第45話 冬の上着と、思いがけない再会
休日の朝、シアは階下から聞こえる物音で目を覚ました。
まだ夜明けからそれほど時間が経っていないらしく、窓の外には淡い灰色の空が広がっている。通りを行く荷馬車の車輪が石畳を転がる音に混じって、遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
いつもの時間に起きてしまったことに気づき、シアは寝台の上で小さく笑った。今日は仕事を休んでよい日なのだから、もう少し眠っていても誰にも叱られない。それでも、身体が覚えた生活の習慣は、そう簡単には変わらないらしい。
(せっかくのお休みですし、朝の時間もゆっくり使いましょう)
寝台から降りると、足元に冷たい空気が触れた。
昨夜から続いている冷え込みは、今朝もまだ残っているようだった。シアは肩へ上着を掛け、机の端に置いてある秋灯草の様子を確かめる。
淡い黄色の花は、薄暗い部屋の中でも小さな明かりのように見えた。葉に傷んだところはなく、土の表面には昨日の湿り気が少し残っている。
「おはようございます。今日は、お買い物へ行ってきますね」
小さく挨拶をしてから、シアは窓の外を見た。
雲はあるものの、雨が降りそうな空ではない。日が昇れば、街を歩くにはちょうどよい天気になるかもしれなかった。
机の上には、昨夜用意した支出帳が置かれている。
厚手の靴下、手袋、冬用の上着。
必要なものを見て、値段を確かめ、納得できるものがあれば買う。そう決めていたが、実際に買い物へ出かける朝になると、少しだけ緊張していた。
店の人に何を尋ねればよいのだろう。
品物を手に取って、買わずに戻しても失礼にはならないだろうか。
昨日マルタから、買わずに帰ってきても構わないと言われている。それでも、長い間身についた遠慮が、完全になくなったわけではなかった。
シアは支出帳を開き、最後に書き足した一行を読み返した。
『納得できなければ、買わなくてもよい』
(……そうですね。今日は、何が必要なのかを確かめに行く日でもあるんですから)
その言葉を胸の中で繰り返し、シアは帳面を閉じた。
着替えを済ませ、髪を丁寧にまとめる。
仕事の日とは違い、今日は少しゆっくりと身支度を整えられる。秋穫祭で自分のために買った櫛を使うと、髪が滑らかにまとまり、鏡の中の自分がいつもより少しだけ明るい表情をしているように見えた。
最後に母の形見である銀のペンダントを首へ掛け、服の内側へ収める。
財布と小さな布袋を確かめたところで、シアはふと手を止めた。
今日は何かを買って帰るかもしれない。
ならば、荷物を入れるための袋をもう一つ持っていった方がよいだろう。
シアは棚から折り畳んだ布袋を取り出し、手に持っていたものと一緒にまとめた。
こうした小さな準備も、今では自然にできるようになっている。
誰かの指示を待つのではなく、今日の自分に必要なことを考える。
シアは部屋の扉を開け、階段を降りていった。
◇
厨房へ顔を出すと、オットーが朝の仕込みを進めていた。
窯には火が入り、焼きたてのパンの香りが漂い始めている。いつもならシアも前掛けをつけて作業に加わるところだったが、今日は休日だ。
「おはようございます、オットーさん」
「おう、おはよう。今日は休みなんだから、仕事のことは気にせず出かけてこいよ」
シアが挨拶すると、オットーは生地をまとめながら笑った。
「はい。今日は冬物を見に行こうと思っています」
「そうだったな。朝は冷えたから、ちょうどいいだろう」
オットーは窯の方へ視線を向け、少し考えてから続けた。
「朝飯はマルタが用意してるはずだ。食べてから行けよ。空腹で歩き回ると疲れるからな」
「ありがとうございます。そうします」
シアは微笑み、厨房を出た。
食堂へ向かうと、マルタが温かなスープを器へ注いでいるところだった。
「あら、シア。おはよう。今日は早いんだね」
「おはようございます。いつもの時間に目が覚めてしまって」
