第43話 頼まれたことと、私が決めること
秋灯草を迎えてから三度目の朝、シアはいつもの時刻に目を覚ました。
窓の外にはまだ夜の名残があり、向かいの建物の屋根が薄青い空に黒く浮かんでいる。寝台から起き上がると、冷たい空気に肩が少し縮こまったが、机の端に置いた小さな鉢植えを見つけると、自然と表情が和らいだ。
淡い黄色の花は、昨夜と変わらず静かに咲いていた。
シアは上着を羽織り、机へ近づいて土の表面に指先を触れた。昨日より乾いているように感じたものの、少し下にはまだ湿り気が残っていたため、水差しを手に取るのはやめておく。
「おはようございます。今日は、もう少し様子を見ましょうね」
自分でも少しおかしくなるような挨拶だったが、声に出してみると、部屋の静けさが心地よく感じられた。
花を買った翌朝は、何か世話をしなければと考えていた。しかし、図書館で借りた本と花屋の店主の説明を思い出し、必要がないときには手を加えないことも大切なのだと知った。
今朝は、その判断を迷わずできた。
シアは鉢を窓辺へ移す前に、窓枠へ手を当ててみた。まだ冷たさが強かったため、もう少し日が昇ってから移すことにし、仕事着へ着替え始めた。
机の上には、昨夜書き留めた買い物の予定もある。
厚手の靴下と手袋、それから冬に使える上着。
どれも、これから寒くなる街で暮らすために必要になるものだった。
シアは支出帳の頁を開き、昨日書いた品物の名前を見直した。
(次のお休みに、まずは値段を確かめに行こう。全部を一度に買わなくても、必要なものから揃えればいいんだから)
そう考えて帳面を閉じると、机の端に置いていた銀のペンダントが目に入った。
母の形見であるその品は、伯爵家を出た日からずっと大切にしているものだった。シアは鎖に傷みがないか確かめてから首へ掛け、服の内側へそっと収める。
昔の自分と今の自分をつなぐもの。
けれど、それを身につけているからといって、昔の暮らしへ戻りたいわけではなかった。
シアは鏡の前で髪をまとめ、最後に前掛けを手に取った。
今日も《麦穂亭》で働く。
そして、仕事が終わったら、自分の部屋へ帰ってくる。
それはもう、誰かから与えられた一時的な猶予ではなく、シアが毎日の仕事を通して守っている暮らしだった。
◇
厨房へ降りると、オットーが小麦粉の袋を開けているところだった。
作業台にはすでに計量用の器が並び、窯の近くでは薪が小さな音を立てて燃えている。シアが挨拶をすると、オットーは顔を上げ、壁際に置かれた粉袋を指さした。
「おはよう。今日は先に粉の残りを確認してくれ。昨日の仕込みで一袋開けたから、帳面と合っているか見ておきたい」
「おはようございます。分かりました。未開封の袋と、使いかけの分を分けて確認しますね」
シアは手を洗い、前掛けをつけてから保管棚へ向かった。
小麦粉と黒麦粉は種類ごとに置き場所が決まっており、湿気を避けるため床から少し高い台の上に並べられている。袋の口が開いているものは先に使うよう印がつけられ、仕入れた日付も帳面に記されていた。
シアは袋の数を確かめ、使いかけの分についてはオットーへ残量を確認した。
帳面の数字と実際の在庫に大きな違いはない。
ただ、黒麦粉の残りが次の仕入れまでに少なくなりそうだった。
「オットーさん、黒麦粉なんですけど、今の予定通りに使うと、次の納品まであまり余裕がなさそうです」
シアは帳面を持って作業台へ戻り、予定されている注文数を示した。
「騎士団の定期注文と宿の分は足りる計算です。でも、店頭で黒麦パンがいつもより売れた場合は、追加で仕込める量が少なくなると思います」
オットーは帳面を覗き込み、粉の残量を確かめた。
「そうだな。次の仕入れで補充する予定だが、念のためハンスに確認しておくか。今日は予定の数を変えず、追加が必要になったら俺に相談してくれ」
「はい。仕入れの確認は、マルタさんにもお伝えしておきます」
「頼む。こういうのは、足りなくなってから気づくと面倒だからな」
オットーはそう言って、再び生地をまとめ始めた。
シアは帳面に確認の印をつけ、粉袋の口を整えた。
以前なら、在庫が少ないことに気づいても、余計なことを言ってはいけないのではないかと迷ったかもしれない。けれど今は、気づいたことを伝えるのも仕事の一部だと考えている。
