第42話 私が選んだ花と、あなたの言葉
朝の光が窓の向こうを少しずつ明るくし始めた頃、シアはいつもよりわずかに早く目を覚ました。
秋が深まるにつれて夜明けは遅くなり、部屋の中にはまだ薄い青色の暗がりが残っている。寝台から身体を起こすと、窓の外を通り過ぎる荷馬車の音が遠くに聞こえ、冷えた空気が頬に触れた。
いつもなら、そのまま着替えを始めるところだった。
けれど今朝は、机の端に置かれた小さな鉢植えへ自然と目が向いた。
昨日、自分で選んで買ってきた秋灯草だった。
淡い黄色の花は、夜の間に少しだけ花びらを閉じているように見える。シアは寝台から降りると、上着を羽織って机へ近づき、鉢の周囲に落ちた葉がないか確かめた。
「おはようございます」
小さく声をかけてから、思わず微笑んでしまう。
花が返事をするわけではないと分かっている。それでも、昨日までは何もなかった場所に自分の選んだものがあることが、朝の静かな時間を少しだけ特別にしていた。
シアは指先で土の表面を確かめた。
昨日、花屋の店主に教えてもらった通り、土はまだ湿り気を保っている。水を足す必要はなさそうだったので、鉢の位置を少し整えるだけにした。
(何かをしてあげたいからといって、何でもすればいいわけではないんですね)
そんなことを考えながら、シアは机の上に置いていた本へ目を向けた。
『街の小さな庭と季節の花』。
昨日の夜に読んだ頁には、植物の世話について、毎日の変化をよく観察することが大切だと書かれていた。
花の状態を確かめてから必要なことをする。
その考え方は、パン作りにも少し似ている気がした。
シアは窓の外がもう少し明るくなったら鉢を窓辺へ移すことにして、身支度を始めた。
今日は《麦穂亭》で働く日だ。
花を眺めていたい気持ちはあったが、仕事へ遅れるわけにはいかない。髪を整え、仕事着に着替えると、シアは部屋を出る前にもう一度だけ鉢植えを振り返った。
「行ってきますね」
今度は少し照れくさくなりながらも、自然とそんな言葉が出ていた。
◇
階下へ降りると、厨房にはすでに温かな空気が満ちていた。
オットーが大きな木鉢の中で生地をまとめており、作業台には計量を終えた粉と水差しが並んでいる。窯の近くには薪が用意され、昨日よりも少し早い時間から火が入れられているようだった。
「おはようございます、オットーさん」
「おう、おはよう。今日は昨日ほど冷え込んでいないが、朝の気温はまだ低いな。生地の様子を見ながら進めるぞ」
「はい。まず、予約分の確認から始めますね」
シアは手を洗い、前掛けをつけてから帳面を開いた。
騎士団への定期注文がある日と、そうでない日では、仕込みの量も作業の順番も変わる。今日は騎士団の定期納品がない日だったため、宿からの注文と店頭販売分を中心に確認する必要があった。
昨日の売れ行きも参考にしながら、シアは帳面へ目を通した。
丸パンは午前中の売れ行きがよかった。
一方で、黒麦パンは午後にも一定の需要があり、胡桃パンは早い時間に買いに来る客が多かった。
ただし、昨日と同じ数が売れるとは限らない。
シアはそのことを意識しながら、オットーへ確認した。
「昨日は丸パンが早く減りましたけど、今日は騎士団の注文がありませんから、同じように追加する必要があるとは限りませんよね」
「ああ。そういうことだ。客の入り方は日によって違うし、昨日の数字だけで決めると余ることもある」
「では、今朝は予定通りの数で始めて、午前中の売れ行きを見てから相談する形でよろしいでしょうか」
オットーは生地を折り返しながら頷いた。
「それでいい。売り切れそうだからといって、毎回増やせばいいわけじゃないからな」
「はい。店頭の残りと予約分を分けて確認しておきます」
シアは帳面を閉じ、作業台へ向かった。
以前は、指示された仕事を間違えずに終えることばかり考えていた。