「そうかい。まあ、早く起きたなら、その分ゆっくり朝ご飯を食べればいいさ」
マルタは笑い、シアの前へスープとパンを置いた。
湯気の立つ器からは、野菜の甘い香りが漂っている。シアは礼を言って椅子へ腰を下ろし、温かなスープを一口飲んだ。
身体の内側から、少しずつ冷えがほどけていく。
「今日は中央広場の北側から回るんだったね」
「はい。まず衣料品店へ行って、それから市場も見てみようと思っています」
シアが答えると、マルタは頷いた。
「それなら、北側の通りにある《針と糸の店》を覗いてみるといいよ。衣服の仕立て直しもしている店だから、縫い目のしっかりした品物が多いはずだ」
「《針と糸の店》ですね。覚えておきます」
「ただし、品物によっては少し高いかもしれないね。市場の方が安いものもあるから、比べてみるといいよ」
「はい。今日は、いくつかのお店を見てから決めたいです」
マルタは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。それがいいね。もし気に入るものがなかったら、無理に買わなくてもいいんだから」
「ありがとうございます。昨日のお話も、覚えています」
シアはそう答え、パンを小さくちぎった。
食事を終える頃には、窓の外もだいぶ明るくなっていた。
マルタは店の準備へ戻る前に、シアへ声をかけた。
「帰りは暗くなる前に戻っておいで。急ぐ必要はないけど、日が短くなっているからね」
「はい。遅くならないようにします」
シアは食器を片づけ、二人へ挨拶してから店を出た。
外へ出ると、冷たい空気が頬へ触れた。
それでも、空には明るい雲が広がり、通りには朝の活気が満ちている。
シアは上着の前を軽く合わせ、中央広場へ向かって歩き始めた。
◇
中央広場には、すでに多くの人が行き交っていた。
市場へ荷物を運ぶ商人、仕事へ向かう職人、買い物を楽しむ家族連れ。噴水の近くでは子どもたちが追いかけっこをしており、広場の端では温かな飲み物を売る屋台から湯気が上がっている。
シアは人の流れを避けながら、北側の通りへ向かった。
この街へ来たばかりの頃は、中央広場の広さにも、人の多さにも圧倒されていた。どこへ向かえばよいのか分からず、通りの名前を確かめるだけでも緊張していたことを思い出す。
今は、少しずつ道を覚えている。
《麦穂亭》から中央広場までの道。
図書館へ向かう道。
ミレイユと歩いた南の川沿いへ続く道。
そして今日は、まだあまり歩いたことのない北側の通りへ向かう。
(……この街にも、知らない場所がたくさんありますね)
シアは周囲の店を眺めながら歩いた。
布地を扱う店、革製品を並べた店、帽子や襟巻きを売る小さな露店。どの店先にも冬へ向けた品物が増えており、厚手の布や毛糸の色が通りを賑やかにしていた。
しばらく進むと、木製の看板に針と糸巻きの絵が描かれた店が見えてきた。
看板の下には《針と糸の店》と書かれている。
シアは入口の前で一度立ち止まり、店内を覗いた。
窓際には手袋や靴下が並び、奥の棚には上着や外套が掛けられている。店の中には数人の客がいたが、混み合っているほどではなかった。
シアは小さく息を整え、扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、四十代ほどの女性だった。
栗色の髪を後ろでまとめ、首には柔らかな灰色の襟巻きを巻いている。落ち着いた表情の女性は、シアの姿を見ると穏やかに微笑んだ。
「何かお探しですか?」
「こんにちは。冬に使う靴下と手袋を探しているんです。それから、上着も少し見せていただけたらと思いまして」
「もちろんです。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
女性はそう答え、窓際の棚を示した。
「靴下と手袋はこちらです。上着は奥にございますので、気になるものがあればお声をかけてくださいね」
「ありがとうございます」