自分で仕入れを決めることはできない。
それでも、必要な情報を集め、判断する人へ正確に伝えることはできる。
シアはその違いを意識しながら、次の作業へ移った。
丸パンの生地を分け、黒麦パンの成形を手伝い、焼き上がったものを冷ます棚を整える。
オットーが窯の様子を確かめている間には、作業台に残った粉を拭き取り、次に使う道具を用意した。
厨房では、焼きたてのパンの香りが少しずつ強くなっていく。
今日も、いつもの朝が始まっていた。
◇
開店から一時間ほど経った頃、《麦穂亭》の店内は朝の客で賑わっていた。
中央広場へ向かう職人たちが仕事前の食事を買い、近所の住民が家族の分を選んでいる。扉が開くたびに冷たい外気が入り込むが、焼きたてのパンの香りと人々の話し声が、店内を温かく感じさせていた。
シアはマルタと並んで接客をしながら、注文の数を確かめていた。
「丸パンを三つと黒麦パンを一つですね。ありがとうございます。黒麦パンは少し温かいので、包みを開けるときはお気をつけください」
客へパンを渡し、代金を受け取る。
次の客が棚の前で迷っている間には、空いた場所へ新しいパンを補充し、予約分の籠が店頭のものと混ざっていないか確認した。
そのとき、入口の扉が勢いよく開いた。
「すみません、少しお尋ねしたいんですが!」
入ってきたのは、見覚えのある若い男性だった。
《銀鹿亭》で働いている従業員で、以前にも注文の確認に来たことがある。今日はいつもより息が上がっており、肩に掛けた上着の裾が少し乱れていた。
マルタが顔を上げる。
「あら、《銀鹿亭》の方だね。どうしたんだい?」
「はい。今朝、宿泊のお客様が予定より早く出発されることになりまして、持っていく朝食用のパンが足りなくなりそうなんです。追加でお願いできないかと思って」
男性はそこまで話すと、店内の棚へ目を向けた。
「丸パンを十個、できればすぐにいただきたいんですが……」
シアは一瞬、棚に並んでいる丸パンの数を思い浮かべた。
店頭にはまだ十個以上ある。
しかし、そのすべてを《銀鹿亭》へ渡してよいわけではなかった。
このあと来る予定の取り置き客がいるうえ、昼前にもパンを買いに来る人がいる。宿の事情は理解できるが、目の前にパンがあるからといって、その場で約束してしまうのは適切ではない。
シアは男性へ向き直った。
「ご事情は分かりました。お急ぎのところ申し訳ありませんが、まず、現在お渡しできる数を確認してもよろしいでしょうか」
男性は少し焦った様子で頷いた。
「はい。ただ、できれば早めにお願いしたいんです。出発の準備が進んでいるので」
「承知しました。確認に長くお時間をいただかないようにします」
シアはそう答え、マルタへ視線を向けた。
「マルタさん、店頭分と取り置き分を確認してきてもよろしいでしょうか」
「ああ、お願いするよ。私はお客様から詳しい事情を聞いておくからね」
シアは帳面を手に取り、棚の残数と予約表を照らし合わせた。
今日の丸パンは、午前中の売れ行きが予想よりよかった。
すでに取り置きが決まっている分を除くと、店頭で自由に販売できる数はそれほど多くない。
しかも、厨房では別の種類のパンを焼いている最中だった。
追加で丸パンを焼けるかどうかは、オットーへ確認しなければ分からない。
シアは帳面を閉じ、厨房へ向かった。
「オットーさん、《銀鹿亭》から急な追加注文のご相談が来ています。丸パンを十個、できればすぐに欲しいそうです」
オットーは窯の様子を確かめながら振り返った。
「十個か。今から新しく焼くのは無理だな。窯も次の仕込みで埋まってる」
「はい。店頭にある分も、取り置きを除くと十個はありません」
シアは帳面を開き、現在の数を示した。
「丸パンだけでは難しそうですが、ほかの種類も含めてお渡しできるか確認したいです。黒麦パンや胡桃パンなら、少し余裕があります」
オットーは少し考え、作業台の向こうに置かれた籠を見た。
「黒麦パンなら出せる。ただ、騎士団の分には手をつけるなよ。あれは別に確保してある」
「はい。予約分は動かしません」
「丸パンは、店頭分から出せる数までだな。残りを別のパンでいいと言うなら、対応できるかもしれん」
シアは頷いた。
「ありがとうございます。種類を変更してもよいか、お客様へ確認してきます」