もちろん、それは今でも大切なことだった。けれど最近は、仕事の流れを見て、次に何が必要になるかを考える余裕が少しずつ生まれている。
それは、何でも自分だけで決めるという意味ではない。
自分の判断でできることと、オットーやマルタへ確認しなければならないことを区別する。
そして、相談するときには、ただ答えを求めるのではなく、自分なりの考えを持って伝える。
昨日の追加注文への対応も、そうした積み重ねの一つだった。
シアは丸パンの生地を分けながら、手の中に伝わる柔らかな感触を確かめた。
生地の表面を張らせるように丸め、形を整えてから布をかける。
何度も繰り返してきた作業だが、気温や生地の状態によって力の入れ方は微妙に変わる。
「シア、その生地は少し柔らかいだろう」
オットーが横から声をかけた。
「はい。昨日よりも手に付きやすい感じがします」
「無理に粉を足しすぎるなよ。手早くまとめて、少し休ませれば扱いやすくなる」
「分かりました。ありがとうございます」
シアは言われた通りに手を動かし、生地を整えた。
作業台の向こうでは、オットーが次の仕込みを進めている。
窯の中では薪が小さく音を立て、厨房には少しずつパンの香りが広がり始めていた。
今日も、いつもの仕事が始まっていた。
◇
開店からしばらくすると、店内には朝の客が増え始めた。
仕事へ向かう職人、家族の朝食を買いに来た女性、学校へ行く子どものためにパンを選ぶ父親。客の目的はそれぞれ違うが、焼きたてのパンを前にすると、表情が少し柔らかくなる人が多かった。
シアはマルタと並んで接客をしながら、注文を一つずつ確かめていく。
「丸パンを四つと、胡桃パンを二つですね。ありがとうございます。胡桃パンは焼き上がったばかりですので、袋を閉じるときは少し冷ましてからの方がよろしいかと思います」
客へ説明しながら包みを整え、代金を受け取る。
別の客が黒麦パンを選んでいる間には、棚の奥にあるパンを手前へ移し、取りやすいよう並べ直した。
忙しい時間帯でも、以前ほど焦ることはなくなっていた。
もちろん、注文が重なれば緊張することもある。
けれど、目の前の客を急がせず、一つずつ確認すればよいと分かっている。
マルタも、そんなシアの様子を見ながら必要なところだけ手を貸していた。
午前の客足が少し落ち着いた頃、入口の扉が開いた。
「こんにちは」
聞き覚えのある落ち着いた声に、シアは顔を上げた。
そこに立っていたのは、レオンハルトだった。
今日も上質だが派手すぎない外套を身につけ、店内へ入る前に軽く周囲を見渡している。外には護衛と思われる男性の姿が見えたが、レオンハルト自身はいつも通り穏やかな表情をしていた。
「レオンハルト様。いらっしゃいませ」
シアが微笑むと、彼も柔らかく笑った。
「こんにちは、シア。今日は少し時間ができたので、パンを買いに来たんだ。忙しいところではなかったかな」
「今はちょうど落ち着いたところです。どうぞ、ゆっくりお選びください」
レオンハルトは棚へ視線を向けた。
丸パン、黒麦パン、胡桃パン、蜂蜜パン。
焼きたての香りが漂う店内で、彼は少し考えてから口を開いた。
「今日は丸パンを二つと、胡桃パンを二つお願いしようかな。それから、蜂蜜パンも一ついただける?」
「はい。丸パン二つ、胡桃パン二つ、蜂蜜パン一つですね」
シアは注文を繰り返し、パンを包み始めた。
レオンハルトはその手元を眺めながら、ふと窓の外へ目を向けた。
「昨日より、少し空が明るいね。朝は冷えたけれど、昼には過ごしやすくなりそうだ」
「そうですね。今朝は窓の外がまだ暗かったんですけど、昨日よりは寒くなかった気がします」
シアは包みを整えながら答えた。
「ただ、厨房では生地の状態を見ながら作業していました。秋が深まると、同じ時間でも発酵の進み方が変わるそうなんです」
「なるほど。気温の変化が、仕事にも影響するんだね」