シアは礼を言い、棚へ近づいた。
靴下は厚さや色によって分けられており、手袋も布製のものから革製のものまで、いくつかの種類が並んでいる。
まず、靴下を手に取ってみた。
柔らかな毛糸で編まれたものは温かそうだったが、少し厚みがある。今履いている靴に合わせると、窮屈になるかもしれない。
隣には、少し薄手だが目の詰まった靴下があった。
こちらなら、普段の靴にも合わせやすそうだった。
シアは二つを見比べ、縫い目や編み目を確かめた。
どちらも丁寧に作られている。
ただ、用途が違うのだろう。
しばらく考えていると、店主が近づいてきた。
「普段履きのものをお探しですか?」
「はい。仕事の日にも使いたいので、厚すぎないものがいいと思っているんです」
「それでしたら、こちらの方がよいかもしれませんね。厚手のものはとても温かいのですが、靴によっては少し窮屈になりますから」
店主は、シアが手にしていた薄手の方を示した。
「こちらは編み目を詰めてありますので、見た目より温かいですよ。洗っても形が崩れにくいように作っています」
「そうなんですね。触ってみてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
シアは生地を指先で確かめた。
柔らかさはあるが、伸ばしてみても編み目が大きく開くことはない。
履き口の部分もしっかりしており、長く使えそうだった。
「こちらは、おいくらでしょうか?」
店主が値段を伝えると、シアは頭の中で支出帳の数字と照らし合わせた。
安い買い物ではない。
けれど、今の予算で無理なく買える範囲だった。
「ありがとうございます。もう少しほかのものも見てから、決めてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。ご納得いただけるものをお選びください」
店主は穏やかに答え、別の客の対応へ戻っていった。
シアはその背中を見送り、少しだけ肩の力を抜いた。
品物を見せてもらったあとでも、すぐに買う必要はない。
分かっていたはずのことを、実際に確かめられた気がした。
◇
靴下を見終えたシアは、次に手袋の棚へ向かった。
布製の手袋は柔らかく、色も落ち着いたものが多い。革製のものは丈夫そうだったが、値段が少し高く、普段の買い物や散歩に使うには大げさかもしれなかった。
シアは灰色の布手袋を手に取り、縫い目を確かめた。
指先の部分まで丁寧に縫われており、生地も厚すぎない。
試しに手を入れてみると、指先に少し余裕があった。
大きすぎるほどではないが、荷物を持つときには少し気になるかもしれない。
(ニコ君も、指が動かしやすいものがいいと言っていましたね)
昨日の少年の助言を思い出し、シアは手袋を外した。
隣には、少し小さめの茶色い手袋がある。
こちらを試してみると、指先がちょうどよく収まり、手を開いたり閉じたりしても生地が引っ張られなかった。
シアは両手を動かし、軽く握ってみた。
違和感はない。
布の内側も柔らかく、冷たい風を防いでくれそうだった。
「こちらの方が、使いやすそうですね……」
小さく呟いたところで、店主が戻ってきた。
「そちらは、普段使いに選ばれる方が多いですよ。指先が動かしやすいので、買い物のときにも便利です」
「そうなんですね。大きさも、こちらの方が合っているように感じます」
「よろしければ、両手とも試してみてください。片方だけだと、気づかないこともありますから」
「ありがとうございます」
シアはもう片方の手袋もつけ、両手を開いたり閉じたりした。
確かに、片手だけのときよりも使い心地がよく分かる。
指先に余分な布がたまらず、手首の部分もきつすぎない。
これなら、外を歩くときにも使いやすそうだった。
「……こちらも、候補にしたいです」
シアがそう言うと、店主は微笑んだ。
「ありがとうございます。ほかのものと比べていただいて構いませんよ」
シアは礼を言い、手袋を丁寧に棚へ戻した。
