第41話 小さな鉢植えを迎えるまで
翌朝、シアが《麦穂亭》の厨房へ降りると、窓の外はまだ薄暗く、石畳を通る荷馬車の音もまばらだった。夜の間に冷え込んだらしく、裏口のガラスにはうっすらと曇りが浮かび、作業台の上に置かれた水差しも、触れると指先が冷たくなるほどだった。
厨房ではオットーがすでに仕事を始めていた。大きな木鉢の中で生地をまとめながら、ときおり壁に掛けられた時計へ目を向けている。
「おはようございます、オットーさん。今日は昨日より冷えていますね。発酵の様子も、いつもより気をつけた方がよさそうでしょうか」
シアが手を洗い、清潔な前掛けを身につけながら尋ねると、オットーは生地を折り返す手を止めずに頷いた。
「ああ。夜の冷え込みが強くなってきたからな。今日は仕込みの水を少し温かくしてあるが、それでも昨日と同じ時間で膨らむとは限らん。時計だけで判断せず、生地の状態を見てくれ」
「分かりました。丸パンの生地から確認します。それから、昨日のうちに用意した予約表も、もう一度見直しておきますね」
「頼む。今日は騎士団の注文がある日だから、数を間違えないようにな」
オットーの言葉に頷いたシアは、棚に置かれた予約帳を開いた。騎士団へ届ける丸パン二十五個と黒麦パン十五個のほか、宿からの注文や常連客の取り置きが記されている。
昨日、《銀鹿亭》から急な追加注文を受けたこともあり、シアは予約分と店頭販売分を区別して確認するよう意識していた。ただ数を覚えるのではなく、何をいつまでに用意し、どこまでなら店の判断で対応できるのかを把握する必要がある。
(昨日は、オットーさんに相談して代案を出せた。でも、いつも同じようにできるとは限らないから、今日の分は今日の分として確かめよう)
シアは帳面の数字を指で追い、必要な数を小さな紙へ書き出した。書き終えると、厨房の隅に並べられた籠の札と照らし合わせ、取り違えが起きないよう置き場所を整えていく。
その作業を終えた頃、階段からマルタが降りてきた。
「おはよう、シア。今日は早いね。昨日は図書館にも寄ったんだろう?」
「おはようございます。はい、新しい本を借りてきました。少し読んでから休んだんですけど、朝はいつも通り起きられました」
「それならよかったよ。何の本を借りたんだい?」
「『街の小さな庭と季節の花』という本です。花の育て方や、狭い場所でも楽しめる鉢植えのことが書かれていて……まだ読み始めたばかりなんですけど、とても面白いんです」
シアが答えると、マルタは昨日の帰宅後に交わした会話を思い出したようだった。
「ああ、花屋で見つけた鉢植えのことが気になってるんだったね。秋灯草とかいう、小さな花だったかい?」
「はい。淡い黄色の花が咲いていて、とても綺麗でした。でも、これから寒くなりますし、私の部屋でちゃんと育てられるか分からなくて」
シアは予約帳を閉じ、少し考えてから続けた。
「それに、窓辺に置いてもいいか、きちんと確認してからにしたかったんです。昨日はお話だけで終わってしまったので、今日、改めて相談してもよろしいでしょうか」
マルタは目を細めた。
「もちろんいいよ。花を一鉢置くくらい、私は構わないと思うけどね。ただ、窓辺は夜になると冷えるから、置き方は考えた方がいいかもしれないね」
「ありがとうございます。鉢の下に受け皿を置いて、家具を濡らさないようにします。水をこぼしたときも、すぐに拭き取れる場所を選びたいです」
「ずいぶん考えてるじゃないか。だったら、仕事が終わってから部屋を一緒に見てみようか」
「はい。お願いできますか」
シアが嬉しそうに答えると、マルタは軽く笑った。
「そんなに改まらなくてもいいんだよ。自分の部屋を気持ちよくすることなんだから、遠慮ばかりしなくていいさ」
その言葉を聞いたシアは、すぐに謝りそうになった口を閉じた。
以前なら、世話になっている部屋に自分の好きなものを置きたいと言い出すこと自体、わがままではないかと考えていただろう。けれど今は、許可が必要なことと、自分の希望を伝えてはいけないことは別だと、少しずつ理解できるようになっていた。