厨房を出ると、男性はマルタと話しながら待っていた。
シアは帳面を持ったまま、二人のところへ戻った。
「お待たせいたしました。確認したところ、丸パン十個をすぐにお渡しすることは難しい状況です。ただ、丸パンを六個と、黒麦パンを四個でしたら、現在の予約に影響させずにご用意できます」
男性は少し困ったように眉を寄せた。
「黒麦パンですか……。お客様が食べ慣れているかどうか分からないんですが」
「そうですよね。急な変更ですから、確認が必要だと思います」
シアは相手の反応を見ながら、落ち着いた声で続けた。
「黒麦パンは丸パンより少ししっかりした食感です。持ち歩く朝食として選ばれる方もいらっしゃいますが、お客様のご希望と違う可能性もありますので、宿で確認していただいた方が安心かと思います」
男性は腕を組み、少し考え込んだ。
「できれば、今ここで全部持って帰りたいんですが……」
シアは急かされていることを理解しながらも、すぐに返事をしなかった。
目の前の男性が困っているのは分かる。
しかし、宿泊客が黒麦パンを食べられるかどうかは、シアには判断できない。
無理に勧めて、あとから困らせてしまうことも避けたかった。
「もしよろしければ、丸パン六個だけ先にお渡しして、残りの四個については宿で確認していただく方法もあります。ただ、その間に店頭の在庫が変わる可能性がありますので、取り置きが必要でしたら、マルタさんと相談して対応いたします」
シアがそう伝えると、マルタが隣で頷いた。
「そうだね。宿の方で確認してもらえるなら、黒麦パン四個は少しの間取り置きしておけるよ。ただし、いつまでも待てるわけじゃないから、戻る時間を決めてもらえると助かるね」
男性はほっとしたように息を吐いた。
「それなら、一度宿へ戻って確認してきます。近いので、すぐに戻れると思います」
「分かりました。では、黒麦パン四個を、今から三十分ほど取り置きしておきますね」
マルタが答えると、男性は何度も礼を言った。
「ありがとうございます。本当に助かります」
シアは丸パン六個を包み、代金を確認してから渡した。
男性が店を出ると、マルタはシアへ目を向けた。
「よく確認してくれたね。急いでいるお客様だったから、焦ったんじゃないかい?」
「少しだけ。でも、前にも急な注文があったので、まず予約分を確かめようと思いました」
シアは帳面を閉じ、取り置きする黒麦パンの籠へ札をつけた。
「それに、宿の方が困っているからといって、ほかのお客様の分まで動かしてしまうのは違うと思ったんです」
マルタは静かに頷いた。
「その通りだよ。困っている人を助けたい気持ちは大事だけど、店にはほかのお客様との約束もあるからね」
「はい。できることを探すのと、何でも引き受けるのは、違いますよね」
シアがそう言うと、マルタは少し驚いたように目を細めた。
「……そうだね。よく分かってきたじゃないか」
その言葉に、シアは照れくさそうに微笑んだ。
以前なら、頼まれたことを断るのが怖かった。
相手が困っていると分かれば、何とかしなければと考え、自分にできないことまで引き受けようとしたかもしれない。
けれど今は、そうしなかった。
相手の事情を聞き、店の状況を確かめ、できる方法を考えた。
そして、できないことはできないと伝えた。
それでも、男性は怒らなかった。
むしろ、代わりの方法を一緒に考えたことで、少し安心したように見えた。
(……断ることと、突き放すことは同じじゃないんですね)
シアはその考えを胸の中で確かめながら、次の客を迎えた。
◇
三十分ほど経たないうちに、《銀鹿亭》の男性が再び店へ戻ってきた。
今度は先ほどよりも表情が明るく、扉を開けるとすぐに頭を下げた。
「先ほどはありがとうございました。宿で確認したところ、黒麦パンでも大丈夫だそうです。取り置きしていただいた四個をお願いします」
「承知しました。こちらにご用意しております」
シアは札をつけておいた籠を取り出し、黒麦パン四個を確認した。
マルタにも数量を見てもらってから包み、代金を受け取る。
「丸パン六個と黒麦パン四個で、合計十個ですね。お客様にもよろしくお伝えください」
「はい。本当に助かりました。急にお願いしてしまって、すみませんでした」
男性は包みを受け取り、深く頭を下げた。