その後、店の奥にある上着の並んだ場所へ向かった。
厚手の外套や短い上着が、色ごとに分けて掛けられている。
濃い茶色、灰色、深い緑色。
どれも派手な装飾はなく、日常の暮らしで使いやすそうなものばかりだった。
シアは一着ずつ見ながら、生地の厚さや縫い目を確かめた。
ある上着はとても温かそうだったが、少し重い。
別のものは軽くて動きやすそうだったものの、風の強い日には寒いかもしれない。
さらに奥には、落ち着いた青灰色の上着が掛けられていた。
シアはその色に目を留めた。
華やかではない。
けれど、柔らかく落ち着いた色合いで、普段の服にも合わせやすそうだった。
生地へ触れると、厚みはあるが重すぎない。
袖口の縫い目も丁寧で、内側には柔らかな布が使われている。
(……これなら、寒い日にも使いやすそう)
シアはしばらく眺めてから、店主へ声をかけた。
「すみません。こちらの上着を、試着させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。大きさを確かめましょうか」
店主は上着を取り、シアへ渡した。
シアは礼を言い、今着ている上着を脱いでから袖を通した。
肩の位置はちょうどよい。
袖も長すぎず、手を動かしても引っ張られる感じはなかった。
ただ、前を合わせると、少しだけ胸元に余裕がある。
「厚手の服を下に着ることも考えると、そのくらい余裕があった方がよいと思いますよ」
店主が説明した。
「冬は重ね着をすることも多いですからね。ぴったりすぎると、かえって動きにくくなります」
「そうなんですね……」
シアは鏡の前に立ち、上着の裾を確かめた。
落ち着いた青灰色は、思っていたよりも自分に馴染んでいる。
仕事着の上から羽織っても違和感はなさそうだった。
ただし、値段は決して安くなかった。
店主から金額を聞いたシアは、すぐに返事をせず、少し考えた。
今の手持ちで買えないわけではない。
しかし、靴下と手袋も買うことを考えると、今後のために残しておきたいお金が減ってしまう。
上着は必要だ。
けれど、今日必ず買わなければならないほど、今のものが傷んでいるわけではない。
シアは鏡の中の自分を見つめた。
(……気に入ったからといって、今すぐ買わなくてもいいんですよね)
そう考えると、少し気持ちが落ち着いた。
シアは店主へ向き直った。
「とても素敵な上着ですね。着心地もよかったです。ただ、少し予算を考えたいので、今日はすぐに決めずにおいてもよろしいでしょうか?」
店主は穏やかに頷いた。
「もちろんです。冬物は長く使うものですから、よく考えてお選びください」
「ありがとうございます」
シアは上着を脱ぎ、丁寧に返した。
そのとき、店主が少し考えてから口を開いた。
「もしよろしければ、こちらもご覧になりますか?」
そう言って示したのは、少し奥の棚に掛けられた別の上着だった。
色は深い茶色で、先ほどのものより装飾が少ない。
生地はしっかりしているが、内側の布はやや薄いようだった。
「こちらは少し前の仕立てなので、今並んでいるものよりお値段を抑えています。丈夫さは十分ありますが、先ほどのものほど軽くはありません」
シアは上着を手に取り、縫い目を確かめた。
確かに、丁寧に作られている。
ただ、袖を通してみると、肩の部分が少し窮屈だった。
動けないほどではないが、長時間着ると疲れるかもしれない。
「……こちらは、少し肩がきついように感じます」
シアが正直に伝えると、店主は頷いた。
「そうですね。無理に着ると、腕を動かしにくくなるかもしれません」
「では、こちらはやめておきます」
シアは上着を脱ぎ、棚へ戻した。
店主は嫌な顔をせず、むしろ納得したように微笑んだ。
「ご自分に合うものを選ぶのが一番ですよ」
その言葉に、シアは小さく礼を言った。
品物を見せてもらったからといって、買わなければならないわけではない。
そのことを、今度は自分の言葉で伝えられた。
◇
