第44話 冬支度は、誰のために
朝の冷え込みが一段と強くなったことに気づいたのは、シアが寝台から降り、床板へ足をつけた瞬間だった。
昨夜はそれほど寒いと思わなかったのに、夜明け前の部屋には冷たい空気がたまっていた。窓の外はまだ薄暗く、向かいの建物の屋根も、灰色がかった空を背景にぼんやりと浮かんでいる。
シアは寝台の脇に置いていた上着を羽織り、机の端にある秋灯草へ目を向けた。昨日の夜、窓から少し離した場所へ移しておいた小さな鉢植えには、淡い黄色の花が変わらず咲いている。
「おはようございます。今朝はずいぶん寒いですね」
そう声をかけてから土の状態を確かめると、表面にはまだ少し湿り気が残っていた。水を足す必要はなさそうだったので、シアは受け皿の位置を整え、窓から差し込む光が十分に強くなってから移すことにした。
花を迎えてから、朝の時間に小さな楽しみが増えた。
けれど、今朝は花のことだけを考えているわけにはいかなかった。シアは上着の袖口を引き寄せ、指先に触れる布の薄さを確かめる。
今着ているものは、伯爵家を出るときに持ってきた数少ない衣服の一つだった。
旅の途中でも、領都へ着いてからも、何度も着ている。丁寧に扱ってきたため大きな傷みはないが、もともと真冬の寒さに耐えられるほど厚い生地ではなかった。
(……もう少し寒くなったら、これだけでは足りないかもしれませんね)
昨夜、支出帳に書き込んだ買い物の予定を思い出す。
厚手の靴下、手袋、それから冬用の上着。
次の休日に店を見て回り、必要なものから揃えるつもりだった。だが、実際に冷え込んだ朝を迎えると、上着の優先順位をもう少し高く考えた方がよさそうにも思えた。
シアは椅子に掛けていた仕事着を手に取り、布地の状態を確かめた。
厨房は窯の熱で温かいものの、店先には外から冷たい風が入り込む。騎士団への納品や買い物で外を歩く機会もあり、これからの季節は身体を冷やさない工夫が必要になるだろう。
もっとも、今すぐすべてを買い揃える必要があるわけではない。
シアはそう考えながら着替えを済ませ、鏡の前で髪をまとめた。
首元には、母の形見である銀のペンダントを掛ける。
服の内側へ収めたとき、冷たい金属が一瞬だけ肌に触れた。
その感触に、シアは遠い日の記憶を思い出しかけたが、階下から聞こえてきた薪のはぜる音に意識を戻した。
今日は仕事がある。
そして、明日は予定通りなら休日になる。
シアは机の上の支出帳を一度だけ見つめ、買い物については仕事が終わってから改めて考えることにした。
◇
《麦穂亭》の厨房へ降りると、オットーが大きな木鉢の中で生地をまとめていた。
窯にはすでに火が入り、厨房の奥には心地よい温かさが広がっている。外の冷え込みが嘘のようだったが、作業台の端に置かれた水差しへ触れると、朝の寒さがまだ残っていることが分かった。
「おはようございます、オットーさん。今日はかなり冷えましたね」
「おう、おはよう。昨日より寒いな。これからは朝の仕込みも、少しずつ冬向けに変えていかんといかん」
オットーは生地を折り返しながら、窯の方へ視線を向けた。
「火を入れる時間も、発酵の様子も変わってくる。今日は昨日と同じ時間で判断しないようにしてくれ」
「はい。生地の状態を見て確認します」
シアは手を洗い、前掛けを身につけてから予約帳を開いた。
昨日、《銀鹿亭》から急な追加注文があったため、今朝はまず宿からの取り置きに変更がないか確認する。騎士団の定期注文がある日ではなかったが、店頭販売分とは別に確保しなければならないパンがいくつかあった。
帳面を見直していると、厨房の入口からマルタが顔を出した。
「おはよう、シア。今日は寒いねえ。二階の部屋は大丈夫だったかい?」
「おはようございます。少し寒かったですけど、大丈夫でした。秋灯草も、窓から離した場所に置いていたので元気そうです」
「それならよかったよ。これからもっと冷えるから、寝具も少し考えないとね」
マルタはそう言ってから、シアの上着へ目を向けた。
「その上着、ずいぶん薄手だね。次のお休みに冬物を見に行くって言ってたけど、上着もちゃんと見ておいで」