「はい。オットーさんが教えてくださるので、少しずつ覚えています」
レオンハルトは感心したように頷いた。
「シアは、仕事のことを話すとき、とても楽しそうだね」
その言葉に、シアの手がわずかに止まった。
「……そうでしょうか?」
「うん。大変なこともあると思うけれど、何を覚えたのか、どんなことを考えたのかを話してくれるとき、表情が明るくなる気がする」
シアは少し照れくさくなり、包みの端を丁寧に折り込んだ。
「まだ分からないことばかりです。でも、昨日できなかったことが少しできるようになると、嬉しいんです」
「それは、いいことだと思う」
レオンハルトの声は、いつも通り穏やかだった。
何か特別なことを言われたわけではない。
けれど、シアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
彼は、自分が何をしているのかを聞いてくれる。
結果だけではなく、そこへ至るまでに何を考えたのかにも耳を傾けてくれる。
それが、シアには嬉しかった。
包みを仕上げたシアは、代金を確認してからレオンハルトへ差し出した。
「お待たせいたしました。こちらになります」
「ありがとう」
レオンハルトは包みを受け取り、代金を支払った。
そのとき、彼の視線がシアの髪へ向いた。
「今日は、少し違う髪留めを使っているんだね」
シアは思わず自分の髪へ手を伸ばした。
今日は仕事の邪魔にならないよう、普段使っている控えめな留め具で髪をまとめていた。秋穫祭で買った櫛は休日に使うことが多く、今日は部屋へ置いてきている。
「はい。仕事のときは、こちらの方が髪をまとめやすいので」
「そうなんだ。どちらも似合っていると思うよ」
あまりにも自然に言われたため、シアは一瞬、返事を忘れた。
レオンハルトは特別な意味を込めた様子もなく、穏やかに微笑んでいる。
シアは頬が少し熱くなるのを感じながら、視線を下げた。
「……ありがとうございます」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
けれど、以前のように困って黙り込むことはなかった。
少し恥ずかしくても、嬉しい言葉を嬉しいものとして受け取れる。
シアは顔を上げ、微笑み返した。
「レオンハルト様も、今日は少しお忙しそうですね。お仕事の途中でしょうか」
レオンハルトは少し驚いたように目を瞬かせた。
「分かる?」
「いつもより、少し急いでいらっしゃるように見えたので。もし違っていたら、すみません」
「いや、合っているよ。午後に確認しなければならない書類があってね。少し時間が空いたから、先にパンを買いに来たんだ」
レオンハルトは苦笑した。
「最近は冬に向けた準備が増えていて、なかなか落ち着かないんだ」
「そうなんですね。寒くなると、街の仕事も増えるんですね」
「そうだね。道路や橋の状態を確かめたり、物資の運搬に問題がないか確認したり、いろいろあるんだ」
シアはその言葉を聞き、先日ミレイユと歩いた川沿いの道を思い出した。
石橋の近くには、昔の住民たちが堤防を整えたことを記した石碑があった。
あの場所を歩いたとき、街の暮らしは多くの人の仕事によって支えられているのだと感じた。
「……先日、ミレイユさんと歩いた川沿いの道も、そうしたお仕事で守られているんですね」
シアが言うと、レオンハルトは嬉しそうに頷いた。
「そうだね。あの辺りは、季節によって水の量も変わるから、定期的な確認が必要なんだ」
「石橋の近くに、昔の人たちが堤防を直したことを書いた石碑がありました。あれを見て、今の街があるのは、ずっと前からいろいろな人が働いてきたからなんだと思ったんです」
レオンハルトは少しだけ表情を和らげた。
「よく見ていたんだね」