「……ありがとうございます。私、あの花をもう一度見に行ってみたいです。買うかどうかは、部屋を確認してから決めます」
「うん。それでいいと思うよ」
マルタはそう言って店の方へ向かい、シアも厨房の仕事へ戻った。
花のことは楽しみだったが、今は目の前の生地を確かめる時間だった。
◇
朝の仕込みは、普段より少し慎重に進んだ。
冷え込みの影響で丸パンの生地の膨らみが遅く、オットーは予定していた焼成の順番を調整した。シアは指示された生地を温かい場所へ移し、発酵の進み具合を確認しながら、別の作業を先に片づけていく。
窯から最初のパンが取り出される頃には、厨房いっぱいに香ばしい匂いが広がっていた。表面の焼き色を確かめるオットーの横で、シアは冷ますための棚を整え、予約分の籠が混ざらないよう札を付け直した。
「騎士団の分は、こちらの二つの籠ですね。丸パン二十五個と黒麦パン十五個で、合計四十個です」
「ああ。数え終わったら、届ける前にもう一度確認してくれ。今朝は順番を変えたから、いつもより紛らわしい」
「分かりました。店頭に出す分とは別にしておきます」
シアは一つずつ数を確かめ、帳面へ印をつけた。
しばらくして、開店の準備をしていたマルタが厨房へ顔を出した。
「シア、悪いけど、店の方を少し手伝ってくれるかい? 今日は早い時間からお客さんが来ていてね」
「はい。こちらの数は確認できましたので、すぐに行きます」
シアは前掛けを整え、手を洗い直してから店へ出た。
店内には朝の光が差し込み、棚には焼きたての丸パンや黒麦パンが並んでいた。入口近くにはすでに三人の客がおり、マルタが一人の注文を受けている。
シアは空いている側の台へ立ち、次の客へ声をかけた。
「お待たせいたしました。ご注文をお伺いします」
年配の男性は黒麦パンを二つと丸パンを三つ選び、家族の朝食にするのだと話した。シアはパンを包みながら、焼きたてなので袋をすぐに閉じすぎない方がよいことを伝え、代金を受け取った。
続いてやってきた女性は、棚の前で少し迷っていた。
「胡桃パンは、まだあるかしら。いつも買う時間には売り切れていることが多くて」
「はい。今朝はまだございます。ただ、焼き上がったばかりですので、少し温かい状態です」
「それなら二つお願いしようかしら。帰るまでに冷めるでしょうし」
「かしこまりました。ほかにご希望はございますか?」
女性は丸パンも一つ選び、包みを受け取ると満足そうに店を出ていった。
客足が少し落ち着いたところで、シアは棚の残数を確かめた。
予約分とは別に用意していた丸パンが、思っていたより早く減っている。朝の客が多い日には珍しくないことだが、昼前にも買いに来る人がいるため、残りをどう扱うかは確認しておきたかった。
「マルタさん、丸パンの店頭分が少なくなってきました。今のところ取り置きの数には影響していませんが、追加で焼ける分があるか、オットーさんへ確認してきてもよろしいでしょうか」
マルタは棚を見て頷いた。
「そうだね。まだ午前中だし、昼前のお客さんもいるだろうから、聞いてきておくれ。ただ、無理に増やさなくてもいいからね」
「はい。仕込みの予定を優先して確認します」
シアは厨房へ戻り、オットーへ状況を伝えた。
オットーは作業台の生地を見ながら少し考え、今ある分から丸パンを少数追加することはできるが、別のパンの焼き上がりを遅らせるほど増やすことはしないと答えた。
「追加するなら六個までだな。それ以上は、昼の仕込みに響く。売り切れたら売り切れで構わん」
「分かりました。六個追加できることと、それ以上は難しいことをマルタさんに伝えます」
シアはその内容を正確に伝え、店頭の販売数を調整した。
客が来るたびに無理に売り切れを避けようとするのではなく、店の仕事全体を見て判断する。自分だけで決められないことは相談し、決まったことを間違えずに伝える。
それは目立つ仕事ではなかったが、少し前のシアなら、客をがっかりさせてはいけないという気持ちから、必要以上に焦ってしまったかもしれなかった。
今は、できることとできないことを分けて考えられる。
そして、できないことがあるからといって、自分の仕事が失敗になるわけではないと知っていた。
◇