「はい。靴下と手袋を先に考えていたんですけど、今朝の寒さで少し迷ってしまって」
「それなら、実際に店で見てから決めればいいさ。値段も厚さも、見なければ分からないからね」
シアは頷いた。
「ありがとうございます。明日のお休みは、予定通りいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん。今日は店の方をお願いするけど、明日はゆっくりしておいで」
「はい。よろしくお願いします」
マルタが店の準備へ戻ると、シアは帳面を閉じて作業台へ向かった。
オットーは生地を一つ持ち上げ、表面を確かめている。
「シア、こっちの生地を見てみろ」
「はい」
シアが近づくと、オットーは指先で生地を軽く押した。
「昨日と同じ配合だが、今日は少し締まっている。触ってみて、どう思う?」
シアは手を清潔にしてから、生地の端へそっと触れた。
「……昨日より、少し弾力が強いように感じます。温度の影響でしょうか」
「それもあるな。今朝は粉も冷えていたから、いつもより少し様子を見る必要がある」
「では、丸めるときも、無理に引っ張らない方がよさそうですね」
「そうだ。生地が落ち着くまで少し待ってから進めよう」
オットーの説明を聞きながら、シアは生地を元の場所へ戻した。
仕事に慣れてきたとはいえ、同じ作業を毎日繰り返せば必ず同じ結果になるわけではない。気温や材料の状態が違えば、必要な対応も変わってくる。
そのことは、最近になって少しずつ実感できるようになっていた。
シアは作業台の端を整え、次の工程に必要な道具を用意した。
窯から漂う香ばしい匂いが強くなり、厨房の中では朝の仕事が本格的に動き始めていた。
◇
開店してしばらくすると、店内には朝の客が増え始めた。
仕事へ向かう職人たちが丸パンを買い、近所の住民が家族の分を選んでいく。寒さのためか、いつもより厚手の外套を着た客が多く、入口の扉が開くたびに冷たい風が店内へ流れ込んだ。
シアはマルタと並んで接客をしながら、注文を一つずつ確かめていた。
「丸パンを四つと黒麦パンを二つですね。ありがとうございます。黒麦パンは少し温かいので、お持ち帰りの際はお気をつけください」
包みを渡し、代金を受け取る。
次の客が棚の前で迷っている間には、空いた場所へパンを補充し、予約分の籠が店頭のものと混ざっていないか確認した。
朝の忙しい時間帯は、以前より落ち着いて対応できるようになっていた。
それでも、入口の鈴が続けて鳴ると、自然と背筋が伸びる。
客を待たせないようにしたい。
注文を間違えたくない。
そんな気持ちは今もあるが、焦って手を動かすより、一つずつ確認する方が結果的に早いと分かってきていた。
そのとき、入口から見覚えのある少年が顔を覗かせた。
「こんにちは!」
靴職人の息子、ニコだった。
今日はいつもより厚手の上着を着ており、首には深緑色の毛糸の襟巻きが巻かれている。
「こんにちは、ニコ君。今日はお買い物ですか?」
「うん! お母さんに丸パンを買ってきてって頼まれたんだ」
ニコは布袋から小さな紙を取り出し、シアへ差し出した。
そこには丸パン五個と書かれている。
「丸パン五個ですね。ありがとうございます」
シアがパンを包み始めると、ニコは棚の上を眺めながら少し残念そうに口を尖らせた。
「今日も林檎のパンはないんだね」
「蜂蜜林檎パンですね。今日は作っていないんです」
「そっかぁ。あれ、また食べたいな」
シアは微笑んだ。
「気に入っていただけて嬉しいです。ただ、まだ試しに作ったパンなので、毎日並べているわけではないんですよ」
「うん、分かってる。でも、また作ったら教えてね!」
「はい。店頭に並ぶことがあれば、お知らせしますね」
ニコは嬉しそうに頷き、代金を支払った。
シアは包みを渡しながら、少年の襟巻きへ目を向けた。
「その襟巻き、とても暖かそうですね」
「これ? お母さんが編んでくれたんだ。去年の冬から使ってるんだよ」
ニコは得意そうに胸を張った。
「ちょっと長いけど、すごく暖かいんだ!」