「ミレイユさんが教えてくださったんです。それから、川沿いを歩いている人たちを見ていると、あの道がいろいろな人にとって大切な場所なんだと感じました」
シアは言葉を選びながら続けた。
「お仕事で使う人もいれば、散歩をする人もいて、子どもたちも遊んでいました。私も、あの道を歩けて嬉しかったです」
レオンハルトは静かに耳を傾けていた。
彼にとって、南の川沿いは幼い頃から知っている場所だった。
公爵家の仕事として、道路や橋の管理について報告を受けることもある。
けれど、シアの言葉を聞いていると、書類の中にある道や橋が、実際にそこで暮らす人々の姿と結びついていくように感じられた。
「……そう言ってもらえると、嬉しいな」
レオンハルトは穏やかに答えた。
「僕も、あの道は好きなんだ。仕事として確認することもあるけれど、ただ歩いているだけで気持ちが落ち着く場所でもあるから」
「はい。私も、また行ってみたいと思っています」
シアは微笑んだ。
「今度は、違う季節の景色も見てみたいです。冬になったら、川沿いはどんなふうになるんでしょう」
「冬は木々の葉が落ちて、川がよく見えるようになるよ。風は冷たいけれど、空気が澄んでいる日は遠くまで見渡せるんだ」
「そうなんですね……」
シアは少し目を輝かせた。
「それも、綺麗そうです」
レオンハルトはその表情を見て、自然と微笑んだ。
シアが新しい景色について話すとき、そこには素直な好奇心がある。
知らないものを知りたいと思い、自分の目で確かめようとする。
以前よりも、その気持ちを言葉にすることが増えているように感じられた。
けれど、彼はその変化を急いで確かめようとはしなかった。
シアが話したいことを話し、話したくないことは話さなくていい。
そうした距離を守りながら、彼女の言葉を聞いていたかった。
「また歩いたら、どんな景色だったか聞かせてくれる?」
レオンハルトが尋ねると、シアは嬉しそうに頷いた。
「はい。ぜひ、お話ししたいです」
その返事を聞き、レオンハルトの表情が柔らかくなった。
店の奥からは、オットーが道具を片づける音が聞こえてくる。
マルタは別の客の対応を終え、二人の様子を少し離れた場所から見ていた。
シアは以前よりも、レオンハルトへ自分から話しかけるようになっている。
そのことにマルタは気づいていたが、あえて口には出さなかった。
ただ、シアが楽しそうに話していることを、嬉しく思っていた。
◇
レオンハルトが店を出たあと、シアはしばらく入口の方へ目を向けていた。
外では彼が護衛と合流し、通りを歩いていく姿が見えた。
その背中が人混みに紛れるまで見送ってから、シアは仕事へ戻ろうとした。
すると、マルタが隣へやってきた。
「今日は、ずいぶん楽しそうに話していたね」
シアは少し驚いて振り返った。
「……そうでしょうか?」
「うん。川沿いの話をしていたんだろう? この前、ミレイユさんと出かけたときのことかな」
「はい。レオンハルト様も、あの道をご存じだったので」
シアは棚の残りを確認しながら答えた。
「冬になると、木の葉が落ちて川がよく見えるそうです。寒そうですけど、少し見てみたいと思いました」
マルタは微笑んだ。
「そうかい。季節が変わると、同じ場所でも違って見えるからね」
「はい。図書館で借りた本にも、季節によって景色が変わることが書かれていました」
シアはそう言ってから、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、マルタさん。昨日買ってきた秋灯草なんですけど、今朝も元気そうでした」
「ああ、よかったね。水はあげたのかい?」
「いえ。土がまだ湿っていたので、今日はあげませんでした。花屋さんに、毎日決まった量をあげるより、土の状態を確かめた方がいいと教えていただいたので」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