騎士団への納品を終え、昼前の忙しさが落ち着いた頃、シアは厨房の隅で納品記録を確認していた。
届けたパンの数量、受け取りの確認、帳面に記す日付。どれもいつもの仕事だが、数字を一つ間違えれば後から確認に時間がかかるため、急がず丁寧に進めていく。
そこへマルタが温かな飲み物を持ってきた。
「ひと息入れな。朝からよく動いてくれたね」
「ありがとうございます。ちょうど記録が終わったところです」
シアは帳面を閉じ、差し出された器を両手で受け取った。湯気とともに柔らかな香りが立ち上り、冷えていた指先が少しずつ温まっていく。
マルタは向かいの椅子へ腰を下ろすと、何気ない調子で尋ねた。
「そういえば、昨日見てきた花は、どんな花なんだい?」
「秋灯草という名前でした。小さな黄色い花がいくつも咲いていて、葉も丸みがあって可愛らしいんです」
シアは器を置き、思い出しながら説明した。
「花屋さんでは、日当たりのよい場所に置くことと、水をやりすぎないことが大切だと教えていただきました。ただ、寒さが強くなると室内へ入れた方がいいそうです」
「それなら、冬は窓から少し離した方がいいかもしれないね。二階の窓は日当たりがいいけど、夜は冷えるから」
「はい。昼間は窓辺に置いて、夜は机の方へ移すことも考えています。毎日動かすことで鉢を落としたりしないよう、置く場所も決めておきたいです」
マルタは感心したように笑った。
「花一鉢のことなのに、ずいぶん真剣だね」
「……そうですね」
シアは少し照れたように微笑んだ。
「でも、買ったあとで育てられなくなってしまうのは嫌なんです。綺麗だから欲しいと思ったのは本当ですけど、持ち帰ってからのことも考えたいので」
「いいことだと思うよ。生きてるものを迎えるんだからね」
マルタの言葉に、シアは静かに頷いた。
花を育てた経験がまったくないわけではなかった。伯爵家にいた頃、庭師の仕事を手伝ったことはあるし、花の名前や季節についても多少の知識はあった。
けれど、あの頃の花は自分のものではなかった。
屋敷の庭を整えるための花であり、誰かの目を楽しませるための花だった。水やりや手入れをしても、どこへ植えるか、何を育てるかを決めるのは別の人だった。
今度は違う。
自分が欲しいと思い、自分のお金で買い、自分で世話をする。
その一つ一つを、誰かに命じられるのではなく、自分で決めようとしている。
(……だから、きちんと考えてから迎えたいんだ)
シアは器の中の温かな飲み物を見つめながら、胸の奥に生まれた気持ちを確かめた。
マルタはそんな彼女を急かさなかった。
「今日は仕事が終わったら、部屋を見てみよう。それから花屋へ行くかどうか決めればいいさ」
「はい。ありがとうございます」
シアは微笑み、残っていた飲み物をゆっくりと飲み終えた。
◇
午後の仕事は、午前中より落ち着いていた。
シアは棚の整理や翌日の仕込みに必要な材料の確認を手伝い、マルタが接客している間には帳面の記入を進めた。外では雲が少し増えていたが、雨の気配はなく、窓から差し込む光が店内の床に細長く伸びている。
閉店が近づいた頃、オットーが厨房の片づけを終えて店へ出てきた。
「シア、今日はもう上がっていいぞ。残りは俺たちでやる」
「ありがとうございます。最後に棚の数だけ確認しておきますね」
「それが終わったら休めよ。今日は朝から動いてたんだからな」
シアは頷き、残っているパンの数をマルタと確認した。
売れ残った分の扱いを決め、帳面へ必要な数字を記してから、仕事用の前掛けを外す。手を洗い終えると、厨房の窓から見える空が少し明るさを失い始めていた。
「マルタさん、先ほどのお話なんですけど、今から部屋を見ていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。ちょうど片づけも終わったところだからね」
二人は階段を上がり、シアの部屋へ向かった。
扉の前でシアが鍵を取り出すと、マルタは少しだけ足を止めた。
「シア、先に入っていいかい?」
「はい。どうぞ」
その何気ない問いかけに、シアは小さく微笑んだ。