「そうなんですね。大切に使っているんですね」
「うん! でも、手袋は去年のが小さくなっちゃったから、新しいのを買ってもらうんだ」
少年はそう言って、少し困ったように笑った。
「お父さんは、手が大きくなるのはいいことだって言うけど、まだ使えるのにもったいないよね」
シアはその言葉に小さく頷いた。
「そうですね。でも、手に合わないものを使うと、動かしにくくなることもありますから」
「そうなんだよ。去年のは指がきつくてさ」
ニコは両手を広げ、指を曲げて見せた。
「だから、今度はちゃんと試してから買うんだって」
「それがいいと思います。私も、次のお休みに手袋を見に行く予定なんです」
「えっ、シア姉ちゃんも?」
「はい。寒くなってきたので、冬の準備をしようと思って」
ニコは少し考え、それから真剣な顔で言った。
「じゃあ、指がちゃんと動くやつがいいよ。きついと、パンも持ちにくいと思う!」
思いがけない助言に、シアは笑ってしまった。
「ありがとうございます。ちゃんと確かめてみますね」
ニコは満足そうに頷き、パンの包みを抱えて店を出ていった。
その背中を見送りながら、シアは自分の手へ視線を落とした。
確かに、手袋は暖かければ何でもよいわけではない。
指先が動かしにくければ、荷物を持つときに困るだろう。大きすぎればずれてしまうし、小さすぎれば長く使えない。
(……見た目だけでなく、実際に使うことを考えて選ばないといけませんね)
シアはそう考えながら、次の客を迎えた。
◇
昼前の忙しさが落ち着いた頃、シアは厨房の隅で納品記録を確認していた。
窓の外では雲がゆっくりと流れ、通りを歩く人々の影が石畳へ伸びている。店内からはマルタの接客する声が聞こえ、ときおり入口の鈴が小さく鳴った。
帳面を閉じたところで、オットーが声をかけた。
「シア、少しいいか」
「はい。どうしましたか?」
オットーは作業台の端に置いていた布袋を持ち上げた。
「明日の休みの前に、少し頼みたいことがある。急ぎじゃないんだが、今日のうちに確認しておきたくてな」
「はい。私にできることでしたら」
シアが答えると、オットーは布袋の中から厚手の布を取り出した。
それは厨房で使う大きな布巾だった。
何度も洗って使っているため、端の一部がほつれ、縫い目が緩んでいる。
「これなんだが、端が少し傷んできてな。まだ使えるから、できれば繕っておきたいんだ」
シアは布を受け取り、傷んでいる部分を確かめた。
生地そのものはしっかりしている。
端の縫い目を直せば、もうしばらく使えそうだった。
「この部分なら、縫い直せば大丈夫だと思います。ただ、布が薄くなっているところもあるので、少し補強した方が長持ちするかもしれません」
「そうか。なら、頼めるか?」
「はい。今日の仕事が終わる前に、時間を見て直します」
シアが答えると、オットーは頷いた。
「助かる。無理に急がなくていいからな」
「ありがとうございます。ほかの仕事が落ち着いてから進めます」
シアは布巾を清潔な場所へ置き、針仕事の道具を用意する時間を考えた。
裁縫は、シアにとって慣れ親しんだ仕事だった。
伯爵家にいた頃は、衣服の繕いや装飾を任されることが多かった。細かな針仕事を長時間続けることもあり、仕上がりが少しでも気に入られなければ、最初からやり直すよう命じられることもあった。
けれど、今は違う。
オットーは、使えるものを長く使いたいから繕ってほしいと頼んでいる。
完璧な装飾を求めているわけでも、失敗を責めるために仕事を渡しているわけでもない。
シアは布巾を見つめ、少しだけ微笑んだ。
(……こういう仕事なら、私にもお役に立てますね)
そう思ってから、ふと考え直した。
役に立てることは嬉しい。
けれど、役に立たなければここにいてはいけないわけではない。
シアはその違いを、以前よりも自然に受け止められるようになっていた。
◇
午後の仕事が落ち着いた頃、シアは厨房の隅にある小さな机へ向かった。
布巾を広げ、傷んでいる部分をもう一度確かめる。