マルタは感心したように笑った。
「最初から張り切りすぎて、水をあげすぎる人もいるからね」
「私も、何かしてあげたくなってしまったんですけど……必要なことをする方が大切ですよね」
シアが答えると、マルタは穏やかに頷いた。
「そうだね。花も人も、何でもしてあげればいいってものじゃないからね」
その言葉に、シアは少し考え込んだ。
以前の自分は、誰かのために何かをしなければならないと思っていた。
役に立たなければ、そこにいてはいけない。
期待に応えなければ、責められる。
そんな考え方が、長い間当たり前になっていた。
けれど今は、少し違う。
仕事では、必要なことを考えて動く。
分からないことは相談する。
誰かに助けてもらうこともあるし、自分が誰かを助けることもある。
それは、ただ言われた通りに動くこととは違っていた。
「……はい。少しずつ、覚えていきたいです」
シアが答えると、マルタは優しく微笑んだ。
「うん。焦らなくていいよ」
その後、二人は午後の仕事へ戻った。
店内には新しい客が入り、焼きたてのパンを選ぶ声が響き始めた。
シアはいつもの場所へ立ち、笑顔で注文を受けた。
◇
その日の午後、レオンハルトは公爵家の執務室で書類を確認していた。
机の上には冬季の物資輸送に関する報告書や、領内の道路整備についての資料が積まれている。
窓の外では雲がゆっくりと流れ、庭の木々が秋の風に揺れていた。
レオンハルトは一枚の報告書へ目を通し、南の川沿いの道に関する記載を見つけた。
石橋付近の点検は予定通り進んでおり、現時点で大きな問題は確認されていない。
冬に向けて必要な補修箇所を整理し、通行に支障が出ないよう準備を進めるという内容だった。
彼はその文章を読みながら、午前中に《麦穂亭》で交わした会話を思い出した。
シアは、川沿いの道を歩いて楽しかったと話していた。
石碑を見て、昔の人々の仕事に思いを馳せたこと。
道を利用する人々の姿を見て、その場所が街の暮らしにとって大切なのだと感じたこと。
どれも、彼女自身の目で見て、考えたことだった。
(……同じ場所を知っていても、見えるものは違うんだな)
レオンハルトは書類を机へ置き、少しだけ窓の外へ目を向けた。
彼にとって道路や橋は、領地を守るために管理しなければならないものでもある。
もちろん、それだけではないと理解しているつもりだった。
けれど、シアの話を聞くと、その道を歩く人々の姿が自然と浮かんでくる。
仕事へ向かう人。
家族と散歩する人。
友人と景色を楽しむ人。
その一人として、シアもあの道を歩いたのだ。
彼は、彼女が楽しそうに話していた表情を思い出した。
最初に《麦穂亭》で会った頃、シアは丁寧で控えめな女性だった。
今でもその印象は変わらない。
けれど、最近は自分の考えや希望を、以前よりも自然に言葉にするようになっている。
仕事のことを話すときも、休日のことを話すときも、そこには彼女自身の意思が感じられた。
(……きっと、少しずつ自分の暮らしを作っているんだろうな)
レオンハルトはそう考え、穏やかに微笑んだ。
彼はシアの過去を知らない。
なぜ彼女がこの街へ来たのかも、どんな暮らしをしていたのかも、詳しく聞いたことはなかった。
ただ、今の彼女が《麦穂亭》で働き、友人と出かけ、本を読み、少しずつ新しいことを楽しんでいるのは知っている。
その姿を見ることが、いつの間にか自分にとっても楽しみになっていた。
レオンハルトは再び書類へ目を戻した。
午後の仕事はまだ残っている。
けれど、午前中に交わした短い会話のおかげで、少しだけ気持ちが軽くなっていた。
◇
夕方、《麦穂亭》の仕事を終えたシアは、厨房の片づけを手伝ってから自室へ戻った。
階段を上がる途中、窓から差し込む光が少し赤みを帯びていることに気づいた。
秋の日は短くなっている。