シアは首を横に振った。
「いえ。必要な数をご用意できてよかったです。ただ、次に追加が必要な場合も、そのときの予約や仕込みによって対応できる数が変わりますので、早めにご相談いただけると助かります」
男性は少し驚いたようにシアを見た。
その言葉は、決して責めるようなものではなかった。
けれど、店として守るべきことを、はっきりと伝えている。
「分かりました。宿の方にも伝えておきます。今後は、できるだけ早めに確認するようにします」
「ありがとうございます」
シアは微笑み、男性を見送った。
扉が閉まると、店内には再び穏やかな空気が戻ってきた。
マルタは帳面へ記録をつけながら、シアへ声をかけた。
「最後の一言も、よかったよ」
「……そうでしょうか?」
「うん。今回できたからといって、次も必ずできるとは限らないからね。そのことを先に伝えておくのは大事だよ」
シアは少しだけ考えてから頷いた。
「私、前だったら、また何かあればいつでもおっしゃってください、と言ってしまったと思います」
マルタは顔を上げた。
「そうかもしれないね」
「でも、それだと、私が勝手に何でもできるように聞こえてしまいますよね。店の仕事は、私一人で決めるものではありませんし」
シアは自分の手元にある帳面へ目を落とした。
「だから、次も相談してください、と伝えたかったんです。できるかどうかは、そのときに確認すればいいと思って」
マルタはしばらくシアを見つめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「うん。それでいいんだよ」
その言葉を聞き、シアの肩から少し力が抜けた。
誰かの役に立てたことは嬉しい。
けれど、無理をしてまで役に立とうとしなくてもいい。
自分の判断だけで背負えないことは、相談していい。
それを実際の仕事の中で確かめられたことが、シアには何より大きかった。
◇
昼の休憩時間、シアは厨房の隅で温かなスープを飲んでいた。
窓から差し込む光は朝より明るくなり、外の通りでは荷馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえている。
オットーは向かいの椅子に腰を下ろし、焼き上がったパンの状態について帳面へ書き込んでいた。
「今朝の《銀鹿亭》の件、マルタから聞いたぞ」
オットーがそう言うと、シアは器を置いた。
「はい。急な追加注文でしたけど、予約分を動かさずに対応できました」
「ああ。よくやった。だが、次も同じようにできるとは限らんからな」
「はい。そのことも、お客様へお伝えしました」
オットーは少しだけ口元を緩めた。
「そうか。それならいい」
シアはスープを一口飲み、少し考えてから尋ねた。
「オットーさん、今朝のような場合、もし代わりのパンも足りなかったら、どうするのがよかったでしょうか」
オットーは帳面を閉じた。
「そのときは、足りないと言うしかないな。無理に約束しても、作れなければどうにもならん」
「……そうですよね」
「もちろん、できる方法があるなら考える。だが、店には店の都合があるし、先に注文してくれた客との約束もある。目の前の客だけを見て決めるわけにはいかん」
オットーはそう言ってから、少し声を和らげた。
「それに、断ったからといって、仕事を怠けたことにはならん。できないことをできると言う方が、あとで困るんだ」
シアはその言葉を静かに受け止めた。
以前の自分にとって、断ることは恐ろしいことだった。
父から命じられた仕事を断れば、怠けていると言われた。
継母や異母妹の頼みを断れば、思いやりがないと責められた。
できるかどうかを考えるより先に、引き受けなければならないと思っていた。
けれど、《麦穂亭》では違う。
オットーは、できないことを無理に引き受けるなと言ってくれる。
マルタは、相談して決めればいいと言ってくれる。
そして、シアが自分なりに考えたことを、きちんと聞いてくれる。
「……ありがとうございます」
シアがそう言うと、オットーは少し不思議そうに眉を上げた。
「何だ、急に」
「いえ。今日のお仕事で、また一つ覚えられたことがあったので」
シアは微笑んだ。
「できないことがあるときも、ちゃんと伝えていいんですね」
オットーは一瞬だけ黙り、それから大きな手で頭を掻いた。