端の縫い目が緩んでいるところは、糸をほどいて縫い直す必要があった。薄くなっている部分には、同じような厚さの布を当てて補強した方がよさそうだった。
シアはオットーへ確認し、使ってもよい端切れを受け取った。
「この布なら、厚さも近いと思います。少し切って使ってもよろしいでしょうか」
「ああ。余ってるものだから構わん」
「ありがとうございます。では、傷んでいるところに合わせて切りますね」
シアは布を重ね、必要な大きさを確かめてから鋏を入れた。
針へ糸を通し、端を折り込んで縫い始める。
作業は静かだった。
厨房ではオットーが翌日の仕込みについて考えながら帳面を確認しており、店の方からはマルタの声が聞こえている。
シアは針を動かしながら、布の張り具合を確かめた。
強く引きすぎれば生地が縮み、緩すぎればすぐにほつれてしまう。
適度な力で糸を通し、縫い目を揃えていく。
それは、何度も繰り返してきた作業だった。
けれど、今は不思議と気持ちが落ち着いていた。
以前のように、誰かの評価を恐れながら針を動かしているわけではない。
使う人のことを考え、必要なところを丈夫にする。
ただ、それだけだった。
しばらくして、マルタが厨房へ顔を出した。
「あら、シア。何をしてるんだい?」
「オットーさんに頼まれて、布巾を繕っています。端が少し傷んでいたので、補強しているところです」
マルタは机へ近づき、縫い目を覗き込んだ。
「まあ、綺麗に縫うねえ。これなら、まだしばらく使えそうだよ」
「ありがとうございます。もう少しで終わります」
「急がなくていいよ。今日は店の方も落ち着いてるからね」
シアは頷き、残りの部分を丁寧に縫い進めた。
最後の糸を留め、余分な部分を切り取る。
布を広げて確認すると、傷んでいた端はしっかりと補強されていた。
「できました」
シアは布巾を持ち上げ、オットーへ見せた。
オットーは縫い目を確かめ、少し驚いたように眉を上げた。
「おお、ずいぶん綺麗になったな。これなら、まだ使える」
「はい。生地が薄くなっている部分も補強しました。ただ、ほかのところも少しずつ傷んできているので、次に大きく破れたら、新しいものへ替えた方がいいかもしれません」
「そうだな。無理に使い続けて、仕事中に破れたら困るからな」
オットーは頷き、布巾を受け取った。
「助かった。ありがとう」
シアは微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。慣れている仕事なので、頼んでいただけて嬉しかったです」
オットーは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そうか。なら、また何かあったら相談するかもしれん」
「はい。時間があるときでしたら、喜んで」
そう答えてから、シアは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
自分の得意なことを、誰かが必要としてくれる。
それは嬉しいことだった。
けれど、以前のように、何でも引き受けなければならないとは思わなかった。
できるときに、できることをする。
難しいときには、相談する。
その関係が、今のシアには心地よかった。
◇
仕事を終えたあと、シアは自室へ戻る前に、マルタへ声をかけた。
「マルタさん、明日のお休みのことなんですけど、朝から買い物へ出かけてもよろしいでしょうか?」
「もちろんいいよ。休みなんだから、好きな時間に出かけておいで」
「ありがとうございます。中央広場の北側にある衣料品店と、市場のお店を見てみようと思っています」
マルタは頷いた。
「それなら、先に衣料品店へ行くといいかもしれないね。市場は昼前の方が人が増えるから、落ち着いて見たいなら早い時間がいいだろうし」
「分かりました。まずは衣料品店へ行って、それから市場を見てみます」
シアは少し考えてから続けた。
「それから、もしよろしければ、冬物を選ぶときに気をつけた方がいいことを教えていただけませんか?」
マルタは嬉しそうに微笑んだ。
「いいよ。何が気になるんだい?」