《針と糸の店》を出たシアは、中央広場へ戻る途中で小さな市場へ立ち寄った。
市場には、衣料品店よりも手頃な値段の靴下や手袋が並んでいる。
色や形はさまざまで、店主たちの呼び声が通りを賑やかにしていた。
シアは一軒ずつ品物を見ながら、先ほどの店で確かめたものと比べていく。
ある店では、厚手の靴下が安く売られていた。
けれど、編み目を確かめると、少し緩い部分がある。
別の店では、丈夫そうな手袋が並んでいたが、試してみると指先が少し窮屈だった。
値段だけなら、どちらも魅力的だった。
しかし、長く使うことを考えると、最初に見た品物の方がよさそうに思えた。
(……安いものを選ぶことと、無駄なく使えるものを選ぶことは、同じではないんですね)
シアはそう考えながら、通りの端へ移動した。
市場の中央では、果物を売る声が聞こえている。
見覚えのある赤い布を掛けた屋台を見つけ、シアは自然と足を向けた。
「ローザさん、こんにちは」
声をかけると、果物商のローザが顔を上げた。
「あら、シアちゃん! 今日はお休みかい?」
「はい。冬物の買い物に来たんです」
「そうかい。今日は寒いから、ちょうどいいね」
ローザは笑いながら、籠に並べた林檎を整えた。
「手袋かい? それとも上着?」
「靴下と手袋を探しています。上着も見てみたんですけど、少し考えてから決めようと思って」
「それがいいよ。冬物は長く使うからね」
ローザは頷き、シアの手元にある布袋へ目を向けた。
「まだ何も買ってないのかい?」
「はい。いくつかのお店を見て、比べているところです」
「へえ、しっかりしてるじゃないか」
ローザは感心したように笑った。
「そういえば、秋灯草は元気にしてるかい?」
「はい。毎朝、土の状態を確かめています。夜は窓から離した場所に置くようにしているので、今のところ元気そうです」
「それならよかった。あの花は、寒さが強くなる前に気をつけてやれば、しばらく楽しめるからね」
シアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。花屋さんにも、様子を見ながら育てるように教えていただきました」
ローザはしばらくシアを見つめ、それから少し声を和らげた。
「シアちゃん、最近は楽しそうだね」
思いがけない言葉に、シアは目を瞬かせた。
「……そうでしょうか?」
「うん。前に会ったときより、ずいぶん表情が明るくなった気がするよ」
ローザは林檎を一つ手に取り、傷がないか確かめながら続けた。
「もちろん、仕事で疲れる日もあるだろうけどね。自分の好きなものの話をするとき、顔が違うんだよ」
シアは少し照れくさくなり、視線を下げた。
「……ありがとうございます。まだ、慣れないことも多いんですけど」
「それでいいんだよ。全部に慣れる必要なんてないさ」
ローザはそう言って、林檎を籠へ戻した。
「そうだ。今日は何か買っていくかい? 小ぶりだけど甘い林檎が入ってるよ」
シアは少し考えた。
今朝は十分に食事をしてきたし、帰れば夕食もある。
けれど、休日の楽しみとして林檎を一つ買うのも悪くないと思った。
「では、一ついただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。どれがいい?」
ローザは籠をシアの方へ寄せた。
シアは並んでいる林檎を見比べ、赤みの強いものを一つ選んだ。
「こちらをお願いします」
「はいよ。いいのを選んだね」
ローザは林檎を布で軽く拭き、シアへ渡した。
シアは代金を支払い、布袋へ丁寧に収めた。
「ありがとうございます。帰ってからいただきますね」
「うん。気をつけて帰るんだよ」
シアは礼を言い、屋台を離れた。
手元の布袋には、小さな林檎が一つ入っている。
冬物を買うために出かけたはずなのに、先に買ったのは林檎だった。
そのことが少しおかしくて、シアは歩きながら微笑んだ。
◇
市場を一通り見終えたシアは、再び《針と糸の店》へ戻ることにした。