この部屋は《麦穂亭》の二階にあり、店の持ち主はマルタとオットーだ。それでも二人は、シアの部屋へ入るときには必ず声をかけてくれる。
最初の頃は、そのことに驚いていた。
今では、誰かが自分の場所を尊重してくれることを、少しずつ当たり前のこととして受け取れるようになっている。
部屋へ入ると、窓辺には午後の柔らかな光が残っていた。
寝台と机、小さな衣装箱が置かれた簡素な部屋だが、シアは毎日掃除をしているため、床にも家具にも埃はほとんどない。机の上には昨日借りた本が置かれ、その隣には支出を記録するための帳面が閉じられていた。
「ここへ置こうかと考えているんです」
シアは窓辺の一角を指さした。
「昼間は日が入りますし、机からも見える場所なので。ただ、夜になると窓の近くは冷えると思いますから、寒い日は机の端へ移した方がいいでしょうか」
マルタは窓辺へ近づき、木枠にそっと手を触れた。
「そうだね。ここは昼間なら明るいけど、夜は冷たいだろうね。机の端なら、窓から少し離れるし、鉢の大きさによっては置けそうだよ」
「ありがとうございます。受け皿も用意して、家具が濡れないようにします」
「それなら大丈夫そうだね。ただ、あんまり大きな鉢だと邪魔になるから、買う前に大きさを確かめておいで」
「はい。昨日見たものは、両手で持てるくらいの小さな鉢でした。実際に持たせてもらって、重さも確認してみます」
マルタは頷き、部屋を見回した。
「それにしても、最初に来た頃より、ずいぶん部屋らしくなったね」
シアは少し驚いて顔を上げた。
「そうでしょうか?」
「そうだよ。本があって、櫛やリボンがあって、今度は花を置こうとしてる。少しずつ、シアの好きなものが増えてるじゃないか」
シアは机の上へ視線を向けた。
図書館から借りた本。
秋穫祭で買った櫛。
自分で選んだリボン。
そして、これから迎えるかもしれない小さな花。
どれも、伯爵家を出たときには持っていなかったものだった。
旅の途中で使ったお金のことも、初めて自分の給金を受け取った日のことも覚えている。必要なものを買うだけで精いっぱいだった頃と比べれば、今は少しだけ暮らしに余裕が生まれていた。
けれど、その余裕は無制限ではない。
これから寒くなれば、衣服や日用品にもお金が必要になるだろう。給金を受け取るたびに、何に使い、何を残すかを考えなければならない。
「……私、花を買ってもいいかどうか、もう一度お金を確認してから決めたいです」
シアがそう言うと、マルタは優しく頷いた。
「うん。自分で納得して買うのが一番だよ」
シアは机の引き出しから帳面を取り出した。
昨日、秋灯草の鉢植えについて書き留めた頁を開き、値段の横へ小さく印をつける。
銅貨十八枚。
決して買えない金額ではない。
けれど、花を買えば受け皿も必要になるかもしれないし、寒い時期の管理についても考えなければならない。
シアはこれまでの支出と手元のお金を確認し、当面必要な生活用品のために残しておく分を除いても、無理のない範囲だと判断した。
「……大丈夫そうです」
小さく呟いてから、シアは顔を上げた。
「マルタさん、私、もう一度花屋へ行ってみます。育て方と必要なものを確認して、それでも大丈夫だと思えたら買いたいです」
「そうかい。じゃあ、暗くならないうちに行っておいで」
「はい。ありがとうございます」
シアは帳面を閉じ、外出用の上着を手に取った。
今日はミレイユと出かける日ではない。
誰かに案内してもらうわけでもない。
自分が欲しいと思ったものについて確かめ、自分で決めるために、花屋へ向かうのだ。
◇
《麦穂亭》を出たシアは、中央広場へ続く通りを歩いた。
夕方の街には、仕事を終えた人々の姿が増えていた。市場では店じまいを始める商人が木箱を運び、通りの角にある食堂からは煮込み料理の香りが漂ってくる。
空には薄い雲が広がっていたが、西の方にはまだ陽の光が残っていた。
シアは歩きながら、昨日の川沿いの景色を思い出した。
ミレイユと一緒に歩いた石橋。
夕日に染まる水面。
菓子屋で食べた蜂蜜菓子。
そして、あの景色をレオンハルトへ話せたこと。
昨日の《麦穂亭》での会話を思い出すと、自然と口元が緩んだ。
彼は、シアの話を急がせることなく聞いてくれた。