仕事が終わる頃には、外が暗くなり始める日も増えてきた。
部屋の扉を開けると、机の端に置いた秋灯草が目に入った。
シアは上着を脱ぎ、手を洗ってから鉢へ近づいた。
朝と比べて、花の様子に大きな変化はない。
けれど、淡い黄色の花びらが夕方の光を受けて柔らかく見え、シアは自然と微笑んだ。
「ただいま戻りました」
朝と同じように、小さく声をかける。
花は返事をしない。
それでも、部屋へ戻ったときに自分の好きなものがあるということが、こんなにも嬉しいのだと初めて知った気がした。
シアは土の状態を確かめ、今日も水を足す必要がないことを確認した。
その後、机へ腰を下ろし、支出帳を開いた。
昨日の花と受け皿の購入記録を見直し、今日使ったお金がないことを確かめる。
次の給金を受け取るまでに必要なものは何か。
冬へ向けて、少しずつ用意しておいた方がいいものはあるか。
シアは考えながら、帳面の余白へ小さく書き込んだ。
厚手の靴下。
手袋。
寒い日に使える上着。
今すぐ全部を買う必要はない。
けれど、必要になってから慌てるより、少しずつ準備しておいた方が安心だろう。
(……次のお休みに、お店を見てみようかな)
そう考えてから、シアはふと顔を上げた。
以前なら、必要なものを買うことさえ、誰かの許可を求めていた。
けれど今は、自分の暮らしに必要なものを自分で考え、優先順位をつけられるようになっている。
もちろん、まだ迷うことはある。
分からないことも多い。
けれど、迷ったからといって何も決められないわけではない。
調べることもできる。
誰かに相談することもできる。
そのうえで、自分の答えを出せばいい。
シアは帳面を閉じ、机の上に置いた本を手に取った。
『街の小さな庭と季節の花』。
頁を開くと、そこには冬の鉢植えの管理について書かれていた。
寒さから守ること。
水をあげすぎないこと。
日当たりのよい場所を選ぶこと。
シアは一つずつ読みながら、秋灯草の置き場所を確かめた。
窓辺は昼間なら明るい。
けれど、夜は冷える。
昨日考えた通り、寒い時間帯には机の端へ移すのがよさそうだった。
シアは本を閉じ、鉢を少しだけ動かした。
そのとき、今日レオンハルトと交わした会話が思い出された。
冬の川沿いは、木々の葉が落ちて川がよく見えるという。
空気が澄んだ日には、遠くまで見渡せるとも話していた。
(……冬になったら、また歩いてみたいな)
シアは窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街には、家々の明かりがともり始めている。
遠くに見える屋根の向こうには、まだ淡い橙色の空が残っていた。
この街には、まだ知らない場所がたくさんある。
行ってみたい場所も、読んでみたい本も、覚えたいことも増えてきた。
そして、見つけたものを話したい相手もいる。
ミレイユには、また一緒に出かけたいと伝えている。
レオンハルトには、次に川沿いを歩いたときの景色を聞かせる約束をした。
マルタやオットーには、毎日の仕事の中で教えてもらうことがある。
誰かに頼ることと、自分で決めること。
その二つは、反対のものではないのだと、少しずつ分かってきた。
シアは机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
小さな黄色い花は、部屋の灯りを受けて静かに咲いている。
昨日、自分で選んで買った花。
今日、自分で様子を確かめた花。
明日も、きっと同じように世話をするだろう。
その小さな繰り返しが、これからの暮らしの一部になっていく。
シアは微笑み、本を開き直した。
窓の外では、夜の街が少しずつ静かになっていく。
今日も仕事を終え、誰かと話し、自分の好きなものに触れる時間があった。
その一日を思い返しながら、シアは穏やかな気持ちで頁をめくった。