靴下も手袋も、最初に見たものが一番使いやすそうだった。
値段は市場の品物より少し高いが、長く使うことを考えれば、納得できる範囲だった。
店へ戻ると、先ほどの店主がシアの姿に気づいて微笑んだ。
「お帰りなさい。ほかのお店もご覧になりましたか?」
「はい。市場も見てきたんですけど、こちらの靴下と手袋が一番使いやすそうだと思いました」
シアは窓際の棚へ向かい、先ほど確かめた品物を手に取った。
厚すぎない靴下。
指先が動かしやすい茶色の手袋。
どちらも、普段の暮らしで使うことを考えて選んだものだった。
「こちらの二つをいただきたいです」
「ありがとうございます。よろしければ、もう一度大きさを確かめますか?」
「はい。お願いします」
シアは靴下の大きさを確認し、手袋も両手にはめてみた。
指を曲げ伸ばししても、窮屈なところはない。
手首の部分もしっかりしており、外を歩くときにずれにくそうだった。
「大丈夫そうです。こちらにします」
シアがそう言うと、店主は品物を丁寧に包み始めた。
「上着の方は、いかがなさいますか?」
その問いに、シアは少し考えてから答えた。
「青灰色の上着が、とても気に入りました。ただ、今の上着もまだ使えますので、今日は買わずに、もう少しお金を貯めてから考えたいと思います」
店主は穏やかに頷いた。
「承知しました。あちらは冬の間も扱う予定ですが、同じ大きさのものが残っているかは分かりませんので、その点だけご了承ください」
「はい。ありがとうございます」
シアは包みを受け取り、代金を支払った。
店主は最後に、小さく頭を下げた。
「よいお買い物になったなら、嬉しいです。また何か必要になりましたら、いつでもお越しください」
「ありがとうございます。大切に使います」
シアは微笑み、店を出た。
外へ出ると、昼過ぎの光が通りへ差し込んでいた。
朝よりも空気は少し暖かくなり、行き交う人々の足取りも軽く見える。
シアは布袋の中に入った包みを確かめた。
自分で選んだ靴下と手袋。
そして、買わないと決めた上着。
どちらの判断にも、後悔はなかった。
気に入ったものを買えたことも嬉しい。
けれど、気に入ったからといって、無理に買わずに済んだことも嬉しかった。
(……必要なものを、ちゃんと考えて選べました)
シアはそう思いながら、中央広場へ向かって歩き始めた。
◇
中央広場へ戻る途中、シアは思いがけない人物と出会った。
広場の端で、数人の騎士が荷馬車の通行を確認している。
その中に、見覚えのある赤茶色の髪があった。
「……ミレイユさん?」
シアが小さく呟くと、相手もこちらへ気づいたらしい。
女性騎士ミレイユ・クローデルは、同僚へ一言声をかけてから、シアの方へ歩いてきた。
「シア! こんにちは。今日はお休み?」
「はい。冬物の買い物に来たんです。ミレイユさんは、お仕事中でしょうか?」
「そうなの。今日は中央広場の通行整理を手伝っているのよ。冬に向けた荷物の搬入が増えているから、少し混み合っていてね」
ミレイユはそう言いながら、広場の端に停まっている荷馬車へ目を向けた。
確かに、いつもより大きな荷物を積んだ馬車が多い。
木箱や布袋を積んだ車が順番に通り、騎士たちが人の流れを妨げないよう声をかけている。
「そうなんですね。お忙しいところ、お声をかけてしまってすみません」
シアが言うと、ミレイユは首を横に振った。
「大丈夫よ。今は交代の時間だから、少しなら話せるわ」
そう言ってから、ミレイユはシアの手元にある布袋へ視線を向けた。
「何か買えた?」
「はい。靴下と手袋を買いました。上着も見たんですけど、今日は買わずに、もう少し考えることにしたんです」
「そうなんだ。気に入るものはあったの?」
「はい。青灰色の上着が、とても素敵だったんです。でも、今の上着もまだ使えますし、少し値段が高かったので」
シアは少し照れくさそうに微笑んだ。
「今すぐ必要というわけではないので、もう少しお金を貯めてから考えようと思います」