川沿いの道のことも、古い石橋のことも、仕事で自分なりに考えて判断したことも、丁寧に受け止めてくれた。
それだけではなく、幼い頃に父親と川沿いを歩いた思い出まで話してくれた。
公爵家の跡取りとしての彼ではなく、一人の青年としての思い出を聞かせてもらえたことが、シアには嬉しかった。
(……また、あんなふうにお話しできたらいいな)
そう思いながら歩いていると、花屋の看板が見えてきた。
店先には季節の花が並び、昨日と同じ場所に小さな秋灯草の鉢植えが置かれている。淡い黄色の花は夕方の光を受け、まるで小さな灯りがともっているように見えた。
シアは店先で足を止めた。
昨日見たときと同じ花だった。
けれど、今日はただ眺めるために来たのではない。
シアは一度だけ息を整え、店の中へ声をかけた。
「こんにちは。昨日、秋灯草の鉢植えについてお尋ねした者です」
奥から出てきた店主は、シアの顔を見て思い出したように笑った。
「ああ、昨日のお嬢さんね。気になって、また見に来てくれたの?」
「はい。育て方について、もう少し詳しく教えていただきたくて。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。どんなことが気になるの?」
店主は作業台に置いていた布を畳み、シアの方へ向き直った。
シアは用意してきた質問を、一つずつ伝えた。
「二階の部屋で育てたいと思っています。昼間は窓辺に日が入るんですけど、夜は冷えるので、窓から離した方がいいでしょうか。それから、水をあげる間隔や、受け皿が必要かどうかも知りたいです」
店主は頷き、秋灯草の鉢を手に取った。
「そうね。昼間は明るい場所がいいけれど、寒い夜は窓に近づけすぎない方が安心よ。水は毎日決まった量をあげるんじゃなくて、土の表面を確かめてからにしてね」
店主は鉢の土を指さした。
「湿っているうちに何度も水をあげると、根が傷むことがあるの。逆に、乾きすぎてもよくないから、様子を見ながら調整するのが大切ね」
「分かりました。受け皿は、こちらで一緒に買えますか?」
「ええ。小さなものならあるわよ。鉢の底から水が出たときは、受け皿にたまった水をそのままにしないようにしてね」
シアは真剣に頷いた。
説明を聞きながら、花を育てることは、ただ水をあげればいいというものではないのだと改めて感じた。
日当たり。
気温。
土の状態。
置き場所。
どれも、毎日少しずつ気にかける必要がある。
「それから、もう一つお聞きしてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「この花は、寒くなっても咲き続けますか? もし花が終わったあとも育てられるなら、どんなふうに世話をすればいいのか知っておきたいんです」
店主は少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「花が終わったあとのことまで考えてくれるのね。秋灯草は、寒さが厳しくなると花が少なくなることがあるけれど、株が元気ならまた季節が巡ったときに楽しめるわ。ただし、冬の間は水のやりすぎに特に気をつけてね」
「そうなんですね。ありがとうございます」
シアは鉢を見つめた。
今咲いている花は、いつか終わる。
けれど、それで全部が終わりになるわけではない。
世話を続ければ、また新しい葉が出たり、次の季節に花を咲かせたりするかもしれない。
そのことが、少し嬉しかった。
「持ってみる? 大きさや重さも確かめておいた方がいいでしょう」
「はい。お願いします」
店主から鉢を受け取ると、シアは両手で底を支えた。
思っていたより軽く、片手でも持てそうな大きさだったが、落とさないよう慎重に扱う。部屋の窓辺へ置いたときの様子を思い浮かべても、机の端を圧迫するほどではなさそうだった。
店主はその様子を見て、穏やかに笑った。
「どうかしら?」
シアはしばらく鉢を見つめたあと、顔を上げた。
「……この鉢植えをください。それから、合う大きさの受け皿も一つお願いします」
口にしてからも、不安はなかった。
値段を確かめた。
育て方を聞いた。
