小さな庭が描かれていた。


 シアは本を手に取り、頁を開いた。


 そこには、街の家々で育てられている草花や、季節ごとの庭の様子が紹介されていた。


 春に咲く花。


 夏の日差しに強い植物。


 秋に色づく木々。


 冬でも緑を残す草。


 どれも、特別な貴族の庭園ではない。


 小さな家の窓辺や、店先の鉢植え、通りの片隅にある花壇の話だった。


(……こういう本も、面白そう)


 シアは頁をめくりながら、昨日歩いた川沿いの道を思い出した。


 家の前に置かれた鉢植え。


 石橋の近くで売られていた秋の花。


 道端に落ちていた赤い葉。


 それらを、もっと詳しく知ることができるかもしれない。


 シアは本を閉じ、腕に抱えた。


 もう一冊借りることもできる。


 けれど、今回はこの一冊をゆっくり読んでみたいと思った。


 何冊も借りることより、読みたい本を選ぶことが大切だ。


 シアはそのまま貸出窓口へ戻った。


「こちらを一冊、お願いします」


 司書は本の表紙を見て、微笑んだ。


「今度は花の本ですね」


「はい。昨日、川沿いを歩いていたら、いろいろな植物が目に入ったので」


「なるほど。季節によって、街の景色はずいぶん変わりますからね」


 司書は利用証を受け取り、貸出記録へ書き込んだ。


「返却期限は十日後です」


「はい。ありがとうございます」


 シアは本を受け取り、鞄へ丁寧にしまった。


 図書館を出ると、空は少しずつ夕方の色へ変わっていた。


 シアは階段を下り、街の通りへ歩き出した。


 鞄の中には、新しく借りた本がある。


 それだけで、帰り道が少し楽しく感じられた。


     ◇


 《麦穂亭》へ戻る途中、シアは小さな花屋の前で足を止めた。


 店先には、秋の花が並んでいた。


 薄紫色の花。


 黄色い小さな花。


 赤く色づいた葉を添えた花束。


 昨日、川沿いで見た花売りの籠を思い出す。


 シアはしばらく眺めてから、店の女性へ声をかけた。


「こんにちは。この黄色い花は、何という名前ですか?」


 店主は顔を上げ、笑顔で答えた。


「秋灯草ですよ。寒くなる前まで咲いてくれる花です」


「秋灯草……」


 シアは小さく繰り返した。


「綺麗ですね」


「ありがとうございます。小さな鉢でも育てられますよ」


 その言葉に、シアは少し心を動かされた。


 自分の部屋の窓辺に、花を置く。


 そんなことを考えたことは、これまでほとんどなかった。


 伯爵家にいた頃、部屋へ飾る花を自分で選ぶことはなかった。庭園には季節の花が咲いていたが、それを眺める余裕もあまりなかった。


 けれど今は、自分の部屋がある。


 小さな机があり、窓があり、好きな本を置く場所がある。


 そこへ花を一鉢置いたら、どんなふうになるだろう。


 シアは値札を見た。


 小さな鉢植えで、銅貨十八枚。


 決して買えない金額ではない。


 けれど、今日はすぐに財布を取り出さなかった。


 部屋の窓辺に置いても問題ないだろうか。


 水やりはどのくらい必要なのだろう。


 仕事で忙しい日も、きちんと世話ができるだろうか。


 シアは少し考えてから、店主へ尋ねた。


「あの、育て方を教えていただいてもいいですか?」


「もちろんですよ」


 店主は嬉しそうに頷き、日当たりや水やりについて説明してくれた。


 シアは一つ一つ聞きながら、自分の部屋の窓辺を思い浮かべた。


 朝は日が入る。


 けれど、冬になると冷え込みが強くなるかもしれない。


 それなら、置く場所を考えた方がよさそうだった。


「ありがとうございます。今日は育て方を教えていただけて嬉しかったです。部屋の置き場所を確かめてから、また見に来てもいいでしょうか?」


「ええ、もちろん。無理に今日決めなくてもいいんですよ」


 店主は笑った。


「花は、育てる人の暮らしに合っているのが一番ですから」


 シアはその言葉に頷いた。


「はい。また伺います」


 店を離れながら、シアは少しだけ笑った。


 欲しいと思ったものを、すぐに諦める必要はない。


 けれど、欲しいと思った瞬間に買わなければならないわけでもない。


 自分の暮らしに合うかどうかを考え、納得してから選べばいい。


 その判断も、自分でできるのだ。


     ◇


 《麦穂亭》へ戻ると、店の明かりはすでに落とされ、厨房から夕食の香りが漂っていた。


 シアが裏口から入ると、マルタが振り返った。


「おかえり、シア。図書館はどうだった?」


「ただいま戻りました。本を返して、新しい本を借りてきました」


「そうかい。今度は何の本だい?」


「街の庭や、季節の花について書かれた本です」


 シアは鞄から本を取り出し、表紙を見せた。


 マルタは興味深そうに眺めた。


「へえ。今度は花かい」


「はい。昨日、川沿いでいろいろな植物を見たので、もっと知りたくなったんです」