「手袋は、指が動かしやすいものを選んだ方がいいと聞きました。靴下は厚さだけでなく、履き心地も確かめた方がいいでしょうか?」
「そうだね。靴下は厚すぎると靴がきつくなることもあるから、普段履いている靴に合うものがいいよ。手袋も、指先が余りすぎないものを選ぶと使いやすいね」
シアは真剣に頷いた。
「ありがとうございます。上着は、どんなところを見ればいいでしょうか」
「まずは肩と袖の長さだね。厚手の服を下に着ることも考えて、少し余裕がある方がいいよ。ただ、大きすぎると動きにくいから、できれば試着させてもらうといいね」
「はい。お店の方にお願いしてみます」
マルタは少し考え、付け加えた。
「それと、値段だけで決めないことだね。安くてもすぐに傷んだら困るし、高いから必ずいいとも限らない。自分がどんなときに着るのか、考えて選ぶといいよ」
その言葉に、シアは静かに頷いた。
伯爵家にいた頃、衣服は家の体面を示すものでもあった。
高価な布や装飾を使い、周囲からどう見られるかを考えることが求められていた。
けれど今は、違う。
仕事へ向かうときに着るもの。
休日に街を歩くときに着るもの。
寒い日にも身体を守ってくれるもの。
そのために必要な条件を、自分で考えていい。
「……ありがとうございます。明日、よく見てから決めます」
シアがそう言うと、マルタは穏やかに笑った。
「うん。買わずに帰ってきたって構わないんだからね。納得できるものを選んでおいで」
その言葉に、シアは少し驚いた。
「買わずに、帰ってきても……ですか?」
「そうだよ。見に行ったからって、必ず買わなきゃいけないわけじゃないだろう?」
マルタは当たり前のことのように答えた。
「値段が合わなかったり、気に入るものがなかったりしたら、別の日に探せばいいさ。急いで必要なものなら別だけど、そうじゃないなら、無理に決めることはないよ」
シアはその言葉を、ゆっくりと受け止めた。
店へ行く。
品物を見る。
買うかどうかを考える。
そして、買わないという選択をする。
それも、自分で決めることなのだ。
「……そうですね」
シアは微笑んだ。
「ありがとうございます。明日は、焦らずに見てきます」
◇
夕食の時間になると、シアはマルタとオットーと一緒に食卓を囲んだ。
温かな煮込み料理とパンが並び、窓の外では夕暮れの街に明かりがともり始めている。
オットーは今日の仕込みについて話し、マルタは明日の店の予定を確認していた。
シアも必要なところで答えながら、温かな料理を口へ運んだ。
「そういえば、シア。明日は冬物を見に行くんだったな」
オットーがそう言うと、シアは顔を上げた。
「はい。まずは靴下と手袋を見て、それから上着も確かめてこようと思っています」
「それなら、上着は丈夫なものを選べよ。見た目が綺麗でも、縫い目が弱いとすぐに傷むからな」
「はい。今日、布巾を繕いながら、長く使えるものを選びたいと思っていたところです」
オットーは頷いた。
「そうか。まあ、シアなら縫い目の良し悪しは分かるだろう」
「ありがとうございます。でも、冬物の上着はあまり自分で買ったことがないので、実際に見て確かめたいです」
マルタは微笑んだ。
「それがいいね。手袋も上着も、大きさが大事だからね」
シアは頷き、少し考えてから続けた。
「それから、今日はニコ君が来てくれたんですけど、去年の手袋が小さくなってしまったそうなんです」
「ああ、あの子も大きくなってきたからねえ」
マルタは懐かしそうに笑った。
「最初に店へ来た頃は、棚の上のパンを見るのにも背伸びしていたのに、今じゃ一人で買い物に来るんだから」
「はい。今日は、お母さんに頼まれた丸パンを五つ買っていかれました」
シアは微笑んだ。
「それから、手袋は指がちゃんと動くものがいいと教えてくれたんです」
オットーは思わず笑った。
「なるほど。靴職人の息子らしい助言だな」
「そうですね。私も、ちゃんと試してから選ぼうと思いました」
三人の間に穏やかな笑いが広がった。
シアはその空気を心地よく感じながら、温かなスープを飲んだ。
仕事の話だけではない。
街で出会った人のことや、明日の買い物のことも、自然に話せる。