ミレイユは感心したように頷いた。
「ちゃんと考えてるのね。私は気に入るものを見つけると、つい欲しくなっちゃうことがあるから、見習わないと」
「そんなこと……。私も、少し迷いました」
シアは正直に答えた。
「でも、買わないという選択もできるんだと思ったら、少し気持ちが楽になったんです」
ミレイユはその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。
「うん。それは大事なことだと思うわ」
二人は広場の端へ少し移動し、通行の邪魔にならない場所で話を続けた。
ミレイユは仕事中のため、長く話すことはできない。
それでも、久しぶりに友人の顔を見られたことが、シアには嬉しかった。
「そういえば、シア。前に話していた図書館のことなんだけど」
ミレイユがそう切り出すと、シアは顔を上げた。
「はい。ご一緒したいとお話ししていましたね」
「ええ。まだ日を決められていなかったでしょう? 私の次の休みが分かったら、連絡しようと思っていたの」
ミレイユは少し申し訳なさそうに笑った。
「最近は冬支度の関係で勤務が変わることもあるから、なかなか予定が決まらなくて」
「いえ。お仕事がお忙しいのは分かっていますから、気になさらないでください」
シアは微笑んだ。
「私も、図書館へ行くのを楽しみにしています。お休みが合う日があれば、ぜひご一緒したいです」
ミレイユは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。予定が分かったら、また《麦穂亭》へ寄るわね」
「はい。お待ちしています」
そのとき、少し離れた場所から騎士の声が聞こえた。
「クローデル、そろそろ交代だ!」
ミレイユは振り返り、片手を上げて応じた。
「分かった、今行く!」
それからシアへ向き直り、少し残念そうに笑った。
「ごめんね。そろそろ戻らないと」
「いえ。お仕事中なのに、お話ししてくださってありがとうございました」
シアが礼を言うと、ミレイユは首を横に振った。
「私も会えて嬉しかったわ。気をつけて帰ってね」
「はい。ミレイユさんも、お仕事頑張ってください」
ミレイユは笑顔で頷き、同僚たちのところへ戻っていった。
シアはその背中を見送りながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
偶然会えた友人と、短い時間でも話ができた。
次に一緒に出かける約束も、少しだけ具体的になった。
それだけで、今日の休日がさらに嬉しいものになった気がした。
◇
《麦穂亭》へ戻る頃には、午後の光が少し傾き始めていた。
中央広場から二本裏の通りへ入ると、いつものパンの香りが漂ってくる。
シアは店の前で一度立ち止まり、布袋の中身を確かめた。
靴下と手袋。
それから、ローザの屋台で買った林檎。
どれも、今日自分で選んだものだった。
扉を開けると、マルタが店の奥から顔を出した。
「お帰り、シア。どうだった?」
「ただいま戻りました。靴下と手袋を買えました」
シアは嬉しそうに答えた。
「上着も見たんですけど、今日は買わずに、もう少し考えることにしたんです」
マルタは頷いた。
「そうかい。納得して決められたなら、それでいいさ」
「はい。それから、中央広場でミレイユさんにもお会いできたんです」
「あら、そうなの?」
「はい。お仕事中だったので少しだけですけど、お話しできました。図書館へ一緒に行く約束も、予定が分かったら連絡してくださるそうです」
マルタは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったね。楽しみが増えたじゃないか」
「はい」
シアは頷き、布袋を抱え直した。
今日は、買い物をするために出かけた。
けれど、思いがけず友人にも会えた。
自分で選んだ品物を持ち帰り、誰かにその話を聞いてもらえる。
そのことが、シアには嬉しかった。