「いいじゃないか。うちの店先にも、小さな鉢を置いたことがあるよ」


「そうなんですか?」


「ああ。昔は花を育てていたんだけどね。忙しくなってから、すっかりご無沙汰になっちまった」


 マルタは懐かしそうに笑った。


 シアは少し考えてから、帰り道で花屋に寄ったことを話した。


「秋灯草という花を見たんです。とても綺麗で、部屋に置いてみたいと思ったんですけど、まずは育て方を教えていただきました」


「そうかい。ちゃんと考えたんだね」


「はい。部屋の窓辺に置いても大丈夫か、確かめてから決めようと思って」


 マルタは頷いた。


「それがいいね。花を育てるのも楽しいけど、世話をする時間が必要だからね」


「はい。でも、いつか育ててみたいです」


「それなら、今度一緒に置き場所を考えようか」


「ありがとうございます」


 シアは嬉しそうに微笑んだ。


 そのとき、厨房からオットーが顔を出した。


「花の話か?」


「はい。シアが花を育ててみたいんだってさ」


 マルタが答えると、オットーは少し考えた。


「窓辺に置くなら、水をこぼさないように受け皿を使えよ」


「はい。気をつけます」


「それと、冬は窓の近くが冷える。花によっては場所を変えた方がいい」


 シアは驚いた。


「オットーさん、お詳しいんですね」


「昔、マルタがいろいろ育ててたからな。何度も鉢を運ばされた」


 オットーは少し困ったように言った。


 マルタが笑う。


「そうだったね。あんた、重い鉢を運ぶのは上手だったよ」


「褒めてるのか、それは」


「もちろんさ」


 二人のやり取りに、シアも思わず笑った。


 こんなふうに、何気ない話をしながら夕食の準備をする。


 それが、今のシアの日常になっていた。


     ◇


 夕食のあと、シアは自室へ戻った。


 机の上には、今日借りた本が置かれている。


 窓の外では、秋の夜風が静かに吹いていた。


 シアは椅子へ腰を下ろし、鞄から小さな帳面を取り出した。


 そこには、自分の収入と支出を記録している。


 《麦穂亭》で働き始めてから、少しずつ続けてきた習慣だった。


 最初は、銅貨一枚を使うことにも迷った。


 自分のためにお金を使うことが、怖かったからだ。


 けれど今は、必要なものを買い、楽しみのためにも少しずつ使えるようになっている。


 シアは帳面を開き、最近の支出を確かめた。


 休日の昼食代。


 日用品。


 秋穫祭で買った櫛。


 図書館の利用登録に使った銅貨。


 どれも、自分で考えて使ったお金だった。


 花の鉢植えは銅貨十八枚。


 今の収入なら、買えない金額ではない。


 けれど、冬に向けて必要になるものもある。


 上着や靴の手入れ、寒さを防ぐための小物。


 これから先の暮らしを考えれば、使い道を決めずに残しておくお金も必要だった。


 シアは帳面の余白へ、小さく書き込んだ。


『秋灯草の鉢植え 銅貨十八枚。置き場所を確認してから考える』


 書き終えると、少しだけ笑みが浮かんだ。


 買うかどうかは、まだ決めていない。


 けれど、欲しいと思ったものを忘れないように書いておく。


 それも、自分の暮らしを大切にする方法の一つだった。


 シアは帳面を閉じ、今度は図書館で借りた本を開いた。


 頁には、秋の花の絵が描かれている。


 その中に、今日見た秋灯草によく似た花があった。


 シアは説明を読みながら、花屋で教えてもらったことを思い出した。


 水やり。


 日当たり。


 寒さへの注意。


 ただ綺麗だと思うだけではなく、育てるために必要なことを知る。


 それも、楽しかった。


(……知らないことを覚えるのって、こんなに楽しいんだ)


 シアは静かに微笑んだ。


 伯爵家にいた頃、知識は役目を果たすためのものだった。


 礼儀作法。


 帳簿。


 家の仕事。


 必要だから覚え、失敗しないために学んだ。


 けれど今は、知りたいから本を開いている。


 自分が興味を持ったことを、自分の時間に学んでいる。


 その違いが、今のシアには大きかった。


     ◇


 しばらく本を読んでいると、シアはふと今日の出来事を思い返した。


 朝、《銀鹿亭》から追加注文を受けた。


 すぐに引き受けることはせず、予約分を確かめ、オットーに相談した。


 そして、自分で考えた代案を客へ伝えた。


 午後には、レオンハルトへ自分から話しかけた。


 昨日見た川沿いの景色を伝え、仕事であったことも話した。


 彼は楽しそうに聞いてくれた。


 そのあと、自分の仕事を終え、図書館へ行った。


 借りた本を返し、新しい本を選び、帰り道には花屋へ寄った。


 どれも、大きな出来事ではない。


 けれど、今日の自分は、いくつものことを自分で決めていた。


 シアは本を閉じ、机の上へ置いた。


(……私は、少しずつ変わっているんだ)