それが、今のシアには嬉しかった。
◇
夕食後、シアは自室へ戻った。
窓の外はすっかり暗くなり、通りには家々の明かりがともっている。遠くからは荷馬車の音が聞こえ、冷たい夜風が窓枠をかすかに鳴らしていた。
シアはまず、秋灯草の鉢を窓から離した場所へ移した。
土の表面を確かめると、まだ湿り気が残っている。
今日は水を足さず、受け皿の状態だけを確認した。
「今日も元気そうですね」
小さく声をかけると、淡い黄色の花が灯りを受けて柔らかく見えた。
シアは椅子へ腰を下ろし、支出帳を開いた。
明日の買い物に使える金額を考えるため、これまでの支出を見直していく。
給金を受け取るたびに少しずつ残してきたお金がある。
必要な日用品を買い、図書館を利用し、秋灯草を迎えたあとでも、すぐに困るような状態ではなかった。
けれど、だからといって、何でも買ってよいわけではない。
冬はこれからだ。
寒さが厳しくなれば、ほかにも必要なものが出てくるかもしれない。
シアは帳面の余白へ、明日の予定を書き込んだ。
『靴下――厚さと履き心地を確認する』
『手袋――指が動かしやすいものを選ぶ』
『上着――値段、厚さ、縫い目、着心地を確かめる』
書き終えてから、シアは少しだけ考えた。
そして、その下へもう一行付け加えた。
『納得できなければ、買わなくてもよい』
その文字を見つめているうちに、胸の奥が少し軽くなった。
以前の自分なら、店へ行って品物を見せてもらった以上、何かを買わなければ申し訳ないと思ったかもしれない。
相手の時間を使わせたのだから、期待に応えなければならない。
そんな考え方が、長い間当たり前になっていた。
けれど、マルタは違うと言ってくれた。
見に行ったからといって、必ず買わなければならないわけではない。
気に入るものがなければ、別の日に探してもいい。
その当たり前のことが、シアにはまだ少し新鮮だった。
(……明日は、ちゃんと自分で考えて決めよう)
シアは帳面を閉じ、机の上に置いた『街の小さな庭と季節の花』を手に取った。
頁を開くと、冬の鉢植えの管理について書かれている。
寒い季節には、植物の様子をよく見て、水の量や置き場所を調整することが大切だという。
シアは文章を読みながら、机の端に置いた秋灯草へ目を向けた。
この花も、自分で選んだものだった。
買う前に育て方を聞き、部屋へ置けるか確かめ、値段を考えてから迎えた。
今は毎日、様子を見ながら世話をしている。
それと同じように、自分の暮らしに必要なものも、少しずつ選んでいけばいい。
シアは本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の街は静かで、遠くに見える屋根の向こうには、雲の切れ間から星が覗いている。
この街へ来たばかりの頃、シアは明日のことを考えるだけで不安になっていた。
働く場所が見つかるかどうか。
住む場所を確保できるかどうか。
自分の名前を隠したまま、暮らしていけるかどうか。
そんなことばかり考えていた。
今でも、すべての不安が消えたわけではない。
遠い場所に置いてきた過去が、いつか追いかけてくるかもしれないという気持ちは、心の奥に残っている。
けれど、今夜のシアは、その不安だけを見つめてはいなかった。
明日は、どんな手袋が見つかるだろうか。
厚手の靴下は、どんなものが履きやすいだろうか。
冬用の上着は、どれくらいの値段がするのだろうか。
そんなことを考えられるようになっていた。
シアは机の端に置いた秋灯草へ微笑みかけた。
「……明日も、よろしくお願いします」
それから本を棚へ戻し、寝台へ向かった。
部屋には、いつもの家具と、読みかけの本と、自分で選んだ小さな鉢植えがある。
そして机の上には、明日の買い物のために書いた予定が残っていた。
シアはその光景を最後に確かめ、灯りを落とした。
明日は休日だ。
誰かに命じられた仕事をするためではなく、自分の暮らしに必要なものを、自分の目で確かめに行く。
そのことを楽しみにしながら、シアは静かに目を閉じた。