置き場所も考えた。
そのうえで、自分が欲しいと思っている。
シアは財布を取り出し、店主が告げた代金を確かめてから支払った。
鉢植えは銅貨十八枚。受け皿の代金も加わったが、事前に考えていた予算の範囲に収まっていた。
「ありがとうございます。大切に育てます」
シアがそう言うと、店主は花が傷まないよう薄い紙で鉢の周囲を包み、持ち運びやすいようにしてくれた。
「こちらこそ、ありがとう。分からないことがあったら、また聞きに来てね。植物は育てる場所によって様子が変わるから、最初から全部うまくいかなくても、慌てなくていいのよ」
「はい。様子を見ながら、少しずつ覚えていきます」
シアは鉢を両手で抱え、店を出た。
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
花を傷めないよう上着の前を少し寄せ、歩く速度を落とす。
普段なら何も持たずに通る道だったが、今日は腕の中に小さな鉢植えがある。
その重みが、不思議と嬉しかった。
◇
帰り道、シアは市場の近くでローザの姿を見つけた。
果物屋の店先では、木箱を重ねる作業が進んでいた。ローザは最後の籠を片づけようとしていたところで、シアに気づくと明るく声をかけてきた。
「あら、シアちゃん。今日はお花を買ったの?」
「こんにちは、ローザさん。はい。昨日見つけて気になっていたので、今日もう一度お店へ行ってきたんです」
シアが鉢植えを少し見せると、ローザは顔を近づけて花を眺めた。
「まあ、可愛いわね。秋灯草かしら?」
「はい。ご存じなんですか?」
「もちろん。昔、家でも育てていたことがあるのよ。小さな花だけど、いくつも咲くと綺麗なのよね」
ローザは懐かしそうに笑った。
「お部屋に置くの?」
「はい。《麦穂亭》の二階にある私の部屋です。窓辺に置こうと思っているんですけど、夜は冷えるので気をつけるつもりです」
「それがいいわ。冬は窓際が思った以上に冷えるからね」
ローザは鉢を見つめながら、少し首を傾げた。
「でも、シアちゃんが花を買うなんて、なんだか嬉しいわね」
その言葉に、シアは目を瞬かせた。
「……そうでしょうか?」
「ええ。前は、必要なものを買うときでもずいぶん慎重だったでしょう。もちろん、お金を大事にするのはいいことだけど、今は自分の好きなものを楽しめるようになったんだなって思って」
ローザは優しく笑った。
「仕事帰りに花を買って帰るなんて、いいじゃない。部屋に花があると、朝起きたときもちょっと嬉しくなるものよ」
シアは腕の中の鉢植えへ視線を落とした。
確かに、明日の朝は少し違うかもしれない。
窓辺に花がある。
水をあげる必要があるか確かめる。
新しい葉が出ていないか、花が元気に咲いているかを見る。
そんな小さな楽しみが、毎日の暮らしに増えるのだ。
「……私も、そうなったら嬉しいです」
シアが答えると、ローザは満足そうに頷いた。
「きっとなるわよ。大事にしてあげてね」
「はい。ありがとうございます」
シアは礼を言い、再び《麦穂亭》へ向かって歩き始めた。
市場を抜ける頃には、空の色が少しずつ深くなっていた。
腕の中の鉢植えを見つめながら、シアは自分がこの街へ来たばかりの頃を思い出した。
あのときは、明日の仕事があるかどうかも分からなかった。
住む場所を見つけられるかどうかも、確信がなかった。
何かを欲しいと思っても、まずは生活を守らなければならなかった。
けれど今は、働く場所があり、帰る部屋があり、毎週受け取る給金がある。
そのお金をどう使うか、自分で考えられるようになった。
(……大切にしよう。花も、この暮らしも)
シアは鉢を抱える腕に少しだけ力を込め、帰り道を進んだ。
◇
《麦穂亭》へ戻ると、店内には夕食の準備をする音が響いていた。
シアが扉を開けると、マルタが顔を上げた。
「おかえり。あら、買ってきたんだね」
「ただいま戻りました。はい。育て方をもう一度聞いて、部屋でも大丈夫そうだと思ったので、買ってきました」
シアは包みを少し開き、鉢植えを見せた。
マルタは目を細めた。
「まあ、可愛らしい花だね。これなら部屋にもよく合いそうだよ」