「当たり前のことだろう。まあ、分かったならそれでいい」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その声は穏やかだった。
シアはもう一度礼を言い、残っていたスープを飲み終えた。
◇
午後になると、店内の客足は少し落ち着いた。
シアは棚の整理を終え、翌日の注文を確認していた。
《銀鹿亭》の追加分はすでに記録されており、予約帳の数字も修正されている。
その頁を見ながら、シアは午前中の出来事を思い返した。
丸パン十個を頼まれたとき、最初は少し緊張した。
しかし、以前のように頭が真っ白になることはなかった。
何を確かめればいいのか。
誰に相談すればいいのか。
どこまでなら自分で伝えられるのか。
それを順番に考えることができた。
シアは帳面を閉じ、棚の端に置いた布を整えた。
すると、入口の扉が開き、見覚えのある小さな男の子が顔を覗かせた。
「こんにちは!」
靴職人の息子、ニコだった。
以前、蜂蜜林檎パンを気に入ってくれた少年で、今日は一人で買い物に来たらしい。手には小さな布袋を持ち、少し背伸びをしながら棚を見ている。
「こんにちは、ニコ君。今日はお買い物ですか?」
「うん! お母さんに丸パンを買ってきてって頼まれたんだ」
ニコは布袋から小さな紙を取り出し、シアへ見せた。
そこには丸パン四個と書かれている。
「丸パン四個ですね。ありがとうございます」
シアは注文を確かめ、棚からパンを取り出した。
ニコはその様子を見ながら、少し残念そうに口を尖らせた。
「今日は、あの林檎のパンはないの?」
「蜂蜜林檎パンですね。今日は作っていないんです」
「そっかぁ。あれ、おいしかったのにな」
シアは少年の表情を見て、少し微笑んだ。
「気に入っていただけて、嬉しいです。でも、まだ試しに作っているパンなので、毎日並べているわけではないんですよ」
ニコは首を傾げた。
「じゃあ、また作る?」
「それは、オットーさんとマルタさんに相談して決めることになります。もしまた店頭に並ぶことがあったら、そのときにお知らせしますね」
「うん! 楽しみにしてる!」
ニコは嬉しそうに笑った。
シアは丸パンを包み、代金を受け取った。
少年が袋を抱えて店を出ると、マルタが隣へやってきた。
「ニコ君、まだ蜂蜜林檎パンのことを覚えてるんだね」
「はい。気に入ってくれたみたいで、嬉しいです」
シアは笑顔で答えた。
「でも、また作ると約束はしませんでした。まだ定番の商品ではありませんから」
マルタは感心したように頷いた。
「そうだね。試しに作ったパンが好評だったのは嬉しいけど、材料や仕込みの都合もあるからね」
「はい。もしまた作ることになったら、前のときの売れ行きも参考にできると思います」
シアは少し考え、続けた。
「ただ、前に残った一個のことも覚えています。売れた数だけではなく、何時頃に買われたかも見た方がいいのかもしれません」
マルタは微笑んだ。
「いい考えだね。今度オットーと話すときに、参考にしようか」
「はい。ありがとうございます」
シアは頷き、帳面へ目を戻した。
新しいパンを作ることも、店の仕事を変えることも、シア一人では決められない。
けれど、気づいたことを伝えたり、次のために記録を残したりすることはできる。
それもまた、自分にできる仕事なのだと思えた。
◇
その日の夕方、閉店の準備を終えたシアは、厨房の片づけを手伝ってから自室へ戻った。
階段を上がる途中、窓から差し込む光が少し赤みを帯びていることに気づいた。秋の日は短くなり、仕事が終わる頃には、街のあちこちで灯りがともり始めている。
部屋の扉を開けると、机の端に置いた秋灯草が目に入った。
シアは上着を脱ぎ、手を洗ってから鉢へ近づいた。
朝と比べて、花の様子に大きな変化はない。
ただ、土の表面は少し乾いてきているようだった。
シアは指先で確かめ、花屋の店主から聞いた説明を思い出した。
水をあげるかどうかは、土の状態を見て決める。
決まった時間だからという理由だけで、水を足さない。
シアは少し考えてから、水差しを手に取った。
「今日は、少しだけお水をあげましょうね」
鉢の縁に沿って、ゆっくりと水を注ぐ。
土へ水が染み込んでいく様子を見ながら、量を確かめる。