「それから、ローザさんのところで林檎も一つ買ったんです。あとでいただこうと思っています」
「そうかい。あの人の林檎は美味しいからね」
マルタは笑い、厨房の方へ目を向けた。
「今日はもう仕事のことは気にしなくていいから、部屋でゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
シアは礼を言い、階段を上がった。
◇
自室へ戻ると、シアはまず秋灯草の様子を確かめた。
窓辺には午後の柔らかな光が差し込んでいる。
小さな黄色い花は、朝と変わらず静かに咲いていた。
「ただいま戻りました」
そう声をかけてから、シアは机へ布袋を置いた。
中から靴下と手袋の包みを取り出し、丁寧に開く。
靴下は落ち着いた色合いで、編み目がしっかりしている。
手袋は柔らかな茶色で、指先まで丁寧に縫われていた。
シアはもう一度手袋をはめ、指を曲げ伸ばししてみた。
店で試したときと同じように、動かしやすい。
手首の部分もきつすぎず、ずれにくそうだった。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
自分で選んだものが、実際に使いやすそうだと分かる。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
シアは手袋を外し、靴下と一緒に棚へしまった。
次に、ローザから買った林檎を取り出す。
赤みの強い小ぶりな林檎は、窓から差し込む光を受けて艶やかに見えた。
シアは水で洗い、机の上へ置いた。
すぐに食べてもよかったが、まずは今日の支出を記録しておこうと思った。
支出帳を開き、靴下と手袋、それから林檎の代金を書き込む。
残りのお金を確認すると、予定していた範囲に収まっていた。
上着を買わなかった分、今後のために残しておけるお金もある。
シアは帳面の余白へ、今日見た青灰色の上着について書き留めた。
『《針と糸の店》――青灰色の上着。着心地がよく、袖の長さも合っていた。値段は少し高め。必要になったら、もう一度考える』
そこまで書いてから、シアは少しだけ笑った。
買わなかったものについても、こうして記録を残しておけば、次に考えるときの参考になる。
今日すぐに決めなかったことは、何も無駄ではなかった。
シアは帳面を閉じ、林檎を手に取った。
窓の外では、夕方の光が少しずつ柔らかくなっている。
今日歩いた通り。
見比べた靴下と手袋。
試着した上着。
ローザとの会話。
そして、ミレイユとの思いがけない再会。
その一つ一つを思い返すと、胸の奥が温かくなった。
(……今日は、いいお休みでした)
シアは林檎を小さく切り、ゆっくりと口へ運んだ。
甘酸っぱい味が広がる。
ローザが言っていた通り、小ぶりでも十分に甘い林檎だった。
シアは微笑み、もう一切れ口へ運んだ。
窓辺の秋灯草は、夕方の光を受けて静かに咲いている。
机の上には、今日の買い物を記録した支出帳がある。
棚には、自分で選んだ靴下と手袋がしまわれている。
そして、次に友人と出かける楽しみもできた。
シアは林檎を食べ終えると、窓の外へ目を向けた。
街の屋根の向こうには、淡い橙色の空が広がっている。
明日からは、また《麦穂亭》での仕事が始まる。
忙しい日もあるだろう。
思い通りにいかないことも、きっとある。
けれど、今日のように、自分のために時間を使える日もある。
そのことを思うと、明日からの仕事も少し楽しみに感じられた。
シアは机の端に置いた秋灯草へ微笑みかけた。
「……今日は、いい一日でした」
小さな花は、もちろん返事をしない。
それでも、部屋の中には穏やかな空気が満ちていた。
シアは本を手に取り、夕食までの時間を静かに過ごすことにした。
窓の外では、街の人々がそれぞれの家へ帰っていく。
その中に、自分の帰る場所もある。
そして、次の休日を楽しみにできる暮らしがある。
シアは頁を開き、柔らかな光の中でゆっくりと文字を追い始めた。