「ありがとうございます。受け皿も買ってきたので、先に部屋へ置いてきますね」
「うん。夕食までにはまだ少し時間があるから、ゆっくり置いておいで」
シアは階段を上がり、自室の扉を開けた。
窓辺には、まだわずかに夕方の光が残っている。
机の上に鉢を置き、包み紙を丁寧に外すと、小さな黄色い花が部屋の中に現れた。
外で見たときよりも、花の色が柔らかく感じられる。
シアは窓辺の置き場所を確かめ、受け皿を敷いたうえで鉢をそっと置いた。
少し離れて眺めると、簡素な部屋の一角が明るくなったように見えた。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
シアは椅子へ腰を下ろし、花を眺めた。
昨日までは、ここには何もなかった。
窓から見える景色は同じだし、机も寝台も変わっていない。
それでも、小さな鉢植えが一つ増えただけで、部屋の印象が少し違って見える。
シアは立ち上がり、鉢の位置をほんの少し調整した。
窓を開け閉めするときにぶつからないこと。
机で本を読むときに邪魔にならないこと。
夜になったら安全に移せること。
その一つ一つを確かめてから、ようやく満足して手を離した。
ふと、机の上の帳面が目に入った。
シアは椅子へ座り直し、今日使ったお金を記録した。
秋灯草の鉢植え。
受け皿。
日付と金額を書き込み、残りのお金を確かめる。
帳面の数字は、花を買う前より少なくなっている。
けれど、後悔はなかった。
必要なものを買うために残しておくお金は確保している。
花の世話についても、自分なりに考えた。
そして、何より、この花を部屋へ迎えたいと思った。
シアは帳面を閉じ、窓辺の秋灯草へ目を向けた。
(……自分で選んで、買ってきたんだ)
その事実が、胸の奥へ静かに広がっていく。
以前の自分なら、誰かに許されなければ買えなかったかもしれない。
たとえ自分のお金であっても、必要のないものを買うことに罪悪感を覚えていただろう。
けれど今は、欲しいと思った理由も、買うと決めた理由も、自分の中にある。
誰かに褒めてもらうためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
ただ、自分の部屋に花を置きたかった。
それだけで、十分だった。
◇
夕食の時間になると、シアは階下へ降りた。
食卓には温かな煮込み料理とパンが並び、オットーが椅子に腰を下ろしていた。
「おう、シア。花を買ってきたんだってな」
「はい。小さな鉢植えです。部屋の窓辺に置いてみました」
「そうか。水をこぼして床を傷めないようにだけ気をつけろよ」
「はい。受け皿を用意しましたし、水やりのあとも確認するようにします」
シアが答えると、オットーは満足そうに頷いた。
「それならいい。せっかく買ったんだから、長く育てられるといいな」
「ありがとうございます。大切にします」
マルタは二人の会話を聞きながら、楽しそうに笑った。
「オットーも、昔は庭で野菜を育ててたんだよ。今は店の仕事が忙しくて、なかなか手が回らないけどね」
「野菜ですか?」
シアが興味深そうに尋ねると、オットーは少し照れくさそうに肩をすくめた。
「大したものじゃない。昔、裏の小さな場所で香草やら何やら育ててただけだ。店を始めたばかりの頃は、少しでも材料の足しになればと思ってな」
「そうだったんですね。どんな香草を育てていたんですか?」
「料理に使うものが中心だな。ただ、思ったように育たないことも多かった。日当たりが足りなかったり、水をやりすぎたりしてな」
オットーは苦笑した。
「パン作りと同じで、毎日同じことをすれば必ずうまくいくわけじゃない。様子を見て、少しずつ覚えるしかないんだ」
その言葉に、シアは静かに頷いた。
今日、花屋の店主から聞いた話とよく似ていた。
土の状態を確かめること。
気温の変化を見ること。
決まった手順だけに頼らず、目の前の状態に合わせること。
パン作りにも、花を育てることにも、共通する部分があるのかもしれない。
「……私も、少しずつ覚えていきたいです」
シアが言うと、オットーは穏やかに頷いた。
「それでいい。最初から何でもうまくやろうとしなくていいからな」