受け皿に水がたまっていないか確認し、必要な手入れを終えると、シアは小さく息を吐いた。
何か特別なことをしたわけではない。
けれど、自分で選んだ花の様子を見て、自分で必要なことを決めた。
その小さな行動が、今日の仕事で感じたことと重なった。
シアは椅子へ腰を下ろし、支出帳を開いた。
今日は自分の買い物をしていないため、支出の記録は増えていない。
代わりに、冬へ向けて必要なものの一覧を見直した。
厚手の靴下。
手袋。
上着。
シアはその三つを眺め、優先順位を考えた。
今の靴下はまだ使えるが、朝の冷え込みが強くなれば、厚手のものが欲しくなるだろう。
手袋は、外出するときに必要になるかもしれない。
上着は値段が高そうなので、まずは店を見てから決めたい。
(……次のお休みに、靴下と手袋を見に行こう。上着は、値段を確かめてから考えればいい)
シアは帳面の余白へ、その予定を書き込んだ。
誰かに言われたわけではない。
必要だと思ったものを、自分で考えている。
それが、今では少しずつ自然なことになっていた。
帳面を閉じると、シアは机の上に置いた『街の小さな庭と季節の花』を手に取った。
頁を開き、秋灯草の世話について書かれた部分を読み返す。
植物は、育てる場所によって状態が変わる。
同じ種類でも、日当たりや気温によって必要な世話は違う。
だから、毎日の様子をよく見ることが大切なのだという。
シアはその文章を読みながら、午前中の《銀鹿亭》の出来事を思い出した。
急な注文が来たとき、前と同じように対応すればいいとは考えなかった。
その日の予約を確認し、厨房の状況を確かめ、できることを探した。
結果として、丸パンと黒麦パンを組み合わせて対応できた。
けれど、もし在庫が足りなければ、断る必要があっただろう。
それでも、店の仕事をきちんとしたことには変わりない。
(……何でも引き受けることが、正しいわけじゃないんですね)
シアは本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの街には、家々の明かりがともり始めている。
遠くからは、仕事を終えた人々の話し声が聞こえた。
この街で暮らすようになってから、シアは多くの人と出会った。
マルタとオットー。
ミレイユ。
レオンハルト。
ローザやハンス、ニコをはじめとする街の人々。
その誰もが、シアに何かを命じるためだけに関わっているわけではない。
仕事を頼まれることはある。
相談されることもある。
けれど、断ったり、別の方法を提案したりすることもできる。
それは、シアにとってまだ新しい感覚だった。
伯爵家にいた頃は、誰かの期待に応えることが、自分の価値を証明する唯一の方法のように思っていた。
今でも、その考えが完全に消えたわけではない。
大きな声を聞けば身体が強張ることもあるし、誰かが困っていると、何とかしなければと焦ることもある。
けれど、今日の自分は違った。
困っている人を前にしても、無理な約束はしなかった。
必要な確認をして、できることを伝えた。
そして、できないことについても、はっきり説明した。
その結果、相手は怒ることなく、別の方法を受け入れてくれた。
シアは机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
小さな黄色い花は、夕方の光を受けて静かに咲いている。
この花も、シアが何でもしてあげれば元気になるわけではない。
必要なことを見極めて、できる範囲で世話をする。
その積み重ねが、花を育てることにつながる。
シアはそっと微笑んだ。
「……明日も、よろしくお願いします」
小さく声をかけてから、鉢を夜の冷え込みが少ない場所へ移した。
そのとき、階下からマルタの声が聞こえた。
「シア、夕食の準備ができたよ!」
「はい、今行きます!」
シアは返事をし、椅子から立ち上がった。
机の上には、読みかけの本と、今日書き直した買い物の予定がある。
窓辺には、昨日より少しだけ世話に慣れた秋灯草が置かれている。
そして階下には、今日も一緒に食卓を囲む人たちが待っていた。
シアは部屋の扉を閉め、階段を降りていく。
誰かに必要とされるためだけではなく、自分がここで暮らしたいから。
その気持ちを胸に、シアは温かな食卓へ向かった。