 そう思った。


 以前の自分が、すべて間違っていたわけではない。


 あの頃も、できることを精一杯やっていた。


 ただ、自分の気持ちを後回しにすることが当たり前になっていた。


 誰かに頼まれれば断れず、失敗すれば必要以上に自分を責め、休むことにも遠慮していた。


 けれど今は、できることとできないことを考えられる。


 分からないことは尋ねられる。


 自分の予定を大切にできる。


 そして、誰かと過ごす時間を楽しみにできる。


 シアは窓辺へ歩み寄った。


 夜の街には、家々の明かりが点々と灯っている。


 遠くには、昨日歩いた川の方角がある。


 今頃、石橋の上には誰かが立っているだろうか。


 川面には、月の光が映っているだろうか。


 そんなことを考えていると、自然とレオンハルトの顔が浮かんだ。


 今日、彼は自分の話を丁寧に聞いてくれた。


 川沿いの景色も、仕事であったことも。


 そして、また話を聞かせてほしいと言ってくれた。


(……また、お話しできたらいいな)


 シアは少しだけ微笑んだ。


 以前なら、そんな願いを抱くことさえためらったかもしれない。


 彼は公爵家の跡取りだ。


 自分とは立場が違う。


 けれど、今のシアは、彼と話す時間が好きだった。


 それは、誰かに決められた気持ちではない。


 自分の中から自然に生まれたものだった。


 その気持ちに、今すぐ名前をつける必要はない。


 ただ、また会えたら嬉しい。


 それで十分だった。


     ◇


 同じ頃、公爵家の屋敷では、レオンハルトが執務室の机に向かっていた。


 机の上には、領内の商会から届いた報告書が並んでいる。


 冬に向けた物資の流通。


 街道の整備状況。


 市場の取引記録。


 どれも、公爵家の跡取りとして確認しなければならないものだった。


 レオンハルトは一枚ずつ書類へ目を通し、必要な箇所へ印をつけていた。


 やがて、最後の報告書を読み終えると、椅子の背へ軽く体を預けた。


 窓の外には、夜の街の明かりが見える。


 その中に、《麦穂亭》という小さなパン屋がある。


 そして、そこで働くシアがいる。


 レオンハルトは、今日の会話を思い出した。


 川沿いの景色を話していた彼女の表情。


 仕事で困ったことがあったとき、自分で考えて対応したと話していた声。


 図書館へ行く予定を、楽しそうに語っていた姿。


(……彼女は、自分の暮らしを築いているんだな)


 そう感じた。


 レオンハルトは、シアの過去を知らない。


 どこから来たのかも、なぜ一人でこの街へ来たのかも聞いていない。


 けれど、彼女が今の生活を大切にしていることは分かる。


 仕事を覚え、友人を作り、休日を楽しみ、自分の好きな本を読む。


 その一つ一つを、彼女自身が選んでいる。


 レオンハルトは静かに微笑んだ。


 彼女がどんな事情を抱えているとしても、今の暮らしを尊重したい。


 自分の立場を使って、何かを与えようとは思わなかった。


 ただ、彼女が自分の足で歩いていることを、嬉しく感じていた。


(……また、話を聞かせてもらえたらいい)


 レオンハルトはそう思い、書類を整えた。


 次に《麦穂亭》へ行くとき、彼女はどんな話をしてくれるだろう。


 新しく借りた本のことかもしれない。


 仕事で覚えたことかもしれない。


 あるいは、また知らない場所へ出かけた話かもしれない。


 そのどれでも、きっと楽しいだろう。


 レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。


 夜の街は静かだった。


 けれど、その静けさの中で、多くの人々がそれぞれの暮らしを営んでいる。


 シアも、その一人なのだ。


     ◇


 シアは寝台へ入る前に、明日の準備を整えた。


 仕事用の服を畳み、櫛を机の引き出しへしまい、朝に必要なものを手の届く場所へ置く。


 窓の外では、秋の夜風が静かに吹いていた。


 シアは最後に、机の上の本へ目を向けた。


 『街の小さな庭と季節の花』。


 明日も仕事が終わったら、続きを読もう。


 そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。


 今日一日、いろいろなことがあった。


 仕事で考え、判断し、客へ説明した。


 レオンハルトへ自分から話しかけた。


 図書館へ行き、新しい本を選んだ。


 花屋では、欲しいものを見つけたが、すぐに買わずに考えることにした。


 どれも、自分で決めたことだった。


 シアは明かりを落とし、寝台へ横になった。


 遠い街へ来たとき、彼女はただ逃げることしか考えていなかった。


 家族から離れること。


 婚約者から離れること。


 誰にも頼らず、自分の力で生きていくこと。


 それが、すべてだった。


 けれど今は違う。


 頼ることもできる。


 断ることもできる。


 自分の予定を決めることもできる。


 そして、誰かと一緒に過ごす時間を楽しみにすることもできる。


 シアは静かに目を閉じた。


 明日も、いつもの仕事が待っている。


 けれど、その毎日の中には、まだ知らないことがたくさんある。


 覚えたい仕事。


 読みたい本。


 行ってみたい場所。


 会って話したい人。


 その一つ一つを、これから自分で選んでいけばいい。


 シアは小さく微笑んだ。


(……明日も、私が決めていいんだ)


 その思いを胸に、彼女は穏やかな眠りへ落ちていった。

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