マルタも微笑んだ。
「そうだよ。花が元気な日もあれば、少し元気がない日もあるだろうしね。困ったら花屋さんに聞けばいいし、私たちに分かることなら一緒に考えるよ」
「はい。ありがとうございます」
シアは笑顔で答え、温かな煮込み料理を口へ運んだ。
食事をしながら、三人は今日の仕事のことも話した。
朝の冷え込みで生地の発酵が遅かったこと。
丸パンの売れ行きがよかったこと。
これから冬へ向けて、仕込みの時間を少しずつ調整する必要があること。
シアはオットーの説明を聞きながら、明日の仕事で気をつけることを頭の中で整理した。
けれど、今日はそれだけではなかった。
食卓を囲みながら、部屋に置いた花のことも話せる。
仕事以外の楽しみを、自然に会話へ混ぜられる。
そのことが、シアには嬉しかった。
◇
夕食後、シアは自室へ戻った。
窓の外はすっかり暗くなり、通りには家々の明かりがともっている。遠くからは荷馬車の音が聞こえ、冷たい夜風が窓枠をかすかに鳴らしていた。
シアはまず、秋灯草の鉢を窓辺から机の端へ移した。
昼間は明るい場所に置き、夜は冷えすぎないようにする。
花屋で教えてもらったことを思い出しながら、鉢の下に敷いた受け皿が安定しているか確かめた。
土の表面へそっと触れると、まだ少し湿り気が残っていた。
「……今日は、お水は大丈夫そうですね」
誰に聞かせるでもなく呟き、シアは小さく微笑んだ。
水をあげることが世話なのではなく、必要かどうかを確かめることも世話なのだ。
そう思うと、花を育てることが少し楽しみになった。
机の上には、昨日図書館で借りた『街の小さな庭と季節の花』が置かれている。
シアは椅子へ腰を下ろし、頁を開いた。
そこには、季節ごとの花の特徴や、小さな庭を楽しむための工夫が書かれていた。
大きな庭がなくても、窓辺や玄関先に鉢植えを置くことで、季節の移り変わりを感じられるという。
シアは文章を読みながら、ときおり机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
まだ小さな鉢植えだ。
特別に珍しい花でもない。
けれど、今のシアにとっては、大切なものだった。
しばらく本を読んだあと、シアは頁の間にしおりを挟み、静かに閉じた。
明日の朝も仕事がある。
いつも通り早く起き、厨房へ降り、パン作りを手伝う。
その暮らしは、これからも続いていく。
けれど、明日からは少しだけ新しいことが増える。
朝起きたら、花の様子を確かめる。
日が入る時間になったら、窓辺へ移す。
土が乾いていれば、必要な分だけ水をあげる。
そして、仕事が終わって部屋へ戻ったときには、小さな黄色い花が迎えてくれる。
(……楽しみだな)
シアは花を見つめながら、自然と笑みを浮かべた。
以前の自分なら、こんな小さな楽しみを持つことさえ、どこか申し訳なく感じていたかもしれない。
けれど今は違う。
働いて得たお金で、自分の好きなものを買う。
買ったものを大切にする。
そのために必要なことを、自分で調べ、考え、行動する。
誰かに決めてもらわなくても、少しずつできるようになっていた。
もちろん、分からないことはまだたくさんある。
仕事でも、暮らしでも、誰かに助けてもらうことはあるだろう。
けれど、それは自分で決められないということではない。
必要なときに相談し、教えてもらい、そのうえで自分の考えを持つ。
今のシアには、そういう選び方ができるようになっていた。
シアは机の端へ置いた秋灯草をもう一度眺め、そっと微笑んだ。
「……これから、よろしくお願いします」
小さな花は、もちろん返事をしなかった。
それでも、淡い黄色の花びらが灯りを受けて柔らかく見え、シアは少し嬉しくなった。
窓の外では、夜の街が静かに更けていく。
シアは本を棚へ戻し、明日の仕事に備えて寝台へ向かった。
部屋の中には、いつもの家具と、読みかけの本と、今日迎えたばかりの小さな鉢植えがある。
その光景を最後に確かめてから、シアは灯りを落とした。
明日も、いつも通りの朝が来る。
けれど、その朝を迎えるのが、昨日より少し楽しみになっていた。




